始まりに向かって

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ゲルマンvsローマ、そして、、多様性が文化である・・植田重雄氏「ヨーロッパの祭りと伝承」

2016-12-30 | 古代キリスト教


クリスマスの季節、植田重雄氏著「ヨーロッパの祭りと伝承」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

        *****

      (引用ここから)


濃緑の「モミの木」の枝ごとに蝋燭の火が輝き、さまざまな飾り物や人形を吊り下げた「クリスマスツリー」は、いつ頃、どのようにして登場するようになったのだろうか?

12月21日・22日は「冬至」で、日が一番短い。

しかしこの日を境に、再び日は長くなる。

冬から春への、転換の日である。

古代から人々は、この「冬至」を、光の誕生として祝ってきた。

森に行って、「モミの枝」を折り、家の戸口や部屋に立てかけた。

それは若々しい生命を、家に運んでくることを意味していた。


すでに古代ローマ時代から、ローマ人は季節の変わり目ごとに「月桂樹の枝」を戸口に飾って祝う風習があった。


「クリスマス」を迎えるにあたり、「モミの木」の枝で、人間の体に軽く触れたり叩いたりする作法がある。

緑の若枝に生命の霊力があり、これによって災いを除き、祝福を願う。

「聖ニコラウス(=サンタクロース)」のお伴のルプレヒトは、「柳の鞭」で躾の悪い子を叩き、怖がらせたが、本来は、叱るよりも子供が育つように生命力を与えるためであった。

「柳」の旺盛な成長力は、「モミの木」と同じように注目されていた。


「クリスマスツリー」が最初に現れたのは、今から大体300年前で、宗教改革後である。

ドイツのアルザス地方の古い小都市の記録によれば、「1605年、「モミの木」を部屋に立て、これにビスケットやリンゴを吊るしていた」とあり、さらに少し遅れて、「ツリーに色紙で作ったものや砂糖の塊、パンなども吊るしていた」と記されている。

これが現在知られている最も古い記録である。

1708年、フランスのオルレアン大公妃は、手紙に次のように書いている。

「さて机を祭壇のように整え、たとえば新調の衣装、銀製品、人形、砂糖菓子、その他いろいろなものを並べて飾ります。

この机の上に、「つげの木」を置き、枝ごとに蝋燭を固定して火を点すと、実にすばらしくなります」。


「クリスマスツリー」が出現する以前、「ピラミーデ」とよばれる特別な燭台があった。

これは木の枝のように、いくつも蝋燭を立てるように、横木が出ている。

「常緑樹の枝」に映える蝋燭の光は、「ピラミーデ」よりはるかに美しく立体的となる。

この「木の装飾」は、バイエルン、ハノーファー、オーストリア、フランスへと広まっていった。

やがて新大陸へ渡り、「モミの木」の「クリスマスツリー」は世界的に伝播し、「クリスマス」の象徴のようになっていった。


「クリスマスツリー」が目覚ましく発展するのは、宗教改革以後の福音派の気風によるところが多い。

カトリックでは、樹木を祀り、ものを吊るすのは、原始的なゲルマンの古い呪術であり、異教的習俗として禁止していた。

ゲルマンには、「イグドラジル」と呼ばれる、地底の世界に深く根を張り、天界にまで届く〝巨大な聖樹″の神話がある。

ゲルマン人は、それぞれが〝聖樹″とあがめる樹木の下に集まって、事を議したり、神々に祈りかつ踊った。

そこは、部族や家族の和合の中心であった。

「樹木」の旺盛な生命力や持続性は、畏敬の念を呼び起こす。

歴史の過程において、「樹木」は聖書の「生命の樹」の観念と結びついてゆき、さらにキリストの「十字架の木」ともつながっていった。

その後、カトリックは「クリスマスツリー」を容認したが、蝋燭や華やかなデコレーションは禁じている。

次の民謡は、「モミの木」に寄せるゲルマン人の心情をよく伝えている。


おお モミの木よ おまえの葉は美しい緑

夏だけ青いのではなく 雪の降る冬も青い

おお モミの木よ おまえの葉は美しい緑

おお モミの木よ おまえは私にとってすばらしいもの

クリスマスには おまえから 尊い喜びが与えられる

おお モミの木よ おまえの姿はいろいろ教えてくれる

希望と忍耐 慰めと力



生命の「緑」と、希望の蝋燭の光が輝く「クリスマスツリー」は、キリスト誕生の奇跡にふさわしい「木」となった。

すべての天の星のごとくまたたく光の中で、メシアの誕生を告知する天使の大きな星が、頂上で一際輝く。

古い習俗を包含しながら、その意味を高めてきた「クリスマスツリー」に、ヨーロッパの祈りと願いが結晶していった。

           (引用ここまで)

             *****

さて、この本の「後書き」で、植田氏は次のような感想を述べておられます。

            *****

          (引用ここから)


モーゼル湖畔の古い町の民族博物館で、古代ゲルマンの壺や皿などの土器の前に佇んだ時、あまりに縄文のそれに似通っているので、何度も行きつ戻りつして観ていたことがある。

私が「日本の古い土器に似ている」と館員に言うと、「歴史を遡り、この時代になると、皆共通してくるのですよ」と、さりげなく言っていた。

インカもアジアもヨーロッパも、皆同じになる。

ゲルマンの大振りな壺を見ていると、ある共通の情感が喚起されてくるのである。


ドイツ各地にはゲルマンの遺物以外に、「ドルイドの石」とよばれる石柱や巨石の遺跡がある。

先住民・ケルト人が残したものである。

彼らには統一王国も無く、ゲルマンの進出と共に大陸から後退していった謎の民族である。

ゲルマンやラテンで説明のつかぬ地名の多くは、ケルト人がつけた名である。


やがてローマ帝国が北方進出を図り、多くのローマ文化が中部ヨーロッパに進出してゆく。

ローマ風の城壁や都市、神殿、浴場、ワインや果樹、新しい品種の穀物、農耕、牧畜の技術が入ってくる。


しかし西暦紀元9年頃から、ゲルマン人のローマに対する反撃が始まる。

その後ローマ帝国に侵入するほどの勢いとなり、西暦476年にはついに西ローマ帝国は滅亡した。

すでに大激動の中で胎動し始めたキリスト教は、次第に信仰・文化の中心を形成し、やがてヨーロッパへの伝道・布教により、キリスト教化がなされ、中世の文化と歴史が形成されてゆく。


しかしヨーロッパは決して単一単調な層から成り立っているのではなく、きわめて複雑で多岐にわたって重層をなしている。

しかも単に年代順に重なっているのではなく、混合したり、意味転換したり、吸収したり、されたり、はみ出すといった様相を呈している。


ヨーロッパの人々が一年間に行う民間習俗の行事や祭りを見てゆくと、この重層性がはっきりしてくる。

ゲルマンの神々の資料は意外に乏しく、原型を辿ることは困難であるが、

奇怪な魔群の表象やデーモン化は、むしろキリスト教以後のもので、決して本来のものではない。

はじめは冬の嵐や夜の闇の中にヴォーダンの神の声を聴く、厳粛な慎み、物忌みを表したものであると、私は思う。


文化は迷路である。

それはどこからどこへと区切ることもできないし、全然つながらないと思っているものが思いがけずつながることもある。

入口や出口はあるにしても、一直線にすることはできない。

そうすれば、それは文化ではなくなる。

多様性が文化である。

多種多様な文化を覆い、産み出している力や根源が何か、ということである。


  (引用ここまで・写真(下)は家にある「聖家族と聖エリザベト、洗礼の聖ヨハネと聖カタリナ」)

           *****


wikipedia「ピラミーデ」(メノーラー=ユダヤ教の7本の燭台のことか?)

wikipedia「ユグドラシル=北欧神話の世界樹」

wikipedia「クネヒト・ユープレヒト(聖ニコラウスのお伴)」



クリスマスツリーの歴史は300年しかないのですね。

しかし、その根元には重層的に幾重にも人類の「樹」への思いが込められているのですね。


「文化は迷路である。多様性が文化である」。。

いい言葉だと思いました。

ハッピーメリークリスマスが過ぎ、もうすぐ嬉しいお正月ですね。


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サンタクロースが配っているのはあの世からのプレゼント・・葛野浩昭氏著「サンタクロースの大旅行」(3)

2016-12-28 | 古代キリスト教


サンタクロースの服が赤いのは、コカ・コーラのボトルの色のイメージ広告に合わせて作られたという話をご存じでしたか?

