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マタギの習俗のことを、もう少し調べてみたいと思いました。
佐々木高明氏の「山の神と日本人」という本を読んでみました。
この本は3部で構成されていて、各部のタイトルは以下になります。
1部・農民の山の神と、山民の山の神
2部・南からの焼畑文化と、山の神の信仰
3部・山の神・畑の神信仰と、北からの文化
第1部では、「山の神」を柳田国男氏達が規定したような、稲作文明と共に定着した、祖霊としての神、山と里を行き来している神であるという説に対して、日本人=稲作農耕民という単一の視点の否定を試みています。
山の神=先祖でない場合がある。
山の神=山と里を行き来しない場合がある。
第2部では、広くインドから東南アジアの狩猟と農耕の習俗を調査して、日本の習俗と共通するものを探しています。
日本の民俗学を世界的な視野で見る=民族学的な視点を提唱しています。
そして、それらの東南アジア諸族の習俗との共通項は、日本においては「焼畑文化」において見いだせると述べています。
第3部では、北方民族の習俗と北日本の習俗の共通項を調査しています。
そして、「東北日本の山の神信仰の基層にあるもの」「東北日本の畑神信仰の基層にあるもの」「焼畑農耕民の狩猟と狩り祭りの象徴的意味」について述べています。
この箇所では、「東北日本の山の神信仰」を継承してきた者が、すなわちマタギであると規定されています。
そして、「焼畑農耕民と狩猟文化」の関連については、東北から日本全体に目を転じて、広く日本の民俗を考察しています。
私はマタギについて調べたかったので、この第3部の部分をご紹介しようと思います。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
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(引用ここから)
東北地方では「山の神信仰」は、具体的にどのような形で村人たちの間で生きてきたのだろうか?
新潟の朝日山地の深雪地帯に立地する三面(みおもて)では、住民たちは自らを山人(ヤマウドあるいはヤマプト)と呼び、伝統的には秋から春の時期には熊やカモシカの狩猟とゼンマイなどの採集の活動を盛んに営み夏には「カノ」と呼ばれる焼畑と小規模な水田稲作農耕を行っていた。
一年の大きな節目にあたるのは、初冬の「山の神祭り」である。
祭には、弓矢と駒形、12個の餅と酒、もち米のシトギを供え、その後酒宴が行われた。
「山の神は大事なもので、獲物をくれるか、くれないかは山の神にかかっている」と村人たちは言う。
クマ狩りから帰った晩には「七串焼き」と称して熊の肉の塩焼きを山の神に供える。
捕った熊の脚の付け根の尻肉の小片を串に指して焼いたものを七つ用意し、水垢離を取った者がこの串を杓子の中に入れ、それを捧げて「ユトガケ」の唱え言を言う。
「ユトガケ」は、十二山の神に対して「山の作法にそむきませんので、バチを当てないでください」という誓いと願いの言葉で、この唱え言が終わるまで何人も熊の肉を口にしてはならない。
山人(ヤマウド)と自称する三面の村人の、山の神への深い祈りは、奥山を舞台に展開される狩猟にかかわるものが多い。
それに対し、里山で夏に営まれるカノ(焼畑)では、「山の神」へ祈りを捧げることもなく、「山の神」への儀礼的行為は全く行わない。
水田稲作では、収穫祭にあたる「オカリアゲ」の行事が行われるのみで、その他の田の神への祭りもほとんどない。
この村では、田の神はもともと山の神様で、山から下って来て田の神になるという伝承は存在する。
しかし「十二山の神」として祀られる「山の神」のそれと比較してきわめて希薄であることは否定できない。
日本列島に展開されてきた「山の神信仰」には、かなり大きな地域差が認められる。
そうした地域差がどうして生み出されてきたのか?
私はその最大の要因は文化系統の相違にあるのではないかと考えている。
つまり東・西の「山の神信仰」の差異の基層には、それぞれ異なった系譜をもつ文化が存在するのではないかということだ。
また前章で、「焼畑民」の「山の神信仰」を中間にはさんで、「山民の山の神」から「稲作民の山の神」へ、「山の神」信仰の展開が跡付けられることを主張したが、
それと同時に、焼畑農耕との結びつき(すなわち、「地もらい」や儀礼的狩猟、その他の儀礼的行為)が顕著に認められるような「山の神信仰」が明瞭に跡付けられる地域は、西日本の照葉樹林帯にほぼ限られることも明らかになった。
日本列島の「山の神信仰」は、全体として単一・同質ではなかったのである。
中部インドから東南アジア・中国南部を経て西日本に至る、照葉樹林帯一帯とその周辺における、焼畑農耕民の信仰する山や森を支配するカミ(精霊)の観念やその儀礼の特色には、類似する点が極めて多い。
それらの「山の神信仰」は、照葉樹林帯に見られる他の共通の文化要素と共に、文化クラスターを構成する重要な文化的特色の一つとみなされている。
ということは、西日本の照葉樹林帯に広く見られる「山の神信仰」は、その文化史的系譜を辿ると、アジア大陸の照葉樹林文化に連なるものとして考えられる。
しかし、東北日本の「山の神信仰」の特色の中には、このような照葉樹林文化に由来すると思われる文化的特徴はきわめて希薄である。
もちろん稲作文化の進出にともない、「山の神」、「田の神」の去来伝承も東北日本に伝えられたし、西日本の「山の神信仰」にともなうようないくつかの要素も存在しないわけではない。
しかしそれらの存在形態は、西日本のそれと明瞭に相違している。
その相違の基底にあるものは、シベリアに連なるような「北からの文化」の影響がやはり無視し得ないのではないかと思われる。
日本列島への、北からの文化の伝来については、照葉樹林文化のそれほどには明らかになっていない。
しかし、東北アジアの採取狩猟民文化のうち、アムール川流域からサハリンに住むニブフ族に代表される文化は、沿岸定着漁労民型として類型化することができ、その文化の特徴は日本列島の縄文文化の特色とよく類似する。
こうした採取狩猟段階や農耕段階の「ナラ林文化」の伝承に伴い、熊をはじめ大型動物を「自然界の主」とする信仰、あるいは森や山に住む精霊(カミ)の信仰、さらには「去来する畑神」についての信仰や儀礼なども、日本列島の北部に伝来したのではないかと思われる。
(引用ここまで)
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著者はとてもていねいに書き進めてゆきますが、西日本には南方からの文化が基底にあること、そして仮説として、東北北部には北方からの文化が基底としてあると述べています。
しかしそれは今まであまり顧みられることが少なかったし、資料的にも少ないのであると述べています。
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「最後の狩人たち・・マタギの狩りの掟(1)」
「丸木舟の記憶・・北海道のフゴッペ洞窟」
「〝地球法”の感覚・・中沢新一「熊から王へ(2)」
「東北と関東の縄文人の系統は別・・DNAを読む」
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