始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

「契約の箱」に入っていたのは?・・グラハム・ハンコック・ダイジェスト(2)

2014-11-30 | エジプト・イスラム・オリエント



グラハム・ハンコック氏の著作全体を俯瞰するような対談の本を読んでみました。

題名は、「人類の発祥、神々の叡智、文明の創造、すべての起源は「異次元(スーパーナチュラル)」にあった」といいます。

対談の相手はエハン・デラヴィ氏です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****


             (引用ここから)


○ハンコック

「契約の箱」は、とても奇妙なもので、テクノロジーとしての側面があるのです。

3000年以上前の「契約の箱」の使用方法は、ある種のハイテク兵器だったと結論づけなければならないでしょう。

「聖書」には、「契約の箱」について200か所以上の記述があります。

それらから分かるのは、「契約の箱」が殺人兵器のようなものだったという可能性です。

「契約の箱」に触るだけで、死を引き起こすほどです。

たとえばイスラエル人の敵だったペリシテ人が、戦争で「契約の箱」を奪った際、彼らはそれを彼らの都市に持って行き、公開の場で見せました。

そしてそれを開けたのです。

何万人というペリシテ人が、それを見るためにやって来たが、全員が死んでしまった。

「聖書」では、彼らは悪性の腫瘍で苦しみ、恐ろしい状態で死んだ、と書かれています。

まるでそれはある種の放射能のように思えます。


「契約の箱」が地上から上昇し、唸り声を上げながらイスラエルの敵めがけて突進する描写を読む時、私たちはそれをどう理解すべきなのか?

「契約の箱」の蓋には「ケルビム」と呼ばれる2つの人形のようなものが取りつけられています。

閃光が飛び交い、ときにはその付近に霧が立つ。。

「契約の箱」から声が聞こえる。。

こういった古代の文献に見出せる描写を、どう理解したらいいでしょうか?


モーゼは恐らく、「契約の箱」をどう作るかの青写真をシナイ山で神から指示されたはずです。

モーゼ自身は、エジプトのファラオの家庭で育てられ、将来ファラオになるべく教育されていました。

彼はファラオが知るすべてのことを学んできたのです。

エジプトのカルナック神殿の壁には、人々が「契約の箱」とそっくりのものを運んでいる行列のレリーフがあります。

またエジプトの古典に「契約の箱」と似た箱の説明もあります。

木製の箱の中にもう一つ、金の箱が入ったもので、「契約の箱」が引き起こしたのと同様に、強烈なダメージを人々に与えます。

また、「契約の箱」は、神と話すための「ラジオ」なのかもしれない、とも思います。

エジプトを経由して、イスラエル人のモーゼに伝わった「古代の失われた科学技術」なのでしょう。


だから次にわたしは、古代エジプト文明とその起源について、私たちはいったい何を知っているのか?と考えさせられたのです。

「契約の箱」はある意味、「失われた文明」の遺産だと思っています。


○エハン・デラヴィ

「契約の箱」は、物質の重量を軽減できる反重力装置のようなものだったと思います。

それを可能にする、ある物質が存在するのです。

聞いたこと、ありますか?

それは、「ホワイトゴールド」と呼ばれる物質です。

エジプト人が「ムフクジット」と呼び、シュメール人が「シェム・・アン・ナ(星の火)と呼んでいたものです。

金が3次元の物質から高次元に変化したもので、白いパウダー状です。

「契約の箱」は、その「ホワイトゴールド」を入れて運ぶためのものだったのです。

それが「契約の箱」の正体です。

「賢者の石」や「聖杯伝説」などにも関連しています。

モーゼは古来の錬金術をエジプトで学び、「ホワイトゴールド」を操ることができたと、私は推測しています。

「聖書」にあるモーゼによって起こされた奇跡は、それなしでは考えられません。


○ハンコック

モーゼはファラオが知り得ることをなんでも知っていたと、結論づけられます。

エジプトのファラオたちは、「魔術」のマスターだったからです。

「魔術」とは、近代技術にはない方法で「人間の心のパワー」を利用する技術だったのではないでしょうか?

遠い昔の、より高度な文化は、今日の私たちが「超能力」と呼び、科学者が避けたがる能力を発達させていたのでしょう。

もう一つは、人間の心には「超自然的なパワー」があったのではないでしょうか?

それは驚異的な結果を出すために、古代文明が開発したものなのでしょう。

    
          
           (引用ここまで)

  
             *****


ブログ内関連記事


「エジプトのミイラ(1)・・バーとカーの戻る場所」

「エジプトのオシリス(3)・・死んでよみがえるのが、王の務め」

「ゾロアスターはダビデ王の家に再受肉した・・シュタイナーの人智学的ゾロアスター論(2)」

ストーンヘンジは〝ノアの子孫ドルイド”がつくった高貴なモニュメントであるという説」

「ホピの予言「白い兄と分かち持つ聖なる石版」について(2)」

「ホピ族と隠された青い星(1)・・刑部恵都子さん」


エジプト・オリエント」カテゴリー全般
「アトランティス」カテゴリー全般
「古代キリスト教」カテゴリー全般

「ブログ内検索」で

ハンコック       4件
デラヴィ        6件
ユダヤ教       15件
モーゼ        10件
エチオピア       3件
シュメール       5件
ピラミッド      15件

などあります。(重複しています)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グラハム・ハンコック・ダイジェスト(1)・・「契約の箱」はエチオピアに運ばれた

2014-11-26 | エジプト・イスラム・オリエント



グラハム・ハンコックは魅力的な作家で、何冊も読んでいるのですが、それら彼の著作を俯瞰する形でまとめられた対談本を読んでみました。

題名は「人類の発祥・神々の叡智・文明の創造・すべての起源は「異次元(スーパーナチュラル)」にあった」というものです。

「スーパーナチュラル」と題された彼の最新作の宣伝用のイベントに合わせて、徳間書店から出版されています。

個別の本は改めて研究したいと思いますが、このテーマに至るまでの彼の仕事が並んでいますので、ハンコックの仕事をざっと眺めてみたい、という気持ちで、この本を読んでみました。

対談の相手はエハン・デラヴィ氏です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


最初は「神の刻印」(1992年)の、エチオピアに眠る古代イスラエルの宝「契約の箱」をめぐる話し合いです。


              *****


            (引用ここから)

○エハン・デラヴィ

グラハムさんは、これまでの多数の著作のなかで古代文明の知られざる叡智を紹介してきました。

「神々の指紋」は日本でも話題になりました。

そもそも古代文明を調査しはじめたのは、エチオピアでのある体験がきっかけだったそうですね?

○ハンコック

話は20年以上前になります。

わたしはケニアのナイロビに勤務していました。

1980年代のエチオピアは紛争や飢饉の話題などで、特派員として出かけることが多かったのです。

そしてエチオピアの文化の中心に横たわる、驚くべき伝統に出会ったのです。

エチオピアは古くからキリスト教の国でした。

イギリスより前にキリスト教に改宗しました。

原始キリスト教の風習のいくつかは、現在でもそのまま残っているのです。

エチオピア正教会は、紀元前の遺物をいくつも持っていると主張しています。

エチオピア正教会内部にあって、すべてについて中心的で原理原則そのものとされる紀元前の遺物とは、「契約の箱」です。

映画「レイダーズ 失われたアーク(聖棺)」のインディ・ジョーンズで有名になった「契約の箱」そのものであるというのです。

「契約の箱」は「旧約聖書」でも、極めて中心的な伝説となっています。

「旧約聖書」の初めの方のモーゼ時代に、〝木材と金属の棺からできており、神が自らの手で「十戒」を書いた2枚の石版を持つ″と書かれています。

それは〝2枚の石版がついた単なる箱″以上の意味があり、地上に存在する神の化身とされていました。

更に神の証しとしての「契約の箱」は、モーゼに導かれてイスラエル人が「約束の地」を獲得するために使われた戦争用のおそろしい道具でもありました。

「旧約聖書」には、〝イスラエル人はこれで人々を打ち殺し、悪性の腫瘍を彼らの敵に与える″といった髪の毛が逆立つようなすごい描写が書かれています。

そしてこの箱は、紀元前950年ごろ、エルサレムにあるソロモン神殿に安置されました。

しかしその後この箱についての記述は「聖書」の物語から、不思議なことに消えてしまいます

語られることはまったくなく、紀元前587年ごろには、なんとそれが神殿から消えてなくなってしまった、との記述があるのです。

そこにはもう無いので、歴史家や学者たちは皆これを「失われた遺物」だと認識しているのです。

1980年代初頭、わたしはエチオピアで、その「失われた契約の箱(アーク)」の伝説を聞いたのです。

エチオピアの文化を調べたならば、「契約の箱(アーク)伝説」を無視することはできません。

事実エチオピアにあるすべてのキリスト教会には、2万以上の各教会の至聖所(宗教的建築物のいちばん神聖な場所)に「契約の箱」のレプリカあるいはそのシンボルがあるのです。

