始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

インカのミイラ(2)・・死んでも生きている

2012-08-29 | インカ・ナスカ・古代アンデス



アンデス地方のミイラについては、増田義郎・友枝啓泰氏共著「世界の聖域(18)神々のアンデス」という本に、次のような記述もありました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                  *****


               (引用ここから)


遺体を処理してミイラにする慣習は非常に古くからアンデスにあり、紀元前にさかのぼるパラカス海岸の墓地からも見事な刺繍を施したマントにくるまったミイラが発見されている。

遺物の保存条件のよい海岸砂漠からは様々な時代に作られた多数のミイラがこれまでに見つかっている。

インカの時代にも死者をミイラにして保存することは各地で行われた。

なかでもインカ皇帝のミイラは非常に重要なワカの一つであった。

この皇帝ミイラについて、次のような記録がある。


                     ・・・


クスコのある宮殿にスペイン人たちが押し入った時、大きな家の中にはたくさんの大きくて重い土製の壺があり、それには金の薄片のふたがしてあった。

壺を割ったりしないよう気を付け、中へ進むと、奥には大勢の女がおり、2体のミイラが安置されていた。

その脇には金の仮面をつけた女が、うちわを使ってほこりやハエを追い払っていた。

女が履物を脱ぐように言ったので、スペイン人たちは言われた通りにして、見事な黄金の杖を手にした遺体に近づき、身につけていたたくさんの財宝をはぎ取ったが、あまりに多くて全部は取りきれないほどだった。

                        ・・・


重要な人物がクスコの皇帝に会いにきた時は、まずこうしたミイラへの礼拝を済ませてから、皇帝のもとへ挨拶にまかり出る習わしであった。

インカ11代王のワイナ・カパックは自分の妹を妻にしたいと望んだが、妹はどうしても承知しようとしなかった。

最後の手段として、ワイナ・カパックは自分の父の遺体に捧げものをしたあとで、妹を妻として与えてくれるように頼んだが、答えはなかった。

そのあとで空に恐ろしい兆候が現れたり、サクサイワマンの城壁に雷が落ちたりしたので、ワイナ・カパックはこのもくろみをあきらめるよりなかったという。

ミイラは生前の人物を記念し遺体を長く保存するという目的だけで作られたのではなかったわけで、インカのミイラたちは現実の世界に参与し、そこでの重要な決定にまで加わっていた。

スペイン人たちが目撃したようにインカのミイラは生前の宮殿にそのまま住み続け、多くの使用人たちの世話を受けていた。

ミイラを維持するために必要な土地や家畜が割り当てられていたと言われ、また死んだ皇帝の残した財産のすべてがミイラの維持に充てられたので、新しい皇帝は自分の力で財産を築かねばならなかった。

皇帝ミイラのために莫大な負担がかかるので、ワスカルは「皇国の良いものは全部死者が我が物にする。」として腹を立て、「遺体をすべて土の中に埋めてしまいたい」と思ったほどである。

宮殿で多くの使用人にかしずかれたミイラは、望む時に美しい羽根飾りの輿に乗って互いに訪問しあい、盛大な宴を張って歌や踊りを楽しんでいた。

ときには生者の家を訪ねて行くこともあった。

クスコで催される大祭の時には、すべての皇帝ミイラが古い順に並んで広場に安置され、その前で様々な儀式が行われ、ミイラのために犠牲が捧げられた。


             (引用ここまで)


