始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

彼らは東の方を歩き続けた・・マヤ族の神話「ポポル・ヴフ・三」(2)

2011-01-30 | マヤ・アステカ・オルメカ
マヤ・キチェー族の神話「ポポル・ヴフ」の第三部を読んでみました。

引き続き、抜粋して紹介させていただきたいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



       *****


          (引用ここから)


●第三章

男たちにはそれぞれの妻が与えられた。

彼らは東方で産み、増えていった。

東方から一緒にやってきた人々の起源も分かっている。

人々は自分たちの祖父、自分たちの父の名を忘れなかった。


これらの部族からまた他の部族が分かれていった。

たくさんの人間が作られ、そして暗闇の中で繁殖していった。


太陽も光もまだ現れていなかった頃の事である。

彼らはみんな一緒におおぜいで住んでいて、あの東の方で歩き続けていたのである。


しかしながら、これらの者は神を養い、その糧を用意することをしなかった。

ただ顔を天に向けているばかりで、こんなに遠くまで何をしにやってきたのかは知らなかったのである。


そこにはたくさんの黒い人間、白い人間、色々な種類の人々、色々な言葉の人々がいて、その言葉を聞いているのは素晴らしいことだった。


地上には、幾世代を経ても山に住んでいて、全く顔を見せず家も持たず、ただ大きな山々、小さな山々を気が狂ったように歩き回っている者がいた。

人々はこれらの山々の人たちを軽蔑して、狂人と呼んでいた。

太陽の昇る地方の人々もまた、彼らをそう呼んでいたのである。


この人たちがしゃべる言葉はみな同じであった。

彼らは木や石の像を崇めなかったが、「天の心」、「地の心」の言ったことはよく覚えていた。


彼らは夜明けの来るのをもどかしく待っていた。

彼らは愛らしく、素直に、またおそれおののいて、神を讃える祈りの言葉を捧げ、天をあおいで自分たちに娘や息子が与えられるようにと祈った。


「夜が明けますように。

暁がやってきますように。

私たちに良い道、平らかな道をたくさんあてがって下さいますように。

種族が平和でありますように。

いつまでも平和で幸福でありますように。」


彼らは太陽の出現、暁の到来を祈りながら、こう言った。

そして太陽が昇り出る時、その先駆をつとめる暁の明星、偉大な星の出てくるのを待っていた。

天空と地表を照らし、この創造された人間たちの足もとを輝かす暁の明星の出てくるのを待っていた。



●第4章

四人の男たちは「夜が明けるのを待とう」と言った。

どの種族も、もはや非常に数多くなっていた。

「さあ、我らの御印が安泰かどうか尋ねてみよう。

そして御印の前で焚くものを見つけに行こう。

このままでは我々を見守ってくれるものが無いのだから。」


やがて彼らは「トゥラン」という町に到着した。

やってきた者の数は多すぎて数えることもできなかったが、みんな規則正しく歩いてやって来たのであった。


ここで彼らの神々が現れた。


彼らは喜びにあふれて叫んだ。

「とうとう、求めていたものをみつけだした。」


彼らはこの神を籠に入れ、肩に担いだ。

三つの部族は同じ名の一つの神を持っていたから、彼らは離れ離れにならなかった。


そしてここで種族の言葉は変わってしまい、皆、異なった話し方をするようになってしまった。

彼らは「トゥラン」へ着いてからは、お互い同士ではっきりと理解出来なくなってしまった。


そこでまた皆別れてしまい、ある者は東方に行ったが、多くはこちらの方にやって来たのであった。


彼らが身に着けていたのは獣の皮で、りっぱな着物は持っていなかった。

彼らは貧しくて何も持っていなかった。

しかしその天性は非常に優れていた。

彼らが「トゥラン」に来るには、古い伝承によれば、長い道のりを歩いてきたということである。

 
          (引用ここまで・続く)

    

           *****


>太陽も光もまだ現れていなかった頃の事である。
>彼らはみんな一緒におおぜいで住んでいて、あの東の方で歩き続けていたのである。


暗闇の中を歩き続きている部族の民。。


>そこにはたくさんの黒い人間、白い人間、色々な種類の人々、色々な言葉の人々がいて、その言葉を聞いているのは素晴 らしいことだった。


いくつも民族が集っていた。そしていくつもの言語が語られていた。。


>地上には、幾世代を経ても山に住んでいて、全く顔を見せず家も持たず、ただ大きな山々、小さな山々を気が狂ったよう に歩き回っている者がいた。


歩き続けている民と、歩き回っている民は、別の民であるようです。。
しかし、彼らが何のために、何をしていたのかは語られていません。


>そして太陽が昇り出る時、その先駆をつとめる暁の明星、偉大な星の出てくるのを待っていた。


人々は暗闇の中で、太陽が昇る時に現れる「暁の明星」を待っていると語られます。
「暁の明星」とは、金星のことでしょうか?


>やがて彼らは「トゥラン」という町に到着した。
> ここで彼らの神々が現れた。
> 彼らは「トゥラン」へ着いてからは、お互い同士ではっきりと理解出来なくなってしまった。


「トゥラン」という町は、どこにある町なのでしょう?
人々は、「トゥラン」という町で、どのようなことを経験したのでしょう?
そして彼らの神とは?