怖い異界の老人であり、冬の神々の一人であった「聖ニコラウス」が、気前のいい子ども好きなおじいさんになったのも、このアメリカでのコカ・コーラの広告イメージによって、つい最近のことだということです。




引き続き、クリスマスとは何か、サンタクロースとは誰かを考えるために、葛野浩昭氏著「サンタクロースの大旅行」という本のご紹介を続けさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
 
              *****

           (引用ここから)

「オーディン」が死者の国との間を行き来する際、駿馬にまたがります。

駿馬は、この世とあの世をつなぐ乗り物なのですが、この馬は〝8本足″だとされています。

このことを知ると誰もが、「サンタクロース」が8頭立てのトナカイのソリに乗ってやって来ることを思い出すでしょう。

「オーディン」に駿馬がいるように、雷神「トール」には、2頭の雄ヤギがいます。

「トール」は、これら2頭の雄ヤギが引く車に乗る神であり、その車がたてる轟が雷なのです。

フィンランドで「サンタクロース」を「クリスマスの雄ヤギ」と呼び、「サンタクロース」が雄ヤギを連れていることは、「クリスマス」の陰に「ユール祭」があり、「サンタクロース」の陰に雷神「トール」がいることを物語っているのです。


「サンタクロース」の祖形である「オーディン」あるいは「トール」が空を駆け巡る鬼神だとすれば、

彼らが人間の家を訪れる時に、煙突を通って入ってくることは自然なことだ、と言えるでしょう。

空へと立ち昇る煙や水蒸気が通る〝煙出し"は、空と大地、あの世とこの世、神々の世界と人間の世界とをつなぐ通路でもあるのです。


また、この煙突や煙に縁が深いのが、クリスマスの季節になるとケーキ屋さんに並ぶ丸太型のケーキ「ブッシュドノエル」です。

これは「12夜」の間、太陽が再び力強く輝くことを助けるために焚かれた「ユールの丸太」を原型としています。

これが「オーディン」に捧げられたことは、もちろんです。


「クランプス」は大きな角のついた仮面をかぶり、全身に黒いヤギの毛皮をまとっていました。

「シャープ」は麦藁で全身を包んでいました。

「聖ニコラウス祭」ではありませんが、スイスでは、大晦日(ユリウス暦の大晦日=1月13日)の夜、「醜いクロイセ」「野生のクロイセ」「美しいクロイセ」と呼ばれる3種の〝仮面仮装来訪神″が姿を現します。

「醜いクロイセ」は、ブタやウシの歯と毛皮で作った仮面を被り、全身をモミの小枝やシダ、そして麦藁で包まれています。

さらに北欧で「クリスマスの木」に飾られてきた麦藁製の雄ヤギ人形もあり、「クリスマス」の原型である「ユール祭」では、やはり麦藁製の「ユール男人形」も飾られました。

麦藁で全身を包むのは、それらが「穀物神」であることを物語っています。

「クロイセ」は大きな鈴を鳴らしながら、村や畑を歩き回るのですが、それは悪霊を払うと同時に、農地の力を再強化するためだとされています。


ですからこれらの祭は、その年の収穫に感謝し、新しい年の豊作を祈るための祭りでもあり、

来訪する神々は、新しい年の豊作を予祝する者でもあるのです。

神々の仮面・仮装は、豊穣の力を表してもいるのです。

肩からかけた〝背負い袋″は、あの世を想起させて脅す道具でもあり、この世とあの世を繋ぐトンネルのようなものだと考えるべきでしょう。

もし「聖ニコラウス」や「サンタクロース」が〝背負い袋″の中からプレゼントを取り出すのだとしたら、それは、あの世からの祝福だということになります。


17世紀頃まで、ヨーロッパ中部・北部一帯は、ミズナラやブナなどのうっそうとした森に覆われていました。

日本の森は人里離れた所にそびえる「山地林」が大方ですが、ヨーロッパの森は「平地林」がほとんどです。

ですからヨーロッパでは、うっそうとした森が人々の日常生活のすぐそばにまで覆いかぶさり、村と言っても、それは広大な森の所々に飛び地的に切り開かれた空き地のようなものだったのです。

「聖ニコラウス祭」には、ブタが深く結びついていました。

これは村人たちが森の中に放し飼いにしていたブタを「聖ニコラウス祭」の季節に屠畜してきたからで、

ヨーロッパには、森の広さを〝ブタを何頭養える広さ″と表現する伝統さえあります。

このように森はブタを放し飼いにし、またハチミツを採り、薪や材木も調達してくる大切な恵みの場所であり、豊穣のシンボルでした。

しかしこの森は同時に、「赤ずきん」の狼が住む死の世界であり、「白雪姫」の小人たちがすむ妖精の世界でもありました。

そこは闇が支配する世界で、恐ろしい神々も住んでいたのです。


           (引用ここまで)

            *****

北欧神話については、次回から見てみたいと思います。

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クリスマスの、異神たちの影・・葛野浩昭氏著「サンタクロースの大旅行」(2)

2016-12-25 | 古代キリスト教



冬至のゆずが店先を賑わせたのもつかの間、もうクリスマスです。。

クリスマスとは何か、サンタクロースとは誰かを考えるために、葛野浩昭氏著「サンタクロースの大旅行」のご紹介を続けさせていただきます。



リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

ここに書かれている、〝ヨーロッパの異形の神々”たち、日本人にはなじみがないですね。

でも、これがどういう感じのものなのか感じることができないと、ヨーロッパについてなにも分からないままですね。

年内いっぱい、このことにかかりきりになるかもしれません。


               *****

             (引用ここから)


「聖ニコラウス祭」に登場する異形の神々

ヨーロッパにはキリスト教の聖人にちなんだ祭りが少なくありませんが、12月6日に行われる「聖ニコラウス祭」もその一つです。

ところが、中部ヨーロッパのカトリック圏の村々で今も行われている「聖ニコラウス祭」では、子供たちの守護聖人「聖ニコラウス」のイメージにはおよそ似つかわしくないような、実におどろおどろしい〝異形の神々″が姿を現します。

オーストリア中部の祭の様子を見てみましょう。

                ・・・

(福嶋正純著「魔物たちの夜・聖ニコラウス祭の習俗」より

カトリックの地方では、その前夜、赤い祭司帽を頭にし、司教の衣装を身に着けた「聖ニコラウス」が、恐ろしい姿のお伴を連れて、子供のいる家を訪れて、子供の行状を調べて回る風習がある。

キリストの救いの技を念じる「ロザリオの祈り」を空で唱えることができた子や、行儀の良い子には、リンゴ、くるみ、クッキーなどの褒美を与えるが、

お祈りがうまく出来なかった子や、素行の悪い子には、恐ろしい姿のお伴が、肩にした袋に入れて連れて帰るそぶりを見せたり、鞭で脅して手荒に説教を加えたりする。

聖者には、恐ろしい姿をしたクランプスがお伴として付き添っている。

このお伴は、黒いもじゃもじゃの毛皮を身にまとっていて、後ろには〝悪魔のしっぽ″をつけている。

頭に2本の角、お面からは炎のような舌が突き出ている。

クランプスが姿を見せると、子供は皆、不安と恐怖にからだがこわばる。

              ・・・


他にも、麦わらで身を包んだシャープが、激しく鞭を打ち鳴らしながら姿を現します。

また、冬・死者・太陽・魔術の神であり、ゲルマンの神々の長とされる「ヴォータン」も、白馬のハリボテに跨って登場します。


サンタクロースの裏側に生きる神々

オーストリア生まれの民俗学者ヨーゼフ・クライナーは、中部ヨーロッパの年間行事が11月中旬から翌年6月中旬までの7か月に集中していること、

そしてこの行事に、はっきりと3つのサイクルが認められることを指摘しています。

第1のサイクルは、クリスマスと正月を中心として、11月から1月6日までの祭で、これには「聖ニコラウス祭」(1月6日)の他に、聖マーチン祭、聖ルチア祭が含まれます。

第2のサイクルは、3月~4月あたりの、「復活祭」を中心とするもの。

第3のサイクルは、「5月祭」や「聖霊降臨祭」を含む5月の一連の行事祭です。


そして第1のサイクルが、中部ヨーロッパの古代ゲルマン民族の正月を、

第2のサイクルが、地中海文化の古代ローマの正月を、

そして第3のサイクルは、北欧のゲルマン文化の正月を中心にしていると言います。


「聖ニコラウス祭」を含む「第1のサイクル」の性格を最も端的に現しているのが、「12夜」あるいは「荒々しい夜」と呼ばれる正月前後の12日間です。

その中でも「クリスマスイブ」にあたる12月24日、大晦日、そしてギリシア正教の正月にあたる1月6日の3つの夜が最も危険で、絶対に外を出歩いてはいけないとされています。

この「12夜」、「荒々しい夜」は、年の変わり目ですから、時間の流れに裂け目ができ、それゆえこの世とあの世との境にも裂け目ができるとされます。

そこでこの夜には、死者たちの魂が、この世を荒らしにやって来て、闇の大空を駆け巡ると信じられたわけです。

この死者の魂たちの大群の先頭に立つのが、古代ゲルマンの神々の長である「ヴォータン」(この「ヴォータン」が英語の水曜日=wednesdayの語源)です。

「ヴォータン」は、北欧神話の中で第一の神「オーディン」としても有名です。

「オーディン」は死者の国との間を行き来する神であり、魔術の神です。


また彼は、太陽や月の運行を司る神でもあります。

この年の変わり目はすでに、12月6日の「聖ニコラウス祭」の時に始まっています。

というのも「聖ニコラウス祭」には「ヴォータン」「オーディン」が姿を現しているからです。

「聖ニコラウス祭」もまた、時の流れが割けて、この世とあの世の境が割ける、年の変わり目の季節儀礼だと考えるべきでしょう。

そして「ヴォータン」達と一緒に姿を現す「聖ニコラウス」も、年の変わり目にあの世から来訪する「来訪神」だと考えなけらばなりません。


それではどうして今の「クリスマス」と「正月」を中心とした季節が、年の変わり目と考えられてきたのでしょうか?