               *****


死んでもなお、生者の世界に参与するということは、死んでも意識は生きているということなのでしょう。

わたしたちの生死観とは異なる、死者と生者の交錯する世界が、現実のものとして存在していたということなのだと思います。

高野山には空海の霊廟があり、そこでは今でも空海が生きていると言われています。

生きていない、と証明することはできないのだと思います。

文中に「サクサイワマンの城壁に雷が落ちた」という箇所がありますが、サクサイワマンについてはwikipediaに以下のような説明がありました。

 
                 ・・・

wikipedia「サクサイワマン」より


サクサイワマン(ケチュア語で満腹のハヤブサの意味)はインカの遺跡である。

目的は城砦、宗教施設、その双方を兼ねた建造物など諸説あるが、確定していない。

1983年、クスコの市街としてユネスコの世界遺産に登録された。


ペルーの南東部に位置するインカ帝国の古都クスコ市の北に立地する。

同市はインカにおける聖なる動物ピューマをかたどって建設されたとする説があるが、この説に従えばサクサイワマンはピューマの頭に相当する。

巨石を惜しみなく用いたインカ文明特有の堅固な石組みが階段状に3段ずつ、幅数百mの平地を挟んだ南北の丘に築かれている。

インカの天上・地上・地下の3つを意識した独特の世界観が反映された結果、3段という段数が選択された。

格段は石で作られた階段で結ばれている。

遺跡を構成する石組みは巧みにデザインされており、リャマやヘビ、カモ、魚等の動物をかたどった箇所がある。

これらはそれぞれ数メートルから十数メートルの規模を持つ。

かつては東西に並ぶ3つの巨大な塔が建っていたがスペイン人によってことごとく破壊され、現在はその基礎のみが残っている。


            ・・・


この文章を読むだけでも、目まいがしてきます。

インカは奥深い、、と思わずにいられません。。




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インカのミイラ(1)・・神々の好きなもの

2012-08-25 | インカ・ナスカ・古代アンデス
 

「地球・神々からのメッセージ・・古代文明が語る謎の数々」には、次のような記述もありました。


             *****


         (引用ここから)


「薬物で眠らされていけにえに? アンデス山中でインカ時代の冷凍ミイラ発見」


インカ文明の宗教儀式や信仰は文字による記録がないので、多くの部分が謎に包まれているのだが、それを知る重要な手がかりが、ペルーのアンパト山で発見された。

アンパト山はアンデス山脈の山のひとつで、標高6300メートルの高山。

山頂は昔からずっと氷河に覆われていたのだが、1993年、近くにあった火山が噴火したため、吹きかかる火山灰の熱で氷河が溶けた。

その解けた氷河の下から、1995年、なんと500年前のインカの少女の冷凍ミイラが発見されたのである。

少女のミイラの発見現場付近には、供物と見られる陶器の破片や食物のかけら、貝殻で作った女性像、埋葬用の石床や野営の後まで見つかった。

少女が神に捧げられた「いけにえ」だというのは明らかだった。

発見者たちはこの少女をファニタと名づけた。


インカの人々は家畜のリャマをよく「いけにえ」として捧げてきたが、人間を「いけにえ」にすることはあまりなかった。

だが、何らかの折に子供を「いけにえ」として捧げたことはあった。

インカを征服したスペイン人たちが書き残しているし、この少女のミイラの前に、少なくとも10体のミイラが発見されていることでも分かる。

ただ、それまでに発見されたミイラは冷凍乾燥された状態で発見されたのに対し、ファニタは、氷河で冷凍状態になっていたため、乾燥しておらず、今まで発見されたものの中では保存状態はとびぬけて良い。

それで表情なども良く分かった。

少女は心地よさそうな表情をしていた。

これは薬物で朦朧とさせられていただめだと見られており、その薬物はトウモロコシを発酵させて作る酒であった可能性が高いという。


ではこの少女はいったいどういう理由から「いけにえ」になったのだろうか?

征服者たち(スペイン人)が書き残した記録によると、「いけにえ」はふつう有力者たちのこどもの中の最も美しい者から選ばれ、尊敬を一身に集めた後に、洞窟に埋められるか、峡谷に突き落とされるかした。