もしそれが取り除かれたら、その教会は教会でなくなるほど重要な意味を持っています。

そしてその本物の「契約の箱」が実際に保管されているという場所、それがエチオピアのアクスムです。

わたしがジャーナリストとしてこの伝説に出会ったきっかけはアクスムを報道したことでした。

そしてそこで「契約の箱」の守り神のような番人に会いました。

「契約の箱」の番人はとても負担の大きい仕事です。

なぜならいったん司祭が「契約の箱」の番人として任命されると、「契約の箱」のある場所から数メートルのところで一生暮らさなければならないからです。

そしてわたしは、この古代から抜け出てきたような番人に、有無を言わさず感動させられました。


深く探り始めるにつれ、エチオピアの人々が「契約の箱」を所有すると主張するミステリーには、関連する話が他にもあることに気づき始めました。

そのうちの一つ、非常に重要なものは、古代エチオピアでのユダヤ人コミュニティの存在です。

彼らエチオピア系ユダヤ人は「素性の知れない人」、「イスラエルの家」と呼ばれています。
言葉や外見の点で他のエチオピア人となんら区別がつきませんが、彼らの信仰はユダヤ教です。

しかも非常に古い時代のユダヤ教の様式を、今でも持っています。

わたし達が常識的に知っているようなユダヤ教ではありません。

近代のユダヤ人が使っている「タルムード」を彼らは知りません。

彼らが知っているのは「トーラー(「旧約聖書」のうち「創世記」・「出エジプト記」・「レビ記」・「民数記」・「申命記」の「モーゼ5書」)」だけです。

2000年来、ユダヤ人はもはやソロモン神殿が無いので、犠牲を捧げる習慣を捨て去ってきました。

しかしその習慣はエチオピアのユダヤ人によって、いまだに実行されているのです。

それはあたかも「旧約聖書」の一部が保存されたような世界でした。これらの人々はどこから来たか調べなければならない。



聖書研究者から支援を受けながら私が考えたことは、古くから信仰に忠実だった聖職者たちは、異教の偶像崇拝によるしきたりの穢れの中に留まることに耐えられなかったのではないか?、ということです。

それで彼らは「契約の箱」を至聖所から運び出さなければならなかった。

そしてちょうど同時期、紀元前650年頃に不思議なことが起こります。

エルサレムから遠く離れたエジプト南部の、現在ではアスワンと呼ばれる町の近くのエレファンテネ島で、突然ユダヤ教神殿が建造された。

これは偶然ではないと確信します。

その後の200年、神殿はそこにありましたが、紀元前400年頃、また破壊されます。

彼らは「契約の箱」を担いで、ナイル川水系を南へと逃げた。

そして青ナイル川の源のタナ湖があるエチオピアの高原までひたすら進んだ。

だからタナ湖はエチオピアでのミステリーの核心なのです。

現在も、そこにはとても古い修道院があります。

彼らの話によれば、こういうことです。

・遠い祖先たちは、以前はユダヤ人だった。

・祖先達は紀元前400年頃、「契約の箱」をエチオピアのタナ湖の島まで運び、安置した。

・エチオピアがキリスト教に改宗する西暦200年代まで、その島に存在した。

・その時期、キリスト教に改宗したエチオピアの王がタナ湖に来て、無理やり「契約の箱」を奪い取り、はるか遠くの首都アスクムまで運んだ。

・以来「契約の箱」は、ずっとアスクムにある。


エチオピアに、古来の「旧約聖書」のしきたりを守るユダヤ人が今でもいることと完璧に一致します。

そして、ユダヤの遺物が、なぜエチオピアのキリスト教に吸収され、教会のシンボルになったのかを理解できるのです。

            (引用ここまで)


              *****


ブログ内関連記事

「エハン・デラヴィの十字架の研究」

「脳と墓(2・終)・・脳は文明という墓場で、何をしているか?」

浅川嘉富氏の解説「先史文明と考えるべきだ」・・オルメカ文明に関するZ・シッチンの見解(6)」

「黄金の星はベツレヘムに現れる・・シュタイナーの人智学的ゾロアスター論(4)」

「西と東の世界が一つであるビジョンを持つ・・マニ教とは?その4」

「古代キリスト教」カテゴリー全般
「エジプト・オリエント」カテゴリー全般

「ブログ内検索」で

ハンコック    2件
デラヴィ     4件
ユダヤ教    15件
エチオピア    2件

などあります。(重複しています)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ワイン・果物、そしておすすめのメニュー・・・キリストは何を食べていたのか?(5)

2014-11-22 | 古代キリスト教



ドン・コルバート氏著「キリストは何を食べていたのか?」のご紹介をします。

これで最後です。

最後は、ワインと果物です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

             *****

            (引用ここから)

キリストの時代、「ワイン」は、「パン」と「水」と同じく、たいていの人の食事では定番メニューでした。

キリストの最初の奇蹟は、「水」を「ワイン」に変えたことでした。

「ヨハネによる福音書」の初めの箇所で、ある結婚式でイエスが召使たちに6つの大きな水瓶に「水」を満たすよう命じます。

1個でおよそ100リットルは入ろうかという大瓶でした。

キリストは、その「水」を「ワイン」に変えたのです。

「キリストはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を顕わされた。

それで弟子たちはキリストを信じた」とヨハネは書いています。


キリストが飲んできたワインは発酵酒ではなかったと思い込んでいる人はとても多いようです。

その理由はキリストがナジル人だったからです。

「ナジル人の誓願」、、これは、はるか「モーゼの戒律」にまで遡りますが、「民数記」の第6章に出てきます。

この誓願で、「ワイン」に関するくだりは以下のとおりです。

「主はモーゼにおおせになった。

イスラエルの人々に伝えてこう言いなさい。

男であれ女であれ、特別の誓願をたて、主に献身して、ナジル人となるならば、葡萄酒も濃い酒も断ち、葡萄酒の酢も濃い酒の酢も、生の葡萄液は一切飲んではならない。

また葡萄の実は生であれ、干したものであれ食べてはならない」。

「ナジル人の誓願」では、頭髪は伸ばしっぱなしにせよ、というのもあります。

またたとえ両親、兄弟姉妹の亡骸であろうと、死体に近づくこともタブーでした。

この誓願は、特別に神聖な儀式に身を捧げる者が守るべきものとされていました。


キリストがこの「ナジルの誓願」の下で生きたという見方は、「聖書」に言明されていない2つの思い込みに由来しています。

1つ目は、天上の父なる神が、御子キリストを特別に神聖な儀式のため保留していたので、キリストが「ナジル人の誓願」の下で暮らしていた、とするものでした。

2つ目は、聖書ではキリストがナザレ人と呼ばれているので、ナジル人であった、と考えることです。

マタイは自分の福音書の中に、キリストについてこう書いています。

「イエスはナザレという町に行って住んだ。

「彼はナザレの人と呼ばれる」と預言者たちを通して言われていたことを実現するためであった(マタイによる福音書)」。

「聖書」には、産まれる前からナジル人として神に捧げられていた者がもう2人あげられています。

サムエルとバプテスマのヨハネです。


キリストが発酵酒を飲まなかった別の証拠として「レビ記」の「食物規定」を挙げる人がいます。

「レビ記」では、神が大祭司アーロン(モーゼの兄)にこう命じられます。

「あなたであれあなたの子であれ、臨在の幕屋に入る時は葡萄酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである。

