始まりに向かって

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中沢新一「熊から王へ」(1)・・共同体的な在り方の重要性を考える

2012-05-29 | 野生の思考・社会・脱原発

中沢新一さんの「熊から王へ」を読んでみました。

「熊」は自然の力を、「王」は社会の力を表します。

近代西洋文明とは別の文明の形として、人類は古くから、「王」を持たない文明を生きてきた歴史があることを、情熱を込めて語っています。

熊のぬいぐるみはなぜ可愛いのか?

考えてみると、その理由はさして自明ではなかったことに気づきます。




         *****


         (引用ここから)


第一次の「形而上学革命」である「一神教の成立」がもたらした宗教は、新石器革命的な文明の大規模な否定や抑圧の上に成立している。

その抑圧された「野生の思考」と呼ばれる思考の能力が、第二次の「形而上学革命」をとおして、装いも根拠も新たに、「科学」として復活を遂げたのである。

現代生活は三万数千年前、ヨーロッパの北方にひろがる巨大な氷河群を前にして、サバイバルのために脳内ニューロンの接合様式を変化させることに成功した人類の獲得した潜在能力を全面的に展開することとして出来あがって来たが、

その革命の成果がほぼ出尽くしてしまうのではないか、という予感が広がりはじめているのが、「今」なのである。

私たちはこういう過渡的な時代を生きている。

第三次の「形而上学革命」はまだ先の事だ。

そういう時代を生きる知性に与えられた課題は、洗礼者ヨハネのように、“魂におけるヨルダン川”のほとりに立って、来たるべきその革命がどのような構造をもつことになるかを、できるだけ正確に見通しておくことであろう。

宗教は科学(「野生の思考」と呼ばれる科学)を抑圧することによって、人類の精神に新しい地平を開いた。

その宗教を否定して、今日の科学は地上のヘゲモニーを獲得した。

そうなると、第三次の「形而上学革命」がどのような構造をもつものになるか、およその見通しを持つことが出来る。

それは、今日の科学に限界づけをもたらしている諸条件を否定して、一神教の開いた地平を、科学的思考によって変革することによって、もたらされるであろう。


この本では、「国家」の誕生のことが話題になる。

人類の脳のニューロン組織に決定的な飛躍が起こり、いまの現生人類(ホモサピエンス・サピエンス)の心が生まれたのが、後期旧石器時代のことであったとすると、それから2万年以上もの間は、そのニューロン組織を使って、「神話的思考」が発達していったことが考えられる。

その頃私たち現生人類の心では、「二元性」に基づく思考が行われ、物事は「対象性」を実現すべく細心な調整を施されていた。

そこにはまだ、「国家」はない。

それが出現するのは、この「対象性」をくつがえすべくして人間の意識におこった変化をきっかけにしている。

現生人類の脳のニューロン組織は、その時にはもう完成してしまっているから、このとき起こる変化は、生物的進化の要素はまったく含まない。

脳の構造もまったく同じ、能力にも変化はない。

しかし、その内部で、力の配置の様式が、決定的な変化を起こすのである。

その時、世界に「対象性」をつくりだそうとしてきた心の働きが、急展開を起こして、それまでの「首長」の代わりには「王」が出現し、「共同体」の上に「国家」というものが生まれることになった。

それと同時に、「人間」と「動物」との関係、「文化」と「自然」の関係にも、大きな変化が発生して、人間の世界は今あるような姿へと、急速な変貌を始めたのだった。


つい先週(2001年9月11日)のことですが、ニューヨークであの大事件(9・11事件)がおこったのです。

事件の直後から、「これは文明と野蛮の戦いである」というような表現が大声で語られるようになりましたが、これにはびっくりしました。

どうやら現代世界は今、深刻な思考停止の状態に陥っているようです。

それというのも、「国家」や「文明」の外部に立った視点から、現実の世界におこっていることの意味を照らしだすような思考が、ますます困難になりつつあるからです。

このような思考の閉鎖状態から脱出するためにも、私たちはこの世界をつくりあげているもろもろの制度について、それを発生の観点から深くとらえなおしてみる必要があるのではないでしょうか。

21世紀が「文明と野蛮の問題」がクローズアップされる時代となるだろうとは、前から予測されていたことです。

20世紀には「資本主義」対「社会主義」という虚構の対立で、文明そのものが内抱する本質的な問題が隠蔽されていたと言えるでしょう。

ところが20世紀の終わりに、「社会主義」と「資本主義(あるいは自由主義)」の対立の構図が崩壊しました。

21世紀に世界では、グローバルな規模で「自由主義」・「資本主義」が地球を一元化し、地球上の民族や宗教の対立は終息に向かうだろうと言って「歴史の終焉」ということを主張する人々がいましたが、

