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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

マタギの世界(1)・・北方の山の神と、山人(やまうど)の生活

2014-06-27 | 日本の不思議(現代)



マタギの習俗のことを、もう少し調べてみたいと思いました。

佐々木高明氏の「山の神と日本人」という本を読んでみました。

この本は3部で構成されていて、各部のタイトルは以下になります。

1部・農民の山の神と、山民の山の神
2部・南からの焼畑文化と、山の神の信仰
3部・山の神・畑の神信仰と、北からの文化

第1部では、「山の神」を柳田国男氏達が規定したような、稲作文明と共に定着した、祖霊としての神、山と里を行き来している神であるという説に対して、日本人=稲作農耕民という単一の視点の否定を試みています。

山の神=先祖でない場合がある。
山の神=山と里を行き来しない場合がある。


第2部では、広くインドから東南アジアの狩猟と農耕の習俗を調査して、日本の習俗と共通するものを探しています。

日本の民俗学を世界的な視野で見る=民族学的な視点を提唱しています。

そして、それらの東南アジア諸族の習俗との共通項は、日本においては「焼畑文化」において見いだせると述べています。


第3部では、北方民族の習俗と北日本の習俗の共通項を調査しています。

そして、「東北日本の山の神信仰の基層にあるもの」「東北日本の畑神信仰の基層にあるもの」「焼畑農耕民の狩猟と狩り祭りの象徴的意味」について述べています。


この箇所では、「東北日本の山の神信仰」を継承してきた者が、すなわちマタギであると規定されています。

そして、「焼畑農耕民と狩猟文化」の関連については、東北から日本全体に目を転じて、広く日本の民俗を考察しています。

私はマタギについて調べたかったので、この第3部の部分をご紹介しようと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

 
               *****


             (引用ここから)


東北地方では「山の神信仰」は、具体的にどのような形で村人たちの間で生きてきたのだろうか?

新潟の朝日山地の深雪地帯に立地する三面(みおもて)では、住民たちは自らを山人(ヤマウドあるいはヤマプト)と呼び、伝統的には秋から春の時期には熊やカモシカの狩猟とゼンマイなどの採集の活動を盛んに営み夏には「カノ」と呼ばれる焼畑と小規模な水田稲作農耕を行っていた。

一年の大きな節目にあたるのは、初冬の「山の神祭り」である。

祭には、弓矢と駒形、12個の餅と酒、もち米のシトギを供え、その後酒宴が行われた。

「山の神は大事なもので、獲物をくれるか、くれないかは山の神にかかっている」と村人たちは言う。

クマ狩りから帰った晩には「七串焼き」と称して熊の肉の塩焼きを山の神に供える。

捕った熊の脚の付け根の尻肉の小片を串に指して焼いたものを七つ用意し、水垢離を取った者がこの串を杓子の中に入れ、それを捧げて「ユトガケ」の唱え言を言う。

「ユトガケ」は、十二山の神に対して「山の作法にそむきませんので、バチを当てないでください」という誓いと願いの言葉で、この唱え言が終わるまで何人も熊の肉を口にしてはならない。

山人(ヤマウド)と自称する三面の村人の、山の神への深い祈りは、奥山を舞台に展開される狩猟にかかわるものが多い。


それに対し、里山で夏に営まれるカノ(焼畑)では、「山の神」へ祈りを捧げることもなく、「山の神」への儀礼的行為は全く行わない。

水田稲作では、収穫祭にあたる「オカリアゲ」の行事が行われるのみで、その他の田の神への祭りもほとんどない。

この村では、田の神はもともと山の神様で、山から下って来て田の神になるという伝承は存在する。

しかし「十二山の神」として祀られる「山の神」のそれと比較してきわめて希薄であることは否定できない。


日本列島に展開されてきた「山の神信仰」には、かなり大きな地域差が認められる。

そうした地域差がどうして生み出されてきたのか?


私はその最大の要因は文化系統の相違にあるのではないかと考えている。

つまり東・西の「山の神信仰」の差異の基層には、それぞれ異なった系譜をもつ文化が存在するのではないかということだ。


また前章で、「焼畑民」の「山の神信仰」を中間にはさんで、「山民の山の神」から「稲作民の山の神」へ、「山の神」信仰の展開が跡付けられることを主張したが、

それと同時に、焼畑農耕との結びつき(すなわち、「地もらい」や儀礼的狩猟、その他の儀礼的行為)が顕著に認められるような「山の神信仰」が明瞭に跡付けられる地域は、西日本の照葉樹林帯にほぼ限られることも明らかになった。

日本列島の「山の神信仰」は、全体として単一・同質ではなかったのである。


中部インドから東南アジア・中国南部を経て西日本に至る、照葉樹林帯一帯とその周辺における、焼畑農耕民の信仰する山や森を支配するカミ(精霊)の観念やその儀礼の特色には、類似する点が極めて多い。

それらの「山の神信仰」は、照葉樹林帯に見られる他の共通の文化要素と共に、文化クラスターを構成する重要な文化的特色の一つとみなされている。


ということは、西日本の照葉樹林帯に広く見られる「山の神信仰」は、その文化史的系譜を辿ると、アジア大陸の照葉樹林文化に連なるものとして考えられる。

しかし、東北日本の「山の神信仰」の特色の中には、このような照葉樹林文化に由来すると思われる文化的特徴はきわめて希薄である。

もちろん稲作文化の進出にともない、「山の神」、「田の神」の去来伝承も東北日本に伝えられたし、西日本の「山の神信仰」にともなうようないくつかの要素も存在しないわけではない。

しかしそれらの存在形態は、西日本のそれと明瞭に相違している。


その相違の基底にあるものは、シベリアに連なるような「北からの文化」の影響がやはり無視し得ないのではないかと思われる。

日本列島への、北からの文化の伝来については、照葉樹林文化のそれほどには明らかになっていない。

しかし、東北アジアの採取狩猟民文化のうち、アムール川流域からサハリンに住むニブフ族に代表される文化は、沿岸定着漁労民型として類型化することができ、その文化の特徴は日本列島の縄文文化の特色とよく類似する。

こうした採取狩猟段階や農耕段階の「ナラ林文化」の伝承に伴い、熊をはじめ大型動物を「自然界の主」とする信仰、あるいは森や山に住む精霊(カミ)の信仰、さらには「去来する畑神」についての信仰や儀礼なども、日本列島の北部に伝来したのではないかと思われる。


            (引用ここまで)


              *****


著者はとてもていねいに書き進めてゆきますが、西日本には南方からの文化が基底にあること、そして仮説として、東北北部には北方からの文化が基底としてあると述べています。