これは代々守るべき普遍の定めである。

あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること。

またモーゼを通じて主が命じられたすべての掟を、イスラエルの人々に教えることである(レビ記)」。

実際にはキリストはその生涯を通して幕屋でも神殿でも祭司としてのお勤めをしたことはありません。

キリストはユダ族の出で、「レビ族」の出ではありません。

イエスが大祭司となられたのは磔刑、復活、昇天以後のことでした。


キリストは「最後の晩餐」では、ワインの盃を上げて、こう言いました。

「この盃は私の血によって立てられる新しい契約である。

飲む度に私の記念としてこのように行いなさい(コリントの信徒への手紙)。

キリストはまた、盃をとり感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。

「皆、この盃から飲みなさい。

これは罪が許されるように、多くの人のために流される私の契約の血である。

言っておくが、わたしの父の国であなたがたとともに新たに飲むその日まで、今後ブドウの実から作ったものを飲むことは決してあるまい(マタイによる福音書)」。

どう見ても、この夜キリストはワインを飲んだのです。

そして自分が復活するまで、使徒たちとそれを飲むことは二度とないことを知っていたのです。


キリストは自分でワインを飲んだとも言っています。

そして自分を拒否していたパリサイ人やユダヤ教の律法学者らの批判に対して、こう答えました。

「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べず、葡萄酒も飲まずにいると、あなた方は「あれは悪霊に取り付かれている」と言い、人の子が来て飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う(ルカによる福音書)。

「人の子」とはキリストを指し、彼が飲み食いをした、と言っているのです。

ワインは何千年にも亘って医薬としても使われてもいました。

紀元前400年、医学の父ヒポクラテスは頭痛、気分の乱高下、心臓関連の不調など、おびただしい疾患の治療にワインを使っていました。

消化や睡眠の促進、神経強壮剤としても用いていたのです。


「デザート」

キリストはどんなタイプのお菓子をたべたのでしょうか?

答えは簡単、果物でした。

モーゼはカナンの地を偵察させるために12人の仲間を派遣し、土地の食べ物を少し持ち帰るように命じました。

「民数記」には、こう書かれています。

「エシュコルの谷に着くと、彼らは一房のブドウのついた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ。

またザクロやイチジクも取った」。

ブドウ、イチジク、ザクロの3つが、聖書によく出てくる果物の御三家です。

この他にりんご、アプリコット、ベリー、メロン、デーツ、干しブドウも「聖書」に出てきます。

「聖書」に出てくる果物では、「オリーブ」の木と実を別にすれば、ブドウとブドウの木に勝るものはありません。

           (引用ここまで)


              *****


この本は最後に「キリストのレシピを使ってのダイエット計画」というもので締めくくられています。

キリストが食べていたようなものを食べようというわけです。


             *****

 
          (引用ここから)

1・でんぷんは食事1回ごとに1皿に限りましょう。
全粒の穀物と豆類を選びましょう。

2・食事ごとにオリーブオイルを取りましょう。

3・魚を食べましょう。赤味の肉は週1回に。

4・サラダをたっぷり取りましょう。

5・赤ワインを飲みましょう。量はほんの少しに。

6・果物を取りましょう。

             (引用ここまで)


               *****


奇妙な本でしたが、なんとなく心に残りました。

パンとワインの比喩は定番ですが、そういえば、魚も神秘学的にはキリストのシンボルだったことを思い出しました。



ブログ内関連記事

「卍、あるいは十字架の起源・・「蛇と十字架(1)」

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は」・・パンとワインの味わい」

「マギと秘儀とグルジェフ・・東方の三博士を求めて(3)」

「ユダの福音書3・・そしてユダは輝く雲の中に。。」

「マリア、使徒と語り合う・・マグダラのマリアによる福音書(2)」

「隠れキリシタンの世界(1)・・聖水サン・ジュアン様で清め、魂を込める」


「古代キリスト教」カテゴリー全般

「ブログ内検索」で

旧約聖書   15件
新約聖書   15件
ユダヤ教   15件

などあります。(重複しています)



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キリストは何を食べていたのか?(4)・・オリーブの清めと、生きた水

2014-11-19 | 古代キリスト教



ドン・コルバード氏著「キリストは何を食べていたのか?」の続きです。

次は、オリーブと水です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

             *****

           (引用ここから)

「オリーブ」

地中海の諸地方で、「オリーブ」の木が最初に栽培され始めたのは、6000年以上も前のことでした。

一番初めはギリシャだった、と信じている人が多いようです。

キリストの時代、「オリーブ」の実は、生か煮炊きして食べていましたが、ほとんどは搾り取って油にしていました。

磔刑に処せられる前夜、キリストは「ゲッセマネの園」へ祈りに行きました。

この園は、「オリーブ」山のふもとにありました。

この山には「オリーブ」林があったので、ぴったりのネーミングです。

ここに「オリーブ」の木が植えられたのは、搾り取った油を深い谷間を渡って直に神殿へ納めるためでした。

これらの木々の実からとった油は、神殿の大きなランプ台で燃やすばかりでなく、生贄を焼いたり、お供えの「パン」(荒野彷徨の時代から、安息日に祭司が幕屋の至聖所で供えた)を焼くのにも使われました。

もちろん普通の「パン」を焼く時も、この油を使ったのです。

「オリーブ」の木立は、安息日のうちに神殿に運び込める距離にあったので、神殿が早く閉まっても、絞りたての油をそのまま行事に間に合わせることができました。

「ゲッセマネ」と言う名は、文字通りだと「搾油器」を指すヘブライ語が起源です。

ですから「ゲッセマネの園」とは、「搾油器の園」ということでしょう。


「わたしを苦しめるものを前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。

わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの盃を溢れさせてくださる」(詩編23)


食前にこのように油を用いたことは、神の霊の前面で全員が食事に参加する、という合図でした。

賑わいだけでなく、信仰と愛とが期待されていたのです。


油を注ぐ習慣は癒しとも関係していて、これは今日の教会でも続いています。

「新約聖書」の「ヤコブの手紙」には、こうあります。


「あなた方の中で病気の人は、教会の長老を招いて主の名によって「オリーブ油」を塗り、祈ってもらいなさい」。

古代から「オリーブ油」はいろいろな料理を作るのに使われてきました。

「パン」を食べる時のバターの代用品でもありました。

「パン」をちぎって、これにつけてから食べるのです


「水」の章

「新約聖書」でキリストの一番有名な逸話の一つは、彼自身が飲む「水」に関するものでした。

「ヨハネによる福音書」に、キリストが弟子たちとエルサレムからガリラヤへ向かう途中、サマリアを通りかかった時、誰もが歩き疲れて、井戸端に座り込む場面があります。

弟子たちはシカルの町へ食べ物を買いに行きますが、キリストは井戸端に残りました。

一人のサマリア女性が「水」を汲みに来たので、キリストは「水を飲ませて下さい」と頼みました。

女は驚きました。

というのも、ユダヤ教徒とサマリア人は互いにほとんど没交渉だったからです。

ソロモン王没後、紀元前933年、パレスチナは南のユダ王国と北のイスラエル王国に分裂、サマリアは北半分のイスラエル王国の首都になりました。

まず紀元前8世紀、アッシリアによる進攻で、紀元前7世紀、カルデアの進攻で、南北両王国は崩壊し、双方の住民の間に対立が残りました。

このことが、このキリストとやもめ女の逸話でうかがえます。

キリスト自身は、北のナザレの出だが、エルサレムという元は南のユダ王国の首都だった場所に信仰の拠点を置いていたため、サマリアでは歓迎されなかった。

しかしこの挿話ではサマリア人は、最後はキリストをメシアとして受け入れます。

女は、言われたとおりにしました。

そこでイエスは、彼女に言ったのです。

「もしあなたが神の承り物を知っており、また「水」を飲ませて下さいと言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに「生きた水」を与えたことであろう(ヨハネによる福音書)」