この予測が完全な間違いであったことは、今世界におこっていることを見れば、一目瞭然でしょう。

今日の世界では、「富を得た者「と「貧しい者」との差が極端に大きくなっています。

人類の中のごく少数の人々の下にだけ、富を得るチャンスや仕組みが集中してしまって、圧倒的多数の人々には、そうした機構やチャンスに接近する可能性さえないのです。

富の配分が、極端に「非対照的」になってしまっています。

そうした世界はみずからテロを招き寄せてしまうでしょう。

現代の世界では、富の配分の不公平という形をとった「非対称性」が、さまざまな「野蛮」を発生させてしまっています。

21世紀に突きつけられたこのような問題を、解決に導いていけるような政治的思考を、わたしたちはまだ持てていません。

いま地球上のさまざまの地域で発生しているこのような状況の真の意味を、近代に作られた政治的思考は、十分に解読できないままに、手をこまねいているばかりです。

そういう時には、「はるかなる視線」(レヴィ・ストロース)の立場に立って、私たちの生きている世界を照らし出すような思考をおこなってみることが必要なのではないでしょうか。


「人間」と「動物」との間になんとかして「対照的な関係」を作りだそうとしていた人々(採集狩猟民)にとって、自分達が生きるために殺した動物の体を粗末に扱ったりすることはとても考えられないことでした。

ところが最近のヨーロッパや日本で、狂牛病や口蹄疫が発生し、たくさんの牛や羊が殺されていく恐ろしい光景が、テレビで何度も放映されました。

とりわけ狂牛病の原因は、飼料として与えられた肉骨粉にあるのではないかととりざたされました。

肉骨粉の飼料を牛達に食べさせるのは、一種の「共食い」を彼らに強いていることになりますが、それほど恐ろしい「野蛮」な行為はないと、この人々(採集狩猟民)は考えてきました。

そういう「野蛮」が現れてくるのを食い止めるのが、彼らの「文化」の働きだったからです。

ところが、私たちの世界は彼らが「野蛮」だとみなした行為を、自分達の生活を支えている一番大事な部分にセットしているのです。

しかも狩猟民達が想像もしなかったような巨大な規模で、そのシステムを日夜運行し続けています。

私たちの「文化的」な生活は、そういう「野蛮」の行為の基礎の上に成り立っています。

この社会は、「野蛮」を自分の内部に組み込んだシステムとして機能しているため、さまざまなタイプの「野蛮」を除去できないばかりではなく、

一たび危機的な状況が起こると、その責任を外の世界の、自分達がよく理解できない相手に投げつけて、その相手のことを「野蛮」呼ばわりすることになります。


               (引用ここまで)

                 *****


中沢新一氏の文明論は、とてもまっとうな、適正な文明論だと思います。


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34000年前の人々がつくった繊維があった・・染めたりねじったり、人は昔からおしゃれだったのだろう。

2012-05-21 | その他先史文明


34000年前の人類が、亜麻からひもや籠、服を作っていたことがわかった、ということが、ちょと古いですが、2009年9月の新聞記事にありました。

          *****

http://www.asahi.com/science/update/0911/TKY200909100413.html
【9月11日 AFP】
米ハーバード大学などの調査チームが、グルジアの洞窟から3万4000年前の世界最古の繊維を発見したと、10日の米科学誌「サイエンス(Science)」に発表した。

 この亜麻繊維は洞くつの発掘中に複数発見されたもので、なかにはねじられたような形跡も見られる。

先史時代の人類がこれらを糸にして衣服を作ったり、ロープを作ったりしたと考えられ、人類による使用が確認された繊維としては最も古いという。

 調査チームは、古代人にとって極めて重要な発明品だと説明する。

「寒さをしのぐための衣服や布、家事のためのロープやバスケット、あるいは皮や包みなどをつなぎ合わせるための糸を作っていたのだろう。

古代の狩猟民たちは、こうしたことで容易に移動できるようになり、生存の可能性が高まっていったのかもしれない」と、調査に参加したハーバード大のOfer Bar-Yosef教授(考古学)らは説明する。

 なお、亜麻は洞窟の付近に自生していたものと考えられるという。

 当時の衣服やモノは長い年月をかけて分解して目には見えない微細な繊維になっており、洞窟のさまざまな層の粘土を顕微鏡で分析している際に偶然発見された。

染色されたものもあったという。

年代は放射性炭素年代測定で割り出した。

 これまでで最古の繊維は、チェコのドルニ・ヴィエストニッツェ遺跡(Dolni Vestonice)で発掘された粘土製の物体の表面に付着していた繊維で、2万8000年前のものとされてきた。(c)AFP


          *****


3万年前の人類が、すでに染色した繊維を使っていたなんて、驚きです。

時代は下りますが、日本の縄文時代にも、たくさんの繊維の遺物が発見されているようです。

繊維を縫う「縫い針」も発見されています。

どんぐりが入ったまま発見された縄文ポシェットなど、ほんとうに生き生きとした遺物を見ると、古代が昨日のことのように感じられるように思います。



縄文・三内丸山の繊維製品画像
情報処理推進機構HP
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz2/k-jda1/k-jcp1/k-jsp4/IPA-san0950.htm



関根秀樹さんという人は「縄文式生活技術教本・縄文人になる!」という本で、縄文時代の住居、弓矢、石笛、釣り針など、いろいろなものの作り方を書いています。


           *****

          (引用ここから)