それは、この季節が「冬至」に当たるからです。

冬へと向かって太陽の力が徐々に弱まってゆき、そして「冬至」を境に再び力を盛り返す、この太陽の死と再生のシンボリズムが「冬至」に年の変わり目を設定させたのです。



ヨーロッパでは古くから、各地でさまざまな「冬至祭」が催されてきました。

帝政時代のローマでは、「太陽神ミトラ」を祀る「冬至祭」が行われました。

ミトラは「無敵の太陽」と呼ばれ、祭は12月25日に行われました。

また、種蒔きと農耕の神であるサトゥルヌスの祭も、12月17日~24日まで、どんちゃん騒ぎとして祝われました。

このサトゥルヌスは、英語の土曜日(saturday)の語源です。


イエス・キリストの誕生日が12月25日に定められたのは、「ミトラの冬至祭」を取り入れたからです。

さらに北欧でも「冬至」を年の変わり目とする祭「ユール」があり、主神「オーディン」や雷神「トール」(=木曜日thursdayの語源)、豊穣神フレイ(=金曜日fraydayの語源)を祭りました。

今でも北欧では、「クリスマス」のことを「ユール」または「ヨウル」と呼びます。



      (引用ここまで・写真(上)はゆず、写真(下)は我が家のアドベントカレンダー)

            *****

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葛野浩昭氏著「サンタクロースの大旅行」(1)・・サンタはブタに乗ってやってきた

2016-12-22 | 古代キリスト教



クリスマスの季節がやってきました。

我が家にも、きれいなアドベントカードが届きました。

聖なる日12月25日を心待ちにする楽しみを、わたしも味わっています。

そこで、サンタクロースに関する本を探して、葛野浩昭氏著「サンタクロースの大旅行」という本を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。




           *****

         (引用ここから)



「サンタクロースって誰?」と子供に聞かれたら、

「昔々、今から1700年も前に、今のトルコあたりに住んでいたキリスト教のお坊さんで、君たち子ども達の味方として活躍した「聖ニコラウス」という人のことだよ。

この「聖ニコラウス」、つまり「セント・ニコラウス」が、なまって「サンタクロース」という名前になったってわけさ」。

と、ここまでなら答えられる人も少なくないことでしょう。


しかし、「サンタクロース」は、私達の目の前に「サンタクロース」らしい姿で立ち現われてくるまでに、大変な大旅行を潜り抜けてきています。

「サンタクロース」や「クリスマス」の謎を解くには、トルコに住んだとされる「聖ニコラウス」がどのような人物だったのか?、

そしてこの「聖ニコラウス」への信仰を受け入れ、それを変形させたヨーロッパが、いったいどのような文化や歴史をもった土地柄なのかを考えることが、出発点になるでしょう。



聖ニコラウスとブタの不気味な関係

「サンタクロース」と「トナカイ」は、今や、切っても切れない関係にあります。

ところが、古い時代のクリスマスカードを眺めていると、「トナカイ」の登場するカードが意外なほどに少ないことに気が付きます。

そして、トナカイの代わりに活躍するのは、なんとブタなのです。


ヨーロッパの中部・北部が、あたり一面うっそうとした森に覆われていた17世紀頃まで、人々はブタを、村を取り囲む森の中に放し飼いにしていました。

ブタは、秋の間にドングリを食べて肥え太りますから、人々は初冬を待って、ブタを捕らえて、料理して食べました。

そして、「サンタクロース」のモデルでもある「聖ニコラウス」を祝う12月6日=「聖ニコラウスの日」は、そのブタを屠畜して食べる季節の始まりに当たっていたのです。

ブタは、料理されて食べられることで、聖なる供物へと変身します。

ブタは、それ自体が豊かな森の恵みの象徴でしたし、またドングリ=穀物の霊が宿っているとも考えられたからです。

ヨーロッパ中部・北部の人々は、「冬の神」としても恐れていた「ヴォータン」(北欧神話の「オーディン」)や、豊穣の神「フレイ」(オーディンの孫)へとブタを捧げ、そのことで翌年の穀物の豊作を祈ってきたのです。

このように「聖ニコラウス」信仰の裏側には、異郷の神たちへの民俗信仰がありました。


「聖人ニコラウス」は、かつてミュラと呼ばれたギリシア人の町(現在のトルコのデムレ)の司教を務め、西暦271年~342年12月6日まで生きていた、と伝えられます。

死後、その遺体はミュラに葬られましたが、トルコ人によって破壊され、1087年になって、遺骨は南イタリアのバーリへと運ばれて、「聖ニコラウス教会」に納められていると伝えられます。

聖人としての「聖ニコラウス」の姿を知るための公式資料は、13世紀のドミニコ会士でありジェノバ市の大司教も務めた人が集成した、「黄金伝説」という聖人伝説集です。

聖職者がミサや修道院の食事の際に、その日が記念日である聖人や殉教者を模範とするために、その生涯を朗読したものです。

そのため、中世においては聖書以上のベストセラーでした。

この中に「聖ニコラウス」に肩を並べる者、あるいはそれ以上に紙数を割いて紹介されている者は、聖ペテロ、聖パウロなどの7使徒や大天使ミカエルなど、極めて有名な24人のみです。

また「聖ニコラウス」に捧げられた教会、すなわち「聖ニコラウス教会」の数は、2000にも及ぶと言われます。

「聖ニコラウス」は、抜群の民衆的人気を博した聖人ですが、特に船乗り、パン職人、仕立て屋、織工、肉屋、公証人、弁護士、学生、乙女・子どもの守護聖人として有名でした。

             (引用ここまで)

               *****


主婦であるわたしは、クリスマスというと、何の料理を作ろうか、と思わず考えるのですが、たしかに、肉料理がメインなのは間違いないですよね。

心の中には、クリスマスと大晦日とお正月がごちゃごちゃに連続していて、主婦は料理の食材を集めることとメニューのことで頭がいっぱいになるのです。

ローストチキン、ローストビーフ、ローストポーク、、なにをメインディッシュにするか、心弾むひと時です。

「クリスマスと言えばブタ」と聞いたからには、今年はローストポークにしてみましょうか?。。

新聞の夕刊を開くと、トナカイが絶滅の危機にあるという記事がありました。

これも気がかりな出来事です。

                 ・・・


「温暖化の影響、サンタにも? トナカイが絶滅危惧種に」
                      朝日新聞 2016・12・19


地球温暖化の影響が、サンタクロースのそりの引き手にも忍び寄っている。

気温上昇で北極圏のトナカイがエサを取れずに餓死したり、やせ細ったりしているという論文が相次いで報告された。

「国際自然保護連合」(本部・スイス)も温暖化でトナカイの生息数が減っているとして、新たに絶滅危惧種に分類した。

英国やノルウェーの研究チームは今月英国で開かれた学会で、北極圏のトナカイの体重が1994年から2010年までに12%減ったと発表した。

研究者は温暖化の影響の可能性があると指摘する。

北極圏で気温が上昇して雪が雨に変わると、冬場に草地が氷で覆われてエサが取りにくくなるからだという。

フィンランドやオーストリアなどの研究チームも11月、やはり気温上昇の影響で、トナカイが餓死の危機に陥っているとする論文を英専門誌「バイオロジー・レターズ」電子版に発表した。

2013~14年にロシアのヤマル半島では約6万頭が死んだという。

IUCNは今年公表した「レッドリスト」でトナカイを初めて絶滅危惧種に分類。

絶滅の恐れはない「軽度懸念」から、絶滅の危険が増大している「絶滅危惧2類」に引き上げた。

約21~27年間で個体数が40%減少したと推定している。

               ・・・・・

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浅海さち子さん「谷間の生霊たち」・・重度身障者の不条理の世界

2016-12-19 | 心身障がい


日本の障がい者の歴史を調べている中に、障がい者を描いた文学として、太宰治賞受賞作があるということを知りました。

初めて聞く小説が紹介されていたので、読んでみました。

浅海さち子著「谷間の生霊(せいれい)たち」という本です。

1975年刊行で、県立図書館でやっと借りられました。

タイトルを見た時、これは「いきりょう」だろうか、「せいれい」だろうか、「しょうりょう」だろうか?と感じました。

おそらくそれらがミックスされた濃密な文学空間に違いない、、と思い、期待して読みました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

              *****

           (引用ここから)

奈々枝は、毎日、11時間はたっぷりと眠る。

エチオピアの少年のような華奢な彼女の、信じがたいほどの丈夫さは、その熟睡の中から生まれるのかも知れない。

その朝も、起床は8時過ぎだった。

重度心身障害者施設「山麓病院」に補助看護婦として勤める奈々枝の日々は、時を忘れるほどに充実して、明るいものだった。

小牧院長が週に2度ずつ診療している東京の大学病院で、特別に重症と診断された重症心身障害児だけが、都心から3時間も離れたこの私設の病院へ送られてくるのである。


「オハヨウゴザイマス」。

奈々枝は受付や薬局のドアを開けて、一々丁寧に挨拶をする。

「おはよう、奈々枝ちゃん」。

奈々枝を可愛がっている薬剤師の杉正子は、どんなに多忙な時でもドアまで出て、奈々枝と握手を交わす。

奈々枝もそれを楽しみにしている。

知恵遅れで誰にも相手にされず、世間から隔離されて育った奈々枝を、補助看護婦に採用したのは小牧院長だった。

病院の創立後まもなく、炊事場で働くことになった母親の腰巾着だった奈々枝は、院長の目に留まった。

純なやさしい性格は、病室の児らにもなつかれ、食事も忘れて児らの面倒を見るようになり、やがては毎日欠かさず出勤するようになっていた。

そんな奈々枝をいじらしく見ていた院長は、奈々枝の雇用を思い立った。

長い廊下を渡って病室へ入ると、消毒液の臭いや暖房用の石油ストーブの臭い、大小便の臭いなどが、わあっと奈々枝に押し寄せる。

尿の臭気が特に強いのは、患者たちが分厚いおむつを濡らしている時刻なのだ。


「ミナサン、オハヨウゴザイマス」。

元気いっぱいの奈々枝の挨拶に、どこからも応答はなかった。

家庭のベビーベッドのように柵を巡らされた特殊なベッド群の中から、「う、う」と弱弱しいうめき声が漏れただけであった。

奈々枝の所属するA病棟の患者のほとんどが聾唖者で、盲目で、その上白痴で、手足の機能障害まで重なり、三重苦のヘレンケラーよりも重症な患者ばかりだったから、奈々枝の挨拶に返事が返らないのは当然だった。


