始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

民族の独立なくして何があるか?・・結城庄司・アイヌ宣言(3)

2012-03-31 | アイヌ
1980年に書かれた結城庄司氏の「アイヌ宣言」を紹介します。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


        *****


      (引用ここから)


大自然を主体とする「原始共産制」によるアイヌ=人間の思想とは何であるのかと言えば、共同体による人間生活によって発展する、搾取のない社会である。

これらの精神文化が滅亡した時、さらに人間が人間を管理し、自然界を支配でき得るような幻想にとりつかれて、人間主体的なエゴの支配思想が蔓延してしまった時に、人類は滅亡するのである。

物質文明が栄えることは、本来は人間というものは無である、つまり素裸であるということへの恐怖感から出発した思いであって無意識の肯定でもある。

私有制の価値観は物質文明に支配されている。

だが、原始共産制を起源とする共同体の価値観は、自然そのものから与えられるすべてを課題にし、精神的なものとして受け入れるのである。


人間解放とは有限的な私有制度を否定することから始めねばならない。

本来ならば大自然のどこの大地にコタン(人間社会)を創造しようと、それ自体拘束されるものではなかった。

それなのに私有制のもとに天皇一族はアイヌモシリ(大地)に侵略して、自然そのものを占領したのである。

アイヌという人間そのものをも私有化する思想が「皇民化」であろう。


「もうアイヌもシャモもないではないか。」

「今更アイヌ、アイヌと騒ぐこともないだろう。」

「眠っている子を起こすようなことはしないでくれ。」


ずいぶんと聞かされた言葉である。

“眠っている子”、、つまりアイヌを指して言うのだが、アイヌははたして眠っていたのであろうか?

眠るにも、寝る場所すらなかったのではないのか?

食物をも取り上げられ、腹が減って眠られなかったのではないのか?

「もうアイヌもシャモもないではないか?」、とはもっとも同和政策や融和主義を代表する言葉なのだ。


この考えはヤマトの思想である。

そして「皇民化」する思想を代弁している。

つまりアイヌは同化政策の中で眠ってきた、と決めつけて言っているのと同じである。


このような融和主義者の意識こそ、誇りある人間としてのアイヌ文化、歴史を抹殺して来た者の言葉である。

だがアイヌを眠るどころか、眠る時間も与えないで奴隷として酷使してきたのはいったいどこの誰なのか?


アイヌ民族は独立しなければならない。

アイヌ民族の独立、、それは幻想ではないのか?などと傍観者たちは、「独立」という言葉に続いて一度は驚いて見せる。

さらに幻想と思うのである。

そして薄笑いを浮かべるその顔には、敵意がある。



同化、融和主義とは民族のすべての歴史的な権利や文化、己の存在すらも捨てることになる。

そして支配者階級の文明の中に消え去ることになる。

アイヌ自身が民族の誇りを捨てて、同化し、融和してしまうことは、ヤマト民族の思想を受け入れたことに結果としてなるのである。

この時、やはりアイヌ民族は自然ばかり相手にしてきた文明に遅れた人間であった、元辺境に住むまれな“原始人”であったと、様々に言ってきたアイヌ研究の御用学者を喜ばしてはならない。

客体としての研究材料としてしか取り扱ってこなかったアイヌ研究を、実証させてはならないのである。


         (引用ここまで)


          *****


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旧土人とはなにか!・・結城庄司のアイヌ宣言(2)

2012-03-27 | アイヌ
1980年に書かれた、結城庄司氏の「アイヌ宣言」を紹介します。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


       *****

 
      (引用ここから)


1968年に「北海道百年記念」が多額な金を使って国家的行事として、天皇、総理大臣その他多くの政治家や政府の要人の列席のもとに行われたが、「開道百年」とは明治元年より起算してのことか?

ここでもまた、アイヌウタリを全く無視しての行事が行われたと言ってよい。

それは自然主義民族の狩猟漁という生産が、かって制定された「場所請負制度」(18世紀)、「旧土人保護法」(1899年)などの法律に示されるように、アイヌは完全に狩猟漁の生業から生活の手段が断たれたばかりか、

今度は和人の漁場の大事な労働力として強制労働に従事させられ、山野の狩猟も徐徐にではあるが禁制を食わせられ、

アイヌの持つ弓矢は和人の鉄砲の狩猟にかなわず、ますます虐待の度合いが強まり、それが明治の末期まで続いてきたのである。


こうした北海道の歴史の中に置かれてきた本当のアイヌ民族の姿と苦しみを知ろうとしないで、「開道百年」という国家的行事によって真実を葬りさろうとすることは、何を意味していたのであろうか?


明治32年にアイヌに対する植民地政策の法律が制定された。

それが「旧土人保護法」だったと解釈してもあやまりではない。

すなわち明治の末期に及んでアイヌ(人間)を無視した差別と偏見によりアイヌ民族を不毛の地に追いやり、さらに圧迫を加えたといっても過言ではあるまい。

「旧土人保護法」の供与地のアイヌは無勢に多勢(和人)という境遇を考えて身を寄せ合い、小さくなって、偽善者たちの圧迫に対して無言なまま生きなければならなかった。


この事実は何と残酷な歴史だったろうか?