これらの一群の人々の旅の物語は、いまだ太陽も光も現われていなかった暗闇の中の話なのです。。




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マヤ族の神話「ポポル・ヴフ・三」・・父祖達は、かくして地上に現れた

2011-01-26 | マヤ・アステカ・オルメカ

昨秋見に行った「古代メキシコ・オルメカ文明展」の印象は心に深く沈澱したままです。

マヤの心に、どうやったら近づくことができるだろうかと思っていました。

そこで、マヤの口承文学「ポポル・ヴフ」を読んでみました。


「ポポル・ヴフ」について「古代マヤ文明」の著者マイケル・コウ氏は、著書の中で次のように語っています。

  
         *****


         (引用ここから)


「ポポル・ヴフ」に記されていた物語は、もともとの壮大な叙事詩の断片的な一部分にすぎない。


その叙事詩が完全な形で書かれた絵文書があったはずであり、それは古代エジプトの「死者の書」にも匹敵するものであったろう。


壺や皿には「ポポル・ヴフ」でおなじみの登場人物が頻繁に出てくる。


とうもろこしの神、怪鳥、猿人間の神、そしてなによりも主人公フナフプー、シュバランケーである。


フナフプーはその顔と体の皮膚に黒い斑点があることで、シュバランケーはジャガーの皮のきれはしを皮膚につけていることで、それと分かる。


「双子の英雄」は植民地時代に入っても高地マヤ人の間では「地下世界の神」とされていた。


「マヤ古典期後期」に製作された土器には、天地創造の始まりにおいて、二人が父親をよみがえらせている場面が描写されているし、「地下の国・シバルバー」の諸王を球技で打ち負かしている様子を描いているものも少なくない。

 
        (引用ここまで)


             *****



双子の神、地下世界、ジャガー神、、。


「ポポル・ヴフ」は4部に分かれていて、はじめの2部では民族の神話がにぎやかに活発に物語られます。


それから急に雰囲気が変わって、彼らの父祖の心情のこもった彼らの歴史が語り出されます。


その「第3部」を、抜粋して紹介させていただきたいと思います。


リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



*****


(引用ここから)


●第1章


さてこれから、神々が人間をどのようにして創ろうとしたか、人間の肉を何で創ろうとしたかを書き始めるとしよう。

神々は、

「夜の明ける時がやってきた。
我らの仕事をなしとげよう。

我らを養い、我らの糧を用意する者達、すなわち優れた息子たち、礼儀正しい家来をこの世に出すべき時がやってきた。

地の表に人間が現れ出るようにしてやろう。」

と語った。

神々は暗黒の中で、夜の間に相集って相談し合った。

お互いに話を重ね、考えに考えを重ねた。

そしてようやく人間の肉にするものを考えだした。


それは頭上に太陽と月と星が現れ出るほんのちょっと前のことであった。


山猫、山犬、おおむ、カラスが、トウモロコシの黄色い穂と白い穂をもってきた。

これが新しく創造される人間の肉となり、また血となった。

神々はトウモロコシをこねて人間の腕や足を創った。



●第2章


最初に四人の男が創られた。

彼らはひとりでに作られたもので、母も父もいなかった。

創造主たちの奇跡により、呪術によって創り上げられたものに他ならなかった。


彼らは人間の格好をしていたから人間であったのである。

口をききお互いにものをしゃべりあい、ものを見、ものを聞くこともできた。

彼らは見渡せばたちまちはるか彼方までも見る事ができ、この世にあるすべての事を知ることができたのである。

彼らが目を見張れば、たちまち天球や丸い地表までも見渡すことができたのであった。

まことにその叡智は偉大であった。


彼らはこの世のすべてを知り尽くしてしまった。

天空と丸い地表の四隅、四点も調べてみた。


しかし、これを聞いた創造主たちは喜ばなかった。

「彼らの目の近くにあるものだけしか見えないように、彼らが地表のほんの少ししか見えないようにしてしまおう。」

創造主「天の心」は、彼らの眼にかすみを吹きかけたのであった。

すると彼らの目は鏡に息を吹きかけた時のように曇ってしまったのである。

彼らの眼にはヴェールがかけられ、近くにあるものだけしか見えなくなってしまった。

はっきりしたものだけしか見えなくなってしまったのである。

こうしてキチュー族の先祖である四人の男の叡智と知識は打ち砕かれてしまったが、我らの祖父、我らの父は創造主「天の心」、「地の心」によって、このようにして創造されたのであった。



    (引用ここまで・続く)


          *****


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弥勒とシュタイナー(2)・・進化した仏陀・マイトレーヤと“弥勒問題”

2011-01-22 | 弥勒
人智学のシュタイナーは、弥勒仏をどう考えているのでしょうか。

シュタイナーの翻訳者西川隆範氏編「釈迦・観音・弥勒とは誰か」を、引き続き紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****


           (引用ここから)


シュタイナーが神智学協会と、たもとを分かつきっかけになったのは、1909年神智学協会第二代会長がクリシュナムルティを「ロード・マイトレーヤである」と宣言した事件であった。