しかしそれは今まであまり顧みられることが少なかったし、資料的にも少ないのであると述べています。


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中国最古の原始文字か、5000年まえ・・良渚文化の遺産

2014-06-25 | その他先史文明



「5000年前、中国最古の原始文字か」   読売新聞2013・07・10


9日付の中国誌「光明日報」によると、中国江省平湖市の庄橋墳遺跡から約5000年前のものとみられる原始文字が見つかった。

中国最古と見られる甲骨文字が使われていたのは約3600年前で、今回見つかった原始文字が中国最古のものとなる可能性があるという。


同遺跡は新石器時代の「良渚(りょうしょ)文化」に属し、約5000年前のものとされる。

2003年~2006年の調査で約240点の陶器や石器を発見。

その中の石製の「まさかり」の表面に浅く刻まれた複数の跡があり、紙の上に書き写したところ、旗や魚などの形になった。




画数が5画以内の簡単な記号も6つ並び、そのうち2つは現在の「人」によく似ていた。

他の石器や陶器にも同じような跡が残っており、江省文物考古研究所の研究員が、当時使われていた原始文字の一種と判断した。

考古学専門家は同誌に対し「中華文明のプロセスを知る上で、重要な学術的意味をもつ」と説明した。


Wikipedia「良渚文化」より

良渚文化(りょうしょぶんか)は、長江文明における一文化。

紀元前3500年ころから紀元前2200年ころにみられた。

1936年、浙江省の杭州市良渚で発掘された。

沢文化などを継承しており、黄河文明の山東竜山文化との関連も指摘されている。

柱形・錐形・三叉形など多様な玉器の他、絹なども出土している。

分業や階層化が進んでいたことが、殉死者を伴う墓などからうかがえる。


○提唱されている学説

近年、長江文明研究の進展により、良渚文化は夏や殷王朝に比定されている。

また、黄帝の三苗征服伝説を、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化による三苗(ミャオ族)征服の痕跡とみなし、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もある。


徐朝龍によれば、良渚文化は稲作都市文明を形成していた。

1000年ほどの繁栄を経て、洪水でこの文化は崩壊する。

良渚文化集団の一部は北上し、黄河中流域で夏王朝を興した。

やがて夏王朝は支配下にあった東夷后羿(こうげい)部族に倒される。

夏王朝の遺族の一部は北西に逃れ、匈奴、のち四川盆地に移住し、三星堆文化を築いたとする。


HP「三星推文化」


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役行者と道教と、修験道と弁財天・・鬼のすがた

2014-06-23 | 日本の不思議(古代)



引き続き、「日本のまつろわぬ神々」という本の中から、役行者について述べている斎藤栄喜氏の文章をご紹介します。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

         
             *****


           (引用ここから)


「修験道」の開祖である役行者は、後世「神変大菩薩」と呼ばれる「神」となった。

各地の霊山や山岳寺院には、そうした役行者の像が安置されている。


左右に「前鬼・後鬼」の鬼神をしたがえ、その風貌はどこか日本離れした独特な姿である。

そう、中国の仙人を思わせる風貌だ。


「修験道」の開祖たる役行者は、なぜ「仙人のような姿をしているのか?

そして彼の下に控える「前鬼・後鬼」とは、いったい何を象徴しているのだろうか?


さまざまな伝説や物語に彩られた役行者であるが、彼は歴史記録に登場する実在の人物である。


葛城山で役行者は、どのような呪術を行使したのか?

それを教えてくれるのが、奈良時代末期から平安初期に編まれた仏教説話集「日本霊異記」である。

それによれば役行者については「孔雀王呪経」をよむことで、「孔雀王の呪法」を身に着けたとある。

「孔雀王呪経」とは、奈良時代に日本に入った雑密系の経典である。

「雑密」とは、平安時代に空海がもたらした真言密教のような体系的、哲学的ではない、どちらかと言えば呪術オンリーの密教のことをいう。

奈良時代には、「雑密」がけっこう流行っていたらしい。

ちなみに「孔雀王呪経」は、奈良時代の怪僧として有名な弓削道教も、東大寺の書庫から借り出して学んでいた、という記録もある。


「孔雀王呪経」には、大きく二つの効験があった。

一つは孔雀は毒蛇を食べるので、「毒を制する」すなわち病気治しの力である。


もう一つは蛇を食することで蛇神=水神をコントロールするということから、雨乞い祈祷に使われた。

なお平安時代の空海にも、京都の神泉苑で「孔雀王呪経」を使って雨乞いをした記録がある。


しかし「日本霊異記」が伝える、役行者の葛城山で修行している様子は、あまり仏道修行らしくない。

五色の雲に乗って大空を飛んだ、、仙人たちが住む宮殿で遊んだ、、その庭園で心身を養うパワーを身に着けた・・その様子はどう見ても仏道修行というよりも、不老長寿の力を得る仙人を目指した道教的なトレーニングに近い。


仙人の修行と「孔雀王呪経」とが、一体になっていたのである。


いったいなぜ「雑密」の経典が、仙人になる為の修行と結びつくのか?


「孔雀王呪経」の記述には修行の最終段階に「アナンダ、汝はもろもろの大仙人たちの名前を称え、念じよ」とある。

その名前を見ると「バマキャ大仙人、マリシ大仙人、マケイダヤ大仙人・・・」といった古代インドの古い神々がそのまま仙人として呼ばれていることがわかる。

このへんは難しいところだが、おそらくインドから中国に経典が伝わったときに、インドの土着の神々が中国では仙人たちと認識され翻訳されたのではないか?