「サア、ゴハンヨ。オイシイデスヨ。サァ、サァ、オアガリ・・」。

奈々枝は健ちゃんのベッドに腰をおろし、煮豆の裏ごしをスプーンに乗せて、健ちゃんの口へ運ぶ。

「アマイ、アマイ、トッテモアマイオカズヨ。サァ、オアガリ・・」。

奈々枝がスプーンを唇に持って行っても、健ちゃんの口は堅く閉ざされたままだ。

白痴の児も精薄の児も、ベッドに食膳が運ばれると、巣の中のひな鳥のように口を開けて待っており、白痴で盲目の二重苦の児らもスプーンを口に当てさえすれば、すらすらと食べ始める。

だが四重苦、五重苦の児らには、食欲というものがない。

スプーンで無理やり歯をこじ開け、食物を押し込まなければならないのである。

奈々枝は力の要るおむつ交換よりも、食事の介添えの方が苦手だ。

ようやく歯をこじ開け、食物を押し込んでも、今度は開けたままで噛もうとはしない。

口が開いている間に次々に食物を押し込み、スープを流し入れる。

すると喉が刺激されるのであろう、やっと嚥下作用を起こし、ごくんと喉を動かしはするが、流れ込んだスープを反射的に飲み込むだけで、口の中は相変わらずいっぱい詰まっているのだ。


「ケンチャン、イイコダカラ タベテチョウダイヨ、ホラ、ホラ・・」

奈々枝の懇願もむなしく、ケンちゃんは口の中の食物を舌の先で押し出してしまった。

いつもそうなのだ。

奈々枝は、押し出された食物を、根気よく口の中へ戻してやる。

           (引用ここまで)

             *****

声もなく介護を受け続ける子ども達という〝生霊の住む谷間″の不条理感の、さわりの部分のみのご紹介です。

ケンチャンは死んでしまい、それはなぜか、と展開するのですが、止めておきます。

母が老人介護施設にお世話になっているので、老人ではこういう介護状態は日常だと思うのですが、生まれた時から成長しながらも障がいを抱えて生きるというのは、本当に辛かろうと、改めて思いました。


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「すべては宇宙の采配」木村秋則さん・・地球はもうすぐ終わる、とつぶやくメッセンジャー

2016-12-16 | アセンション



いつか本屋の棚で見かけて、読まずじまいだったこの本を、読んでみました。

りんご農家としての苦労が前面に語られ、りんごの栽培法の講演や見学会にもお忙しい方で、苦労話が映画にもなったということですが、それとは関係ないお話もあって、とても興味深く読ませていただきましたので、一部ご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

宇宙人ものは、家の本棚にたくさんあるので、後日、比較研究をしてみたいと思います。


           *****

         (引用ここから)

出会い

その時期のわたしは、家族が畑から帰った後も一人残り、日が落ちて、あたりがすっかり暗闇に包まれてから帰宅するのが習慣になっていました。

近所の人たちと顔を合わせるのが苦痛だったからです。

35才になろうかというわたしを、世間はまともな人間として認めてくれなくなっていました。

自分の家に迷惑をかけるだけならまだしも、無農薬のわたしの畑は病虫害の巣窟で、隣近所の畑に莫大な被害を及ぼす可能性があるのです。

その日も、あたりに人がいなくなり、夜のとばりが下りて、夕食時を過ぎる頃に、バイクに乗って帰る準備をしていました。


すると突然どこからともなく、畑の中をものすごいスピードで走り回る二つの物体が現れました。

月明りしかなくてよく見えませんが、縦に細長い形をしていました。

リンゴの木よりは低く、150センチに満たない身長で、クロームメッキのような色をして光を放っています。

「いったい何だ?」

ビュンビュン走り回る様子を、呆然と見ていました。

リンゴの木は等間隔に植えられ、横にたくさん枝が伸びていますから、直立した姿勢で走ろうとすると、頭を枝にぶつけてしまい、屈まなくてはいけません。

人間ならどんなに急いで走っても、50メートルを10秒程度でしょう。

ところが小学生ぐらいの背丈の二つの物体は、どこにもぶつからずにあっちに行ったりこっちに行ったり、すごいスピードでひゅんひゅん移動しているのです。

見るには、目を急いで左右に動かさなければいけません。

そして彼らは突然消えてしまいました。


直感的に、ああこれは地球の者ではないな、と感じました。

たぶん宇宙人ではないかな?

ただあらゆることに疲れていたため、そのまま何の行動もとらずに帰り、誰に言うでもなく過ごしていました。


何日か後のことです。

バイクに乗って帰ろうとしていると、今度は謎の二人組が目の前に現れたのです。

暗くて狭い農道をふさぐように立っていました。

一瞬、小学生くらいの人間が黒い全身タイツを穿いてふざけているのかと思いましたが、よく見ると人間ではありませんでした。

黒い中に、目だけが大きく二つ光っています。

鼻と口は無く、耳や髪の毛もありません。

とにかく真っ黒い中に、目だけしかないという印象です。

大きさからして、数日前に畑を走り回っていた謎の物体の正体に違いありませんが、それ以上は暗くてよく見えないのです。

あたりには誰もいません。

畑の中を尋常ではない速さで走り回る謎の存在を目撃するのと、目の目で対面するのとでは、全く意味が違います。

非常に恐ろしくなり、逃げ出したいのですが、バックしても山に入っていくだけです。

一体どうすればいいのか?

そんなことを考えていると、二人はスーッと近づいてきました。

足音もなくスーッとです。

足は地面についていませんでした。

念力で動いているのか何なのか、どういう構造でそうなっているのかは分かりませんが、足を動かすことなくスーッと近寄ってくるのです。


シンシンシンシンという音が聞こえました。

ものすごく静かな時に耳の奥で聞こえる、あの音ともいえない音です。

シンシンシンシンの後に、二人の意思が伝わってきたのです。

「私たちはあなたに対して害を加えるようなことはしません」。

言葉そのものではありませんが、そのような意味です。

それが耳ではなく、直接頭の中に入ってきました。

二人組には口がありません。

パクパクと口を開いてしゃべることはできませんから、意味だけを脳に直接投げかけて来たのでしょう。

二人を目の前にして、ただただ固まっていました。

ものすごく怖くて一言も言えません。

いっそのこと強行突破しようか?と思った瞬間、消えてしまいました。


わたしは一目散に家に帰りました。

女房はただごとではない気配を察して、「お父さん、どうしたの?そんな顔して。誰かに脅されたの?」と心配そうな顔で聞いてきました。

「今、畑の桜の木の前によ、全身タイツみたいな宇宙人が二人立ってたのよ」。

他にも、先日畑でひゅんひゅん走り回る二人組を見たこと。

どう考えても、地球上の者とは思えないこと、などを興奮して一気ににまくしたてたのですが、「そんな馬鹿なことって」と、女房が小さな声で言いました。



しばらく後で、わたしは幻想を見ました。

ギリシア神話に出てきそうな姿をした人が、丸い石でできた椅子に座っていました。

からだに白い布を巻き付け、長いあごひげをたくわえて、まるで哲学者ソクラテスのように見えました。

そこになぜか、わたしもいるのです。

室内のようでした。

1本のパイプのような管が頭上にあって、穴のあいた板が何枚も渡されていました。

「待っていたよ。君に手伝ってもらいたいことがある」。

ソクラテスのような人が言います。

「そっちにある板をこっちに移してください」。

わたしは素直に「わかりました」と、一生懸命に板を動かしました。

たたみ一畳分くらいの大きさの板を、滑るようにして手前から奥へ運ぶのですが、重くてなかなか動きません。

「あなたは手伝わないんですか?」と聞けばよかったのですが、馬鹿正直に頑張って、なんとか全部の板を運びきりました。

「全部終わりました」。

報告すると「ご苦労さん」というようなねぎらいの言葉がありました。


わたしは、ソクラテスのようなおじいさんに質問しました。

「これは何ですか?」

「カレンダーです」。

「カレンダー?一体何のカレンダーですか?」

「地球のカレンダーですよ。この1枚が1年分」。

わたしは驚いて尋ねました。

「これで全部?終わりですか?後はないんですか?」

ソクラテス似の人は、当たり前だ、という風に言いました。

「ありません」。

「無いってことは、地球が無いんですか?」


慌てて質問したところでハッと目が覚めました。

他の夢は覚えていないのですが、この時の光景は、カレンダーが何枚あったかまで鮮明に記憶しています。


マヤ歴が2012年で終わっているのを、テレビを見て知りました。

ソクラテスが教えてくれた年号は、それよりは長かったものの、永遠に地球が続くと思っていたわたしにとり、「意外に早く終末を迎えるんだなぁ」と驚かざるをえない数字でした。

それも含めてソクラテスから、大事なことは口外してはいけないと、龍の時と同じように、固く口留めされました。

未だに、女房にも言っていません。

もし命が脅かされる事態になろうとも、口は割らないと思います。

重要なことは、なによりも「時間がない」という事実です。

     
  (引用ここまで・りんごの写真は奇跡のりんごではなく、我が家のものです)


           *****


説明しない、というのですから、これは本当のことなのか、本当ではないのか、判断できません。

無農薬のりんご畑から近隣のりんご畑へ、病虫害が広がって、四面楚歌の心理状態が見せた幻影かもしれません。

地球最後の日を告げられた。。

夢の中で。。?