それは「旧土人保護法」がそのままに物語っているのである。



アイヌとは「人間」という意味であるが、自分達の民族名称を「人間」と呼ぶことは世界的にも珍しいことであり数少ないことだと思う。

それは、自然界の生物と人間社会の世界観を大事にする自然神秘的な背景からくる表現であり、人間という存在そのものが大自然の神秘と区別しながらも、自然を主体とした思想の中で共存している。

であるからアイヌの考え方からすれば、大自然は無限でなければならないのである。


人間は大自然の神秘的なものによって生命が与えられている。

アイヌは、生命の有限の存在者としての人間(アイヌ)と、自らを呼ぶことができる。

そのアイヌ=人間が自然を破壊するような自然の秩序を乱してはならないーーという自然主義の思想の表現(アイヌ=人間)である。


アイヌの精神文化の大部分はユーカラによって語られている。

つまりアイヌの教典として宇宙の神秘を語り伝えている。

アイヌの習慣(自然と対話する人間)として伝えられてきたのであった。


人間社会の思想的発展の根底には、大自然という絶対的条件がある。

「知性」というのは、客観的な学問のことを言うのでもなく、また優越感に満たされた文明社会の支配者階級の主観的な感覚でもない。


大自然の神秘を背景とする精神文化が「知性」であり、つまり人間の感性であるのだ。

アイヌの精神文化は、個人的な人間のエゴの意識現象は、全面的に否定する。


        (引用ここまで)


          *****


>人間社会の思想的発展の根底には、大自然という絶対的条件がある。

>「知性」というのは、客観的な学問のことを言うのでもなく、また優越感に満たされた文明社会の支配者階級の主観的な感覚 でもない。


>大自然の神秘を背景とする精神文化が「知性」であり、つまり人間の感性であるのだ。

>アイヌの精神文化は、個人的な人間のエゴの意識現象は、全面的に否定する。



すばらしい意見だと思います。

文明と自然は対立しない。
知性とは感性である。

という考えは、卓見であろうと思います。




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結城庄司・アイヌ宣言(1)・・自然主義者は戦う

2012-03-23 | アイヌ


1980年に書かれた、結城庄司氏の「アイヌ宣言」という本を読んでみました。

とてもすばらしいと思いましたので、ご紹介したいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


         *****


     (引用ここから)


“たたかう”目的はなんだ。

目的は何千年も昔からアイヌ(人間)に生きのこってきたのだ。

生きる。それは戦いだ。

それが目的だ。

アイヌは自然と戦い、山、海、川を神がみとし、世界を大地として生きてきた。

その足跡が、北はコリヤーク山脈より北太平洋、オホーツク、カムチャッカ半島。

それは自然の神がみの聖地であった。

そしてアイヌモシリ、
神の思召すところアイヌは、大自然がもたらす宝の山でいっぱいだった。

そして自然に逆らわず自然を愛し、心は大らかで、自然が人間に与えるものは、すべてが神がみの恵みと考え、

生きるものすべてが神がみの使者と考え、

自然が奏でるものは神の声であり生活のリズムとし、四季の移り変わりを最高の神、太陽が自然の神々に与える衣と考え、

アイヌは一様にそれを喜び、それに逆らわず、春夏秋冬の産物は上下の差なくすべて平等に分け、それを平和と考え、

悪しき者あれば神の教えを仰ぐよう旅にたたせ、自然に忠実であるように常に学び伝え、

風雪雨雪ひどき時は神の怒りと思い、青天山野に小鳥鳴き、湖面に山々の姿を写す時、神の喜びの姿と考え、

アイヌ(人間)一同にまた喜びを分かち合い、何千年の昔より平和を誓い、幾千年時が過ぎようと平和の姿は変わらずと信じ、

未来の大地に向かって旅に立ち、アイヌ(人間)の求めるものは永遠に変わらじ、と心から神がみに祈りを捧げるのであった。


アイヌの聖地モシリ(大地)に暗雲をなげかけるようになったのはいつごろからだったのであろう。

この時よりアイヌの苦闘が始まり、清らかな大地もしばしば血を見るようになり、平和なコタンに病魔の陰が射し始めたのであった。

アイヌはありとあらゆる、物心両面より新天地を求め、我が物顔に、あたかも征服者のように荒らしまわる権力者、和人に対し、幾たびかの戦いを挑んだのである。

しかしそれは古来民族の文化と領域を守るための戦いだけにしかすぎなかった。

戦いによって文明を生んだ和人は武器も優れ、戦いを好まないアイヌは武器も全く原始的で、後退をやむなくされた。

その歴史は多くの書物に記されてあり、被征服者の路を辿り、敗戦の度に一方的な証文に誓いを強いられたが、アイヌは決して屈せず、民族の習慣や民族の文化を守りながら、現代に生き残って、民族の血を再び世界に訴えようとしているのである。

これは自然主義者と破壊主義者の戦いでもあった。


我らアイヌ民族は世界の部族として独自の文化の伝統を守り、骨格、容貌もはっきり異なった自然主義者である以上、政府も国際的視野の下に今こそ真剣に考える時である。

アイヌもまた明確に権利を主張し、平和目的のために義務を果たし得た時こそ、アイヌウタリの今後は世界に向かって胸を張り、他の種族と共に平和を求めて差別無き歴史の建設と生活が初めて存在するのではなかろうか。