彼は「永遠の命」というたまもののこと、そして神の霊が、人の心に宿ることを言っていたのです。


イエスの時代、家に「水」を持ち帰るのは女性の役目でした。

幼い子供の頃から、普通は午後遅くか夕方、井戸や泉から「水」を汲んで帰るしつけを受けていたのです。

大抵は水差しを持って井戸で「水」を汲んでから、水差しを頭上か肩に乗せて持ち帰りました。

イスラエルでは、「水」はいつも貴重は品物でした。

「水」無しでは、人は死んでしまいます。

そのため井戸は深く掘られ、しっかりと守られていました。

イエスがサマリアの女性に出会ったことで有名なこの井戸は、兄エサウから長子権を手に入れたヤコブの時代に掘られ、息子のヨセフに与えられたとサマリア人たちに信じられていました。

その井戸は今日も存在しています。

イスラエル人がシナイ半島の荒野をさまよっていた頃、深刻な「水」不足に2度、遭遇しています。

どちらの場合も、「水」は超自然的に提供されました。

「出エジプト記」では神がモーゼに「ある岩を杖で打て」と言われ、そうすると水が吹き出ししました。

次には「民数記」で神がモーゼに「杖を取ってある岩に水をくれと頼め」と命じます。

イスラエル時代の人たちは、さぞかし将来自分達に約束された土地にあこがれたことでしょう。

そこは神がこう言われた土地でした。

「よい土地。平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地」(申命記)


(引用ここまで)

*****


水とオリーブという典型的な題材となりました。

日本人なら、オリーブオイル抜きでもいいかな?と感じました。
油で清める、というのは、独特の感性ですね。
日本人なら、水と塩、でしょうか?。。


「ブログ内関連記事」

「ユダの福音書3・・そしてユダは輝く雲の中に。。」

「隠れキリシタンの世界(4)・・二重のお葬式・仏教の汚れを祓って天国をめざす」

「スミレに宿る神と、誰もいない王座・・マニ教研究5」

「血のだんごと黄金の太陽像・・インカの祭り(2)」

″東方なるもの”・・イエスを祝ったのは誰だったのか(その4)


「古代キリスト教」カテゴリー全般

「ブログ内検索」で

いけにえ     14件
オリーブ      6件
新約聖書     15件

などあります。(重複しています)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

脂と血は食べるな・・キリストは何を食べていたのか?(3)

2014-11-14 | 古代キリスト教




ドン・コルバード氏著「キリストは何を食べていたのか?」のご紹介を続けます。

次は、魚と肉と脂肪についてです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****

            (引用ここから)

「魚」の章

わたしたちにはっきりと分かっているのは、キリストはほぼその生涯の毎日に、新鮮な「魚」を食べていたことです。

実のところ、わたしは「魚」と「パン」こそ、キリストの食事の中心だったと信じています。

どうしてかというと、キリストがこの世にいた間の時期、「魚」は一番普通の食べ物だったからです。

キリストの時代、ガリラヤ湖、地中海、ヨルダン川は「魚」の供給源で、ユダヤ教徒らはいろいろな「魚」を食べていました。

エルサレムの市場には「魚」があふれ、この都市の旧市内への入口の門の一つには「魚門」の名がついていたほどです。

キリストの時代、エルサレムの普通の市民は「魚肉」以外の「肉」は特別なお祝いで食べられるだけでした。

しかし「魚肉」は安くて、一般市民の定番メニューだったのです。


キリストは、教えの中でたびたび「魚」に触れています。

またいくつかの場合、キリストの奇蹟には「魚」が関係しています。

キリストは何千もの人々にたった2匹の「魚」を食べさせたことが2度ありました。

5個の「パン」と2匹の「魚」を取って祝福し、それらをちぎると、弟子たちに手渡し、5000人の男たち、彼らと共にいた女と子ども達とにそれを食べさせよ、と命じたのでした(マタイによる福音書)。

また後に、キリストは7個の「パン」と数匹の小さな「魚」を取り、それらを祝福するとちぎって弟子たちに渡し、4000人の男とともにいた女・子どもたちに食べさせたのです(マタイよる福音書)。

小さな「魚」は、イワシだったかもしれません。

どちらの奇蹟でも人々のお腹は十分満たされたばかりか、「魚」も「パン」も食べ残しがでたほどでした。


イエスと弟子たちに関係する大漁は、2回ありました。

一度はキリストが、借りた漁船を、教えを授ける教壇に使い、話がすむと、ペテロと彼の漁師仲間に「その船に乗り、もっと水深のある所へ出て漁をしなさい」と言いました。

ペテロは漁の名人でしたから、真昼の明るい間は魚が網にかからないことを知っていました。

それでもイエスに命じられたので、水深のある所まで乗り出して縄を投げました。

結果は途方もない大漁で、あまりのことにペテロは怖くなりました。

イエスはそれからこう言ったのです。

「わたしに付いて来なさい。人間を捕る猟師にしよう(マルコによる福音書)」と。
男たちはただちに網を捨てて、キリストに付いて行きました。


「肉」の章

キリストの食生活という論点に照らすと、キリストの時代は「牛肉」は少なく、赤身の「肉」は多くはありませんでした。

赤身の「肉」はたいてい、宴会、結婚披露宴、祭日、晩さん会、パーティーなどでしか食べられませんでした。

一年に一度、羊を落としても、それは「過超(すぎこし)祭」用に「肉」をとっておくためでした。

お金のある家族は来たるべき宴会の日や、生贄を捧げる日々に備えて特別な動物を飼っていました。

「放蕩息子帰還の話(ルカによる福音書)」で、キリストが悔い改めた罪人の例えに用いた話では、父親は息子が戻って来たことに大変興奮して、召使たちにこう命じました。

「肥えた子牛を連れて来て、ほふりなさい。食べて祝おう」。

他にも〝天使と分からない天使″が戸口に現れて食事を乞うた時、もてなすためでもありました。

貧しい旅人を変装した天使に見立てて、饗応すれば功徳になりました。

「天使と知らずにもてなす」は「高貴な人と知らずにもてなす」という熟語になっています「ヘブライ人への手紙13」。


この習慣はアブラハムの生涯に起きた出来事として、ユダヤ教徒には周知の話に由来しています。

ある日アブラハムは昼間の日差しを避けてテントに座っていました。ふと目を上げると、3人の旅人が近づいて来るではありませんか。

アブラハムは立って出迎え、テントへと招き入れました。

アブラハムは召使いに命じて、彼らの足を洗わせました。

先ず少しのパンを出しておいてから、アブラハムは妻のサラに小麦粉をこねてパン菓子を作るように言いつけると、自分は牛の群れのところへ走って行き、柔らかくて美味しそうな子牛を選び、召使に渡し、急いで料理させました(創世記)。

やがて彼は、バターと牛乳、そして調理された子牛を旅人達の前に並べました。

まさにこの旅人達が、来年彼はサラによって息子を授かるだろうと告げたのでした。

アブラハムもサラも普通に子どもが産める年齢をはるかに過ぎていました(夫は99才、妻は90才)。

ところが、その息子イサクは予言どおり誕生したのです。

アブラハム以後、ヘブライ人達は、神のお使いが訪ねてきた時に備えて、いつも脂肪がのった子牛を飼っておくのが得策だと思っていたのでした。


「マルコによる福音書5章」に、「豚」にまつわる話が出てきます。

ローマに占領されていたゲラサ人の住む地域に、汚れた霊に取りつかれた男がいました。

キリストは霊たちに、「名前を言え」と迫ります。

男の口を通して、霊達は「名はレギオン、大勢だから」と答えます。

「レギオン」は古代ローマの軍団組織で、数千人からなり、転じて多数を意味します。

その山の近くで「豚」の大群が餌を食べていて、悪霊たちはキリストにこう乞いました。

「「豚」の中に送り込み、乗り移らせてくれ(マルコによる福音書)」

キリストがそれを許すと、悪霊たちは「豚」の大群に乗り移り、群はたちまち険しい崖から海へ飛び込んで、皆溺れ死んでしまいました。

「豚」が清浄な動物であれば、キリストは悪霊を乗り移らせなかったでしょう。

キリストは「豚」が悪魔に捧げられることを知っていて、悪霊たちを地獄へと追いやったのでしょう。

当時のローマ占領地区では、神々に捧げる宴会で、多神教のローマ人の間では、「牛」は「上級の神」に、「豚」は「下級の神」に、生贄として捧げられていたのです。


「脂肪」に対する厳しい規定の一つは、「レビ記」の第3章に出てきます。

「「脂肪」はすべて主のものである。

「脂肪」と「血」は、決して食べてはならない。

これはあなたたちがどこに住もうと、代々に渡って守るべき普遍の定めである。

イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。

牛、羊、山羊の「脂肪」を食べてはならない。

自然に死んだ動物や、野獣に殺された動物の「脂肪」は、いかなる用途に使ってもよいが、食べてはならない。

燃やして主に捧げるものである「脂肪」を食べる者は、すべて自分が属する民から断たれる」。


腰を据えて「肉汁」たっぷりのステーキディナーを食べているキリストなど、「聖書」にはまったく出てきません。

でも「魚」と「パン」だけの食事をゆっくりと味わっているキリストなら、「聖書」に出てきます。


             (引用ここまで)