つまり仏教と道教とが習合していった姿だ。


役行者が仙人を思わせる風貌なのは、どうやらこのあたりの問題とリンクするのだろう。


孔雀王の呪法を身に着けた役行者は、鬼神を自由に操る力をもった。

役行者が鬼神に命じたのは、葛城山から金剛山への橋を架けることであった。

それは修行の道場の拡大、信仰圏の広がりを暗示していよう。

その時、葛城山を支配する山神・一言主大神が、役行者と対抗し、彼を謀反人とする託宣を下した。


一言主大神は「記紀」に登場する、雄略天皇も恐れた最強の託宣神だ。

神の託宣には対抗できず、役行者は伊豆に流されるが、最後は「仙人」となって天空へと飛翔、そして姿を消してしまう。

一方「一言主大神」は谷底に呪縛されて動けないようにされたという。

「今昔物語集」には、「谷底からは神のわめき泣く声がいつまでも聞こえた」という別伝もある。


このエピソードには、「修験道」という新しい山の宗教と、在来的な山神信仰との拮抗、対立の歴史が秘められていよう。

「修験道」なるものは、各地の山神達を統除、支配することで初めて成り立ったということが暗示さてれているのだろう。

役行者の左右に従っている「前鬼・後鬼」とは、屈服した山神達の成れの果ての姿と言えなくもない。


ところで役行者については、「修験道」と言えば、忘れてはならないのは「蔵王権現」の存在である。

金剛杵を持った右手を振り上げ、右足を大きく蹴り上げたその特異な相貌は、「修験道」の本尊ともされる。

仏教経典や「記紀」にも載らない、まさに日本が独自に作りだした尊像だ。

役行者は、吉野の山で修行中、衆生を救うべく祈りを続けた。

恐ろしげな形相の尊格こそが衆生を救済できるという発想には、荒々しい修行によって超人的な呪能を獲得していく修験道の特徴が見てとれるだろう。


「蔵王権現」の前歴は、吉野の山の金精明神という地主神であったともいう。

宗教史的には、役行者によって呪縛させられた一言主大神が変貌した存在とも考えられよう。

ちなみに奈良県吉野郡天河村に鎮座する天河神社は、弁財天を祭神とする「修験道」の伝統を今に伝える神社であるが、その宮司を勤める家は、役行者に従う「前鬼・後鬼」の子孫という伝承を持つ。

したがって天河神社の節分行事では、「鬼は外」ではなく、「鬼は内」という掛け声で豆まきをしている。

また宮司家では節分の前後に「神迎え」なる行事を行うが、「鬼迎え」とも呼ばれている。

山中からやって来た鬼が寝具に入る前に、汚れた足を洗うたらいが用意されている。

翌朝見ると、底には泥がたまっているのだという。


            (引用ここまで)


             *****


「日本の異端と正統」というテーマを考えている者としましては、神仏習合と同時に、上に書かれているように、中国文化との習合が、重いテーマとして考えられると思います。

神仏習合と同時にまた、仏教と道教の習合も行われていたのであろうと思われます。


そのあたりが、不思議なことに、あまり明文化されていないことに、たいへん興味を感じます。

すなわち、明文化しなかったには、それなりの理由があったのであろうと思われるからです。



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元気の素を、ありがとうございます。^^

2014-06-21 | 心理学と日々の想い



ブログを読みに来てくださる皆様へ

最近私事で忙しく、ここ半年ほど一日おきに朝に更新できていたものが、更新に少々手間取るようになってしまい、悲しく思っております。

私といたしましては、ブログを見てくださる方がいらっしゃることに、ほんとうに驚き、また、毎日の喜びの種でございます。

いつも、心から感謝申し上げております。
ありがとうございます。


最近は、一つの記事ごとに、「ブログ内関連記事」として関連記事にリンクを張って、過去の記事をご紹介するようにしていますので、私的にはひと手間多くかけることになりました。

しかし、これは意味のあることであろうと思っておりまして、また、おかげさまで、記事は600件近くになっており、私独自の関連付けでブログ内にリンクを張れるようになれ、とても嬉しく思っております。

遅々たる歩みではございますが、これからも、お手すきの折に読みにいらしていただけるブログを継続できますよう、努力する所存でございます。

今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

veera 拝





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北斗七星と天女たち・・伊勢神宮・外宮の豊受大神は星の精

2014-06-20 | 日本の不思議(現代)



引き続き「まつろわぬ日本の神々」から斎藤英喜氏の「豊受大神・伊勢外宮へ遷座した未来の「天帝」という文章をご紹介したいと思います。

なかなかスリリングな説が展開されています。

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              *****

       
            (引用ここから)


要約すると、昔、丹後国丹波郡のひじ山の山頂に「真名井」と呼ばれる泉があった。

そこへ8人の天女が水浴するために舞い降りた。

そこに和奈佐という名の老夫婦が現れ、一人の天女の羽衣を隠した。

天に帰れなくなった天女を養女にして十年以上一緒に生活した。

その間天女は自分の口で穀物をかみ砕いて唾液を混ぜて、文字通り〝かも(噛むが語源)した”、万病に効く酒を作って、老夫婦を富ませた。


しかし後に家を追われ、竹野郡の船木の里の、奈具の村に留まった。

これが竹野郡の奈具社の「豊宇賀能命」である。


「トヨケ儀式帳」によれば、このトユケの神が天照大神が伊勢の五十鈴川に鎮座してから482年後の、雄略天皇22年(478)、丹波国ひじ真名井原から伊勢の山田が原に迎えられたのである。

すなわち、雄略天皇の夢の中に天照大神が立たれて、「われは高天原にいた時、求めていた宮処にしずまることができた。

しかし一所にいるのはまことに苦しい。

大御食を安らかに召し上がることができない。丹波国ひじの真名井から豊受大神を迎えてほしい」と告げたという。


これが伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)の始まりである。

すなわち豊受大神は、丹波のひじの真名井に舞い降りた天女の一人だったのである。


比較神話学によれば、こうした天女はいずれも〝星の精”であったらしい。

トユケ一人を地上に置いて天上へ帰ってしまった他の7人の天女たちは、当然、「北斗七星」を想起させる。

そうだとすると、トユケは何に相当するのか?


ところで、「北斗七星」の第6星の外側に、実は「補星」と呼ばれる小さな星がついている。

和名を「そえ星」というが、これを加えると8星になる。


「北斗七星はこの星を入れると8個で、陰陽道ではこの星を重視し、「金輪星」といって信仰の対象にしている」(吉野裕子著「隠された神々」)という。 

この金輪星=そえ星は、8人の天女の一番下の妹のトユケだったのである。


しかしこの説に従うと、トユケが「北斗七星」に付随する存在になってしまう。

伊勢神道のようにトユケを最高神として捉えることはできなくなってしまう。


ところがこの「そえ星」は、単なる助星ではないのである。

周知のように、地球の回転軸(地軸)は公転面にたいして約66・54度傾いているが、それが逆の方向に揺れた時、この助星は未来の北極星になるらしい。

未来の天帝=「太一」の座に、トユケが座るのである。

つまりトユケの大神は、釈迦の涅槃の56億7000万年後に兜率天からこの世に降臨するという、〝未来仏”としての〝弥勒菩薩的存在”だったのである。

今日の宗教を見ていると、自らはまったく意識していないけれど、紫微宮の、未来の天帝に座すトユケの降臨を願って祭っている教団が何か所か、あるような気がする。


            (引用ここまで)


             *****


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伊勢神宮・外宮の豊受大神・・隠された神としての北極星

2014-06-17 | 日本の不思議(現代)


「まつろわぬ日本の神々」から斎藤英喜氏の「豊受大神・伊勢外宮へ遷座した未来の「天帝」という文章をご紹介したいと思います。

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               *****


              (引用ここから)