1911年にはクリシュナムルティを弥勒の化身だとする「東方の星教団」が協会内に作られている。


クリシュナムルティは弥勒菩薩を受け入れる器になるとされ、1910年にイニシエーションが行われた。


1922年の春、クリシュナムルティは瞑想のなかで弥勒菩薩に出会ったと言っている。


「わたしの前にわたしの身体があり、私の頭の上に明るい星が見えた。


そしてわたしはロード・マイトレーヤのバイブレーションを感じた。


わたしはロード・マイトレーヤとKH大使を見た。」



しかし1929年8月、クリシュナムルティは


「わたしのただひとつの関心は、人間を絶対かつ無条件に自由にすることなのです。」
と言って、東方の星教団を解散した。


彼は後に、1929年以前の記憶を喪失したという。


「誰が弥勒菩薩なのか?」という「菩薩問題」についての古典的な研究は、アレンソンの「ルドルフ・シュタイナーと20世紀の菩薩」(1930年)とフレーデの「人智学=アントロポゾフィー協会における菩薩問題」(同年)の二つである。


アレンソンは「エーテル的なキリストの告知」という20世紀の菩薩の使命が、ルドルフ・シュタイナーによって果たされたという点を重視している。


しかし、誰が弥勒かということに関心を向けるよりも、弥勒はさまざまな人に高みからの霊感を送っている存在であると見るべきであろう。


         (引用ここまで)


             *****



同じ本に入っている「新しい形の仏教の流れ」というシュタイナーの文章を以下に少し載せます。


             *****


          (引用ここから)
 


「紀元前5~6世紀に生きた仏陀に眼を向けよ。それが仏陀の教えなのだ。」
と語る人々がいる。


それに対して「精神科学=霊学」は、薔薇十字的な意味で、次のように語る。


「仏陀が紀元前5~6世紀の地点に立ち止まっているかのように語るのは誤りである。


君たちは仏陀が進化していないと思っているのか?


君たちは当時正しかった教えを今なお語っている。


紀元前5~6世紀に正しいと見られたブッダの教えを、君たちはいつまでも語っている。



私たちは進化した仏陀を見る。


仏陀は霊的な高みから、人類の文化に絶えざる影響を及ぼしている。


私たちは、霊の領域で更に進化した仏陀を見る。


この仏陀は今日、わたしたちに大切な真理を語る。


(引用ここまで)


           *****



本の編者であり、シュタイナーの翻訳者である西川隆範氏は、後書きで「シュタイナーの仏教論」を大きくまとめて、以下のように示しています。


            ・・・


1、 仏教は、人智学的な「精神科学=霊学」に霊感を与えている。

2、 薔薇十字的な意味で、仏陀からは瞑想する者に力が流れてくる。

3、 「ルカ福音書」から流れ出るものは仏教である。

4、 仏教とキリスト教は、今日合流点に立っている。

5、 弥勒はキリスト教の最大の教師である。


           ・・・


このように見ると奇妙な主張に見えますが、シュタイナーが用いる「キリスト」や「仏陀」という概念は、普通に言うキリスト教や仏教のものからははるかにへだたったものだと思われます。


「仏教とキリスト教は、今日合流点に立っている」とシュタイナーは述べていますが、“キリストのまわりに座る菩薩たちの姿”(前出)を観じる彼は、東西文明の壁のかなたの根源の世界を直感していたのだと思われます。



>「精神科学=霊学」は、薔薇十字的な意味で、次のように語る。

>私たちは進化した仏陀を見る。

>仏陀は霊的な高みから、人類の文化に絶えざる影響を及ぼしている。

>私たちは、霊の領域で更に進化した仏陀を見る。



シュタイナーは、「弥勒」とは“活ける仏陀”そのものであり、それは“活けるキリスト”と同じ源を持つと感じているのだと思います。


しかし、「誰が弥勒なのか?」という問いがおこるたびに、それは翻訳者西川氏言うところの「弥勒問題」という名の問題をはらみがちであるということが、苦々しく言及されているのだと思いました。



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弥勒とシュタイナー(1)・・弥勒仏の流れは薔薇十字に結びついている

2011-01-18 | 弥勒
「弥勒下生」について、人智学のシュタイナーはどう語っているでしょうか。


「釈迦・観音・弥勒とは誰か」という本の中にあるシュタイナーの翻訳者西川隆範氏の「菩薩問題」という文章を抜粋して紹介させていただきます。

この本はシュタイナー他何人かの人智学派の仏教についての文章をまとめたもので、西川氏は、シュタイナーの考えを要約して書いています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



        *****


  (引用ここから)


ルドルフ・シュタイナーがはじめて「弥勒」について語ったのは、1909年、ケルンにおいてである(邦訳「輪廻転生とカルマ」所蔵)。

そこでは弥勒がマハーカシャパを訪れる時のことが語られている。

弥勒(=マイトレーヤ)という言葉は、慈悲、友情を表わすマイトリーという語から発したもので、「慈氏」と意訳される。


シュタイナーは弥勒を「言葉をとおして善をもたらす者、善き心の仏」と呼んでいる。


そして


「弥勒は将来、人間にキリストを完全に見出させるために、弥勒仏として地上に下るであろう。


彼はキリスト衝動の最大の告知者となり、多くの人々にダマスカスの体験を可能にするであろう(1910年)」、


「弥勒は人々にキリスト事件を完全に明らかにするために現れる最大の教師である。」(1911年)

と語っている。



「ダマスカスの体験」というのは、ダマスカスへの途上でパウロが“復活したキリスト”の姿を眼にしたことを指している。


なぜ弥勒菩薩が“キリスト”の意味を明らかにする存在なのか?