      
               *****


ブログ内関連記事

「マリア、使徒と語り合う・・マグラダのマリアによる福音書(2)」

「笑うイエス・・ユダの福音書(2)」

「マギとゾロアスターとミトラ・・イエスを祝にやってきた東方の三博士は誰だったのか」

「からし種のような星からやって来た魚のような人々・・ドゴン族の伝承」

「透明な野菜と果物で光の国に至る・・マニ教とは?(2)


「古代キリスト教」カテゴリー全般

「ブログ内検索」で

新約聖書    14件
旧約聖書    15件
ユダヤ教    15件
アブラハム   13件
      
などあります。(重複しています)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「わたしは命のパンである」・・キリストは何を食べていたのか?(2)

2014-11-12 | 古代キリスト教




では、「キリストは何を食べていたのか?」の本文をご紹介します。

わたしは本書の意図にも関わらず、健康法としてでなく、「ユダヤ教徒としてのイエス」という観点に着目して、抜き書きをしました。

            *****

           (引用ここから)


「パン」の章

わたしが天国へ行けたら、神様に聞きたいことはたくさんあります。

真っ先にお聞きしたいのは「マナ(マンナ)」のことです。

エジプトを脱出したイスラエル人たちが、アラビア砂漠で飢えた時、天から降ってきたとされる食べ物で、「旧約聖書」の「出エジプト記」に書かれている「マナ」の、見かけと味はどんなものか?という質問です。

「聖書」が言っているこの食べ物は、間違いなく「天から下されたパン」だったはずなのです。

モーゼがイスラエル人を率いてエジプトを脱出し、彼らが神に約束されていた土地、カナン(パレスチナ・今のイスラエル)へと向かった時、シナイ半島で途方もなくひどい目にあいました。

この半島は、今でも一筋縄ではいかない地域なのです。

40年の間、イスラエルの人たちは「マナ」を主食にしたのです。

神は、モーゼにこう言われました。

「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。

民は出て行って、毎日必要な分だけ集めよ(「出エジプト記」16-4)


モーゼは後に、自分の民にこう告げました。

「あなたの神、主が導かれたこの40年の曠野の旅を思い起こしなさい。

こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自身の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。

主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのない「マナ」を食べさせられた。

人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった(「申命記」8)」


「マナ」は、イスラエル人には見たこともない食べ物でした。

実際マナという名前が付けられたのも、彼らがそれを初めて見た時「これ何だ?」と聞いたためでした。

「これ何だ?」というヘブライ語こそ、「マナ(マンナ)」なのです。

「マナ」の見かけは、霜のように目の細かい、小さな丸いコリアンダー(香菜)の種のようでした。

色は真珠色、つまり琥珀色でした。

それを穀物のように料理したのです。

石臼でひくか、乳鉢ですりつぶすかした後、平鍋で煮るか、ケーキにしました。

こくのあるクリームのような味(「民数記」)か、蜜の入ったウエハースのような味(「出エジプト記」)がしたそうです。

夜間、野営地に夜露が降りる頃、「マナ」が降りだし、一夜明けると地面いっぱいに積もっていました。

地上に残された「マナ」は、砂漠に照りつける日差しで溶けてしまいました。

「マナ」は面白い特徴を持っていました。

毎日集めるだけで、蓄えてはいけなかったのです。

安息日の前夜だけは、蓄えてもよかったのです。

神も、普段の倍の「マナ」を降らせたのでしょう。

それ以外の日には、「マナ」は一晩置いておくと、うじがわき、臭くなりました。

ところが安息日に限ってそういうことはなかったのです(「出エジプト記」)。

これこそ、食物を巡る奇跡では空前のものではないでしょうか?


キリストが弟子たちに、「私たちに必要な糧を今日与えて下さい(マタイによる福音書)」と祈れと教えたとき、この天から下された「マナ」のことを言っているように思われます。

神がイスラエル人にしてくださった約束とは「わたしがエジプト人に下した病をあなたには下さない(出エジプト記)」ことでした。

この約束を果たすために下されたのが、「マナ」だったのです。

あの荒涼とした旅の間、イスラエルの人々は、神が約束を果たしてくれるのをどれほど切望したことでしょう。

その約束とは、「小麦・大麦・ブドウ・イチジク・ザクロが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地、不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地。

土地は鉄を含み、山からは銅が取れる土地(申命記)」へ行き着かせてくれること)でした。


キリストは、モーゼ時代のイスラエル人たちが旅したような荒野で生きるとはどういうことかを、知っていました。

「マタイ伝第4章」に、キリストが精霊によって荒野へ連れ出され、悪魔の誘惑にさらされる場面があります。

キリストは、人気がない荒涼としたさびしい荒野に40日40夜留まり、断食をしました。

荒野に寝起きしていた間、キリストは自分を誘惑しにきたサタンと3度対決しました。

1回目の誘惑では、「神の子なら、これらの石をパンに変えたらどうだ?(「マタイによる福音書」)」とサタンに迫られたのに対して、キリストはこう切り返しました。

「人はパンだけで生きるものではない。

神の口から出る一つ一つの言葉で生きる「マタイによる福音書」」。

この時キリストがサタンに切り返した言葉こそ、モーセがイスラエル人たちに、神が彼らになぜ「マナ」を与えてくれたかを思い起こさせた「申命記」の章句だったのです。


キリストの生涯と教えの中で、「パン」は重要な役目を果たしました。

しかしキリストの時代の「パン」は、今日私たちがグロサリーで見かける製パン会社で焼かれた「パン」ではありませんでした。

当時の「パン」は、大きく平らな岩の上で焼かれたのです。

生パンをその岩の上に押し広げて、くるくる回し、大きく平らな形にして焼き上げていたのでした。

生パンをこんなふうに焼く光景は、典型的なイタリアン・ピザのレストランで時々見かけます。

焼き上がった「パン」は、パンケーキよりは大きいけれど、紙のように薄かったのでしょう。

今日のピタパンこそ、当時の「パン」の現代版です。

食事の度に、一人がこの「パン」を3枚ずつ食べていました。

キリストははっきりと、「パン」を「善いものだ」と見ていました。

「わたしは命の「パン」である。

あなたたちの先祖は曠野で「マナ」を食べたが、死んでしまった。

しかしこれは「天から降ってきたパン」であり、これを食べる者は死なない。

わたしは天から降って来た、生きた「パン」である。

この「パン」を食べるなら、その人は永遠に生きる。

わたしが与える「パン」は、世を生かすためのわたしの「肉」のことである」。(ヨハネによる福音書)


「旧約聖書」に一番よく出てくる穀類は、大麦と小麦でした。

「聖書」では、小麦は51回出てきます。

小麦の収穫は、「創世記第3章14節」、大麦の取り入れは「ルツ記第1章22節」に描かれていました。

小麦は〝命の杖、穀類の王″と考えられていました。

ついには、財産の尺度に使われるようになったほどです。

大麦は、より安価で生産量も多かったです。

より貧しい人々の食べ物でした。

小麦パンを食べた家族はかなり生活水準が高いと見られ、キリストの時代は、大麦のおおよそ3倍の値段でした。

それは「ヨハネの黙示録」が書かれた、70年後でも変わりませんでした。

「わたしは4つの生き物の間から出る声のようなものがこう言うのを聞いた。

小麦は30リットルで1デナリオン(古代ローマの銀貨)、大麦は90リットル)で1デナリオン。オリーブ油と葡萄酒を損なうな」(ヨハネの黙示録)