豊受大神は、伊勢神宮の「外宮」に祀られている神である。

トヨウケの“ウケ”は、稲荷神社の祭神である穀物神の“ウカノミタマ”の“ウカ”と同一の語源である。

延喜式祝詞の大殿祭の祝詞に「屋船豊宇気姫命」とあり、トヨウケは“ウカノミタマ”と同一神と考えられている。

そのために、伊勢神宮における豊受大神は穀物神として、天照大神のミケツ神として、食物を調達し、農業をはじめ諸産業を司る神として崇敬されている。


ところが伊勢神宮では「外宮先祭」という言葉があるように、重要な祭りはすべて、まず「外宮」から始められることになっている。

それは豊受大神が天照大神の招きで丹波から伊勢へ遷座した際、天照大神の方が言いだした約束事であった。

しかし人間というものは、神同士の幽契にもなにか裏がありそうだとの疑いをはさみたがるものだ。


本来、神宮では「内宮」と「外宮」との間には上下関係はない。

しかし“内”・“外”という名称があたえるイメージや、さらに「内宮」が皇室の祖神であり、さらに太陽神にも擬せられている天照大神を祀っているのに対し、「外宮」のほうは天照大神の食物神としての豊受大神である。

したがって「外宮」は「内宮」に比べると、どうしても低く見られてしまう傾向がある。


そうした中で、アメノコヤネ命を祖神とする大中臣氏の子孫である「内宮」の荒木田神主に対し、伊勢国造の子孫を称し、

本来は両宮の大神主だった度会氏としては、その対抗意識からいっても、「外宮」の祭神の方が上位にあることが好ましかった。

そこで登場してきたのが、「外宮」を中心に発達した伊勢神道であり、度会神主たちは、「豊受大神は実は宇宙の本源神の国常立命、その働きを担当する天御中主=大元神だ」としたのである。

すなわち、「外宮」の神は「記紀神話」における天照大神の出生以前の、宇宙創造神・最高神であるから、天照大神よりも尊貴になる、と主張したのだ。


この伊勢神道の経典がいわゆる「神道五部書」で、吉田神道や、江戸時代の神道思想にも大きな影響を与えた。

この「神道五部書」を読むと、トヨウケはスサノオやツクヨミとも同一神であった可能性がでてくるのである。

さらに天地開闢の際、アマテラスとトヨウケとの間には交代に月となり日となって天下を治めようとの「幽契」までもがあったとされている。

ここには大本教の「国祖引退の神話」の中でのアマテラスとクニトコタチの地位逆転と、神政成就後の再逆転の話を髣髴とさせる契機が含まれている。

すなわち伊勢神道は、現代の神道系の新宗教の教学に、今もって深い影響を与えているのである。


さらにややこしいことに、民俗学者・吉野裕子風に言えば、“隠された神”としての「太一」の存在がある。

「太一」とは北極星を神霊化したもので、中国の道教思想では“天帝”と呼ばれ、紫微宮に住み、最高神として宇宙を支配している。

この「太一」の神が、伊勢神宮に深く関係している。


といっても、いわゆる「内宮」と「外宮」のどこを探しても、「太一」の痕跡すらない。

完全に埋没してしまっているのである。

やはり北極星といえども、“星神”は日本においては太陽神の光明にはかなわないようだ。


しかし神宮の直接のご神域を出ると、伊勢や志摩の周辺では、お田植え祭りや、神社の祭礼の時、必ずと言ってよいほど、「太一」と記したのぼりが立てられる。

また二十年に一度の神宮のご遷宮のためのご正殿の検建築用材のご神木を運ぶ“お木曳き”のときにも、「太一」の木札が用木の上に立てられたりするのである。

つまり民間レベルでは、伊勢神宮は「太一信仰」から成立しているといえる。


民俗学に陰陽五行という独創的な視点を入れた吉野裕子氏は、「神々の誕生」の中で、「天照大神の荒御霊を祀った「内宮」の「荒祭宮に、天武朝以来、全くの秘密裡に「太一」は祀られ、千数百年を経たわけである」と述べ、

またそれに先立つ「隠された神々」の中では、「内宮」は「太一」を、「外宮」は「北斗七星」を祀っていると考証している。

しかし伊勢神道のトヨウケ=クニトコタチ=アメノミナカヌシ=スサノオという構造を考えれば、むしろ「太一」は「外宮」のトヨウケの方がふさわしい。

実際トヨウケの出自からしても、その方がふさわしいのである。


ちなみに「伊勢風土記逸文」を見ると、「アメノミナカヌシの十二世の孫」として、度会氏の祖にあたる「天日別命」の名がでてくる。

トヨウケあるいはトユケの神は、「古事記」の「上つ巻」のニニギの天孫降臨の段で「次に豊受の神、こは外つ宮のわたらいにます神なり」として登場してくる。

つまり「古事記」では、高天原から天下った天つ神らしいという程度しかわからないのだ。

しかし「丹後国風土記逸文」を見ると、この神の出自がわかる。


             (引用ここまで)


             *****

伊勢神宮という、日本人の心の原点のような場所が、じつは一筋縄ではいかないたくさんの謎を内包していることに、いつもとても不思議な気持ちになります。

伊勢神宮が、日本の宗教性の中心であるとすると、その謎のありかを探ることは、日本の謎を解くことでもあることでしょう。

なにが正統で、なにが異端なのか、異端とはどういうことなのか?
しっかりと考えてみたい問題だと思います。


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神々と交信する人々・・青ヶ島のハヤムシ(2)

2014-06-15 | 日本の不思議(現代)


引き続き、「日本のまつろわぬ神々」の中の菅田正昭氏の「ハヤムシ・青ヶ島に息づく正体不明の神」という文章をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



          *****

   
       (引用ここから)


このトウダイ所には現在、東台所神社が鎮座している。

そして祭神は一応大己貫神(おおなむちのかみ)ということになっている。

この祭神は、明治初年、官命を奉じて伊豆七島式内官社調査のために八丈島まで渡って来た、国学者の萩原正平が、トウダイ所神社を村社として申請するために当てた祭神である。

正平が「オオナムチ」を当てた理由は推測するしかないが、新神・浅之助、とその後を追った恋人・おつなの両名が、青ヶ島では縁結びの神の役割をしていることから、大国主を想起させ、

次に「ハヤムシ」という名から大国主の和魂である蛇体(古代人の感覚では蛇も虫の一種)の大物主神を考え、更に大国主=大物主の別称である大己尊神(おおなむち)をあてようとしたのかもしれない。


ともあれ、東台所神社の祭神を大己尊神とすることで、明治8年12月28日づけで、東台所神社は足柄県令柏木氏から、青ヶ島総鎮守の大里神社とともに村社との指定を受けるのである。