現代日本の社会機構は資本主義社会の道を余儀なく歩んでいる。

自らが多くの批判と多くの疑問を感じなくては、自然主義者アイヌ民族の故郷は取り戻すことはできない。

また偽善者は一体誰であるかを知ることもできないのである。

そればかりではなく、子孫の繁栄と高度の文化も望むことさえ出来ない。


原子の文明も自然が教えてくれた最大の科学であると同時に、破壊主義者の最大の武器でもある。

だが自然主義者には平和という、これまた自然が教えてくれた最高の精神文化がある。

そして今やアイヌは自然主義者であることを全世界に訴え、アイヌウタリ自身の精神の統一を図る時期でもある。

その時にこそ、多くの大衆は差別を忘れ、この時にこそ真の味方のいかに多いかを知るのである。


          (引用ここまで)

      
            *****


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アイヌの主食は鮭、なぜ捕るなと言うのか?・・萱野茂氏の主張(4・終)

2012-03-20 | アイヌ

引き続き、1988年に述べられた萱野茂氏の意見を紹介します。

本多勝一氏の「先住民族アイヌの現在」から引用します。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****

          (引用ここから)


アイヌは鮭のことを「シペ」と呼んでいました。

この意味は「シ」が「本当に」とか「全く」という意味。

「エ」というのは、食べるということ。

「ぺ」はものということです。

「シエペ」が「シペ」に聞こえるのであります。


アイヌは鮭のことを「本当の食べ物」と呼んでいたのであります。

アイヌは鮭を主食と考え、その捕り方にも自然の摂理に従い、資源が枯渇しないように努めてきたものでした。


どのようなやり方かと言いますと、産卵前のアキアジ=鮭はその日食べるに必要な本数だけを捕って来る。

冬越しのためとか来年再来年の分は産卵後のものを捕るようにします。

産卵後のものは脂が少なく保存に適しています。

これこそ自然の摂理に従って生活してきた典型的な姿であり、鮭達が自然の川床へ産卵すると4年後に戻ってくることをアイヌたちはちゃんと知っていたわけであります。


そのようなわけで、アイヌだけで暮らしていた時代は鮭が減ることはありませんでした。

そこへ後から来た日本人が一方的に作った法律、、字の読めないアイヌに一言の断りもなしに作った法律は、「内水面資源保護なんとか」というものでした。


そこでどのようなことになったかといえば、「アイヌが主食としてあてにしていた鮭を捕ってはならない」という。

アイヌに「鮭を捕るな」ということは、「死んでしまえ」という法律に等しいものであったわけであります。


わたしはしみじみ思います。

日本人ってなんてひどい民族であったのでしょうか。

先住民、アイヌ民族のことを全く考えてやろうともせずに、主食であるアキアジを捕る権利を平気で奪ってしまったのであります。


有史以前からアイヌが持っていたアキアジの捕獲権を、アイヌに返してほしいのであります。

北海道で沙流川一本くらい、自然産卵の川として、カラスもキツネもクマもフクロウもそしてアイヌも、自由に鮭を捕って食べられるとしたら、どんなに嬉しいことでありましょう。




ここで外国の例を二、三申し上げます。

アメリカ合衆国アラスカのイヌイット族(いわゆるエスキモー)の皆様は、先住民族の権利として鯨でもアキアジでも自分が食べる分は自由に捕っているのを見てきました。

カナダの場合、カナダ=インディアンの皆様も、カナダ政府は先住民族の権利として食べる分は自由に捕らせ、捕っているのを見てきました。

それからスウェーデンもそのとおりで、世界の多くの国々では先住民族の当然の権利として狩猟は狩猟、漁労は漁労として認めているのであります。


残雪の頃から初雪の頃まで魚の切れない川、、それが沙流川であり、アイヌにとっては食糧を貯蔵している「倉」と同じように思っていたのであります。

沙流川の左岸や右岸の山はといえば、針葉樹と広葉樹の混交林。

リス、テン、ウサギ、ムジナ、キツネ、鹿、クマ。

それにこれらの動物は針葉、広葉、混交林が大好きです。

その昔は鹿の群れが山いっぱい走っていました。

アイヌにすれば、山は自然の食糧貯蔵倉であったので、必要に応じて狩りに行き、肉を背負ってきました。

気候温暖、雨も少なく、雪も少なく、台風も来ない。

一回山か川へ行くと、その後は一週間か十日は食べ物に心配はありません。

そうすると、暇な時に何をしたかと言えば、男は彫刻、女は刺繍。

アイヌ民芸品というのは炉端から産まれた芸術そのものであるとわたしは考えているわけであります。

そして片方では老人たちはウエペケレという昔話で子どもや孫たちの家庭教師的存在。


アイヌ民話には暗さがありません。

話のおしまいに必ず出てくる言葉

「ネプアエルスイカ ネプアコンルスイカ ソモキノオアカン」

という言葉がありますが、その意味は

「私は何を食べたいとも、何が欲しいとも思わないで暮らしていた」ということです。


世界三大叙事詩と言われるユーカラが沙流川やその他のアイヌ社会で育った理由はこのように恵まれた自然の中で暮らせたからであります。


アイヌ民族の不幸は、西隣の日本国から、日本人がアイヌ・モシリへ土足でどかどかと入って来た頃から、口では言えない悲しいことばかり。

苦難の道が始まったものであることを知ってほしいのであります。


       (引用ここまで・終)