いけにえによって、インカは病気や苦悩をまぬがれることができると信じられ、そのためいけにえの家族は大変な名誉を得たとされた。

征服者たちはこの風習を禁じたが、20世紀の初めまで、あちこちで続いていたという。


「いけにえ」を捧げるのは統治者の慶弔、季節や農耕の節目、天体の特異現象、人の誕生や死に伴って、といったケースが想定されているが、

この少女の場合はもっと急な事情で「いけにえ」にされたのではないかと考えられている。

500年前、今回(1993年)と同じように火山が噴火し、火山灰のために農作物が被害を受けたり、水が汚れたりして、人々は山の神の怒りを鎮めるため、有力者の娘を「いけにえ」に捧げたのではないかと見られている。


                 (引用ここまで)


                   *****


氷河、ミイラ、いけにえ。。

南米というと、暑い熱帯雨林に覆われているような印象が強いですが、アンデス文明は標高の高い山々に生まれた文明だったのだと、改めて気づきました。


ミイラは、「インカ文明展」でも5体展示してあり、展示の目玉ともなっていました。




「氷の少女」を実際に発見、発掘した考古学者ヨハン・ラインハルト氏は、著書「インカに眠る氷の少女」の中で、次のように述べています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



                    *****


                  (引用ここから)


アンデスの冷凍ミイラがユニークなのは、自然保存された点にある。

エジプトのミイラの中にはインカより3000年以上前のものもあるが、それらは通常、体が乾燥し、内臓が(脳さえも)除去され、皮膚が防腐処理されている。


一般的には知られていないことだが、エジプトよりもはるかに古い人工ミイラが発見されているのだ。

それはチンチョーロ人のミイラであり、チリ北部の海岸近くで発見された。

そのミイラは約6500年前のものとされ、したがって知られているかぎりで言えば、世界最古の人工ミイラである。


自然凍結のミイラは人数がはるかに少ないが、体内組織と器官の保温状態が良く、生物学情報を豊富に与えてくれるので、学者は各種の研究を行うことができる。

とりわけ有名なのは、アルプスで見つかった「アイスマン」の凍結ミイラだ。

他にはシベリアの2400年前の女性ミイラと、グリーンランドで発見された500年前のイヌイット女性のミイラがある。


                 (引用ここまで)


                   *****


ミイラについては大変興味をもっているのですが、総数は少ないのだと思いました。

しかし、ミイラと言えばエジプト、という発想からはもっともっと自由になる必要があると改めて思いました。

「世界最古のミイラ文化」とされるチリのチンチョーロ文化についても、ぜひ調べてみたいと思いました。





wikipedia「アイスマン」より

アイスマン(英語: Iceman)は、1991年にアルプスにあるイタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷( 海抜3210メートル)の氷河で見つかった、約5300年前の男性のミイラの愛称である。

特徴

作りかけの弓矢や精錬された銅製の斧を所持していた。

背後に刺青の跡があり、つぼ治療をした痕と推測されている。

腸に鞭虫が寄生しており、また靴紐にその寄生虫除去に効果があると考えられる成分ポリポレン酸を含んだカンバタケをつけていた
DNAの遺伝学的調査により、現在のアルプス北部の住民に近いことがわかった。

目の色が茶色で、血液型はO型。




また、ヨハン・ラインハルト氏は、同書で、以下のようにも述べています。


                *****


             (引用ここから)


人身供儀は現代人の目から見ると恐ろしいことに思えるが、古代においては西洋でも、ごくまれだが執り行われたことがある。

旧約聖書では、人身供儀は重要視されていた。

象徴的な解釈も可能だが、聖書の物語の中でもっとも有名なのは、アブラハムが神の求めに応じて息子イサクをいけにえにしようとする話だ。

大昔の歴史的記録をひも解くと、ケルト族には人身供儀があったと書かれている。

またローマ人はそれを禁じる法律を発布している。

もし実施されていなければ、そんな法律は不要だったはずだ。

ヨーロッパ文明の黎明期に人身供儀がどのくらい広まっていたか、それはもはや知りえないだろうが、ギリシア神話などの古代神話には人身供儀が目立って多く出てくる。


またヨーロッパ人は、アメリカ大陸の諸文化でいけにえの儀式が行われていることを発見しても驚かなかった。

驚いたのはその規模で、特にスペイン人が直にいけにえの現場を目撃したメキシコのアステカ族は顕著だった。

だがインカ族のいけにえの模様が目撃されたことはない。

人身供儀を行う場所が相対的に少なかったからでもある。

たしかにインカ族は初期のスペイン人年代記作者に人身供儀のことを語りもしたし、スペイン人はその物証を発見もしたが、スペイン人がその現場を目撃したことはなかった。


             (引用ここまで)


               *****



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ナスカの地上絵(3)・・デニケンの疑問符、人々は空中に飛んで行ったのだろうか?