ところが、青ヶ島では今日でも、誰一人として東台所神社の祭神は「オオナムチ」とは思ってもいないのだ。

新神・浅之助・おつな神・「ハヤムシ」の三柱を祭神と考えているのだ。



それどころか、青ヶ島では明治初年の神仏分離以前の、江戸時代の神仏習合の信仰が、神主、卜部、社人、巫女、などの祭祀集団と共に残っているのだ。

そのため青ヶ島は、民間信仰のレベルでは神の島と言われるほど、伊豆諸島では一番神を祀った場所がたくさん点在している。

人口200人を大幅に割ってしまった全国最小村の島なのに、人間より神の方が多いと言われるほどなのである。


「神の島」であるにも関わらず、国や都の公式文書を見ると、現在の青ヶ島にはただの一か所の宗教施設も存在していない。

すなわち、青ヶ島を除く伊豆諸島・小笠原諸島では、人間が住んでいる島なら最低一か所以上の神社とか寺が宗教法人として登録されているのに、青ヶ島はゼロになっているのである。

昭和20年までは村社が二か所もあったのに、である。


実はこれは交通不便が理由だったらしい。

青ヶ島では昭和47年の村営連絡船の就航まで、40日前後の欠航が年に数回もあった。

当然、それ以前は3か月程度の外部からの遮断も珍しくなかった。

そのために昭和31年の参議院選挙まで、青ヶ島の人々には選挙権が無かった。

公職選挙法施行令の特別条項の規定によって、国政、都政レベルでの選挙権が奪われていたのである。

当時、無線電信の施設もなかったので、投票結果を送ることができないという理由からだった。

こうした不便さによって、青ヶ島は宗教法人の登録手続きから除外されてしまった。

おそらくその通知さえ来なかっただろうし、たとえ届いてもすでに時遅しではなかっただろうかと思われる。


しかしそれゆえに「ハヤムシ」は「ウシトラノコンジン」や「キミマンモン」と同じ位相になっていると言えるのだ。

もちろん「ハヤムシ」は、中山みきや出口ナオを出現させることはできなかったが、それでも同じ役割を、今も果たしているのである。

青ヶ島の巫女たちは恐山のイタコや沖縄のユタと同じく、民間信仰における神がかりの巫女である。

と言うより青ヶ島という離島空間のシステムからいえば、青ヶ島の巫女は琉球王朝時代のノロに近い。

いずれにせよ、神々と交信できるという点では、神社神道の若く美しい巫女とはまったく違う。


そして「ハヤムシ」は青ヶ島では、この神がかりに深く関係している。

実は八丈島にも、少し前までは託宣する巫女がいたらしい。

しかも、そういう女性たちがいずれも青ヶ島系で、この「ハヤムシ」を祀っていた。

八丈島の一般島民もまた、ひそかにこの神を信仰していたりするのである。


八丈島や青ヶ島では、神社の社殿の裏手に、玉石垣の「石場」と呼ばれる、本来は信仰の中心地だった聖地がある。

そこには苔むした祠が奉納されているが、その苔をはがして神名を見ると、圧倒的に「ハヤムシ」と彫られていることが多い。

その「ハヤムシ」が病気を治したり、しばしば託宣をするのだ。


更にこの「ハヤムシ」は、小笠原の父島の、定頼神社の境内にも祀られている。

そこには新神「ハヤムシャ様」を祀った石場宮があって、それに彫られた由緒を見ると、これが大正7年に啓示によって建てられたことが分かる。

昭和20年の敗戦を契機に、アメリカ軍の目を恐れた島民によって地中に埋められ、昭和43年6月26日の小笠原諸島返還の日に、その事情を知っている欧米系島民(都・村では在来島民と呼ぶ)によって掘り起こされたという、いわくつきの因縁の祠である。

もう紙数が尽きたが、「ハヤムシ」は青ヶ島固有の“隠れたる神”として、今なお息遣いを細々としているのだ。

そして青ヶ島には「タコトンゴ」などという全く何語かも分からない意味不明の、あたかもオーストロネシア系の音韻を髣髴とさせる神までも、存在しているのである。


              (引用ここまで)
 
                          (写真は同書イラストより)


                *****


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青ヶ島の「ハヤムシ」(1)・・離島のたたり神

2014-06-13 | 日本の不思議(現代)


「日本のまつろわぬ神々」の中の菅田正昭氏の「ハヤムシ・青ヶ島に息づく正体不明の神」という文章をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****


            (引用ここから)


ハヤムシ トウダイ所にアリ

「ハヤムシ」は伊豆諸島南部の青ヶ島に固有の神である。

正式には「テンニハヤムシサマ」と言い、漢字で書けば「天野早耳者様」ということになる。

その初書は、八丈島流人の近藤富蔵が書いた「八丈実記」である。

そこに次のように出てくる。

この箇所がはじめて活字になったのは、昭和44年3月のことである。


「○新神 ハヤムサ

とうだい所にあり、これは宝暦七年正月十五日青ヶ島名主倅浅之助、斧をもって七人切殺し四人に手を負わせ入水して自滅せり。その霊祟りをなすによりて祭る」

青ヶ島には「浅之助伝説」と呼ばれるものがあって、伝説上の浅之助は住民の手によって処刑されている。

浅之助の祟りを恐れた住民によって、彼の霊魂が「新神」として火山島・青ヶ島の海抜400メートルを超える外輪山の一峰であるとうだい所に祀られた時、すでに「ハヤムシ」はそこに鎮座していたのだ。


しかしこの「ハヤムシ」という神の正体がわからない。

「ハヤ」は「チハヤブル」の「ハヤ」で、「速い」とか「威力のある」という意味の「速」、「早」をあてるにしても、「ムシ」がわからない。

一番無難なのは「虫」である。

浅之助伝説によれば、浅之助は死後祟りをしていたと言われるが、浅之助の御霊が「虫」に変じた可能性はある。

実際、八丈島では「豊菊」という女流人の怨霊が「トヨ虫」になったという伝説も残っている。

すなわち、村の西外れにある東大所は、そうした害虫を虫送りした場所と考えることもできる。

更に「ムシ」の語源である「ウムス」(生まれる、発生する)という語に戻して考えると、「テンニハヤムシ」は「天之速産霊」の漢字を当てはめることもできる。

もちろんそういう神名は、「記紀」には出てこない。

実は青ヶ島では「ハヤムシ」の音韻は、ハヤムサ、ハヤムシ、ハヤムシャ、ハヤフサの間で微妙に揺れ動いているのである。

すなわち、音韻学的には確定していないのである。

そこで音韻が類似している語からも想像することが可能となる。

たとえば「ハヤムシ」あるいは「ハヤムサ」が「ハヤボシ」(速星、早星)と言う名の一番星とか流星・彗星だったかもしれないし、鳥の「ハヤブサ」であったかもしれないのだ。