          *****


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少数民族アイヌと民主主義・・萱野茂氏の主張(3)

2012-03-17 | アイヌ
引き続き萱野茂氏による陳述を紹介します。

本多勝一氏の「先住民族アイヌの現在」から引用します。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


      *****


    (引用ここから)


1980年に朝日新聞社から出した私の自叙伝「アイヌの碑」にも、以下のように書いております。

                 ・・・

今となって北海道に住んでいる日本人を日本本土へ帰れと言っても、そう簡単に帰れるものでないことは承知しています。

そんな実現不可能なことをわたしは言いません。

私は、今この「アイヌ・モシリ」に住んでいるわたしたちも日本人も一緒になって、この「アイヌ・モシリ」の自然を守りたい。

今まで何かと差別されてきた先住民のわたしたちアイヌの生活の向上のために、思いきった政策を実行してほしい。

家を不自由している人には家を立てて入れること。

向学心に燃えても家庭の経済的事情で進学できない人には国費を出してやること。

数の少ないアイヌだけでは国会議員、道会議員を選出させることができないので、それを選出できる法律や条例を作ること。

アイヌ語を復活させ、アイヌ文化の大切さを教えるため、希望する地域にはアイヌ語教育をする幼稚園、小中学校、高校、大学を設置する。

そしてこれらに必要な経費は国や道が出す。

元々の地主に今まで払わなかった年貢を払うつもりで出すこと。


少数民族の問題について、国はもちろん道も市町村もあまりにも理解がないと言いたいのです。


お隣りの中国では、少数民族の住んでいる地域ですとバスの停留所の標識などは共通語の中国語と並べて少数民族の言葉が併記されている。

少数民族の自治区すべてそのように併記されているのです。


昭和53年の夏、アラスカのエスキモー自治区では共通語は英語でしたが、小学校ではエスキモー語を教えていました。

現在、世界的に少数民族問題が真剣に考えなおされ、その民族が持っている文化や言語を絶やさない努力がされています。

そういう世界のすう勢に日本も遅れないように本気で取り組んでほしいのです。


アイヌは好き好んで文化や言語を失ったのではありません。

明治以来の近代日本が、「同化政策」という美名のもとで、国土を奪い、文化を破壊し、言語をはく奪してしまったのです。

この地球上で、何万年、何千年かかかって生まれたアイヌの文化、言語をわずか百年でほぼ根絶やしにしてしまったのです。

       以上「アイヌの碑」より朗読

              ・・・



ここで「民主主義」という言葉の意味を、先住民族であり少数民族の一人として本気で考えてみようと思います。

仮に百年昔に北海道にヤマト民族が数万人暮らしていて、北海道の隅から隅まで日本語で名前をつけてあったとします。

そこへ北の隣からロシア人がどかどかと入ってきて、先住民であった日本人に一言の断りもなしに、ここはいい所だとばかり、次から次と仲間を呼び、また人口が増えて、百年後には日本人は数万人で少しも増えずに、後から来たロシア人が五百数十万人になってしまった。

そこで先住民の日本人はここの地名は日本語だ、数が少ないとは言え、ここは日本の国だ、出て行けとは言わないが年貢ぐらい出せ、と言うでありましょう。

昭和63年現在、アイヌが置かれている日本人との力関係はそのようなものであります。

そこへいくと民主主義なるものは、後から来た者だって数さえ多ければ、先住民、先住民族のアイヌの権利などは無視して、アイヌが何を言っても国は、道は、市町村は、アイヌの願いや訴えに声を貸そうとしないのであります。

数や力で決められる民主主義なるものは、数の少ない先住民族、アイヌ民族に言わせると全くと言ってもいいほど頼りにもならない。

数の暴力に見えて仕方がないのであります。

それはわたし一人の考えではなしに、世界の先住民族、そして少数民族アイヌの悩みでもあります。

従いまして、少数民族アイヌにも役に立つ本当の民主主義、つまり数や力で、アイヌに断りもせず勝手に制定した「何々法」というのではなく、先住民族であるアイヌ族の言い分をも充分に勘酌した収容委員会であってほしいと思うのは私一人ではないと思うわけであります。

本当の民主主義とは、少数者の意見も生かすことではないでしょうか。



             (引用ここまで)


                *****


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アイヌの聖地を売った覚えはない・・萱野茂氏の主張(2)

2012-03-14 | アイヌ
本多勝一氏の「先住民族アイヌの現在」に掲載されていた 萱野茂氏の「アイヌ民族破壊を弾劾する簡略なる陳述」という部分を紹介します。

この文章は、1988年、アイヌの土地をダム建設のため強制収用しようとする政府・開発庁側に対し、二風谷のアイヌ民族の中で最後まで買収に応じなかった二人――萱野茂氏と貝沢正氏の陳述を紹介したものです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****


              (引用ここから)

萱野茂氏の陳述

                ・・・



北海道の地名について少しだけ触れてみたいと思います。

その昔、北海道というこのでっかい島を、アイヌ民族が自分達の国土として豊かに暮らしていた時代にどのように呼んでいたかと言えば、「アイヌ・モシリ」と言っていました。

「アイヌ」という意味は「人間」、「モ」というのは「静かな」と言うことです。

「シリ」というのは「大地」という意味であります。

したがいまして、アイヌは自分達の国土を「アイヌ・モシリ=人間の静かな大地」と呼び、誰にはばかることなく自由に暮らしていたのであります。

そしてこの広い北海道の隅から隅まで、山でも川でも、岬でも、どんなに水量の少ない小沢や台地や窪地に至るまで、おのが言葉アイヌ語で全部名前をつけたのであります。

北海道におけるアイヌ語地名はおよそ48000か所になるわけであります。

これは何を意味しているでしょうか?