縄文時代とは言うまでもなく石器と土器文化の時代である。

しかしそもそも石器の用途の多くは木材や竹、骨、歯、角、貝などの加工である。

実際にはおそらく石器や土器の数よりはるかに多くの木器や漆器、樹皮やつるや竹を編んだ籠類、皮革製品などがあったはずだ。

石器、土器以外のそうした有機質のものは、火山の多い日本の酸性の土壌ではほとんどが腐ってしまい、残りにくいだけの話だ。

縄文時代が生まれる前の旧石器時代には、すでに樹皮やつるなどを利用した多くの籠類や、獣皮、膀胱などを利用した袋などが作られ、使われていた。

最初期の土器に円形丸底のものと作りにくい方形平底のものがあるのは日常慣れ親しんでいる籠類の形を模倣したためと言われる。

そういえば土器の文様には籠の編み目似たものが多い。


植物繊維の布は、織物ではなく編布(あんぎん)が主流だった。

むしろや簾などのように横糸一本を二本の縦糸で挟み込んでいく方法で、中世に時宗の遊行僧が着たものと同じ。

目の粗いものなら、「越後あんぎん」として新潟県十日町市や中魚沼郡、長野の秋山郷などに伝承されている。

縄文人の衣服は貫頭衣だったのか、和服の原形のようなものだったのかはわからない。

土偶の文様を参考にすると、ズボンと上着のツーピースを想定する研究者もいる。

縄文人は単一民族ではないので、土地によって様々な民族衣装があっていいと思う。

 
         (引用ここまで)

          *****


今、ナチュラル志向という感覚で選んでいる生き方や暮らし方は、今まで人類が暮らしてきた膨大な時間につながろうという、なかば本能的な思いなのではないか、という気持ちになります。

その膨大な時間の中に、どのようなドラマがあったのか、人類はなにを経験してきたのか、知りたいという思いがつのります。


十日町市博物館hp「越後あんぎん」
http://www.city.tokamachi.niigata.jp/site/museum/museum/information03.html


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生きなければならないとすれば、それは重すぎる・・ユング派療法家樋口和彦氏のことば

2012-05-17 | メディテーション


「日本トランスパーソナル学会講演集」という本に収録されていたユング派心理療法家・樋口和彦氏のお話を紹介させていただきます。

「錬金術と心理療法」というタイトルのお話で、心の世界の深いところに沈んでゆく筆者の魂の冒険が語られています。

そしてその冒険は、愛によってなされなければならない、と筆者は語っています。


人生は、生きなければならないとしたら、それは重すぎる、という言葉が、心にしみました。

寄り添い、受け入れてくれる、ただ一言でいいから、心に添ったことばがあれば、人は生きられるのだと思いました。

読んでいると、この人の気配が部屋の中に満ちて、わたしは涙が流れました。




         *****


      (引用ここから)


錬金術と心理療法は、冥さ(くらさ)を扱うところが似ています。

そしてまたミクロコスモスを扱うというところも似ています。

コスモスにはマクロコスモスとミクロコスモスがあります。

近代というこの社会は、我々の外側に広がるところの無限の広がりと思われるような外界(マクロコスモス)を重視して、ずっと探検することにこの400年慣れてきました。

コロンブスが出発したポルトガルのリスボンの港の岬に立ってみると、確かに東洋はずっとむこうの海原の果てに広がっているように見えます。

そして港の後ろの丘には壮大な建築物があり、海のむこうの世界から奪ってきた富でそれらは出来ています。

確かに外側に展開する世界は大きい、すばらしい世界です。

コロンブスが発見した新大陸もそうです。

文明がカリフォルニアに行くまでは、無限の大きさ、無現の富があるように思われました。


しかし、カリフォルニアに到達したときに、またベトナム戦争が起きたときに、一体アメリカの若者たちはなにをしたか?