2012-08-19 | インカ・ナスカ・古代アンデス


前書でご紹介した文章に採りあげられていたエーリッヒ・フォン・デニケンは、「失われた未来の記憶」の中でナスカについて次のように述べています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


        *****


      (引用ここから)


ナスカとは何か?

ナスカのメッセージは覆い隠され、あらゆる理解を拒んでいる。

この風景は測りがたく、不可解で、荒唐無稽で、非常識だ。

ナスカでは論理の糸は堂々巡りの末、煙となって消え失せる。

ナスカはわれわれを過去へ連れていくタイムマシンのようなものであり、ナスカの謎に少しでも迫ろうとするなら、独創的に考えるということをしなければならない。

たしかに考古学的アプローチはいくつかの面で面白い可能性を示したが、それは半分しか正しくないのだ。


ナスカの砂漠にはまた奇妙な形の山があり、私はこれを「切頭山」と呼んだ。

そう呼んだのは、その山に頂上がなく、上部が平坦になっていて、周囲のどの山とも違っていたからだ。

他の山はすべて一般的な山のように頂上がある。

それに加えて「切頭山」の表面には、空中からもすぐにわかるジグザグ線があった。

「軌道線」の下にジグザグ線があるところがとくに興味をひかれた。

それは一般的なカルト宗教の狂宴には適合しない。

この山の「軌道線」の南端に考古学者たちは石壁のある小さな構造物を発見している。

これは(いつものことだが)“何らかの祭祀遺跡”に分類されている。


国際調査隊の最新鋭機器のおかげで、われわれは非常に詳細かつ良好なデータを取ることができた。

通常の地面の地球電気の抵抗値が、地上絵のある部分に比べて弱いということが判明したのだ。

突如として計測器の針が跳ね上がり、通常の値の1000倍以上もの値をはじきだした。


エリアN4と名付けられた区画に滑走路のような地形がある。

ここでは「軌道線」の縁に沿ってきわめて高い電気抵抗値が計測された。

電気抵抗値の中心は地表から2メートル下にあった。


また別の場所では強い電気的異常が見られた。これらの理由は不明だ。


本当なのか?

ナスカではよくあることなのか?

これは本当に「行進の道」なのか?


ナスカとその周辺では物事は見かけほど、あるいは口のうまい科学者が言うほど単純ではない。


「パンパ・サン・イグナチオ」の軌道線の年代について疑問を呈しておこう。

ここでは2本の軌道線が衝突し、終端が重なっている。

調査隊は一方がもう一方よりもはるかに古いということを確認した。

実際にどのくらい古いものかは分からない。

だがナスカのカルトは考古学者の主張よりもはるかに古いものに違いない。

なぜなら、地表にある「軌道線」の多くは事実上、砂塵に覆われてほとんど判別不可能になっているからだ。


ナスカに異常はなかったのか?

化学的な点では?

調査隊がみつけたものは、「ヒ素」だけがけたはずれに多かった。

計測値における「ヒ素」の濃度は、通常の10倍から17倍におよんだ。


いったい誰が「ヒ素」など使いたいと思ったのだろうか?

今日では亜鉛の合金にこれを添加することで硬度を上げることができる。

また半導体やエレクトロニクスの分野でも使われる。

「ガリウムヒ素」という形で集積回路やコンピュータの高周波部品の製作には欠かせない。

「ヒ素」はまた半導体レーザーにも用いられる。


計測地点での「ヒ素」の濃度は、明らかに高すぎる。

ナスカ・パルパ地区における他の元素の一般的な平均値とまったく合わない。

これが行進路だとしたら、いったいどこに続いていたのか?