           
            (引用ここまで)


               *****


ブログ内関連記事

「「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は」・・パンとワインの味わい」

「「蛇と十字架」(2)・・卍、あるいは十字架の起源」

「ユダの福音書・・ユダから見たキリスト」

「「出エジプト」を祝う年中行事・・ユダヤ教徒の祈りの生活(2)」

「クリスマスは、ミトラ教の祭りの日・・誰が誰を祝うのか?」

「古代キリスト教」カテゴリー全般

「ブログ内検索」で

出エジプト    5件
旧約聖書    15件
新約聖書    13件
ユダヤ教    15件

などあります。(重複しています)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キリストはなにを食べていたのか?(1)・・ユダヤ教徒としてのイエス

2014-11-08 | 古代キリスト教


「キリストはなにを食べていたか?」という本を読んでみました。

なんと、図書館の「健康」の区域に並んでいたのです。

つまり「健康法」の一つとして、キリストの食生活を調べるという意図で書かれたものです。

なので最初に、翻訳者による「後書き」の説明を見てみたいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


*****

( 引用ここから)



「後書き」

この本はイエス・キリストの食生活を「聖書」から掘り起し、それを医師としての立場から、現代の乱れた食生活と比べてどんなに理にかなっているかを説いたものです。

本書の面白さは、まずキリスト教がユダヤ教やイスラム教に比べて、霊と肉体を極端に切り離し、肉体をおとしめているのに対して、本書では「キリストが普段何を食べていたか?」という、キリストが肉体の次元に属することに照明を当てていることです。

すると、キリストがとても身近な存在に思えてきませんか?


イエスが普段何を食べていたのか?

こう問い直すと、お堅いキリスト教徒は、何という不謹慎な、と眉を吊り上げることでしょう。

それはイエスの肉体を強調するからです。

彼らにとって地上のキリストは、天上のキリストの幻影だからです。

しかしわたし達がジャンクフードでめちゃくちゃになった肉体から回復するために、イエスと彼の同時代人(=ユダヤ教徒とイエスの弟子たち)が食べていた食べ物にならうことは、新しいイエスの福音だと言えるのではないでしょうか?


肉体をおとしめるキリスト教の極端な傾向が、ジャンクフードというジャンク(がらくた)を平気で食らう傾向の原因になってきたとさえ言えます。

地上のキリストが幻影なら、肉体で生かされている地上の私たちも幻影と言えるでしょう。

私たちは、肉体を持つがゆえに死を逃れない存在です。

だからこそキリスト教は、この肉体を粗略に扱う傾向に歯止めをかけられなかったのかもしれません。


その最たるものが、今日の消費主義です。

おそろしいことに、ジャンクフードを含めた今日の悲惨な消費主義は、ユダヤ教の「旧約聖書」、その「創世記第3章~第4章」で予告されていました。

アダムとイブは蛇にそそのかされて禁断の木の実を食べた結果、神によってエデンの園を追放されました。

二人には息子が二人いました。

小麦などを栽培する長男のカインと、大地の自然の成り物を食べ、羊などを放牧するだけの弟のアベルですが、なんとカインはアベルを殺害しました。

原因は神がアベルの生き方をよしとし、カインの生き方を喜ばなかったので、カインが嫉妬したためです。

つまり自然の成り物で生きるアベルは「狩猟採集経済」のシンボルだったのに対して、小麦を栽培するカインは、「栽培農業経済」、ひいては後の「産業経済」のシンボルでした。

「産業経済」(=カイン)が「狩猟採取経済」(=アベル)を殺したのです。

地球の資源をどんどん加工して人工製品に変えていくのが「産業経済」です。

今や、人類は石油資源を使い果たし、大気を汚染し、オゾン層を破壊しました。

そしてジャンクフードという人工の加工食品で自らの肉体を汚染しているのです。

「禁断の木の実」とは、この「産業経済」の引き金を引かせる悪しき知恵のことだったのです。


人間は地球資源を加工して、高性能製品を開発しては、神の全能の領域に迫ろうとしてきました。

この神を恐れない傲慢さ。。

この恐ろしい「聖書」の予告に、私たちはどう対処すればいいのでしょうか?

本書の著者が言うように、まずは、出来るところから始めましょう。

私たちは死を逃れない存在だからこそ、自らの肉体を大切に扱うべきなのです。

正しい食べ物を規定したユダヤ教、特に「旧約聖書」の「レビ記」に従って、短い人生を深刻な使命と緊張の中に生きた地上のキリスト。

その「ひそみ」に倣うことが、一番分かりやすい「まっとうな生き方」ではないでしょうか?


「レビ記」その他のユダヤ教の食物規定は、この世が始まった時から存在したように語られていますが、その多くは、モーゼに率いられてエジプトを脱出し、40年間砂漠をさまよった時期に生まれたものと考えられます。

昔、ヨーロッパにペストが流行をきわめた時、ユダヤ教徒だけが罹患率が極端に低かったのも、日頃の食物規定で食べ物の扱いに細心の注意を払っていたせいだったと言われています。

もっとも、そのためにキリスト教徒たちは「やつらは魔術を使って生き延びた。いやこのペスト自体、奴らが俺たちを滅ぼすために引き起こしたんだ」と勘違いして、一層ユダヤ教徒らを迫害したのでしたが。


「聖書」の物語はあくまで伝説ですが、考古学の成果で少しずつ、歴史との接続がなされてきました。

わたしはアメリカ人の精神的中枢に食い込んだ「キリスト教右派」の研究者でもありますが、

なにしろブッシュ政権の車の両輪が、「ネオコン」と「キリスト教右派」である以上、良くも悪くも、この信仰集団(全米で4000万人)は無視できない勢力なのです。

しかし昨今、この勢力は単なる無知蒙昧な人々ではなくなり、大学院出の信徒らが続出する事態です。

2006年秋の中間選挙では、彼らの28パーセントが共和党を離れて民主党に票を入れ、民主党の上下両院制覇をもたらしたと言われています。

本書の著者の人気も、「キリスト教右派」の良い方向への脱皮の現れもしれませんね。


博士が「ユダヤ教徒としてのイエス」を強調し、ユダヤ教の食物規定を重視したことは、本来のキリスト教徒の一部の反感もかいました。

しかし「キリスト教右派」の斬新さは、「終末到来の現場としてのイスラエル」の重要性にかんがみて、従来のキリスト教のように、ユダヤ教徒を「イエス殺しの元凶」呼ばわりせず、積極的にユダヤ教徒と連携し始めたことです。

ともかく産業主義の弊害に目覚め始めたアメリカ人の多くは今、懸命に自分の方向修正を図りつつあります。

同じ弊害は、日本をも襲いつつあります。

本書が、そのための解決法の一つになることを祈りたいと思います。


             (引用ここまで)


               *****


ブログ内関連記事

「マグダラのマリアによる福音書・・マリアはイエスの高弟だったのか?

「浄化の火とダビデの星・・F・アルパーによるアトランティス再浮上論(5)

「ユダヤ教徒の祈りの生活・・「旧約聖書」とつながる」

「ローマ時代のイスラエル北部・・ユダヤの公共建築物か」

「卍、あるいは十字架の起源・・「蛇と十字架」(1)」


「古代キリスト教」カテゴリー全般


「ブログ内検索」で

出エジプト        5件
旧約聖書        15件
新約聖書        12件
ユダヤ教        15件
狩猟採集・狩猟採取   15件

などあります。(重複しています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日・中・韓の、琴の音を聞き比べる・・片岡リサさん

2014-11-06 | アジア


前回は、外国人労働者をどのように受け入れるか、というテーマの記事でしたが、次は、外国(中国・韓国)との文化交流の記事です。

            ・・・・・

「日・中・韓 違う音色と共演・・「日・中・韓 絃の響き」で奏者とナビゲーターを勤める筝奏者 片岡リサさん」
                       2014・08・28 読売新聞

○問

「琴」とも呼ばれる日本の「筝(そう)」、中国の「古筝」、韓国の「伽耶琴(かやげむ)」の違いは?