そのとき彼らは、外側に広がるところのアメリカではなく、「わが内なる汚れたアメリカ」を探求し始めたのです。

ある者は「内側」に行こうとし、ある者は「東洋の知恵」を借りようとしました。

自分の内的世界(マクロコスモス)を探ろうと努力していたわけです。

そして自分の中にそれを見た時、外側と同じ比重と広さをもった世界がそこに開けていることを発見したのです。


われわれの心の中には、語っても語り尽くせない何かがあると思うのです。

そして大切なことは、最初に言葉よりも深いところからまずイメージが出てくるということです。


道端で、誰にもみつからずにある石。 。


本当の錬金術師というのは、石を選ばず、どの石の中にも「金」はあるのだと考えている。

そして「金」自身はその石の中から“救出”されることを願っている。


ディズニーの白雪姫の中に、老人の小人がたくさん出てきますが、あれは鉱山の石を探す小人で、「ハイホー、ハイホー」と言って、並んでやっています。

あれはなにをやっているのかというと、地中に閉じ込められたところの鉱石や宝石や金属を探しているのです。

昔は鉱山師というのは山師でしたから、スピリットの居そうな所をずっと巡り、岩の裂け目から“救出”されたがっている鉱石の声を聞くのです。

とんとんと叩いてみて、その音を聴く。

そうすると、ここにダイヤモンドがある、ここに何々があるというふうに分かるのです。


錬金術師は実験室を持ちますが、外見の立派な場所でなくてもいいのです。

その人の心の中に、他人の心を入れる場所があればいい。

その場所の中に入った時、その人はなんでも言えるし、自分の秘密を共有できる。

そしてなによりもそこでセキュリティ(安全)が得られるということでしょう。


安心して持続的に安定した人間関係が持てる自由な空間です。

そして、そこの中に入っていられる。


そしてそこで焚かれるのが「愛」という火です。

実はこの火の焚き方が難しいのです。

セラピストの一番大切なことはこの火の焚き方です。

「よし、俺は今分析家の資格を取ったばかりだ。一生懸命やる。」

と言ってゴ―と火を焚いたら、相手は焼け死んでしまいます。


この火はまた、持続的な火でもなければいけません。


ギリシア人たちは、魂には故郷があると考えた。

所属すべき場所があり、帰るべき場所があり、源泉があると。

それがアルケー、つまり始原の、最初の所です。


青年のアレキサンダー大王は、これを求めて遠い旅をしたわけです。

しかし彼は行けども行けども途上人、最後まで道の上の人でした。

彼はある土地にいても、そこは自分が本当に所属すべき場所ではないと思う。

また次に行く。

そして道の上で死ぬわけです。


いつも青年というのは、ある意味ではそうです。

自分の心というのはどこに所属しているのか、ということを考えているのです。

だから自己を訪ねて旅に出る。

自分の魂が所属している所を尋ね、探し出すまで歩き続けてしまうのです。


では分析というのは、最後はどう完成させればいいのか。

いろいろな目標があります。

ユングはそれを「個性化過程」という一つの語で表現しました。

つまりプロセスであって、自分は故郷に来たかと思うと、また向こう側に山があったというような、彼はむしろそのプロセスの方が大切だと言いました。


わたしはいつも思う事があります。

それは自分を導くイメージの事です。

自分が作りだしたイメージの中に入った時に、いつも私がはっと思うのは、こういうふうに自分に旅をさせているのは何か、ということです。

そのイメージは自分が作り出したり、所有したりしたのではなくて、もっと大きなイメージの中で、自分は今まで生かされてきたのだということです。

現代人は、魂というのは自分で所有できる何か、あるいは自分が勝手にできる何かだと思っているのですが、それは誤りです。

人間は勝手に自分で夢を見られると思っている。

しかし夢を見ても、その夢は誰の所有でもありません。

そしてやがてこれは自分が所有しているのではない、より大きな魂の中に日々生かされているのだということ分かってくるのです。


私は人生というのは、「生きなければならない何か」であるとするならば、それは重すぎると思います。


幸福に見える人でもそうです。

わたしが言いたいのは、もっと大きなものの中で、自分は許されて生きているのだと知ったときに、人は生きられるのではないか、ということです。

人生は生きるべき何かではなくて、生きることが許されている何かである、というのが今の私の実感です。

つまり、この宇宙の中で自分はその一部として支えられていることを感じるようになる瞬間がありますが、

これが「現代の錬金術」ではないかと、私は今、密かに思っているのです。


錬金術師はいろいろな小道具を使いました。

火のお話、、実は愛情というのは「火」であるというお話をしました。


このような「火」を使うときに、彼らはフイゴを使いました。

要するに錬金術師は昔の加治屋さんなのです。


心理療法家もどこかにフイゴを持っていて、時に風を送り、煽るわけです。

アジテーションというのは錬金術師の一つの術なのです。

政治家なんかがよく使うのは、真実は少しで空気がたくさんある。

で、吹くことによってプロセスを加速させていく。

自然の速度に加速度を加えることなのです。


どうしてもその方が生きる意欲を失って、どんどんか細くなっておちこんでいる、という時には、このフイゴをある程度吹かないといけません。

本当に危ない時に「あなたは危ない」、と言ったら、本当に死んでしまいますから、

「あなたは大丈夫、あなた天才みたい。フー、フー」と吹かす。

真実という塩と、硫黄のような能動的で可燃性のあるものを混合するか、、その調合は難しいもの
です。

水銀は反対に、受動的で揮発性を持ちますから、これまた使い方が難しい。

つまり、硫黄と塩と水銀という3つの要素を頭にイメージとして描きながらやっていきます。


錬金術の作業の過程は、いろいろな色の段階を通っていく。

最初は黒の段階。それから白の段階、そして茶色の段階もあります。

次が赤で、最終的に金の段階を通っていく。


その色のシンボリズムは非常に大切になってきます。

錬金術師の使った色というのは、自然の色ですし、それはわれわれにとって無限の意味を投げかけてくるものなのです。

夢の中の色、それから話して下さるトーン(色調)というのも、大変重要です。


         (引用ここまで)


                ****


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「アイヌ文化振興法ができるまで」・・いずれの方策も良いものではなかった。