敬虔な人々はそのまま空中へ飛んでいったのか?


さまざまな“空飛ぶ乗り物”――「ヴィマナ」と呼ばれるーーの記述された古代インドの文献、ソロモン王の“空飛ぶ戦車”、エゼキエルが記述した“スペースシャトル”、チベットの“空中の真珠”やエジプトの“神々の屋形船”などを知らない人は、

とりあえずナスカに関する最終結論を保留していただきたい。

ナスカのような謎と驚異に満ちた場所については、何人たりともいたずらに最終結論など下すべきではない。

遅かれ早かれその結論は荒唐無稽なものだったと判明する日がくるのだから。


             (引用ここまで)


              *****

デニケンは、電気抵抗値やヒ素が検出されたことから、高度な文化をもつ何者かが関与していたと考えているようです。

世界の古代文明に記述されている空飛ぶ物体との関連を考慮しなければならない、という彼の考えは、熟慮に値するものであろうと思います。          

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ナスカの地上絵(2)・・気球から眺めたのか?

2012-08-15 | インカ・ナスカ・古代アンデス


ナスカの地上絵について、(株)レッカ社編「マヤ・インカ文明の謎・未解決ファイル」という本では、次のように書かれていました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****


              (引用ここから)


「ナスカでは太陽への感謝のしるし、あるいは雨乞いや豊穣祈願といった類の宗教的な儀式が行われていて、動物などの地上絵はそれと密接に関わっていたのではないか」と考える研究者が多い。

また1997年から行われたドイツの調査では、地上絵の内部につくられていた石造建築物からトウモロコシや貝類が発見され、土器が意図的に割られていた形跡があったことが判明した。

これらの痕跡が発見された場所が、周囲からよく見える位置にあることも明らかになっており、何らかの儀式が行われていたとする根拠とされている。

とはいえこの説についても決定的な証拠は見つかっておらず、やはり仮説の域にとどまっている。

また考古学者のジム・ウッドマンは1973年に、「ナスカ人は気球に乗って地上絵を見ていた」という斬新な説を唱えた。

幾何学模様にも見える無数の線は、気球が離着陸するときの目印であり、「地上絵は高貴な身分の人物に捧げられた贈りもので、彼らが死ぬと空中で葬送の儀式が行われた」のではないかと考えた。

この説はナスカ地方に空気を逃さないほど目がぎっしり詰まった織物の技術が伝わっていることと、軽くて強固なバルサ材がチチカカ湖周辺で採取できることが根拠となっていて、ウッドマンは現地で調達できるこれらの材料だけを使って実際に気球を作成し、飛行に成功している。

気球による飛行は1700年代に初成功したとみられているが、この実験によってナスカ文化でも気球に乗って空を飛ぶことが可能だということが証明された。

俗説ではあるが、中国では三国時代(200年頃)に諸葛孔明が「天灯」という熱気球の一種を発明したとも言われており、その時代にはすでに成立していたナスカ文化で熱気球が使われていた可能性はゼロではない。

しかし実際に気球を使っていたという証拠は発見されていない上、地上にある幾何学的な線は離着陸時の目印にしては多すぎるため、熱気球の信ぴょう性は低い。

「未来の記憶」をはじめ、古代宇宙史に関する多くの著書で有名なエーリッヒ・フォン・デニケンは「ナスカの地上に残された無数の線は、宇宙船が離着陸するための滑走路、もしくは宇宙人に離着陸場所を示すための標識だ」と考えた。

動物の絵も宇宙人に向けて描かれたものだという。

たしかに「フクロウ男」と呼ばれる地上絵には、頭にヘルメットをかぶり、ブーツのようなものをはいた人が描かれており、宇宙服のようにも見える。

この説は否定的に受け取られていたが、20世紀末にNASAが打ち上げた地球観測衛星「ランドサット」が地上900メートルの地点から送ってきた写真をアメリカの物理学者が分析した結果、全長50キロメートルにも及ぶ矢印のような地上絵を発見し、再びデニケンの説が注目されることとなった。

