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アイヌより古い、東北の熊神信仰・・マタギの世界(2)

2014-07-02 | 日本の不思議(現代)



引き続き、佐々木高明氏の「山の神と日本人」という本のご紹介をさせていただきます。

著者は「熊神信仰とその文化的系譜」について述べています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


            (引用ここから)


「熊のことは大事にしたな。それこそ神様扱いでねえけどよ」。

新潟県の深雪地帯・三面の山人たちはこう述べて、熊が神に近い獣だという認識を示している。

熊を捕った時に「山の神」への供物として捧げる「七串焼き」(七片の肉の串焼き)の、その熊肉を食べることは、熊の聖なる力を口にすることだとも考えられていた。

東北地方の多くの山民たちの間では、熊は「山の神」に最も近い獣と考えられていたようだ。


池谷和信氏は著書「東北マタギの狩猟と儀礼」で、東北地方に広く分布する、狩猟を生業とした「山の神」を信仰する人たち(=マタギ)の儀礼を総覧している。

その儀礼は二種類に大別できるとしている。

すなわち、「狩り熊型の熊祭り」として、山中で熊を捕獲した時に行う儀礼(唱え言をともなう「皮着せ(=皮剥ぎの意味)」と、心臓割と、七串焼き)と、山中か集落で行われる法印(里山伏が主催する)の“シシマツリ”の二種類である。


アイヌの「熊祭り」が「狩り熊型」のそれから、子熊を飼う「飼育型の熊祭り」に特化する方向に進化したのに対し、東北地方のマタギの熊儀礼は、北海道・東北日本北部に共通する古いタイプの「狩り熊型」の祭りから発して「シシマツリ」の方向に特化したものだと、池谷氏は結論づけている。

いずれにしても東北地方には、狩猟儀礼としての熊祭りが広く分布していたことは間違いない。


赤羽正春氏は、北越後から山形の置賜、庄内地域にかけて「オサトサマ」と呼ばれる「山の神」信仰が分布していることに着目している。

この「オサトサマ」は姿の見えない山の支配者で、「熊祭り」と深く結び付いているもので、赤羽氏はこの神こそ北海道やさらには大陸につながる古い「山の神」の姿を伝えているものではないかと推測している。

「熊祭り」と言えば、アイヌの人たちのそれがよく知られている。

アイヌのイオマンテと同じ「飼い熊型の熊祭り」の「熊送り」は、アムール川流域からサハリン、北海道に至る地域の諸民族にのみ分布する。

ここから、おそらく「飼い熊型の熊信仰と儀礼」は、狩猟した熊の霊を送る「狩り熊型の儀礼」から発達したものであろうと考えられる。

また「飼い熊型」の儀礼は「オホーツク文化」を通じてアイヌにもたらされたものであり、この種の「熊祭り」がアイヌ文化の中核を構成していると考えられる。

 
              (引用ここまで)


               *****


NHKニュースに、新潟県の「オサトサマ=お里様」の行事が行われたという記事がありました。

        
                ・・・・・

「NHKNEWS・新潟県のニュース」2013・12・08
http://archive.is/TojgN

「村上 伝統行事「お里様」」


村上市で、「お里様」と呼ばれる伝統行事が行われました。

「お里様」は、村上市塩野町地区の伝統行事で、五穀豊穣と山での仕事の安全を祈願してしめ縄を、地元の熊野神社に奉納します。

しめ縄の奉納は、祝言に見立てて行いますが、熊野神社は女性の神様をまつっているため、地元の男性が派手な化粧をし、嫁入り行列に扮して運びます。

男性たちは、長さおよそ5メートル、重さおよそ60キロのしめ縄をかついで、祝言のうたを歌ったり、酒をふるまったりしながら、集落を練り歩き、神社に向かいました。

そして、神社に到着したしめ縄は住民に見守られながら無事、奉納されました。

「お里様」でしめ縄をかつぐのはその年に結婚したか、間もなく結婚する予定の男性とされてきましたが、最近は、そうした男性が減っているため、以前、かついだ男性が参加し、伝統を守っているということです。

しめ縄をかついだ男性は、「伝統行事に参加できて良い思い出になりました」と話していました。

塩野町公民館の小田甚一さんは、「これからも若者に声をかけて、伝統行事を続けていきたい」と話していました。


             ・・・・・

再び、同書に戻って、ご紹介を続けます。


              *****

 
            (引用ここから)


「続縄文文化」は、4~6世紀頃に、北海道から東北地方北部に展開し、“ナイ”、“ペツ”などに代表されるアイヌ語系の地名を残しながら定着したことはほぼ間違いない。

したがって、その時期に「熊送り」の観念や儀礼が北海道から東北地方北部に伝えられた可能性を見ておかなくてはならない。

その際「飼熊型」のそれではなく、より一般的な、狩猟した熊の霊を送る「狩り熊型熊送り」の観念や儀礼が、まず伝えられた可能性を見ておかなければならない。


宇田川氏は「イオマンテの考古学」において、「熊祭り」であるアイヌの「イオマンテ」が北海道において確立するのは18世紀後半以降だという結論を下している。

すなわちアイヌのイオマンテは比較的新しいものであるということである。

東北地方における「山の神」信仰の基層に「熊神の信仰」が認められるとすれば、それはアイヌ文化を介して伝えられた新しいものでなく、むしろそれ以前の「続縄文時代」から「擦文文化」の時代、東北地方の北部と北海道の南部が同一の文化圏を形成していた時代に、その信仰が広がったものと考える方がよいのではないだろうか?


アムール・サハリン地域を中心とする北方諸民族の世界観についてまとめた荻原真子氏によると、アムール地域において「獣の主」と考えられているのは虎と熊であるが、「自然界の主」としての特性をより多く留め、狩人の「守護者」としての存在が明確なのは、「虎」であるという。

「熊」の場合は、人間との間には明らかな交換関係が見られ、しかもその関係は「熊送り」の儀礼を含む人間集団との間でのみ成立しているのだという。

アムール川地域の「虎」と「熊」の伝承と共通する狩猟民的な伝承は、朝鮮半島では豊富に見られるのに対し、「虎」の生息しないシベリアの森林地帯、あるいはサハリンや北海道のアイヌなどでは、「熊」の伝承のみが広く展開したのだと荻原氏は指摘している。

東北地方の「マタギ」に広く伝承されている「狩り熊型」の狩猟儀礼や、「熊祭り」との結びつきが強い「オサトサマ」の信仰などが、狩猟民的な「山の神」、つまり「野獣の主」、「里の主」の信仰の残存形態だとすると、

アムールランドの森林帯にもともと存在した“熊や虎を狩りの王、山の主とする信仰”のうち、“熊についての信仰”が、アムールランドからサハリンを経て北海道にまで達し、その熊神信仰が続縄文時代などを介して東北地方にまで及んでいた可能性が十分に考えられるのではないだろうか?

東北地方の「山の神」信仰の基層には、このような意味で、東北アジアの、狩猟採集を主な生業とする諸民族の信仰や儀礼につながる文化的特色が息づいているようである。


            (引用ここまで)

              *****



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