2012-05-13 | アイヌ
常本照樹氏の「アイヌ民族をめぐる法の変遷ーー旧土人保護法から「アイヌ文化振興法」へ」というブックレットを読んでみました。

その中の資料として1996年「平成8年)に出された報告書がありましたので、ご紹介させていただこうと思います。

内閣官房庁の要請を受け、自然人類学、歴史学、民族学、国際法などの学問的立場からヒアリングを重ねるなど、さまざまな角度から議論するとともに、この分野の施策の新たな基本理念および具体的施策の在り方について総合的な検討を約1年かけて行った成果を整理したものである、ということです。

         
            *****

         (引用ここから)


「1996(平成8)年ウタリ対策の在り方に関する有識者懇談会 報告書 」


1ーーアイヌの人々の先住性


北海道に人類が住み始めたのは、今から約2万年以上も前の、旧石器時代のこととされている。

その後縄文文化期、続縄文文化期を経て、8世紀ごろから12世紀中ごろにかけて狩猟、漁労、畑作などを行い、擦文土器を用いた人々を担い手とする擦文文化期を迎える。

この擦文文化期とそれに続く13世紀から14世紀にかけて、アイヌ文化の特色が形成されたものと見られる。

またアイヌ文化は7世紀から12世紀頃にかけてオホーツク海沿岸に栄えた漁労や海獣漁を中心に、独自のオホーツク式土器を用いた北方民族系のオホーツク文化の影響も受けていると見られている。

また「和人」との関係で見ると、7世紀頃から北海道に居住する人々との間に接触・交流があったことがうかがわれるが

文献資料が限られていることもあって、アイヌ文化の形成期における人々の様子は明らかになっていないことが多い。


しかしながら、少なくとも中世末期以降の歴史の中で見ると、学問的に見てもアイヌの人々は当時の「和人」との関係において日本列島北部周辺、とりわけ我が国固有の領土である北海道に先住していたことが、否定できないと考えられる。


2ーーアイヌの人々の民族性


一般に「民族」の定義は、言語、宗教、文化などの客観的基準と民族意識、帰属意識といった習慣的基準の両面から説明されるが、近年においては特に「帰属意識」が強調されてきており、その外延、境界を確定的かつ一律に定めることは困難であると思われる。

現在アイヌの人々は、我が国の一般社会の中で言語面でも文化面でも他の構成員とほとんど変わらない生活を営んでおり、独自の言語を話せる人も極めて限られた数に留まるという状況に至っている。

しかしアイヌの人々には「民族としての帰属意識」が脈々と流れており、民族的な誇りや尊厳のもとに個人として、あるいは団体を構成し、アイヌ語や伝統文化の保持、継承、研究に努力している人々も多い。

またこれらの活動に参画し、積極的に取り組んでいる関係者の少なくないことも注目すべきである。

このような状況に鑑みれば、我が国におけるアイヌの人々は、引き続き「民族」としての独自性を保っていると見るべきであり、近い将来においてもそれが失われると見通すことは出来ない。



3ーーアイヌ文化の特色


アイヌの人々は川筋等の生活領域で狩猟、採集、漁労を中心として生業を営む中で独自の文化を育んできた。

アイヌ文化は自然とのかかわりが深い文化であり、現代に生きるアイヌの人々も「自然との共生」を自らのアイデンティティの重要な要素として位置づけている。

近世のアイヌ文化の大きな特色としては、狩猟、採集、漁労という伝統的生業、川筋などを生活領域とする地縁集団の形成の他、

イオマンテに象徴される儀礼などの特徴、アイヌ文様に示される独自の芸術性、ユーカラをはじめとする口承伝承の数々、さらには独自の言語であるアイヌ語の存在などが主要な要素としてあげられる。

なおアイヌ語の系統は不明であるが、日本語とは異なる独自の言語であることは間違いないとされている。

アイヌ文化は歴史的遺産として貴重であるに留まらず、これを現代に生かし、発展させることは我が国の文化の多様さ、豊かさの証となるものであり、

特に自然とのかかわりの中で育まれた豊かな知恵は、広く世界の人々が今日共有すべき財産であると思われる。


4ーー我が国の近代化とアイヌの人々


松前藩が成立する過程で、アイヌの人々の自由な交易が制限され、さらに「商場知行制」から、アイヌの人々を労働力として拘束し収奪する「場所請負制」へ移行する中で、アイヌの人々の社会や文化の破壊が進み、人口も激減した。

さらに明治以降、我が国が近代的国家としてスタートし、「北海道開拓」を進める中で、いわゆる「同化政策」が進められ、

伝統的生活を支えてきた主狩猟、漁労が制限、禁止され、またアイヌ語の使用をはじめ、伝統的な生活、慣行の保持が制限され、貧窮を余儀なくされ、アイヌの人々の社会や文化が受けた打撃は決定的なものとなった。

法的には等しく国民でありながらも差別され、貧窮を与儀なくされたアイヌの人々は多数に上った。

当時の政府もさまざまな対策を講じ、明治32年の「北海道旧土人保護法」の施行に至ったが、その後の展開を見ると、いずれの施策もアイヌの人々の窮状を改善するために充分機能したとは言えなかった。