アイヌ民族が北海道を「アイヌ・モシリ」と呼び、自分達の国土として何不自由なく暮らしていた大きな証拠なのであります。

わずか119年昔の明治2年に、明治政府が「北海道」と名前を付けるまで、それは続いていました。

今でも「アイヌ・モシリ=北海道」はアイヌ民族の国土であるとわたしは信じているものであります。

このでっかい島北海道を日本国へ売った覚えも貸した覚えもない、というのが心あるアイヌたち、そしてアイヌ民族の考え方なのであります。

もし日本政府がアイヌ民族が北海道を買ったというなら、買い受けたという証拠になる文書なり証人なりを出してほしいです。



      
           (引用ここまで)


             *****


wikipedia「二風谷ダム」より

ダムが建設される二風谷地区は、アイヌ民族にとって「聖地」とされてきた。

チプサンケと呼ばれるサケ捕獲のための舟下ろし儀式を始めとして当地はアイヌ文化が伝承される重要な土地であった。

このため計画発表と同時に地元のみならず道内のアイヌから強い反対運動が起こった。

水没戸数は9戸と少なかったが水没農地が水没面積の半分を占め、うち競走馬の牧場が二箇所あったことも補償交渉を長期化させた。

水没予定地の関係者に対する補償交渉は9年を費やし、1984年(昭和59年)には補償交渉が妥結。

平取町もダム建設に同意し翌1985年(昭和60年)には水源地域対策特別措置法の対象ダムに指定されて生活再建への国庫補助などが行われた。

しかしアイヌ関係者のうち萱野茂と貝澤正の両名はアイヌ文化を守るため頑強にダム建設に反対。

所有する土地に対する補償交渉に一切応じず、補償金の受け取りも拒否した。

このため北海道開発局は両名への説得を断念し土地収用法に基づき1987年(昭和62年)に強制収用に着手した。

これに対し両名は強制収用を不服として1989年(平成元年)に収用差し止めを事業者である建設大臣に求めたが1993年(平成5年)4月にこれは棄却された。

請求棄却に反発した両名は翌月土地収用を行う北海道収用委員会を相手に札幌地方裁判所へ行政訴訟を起こした。

いわゆる「二風谷ダム建設差し止め訴訟」である。

両名とその弁護団はダム建設の差し止めを求めたが、真の目的はアイヌ民族の現状を広く一般に認知させ、アイヌ文化を国家が保護・育成させることであった。

この間萱野は日本社会党の参議院議員(比例代表区)として国政にも参与している。



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アイヌ民族党、結成

2012-03-10 | アイヌ
「アイヌ民族党」という新しい党が結成されたということです。
アイヌ民族の方たちの新しい時代が開かれますよう、期待したいと思います。


    
       *****


     (引用ここから)


「「アイヌ民族党」が結党大会 参院選比例代表に擁立へ」
2012.1.21
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120121/stt12012118230004-n1.htm

 アイヌ民族の声の反映を目指す「アイヌ民族党」が21日、北海道江別市で結党大会を開き、来年の参院選比例代表への候補者10人の擁立方針を決めた。

「アイヌ民族の権利回復と多文化・多民族共生社会の実現を図る」との「結党の理念」を承認。

代表にアイヌ民族の元参院議員、故萱野茂氏の次男の萱野志朗氏、副代表に詩人の宇梶静江氏らを選出した。

基本政策に

(1)幼稚園から大学までのアイヌ民族教育機関設置

(2)自分たちが食べるサケやクジラの捕獲権回復

(3)脱原発-を掲げた。

党員はアイヌ民族に限定しない。


       (引用ここまで)

        *****


「アイヌ民族党ウェブサイト」
http://www.ainu-org.jp/

「アイヌ民族情報センター活動誌」
ub.ne.jp/ORORON/?entry_id=4098535



党代表の萱野史朗氏の紹介記事もありました。


      *****


     (引用ここから)


