中沢新一さんの「熊から王へ」を読んでみました。
「熊」は自然の力を、「王」は社会の力を表します。
近代西洋文明とは別の文明の形として、人類は古くから、「王」を持たない文明を生きてきた歴史があることを、情熱を込めて語っています。
熊のぬいぐるみはなぜ可愛いのか?
考えてみると、その理由はさして自明ではなかったことに気づきます。
*****
(引用ここから)
第一次の「形而上学革命」である「一神教の成立」がもたらした宗教は、新石器革命的な文明の大規模な否定や抑圧の上に成立している。
その抑圧された「野生の思考」と呼ばれる思考の能力が、第二次の「形而上学革命」をとおして、装いも根拠も新たに、「科学」として復活を遂げたのである。
現代生活は三万数千年前、ヨーロッパの北方にひろがる巨大な氷河群を前にして、サバイバルのために脳内ニューロンの接合様式を変化させることに成功した人類の獲得した潜在能力を全面的に展開することとして出来あがって来たが、
その革命の成果がほぼ出尽くしてしまうのではないか、という予感が広がりはじめているのが、「今」なのである。
私たちはこういう過渡的な時代を生きている。
第三次の「形而上学革命」はまだ先の事だ。
そういう時代を生きる知性に与えられた課題は、洗礼者ヨハネのように、“魂におけるヨルダン川”のほとりに立って、来たるべきその革命がどのような構造をもつことになるかを、できるだけ正確に見通しておくことであろう。
宗教は科学(「野生の思考」と呼ばれる科学)を抑圧することによって、人類の精神に新しい地平を開いた。
その宗教を否定して、今日の科学は地上のヘゲモニーを獲得した。
そうなると、第三次の「形而上学革命」がどのような構造をもつものになるか、およその見通しを持つことが出来る。
それは、今日の科学に限界づけをもたらしている諸条件を否定して、一神教の開いた地平を、科学的思考によって変革することによって、もたらされるであろう。
この本では、「国家」の誕生のことが話題になる。
人類の脳のニューロン組織に決定的な飛躍が起こり、いまの現生人類(ホモサピエンス・サピエンス)の心が生まれたのが、後期旧石器時代のことであったとすると、それから2万年以上もの間は、そのニューロン組織を使って、「神話的思考」が発達していったことが考えられる。
その頃私たち現生人類の心では、「二元性」に基づく思考が行われ、物事は「対象性」を実現すべく細心な調整を施されていた。
そこにはまだ、「国家」はない。
それが出現するのは、この「対象性」をくつがえすべくして人間の意識におこった変化をきっかけにしている。
現生人類の脳のニューロン組織は、その時にはもう完成してしまっているから、このとき起こる変化は、生物的進化の要素はまったく含まない。
脳の構造もまったく同じ、能力にも変化はない。
しかし、その内部で、力の配置の様式が、決定的な変化を起こすのである。
その時、世界に「対象性」をつくりだそうとしてきた心の働きが、急展開を起こして、それまでの「首長」の代わりには「王」が出現し、「共同体」の上に「国家」というものが生まれることになった。
それと同時に、「人間」と「動物」との関係、「文化」と「自然」の関係にも、大きな変化が発生して、人間の世界は今あるような姿へと、急速な変貌を始めたのだった。
つい先週(2001年9月11日)のことですが、ニューヨークであの大事件(9・11事件)がおこったのです。
事件の直後から、「これは文明と野蛮の戦いである」というような表現が大声で語られるようになりましたが、これにはびっくりしました。
どうやら現代世界は今、深刻な思考停止の状態に陥っているようです。
それというのも、「国家」や「文明」の外部に立った視点から、現実の世界におこっていることの意味を照らしだすような思考が、ますます困難になりつつあるからです。
このような思考の閉鎖状態から脱出するためにも、私たちはこの世界をつくりあげているもろもろの制度について、それを発生の観点から深くとらえなおしてみる必要があるのではないでしょうか。
21世紀が「文明と野蛮の問題」がクローズアップされる時代となるだろうとは、前から予測されていたことです。
20世紀には「資本主義」対「社会主義」という虚構の対立で、文明そのものが内抱する本質的な問題が隠蔽されていたと言えるでしょう。
ところが20世紀の終わりに、「社会主義」と「資本主義(あるいは自由主義)」の対立の構図が崩壊しました。
21世紀に世界では、グローバルな規模で「自由主義」・「資本主義」が地球を一元化し、地球上の民族や宗教の対立は終息に向かうだろうと言って「歴史の終焉」ということを主張する人々がいましたが、
この予測が完全な間違いであったことは、今世界におこっていることを見れば、一目瞭然でしょう。
今日の世界では、「富を得た者「と「貧しい者」との差が極端に大きくなっています。
人類の中のごく少数の人々の下にだけ、富を得るチャンスや仕組みが集中してしまって、圧倒的多数の人々には、そうした機構やチャンスに接近する可能性さえないのです。
富の配分が、極端に「非対照的」になってしまっています。
そうした世界はみずからテロを招き寄せてしまうでしょう。
現代の世界では、富の配分の不公平という形をとった「非対称性」が、さまざまな「野蛮」を発生させてしまっています。
21世紀に突きつけられたこのような問題を、解決に導いていけるような政治的思考を、わたしたちはまだ持てていません。
いま地球上のさまざまの地域で発生しているこのような状況の真の意味を、近代に作られた政治的思考は、十分に解読できないままに、手をこまねいているばかりです。
そういう時には、「はるかなる視線」(レヴィ・ストロース)の立場に立って、私たちの生きている世界を照らし出すような思考をおこなってみることが必要なのではないでしょうか。
「人間」と「動物」との間になんとかして「対照的な関係」を作りだそうとしていた人々(採集狩猟民)にとって、自分達が生きるために殺した動物の体を粗末に扱ったりすることはとても考えられないことでした。
ところが最近のヨーロッパや日本で、狂牛病や口蹄疫が発生し、たくさんの牛や羊が殺されていく恐ろしい光景が、テレビで何度も放映されました。
とりわけ狂牛病の原因は、飼料として与えられた肉骨粉にあるのではないかととりざたされました。
肉骨粉の飼料を牛達に食べさせるのは、一種の「共食い」を彼らに強いていることになりますが、それほど恐ろしい「野蛮」な行為はないと、この人々(採集狩猟民)は考えてきました。
そういう「野蛮」が現れてくるのを食い止めるのが、彼らの「文化」の働きだったからです。
ところが、私たちの世界は彼らが「野蛮」だとみなした行為を、自分達の生活を支えている一番大事な部分にセットしているのです。
しかも狩猟民達が想像もしなかったような巨大な規模で、そのシステムを日夜運行し続けています。
私たちの「文化的」な生活は、そういう「野蛮」の行為の基礎の上に成り立っています。
この社会は、「野蛮」を自分の内部に組み込んだシステムとして機能しているため、さまざまなタイプの「野蛮」を除去できないばかりではなく、
一たび危機的な状況が起こると、その責任を外の世界の、自分達がよく理解できない相手に投げつけて、その相手のことを「野蛮」呼ばわりすることになります。
(引用ここまで)
*****
中沢新一氏の文明論は、とてもまっとうな、適正な文明論だと思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ichigo.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ichigo.gif)
「ブログ内検索」で
熊 12件
国 5件
新石器時代 7件
狩猟採集 4件
レヴィ・ストロース 7件
野生の思考 7件
グローバリゼーション 1件
脳 15件
ヨハネ 7件
中沢新一 15件
などあります。(重複しています)