この件に関してNASAから公式見解は発表されていないが、もしかしたら真実に迫る重要な情報が隠されているのかもしれない。


             (引用ここまで)

 
              *****


前の記事の50キロメートルの長さの矢印は、いったい誰が、どのようにして、何のために描いたものなのか、大変興味が引かれます。

これは一つの仮説ですが、地上絵はそうとう巨大な視点から描かれているということは確かだと思います。




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ナスカの地上絵(1)・・長さ50キロメートルの矢印を、眺めたのは誰か?

2012-08-11 | インカ・ナスカ・古代アンデス


では、手元にあった本に記されていたナスカ文明の謎について、見てみたいと思います。

平成雑学研究会というところが出した「古代文明が語る謎の数々・地球 神々からのメッセージ」を見ると、ナスカのことが世界の不思議として採りあげられていました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


            *****


         (引用ここから)



古代人が残した絵画の中で、文句なく世界最大のものといえば南米ペルーのナスカ平原にある有名なナスカの地上絵だ。

動物や植物の絵が30以上と幾何学文様が200以上、一点から放射状に直線が伸びた図形が62以上確認され、紀元前2世紀から紀元後6世紀に栄えたナスカ文明のうち比較的早い時期に描かれたと考えられている。

絵の描き方はいたって簡単。

ナスカ平原の土は、表面が強い日差しのために酸化して赤茶色っぽく、内部は白いので、表面の赤茶色の石や土をどけると、内部の白い土が顔を出す。

染料などを使わなくても描けるわけだが、それが上空からしか全体が分からないような巨大な絵となると、描くのはそう簡単とは思えない。

ハチドリや猿、クモなどといった動物の絵は、一つが数十メートルから数百メートル、直線は長いものだと何キロも続く。

そんな長い直線を引こうとすれば曲がってしまいそうなものだが、ナスカの地上絵の直線は、一キロあたり平均して2メートルも横にずれていないという。

これは現代の航空測量を用いて描いた場合よりも正確な直線である。


そんな長くて正確な直線や巨大な絵をどうやって描いたのだろうか?

これはまず、縮尺図を描き、地上につけた目印からロープを伸ばして、縮尺図の絵を拡大したのだろうと考えられている。

原理は単純だが、これだけ大きな図形となると、わずかのずれが大きな歪みとなってくるし、形が崩れていないかどうか、地上で確認するのは非常に困難である。

またこんな巨大な、自分たちが全貌を目にすることもできないような絵や図形を、古代ナスカ人たちはいったい何の目的で描いたのだろうか?


動物の絵に関しては、現在もっとも有力と考えられているのは「星座を地上に描き写したもの」という説だ。


だが動物の絵よりはるかに不可解なのが直線や幾何学図形だ。

こちらの方が動物の絵よりはるかに規模が大きいし、何に使ったのか、理解に苦しむ。


こちらについては有力視されているのは、「宗教行事」に使うという説である。

一言に「宗教行事」と言っても、さまざまな行事が考えられている。

最有力とされているのは農耕儀礼説である。

直線のひとつに、太陽が天頂を通過する日の出の方向と一致する竿のがあるなど、地上絵には天文学、農耕儀礼などの情報が組み込まれているところから出た説だ。

またインカには「カパコチャ」という、人がただまっすぐ歩くだけの宗教行事があるから、ナスカにも、それと同じような儀式があって、そのための道として、直線が引かれたのではないか、という説もある。

死者の弔いのために砂漠に向かって行進するための標識だった、という説もある。

今日ではあまり受け入れられていないが、古代の天体観測に使われた暦説というのもある。

直線のいくつかが特定の星の出る方向と一致していることや、直線の中に夏至の日没の方向を向いているものがあること、鳥の絵の嘴が夏至の日の太陽の上る方角を向いていることから出た説だ。


こういった常識的な説と共に、捨てがたく残っているのが「宇宙人の航空標識、滑走路説」である。

長い直線は上空から見ると、まるで滑走路のように見えるし、その上アメリカの探査衛星ランドサットが写した写真によると、全長50キロに及ぶ巨大な矢印が映っている。

あまりに巨大すぎて、飛行機で上空を飛んだ時にも分からなかったのだ。


上空どころか、宇宙からしか識別できないほど巨大な図形を描く必要がなぜあったのか?