毎日新聞 2012年2月3日 

「ひと:萱野志朗さん アイヌ民族党を結成し代表に就任」

 生まれた時から、家庭ではアイヌ語での日常会話がなかった。

民族の証しは言語が担う。

だからこそ、アイヌ語にこだわり、独学で身につけた。

 「ニシパウタラ(紳士)、カツケマカツウタラ(淑女)、ウウエカラパワケヤイコプンテク(お集まりいただきうれしく思います)」。

1月21日に北海道江別市で開かれたアイヌ民族党結党大会はアイヌ語で始まった。

 大卒後、東京のコンピューター会社で働いていた。

父茂氏はアイヌ民族初の国会議員(参院)。

反発はなかったが、「商才があるんだから金もうけをした方がいいのに」と冷めた目で見ていた。

 だが、29歳だった87年に父に誘われ、カナダの先住民族(クワクワカワク)を訪ねた。

70代以下は英語しか話せず、子どもへの言語教育に取り組む姿を見て、「我々も一緒だ」と目覚めた。

父のアイヌ文化・言語保存活動を手伝うため、翌88年に北海道平取(びらとり)町に帰郷、アイヌ語を学び始めた。

 父は、アイヌのユーカラ(叙事詩)の伝承者、金成(かんなり)マツがローマ字で記したユーカラの日本語訳を約30年間続けた。

父が他界した06年からは遺志を継ぎ、翻訳している。


 08年にアイヌを先住民族と認める国会決議が採択されたが、差別は消えず、生活困窮者の割合は高い。

民族の声を国政に届けるため、13年の参院選で議席獲得を目指す。

 「昼間は議員、夜は編集。父の勤勉さにはかなわない」。

しかし、「困難な状況でも絶対にあきらめない」という信念は父に負けないつもりだ。【片平知宏】

 【略歴】萱野志朗(かやの・しろう)さん 北海道平取町生まれ。観光会社経営の傍ら、萱野茂二風谷(にぶたに)アイヌ資料館館長。妻、義母と3人暮らし。53歳。


          (引用ここまで)


           *****


萱野氏の父上、国会議員にもなられた萱野茂氏のことばを紹介したいと思います。


本多勝一氏の「先住民族アイヌの現在」という本に納められている「アイヌ民族破壊を弾劾する簡略なる陳述」という部分を紹介します。

この文章は、1988年、アイヌの土地をダム建設のため強制収用しようとする政府・開発庁側に対し、二風谷のアイヌ民族の中で最後まで買収に応じなかった二人――萱野茂氏と貝沢正氏の陳述を紹介したものです。

大変長いので抜粋で。


         *****

        (引用ここから)

萱野茂氏の陳述

             ・・・

アイヌ民族が過去から現在に至るまでどのように人権を無視され続けてきたかを聞いてもらい、知ってもらい、判断をしてもらえる絶好の機会とわたしは考え、今日の日を待っていたのであります。

そのような意味で、アイヌ民族の赤裸々な声をお聞きくだされ、公共の福祉に関し、あるいはアイヌ民族の血の吐く叫びに対して、公正な判断をお願い申し上げる次第であります。


水没地を含めたアイヌ語の地名についてアイヌ民族の立場から申し上げます。

二風谷の地域内にアイヌ語の地名がどのぐらいあるかと言いますと、沙流川左岸に50か所、右岸に23か所であります。

このように、なぜアイヌが、自分たちが生活している範囲に丁寧に名前をつけたかといえば、狩猟民族であったからであります。

たとえば仮に山へ行き、鹿を捕り、あるいは熊を捕った場合、それらの肉を一人で背負って帰ることができないときに、家族や村人に肉を取りに山へ行かせます。

その時に、どの沢のどの台地に肉を置いてきたかをはっきり教えなければ肉のある所へ家族や村人は行くことができないのであります。

そのような理由でアイヌたちは自分達の行動範囲に、まるで自分のたなごころを指すかのように名前をつけ、それを若者たちに教え、その地名を覚えることが狩猟民族の心得の第一歩であったのであります。


          (引用ここまで・続く)

               *****

次に続きます。


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「ブログ内検索」で

アイヌ   15件
アイヌ語   5件

などあります。(重複しています)
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少年と死刑・光市母子殺人事件(4)・・更生を期待できるか?

2012-03-05 | 心理学と日々の想い
光市母子殺人事件に関して2月28日の朝日新聞に、「ニュースを読み解くウェブサイト「webronza」から」という小さな記事がありました。

桐蔭横浜大学法学部教授 河合幹雄氏の文章で、以下のようにありました。

この方はユング心理学者の河合隼雄氏の御子息のようですが、この事件は自殺した自分の母親への少年の無意識の力が強く働いており、情状酌量の余地があるということを指摘している文章だと思います。


       *****


     (引用ここから)

「死刑確定で終わらぬ光市事件」

報道された事件と、記録で見る事件とが、これほど大きく異なる事件はない。

報道機関は光市事件で、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理憲章委員会からの厳しい批判を受け、あおる報道はやめたが、正しい情報提供はできていない。

少年の原体験は、自殺した母親の死体の脇に自分が一人ぼっちで取り残されたことであったろう。

殺してしまった母親の脇に取り残された赤ん坊によって、原体験を再現してしまった。

その赤ん坊は「自分」だったはずである。

裁判の事実認定で、発覚を防ぐために赤ん坊を殺したというのは、死刑という結論に無理に持っていくための後付けの理屈のように思える。


最高裁は、世論調査を見て、少年の刑事罰は軽くするという司法界の常識が世間では全く受容されていないと解釈し

国民を啓蒙するのではなく、「世論」に追随したように見える。

治安の悪化や、少年犯罪の凶悪化といった誤った印象を国民に与えて、厳罰化世論を形成させた報道機関は、それを是正する義務がある。

「安全と水はタダ」の70年代に比べ、現在は殺人事件が半分以下に減少しているのに、死刑判決が急増したことを大きく取り上げるべきだ。

被害者遺族の気持ちや死刑について、あまりにも単純化された言説が多すぎる。

更生が期待できないというが、死刑囚こそ反省の必要がある。

現場ではそう信じられ、努力している。


悪人も救われる、生まれ変わる、といった死生観もある。

死刑執行で終わりではない。

少なくともこの少年の死刑執行は、全国の死刑囚の中で一番最後になされるべきだと考える。


          (引用ここまで)