町でりんごを見かけると、思い出すようになりました。



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残虐さの起源・・ナチスドイツの障がい者大殺戮とやまゆり園(4・終)

2016-12-13 | 心身障がい



引き続き、ヒュー・G・ギャラファー著「ナチスドイツと障害者「安楽死」計画」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****

        (引用ここから)


ナチス時代に何人の障害をもつドイツ人が殺されたのか、正確な数字をあげるのは難しい。

計画終了後の自発的な殺人に関しては信頼に足る数字がないからである。

裁判の文書には12万人という数字が、公立施設入所者で殺された総数であるとするものがあるが、

研究者たちによれば、この数字は控えめであり、27万5000人という推定者もいる。

1238年にベルリンから1万6295人の「精神病患者」が来ていた某地方では、1945年に残っていたのは2379人だった。

某施設では2500人のうち生き延びたのは500人であった。

「安楽死計画」は、ドイツのほとんどすべての「重度障がい者」と「慢性的精神障がい者」の命を奪ったのである。


「こども計画」

「T4計画」は、子供や幼児を対象としなかった。

しかし第三帝国下でドイツ医学を支配していた優生学者と人種衛生学者の邪悪な視線から逃れられたわけではなかった。

誕生時に欠陥のある子どもや、「知的障害」とみなされた子供は、「子供計画」の対象範囲に含まれた。

「子供計画」は、ドイツの小児科医に、奇形や「知的障害」の新生児を殺すのを許可した。

「子供計画」は「T4計画」と並行して、同じようにこじんまりと非公式に始まった後に、大がかりな事業となり、医者による中央委員会がベルリンで結成され、犠牲者の選定を行った。


中央のコントロールがなくなった時点で、各地の小児科医が実権を握り、大規模殺人と化した。

自分の意志で、誰からも監督を受けず、誰にも報告せずに、小児科医は活動した。

事件の指導的立場にあった医師ブラントは、法廷裁判で、ドイツの「障害児計画」は、遺伝病に苦しむ子供の誕生を防止するための1933年の「断種法」の延長線上にあると証言した。

そして、同様の法律が米国を含む多くの国で施行されている、と言及した。


この法律が、本人と家族に汚名を着せたのは間違いなかった。

政府は、欠陥のある子どもに反対するキャンペーンを開始した。

1920年に著されて影響力を持った研究は「無価値の生命を圧殺する許可」だが、著者は「脳損傷」や「知的障害」といった「人間バラスト」の場合には、殺人はただの殺人と異なり、許されるべき有益な行為であると力説している。

賛否両論が巻き起こったが、奇形の新生児殺害は、ナチス以前のドイツで大方受け入れられていた。

その証拠の一つに1920年の世論調査で「精神的に障害のある子どもの両親・保護監督者の73%がそういった子供を殺すことに賛成である」という結果が出ている。


ナチスドイツには、殺人の空気が漂っていた。

非公式に、何の許可もなく、医者は1933年以来、自分たちで活動を始めていた。

生きる能力がないと見なされた新生児は、医者の判断だけで殺された。

研究者は「自発的殺人」と名付けたが、罰せられることはなかった。

1930年代当時に存在した、犯罪行為を取り締まる仕組みは、「取るに足らない」とか、「証拠不足」という名目で機能しなかった。

中央がコントロールした政府の計画が始まる前に、殺人がどの程度行われていたのか不明である。


ミュンヘン郊外の某病院で、プファンミュラー博士が幼い患者を餓死させていたことが知られている。

1939年に同病院のツアーに参加した心理学者ルードヴィッヒ・レーナーが、ニュルンベルク裁判に提出した証言録は以下のとおりである。

「プファンミュラが語ったのはおよそ以下の通りである。

「これらの生物(子供を意味していた)は、国家社会主義者としてのわたしにとって、健康な民族への重荷にしかすぎない。

私たちは毒や注射で殺すことはない。

そんなことをしたら外国のマスコミやスイスの赤十字が大騒ぎする新材料を提供するだけだ。

うちの方法はもっと簡単で、自然だ。

御覧いただきたい」。

こう言うと、看護婦に助けられて、子供を小さなベッドから起こした。

その児をまるで死んだウサギのように示し、ひねくれた笑いを浮かべ、よく分かっているという表情で「これはあと2、3日かかるだろう」と口にした。

このでっぷりとした男は薄笑いを浮かべ、その肉厚の手には、やせ細った児が泣いていた。

他の児たちも飢えていた。


この場面は今でも私の脳裏にまざまざと焼き付いている。

この人殺しは、説明を進めた。

「急に食事を止めるのではなく、徐々に減らす方法をとっている」と語った。

ツアーに参加していた女性が、怒りを必死におさえながら「注射による速やかな死が、少なくともまだ慈悲があるのではないか?」と質問した。

これに対して彼は「外国の報道を考慮すれば、自分のやり方の方が現実的である」と自賛した。

「精神病」の子供だけでなく、ユダヤ人の子供も殺されるという事実を、彼は隠そうともしなかった」。


戦争末期に、ドイツは生き地獄と化した。

ドイツは、死体安置所となった。

ヒトラーの生命観は「永遠の闘争」だった。

「強者は自分の意志を押し付けることができる。

それが自然の法則だ」。

「ジャングルの法則」である。

10年間で、ヒトラーはドイツを「ジャングル国家」に変えた。

野生の霊長類を研究している科学者の報告に、「攻撃レベルが上昇したある環境下ではサルが幼い仲間に敵意を抱き、赤ん坊を殺し、食べる」という恐るべき現象がある。

同じように、ヒトラーの市民は、破壊の衝動にかられ、自分たちの子供に敵意を示し、殺したのである。



           (引用ここまで・終)


               *****



同じテーマを扱った本に、精神科医・小俣和一郎氏の「ナチス もう一つの大罪」という本もあります。

ほとんど内容が重複するので、ご紹介に留めます。



ナチスドイツの思想について考察した有名な本に、哲学者ハンナ・アーレントの「イェルサレムのアイヒマン・悪の陳腐さについての報告」という本があり、「悪の凡庸性」という概念は有名です。

戦後のナチス裁判を傍聴した彼女が著したこの本は、ナチスドイツによる信じがたい悪事の根源として、人間が悪を行う時に、きわめて凡庸な精神で行うという観察が書かれています。

これは、子供たちの間の「いじめ」や、家庭内暴力(DV)から、様々な戦争まで、ありとあらゆる人間間の争いに共通するものであると思われ、ある状況下に置かれた人間が、判断力を失うと、命令に従っていかなる悪も行ってしまうものである、と考察しています。

この特殊な心理状態について、心理学の研究もおこなわれています。

その実験・研究によると、どんな人でも状況により、他人に対して加虐を行う事実が実証されています。

この実験については、後日また取り上げたいと思います。


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稲荷巫女は語る、ほんとうに、ただそれだけのこと・・「神と人のはざまに生きる」(2)

2016-12-10 | 日本の不思議(現代)


だいぶ間があいてしまいましたが、現代の稲荷神の巫女さんであった三井シゲノさんの聞き書きを行ったアンヌ・ブッシィ著「神と人のはざまに生きる」という本のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



           *****


          (引用ここから)


シゲノの話は筋が通って分かりやすかった。

しかし、失明の憂き目にあってから大阪の「玉姫大社」に辿り着くまで、9年の月日がたっている。

意思の強いシゲノは、その間どのような生活をしていたのだろうか?


また、「「夢のお告げ」の折りに「守護神」がのたまった」と彼女が言っていた言葉も思い出した。

「守護神」とは誰だったのか?

「玉姫」とは別の神だったのか?