宗教儀礼にこんな大きな図形が必要なのか?

宗教行事説などで一応の説明がついても、なお大きな疑問がやはり残されているのである。


                (引用ここまで)


                *****


謎に満ちたナスカの地上絵は、魅力的です。

この謎が解決する時はくるのでしょうか?


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「インカ帝国展」に行ってきた・・4000年の過去をさかのぼれるか?

2012-08-07 | インカ・ナスカ・古代アンデス


少し前になりますが、国立科学博物館の「インカ帝国展・マチュピチュ発見100年」に行ってきました。


国立科学博物館「インカ帝国展」HP
http://www.kahaku.go.jp/exhibitions/ueno/special/2011/inka/index.html


その印象を心の中で整理しようとしていたのですが、なかなか形をとることができず、ただ漫然とインカ文明の気配を反芻し、それを楽しんでいるうちに時がすぎました。

歌手の加藤登紀子さんが昔「死人たちの祈り」という本を出していて、それはインカ文明の地を旅した時の随筆なのですが、それを少し読みましたが、

その中にあった「もしここに一人きりでいたら、わたしは発狂してしまったことだろう」という一文が、まさにぴったりで、展覧会の会場にいても、一人でいることが怖いような感じがありました。

インカ文明について考えることは、マヤ文明について考えることと似ていると思いますが、どちらも感性の極限までの旅であると思います。

恐ろしいような、見知らぬ世界で、魅力的だけれど、不吉なものが秘められているような、懐かしいような、好きなような、嫌いなような、記憶が途切れているような、記憶がよみがえるような、いろいろな相反する感情が湧きあがり、言葉を失う、という表現がぴったりのような気がしました。

本当に、言葉を失うような、そんな強烈な印象の展覧会でした。

展示品はたくさんあって、年代別に分かりやすく説明がついていました。

説明は合理的なのですが、展示されているものを見ても、非合理な、摩訶不思議な感じがするばかりで、インカ文明は南米大陸の一部分とはいえ、その広さは想像を絶するもので、全体として、非常に巨大すぎる文明だという気がしました。

そのスケールの大きさが、人間という尺度を軽々と超えているように思われました。

村人たちが畑を耕し、リャマの毛を刈って衣服をつくり、あたりを開墾して暮らしてきたという一つの歴史的事実と交錯して、それを真上から眺めるような巨大な視点があるのだろうという気がしました。

今年はマチュピチュ発見100年目だそうで、3D仕立てのマチュピチュの特別映像もあって、それはもう楽しかったです。

インカ文明は、16世紀にスペインのピサロたちによって王様が殺されて滅びましたが、インカ文明以前には、プレインカ文明と総称される、紀元前から続く連綿とした大文明があったということです。

マチュピチュはそんなに古くないインカ文明の遺跡ですが、インカの前にはチャビン文化、ナスカ文化、モチェ文化、シカン文化など、古代から長く大文明が存在してきたようです。

そして、それらがないまぜになって「インカ文明」と総称されるきらいがあるようで、目を凝らしても、なかなかそれぞれの違いとつながりを理解するのは難しいことだと思いました。

文字を用いない文明はどのような文明でありうるか、という観点からも、たくさんの考えるよすがを与えてくれているのではないかと思いました。

「古代南北アメリカ文明」という大きな枠組みでとらえられるか、と考えることも楽しみなことです。

まずは、思いつく点からあれこれと、近づいてみようと思います。




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小原田泰久「ホピ的感覚」(5・終)・・選択した道が正しいか、やがて結果が出る