この問題を明らかにするには、「菩薩界」という領域で何が行われているかを見る必要がある。



シュタイナーは世界には12人の菩薩がいるとしている。


菩薩というのは、人間としての最高段階であり、この段階から一段上昇すると仏陀になる。


12人の菩薩たちは、それぞれ地球の進化のために果たすべき役割を持っている。


たとえば、釈迦の役割は、人類に慈悲の教えをもたらすことであった。


菩薩たちは次々と地上に下って、自分の役割を果たしていく。



霊的世界では12人の菩薩たちが共同体を形成しており、その共同体の中心に、“ある存在”がいる。


この存在から発する叡智を、菩薩たちは受け取り、人々に伝える。


この菩薩たちの中心にいるのが、インドではヴィシュヴァ・カルヴァン、ペルシアではアフラ・マズダ、エジプトではオシリス、そして今はキリストという名で知られている存在なのである。


ヴィシュヴァ・カルヴァンは「リグ・ヴェーダ」や「プラーナ」文献に登場する神で、美術、工芸、建築の神であり、“一切を作った者”という意味である。


キリスト=ヴィシュヴァ・カルヴァンが12人の菩薩たちの中心にいて、叡智を注ぎ出しているのである。


菩薩たちはキリスト=ヴィシュヴァ・カルヴァンから発する叡智を受け取り、その叡智を人々に伝えている。



シュタイナーは、「弥勒は紀元前1世紀頃にエッセネ派教団を指導した」、と述べている。


エッセネ派はキリスト教を用意した教団であったと言うこともできるから、その頃から弥勒菩薩はキリスト衝動の告知者であったのである。



日本では弥勒菩薩が下生するのは五六億七千万年後とされている。


しかしチベットには、別の見解がある。


西域五仏の曼荼羅を見ると、中央に大日、東に阿?、南に宝生、西に阿弥陀、北に不空成就の五禅定仏。

そのかたわらに普賢、金剛手、宝手、蓮華手、一切手の五禅定菩薩。

拘留孫、拘那舎牟尼、迦葉、釈迦、弥勒の五菩薩が描かれている。


これらのグループの仏達はそれぞれ5000年間を統治するとされる。


現在は西の時代、つまり「阿弥陀―蓮華手―釈迦」の時代である。


未来は北の時代、つまり「不空成就―一切手―弥勒」の時代に変わるのである。


釈迦が悟りを開いてから5000年後に弥勒菩薩が下生し、成仏する、とシュタイナーは見ていた。


大事なことは、「弥勒が下生する時、人間は魂の自然な能力として、釈迦が説いた八生道を完成している」、とシュタイナーが述べていることである。


弥勒下生の時までに、わたしたちは、八正道の完成に努力する必要があるわけである。


また、シュタイナーはしばしば自らの精神科学=霊学を、薔薇十字的な流れに結びつけて語ったが、


「弥勒仏の流れは薔薇十字に結びつく西洋の流れと共同している」(1911年)とも述べている。


(引用ここまで・続く)


             *****


wikipedia「八正道」より


八正道(はっしょうどう)は、釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。

「八聖道」とも「八支正道」とも言うが、倶舎論では「八聖道支」としている。

この 「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の「道」であるから聖道と言う。




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古代アジアのメシアニズムとミトラ神・・弥勒と千年王国(5・終)

2011-01-13 | 弥勒

前回までの記事で、民俗学者である宮田登氏が編纂した「弥勒信仰」という本の中の鈴木中正氏の「イラン的信仰と仏教との出会い」という文章を紹介させていただいてきました。


その本の最後に、編纂者宮田登氏が「弥勒信仰の研究成果と課題」というまとめの文章を書いておられますので、少し紹介させていただきます。


鈴木氏が指摘しておられる、イラン的なものと仏教的なものが結びついて、「メシア=マイトレーヤ=弥勒」という観念が生まれた、という説は大変示唆に富んでいます。


しかしまた、仏教がうまれたインドは元来インド・アーリア系民族の国であって、インドはイランと血を分けた兄弟である、と思われ、イラン人と仏教徒が西域で出会うはるか以前から、イランの宗教とインドの宗教は分かちがたく結びついていた、という視点も忘れてはいけないように思います。


いずれにしても、ミロクという存在は、そのように民族のわくを超えた根源的ななにものかと共震する存在であり、西に東に汎世界的な広がりと結びつきを示していく性質をもっているのではないかと思われ、不可思議な魅力を感じます。



      *****


(引用ここから)