私は再び彼女にたずねた。

               
そのとおりでございます。

故郷の「お滝」にて私は、左目が再び見えるようになったばかりでなく、また私の「守護神・白高(しらたか)さん」と出会ったのでした。


「白高(しらたか)さん」とは、「白狐さん」です。

私が24才のとき、あの事故があってから2年後、「お滝」に籠もり始めてから3か月も過ぎた頃、私はもっぱら「神さん」に、もろもろの神様に、身も心も捧げて拝んでおりました。

籠もり始めてからすでに10日ばかりも過ぎたころでしたか、滝に打たれながら「神さん」にお祈りを捧げておりますと、ちょうどその最中にふわっと「白狐さん」が目の前を横切ったのでした。



始めのうちは、「あれは何だったのかしら?」と一人不思議に思っておりました。

それに、とても複雑で奇妙な感覚がありました。

昼も夜も絶え間なく、ダバダバダバダバという音がするのです。

人里離れた、ひっそりかんとした所で、うるさいなんてことはあり得ないはずなのに、それなのにこの音ときたら。。

「もしやキツネかタヌキにつままれているのではないかしら?」とわが身を疑いました。


キツネやタヌキは、人里離れて暮らす人間を、いろいろな手でたぶらかすと世間では言われます。

「神さん」かなにか、別の尊い存在に化けて、かねてからの念願がついに成就したと信じ込ませて、まんまと手玉に取り、さんざんおかしなことをやらかした挙句の果てに、荒れ野の落ち葉と糞土のただ中に、呆れ顔で天を仰ぐ姿で捨てやるというのです。

それが一度切りのことでしたらまだしも、またかまたかとあのダバダバダバダバという音が耳について離れないのでした。


その後も幾度、白狐の姿を目にしたことでしょう。

こなたの谷からしゅっと飛び出して走り去るかと思うと、また別の所からしゅっと私たちの前を横切って、かなたに行くのでした。

それはまさに空を切る真っ白な犬といった風でした。


「お滝」に籠もり始めて間もない頃は、あれこそまさに本物の「白狐さん」だ、などとは、到底信じられませんでした。

「白高(しらたか)さん」の名と、それが自分の「守護神」であることを私が知りましたのは、この昭和2年のことでありました。

その日の朝、籠もり所で「お滝」に向かい、懸命に「神さん」に向かってお祈りを唱えておりますと、はじめて明るい光が、またさまざまな色が見えたのです。


周りの人は喜び、感嘆の声を上げました。

そして「「神さん」にお礼のお勤めをしなければ」と、護摩を焚くように勧めるのでした。


このようにして、私の祖母と大叔母と叔父、それに権現さんの先生、この4人が「お滝」に集まった時、ことが起こったのであります。


権現さんの先生が「神さん」へのお礼として、護摩を焚こうとしていたまさにその矢先に、「護摩焚き無用!」と私が言ったらしく、4人に先駆けて「神さん」を拝み始めて合掌した手を頭上にふりかざした私の身に、突如さっと「神さん」がお降りになったかと思うと、「白高(しらたか)!」と叫んだ、というのです。


そこで先生が「神さん」に「「白高(しらたか)」さん、この人の目がまた見えますようにしていただけるのでしょうか?」とお尋ねしますと、「不自由ないよ」という言葉が私の口から発せられたそうです。

皆にはこの一言が、たとえ目が見えないままでも、私はこれから生きてゆくのに不自由はしないだろう、どんな時もなんとかやってゆけるよう、「神さん」が見守っていてくださるのだから、という意味なのだとわかりました。


おばあさん(大叔母)のようになろうという気はちっともなかったのですが、そのような次第で、私はかつて彼女の辿った道に、再び足を踏み入れることになったのです。

それはまた、幼くしてすでに私が示していた素質に立ち返ることでもありました。

私はほんの8つの時、初めてこの身に「神さん」が降りてこられたと、昔から聞かされていたものですから。



一般に世間では、「稲荷さん」と「白狐さん」はまったく同じ「神さん」ということになっております。

大方そのとおりでありまして、どちらも農家の人々およびその家と田畑をお守りくださり、五穀豊穣を請け合ってくださる「神さん」で、キツネのお姿をしておられます。

当時はどこでもそうでしたが、私たちの村でも、家という家はすべてどこかに「稲荷さん」をお祀りしておりました。

私の生まれ育った家でも、やはり先祖代々、お家安泰を祈ってささやかな神棚に「稲荷さん」をお祀りしておりましたし、そこにはまた「龍神さん」という「地神さん」も祀られております。

この「神さん」は、そのお姿を金の宝珠の周りにとぐろを巻いた陶磁器製の白蛇にかたどられておりました。


実家ではこんな風でございましたが、夫の家では「稲荷さん」のことを「白髭さん」とか「白滝さん」と呼んでおりました。

あちこちに「稲荷さん」が祀られておりましたが、それというのも、そうしないとせっかくスイカやサツマイモを育てても、キツネやタヌキがやって来ては、畑を荒らしてしまうからでした。

ですからどの家も、軒下か、あるいは畑の一画にでも、ちょっとした簡素な板づくりの小祠を設けて、そこに木の打札を掲げておりました。

はじの方に「稲荷さん」の名を、真ん中に「伊勢大神宮」の名を、そして左には「氏神さん」の名を記したものです。

それにまた、家のご先祖様を祀る神棚にも、そうしたお札を一つ立てておりました。


私はおばあさん(大叔母)が「神さん」を降ろしているのを見ておりましたから、どのような具合に事が運ぶのか、知っておりました。

まず神殿の前に円座を敷いて、そこに正座し、とんとことんとことんと「神さん」をお呼びするのです。

そして御幣を両手にしっかりと握って、まっすぐ立てて、しゅしゅしゅっと振ったら、おばあさんの体が揺れ動き出し、周りの人たちはその様子を見て、「ああ、「神さん」が来た。「神さん」が来られた」とささやいておりました。

私もそばにいて、皆と一緒に見ておりました。


おばあさんはまた火護摩を焚き、人の頼みに応じて「神さん」にお伺いをたてておりました。

たとえば「木を刈りたいけれども、「神さん」の怒りに触れやしないか?」と気をもんでいるような人がやって来ましたが、私が御幣を持って来ますと、おばあさんはお祓いを始め、そのうち身を震わせて、こう告げるのでした。

「今、木を刈ると面倒なことになる。来たる大安の日まで待ちなさい」。


毎月28日の祭日に、私はおばあさんの手伝いに行っておりました。

その日はおばあさんが大祭を執り行う特別な日で、家の前で火を焚いて餅を焼くのでした。

村中の人たちがその分け前にあずかり、「神さん」のお恵みをいただくのでした。

いつもこんな調子でした。

ほんとうに、取り立てて学ぶことはありませんでした。

さまざまな人がやってきて、話をし、お茶を飲んで、というただそれだけのことで、私にはおばあさん(大叔母)に習おうなどという気持ちはちっともなかったのでした。

とは申しましても、私が「おばあさん」と呼び、他の人々からは「お稲荷さん」と慕われていたこの人は、大変威厳のある、信望の厚い先生で、お弟子さんも8、9人ついていたのでした。

      
           (引用ここまで)

写真は、わたしが撮影した東京新宿の花園神社の稲荷社で、本書とは関係ありません。


               *****


この本の著者であり、日本の民間宗教の研究者であるアンヌ・ブッシィさんは、研究をするにあたり、「現代の稲荷巫女について考えたいのならば、三井シゲノさんのことを調べれば、他のことを調べる必要はないですよ」と言われたということです。

まことに、こういう人もまれであるし、こういう研究書もまれであると思いました。

人と人の巡り合わせの妙味ともいえるかもしれません。

アンナ・ブッシーさんという人の聞き書きの記録がなければ、三井シゲノさんという、ごく近い年代に生きた巫女さんの人生は誰にも知られることなく、歴史の中に搔き消えていったことでしょう。

せっかくこのような資料があるのですから、わたしは、自分の心にも、滝行を課して、情報が多すぎる現代社会のただなかでも、心を揺らさないでいられるようになりたいと、改めて思いました。


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安積遊歩(あさかゆうほ)著「癒しのセクシートリップ・・わたしは車イスの私が好き」

2016-12-06 | 心身障がい



安積遊歩(あさかゆうほ)著「癒しのセクシートリップ・・わたしは車イスの私が好き」を読んでみました。

骨形成不全症で、生まれた時から繰り返し骨折し、大変な困難を抱えておられるであろうに、不屈の精神と知性で切り返し、ヘルパーの男性と結婚して、一児の母となり、今もますます活動的な安積さん。

何十年も前に一度、小さな公民館での講演会でお話を伺いましたが、今も忘れられない魅力的な方でした。

どこを取っても痛快なのですが、「まえがき」と書かれた部分だけご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          *****


         (引用ここから)


親がつけてくれた名前を「純子」、自分で自分につけた名まえを「遊歩(ゆうほ)」という。

自由に、誇り高く「遊び歩く」。

また、「遊歩」には「UFO」ということばもかけている。

未確認だけれども、科学のこころがわかって、かつ夢のある人なら、こころ躍らせて待っているUFO・・そんな気持ちをこめて。


寝たきりに近かった幼き日、遊び歩くという、こどもにとっての生来の権利・自由も、私にとっては夢のまた夢だった。

兄が私に見せようと、オタマジャクシやトンボを取って来てくれると、その目の前でオタマジャクシの缶詰を作ったり、トンボの脚をむしって糸をつけ、永久に飛び続けさせようとしたり。

またある時は、妹の人形を取り上げて、自分がされたと同じ手術を、その人形に施したりもした。

「やめて!」と泣きながら頼む妹の声を聞きながら、メスに見立てたナイフを人形の足に入れたのだった。

小さな「純子」の、閉ざされた自由への激しい渇望は、幾重にも屈折して表現され続けた。


歩けないことが悲しいのではない。

車椅子で動くことが辛いのではない。

私の絶望と無力感は、障害を持つ女性に対する様々な思い込みと、その思い込みの上に作り上げられた社会システム、そうしたものがもたらす抑圧から来ているのだ。


ならば、絶望と無力感から立ち上がる最初のステップは、自分の名まえに最高の自由と誇りを取り戻してやることだ。


もちろん、親がつけてくれた「純子」という名前も嫌いではない。

しかし純子と呼ばれる度に、ハッシとまわりを睨みつけ(実際、子供の頃の写真を見ると、ほとんどいつも私はそんな顔をしている)、闘って闘ってしか生き延びてこられなかった、小さな自分の姿が頭をかすめてしまうのだ。