     
        (引用ここまで)

         *****


日本列島に、幾重にも重なって、いろいろな民族の人々が生きてきたということは、自分の魂の根源を考える上で大変助けになると思います。

一つの魂は、根源的には、他のすべての事象と溶け合っているのでしょう。

文字をもたない文明が、文字を持つ文明によって滅ぼされてきたのが今までの歴史であるならば、文字を持つ文明の歴史の苦境を救うのは、また別の文明ではないかと思います。

ヤマト民族によって消滅されかかっている、アイヌ民族という一つの民族の文明は、多くの宝物を秘めているのだと思います。





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アイヌ観はいかにして形成されたか?・・児島恭子「エミシ・エゾからアイヌへ」

2012-05-07 | アイヌ
先日、次期国政選挙に向けて「アイヌ民族党が結成された」、という報道がありましたが、アイヌ民族の方々は現実の政治の世界においてどのようなことを望んでいらっしゃるのでしょうか?

本州育ちのわたしは、アイヌと聞くと、どうしても金のしずく、銀のしずくのきらめく幻想的な世界を想起しがちですが、それでよいのだろうか?、わたしはどうすればよいのだろうか?、、と自分に問い続けている自分を感じています。

アイヌ文化研究者・児島恭子氏の「エミシ・エゾからアイヌへ」という本を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


      *****


   (引用ここから)


1899年の「北海道旧土人保護法」制定から1世紀後の1997年、通称「アイヌ文化振興法」が制定、施行され、アイヌ文化やアイヌの人々を巡る状況が画期的な段階になったことが“アイヌの現状”に大きな影響を与えている。

“北海道旧土人”とはアイヌのことであり、この“保護法”は戦後の日本ではほぼ有名無実と化していたが、日本人であるアイヌの人々を他の日本人と区別して特別に「保護」する根拠であった。

時代錯誤の響きを持つ“旧土人保護法”がまだあった当時、アイヌはそのために苦しんだが、その法律を知らない日本人は多かった。

廃止されて10年を経た今、その法律が存在したことはだんだんと歴史の彼方に退いている。

“旧土人保護法”は国内に異民族として存在することを否定した法であったのに対し、「アイヌ文化振興法」は異文化を持つ人々の存在を認めている。

そのため旧法の下では隠れていたアイヌという民族の存在が表に出て来て、活力あるアイヌ像が浮かんできている。

「アイヌ文化振興法」がアイヌを可視化している。

しかしアイヌ人口とされる数字はほとんど増えず、見えるアイヌは相変わらず氷山の一角にすぎない。


この10年で見える部分も激変した。

「アイヌ文化振興法」はアイヌの伝統文化を公的に認知し称揚している。

しかしその伝統文化保持者はこの世を去り、アイヌ文化を変化させようとする新世代が目立ち、
それに表面的に共感する日本社会もある。

いわゆるグローバル化の波がアイヌをめぐる環境にも及んでいる。

歴史はどうでもよくなっているのだろうか?


“エミシ”や“エゾ”は“アイヌ”か?

“エミシ”や“エゾ”は“ヤマト文化圏”に属する人々によって付けられた“夷狄(いてき)”としての名称であって、“アイヌ”を指すとは言えないとされるようになっている。

しかし東北地方に「アイヌ語地名」が存在することが、新たな「エミシ=アイヌ論」を生みだしている。


さらに「エゾ=アイヌ論」となると、古代史に留まらず、中世から現代までの途上に点々と現れる問題となっている。


近世には北海道のアイヌは“蝦夷(エゾ)“と呼ばれたが、逆に“蝦夷(エゾ)すなわちアイヌ”と言ってよいのかどうかは問題がある。

それでも“エゾの後身としてのアイヌ”の歴史を考えようとする立場の研究は近年増加している。


たとえば古代末期から中世の“蝦夷”は、財力を蓄えた奥州藤原氏や安東氏を交易相手として、渡党の主導を巡って言及されている。

“蝦夷”が海上を往来する交易民としてイメージされ、従来の日本史上では“辺境”とされてきた東北地方や北海道の日本海側といった地域に生彩を与えるだけでなく、

「環日本海」という捉え方で辺境の歴史を脱し、対岸の大陸を含んだ地域の歴史という空間的な広がりを持たされている。

アイヌの復権がなされつつある現在、かつてはより広い地域に住み、交易活動にいそしんできたという、和人に征服される以前の歴史的アイヌ像が作られ、無条件に「伝統的」アイヌ文化を「自然と共存するする理想的な文化」であるとして、その担い手であるアイヌの過去として“エゾ”を考える傾向があるように思う。