アジア世界に発達した弥勒信仰は、未来仏マイトレーヤ(弥勒)を軸とするメシアニズムとして知られる。


釈迦の入滅後56億7000万年の後に、「と卒天」からこの世に下生して、竜華樹の下で3会にわたって説法し、衆生を救済する、というのが弥勒信仰の骨子である。


元来インド仏教の中に、突如として弥勒信仰が形成されたわけではなかった。


その前景の一つとして考えられているのはヒンズー教における救済者カルキの存在である。


カルキはヴィシュヌ神の第10の仮神と言われ、未来において人間の寿命がわずかに23才となった末世にこの世に出現して、人々を救済するという。



弥勒の別名は、アジタとも言われ、実在のバラモンの弟子であったという。


一説に、アジタとマイトレーヤは別の人物であるとも言われるが、後世、両者は同一視され、アジタはマイトレーヤの別称として位置づけられるにいたった。


インド古代に、弥勒信仰は熱狂的に流布し、多くの弥勒像を残している。



一方仏教学の上でも、「弥勒3部経」すなわち「弥勒下生経」「弥勒大成仏経」「弥勒上生経」にくわしく説かれている。


このうち最古のものは「弥勒下生経」と言われ、クラマジュウ訳が日本にも伝えられた。



「古代アジア世界に流布した弥勒信仰」を捉えるための視点として、鈴木中正氏は「イラン的信仰と仏教との出会い」という論文でシルバン・レヴィーの説を紹介している。


シルバンによると、インド西域地方において、仏教がギリシア、サカ、パルチア、クシャナなどの諸民族と接触した中で、未来仏弥勒のイメージが形成されたとしている。



とりわけ、仏弟子アジタとマイトレーヤはイランのミトラ神と習合することによってメシア的な神格を帯びることになったという。


ミトラ神はゾロアスター教の強力な神格であり、“常に無敵なる”存在だという。


一方アジタの名称は「無能勝」、“決して勝る者無し”、という意味なのである。


さらにミトラ神はパーリ語で「メッテーヤ」といい、マイトレーヤと共通の音韻がある。


また古代インドにおいて、太陽を指して「マイトレーヤ」と称したという事実があった。


そこで、イラン世界のミトラ神と仏教との習合過程の中で、アジタ、マイトレーヤを同一視する思考が生まれ、結果的に仏教的メシアニズムを産み出した、ということになる。


ミトラをめぐって、アジタ、マイトレーヤの意味内容や音韻の類似性が、一体化や集合化をすすめていったという論拠は、信仰心意の上でしばしば確認できることである。




メシアである弥勒下生の予言は、信者にとって何とも言えぬ魅力であった。


地表はガラスの鏡のごとく平坦で、緑の樹木が繁茂し、大小の城が立ち並ぶ。


城内には七宝の楼閣や、広さ12里の大通りがあり、国土は平和で、飢餓盗賊や水火の災害はない。


食べ物の心配もせず寿命は8万才まで伸び、若死にすることはない。


人々の心は常に慈悲心をもち柔和である、という結構づくめのユートピアが、もし「弥勒下生」によって可能であるとすれば、その具体的な場所はどこになるのかが問題となる。



仏弟子マハーカシャパが鶏足山にいて「弥勒下生」を待機しているという伝承が、中国に伝播すると、雲南省大理の地に鶏足山が具現化されるにいたった。


マハーカシャパが山中に入定したままで生きながらえているので、諸国の修行者がここに巡礼してきて、マハーカシャパを供養する形となっている。


マハーカシャパがいる所、「弥勒下生」が約束されているわけで、この信仰は中国仏教の中に深く定着しているのである。



しかしまた、弥勒信仰が、仏教の教理の枠組みの中でのみ解決されるべきでないことは、諸民族におけるその発現の仕方によってよく示されている。


仏教を離れて、民俗宗教の中でどのような様態を表出させているかが重要な問題であろう。


           (引用ここまで・終)

      
       *****



宮田登氏は、弥勒信仰の民俗学的な研究で知られる人ですので、この本はさらにいろいろな、“仏教という枠組みを超えた弥勒信仰”についての調査研究が続きます。


“未来仏なのに、ひじょうに古代的な気配がする”、というミロクのなぞめいたイメージは、多くのことを語っているように思われ、興味がつきません。


次回からは、この本をはなれて別の角度から、メシア=マイトレーヤ=未来仏=弥勒とはなにか?ということを調べてみたいと思います。





wikipedia「カルキ」より

カルキ(Kalki)は、ヒンドゥー教に伝わるヴィシュヌの10番目にして最後のアヴァターラ。

その名は「永遠」、「時間」、あるいは「汚物を破壊するもの」を意味する。

白い駿馬に跨った英雄、あるいは白い馬頭の巨人の姿で現される。

カリ・ユガ(Kali Yuga)と呼ばれる世界が崩れ行く時代に現れる。

そして世の全ての悪を滅ぼし、新たな世界を築くとされる。




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イラン的終末論と日月光仏・・・弥勒と千年王国(4)

2011-01-09 | 弥勒
再び、ミトラとミトラスと弥勒の関係について、に戻ります。

宮田登氏が編纂された「弥勒信仰」という論文集から鈴木中正氏の「イラン的信仰と仏教の出会い」という論文の紹介を続けさせていただきます。

とても貴重な論文ではないかと思っております。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


         *****


           (引用ここから)


このような世界の終末の崩壊の筋書きを一層敷衍したのが「大方等大集経」の「月蔵分」である。


この経は中国における末法思想の典拠とされたほか、「法滅尽」思想発展の地理的関係を知る上で重要である。


仏の説教が行われるのは、すこぶる多くの国々から集まった菩薩たちの会合、いわば国際仏教大会の場である。


この席における主要質問者は「月蔵菩薩」といい、かれははるかに西方にある「月勝世界」から、そこに君臨する「日月光仏」の命をうけ、仏を礼拝供養し、かつ釈迦仏に「月堂呪」なるものを説くために仏教大会に出席したのである。