そこに天という語を冠しても、それなら説明ができるのである。

あるいは半ば冗談に、“天に速星”はUFOであり、トウダイ所はそのUFOを導いた灯台があった所だ、と説明すると、それも通じてしまう。





              (引用ここまで)
 
                          (写真は同書イラストより)


                *****


たたり神なんて、怖いなぁと思いながらも、なぜか気になります。

太宰府の菅原道真と同じですから、道真が神なら、この罪人も神かもしれません。

そして、虫も神なのかもしれません。




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神と仏を重ね合わせる・・中世・比叡山の天台宗と、神仏習合(4)

2014-06-10 | 日本の不思議(中世・近世)


引き続き、黒田龍二氏の「中世日吉社における神仏関係とその背景」という講演をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****

         (引用ここから)


<「下殿」の形成>

最初に述べたように、「山王宮曼荼羅」を見ると、本地垂迹説の関係が極めて明瞭に示されている。

そして(しかし?)江戸時代には、本殿の床上内陣に神像が祀られ、床下の下殿には本地仏が祀られていた。


それでは下殿が床下に作られた理由は、本地垂迹説に基づいて仏像を祀ることだったのかというと、わたしはそうは考えていない。


本地垂迹説は仏を上位に置く考え方で、「山王宮曼荼羅」でも仏が上に描いてある。

またそのような単純な上下の関係以外にも、先に見たように下殿には下層民を中心とするいささか猥雑な世界が広がっていた。

したがってはじめから本地垂迹説に基づいて下殿を設け、本地仏を祀るということではなかっただろうと思う。


一般的な事例を見ても、本地仏は理念上のものである場合、あるいは神社の近辺に神宮寺や本地堂を作って祀る場合、または仏像を神体とする場合が多い。

本殿床下に本地仏を祀るという事例は「日吉社」以外には知られていないのである。




もう一つの考え方としては、「反本地垂迹説」がある。

これは神主仏従、神本・仏従と表現されるように、本地垂迹説を逆転させたものであるから、神が上で仏が下というのはちょうどよいことにはなる。

しかし本説の形成期は鎌倉時代後期から南北朝期で、大成されたのは室町時代とされる。

一方下殿は「平家物語」の説話的題材であるから、すでに「平家物語」の形成期以前に存在したこととなり、下殿ができたのは鎌倉時代前期以前、一説には平安時代、11世紀に遡るという見方もある。


したがって、下殿の形成に関しては次のように整理できる。

1・祭礼前の宮籠りのような祭祀上の用途があった。

2・「日吉社」が巨大化し、境内が下層民も含む民衆にまで開放的になった時代に、下層民のたまり場となり、また同時に民衆にとっては究極の祈願の場と認識された。

3・以上の時期に下殿がどれほど建築的に整備されていたかに関しては疑問があり、おそらく室町時代に下殿は整備されて本地仏が祀られるようになった。


このように整理すると、神仏習合の好例のように見える「日吉社」本殿の建築構造は、相当に複合的な契機で形成されたものであると言える。

神の内に霊威を見、仏の内に慈悲を見、しいて言えば、神と仏を重ねて見ていたであろうことが重要である。

特に下殿に集う人々の意識の中には、神と仏を区別しようという意図も、一緒にしようという意図もなかったのであろう。


中世の「日吉社」は基本的に延暦寺の一部である。

だから「日吉社」の最終的な責任者は天台坐主ということになる。

それはよいとしても、では日吉社自体の責任者は誰なのか?、

そして一体どこまでが日吉社なのか?、、このあたりが難しい問題である。


前近代においては、神事と仏事は微妙に入り混じっていることが多く、その区別は当時の人々の関心事ではない。

そのため、日吉社を神社と寺に分けるとか、日吉社で行われる行事を神事、仏事にわけることはそうとう困難であると同時に、どれほどの意味があるのかがわからなくなるのである。


               (引用ここまで)


                  *****

地下のいうものの持つ、秘密めいた妖しさを感じます。

天台宗と神道の関連は、なかなか奥が深いようです。


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床下の井戸・・中世・比叡山の天台宗と、神仏習合(3)

2014-06-07 | 日本の不思議(中世・近世)


引き続き、黒田龍二氏の「中世日吉社における神仏関係とその背景」という講演をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


            (引用ここから)


<床下の祭祀>

本殿床下に特殊な意義がある事例としては、他に次のようなものがある。


全国にたくさんあるお稲荷さんの社では、床下を囲う壁の背面側に穴が開けられている場合がある。

お稲荷さんは狐を眷属神、使いの神としていて、狐が出入りするための抜け穴が床下に開けてある。

床下から神の使い、あるいは神自体かもしれないが狐が出入りするという考えが一般的にある。


これに関連した興味深い例は、奈良県十津川村の「玉置神社」である。

ここの「三柱神社」という境内社は、「三狐神」という稲荷神を祀っている。

その本殿の床下には部屋がこしらえてあって、そこで狐落としをやっていたという。

昔は精神病が動物霊の憑依によるものと解釈される場合があり、治すためには憑依した霊を人体から離すこと、たとえば霊が狐とされた場合には狐落としという民間療法が有効とされた。

そのための部屋が本殿床下に作られているのである。

二畳ほどの、大人は立てないくらいのせまい部屋で、外から施錠すると真っ暗になり、出ることができない。

そこに病人を閉じ込めておくと、ばたばたと暴れたあげくに静かになり、狐は落ちたという。

床下に大きな霊力があるということも考えられる。




「山王七社」のうちの十禅師社(現「樹下神社」本殿の床には、井戸がある。

「十禅師」の神が井戸の神であるとか水の神であるという伝承はないし、この井戸のことは記録に出てこないので、一体どういう由緒があるのかまったくわからない。

しかし本殿の下に井戸があるということ自体が普通のことではないから、この井戸はなんらかの霊力をもつのであろうと推測される。


池の上に本殿を建てたという伝承は、京都の「八坂神社」にもある。

「八坂神社」は疫病の神であるから、水と全く関連がないわけではない。

また「大宰府天満宮」は、菅原道真のお墓の上に立っていると言われている。


伊勢神宮では「本殿」のことを「正殿」という。

「正殿」の床下の中心には「心の御柱」という杭のような短い柱があり、古代から少なくとも江戸時代までは、その前で伊勢神宮の最も重要な祭祀として、由貴大御饌(ゆきのおおおみ)という食事を奉る祭儀があった。

祭儀は「大物忌(おおものいみ)」という成人前の女子が中心になって行われた。


神事の一環として床下に入る、あるいは籠ることもある。

江戸時代の記録によると、「日吉社」の「山王祭」では、祭りの前に大宮の下殿に宮仕という職の者が全員集まり、二十一社に神酒を供えた。

このことの意義を見極めるには至っていないが、あるいは下殿の本質に関わる問題を含んでいると見られる。

というのは、この当時大宮下殿には大宮の本地仏である釈迦如来が祀られていたが、この祭儀は二十一社に対するものであって、大宮に対するものでも釈迦如来に対するものでもないからである。