         *****


弁護団が判決に申し立てをしたという記事がありました。

誰もが被害者になる危険があるのですから、社会に危害を加える人間には厳罰を処すべきだというのも正論だと思います。

被害者の立場からすれば、犯人をどんなにしたところで、失った大切な人は帰らない、その罪は万死に値する、という考えは当然です。

しかし、不運な成育歴には情状酌量の余地があるという気がします。

少年法を厳罰化するべきかという問題は、まだ議論の余地があるのではないかと思います。



         *****


「大月被告が判決訂正申し立て」


 1999年4月の光市母子殺害事件で、殺人と女性暴行致死、窃盗の罪に問われた元少年の大月(旧姓福田)孝行被告(30)の弁護団は1日、

差し戻し控訴審の死刑判決を支持し、上告を棄却した2月20日の差し戻し上告審判決の訂正を申し立てた。

棄却されれば死刑が確定する。

 弁護団によると、申立書では「(裁判官1人の)反対意見があるまま、死刑を適用したことは著しく正義に反する」と主張。

さらに「死刑を回避する特に酌量すべき事情に関する判断の記載を欠いている」などとした。

今後、補充書も提出する予定という。

 訂正の申し立ては最高裁判決に誤りがあるとして行う最後の不服申し立て手段だが、量刑が覆ったケースはない。

大月被告は犯行時18歳と30日。

犯行時少年の死刑が確定すれば、83年に最高裁が示した死刑適用基準(永山基準)以降4例目、殺害被害者が2人の事件では初となる。


        *****
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少年と死刑・光市母子殺人事件(3)・・つぐなうとは?

2012-03-03 | 心理学と日々の想い
18才の少年(当時)による犯行に死刑の判決が出た光市母子殺人事件について考えています。

朝日新聞の連載記事の続きです。



                ******

 
    (引用ここから)

朝日新聞2012・2・23

「光事件が問いかけたもの(中) 弁護士の法廷闘争に一石」

  

弁護団が「真相」として主張したのは、精神的に未熟だった被告が被害女性に母のイメージを重ね、偶発的に事件が起きたとする「母体回帰ストーリー」だった。

甘えを受けいれてほしいと抱きついたことが事の発端だったとしたが、検察側は荒唐無稽だと反発した。

葛野尋之一橋大教授(刑事法)は「社会の共感を得られなくても、法廷では自由に主張出来ることによって、刑事裁判の公正さは保たれる」という。

「うそをそそのかすのは許されないが、誠実に被告の言い分を聞いて伝えることが弁護人の責任だ。

多数者が納得する主張しか許されないのでは「裁判」とはいえない。」


         (引用ここまで)


           *****


25日の同連載記事には以下のようにありました。


         *****


       (引用ここから)


朝日新聞2012・2・25
「終結・光市事件が問いかけたもの(下)少年の償い 処罰か更生か」


少年犯罪の厳罰化傾向は続いている。

少年法が改正されたのは2000年。

16歳以上の少年の重大事件は原則として刑事裁判にかけられることになった。

2007年には少年院に送ることができることができる年齢が14才以上からおおむね12才に引き下げられた。


厳罰化の流れに違和感を唱える人達もいる。

大谷恭子弁護士は

「少年犯罪は社会の鏡。少年をしっかり育てられなかった社会が責任の一端を担うべきなのに、

個人の責任として切り捨てる現在の流れはおかしい」と言う。


少年事件を数多く手がけてきた多田元弁弁護士は

「少年は立ち直れる。更生を見守り、償いの気持ちを求めたいという遺族もいる。

だが厳罰化の中で、少年を更生よりも罰することの方が優先されるようになり、

重大事件を起こした少年ほど虐待などの問題を抱えていることが多いのに、

家庭裁判所が情熱を失って、立ち直りを支援する機能が低くなった」と指摘する。


犯行時18才1カ月だった元少年に死刑を科すことの是非が争われている光市事件。

「やり直すチャンスを与えるか、命をもって償わせるのか、どちらが正義か悩んだ。答えはないと思う。

判決をきっかけに、この国が死刑を存置していることを今一度みなさんに考えてもらいたい。」

20日の最高裁判決後の記者会見で、被害者遺族本村さんは、そう投げかけた。

 
           (引用ここまで・終)

 
             *****


>多数者が納得する主張しか許されないのでは「裁判」とはいえない。」

これは実に大切な指摘ではないかと思います。


命をもって償わせる。。

子どもにそれができるのでしょうか。


少年法を厳罰化するということは、「子どもは小さな大人」だという考えなのでしょう。

子どもは「小さな大人」なのか、それとも、子どもは大人とは違うものなのか。

つぐなうことが決してできない罪をおかしてしまう子どもに、
つぐないの意味を教えることが大人のしごとであり、社会のしごとであろうと思うのですが。、


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少年と死刑・光市母子殺人事件(2)・・育つものと育てるもの

2012-03-01 | 心理学と日々の想い
「光市母子殺害:少年の死刑廃止「検討を求める」日弁連会長」

 日本弁護士連合会の宇都宮健児会長は

「少年事件の特性を考慮しておらず誠に遺憾だ。

政府に対して改めて犯行時少年に対する死刑を廃止するための抜本的な検討を求める」
とする声明を出した。

毎日新聞 2012年2月20日 
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20120221k0000m040075000c.html