○答

どれも桐の木に絃(糸)を張った細長い姿をしているが、日本の筝が13元であるのに対して中国の古筝は21件が主流で、4オクターブの音が出せる。

絃も、日本はナイロン系だが、中国はスチールだから、ダイナミックで華やかな音楽となる。

伽耶琴は、今も絹糸の絃を使う。

絹絃が切れないようにゆるく張り、しかも絃を太くしているので、音程は低くずっしりとした音質となる。

奏者はゆっくりと一つ一つの音に気持ちを込めて弾く。

韓国に比べると、日本の「筝」は硬く、強い音がする。


○問

それぞれの歴史は?

○答

中国では、紀元前の秦の時代に、琴が演奏されていたと言われる。

日本に伝わったのは奈良時代。

ただし当時の13本の絃を守っているのは日本で、むしろ中国の人たちはどんどん楽器を変えていった。

絃を増やし、響きを変えた。

「伽耶琴」は韓国で生まれた。

中国の影響を受けているが、今となっては中国の「古筝」よりも「伽耶琴」の方が日本の「筝」に近い。


○問

奏法、表現法は異なるか?

○答

たとえば中国、韓国の奏者は、左手で音を大きくビブラートさせる。

日本はほんの少し絃を揺らすだけ。

わずかな変化を楽しむ。

おおきな声で会話する中国人、韓国の人。

おしとやかというか、分かるか分からないかのところで変化を楽しむ日本人文化の違いが出ているように思う。


○問

コンサートの流れは?

○答

わたしと中国・韓国の奏者の演奏の合間に私が説明をしてゆく。

実は去年も、東京と大阪で日・韓の童謡のコンサートを開いた。

音色や雰囲気の違いを、今回も楽しんでいただけると思う。


○問

オーケストラとの共演や、「筝」を奏でながら歌を歌う「弾き歌い」をしている目的は?

○答

「弾き歌い」は昔からあるが、わたしのようにポップスなどをアレンジし、歌っている人は少ない。

「筝」を身近に感じてほしいという気持ちが強い。


○問

日中、日韓関係が冷え込んでいる。

○答

韓国での演奏で、わたしが嫌な思いをさせられることはない。

日本での「日・韓コンサート」でも、観客の方は「韓国っていいわね」、とおっしゃる。

音楽というフィルターを通せば、国民同士のつながりができる。


            ・・・・・

ブログ内関連記事

「フォーク・クルセイダーズの「イムジン河」

「沖縄の言葉歌い継ぐ・・上間綾乃さんの歌」

「ベルベル人の祭りが再開・・ノアの方舟が着地した地の、自由人と呼ばれる人々」

「十万億土からの旅、伊勢のかんこ踊り2・・お盆・施餓鬼・七夕(5)

「ホピの祭り・・大波が第三の世界を滅ぼし、人々は葦のいかだで舟を渡る(笛祭り・1)

「古代人の音楽会・・3万5千年前のフルートはどんな音色だったのだろうか?

「ホピのフルート伝説」


「アジア 」カテゴリー全般

「ブログ内検索」で

民謡       2件
音楽      10件

などあります。(重複しています)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外国人労働者と、いかにかかわるべきか?

2014-11-04 | アジア


読売新聞に以下の記事が掲載されていました。

わたしは興味を持って読みました。


              ・・・・・

「外国人労働者は必要か・・論点スペシャル」
                 2014・08・12


政府が検討している主な外国人労働者活用策

○建設・・ 東京オリンピック対応のため、技能実習制度修了者が働けるよう見直し

○介護・・技能実習制度の対象職種に含めるなどして、受け入れを拡大

○家事・・女性の就労促進のため、国家戦略特区で家事サービスを提供



政府は外国人労働者の受け入れを積極的に進める方針だ。

建設や介護など一部の業界で人手不足が深刻なためで、人口減社会への危機感も背景にある。

外国人労働者は必要か?

受け入れの際の課題は何か?

関わりの深い3人に聞いた。



○埼玉大学名誉教授 小野五郎氏

「産業の合理化が最優先」

単純労働で働く外国人は安価な労働力となる。

企業は必要だといい、外国人も働きたいと言うだろうが、将来の日本の在り方を考えた上で必要性をきちんと検証しないといけない。

現在「労働力不足」と言っている産業は、すでに役割を終えたか、合理化が遅れている分野である。

構造改革により産業構造を高度化し、機械化などで生産性を向上すれば労働は足りるはずだ。

建設業を例にとると、主軸である公共事業は従来、地方の雇用対策として行われてきた。

だがこれから人口が減少し、消費者も減る中で、新しい建築物を建てれば、保守管理コストを負担できなくなる。

東日本大震災の復興需要は別として、今ある施設を保守するだけで目いっぱいのはずだ。

物流産業も同じだ。

トラック運転手が足りないと言うが、コストとのかねあいだ。

即日配達などの過剰なサービスを止め、単価を高くすれば受給バランスを調整できるだろう。

介護の人手不足も、最大の問題は待遇の低さにある。

これらの問題に取り組まず、外国人労働者を増やすと、問題を先送りするだけでなく、賃金水準が引きずられて、日本人の賃金も下がることになる。

政府は2020年までに限って外国人技能実習の修了生が引き続き働き続けるようにする方針だが、労働者保護の仕組みが希薄で問題が大きい。

技術移転による国際貢献が目的と言うが、本音が安価な労働力の確保であることは明らかだ。

これまでにも、賃金未払いなどの人権問題が多発している。

また、ゴミの出し方を巡り日本人の住民と衝突が起きたり、仕事に就けない日本人から嫌がらせを受けたりする恐れも大きい。

外国人労働者が増えれば、社会問題は必ず起きることを覚悟すべきだ。

これらの点をよく検証し、それでもどうしても労働力が足りないとなれば、必要な人数をきっちり精査した上で、期限を切らずに受け入れたらいい。

その際は日本人の生活や文化風土をよく理解してもらうことが重要だ。

雇った企業には、きちんと税金や社会保障料を納めてもらう。

また外国人やその子ども達の日本語習得が遅れていれば、行政に頼るのではなく、受益者である企業が費用を負担する。
そこまでして雇いたいという企業は、それほど多くないのではないか?



○首都大学東京教授 丹野清人氏 

「受け入れ側 環境整えて」

長年、外国人労働政策を研究しているが、景気がよくなって、単純労働の分野で人手不足が深刻になると、外国人労働者の受け入れを求める声が高まる。

今回も過去の経緯と同じだ。

政府は「単純労働者は受け入れない」と言いながら、技能実習制度の拡充など、場当たり的な対応を続け、事実上単純労働者を受け入れてきた。

自動車やスイーツの生産工場、農作業などでは、中国などからの技能実習生や、南米から出稼ぎで来た日系人が経済を下支えしている。

深刻なのは、労働者として安心して働ける環境が十分に整っているとは言い難い点だ。

未払い賃金をめぐるトラブルは後を絶たず、低賃金で不安定な仕事に就くことが多い。

雇用主が保険料負担を嫌うなどして、社会保険に未加入のケースも目立つ。

2008年のリーマンショックの時、多くの日系人は解雇され、路頭に迷った。

その際、政府は渡航費を渡して帰国を促した。

雇用の調節弁と言われても仕方がない。

ところで外国人労働の動向に最近変化がみられる。

これまでは多くの外国人が日本に働きに来てくれた。

日本の方が彼らの母国より経済的に豊だったためだ。

かつては大学院を出た人が、日本に出稼ぎに来たこともあった。

しかし経済環境が変化して、ブラジルや中国などこれまで労働力を送り出してきた国が、経済成長を遂げ、わざわざ苦労して日本に出稼ぎにいかなくても母国で稼げる環境が整ってきた。