江戸時代にはアイヌは“蝦夷”と呼ばれていたが、自分達から“蝦夷”と名乗っていたのではない。

自分達のことはおそらく「アウタリ」とか「」(=私たち)と表現していただろう。

民族名称として「アイヌ」を使うようになった人々の自民族、自文化に対する意識は、近現代を通じて多様で、個人の中での変化も多くの人が経験している。


1990年までは「アイヌ」という言葉は差別に結びついてイメージされるため、避けられることが多かった。

1961年には「社団法人北海道アイヌ協会」が「社団法人北海道ウタリ協会」と改称された。

「アイヌ」という名称をアイヌ自身が避けて、「ウタリ」と言い、行政もそれを採用して公的用語として長く使われてきた。

「日本書紀」と「古事記」に「蝦夷」は計80か所以上書かれているが、「エミシ」と読むことが明記された個所はなく、他の読み方も書かれてはいない。

「エミシ」は8世紀において古歌の中に見える勇猛な集団であり、ただヤマト王権がより東方に向かった時に出会う敵であった。

「日本書紀」に蘇我蝦夷(エミシ)と表記されている有名な人物は「日本書紀」より前の文献では、“蘇我毛人”と書かれていた。

今普通に蘇我蝦夷(エミシ)と言っているのは、蝦夷=エミシであった記憶が続いているからなのだろうか。


そこで“毛人”とは何かという問題が出てくる。

“毛人”は“エミシ”と読むのだろうか?

ヤマト王権は勢力拡張の過程で遭遇した武力集団を“エミシ”と名付け、東国へ勢力を進展させていく時、東方の強者は“エミシ”であった。

“エミシ”は抵抗勢力であるが、結果として征服されない“エミシ”はいない。

王権に取り込まれるからには強者であればある程、王権は高められる。

“エミシ”の讃美はマジョリティーの側によって巧妙に讃えられた意味である。


「古事記」「日本書紀」には“蝦夷”をなんと読むべきか書かれていないが、8世紀前半の養老年間に「日本書紀」の講読が行われ、“蝦夷”を“エビス”と読んでいる。

奈良時代には「毛人」や「蝦夷」という名前の人がたくさんいた。

阿部朝臣毛人、小野朝臣毛人、 大鴨君蝦夷など、姓を見ると有力者の一族であることが分かる人々もいる。

9世紀まで“エミシ”あるいは“エビス”がヤマトの人名にも使われたのは、古典的な名称として人々の意識に残ったからである。

      ・・・


本書「後書き」より


「古代の“蝦夷”はアイヌか?」という問題は、アイヌが“謎の民族”であるというイメージとともに長い間繰り返し議論されてきた。

とはいっても、それは明治以降のことで、アイヌをアイヌとしてのその出身を科学的な探求の対象としたのは、まず欧米の人々であった。


アイヌはどこから来たのか?

アイヌ語はどの言語と関係があるのか?

という問題は19世紀に関心の的となった。


それを受けて日本でも新しい学問が発達すると、当時“滅びゆく民族”と喧伝されたアイヌが興味深く取り上げられた。

アイヌは「北海道土旧土人保護法」によって、消え去る運命ゆえに、保護されるべきものとされ、日本の中で独自の文化をもつ民族として存在し続けていることは無視されてきた。


本書脱稿後の2008年8月6日、国会では衆参両院本会議において、アイヌを「先住民族」と認める議決が採択された。

1997年から試行された「アイヌ文化振興法」ではアイヌが「先住民」であることの認定は行われなかった。

その後の、日本政府に対する数度にわたる国連の人権関連機関からの勧告、

直接的には2007年9月に国連総会において「先住民族の権利に関する国連宣言」が採択された際に日本政府も賛成したことと、

2008年7月の北海道洞爺湖サミット開催が時期的な契機となったといわれている。


内実が問題だが、現在のアイヌを巡る社会的な状況は大きく変わってきており、アイヌの新世代の登場は輝いて見える。

そのような現在に置いて、アイヌ民族のことを知るために、“エミシ”、“エビス”、“エゾ”と言った名称にこだわることにどういう意味があるのだろうか?


はるか以前から、“エミシ”や“エゾ”という異民族の存在は日本の歴史の中で認識されてきた。

為政者は異民族の異質性を排除することで、日本という国や日本人という国民を成り立たせようとしてきた。

ある場合にはその存在を都合よく利用してきたのだった、現在に至るまで。


そのような態度は歴史的に蓄積され、一人一人が受けた教育の中、獲得した教養の中に沁み渡っている。

“エミシ”や“エゾ”という言葉を手掛かりにしてアイヌ観を説きほぐしていくーーそれは現在の私たち一人一人にとって、アイヌに寄り添う姿勢の基礎となるものである。

その作業はまだまだ先がある。


           (引用ここまで)


          *****


本書を一言でまとめるとすると、上記に引用させていただいた「あとがき」にある、筆者の以下の言葉になると思います。


>“エミシ”や“エゾ”という言葉を手掛かりにしてアイヌ観を説きほぐしていくーーそれは現在の私たち一人一人にとってアイヌに寄り添う姿勢の基礎となるものである。


私はこの筆者にお会いしたことがあるのですが、ここに言われている[アイヌに寄り添う]という言葉を、決して安易には用いない、学者としての節度を保った方であると感じました。