朝日新聞に、光市母子殺人事件に関する連載記事が載っていました。


           *****


       (引用ここから)


「終結・光事件が問いかけたもの(上) 少年の心と死刑 見解相違」
朝日新聞2012・2・22


光市の母子殺害事件の発生から13年。

20日の最高裁判決は犯行時18歳1カ月だった被告を死刑とした。

だが関与した4人の裁判官のうち1人が反対を唱えた。

全員一致でない最高裁の死刑判断は57年ぶりだ。

「精神的成熟度が18歳を相当程度下回っていると認められる場合、死刑を回避する事情があるといえる。

死刑とした二審判決を排しなければ著しく正義に反する。」

反対意見を述べたのは弁護士出身の宮川光治裁判官。

少年の罪と罰の在り方について持論を説き、3人の裁判官に異を唱えた。


弁護側は、「母親の自殺に直面したことで被告の精神的な成長は12才程度で止まった」
という専門家の意見を裁判所に伝えていた。

宮川裁判官はその意見を踏まえて

「人は人との関係の中でしか成長しない。人間的成熟が12才程度で停滞しているのであれば、そのまま拘置所で8,9年過ごしたとして、反省・悔悟する力は生まれない」

被告は14年近く拘置所などの独房室で過ごした。

かつて接見した記者に、「自分の考えが必ずしも正しくないということを教えてくれるのは、本だ」と話したことがある。

普段は拘置所職員を除き、話をするのは弁護士とわずかな支援者。

それ以外に別の考え方を知るのは拘置所で借りたり支援者が差し入れたりする本ぐらいだ。


「拘置所では人間的に成長させる体制やプログラムが全くない。

罪の重さを感じるためにも裁判中から成長させるためのプログラムを組んでもらいたい。」

被告の弁護士の一人はそう言った。


宮川裁判官は、少年への死刑を禁じた国連の「北京規則」にも言及した。

「死刑は、少年が行ったどのような犯罪に対してもこれを科してはならない」

とするこの規則に法的拘束力はないが、1985年に国連総会で採択され、日本も賛成している。

「日本は実現に向けて努力するべきであり、死刑をできるだけ回避する方向で少年法を適用しなければならない」

だが他の三人の裁判官の同意は得られなかった。


「犯行時少年で、更生の可能性も無いとは言えないことを考慮しても、事件はあまりにも重大で、死刑を認めざるを得ない」というのが多数意見の結論だった。

国連人権団体「アムネスティ・インタ―ナショナル」によると1990年から昨年までに死刑になった18歳未満の少年は、世界で9ヶ国、87人。

国際的非難を受けて減る傾向にあるという。

米国では2005年、連邦最高裁が犯行時に18歳未満だった少年の死刑を違憲とする判断を出し、2003年を最後に執行はない。

今回の判決は、統計が残る1966年以降、犯行時の年齢が最も若い被告の死刑を確定させるものとなる。


登沢俊雄・国学院大名誉教授(少年法)は「北京規則に従えば、20歳未満に死刑を適用できないように少年法を改正すべきだ。

だが少年犯罪への厳しい批判が高まる中で、矛盾した状態が続いている」と話す。


                 (引用ここまで)


                   ******


「少年犯罪厳罰化 私はこう考える」という本で著者、佐藤幹夫氏は、少年法について以下のように述べています。


                  *****

     
              (引用ここから)


「逆送少年の刑事裁判について」

東京・板橋の15才少年の両親殺害事件に懲役14年の実刑判決がでた(2006年12月1日)裁判。


少年法は、実はなかなか分かりにくい法律である。

一つは少年をどう更生させるかという、教育と福祉を柱とした教育法的側面であり、
もう一つは、責任と刑事罰を柱とした刑事法的な側面である。

(略)

板橋のケースにおいても、弁護側は被告少年に必要なのは刑罰ではなく「育て直し」だと訴えた。

少年審判の理念に全面的に立って、争ったわけである。


それに対して東京地裁は、その一切を斥けた。

二つの殺害行為は強い殺意にもとづく計画的なものであり、その様態も冷酷かつ残忍、悪質きわまりない。

虐待やそれに類する不適切な養育を受けていたと認めることはできない。

従って、被告少年が両親につのらせていた憎しみや不満ははなはだ身勝手なものである。

被告人の性格、資質には大きな問題がある。

刑事処分における個別的、教育的処遇には限界があるが、それを考慮しても刑事処分をもって臨むのが相当であるーー


ーーこれが裁判所の判断だった。


情状の酌量となる背景事情をすべてしりぞけ、責任をすべて被告個人に帰し、

被害の甚大さを強調していく論理構成は、検察官が重罰を訴えるにあたって採る、まず常套のものだと言ってよい。


ここでの判決は、かぎりなくそれに近い構成となっている。

言ってみれば、この判決は、少年の教育や更生よりも、社会の処罰感情が優先されなくてはならないことをはっきりと打ち出した判決である。

ここには、少年法を貫いてきた理念はもはや見られず、成人の裁判以上に応報的な視座と論理で示された判決だったという点が大きな特徴である。



          (引用ここまで)


           *****


今回の光市の母子殺人事件に対する判決も、同じ観点から出された判決であると思われますが、子育てに苦労しているわたしとしては、この少年の両親や社会の力不足を思うことも忘れてはいけないと思われてなりません。


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