ずっと気になっている裁判員裁判制度について、ずいぶん古い記事になりますが、投稿しておきます。
ここで弁護士五十嵐氏が指摘しているような、「一般市民」と呼ばれる人間の他者の犯罪への処罰感情の揺れ幅の部分が、実際に他者を法律的に判じるに至る過程が、果たして正当なものであるのか否か、心が揺れ続けています。
人間にとっての法とはなにかという、大変に根源的な問いの答えを出すのは、もう少し議論を尽くした後の方がよいのではないかという思いが断ち切れません。
日常生活の中で起きる犯罪という罪を罰する原理はどこにあるのでしょう。
裁判官が裁けばよくて、一般市民が裁くのはよくないと言っているわけではありません。
むしろ、このように、罪とは、罰とは、という問いを一般的に考える機会を与えてくれているということは裁判員制度の大いなるメリットだと思います。
されど、、生身の人間の無明の世界を照らす光とはどこにあるのだろうか、と思い続けています。
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2009・10・22
「裁判員裁判・・検察側が圧倒する公判運営」 弁護士・五十嵐二葉
9月29日から4日間、福島地裁郡山支部で裁判員裁判を傍聴した。
本格的に殺意を争う初めての殺人事件で注目されたが、懲役17年(求刑20年)という重い判決の審理に、裁判員制度の多くの問題点が見えた。
被告が店長を務めるスナックの開店祝いに被害者が来なかったことが事件の発端だった。
謝罪させるために関係者が被害者を呼び出し、被告が包丁で刺した。
弁護人は、包丁は体格で勝る被害者を脅そうと用意したものであり、刺したのは被害者に殴られての咄嗟の行動で「殺すつもりはなかった」と主張したが、退けられた。
だが、判決は「犯行時には明確な殺意(確定的な殺意)とする一方で「殺してもかまわないと考え」(未必の故意)ともし、争点である殺意の認定に矛盾を残した。
裁判員が判決後の会見で、4日の公判は限界としながらも、「必要な審理としてはもう3,4日の
時間があれば」と言ったのは争点が十分解明されなかったことを見抜いた市民の聡明さだろう。
にもかかわらず重い判決となったのは、参加する市民の負担を軽減するためとする公判運営と無縁ではない。
郡山では証人を傍聴席に置いたまま、検察官が当人の調書をディスプレーに順次写しながら全文を朗読した。
当人が話さずに 「調書」で検察側から見た事件像をまず裁判員と裁判官に刷り込む。
尋問は「調書を補充してお聞きします」と前置きをして始まった。
外国の法曹関係者に知られたら呆れられるだろう。
警察官や検察官の「作文」と国際的に非難されている供述書中心の日本で、裁判員制度は市民が参加することで証人から生の証言を聞く「直接主義、口頭主義」を実現すると多くの法曹が考え、歓迎した。
だが、ふたを開けてみれば「調書朗読裁判」で従来以上に検察側の見方が裁判員の心証を圧倒した。
重い判決につながったもう一つの要因が、被害感情を軸に据えた証拠調べだ。
証人4人のうち、争点の殺意関係と被告側情状証人が一人ずつで、あとは被害者の兄と内縁の
妻。女性検察官は被害者と内妻の、戦前の少女小説ばりの「純愛物語調書」を延々と読み上げた。
裁判員裁判は、これまでのところ被告を「社会の敵」と「たまたま間違いを犯してしまった隣人」にくっきり二分している。
東京地裁の隣人殺人(懲役15年、求刑16年)などは従来より量刑が重く、神戸地裁の父親への無理心中未遂(懲役3年執行猶予4年、求刑5年)などは軽いうえに判決後に被告へ応援の言葉まで付けた。
郡山では被告が属する露天商組合を暴力団、被害者は暴力団を抜けた善良な市民とする検察側の構図がそのまま判決になった。
検察官4人に対して一人だけの弁護士はプレゼン機器利用も含めて力量不足は否めなかった。
検察側の見解が圧倒する形の公判で、真実の発見が損なわれることがないか。
今後の裁判員裁判でも気がかりなところだ。
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朝日新聞2010年5月18日