神社の祭儀の直前に関係者が神社に籠って精進潔斎する行為も宮籠りというが、これはそのような宮籠りと見るべきものであろう。


このような宮籠りが床下で行われた事例としては、兵庫県出石郡但東町の「日出神社」がある。

ここでは祭りの宵宮に、子ども達が本殿の床下でたき火を焚いてお籠りをしたということで、本殿床下が真っ黒にすすけているという報告がある。


            (引用ここまで)

   
             *****

興味深い事例がたくさん挙げてあり、ドキドキしました。

なぜ、神社の床下に、大きな井戸があるのでしょう?
これ以上不気味なものって、そうは思いつきません。

子どもの頃、友達といっしょにつくった隠れ家を思い出しました。
井戸は作れなかったので、バケツで水を汲んできて、ドロ団子など作ったことを思い出しました。

お稲荷さんの由来も心惹かれるし、心御柱もふしぎだし、興味が尽きません。


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地下の祭壇・・中世・比叡山の天台宗と、神社(2)

2014-06-05 | 日本の不思議(中世・近世)



「神と仏のいる風景・社寺絵図を読み解く」という本を読んでみました。

これは国立歴史民俗博物館が主催したフォーラムをまとめたものです。

その中から引き続き、黒田龍二氏の「中世日吉社における神仏関係とその背景」という講演をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


            (引用ここから)


さて、「日吉社」の本殿の使い方は他に類を見ない特殊なもので、床下に部屋がある。

床下の部屋は「下殿」と呼ばれていて、建築的にしっかりと作られている。

江戸時代には床上の「内陣」には神をまつり、「下殿」には本地仏をまつっていたことがわかっている。

「内陣」に神をまつることは、中世そして古代に遡るであろうと思われるが、中世における「下殿」の状況は漠然としかわからない。



江戸時代の神仏の祀り方は、最初に言及した「神仏習合」の考え方、あるいはその次に紹介した「本地垂迹説」の考え方で理解でき得るものだった。

中世の状況はどのようなものだったのであろうか?


「床下参籠」

「北野社参詣曼荼羅」の一場面を紹介する。


「北野社」は京都にある「北野天満宮」のことで、この絵はその境内を描いたものである。

制作年代にはいくつかの説があるが、私は室町時代のものと思っている。

この場面は境内社の一つを描いたもので、床下が吹きさらしの小さな本殿で、「松童八幡・弥陀」と書いてある。

これはその社殿に祀られる神を現したもので、八幡は「宇佐八幡」とか「石清水八幡」とかの八幡であり、「松童」は八幡神の眷属神である高良明神に仕える暴れ者の神である

さて、問題はその本殿の床下にきれいな女性がうずくまっていることである。

大変狭い場所に不自由な姿勢でかがみこんでいるから、単に参拝とか休憩とか、そういう我々に理解可能な理由で窮屈な姿勢をとっているわけではないと言える。

これは一体何をしているのか?


この問題を解く鍵は「平家物語」など文芸作品の中にある。

「平家物語」では北の政所が関白の病の平癒をいのり、日吉社に七日間籠って願を立てた。

そして「もし願いがかないましたら、下殿にいるもろもろの片輪の人に交わって、千日のあいだ朝夕宮仕えいたしましょう」というのがある。


下殿とは本殿の床下である。

そこには日常的にもろもろの片輪の人がいるという状況があって、そこにこの高貴な女性も交わって千日間神様に奉仕いたしましょう、と言っている。

下殿にいる人々は「宮籠り」と呼ばれ、他に乞食、もいると書かれている。


御伽草子「うばかは」では継母にいじめられた姫君が家を出て、さ迷い歩き、尾張の寺の縁の下に籠る。

そこで観音からのお告げを受け、姫の運命が開けていく。


〝堂の縁の下に籠る”ことによって運命が急展開して開けてくることから、”縁の下”は寄る辺ない弱者の究極の祈願の場であるという観念が存在したであろうことがわかる。

つまり「平家物語」の願立ての祈願の場は「日吉社」本殿の床下であったが、床下における祈願は「日吉社」だけのことではなかったと言える。

以上のことから「北野社参詣曼荼羅」の松童八幡の床下にうずくまっている女性は、なんらかの強い祈願を行っているのだろうと推定されるのである。


             (引用ここまで)


               *****


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比叡山の天台宗と神社(1)・・僧侶になった神々

2014-06-03 | 日本の不思議(中世・近世)



「神と仏のいる風景・社寺絵図を読み解く」という本を読んでみました。

これは国立歴史民俗博物館が主催したフォーラムをまとめたものです。

その中から黒田龍二氏の「中世日吉社における神仏関係とその背景」という講演をご紹介させていただきます。

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            (引用ここから)


「神仏習合」というのは単純にいえば神と仏がいっしょになる、すなわち違うものが一緒になるという捉え方だが、それは明治の「神仏分離」を経た現在の我々の感じ方が多分に反映された見方であると言える。

それに対して、ここでは中世における実態、内容を検討することによって当時の考え方、感じ方に迫ってみたい。


中世の「日吉社(ひえしゃ)」・・延暦寺と日吉社


平安時代から中世にかけて、「日吉社(ひえしゃ)」は日本最大の神社であったといってよい。

「日吉社」は、今は「日吉大社」といい、滋賀県大津市の坂本にある。

比叡山延暦寺の琵琶湖側である。

平安時代の終わりに権勢をふるった白河院が、自分の意のままにならないものとして「鴨川の水、すごろくの賽子、山法師」の3つを挙げた。

自分の言うことを聞かない山法師、つまり延暦寺を憎んでいる。


延暦寺は全国的に荘園を持ち、多数の僧兵を擁し、日本の政治を左右する権力を持った巨大権門寺院で、院や朝廷の命令に従わない。

荘園の領地争いなどで延暦寺側に不利な裁定が下ったりすると、比叡山の僧侶が大挙して「日吉社」の神輿をかついで京都に入ってきて、延暦寺側の要求を、鎮守である「日吉の神」の神意として誇示する。

それは要求が通らないと神罰が下るという脅しを含む強引な要求なので「強訴」という。

このことも比叡山延暦寺と「日吉社(ひえしゃ)」は一体であることを示している。

この二者を中心に据えて話してみたい。


「日吉社」における神仏関係の第一点は、延暦寺の鎮守であったことである。


「山王祭」は「日吉社」の最大の祭りであるが、現在の「山王祭」でも天台坐主すなわち延暦寺の最高責任者であり、日本天台宗の最高位の僧侶が「日吉の神」に奉幣をおこなうという次第がある。