これから、どんな人生になるのだろう。

一方的に何かを押し付けられ、様々なものを担わされる人生なんて、もうごめんだ。


私が今、反原発の運動や環境問題に関わっているのも、死や病気に対する恐れからではない。

原発や環境汚染が、自由を希求する心、生きようとする意思に対する妨害であるからこそ、戦うのだ。

たとえ苦しみでさえ、いや、とくに苦しみであるからこそ、自分で選び、チャレンジしていきたい。


積極的に「遊歩」と名乗り始めて6~7年、「遊歩」の人生と、抑圧されている人々の代表である小さな「純子」の日々は、解放に向けてまっすぐにつながっているのだと確信してから、更に自分の人生が興味深く感じられる。


この本を書こうと考えたのは、たぶん小さい「純子」なのだろうと思う。

今、私が「遊歩」となってエネルギーいっぱいで駆け回るのを見て、「純子」が「もっとよく私を見て!」と叫んだのだろう。

本が出来上がるまでのこの一年、私のなかでは繰り返し繰り返し、「純子」と「遊歩」の対話、思いの掛け合いがあった。

そして次第にその対話を、まわりの人と共有したいと心の底から思えるようになっていき、その心の動きに合わせて本も完成されることになった。

「この本を読んでくれた人、一人ひとりの感想が聞きたい」と「純子」が、そして「どこかでの出会いを楽しみにしている」と「遊歩」が言っている。

         (引用ここまで)


           *****

わたしも、パワフル遊歩さんに出会い、小さな純子さんをみつけた一人ですよ~。


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無差別殺人はなぜ終わらなかったのか?・・ナチスドイツの障がい者大虐殺とやまゆり園(3)

2016-12-03 | 心身障がい



年の瀬の恒例の「日本流行語大賞」に「日本死ね」、、ですか。。

昔はそういう言葉を使ったら、お母さんに叱られたものですが。。

                ・・・

「つるの剛士さん「保育園落ちた日本死ね、が流行語大賞なんて…」産経新聞2016・12・02


タレントのつるの剛士さんが自身のツイッター上で、「保育園落ちた日本死ね」の流行語大賞トップテン入りに「とても悲しい気持ちになった」と投稿し、議論になっている。

つるのさんは2日、「『保育園落ちた日本死ね』が流行語。。しかもこんな汚い言葉に国会議員が満面の笑みで登壇、授与って。なんだか日本人としても親としても僕はとても悲しい気持ちになりました。

きっともっと選ばれるべき言葉や、神ってる流行あったよね。。皆さんは如何ですか?」(原文のまま)とツイートした。

1日に「2016ユーキャン新語・流行語大賞」が発表となり、トップテンに「日本死ね」が入っていた。

都内で開かれた授賞式には、国会でこの問題を追及した民進党の山尾志桜里衆院議員が、満面の笑みで登場。表彰され「年の締めにもう1度スポットライトが当たり、うれしい」と喜んだ。

「日本死ね」は匿名のブロガーが保育園の抽せんに落ちた怒りをつづったもので、一部のメディアが大きく取り上げて反響を呼んだ。

選考理由は「このフレーズが先導するようにして大きな社会問題を現出させた」(選考委員会)というもの。

つるのさんの投稿に対し、「私も全く同じ」などと同感する意見が多数寄せられ、一部、「この言葉のおかげで待機児童の問題に政府が本気で取り組んだ」として、「日本死ね」の騒動を肯定的に評価する声もあったが、

「民主党(当時)政権より改善されてますよ」「以前から政府は取り組んでました」などと百家争鳴の議論になっている。

つるのさんは「保育園落ちた…」のつぶやきの直後に、「皆さん朝からイヤな気分にさせてごめんなさい!今日の素晴らしい神ってる富士山です。皆さんもお勤めいってらっしゃい!」と、富士山の写真とともに投稿した。


                  ・・・



やまゆり園障がい者大量殺傷事件と思想的に関わりがあると言われるナチスドイツの障がい者殺戮を記した本として、

引き続き、ヒュー・G・ギャラファー著「ナチスドイツと障害者「安楽死」計画」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

             *****

            (引用ここから)



ヒトラーは1939年の初めに、特に「安楽死」の問題に関心を寄せた。

ナチス党員から陳情を受けたのである。

父親が、障害を持つ自分の娘の殺人を求めていた。

ヒトラーは、自らの従医に調査させた。

彼は状況を判断した。

彼の言葉によれば、子供は盲人として生まれ、白痴、少なくとも白痴であるように見え、片足と片腕がなかった。

ヒトラーは家庭医に安楽死を施すべく従医に命じた。

ヒトラーは「両親がこの安楽死の結果によって将来、罪を負っていると感じないようにしなければならない。仮に法的処置がこの殺人の関係者に対して持ち上がった場合には、ヒトラー自身が握りつぶす」と法務大臣に意向を伝えている。

この「安楽死」の初めてのケースで、パターンが形成された。

その子供が実際に知的障がいなのかどうか、関係者の誰も知らない。

あやふやな観察に頼るだけでは、幼い盲目の子供が知的障がいなのか判断するのは困難、いや無理である。

子供がなにを希望しているのか、教育や補助具の利用で、どういった生活スタイルや生産性を持てる可能性があるのか、誰も尋ねたり、考えたりしなかった。

他のドイツ市民と同様にこの娘にも法的保護が及ぶ、という事実は考慮されなかった。

娘の状態が遺伝的なものかどうかも考慮の対象とならなかった。

彼女は「慈悲の行為」として殺された。

両親の便宜と医者の法的保護だけが、配慮の対象だった。

この少女の事例が医学関係者間で知られるにしたがって、同様の依頼が他の家族から舞い込むようになった。


指導者に自分の家族が殺されるよう陳情すること自体が、当時のドイツ社会についてなにかを物語っている。


生物学的に卓越したドイツの能力を保存できるかどうかが、ヒトラーの気がかりだった。

ドイツ国民を強化し、「雑種化」から防ぐのを望んでいた。

ヒトラーの偏執症的な観点からすれば、ドイツ人は外部の敵と内部の汚染から脅かされていた。

汚染はユダヤ人やジプシーからだけでなく、劣等で欠陥を持つドイツ人、つまり「梅毒病者、結核患者、遺伝的変質者、肢体不自由者、クレチン病患者」からであった。

これは「わが闘争」にあるリストである。

こういった人々は劣弱な遺伝子の産物とされ、健康なドイツ人との間に子孫を作るため、ドイツ民族の遺伝子群を弱める恐れがある。

存在すること自体がドイツ民族の力を損ない、弱める。


しかし、優生学者と社会ダーウィニストの科学としての自負にもかかわらず、「不適者」の分類はなかった。

犯罪者、娼婦、盲人、麻痺者、「知的障がい者」全員が、対象者とされ、「不適格」とされた。

皆、劣った遺伝子の持ち主とされた。

性格面での退廃と「肉体的欠陥」は、遺伝と見なされ、訓練は無意味だった。

劣等な遺伝子を持つ家系は、犯罪、売春、麻痺、狂気といった欠陥を生み出しがちだ。

この種の考え方により、当然ながら「障がい者」と家族は、恥を感じ当惑した。


「障がい」は、遺伝的劣勢の印となった。

中流家庭は、「知的障がい」の子供や麻痺者を、ブラインドを下した部屋に閉じ込め、人目につかないようにした。

「障がい者」は、恥ずべき存在となった。

科学者の言うことが本当ならば、「障がい者」の家族すらも恥ずべき存在となった。

「肉体的奇形」を「悪」と結びつける傾向は、「犯罪人類学」という形で世紀の変わり目に表面化した。

欧米で、犯罪者には解剖学的特殊性がある、と主張する出版物が多く見られた。

悪い少年は、悪く生まれたのであり、更生の可能性はない。

「障がい者」は言語を絶する悪をすでになしたか、これからなそうとしているに違いないと、昔から信じられているが、「肉体的欠陥」と犯罪性の関連付けもその一例にすぎない。


何が、文明社会の弱者を構成するのか?

何が、社会での生存を意味するのか?

混乱があったのを指摘したい。

世紀の変わり目は、欧米工業世界の知識層が、自信に満ちていた時代だった。

独善の域にまで達していた。

自分たちの「帝国」が、地球の表面を覆っていた。

彼らは悪人ではなかったが、極端なまでに傲慢だった。


増大する犯罪者群、狂人、麻痺群へのアメリカの社会的対策は、単純だ。

ただ、「断種」による増加の抑制であり、理想的には彼らの強制収容である。

「不適」とはなにか?

「断種」の対象となる遺伝子かどうか、といった点には、州ごとに違いがあった。

各州では多くの混乱もあった。

どの法律で「知的障がい者」、「慢性の精神病者」、「てんかん者」は対象となったのか?