ル・コックが1904年にトゥルファン東方の仏教葉寺で発見した一つの壁画には、仏の前にひざまずいて供物を奉呈する人物たちが、種種の国の衣服をまとっていて、インドの君主あり、バラモンあり、ペルシア人あり、とくに不思議なのは紅毛で青い眼、あきらかにヨーロッパ的な様子をした人物が描かれている。


これは「月蔵菩薩」を主要訪問者とした仏教大会の情景を描いたものではないかと私には思われてならない。



しからば「月蔵伝承」や「月蔵分」の作者の意図はなんであったか。

「月蔵分」における「月蔵菩薩」はインド、西域、中国を含めた仏教世界の中でもっとも西方にある国から来た使者である。


彼の本国たる「月勝世界」は「日月光仏」という仏が掌管する仏教国らしく見えるが、そこではすでに何らかの修業が行われ、また「月堂呪」なるものを釈迦仏に宣伝しようとして釈迦のもとに使者が派遣されたのである。


作者の念頭にあったのは、現に仏教が流行している国というよりも将来仏教を広め、仏教国と化しうるイラン文明の国ではなかったろうか。


すなわちそこにはゾロアスター教の終末観、のちにそれを継承したマニ教の三際思想や終末観があり、そこに仏教を進出させるにはインド仏教に古くからあった「法滅尽」思想や未来仏思想に、“イラン的終末思想”を大幅に導入し、新しい布教地の人々に受け入れやすくする意図があったのではないか。


「法滅尽」の時には世界に特別の異変は起こらず、有情世界と器世界の破壊はそれぞれ独立して起こる事象で相関関係が見られない。


他方「法滅尽」と同時に生起する天地破壊の情景ははなはだすさまじく劇的である。


このような一つの世界の終末に等しい異変が、四大原理に従って生滅する過程に挿入されるのは奇異の感を禁じ得ない。


そこで「法滅尽」とともに生起する天地破壊の物語は、インド的思考とは別の、すなわちイラン的終末論をとりいれて編み出された、と解すれば難なく理解できるであろう。


「転輪聖王」観念や「法滅尽」の思想の原型はインド仏教の中に存したにしても、肉付けと発展は、仏教がイラン思想との出会いの中でそれを吸収し、それに順応する過程を通してなされたと解される。


その場所はインド西北部からいわゆるシルクロードの世界にあたる西域地方であったと見られる。

弥勒自身も、「転輪聖王」や「法滅尽」に関する教説と不可分の形で現れるのであるから、これもまたイラン的観念との出会いの中で深化され肉付けられて、仏教的千年王国信仰の「メシア」としての性格を帯びるに至ったと見てよい。


                    (引用ここまで・終わり)


     *****



前に紹介した、学研「ム―」の「弥勒下生」についてのページでも、“弥勒の終末思想”として、仏典「月蔵分」に描かれている壊滅的に崩壊する世界像や、仏の教えが尽きる時が来るという「法滅尽」思想が紹介されていました。


しかし、鈴木氏のこの論文「「イラン的信仰と仏教の出会い」では、これらの思想はインド仏教本来の思想ではなく、仏教が西域や中国において広まっていく時に付け足されたり、強調された部分であると考えられる、と指摘されています。


興味深いのは、筆者鈴木氏の言う「古代の国際仏教大会」の様子が描かれていることです。


そこには、仏教の教えを聞きに来る人々、広めようとする人々、別の宗教の様々な人種の人々が集い、インドの仏陀に何事かを伝えようとする「日月光仏」と呼ばれる聖者らしき人とその使者も描かれています。

筆者はこの人物をゾロアスター教やマニ教の聖職者ではないかと考えています。


筆者はまた、弥勒という仏教のヒーローも、イランや西域の生きた人々との関わりの中で、多国籍な性格を付け加えていったのではないか、と述べています。


弥勒信仰は、仏教と西方のメシア思想の混淆という大きな展望の中でとらえる必要があるということではないでしょうか。


       ・・・

弥勒自身も、「転輪聖王」や「法滅尽」に関する教説と不可分の形で現れるのであるから、これもまたイラン的観念との出会いの中で深化され肉付けられて、仏教的千年王国信仰の「メシア」としての性格を帯びるに至ったと見てよい。 (上記より)
       
       ・・・






wikipedia「大集経」より


『大集経』(だいじっきょう,だいしゅうきょう)は、詳しくは『大方等大集経』(だいほうどうだいじっきょう)といい、大乗仏教の経典である。


釈迦が、十方の仏菩薩を集めて大乗の法を説いたもので、空思想に加えて密教的要素が濃厚である。


隋代に僧就(そうじゅ)が、北涼の曇無讖訳の大集経二十九巻に加えて、隋の那連提耶舎(なれんだいやしゃ)訳の『月蔵経』十二巻、『日蔵経』十五巻などを合わせて一つの経典、六十巻としたものである。