次に、中世では神仏を「本地垂迹説」の関係で捉えるのが一般的な考え方であった。


「日吉社」における「本地垂迹説」の関係を明晰に示したものが、奈良国立博物館の「山王宮曼荼羅」である。


本地垂迹説とは次のようなことである。

仏教の教えは大変に深淵で日本の民衆には理解しづらいものである。

そこで仏は日本の神の形を借りて現れ、仏教の教えを日本人に親しみやすく分かりやすく説いている。

そのとき、仏のことを「本地」あるいは「本地仏」といい、日本の神となって現れることを「垂迹」という。



この「山王宮曼荼羅」は、大きく描かれた日吉社の景観の上に神と仏がずらりと並んでいて、それぞれの社にまつられる神々の説明になっている。

日吉社にはたくさんの神がおられるが、その中心は山王二十一社である。

下段中央の神は「日吉社」の中心である「大宮」で、その姿は僧形で描かれている。

その上に釈迦の絵があるので、大宮の本地は釈迦如来であることがわかる。

第二位である神「二宮」も僧形で、本地は薬師如来である。

第三位の神である「聖真子」も僧形で、本地は阿弥陀如来である。

神々の姿は多様で、和装の女性、童子、顔が猿の神、動物姿の牛もいる。

上位三柱の神を山王三聖というが、それが出家した僧侶の姿で描かれていることに注意したい。

日本の神はすでに出家しているわけで、明治の神仏分離以後形成された神の概念とは大きく隔たっているといわなければならない。


            (引用ここまで)

              *****


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ヤタガラス・修験道・・役行者と神仏習合(2)

2014-06-01 | 日本の不思議(古代)



鎌田東二氏の「神と仏の出会う国」から、役行者について書かれたところをご紹介します。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****

 
            (引用ここから)


このヤタガラス伝承には、人間が鳥に変身して旅をするという〝鳥シャーマニズム”の名残や、鳥を祖先にもつ〝鳥トーテミズム”の名残りがあるのではないかとも考えられる。


ヤタガラスは、那智大社の正月儀礼の「迎水秘事」や7月14日に行われる「火祭り」でも重要な役割を果たしている。

「迎水秘事」は新年の新たな魂「あらたま」を迎え、生命を新に更新する祭りであるが、その神事の中心は、ヤタガラスの仮面(帽子とも言える)を被った神職が、元旦の寅の刻に、地下から湧く神聖な水を汲む神事である。

また「火祭り」では、ご神体である那智の大滝の前で、ヤタガラスの仮面を被った宮司が、「扇神輿」に取り付けられた太陽をかたどる鏡に、新しい魂を入れるための打つ所作をくりかえす「扇褒め」を行う。


いずれの神事においても、ヤタガラスが水にも火にも魂を吹き込み、命をして命たらしめる創造者の役割を果たしているのである。


ところでヤタガラスは、「古語拾遺」には、「加茂県主人(かものあがたのぬし)の遠祖先八咫烏は、いでましを導き奉りて、瑞をうだの径に顕しき」と記されている。

その導きの烏は、加茂(賀茂とも鴨とも記す)の県主の遠祖とされる。


「加茂」は古くは「鴨」の字をあて、神の意味を表わす「かみ・かむ・かも」は同語源と考えられる。


役行者はこのようなヤタガラス的な神話伝承を、仏教や道教の修行によって再編成した人物ではないだろうか?


役行者は、日本列島に古くから住んできた山の民や国つ神の末裔なのだろう。

その古代からのアニミズム的・シャーマニズム的・トーテミズム的な宗教文化を基盤にしながら、新たに導入された道教や仏教、とりわけ密教的仏教をとりこみ、また修行し、蔵王権現や弁才天を感得し、それを山上が岳や弥山に奉安したのであろうか?


こうして日本の伝統的な神観と、仏教的な仏菩薩、および天部の神の表象が融合を遂げて、独自の造形表現となったのが、大峰修験道の本拠地、吉野の蔵王堂の本尊の「蔵王権現」である。


「蔵王権現」は役行者が大峰山の山上が岳で修行していたところに示現し、修験道の本尊として祀られることになったとされる神である。

その神の像は右足を挙げ、今にも空を飛んで天空を駆け巡り、また地上に飛来し下降していきそうなダイナミックな躍動感に満ちている。

この「蔵王権現」の片足を上げた姿は、日本の神の姿と仏像的造形との絶妙な融合を示す好例である。


しかし「蔵王権現」は仏典には記載されておらず、日本独自の神として顕現し、造形されたと考えられる。


「役行者絵巻」には、役行者が吉野の金峰山に籠って修行し、迷える衆生を救う神々に示顕を祈ると、最初に釈迦牟尼仏、次に千手観音菩薩、次に弥勒菩薩が現れたが、役行者は厳しい修行の地においてはもっと強い神の示現と守護が必要だと更に祈りを込めた。

すると、憤怒形の「蔵王権現」が顕現したので、この威力ある勇姿を自ら桜の木に彫って作ったと伝えられている。


これには異伝がある。

天河弁才天社などの社伝では、役行者が祈りをこらすと、最初に弁才天女が現れたが、役行者はもっと強い神がほしいと更に祈ったところ、次に現れたのは地蔵菩薩だった。

地蔵菩薩もまた慈悲救済の菩薩なのでそれを捨て、更にもっと荒々しく厳しい修行にふさわしい仏が欲しいと祈ると、突然すさまじい雷鳴が鳴り響き、三番目に憤怒の形相の仏が、炎の中から現れた。

これこそ厳しい修行の守護神にふさわしいと、本尊に祭った。


この仏ないし神が「蔵王権現」であるという。


姿が7メートルに及ぶこの秘仏は、日本一の大きさと威容を示している。

これは大自然の“ちはやぶる”神のすさまじいエネルギーの発現であり、魔の降伏の威力と衆生救済の慈悲を表わすものである。

このようにして古来の伝統的な神道と新来の仏教と山岳宗教とがミックスした独自の神仏習合思想としての修験道が形成されていった。

7世紀は日本の宗教文化の大転換期だったのである。


              (引用ここまで)


                *****


ヤタガラスのこと、扇の神事のこと、加茂氏のこと、当ブログでも長いこと考えてきましたが、鎌田氏の気迫のこもった文章を読むと、圧倒される思いがします。


>この仏ないし神が「蔵王権現」であるという。

「仏ないし神」という言葉は、役行者たちが体得したものを捉える、絶妙な言葉であるように思います。

写真の鎌田氏の本の表紙の像が、ここで述べられている「蔵王権現」の像だと思います。


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