「裁くということ・裁判員経験者アンケートから(2)」・・評議の方向、裁判長次第』
評議は非公開、被告が有罪か無罪かや、刑の重さを話し合う過程は見えない。
ある裁判員経験者によると、刑の決め方はこんなイメージだ。
議論の最後に「自分が適切だと思う量刑」をそれぞれ紙に書き、裁判官が一枚ずつ読み上げる。
検察側の求刑に賛同する裁判員、被告の年齢を考えると、と軽い刑を書き込んだ裁判員、裁判官も含めた多数決の末、求刑よりやや軽い刑に落ち着いた。
「執行猶予をつけることもできるんですが、まあ、つけない方向でね。。」
東日本の裁判員経験者は、評議の時に裁判長が「進めたい方向」に話を運んでいるように見えた。
過去の似た事件での判決のデータを示されると、その範囲でしか意見を言えない雰囲気になった。
早く終わらせたい雰囲気が自分にも周囲にもあり、納得できなくても、そうは言えなかった。
「刑務所でどんな生活を送るかも知らずに意見を言ってしまった』と悔やむ。
西日本のある地裁で開かれた傷害致死の裁判で裁判員を務めた男性は、
検察官が説明する被害者の死亡推定時刻が、被告本人が主張する時刻に数時間のずれがあったことに疑問を抱いた。
「解剖医にも聞きたい」と考え、証人を追加できないか裁判官に聞いた。
裁判官は時刻のずれについて「誤差の範囲内です」と述べ、日程的にも新たな証人は呼べないと言った。
「まあ、待って下さい」
「その話は置いておいて」
男性が議論を促そうと突っ込んだ発言をすると裁判官に止められたという。
まったく逆の感想もある。
昨秋、大坂地裁で行われた審理に参加した男性会社員は「どうせ裁判官が先に結論を決めていて、我々はそれに付き合わされるだけだ」という冷めた気持だった。
しかし評議が始まると、3人の裁判官は専ら裁判員の意見を引き出す役に徹し、裁判員が一通り意見を出し終えた後にしか自分の意見を言わなかった。
素晴らしいマネージメント能力だ」と見方が一変した。
一方では「裁判長の人柄に負う部分が大きい」という思いも生じた。
議論を誘導したり、裁判員の意見を充分聞かなかったりする裁判長だったらどうなったか。
「どんな評議が行われたのか、ある程度客観的に検証できるような基準をつくるべきでは」と考える。
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2010年5月18日朝日新聞
「裁判員の量刑、検察側求刑の77%」
裁判員が加わって出した実刑判決の、検察官の求刑に対する懲役期間の割合は、2010年5月14日現在で平均77%だったことが朝日新聞社の集計で分かった。
全体としては求刑の8割前後の量刑が示されることが多いと言われてきた従来の刑事裁判と同じ水準。
一方で求刑の半分に満たない判決もあり、スタート前から予想された通り、量刑の幅がやや広がっていると言えそうだ。
裁判員制度開始一年を前に全国の取材網を通じて集計した。
今月14日までに判決を受けた被告511人中、実刑だったのは422人。
このうち求刑通りの判決は24人(6%)。
懲役期間が求刑の8割以上だったのは201人(48%)、7割以上が314人(74%)を占めた。
10%ずつ区切って調べると80%以上90%未満が132人(31%)で最も多かった。
検察官の求刑より重い刑を言い渡した判決はなかった。
一方、求刑の5割未満の判決を言い渡された被告も2人いた。
最もかけ離れていたのは札幌地裁で2月に審理された傷害致死事件。
懲役4年の求刑にたいして懲役1年6カ月の実刑だった。
実刑ではないが昨年11月末から12月初めに神戸地裁で審理された事件で、懲役8年の求刑に対して懲役3年、執行猶予5年の判決が出たケースもあった。
検察側は従来なら控訴したようなケースでも、市民の判断を尊重して一件も控訴しておらず、量刑の幅の広がりを容認している。
一方、執行猶予の判決を受けたのは89人。
猶予期間の間に保護観察官や保護司が生活を見守る「保護観察」を一緒に付けられた人が半分以上の50人もいた。
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