 第9「宝幢分」には、女が男に生れかわる転女成男の思想、第15「月蔵分」には末法思想の根拠とされる、仏滅後を五百年ごとに区切って、正法の衰退を主張する五五百歳の思想が示されていることが、特徴として挙げられる。




wikipedia「転輪聖王」より

「転輪聖王」たる者は輪宝を転ずるとされるが、それがいかなる起源を持つものかについては定説が無い。


起源論としては、インドラ神の力を象徴する戦車の車輪とする説や、世界を照らす日輪(太陽)とする説、或いは輪状の武器チャクラムとする説や、マンダラを表すという説もある。


この輪宝は理想的な王である転輪聖王の無限の統治権のシンボルであった。


ヴェーダ時代(紀元前2千年紀)半ば以降から輪を王権のシンボルとする観念はインド世界に存在し、転輪聖王の概念もその延長上にあるものである。

バラモン教においてもこの観念は継承されたが、「転輪聖王」の概念がよりはっきり形成されたのは、寧ろインドにおける非正統派宗教である仏教やジャイナ教においてであった。


転輪聖王に関する記述は『転輪聖王師子吼経』や『大善見王経』といった仏典の随所に登場する。




転輪聖王観


仏典の記述によれば、転輪聖王の概念とは大雑把に以下のようなものであった。


世界は繁栄と衰退の循環を繰り返し、繁栄の時には人間の寿命は8万年であるが、人間の徳が失われるにつれて寿命は短くなり、全ての善が失われた暗黒の時代には10年となる。


その後、人間の徳は回復し、再び8万年の寿命がある繁栄の時代を迎える。


転輪聖王が出るのはこの繁栄の時代であり、彼は前世における善行の結果転輪聖王として現れる。


仏陀と同じ32の瑞相を持ち、4つの海に至るまでの大地を武力を用いる事無く、法の力を持って征服する。


転輪聖王には金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王の4種類がある。


鉄輪王は鉄の輪宝を持ち、(古代インドの世界観で地球上に4つあるとされた大陸のうち)1つの大陸を支配する。


同様に銅輪王は銅の輪宝を持ち、2つの大陸を、銀輪王は銀の輪宝を持ち、3つの大陸を支配する。


そして最上の転輪聖王である金輪王は、金の輪宝を持ち、4つの大陸全てを支配するという。


転輪聖王は、寿命の尽きる前に、王宮の上の輪宝が離れ去るのを見て、王子に位を譲り、出家する。


出家の7日後に輪宝は忽然と消えてしまう。


新王がこれを元の王である父に問うと、父は輪宝が父祖伝来の物ではなく、王自身の功徳によって齎されるものであると説く。


これを新王が聞き入れて法に則った統治を行うと、満月の夜に再び輪宝が空中に現れるのだという。


転輪聖王が出家せずに王位にあるまま死んだ場合には、その遺体は大衆の手で仏陀の遺体と同じように丁重に扱われ、遺骨は大塔に収められる。


この転輪聖王の時代が終わると、再び世は暗黒の時代へと移行していくという。




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「古代メキシコ・オルメカ文明展」に行ってみた・・マヤ文明の源泉か?

2011-01-04 | マヤ・アステカ・オルメカ
明けまして おめでとうございます。

いつも お読みくださり ほんとうにありがとうございます。

本年も どうぞよろしくお願いいたします。



先月、池袋のサンシャインシティで開催されていた「古代メキシコ・オルメカ文明展・・マヤへの道」に行ってみました。

「古代メキシコ・オルメカ文明展」HP
http://www.bunpaku.or.jp/exhi_olmeca.html


オルメカ文明は紀元前1500年から紀元前500年ごろまで栄えた、中米最古の文明であるということでした。

マヤ文明につながる大きな文明であったようですが、マヤ文明が発生する頃に衰退していったということで、「謎の古代文明」と言われます。


博物館の会場に入ってから出るまで、静かに理解を阻むものがあり、言葉がみつからないという思いがつのりました。

有名なオルメカヘッドもありました。

高さが3メートルもある20トンの巨大な頭。

この人はいったい誰なのだろう?

頭にかぶった戦闘帽のようなものは何なのだろう?

なぜ頭だけの像なのだろう?

そして、こんなに重い石をどのようにして運んだのだろう?




手のひらに乗るほど細かい人物の像もたくさんありました。

3000年前のそれらの人々の顔は、オルメカヘッドの像の顔とはまったく違う顔で、

いったい何を見ているのだろうと思うと、分からない、という以外ないのですが、

能面のような表情はしかし、何事かをはっきりと告げるために作られており、深い秘密で結ばれた魂たちだと思われました。



展示はオルメカ文明を、マヤ文明につながるマヤ文明の源泉、という紹介の仕方をしていて、とても論理的にていねいに説明されていました。

本邦初公開のマヤ暦のレリーフもあり、比較できるようになっていました。


確かにマヤのレリーフとそっくりなレリーフだなぁ、、とつぶやいて、ようやくこれは比較が逆になっている、と気づかされました。

オルメカ文明がマヤ文明にそっくりなのではなく、マヤ文明がオルメカ文明にそっくりなのでした。

私も、この展示は“マヤ文明の何か”と思って行きました。

しかし、マヤ文明の根幹には、もっと大きな流れがあったのでした。


わたしが理解した限りでは、
古代のメキシコには“マヤ文明と共通する”あるいは“マヤ文明の源泉である”古代文明が、マヤ文明に先んじて存在した、ということと思いますが、