2012-08-03 | ホピ族


小原田氏の「ホピ的感覚」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
 

         ***** 
     

        (引用ここから)


「ホピの予言」では、物質を神様とする道を歩き続ければ、結果的に自ら進んで破滅を迎え入れると言われている。

神様というシナリオライターからすれば、役割を演じきれなかった人たちの末路と言うしかないだろう。

気づきのドラマは、誰にも平等に与えられているはずなのだから。



人間は何のために生きているのか、という難問について考えてみたい。

もしこの質問をホピの長老マーティン氏にしてみたら、どんな答えが返ってくるだろうか。

きっと彼はこう言うに違いない。

「聖地を守るため」

それが彼らホピの長老たちがグレートスピリットから与えられた大きな役割だった。

そしてその役割を全うすることが地球を破滅から救うことであるし、素晴らしい夢の世界を作り上げることにつながっていくことも、彼らはグレートスピリットから教えられた。

彼に与えられた役割は、彼自身の魂に深く刻まれている。

魂の側から見れば、魂はその役割を果たす手段としてマーティン氏の肉体をまとい、ホピの村に生まれてきたのである。

そして重大な役割を果たすことによって、魂はそのレベルがまた一歩、完全無欠の神様の領域に近づくのである。


人間は肉体を持っているばかりに、つまらない欲望に振り回される。

欲望に振り回されるということは、魂の本来の目的達成、役割の全うにとっては大きな足かせとなる。

そんな足かせをはめられながら、それでも自分の役割を忘れることなく、肉体的な欲望に打ち勝つことが、魂の修行なのである。

マーティン氏は電気、ガス、水道を使った便利な生活を得ることができるにも関わらず、それを頑なに拒否している。

これは彼の魂の叫びである。

肉体的な快適さや便利さよりももっと大事なものがあることを、快適さ、便利さに流されることが修行の妨げになることを、魂がきちんと知っているからこそ、彼は昔ながらの不便で退屈な生活にこだわっているのである。

すべての人には、それぞれの魂に役割が与えられている。

そのことを知り、その役割を全うすることを第一に考えることこそ、私たちが生きていくうえでもっとも重要なことなのである。

そのためにもまず知らなければいけないのは、私たちの舞台が魂の修行の場であることである。

肉体を大事にするあまり、魂が成長するどころか、退化してしまったというのでは、私たちがこの世に生を受けた意味がなくなってしまうのである。


長老たちは「ホピの予言」が当たっているとか当たっていないとか、そんなことを議論しようとしているわけではない。

「予言」は神様からのメッセージである。

こういう生き方が本当の生き方ですよ、道をはずすと、こんなことになりますよ、と神様が教えてくれているのである。

その教えを道しるべとして、あるいは戒めとして生きていくのは、人間として当然のことだと彼らは認識して生きてきた。

その当然のことが通用しなくなってきたことが大きな問題なのである。


ホピ族には5つの石版についての予言が伝わっている。

その石版は、この世界が始まった時に、兄弟たちが一枚ずつ持って世界各国へ散っていったと言われている。

ホピの村にも一枚が残っている。

浄化の日には、その石版がホピの地に集まってくる。

「予言」ではそう言われている。

今、その石版と思われるものがあちこちでみつかっているそうだ。

日本でも、「ホピの予言」と同じ内容のことが絵として刻まれた石が見つかった。

それが何を意味しているのか?

浄化の日がいよいよ大きな山を迎えるということではないだろうか?

今私たち人類は、とても重要な時期に差し掛かっているのである。

そのことをしっかりと心に刻みこんで、一日一日を神様の意思に沿った正しい道を模索しながら生きていかなければならないのである。

自分の選択した道が正しいかどうかは、やがて結果が出るはずだ。

その結果はすべての人に示されるだろう。


           (引用ここまで)

            *****
 

筆者はわかりやすくまとめておられると思いました。




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