1980年に書かれた結城庄司氏の「アイヌ宣言」を紹介します。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
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(引用ここから)
大自然を主体とする「原始共産制」によるアイヌ=人間の思想とは何であるのかと言えば、共同体による人間生活によって発展する、搾取のない社会である。
これらの精神文化が滅亡した時、さらに人間が人間を管理し、自然界を支配でき得るような幻想にとりつかれて、人間主体的なエゴの支配思想が蔓延してしまった時に、人類は滅亡するのである。
物質文明が栄えることは、本来は人間というものは無である、つまり素裸であるということへの恐怖感から出発した思いであって無意識の肯定でもある。
私有制の価値観は物質文明に支配されている。
だが、原始共産制を起源とする共同体の価値観は、自然そのものから与えられるすべてを課題にし、精神的なものとして受け入れるのである。
人間解放とは有限的な私有制度を否定することから始めねばならない。
本来ならば大自然のどこの大地にコタン(人間社会)を創造しようと、それ自体拘束されるものではなかった。
それなのに私有制のもとに天皇一族はアイヌモシリ(大地)に侵略して、自然そのものを占領したのである。
アイヌという人間そのものをも私有化する思想が「皇民化」であろう。
「もうアイヌもシャモもないではないか。」
「今更アイヌ、アイヌと騒ぐこともないだろう。」
「眠っている子を起こすようなことはしないでくれ。」
ずいぶんと聞かされた言葉である。
“眠っている子”、、つまりアイヌを指して言うのだが、アイヌははたして眠っていたのであろうか?
眠るにも、寝る場所すらなかったのではないのか?
食物をも取り上げられ、腹が減って眠られなかったのではないのか?
「もうアイヌもシャモもないではないか?」、とはもっとも同和政策や融和主義を代表する言葉なのだ。
この考えはヤマトの思想である。
そして「皇民化」する思想を代弁している。
つまりアイヌは同化政策の中で眠ってきた、と決めつけて言っているのと同じである。
このような融和主義者の意識こそ、誇りある人間としてのアイヌ文化、歴史を抹殺して来た者の言葉である。
だがアイヌを眠るどころか、眠る時間も与えないで奴隷として酷使してきたのはいったいどこの誰なのか?
アイヌ民族は独立しなければならない。
アイヌ民族の独立、、それは幻想ではないのか?などと傍観者たちは、「独立」という言葉に続いて一度は驚いて見せる。
さらに幻想と思うのである。
そして薄笑いを浮かべるその顔には、敵意がある。
同化、融和主義とは民族のすべての歴史的な権利や文化、己の存在すらも捨てることになる。
そして支配者階級の文明の中に消え去ることになる。
アイヌ自身が民族の誇りを捨てて、同化し、融和してしまうことは、ヤマト民族の思想を受け入れたことに結果としてなるのである。
この時、やはりアイヌ民族は自然ばかり相手にしてきた文明に遅れた人間であった、元辺境に住むまれな“原始人”であったと、様々に言ってきたアイヌ研究の御用学者を喜ばしてはならない。
客体としての研究材料としてしか取り扱ってこなかったアイヌ研究を、実証させてはならないのである。
(引用ここまで)
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アイヌ 15件
先住民族サミット 5件
などあります。(重複しています)
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(引用ここから)
大自然を主体とする「原始共産制」によるアイヌ=人間の思想とは何であるのかと言えば、共同体による人間生活によって発展する、搾取のない社会である。
これらの精神文化が滅亡した時、さらに人間が人間を管理し、自然界を支配でき得るような幻想にとりつかれて、人間主体的なエゴの支配思想が蔓延してしまった時に、人類は滅亡するのである。
物質文明が栄えることは、本来は人間というものは無である、つまり素裸であるということへの恐怖感から出発した思いであって無意識の肯定でもある。
私有制の価値観は物質文明に支配されている。
だが、原始共産制を起源とする共同体の価値観は、自然そのものから与えられるすべてを課題にし、精神的なものとして受け入れるのである。
人間解放とは有限的な私有制度を否定することから始めねばならない。
本来ならば大自然のどこの大地にコタン(人間社会)を創造しようと、それ自体拘束されるものではなかった。
それなのに私有制のもとに天皇一族はアイヌモシリ(大地)に侵略して、自然そのものを占領したのである。
アイヌという人間そのものをも私有化する思想が「皇民化」であろう。
「もうアイヌもシャモもないではないか。」
「今更アイヌ、アイヌと騒ぐこともないだろう。」
「眠っている子を起こすようなことはしないでくれ。」
ずいぶんと聞かされた言葉である。
“眠っている子”、、つまりアイヌを指して言うのだが、アイヌははたして眠っていたのであろうか?
眠るにも、寝る場所すらなかったのではないのか?
食物をも取り上げられ、腹が減って眠られなかったのではないのか?
「もうアイヌもシャモもないではないか?」、とはもっとも同和政策や融和主義を代表する言葉なのだ。
この考えはヤマトの思想である。
そして「皇民化」する思想を代弁している。
つまりアイヌは同化政策の中で眠ってきた、と決めつけて言っているのと同じである。
このような融和主義者の意識こそ、誇りある人間としてのアイヌ文化、歴史を抹殺して来た者の言葉である。
だがアイヌを眠るどころか、眠る時間も与えないで奴隷として酷使してきたのはいったいどこの誰なのか?
アイヌ民族は独立しなければならない。
アイヌ民族の独立、、それは幻想ではないのか?などと傍観者たちは、「独立」という言葉に続いて一度は驚いて見せる。
さらに幻想と思うのである。
そして薄笑いを浮かべるその顔には、敵意がある。
同化、融和主義とは民族のすべての歴史的な権利や文化、己の存在すらも捨てることになる。
そして支配者階級の文明の中に消え去ることになる。
アイヌ自身が民族の誇りを捨てて、同化し、融和してしまうことは、ヤマト民族の思想を受け入れたことに結果としてなるのである。
この時、やはりアイヌ民族は自然ばかり相手にしてきた文明に遅れた人間であった、元辺境に住むまれな“原始人”であったと、様々に言ってきたアイヌ研究の御用学者を喜ばしてはならない。
客体としての研究材料としてしか取り扱ってこなかったアイヌ研究を、実証させてはならないのである。
(引用ここまで)
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