マヤ文明から、さらに古い文明としてのオルメカ文明に基軸を移して捉えることで、世界の見方がずいぶん変わったように感じました。


世界の見方が変わる、ということで言うと、メソアメリカ(中米)研究者の青山和夫氏が著書「古代メソアメリカ文明」の中で次のように指摘しておられたので紹介させていただきます。

 

         *****


             (引用ここから)


脱・「四大文明」史観


日本において「世界の古代文明」といえば、旧大陸の四大文明を指し、あたかもアメリカ大陸を除外するような大変残念な傾向がある。


この「世界四大文明」という、世界的に見てもきわめて珍しい人類史観が日本で最初に登場したのは、第二次世界大戦後の世界史の教科書においてであった。


これは旧大陸の四つの大河流域(チグリス・ユーフラテス河、ナイル河、インダス河、黄河・長江)の肥沃な平地で、大規模の灌漑・治水事業が発達して大文明が最初に起こり、以降の文明はこの流れを汲む、という古い考えである。

その結果「世界六大文明」を構成したアメリカ大陸の文明、特に古代メソアメリカ文明は日本ではまだあまり知られていない。


そればかりか、「謎・神秘の古代文明」としていろいろと誤解されている。


中南米の古代文明として一括して「インカ・マヤ」「インカ・マヤ・アステカ」、という風に同一視され、混同されていることが多い。


こうした“インカ・マヤ・アステカ・シンドローム”とも言うべき同一視と混同は、西洋中心主義的な世界史の教科書によって形成されてきたと言っても過言ではないであろう。


日本の「世界史」という教科は、東洋史と西洋史を中心に成り立っている。

しかし「世界六大文明」を構成したメソアメリカ文明とアンデス文明の適切かつ十分な記述抜きに真の世界史とは言えない。


人類史を正しく育成するためには、旧大陸と新大陸の古代文明を対等に位置付けなければならない。


バランスのとれた真の世界を学ぶためには、コロンブス以前のアメリカ大陸の歴史の質量ともに充実した記述が欠かせないのである。


20世紀の半ばまで、マヤ文明は西暦250年ごろに熱帯雨林で突如起こり、周辺地域から孤立して発展した戦争のない平和な文明だと誤解されていた。


そこは都市なき文明であり、一握りの神官支配層が人口の希薄な空白の儀式センターで、天文学、芸術、暦の計算や宗教儀活動に没頭していた、とされた。


農民は儀式センター周辺に散在した村落に住み、一様に農業に適さないマヤ低地においてトウモロコシを主作物とする焼き畑農業だけを行ったと考えられた。


そして9世紀に突如崩壊し、退廃していったと論じられたのである。


だが、新しいマヤ文明観によれば、その起源は紀元前600年に遡ることが分かっている。


そしてマヤ文明は周辺地域との交流を通して徐徐に発展した都市文明であった。


そして9世紀に“突如崩壊した”のではなく、一世紀以上にわたって部分的に衰退したのである。


マヤ文明は16世紀にスペイン人が侵略するまで、社会全体としては発展し続けたのである。


古代メソアメリカ文明はわれわれ人類の歴史の重要な一部であるだけでなく、現代からも隔絶したものではない。


中米で独自に発展した古代メソアメリカ文明は、16世紀以降も子孫の先住諸民族は千数百万人を超え、今日に至るまで形を変えながら、先住民文化を創造し、力強く生き続けている。


現代メソアメリカの文化は地球の反対側で現在進行形の生きている文化・伝統なのである。


      (引用ここまで)


             *****



四大文明から六大文明へと歴史観を修正することで、ユーラシア大陸を中心にした歴史観に欠落している視点を加え、世界観を修正する必要がある、

また、マヤとインカの文明はそれぞれ別の、中米と南米の先住民族の生きた文化なのだ、

西洋人はそれらをいっしょくたにして、なにか「神秘的な古代文明」であるかのように扱うが、それらの文明が「神秘的」に見えるのは、それらの文明を跡方がなくなるほどまでに破壊して、最早“誰にも分からないもの”にしてしまった西洋人の責任である、

西洋人は他の文明を破壊したことに対する責任を放棄している、

マヤやインカの文明を「神秘的」であるとする風潮は、生きた他民族の文明を理解できない西洋人の錯誤に満ちた無理解に他ならない、

という青山氏の説は、力強く、正しいと思います。


本当に、コロンブス以前のアメリカ大陸の文明について、ちょっとした話を知るだけで、世界の歴史観は大きく変わり得ると思います。


しかし同時に、マヤ文明とインカ文明を、別々の独自で生きた文明であると考えた場合にも、それらの文明や、オルメカ文明という“密林の古代文明”は、やはりどうにも説明しがたい深い秘密をはらんでいるのではないか、という思いがして、その「謎」を捉えるのは簡単なことではない、という気持ちが残ります。


四大文明にせよ六大文明にせよ、不思議なことに、わたしたちはいまだ、「文明はなぜ出現したのか?」という根本的な問いに対する答えを持っていない、、という思いに立ち返ってしまうのでした。



オルメカ文明についての調べ物は、少しずつ続けたいと思います。

「マヤ文明の源泉」は、本ブログの中心テーマである「ホピ族の文化の源泉」とも直接的な関わりがあることと思っています。

答えが出ないこととは思いますが、出来る限りの努力をしてみたいと思っています。



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