ヤマト民族は、アイヌ民族に対して、節度を保ち、礼節ある態度で接するべきである、というのが、この方とお話しして、心から共鳴したことでした。



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自然と共生、は作られたイメージ?・・東北アジア世界におけるアイヌ民族の活動

2012-05-03 | アイヌ
「アイヌ民族の軌跡」浪川健治著(日本史リブレット) を読んでみました。

アイヌ民族を、ヤマト民族と日本列島弧という場所に共に住処を分かち合い、長い時を共有した民族として捉えたたいという思いをひしひしと感じました。




           *****


        (引用ここから)


従来の研究は、和人の横暴とアイヌ社会の破壊を全面的に明らかにしてきた。

しかしながらそれらを歴史的な事実として踏まえたとしても、大きな問題がそこにはある。

それではそうした民族的な危機状況の中で、アイヌの人々は歴史的な主体性を喪失してしまったのか、ということである。


絵馬の中に描かれたセツ(熊飼育用の檻)の存在は、この場所でイオマンテが行われていたことを雄弁に物語っている。

幕領期には野蛮な風習として禁止されたにも関わらず、場所請負制と並存しながら「熊送り儀礼」は精神的な文化的伝統として継受されていたのである。


アイヌの人々は、場所請負制のもとでけっして一方的に逼塞させられ、おとしめられた存在とはなっていなかった。

「ソウヤ場所」のアイヌの人々の生産を見ると、場所での漁業労働に使役される雇用とともに、漁獲物や狩猟物などを請負人と相対で取引しては製品を入手する「自分稼ぎ」「自分商売」などと記される漁業、狩猟、山稼ぎ、手工業などの諸稼ぎがおこなわれていた。

取引形態の原則を「相対」とすることで、自らの手で和製品を入手する可能性を、なおアイヌ社会は持ち続けていた。

「余市アイヌ」も幕末までかなり独自性の高い漁業を維持している。

「クナシリ・メナシの蜂起」の際、クナシリのアイヌの人々がアイヌ社会の慣行に則らない飛騨屋の不法な経営に対して、飛騨屋の「場所」での雇用労働の拒否をもって答えたこと自体に明確に示されている。


場所請負制の下にあっても、アイヌの“自分稼ぎ”は請負人の思惑を超え、アイヌの人々が主体となって抜荷交易や対遠隔地出漁に展開する可能性をもつものでもあった。

中世から近世、そして近代に至る歴史の中でも、アイヌの人々は、交易の担い手としてきわめて行動的なダイナミズムの中に生きた民族であったことが理解されてくる。


そうしたアイヌの人々を「国家」という枠組の中にとらえ込もうとしたのが、日本を含む周辺の国家群の動きであったと言えよう。

アイヌの人々は前近代においては、そうした動きに対して公然たる蜂起と、なし崩しの交易活動によって自らの主体的な活動を営み続けていたのである。

しかしながらアイヌの人々はその後、アムール川下流域、サハリンの先住民族と同様に、近代の足音が高まると共に国家間のせめぎ合いの中でその活動を規制され、狩猟・漁労を生業の中心とするようになった。


民俗誌に記録され、現在もなお生きる「自然と共生する人々」というイメージは、そうした段階以降に作られたものである。


歴史の中のアイヌ民族は、東北アジアという地域とそこに流れた時間の中に活動的な主体として存在していた。

この事はアイヌ社会が、松前藩との関係だけではなく本州、特に北東北との地域的な関係と、東北アジア世界の変動との関わりの中に理解されなければならないことを意味している。

同時に二つの民族(ヤマト・アイヌ)と三つの文化(琉球・アイヌ・ヤマト)がこの列島弧の上に存在し、文化接触が繰り返されていたとするならば、

日本史は国家の枠組みを前提とする「日本」史ではなく、列島弧における文化と社会の在りどころを、時という視点から問い直すものとして再構成されなければならないのである。


            (引用ここまで)

 
              *****

著者は次のように述べています。


>そうしたアイヌの人々を「国家」という枠組の中にとらえ込もうとしたのが、日本を含む周辺の国家群の動きであったと言えよう。

>アイヌの人々は前近代においては、そうした動きに対して公然たる蜂起と、なし崩しの交易活動によって自らの主体的な活動を営み続けていたのである。


確かに、アイヌ民族の方たちが昔を回顧し、昔は良かったと語る時、それは江戸時代までをイメージしているように思われます。

明治時代に至りわが民族の不幸は最大になった、と語っていることが多いように思います。

近代国家主義が、少数民族、先住民族の方たちの生存を決定的に否定してしまったのであり、その少し前までは、彼ら独自の世界を保つことは可能であったのだと思われます。

著者は続いて次のように述べます。


>しかしながらアイヌの人々はその後、アムール川下流域、サハリンの先住民族と同様に、近代の足音が高まると共に国家間のせめぎ合いの中でその活動を規制され、狩猟・漁労を生業の中心とするようになった。


>民俗誌に記録され、現在もなお生きる「自然と共生する人々」というイメージは、そうした段階以降に作られたものである。


この著述の部分を、わたしは本当に驚きつつ読みました。

これは非常に大きなテーマかもしれないと思いました。



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