犯罪者の「断種」は、道義的に正しいのか?という論争が続いた。

犯罪者の子孫は、犯罪者と同じように邪悪であると、断種支持者は訴え、「退廃した者、邪悪な犯罪者の子供として精神的、道徳的、肉体的に阻害され、日の目を見る前に呪われ、誕生前にハンデキャップを負い、この世に生を受ける不幸で救いようのない子供たち」であると称している。

ここでも「身体的障害」は、道徳的腐敗の明らかな隠喩となっている。


計画の当初の規定は、控えめな計画が想定されていた。

慎重な鑑定の手続きがあるはずだった。

しかし現実には、無差別の皆殺しだった。


医者がすすんで殺人計画に参加した心理的理由は、複雑である。

ただここで言えるのは、計画の構造に参加を容易にする要素があった点である。


責任がはっきりする段階がなかった、のである。

患者が死の決定を受けるという、はっきりした段階がなかった、のである。

どの時点でも、どの医者が患者の死に責任がある、と言えなかった。

死者の灰は焼却炉から掻き集められ、骨壺に納められ、遺族に送られた。

骨壺の外側には、番号が刻みこんであった。

しかし一人の犠牲者の遺骨と他の犠牲者の遺骨を区別しようとは、誰もしなかった。

骨壺を受け取った遺族は、手紙の文面からも当然自分の家族の遺骨と思い込んでいたが、実はそうではなかった。


「身体障がい者」と「精神障がい者」の殺人計画は終わらなかった。

ドイツ全土の医者は、生きるに値しない生命しか持たない患者に「最終的医学援助」を執行し続けた。


殺人は続き、基準や決定機関が鑑定委員会や鑑定医の手から離れ、現場の医者に移っただけだった。

「知的障がい者」や「奇形」の子供が殺された。

「子供計画」は相変わらず続いた。

占領米軍の記録によれば、終戦までどころか、終戦後も一定期間続いたのである。

疎開先で、患者たちは医者の手にかかった。

「精神病者」は、地元の親衛隊や警察により射殺された。


           (引用ここまで)

            *****


陰鬱な記事を続けてすみません。

ただ私は「やまゆり園事件」は非常に重大な問題をはらんでいると思うので、記事を集積しておきたいと思っているだけです。

他のテーマと同様、あとで調べる際に、資料の保管庫として使えるようにしようと思っています。


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人殺しはいかにして行われたのか?・・ナチスドイツの障がい者大虐殺とやまゆり園事件(2)

2016-12-01 | 心身障がい



やまゆり園事件の背景にあると言われるナチスドイツ思想を記録した本として、

引き続き、ヒュー・G・ギャラファー著「ナチスドイツと障害者「安楽死」計画」のご紹介を続けます。

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            *****


          (引用ここから)



「第三帝国」の殺人計画の文献を探っていると、「ハダマー精神病院」の名前に何度も出くわした。

「ハダマー精神病院」が、ドイツの医療殺人のまさに中心地だったように思える。

ここは政府による6つの殺人施設の一つだった。

殺人の対象とされた患者は、公共患者輸送会社の大きな灰色のバスによって病院に移送された。

まもなくバスは有名になった。

バスの乗客の目的地がどこなのか知られるのに、時間はかからなかった。

灰色のバスが通り過ぎると、子供たちは「人殺しの箱」とはやしたてた。

患者は中西部ドイツの精神病院から集められた。

状態はさまざまだった。

「精神分裂病」、「うつ病」、「知的障がい」、「結核」、「小人病」、「まひ」、「てんかん」。

時には「非行」、「性的倒錯」、「アルコール中毒」、「反社会的行動」も含まれた。


「ハダマー精神病院」では、一酸化炭素ガスで殺人が行われた。

試みられた方法の中で、これが最も「思いやり溢れる」方法と見なされたのである。

「ハダマー精神病院」のガス装置は、ポーランドのルブリンに移され、ユダヤ人の殺害に利用された。

だからと言って「ハダマー」での殺人が終わったわけではなかった。



「ハダマー精神病院」のガス室は、地下室に設置された。

大きさは縦約5メートル、横約3メートル、高さ2メートル40センチである。

ガス室はシャワールームに見せかけられ、シャワーのノズルもあった。

ボタンを押すと、ノズルからはガスが噴出した。

受付が終わると、看護婦は「移動でお疲れでしょうから、シャワーを浴びてきれいにして休んでください」と、患者に伝える。

患者は疑いも抱かずに従う。

仮に逆らったとしても、例外は許されなかった。

看護婦に先導されて、シャワーへの階段を、行列を作って降りる。

着いたら服を脱ぐ。

必要があれば看護婦が手伝う。

そしてガス室に入る。


看護婦は外からドアを閉め、鍵をかける。

麻痺の患者は、階段を抱えられて降りなければならない。

具合が悪い患者は、降りるのに手助けが必要だった。

病気で弱っていて本格的に手助けが必要な者もいた。


「最終的医学援助」である殺人は医学的な処置であり、医者の権威と監督下でのみ可能だった。

「ハダマー精神病院」の医者は、ボタンを押して、のぞき穴から見守るのが常だった。

遺体は、普段は「ハダマー病院農園」で働く患者によって、同じく地下に設けられた火葬場にストレッチャーで移された。


火葬の煙は、周囲では誰もが知る光景となった。

「ハダマー」の市民は、煙突から煙が上がるのをみつめ、気の毒な犠牲者のことが頭から離れなくなった。

風向きによって、吐き気を催す臭いが鼻に来る時は特にそうである。子供たちが口喧嘩をすると「頭がおかしいんじゃないか?「ハダマー」の火葬場行きだぞ」と言っているのが現実であった。


初めの頃、死者への配慮はあった。

遺体は畏敬を持って棺に納められ、特別に用意された場所で埋葬された。

しかし死体が山のようになってきて、儀式どころではなくなり、まとめて埋めるようになった。

落とし戸付きの変わった棺が特別に用意された。

棺の底が開くようになっていて、墓地で穴の上に納められると、下の扉が開くのである。

同じ棺が何度でも繰り返し使えるようになった。

墓地までこれだけ多くの死体をストレッチャーで運ぶのは、骨が折れたに違いない。

戦争中を通じて「ハダマー精神病院」には100人以上の長期入院患者がいて、農園で働いたり敷地の整備をしたり台所を手伝ったりした。

必要に応じては墓の穴掘りもした。


「安楽死計画」が公式に終了した後も、ペースは落ちたが、殺人が終わったわけではなかった。

医者が「障がい者」を殺すのは構わないが、国家による犠牲者の選定は終了した、という話が流布された。

個々の医者、病院が、それぞれの責任で実行することになった。


1943年、「ハダマー精神病院」は、「子供の殺人施設」として機能していた。

幼児だけではない。

子供、ティーンエージャー、「身体障がい者」、「知的障がい者」だけではない。

孤児院や青年少年療養施設の入所者が判定の対象となり、トラブルメーカーと見なされた多くの健康な子供が死を迎えた。


当初の考えは、重度の「知的障がい者」、暴力的で慢性的な「精神障がい者」に、苦痛にあえぐ馬や犬をぶち殺して苦しみから解放するという考えを当てはめたものだった。


これには科学的な理由付けがもちろん存在した。

こういった人々を殺すのは、ドイツ民族の遺伝子的遺産の強化につながるというものである。

言ってみれば、癌を取り除くといった考えである。

経済的理由もあった。

役立たずの穀つぶしが、戦争に利用されるべき資源を費やしてしまっている、という見方である。

こういった議論は、「ハダマー精神病院」で起こったことを正当化するかくれみのになるはずだった。

しかし、「ハダマー精神病院」で起こったことは、これらの議論から見ても正当化できない。

殺されたドイツ市民の多くは、苦痛にあえいではいなかった。

死にかけてもいなかった。

「障がい者」の場合でも、遺伝との関係がはっきりとしない場合がほとんどだった。


では、「ハダマー精神病院」の医療職員がしたのは、一体全体何だったのだろうか?

彼らは、自分たちが何をしていると思っていたのだろうか?

殺された人々は、囚人だったのではない。

患者だったのだ。

殺されたこういった人々、患者は、医者を解放の努力の代理人として雇ったのであり、思いのままに自分を殺すような権威を、医者に与えたことはない。

医者が敵となり、自分たちの生命が危ういことが明白になった時、「障がい者」はなぜ、反抗し、逃亡し、抗議しなかったのか?

法廷の命により入院中の「精神障がい者」が大方だったのは、事実である。

つまり国権によって留められていたのである。

病院の周囲には親衛隊員が見張っていたし、有刺鉄線もあった。



1941年の真夏のある日、昼食時に職員食堂で理事から発表があったのは特別な日であった。

「1万人目の死体が「ハダマー精神病院」の炉で荼毘に付される記念として、ささやかなセレモニーと職員のパーティーを開く」ということであった。

したがって医者、看護婦、雑役婦、その上墓堀り人までが、夕方にはロビーに集合した。

ビールとワインが振舞われ、全員が地下の火葬場に向かった。

部屋は飾り付けられ、炉には生花が派手に盛り付けられていた。

炉の前には、全裸の死体、つまり1万人目の犠牲者である。

死体は花と鍵十字の小さな羽で飾られている。

医者は手短かなスピーチをした。

「ハダマー精神病院」の業務の重要性を訴え、献身的で勤勉なチームの一員としての誇りを高らかに表明した。

医者の合図で、死体は炉にくべられた。


         (引用ここまで)

写真(中)は、ハダマー精神病院。1945年撮影 同書より
写真(下)は、ハダマー精神病院の焼却炉と、そこから立ち上る煙。1941年撮影 同書より

           *****

悪夢のような情景で、ただただ驚くばかりです。

人間は、こんなこともしてしまう存在なのだと思うと、とても怖いです。


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