ブラジルでは大卒の新卒初任給が日本を上回るケースも出てきた。今後も進むだろう。

日本人の生活は、もはや外国人無しには成り立たなくなっている。

日本離れが進むならなおさら、日本語教育や就業訓練の充実、授業で遅れがちな子どもの教育への目配りなど、生活者として住みやすい環境作りが欠かせない。


参考になるのは韓国の政策だ。

韓国は2003年、「外国人雇用法」を制定し、翌年雇用許可制度を実施した。

使用者が政府から許可を得て外国人を単純労働者として雇う仕組みで、不当な差別的処遇をしない義務を課した。

雇用者が賃金をキチンと払っているかどうかや、社会保険の加入対象事業者かどうかもチェックされる。

雇用主の責任が徹底されており、日本も学ぶべき点が多い。

外国人を社会の一員として受け入れる環境づくりが必要だ。



○広島県安芸高田市長 浜田一義氏 

「地域活性化の担い手に」

安芸高田市の人口は3万人。

広島空港から車で約1時間の中山間地域にあり、自動車関連の製造業や卸小売の中小企業が多い。

外国人は、日系ブラジル人ら約550人。

市民全体の2パーセント足らずだが、外国人にもっと来てもらいたい。

定住してほしいと考えている。

定住化に力を入れるのは、人口減への強い危機感があるからだ。

民間の有識者らで作る「日本創成会議」が5月、人口減の加速で将来消滅するかもしれない896自治体のリストを公表したが、うちの市もその一つに数えられた。

市の人口は、20年後には今より3割近く減る見通しだ。

65才以上が全人口に占める割合は現在36%で、全国平均(25%)を大きく上回る。

出生率も伸び悩んでいる。

介護の担い手不足は特に深刻で、2011年度から「市民総ヘルパー構想」と称し、元気な高齢者らを念頭に、介護のサポーター養成講座を本格的に実施しているが、急激な高齢化に追い付かない。

経済、地域への影響も大きい。

売り手も買い手も少なくなり、店舗は撤退、農業の後継者不足に拍車がかかり、荒廃地も目立つ。

消防団やお祭りの担い手が不足し、地域活動の維持も難しい。

まさに死活問題だ。

人口推移が分かる表を市長室の壁に張り出している。

勿論、若者の定住化や少子化対策に力を入れ、未婚男女に交流の場を提供し、子育て世代への住宅支援も行っている。

ただ子どもが成人するまでに、20年はかかる。

それまで座視できない。


そんな中で着目したのが、外国人だった。

助けてもらわないと、現状の課題に太刀打ちできない。

こちらの使いやすさばかり求めても、長く担い手になってもらえないだろうと、2010年に「人権多文化共生推進室」を設置した。

ポルトガル語、中国語、英語の通訳を置いたり、生活相談のハンドブックを作ったりしている。

13年には「多文化共生プランを策定、日本語教室や介護関係の資格取得を学ぶ講座を開催した。

審議会などの場にも参加してもらっている。

取り組みは始まったばかりだが、企業や市民の理解や協力を得ながら、仕事、住まい、子どもの教育などの施策を拡充し、日本人も外国人も暮らしやすい街づくりを進めたい。

               ・・・・・


ブログ内関連記事

「英語の次に中国語」有益

多文化に挑む韓国(1)・・外国人労働者

「アジア主義からみた中国・・中島岳志氏の語る「精神としてのアジア」(1)

「日中関係に東洋思想の可能性をさぐる・・中島岳志氏(2)」

「イスラム世界と中国・・増えるエジプトへの留学生」

「アジア」カテゴリー全般

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死なれる側にも教養がいる・・嵐山光三郎氏

2014-11-01 | 心理学と日々の想い



ひき続き、嵐山光三郎氏の「死ぬための教養」のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


全体としては何十冊という本が紹介されているのですが、次には、作家の江國滋さんの闘病記の紹介をご紹介します。

書名は「おい癌め 酌み交わさうぜ 秋の酒(江國滋闘病日記)」といいます。

          
           *****

          (引用ここから)

1997年8月10日、敬愛する作家江國滋さんが癌でなくなりました。62才でした。


「おい癌め・・」の第一章は、

「残寒や この俺が この俺が癌」

という句で始まります。

そして、7月25日「死が勝つか 時間が勝つか 夜の秋」

7月26日「いや美味き 採尿コップの 氷かな」

7月27日「死に尊厳なぞと いふものなし 残暑」

そして8月8日の午後2時、江口さんは辞世の句を書きつけます。

「敗北宣言  おい癌め 酌み交わそうぜ 秋の酒」

あたかも死にゆく実況中継のように自分を客観的に見つめる静かな目があるのです。

           ・・・

       (引用ここまで)


         *****


「後書き」は、次のように締めくくられていました。


         *****


       (引用ここから)


父の死が数日後に迫ったとき、父は「おまえはいやな野郎だ」と私をののしり、病院の看護婦に向かって「この息子は大バカモノですよ」と憎まれ口をきいた。

母に対しては、もっとふてくされて、一切言うことを聞こうとしなかった。

いつもの父はおだやかな性格で、そうことを言う人ではなかったのでびっくりした。

こういった悪たれ口は、死にゆく者のいらだちを親しい肉親に言ってまぎらわす、父の最後の甘えのようにも感じられた。

母は黙って対応していたが、私を呼び寄せて、「遺族が悲しまないように、わざと嫌われる言い方をするのです。いい人で死んでしまうとみんな悲しむから、憎まれっ子になろうとしているのよ」と説明してくれた。

母は、別の人でもそういう経験をしたという。

それに父の性分をよく知っている母だから言えることで、これは「死なれる側の教養」である。


その母も87才となった。

父が呆けて母の言うことを聞かなくなった時、私は父をどうにか寝かしつける毎日で、母と共に大変な日々であった。

父が死んだあとの葬儀や法要、あるいはその他諸々に関して、私は全力をもって母を補佐したつもりであったが、ささいなところで言い合いとなり、「老人の気持ちなど、あなたにわかるはずはないわよ」と泣かれた。

そう言われる私も61才になり、自分のために「死ぬための教養」を身に着けようと準備を始めた。

「死ぬための教養」は百人いれば百通りが必要であって、それは各自一人一人が身に着けていくしかない。

幸い、先人たちには、死についての深い考察をなした人がいて、そういった識者の本を吟味熟読し、自分なりに納得するしかないのだ。

天才も学者も凡人もスポーツ選手も、みんな死んでいく。

長い闘病生活の果てに死ぬ人も多く、今の時代に求められるのは、自分が死んでいく覚悟と認識である。

来世など、あるはずがない。

いかなる高僧や哲学者でも、自分の死を受け入れるのには力がいる。

いかにして、ゆうゆうと死んでいくことができるか?

自己を救済しうるのは、使い古した神様や仏様ではなく、自分自身の教養のみである。

祖母は99才のときに「今まで好きなことをしてきたから、この世に未練はないが、死んだことはないから、死ぬとはどういうことなんだろうねえ?」と言いながら、死んでいった。

死への考察は、人間の最高の興味の対象であろう。


       (引用ここまで)

           *****

この本を通して、著者はなんとかして、軽妙洒脱に、しかも真理にのっとって、死んでゆく方法を模索していました。

しかし、どのような高名な作家、文人でも、自身の最期をみつめる心は、大変に苦しんでいることを指摘しています。

ご紹介したのは、その中で最も「軽妙洒脱」を実現できたと、著者が評価している作品です。

誰もが、明日死に際に至る可能性があるのですから、この教養は、とても大切なものだと思いました。

家庭の中で老人がいつのまにか寝込みがちになり、そしてやがて亡くなっていくのを家族親族で見守っていたのは、つい数十年前のことでしたのに、今ではとても遠いことのように思えます。


ブログ内関連記事

「脳と墓(2)・・脳は、文明という墓場で、何をしているのか?」

「この世の終焉と、強い魂・・ホピ族と隠された青い星(2)」

「なんてシュールな、伊勢のかんこ踊り・・お盆・施餓鬼・七夕(4)」

「ナイル川の西岸で、死者の復活儀式が行われる・・エジプトのミイラ(3)」

「世界は溶けた金属で覆われて浄化される・・ゾロアスターと神秘主義(4)」


「心理学と日々の想い」カテゴリー全般

「ブログ内検索」で

墓     15件
棺     15件
葬儀    15件


などあります。(重複しています)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする