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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

100匹のガラガラヘビとガラガラ・・ホピ族と蛇(6)

2014-01-30 | ホピ族


途切れましたが、ヴァールブルクによる「蛇儀礼」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                 *****

   
               (引用ここから)


動物を通じて自然と一体化しようというこの魔術が最高に高揚した形態は、オライビとワルピのホピ族による生きた「蛇」を使った踊りです。

8月になると、夕立が来るか来ないかで、作物の収穫が決まります。

いわば、彼らの危機が訪れます。

その時にオライビ村とワルピ村が交代で、生きた蛇を使って救いの雨を呼ぶための舞踏がなされます。

ここでは踊り手と生き物が、魔術的に一体化するのです。

そして驚くべきことに、インディアン達は一切の生き物の中で最も危険なガラガラヘビを、暴力を全く使わずに操って、蛇の方が従順に、何日か続く儀礼を共にするようもっていくのです。

これはもし、ヨーロッパ人が行えば、破局的な事態になることでしょう。

この祭に当たっては、ホピ族の村の2つの氏族「カモシカ氏族」と「蛇氏族」が参加します。

この2つのグループはそれぞれに、伝説を通じトーテム信仰によって両方の動物とつながっているのです。

人間が動物の仮面を被って現れるだけでなく、それ以上に最も危険な動物である生きた「蛇」と共に呪術的儀礼をしているのを見ると、この地においては、今日においてもトーテミズムが生きているのがわかります。

ホピ族の「蛇舞踏」は、模倣によって動物になる「カモシカの舞踏」と「流血の生贄」との間に位置します。

というのも、動物は模倣の対象ではなく、はっきりと儀礼に加わるからです。

しかも生贄にされるのではなく、「ハポ」と同じに、人間に代わって雨乞いをする立場として登場するのです。

というのもワルピの「蛇舞踏」は、「蛇」自身に大願を強要する踊りなのです。

「蛇」は夕立の訪れが期待される8月、16日間続く儀礼のために、低地の砂漠で生け捕りにされ、地下礼拝堂(キバ)で「蛇氏族」及び「カモシカ氏族」の首長たちに世話を受け、その間独特の儀礼を受けます。

中でも「蛇洗いの儀礼」は極めて重要な意味を持っています。

蛇に対する扱いは、まるで神の秘儀に召される乙女に対するようです。

ありとあらゆる薬を混ぜた聖水の中に、蛇の頭を浸します。

蛇は抗いますが、無理やり浸すのです。

その後で地下礼拝堂(キバ)の床の、砂に描かれた絵の上に、この蛇を投げつけるのです。

床には真ん中の四足の動物を囲む形で、4匹の稲妻型の蛇が描かれています。



別の地下礼拝堂(キバ)では、砂の上に大きな雲が描かれていて、その雲からそれぞれ異なる色彩の4本の稲妻が走り出しています。



それぞれは4つの方位を示し、かつ蛇のようにくねっているのです。

最初に述べた砂の絵にすごい力でなげつけられると、絵が壊れて、蛇は砂まみれになります。

明らかなことに、「蛇」をこのように放り投げる魔術は、蛇が稲妻を引き起こし、水を創りだす存在と化すように無理強いしているのです。

儀礼の全体の意味が、この点にあることは明らかです。

それに続く儀礼行為を見ても、聖別されたこの「蛇」がインディアン達と一体になって、雨を引き起こす存在、及び雨乞いをする存在と化すように仕向けられていることが分かります。

「蛇」の形をした“生ける雨乞い聖者”となるのです。


「蛇」は地下礼拝所(キバ)で飼われ、祭りの最後の日には、紐で囲われた藪の中に置かれます。

もちろん、100匹の「蛇」の中には本当の「ガラガラヘビ」もたくさんいて、毒牙を抜かれないままの状態でいます。

儀式の頂点は、インディアン達がその藪に近づいて「蛇」を捕まえて運びだし、使者を派遣する目的でその「蛇」を草原に放つシーンです。

インディアン達が3人一組で「蛇」のいる藪に近寄ります。

「蛇氏族」の大祭司が、藪から「蛇」を引っ張り出すと、顔に色を塗り、刺青をし、臀部にキツネの皮をまとったもう一人のインディアンがその「蛇」を掴んで尾尻を口に入れます。

彼の肩を掴みながら歩いていく二人目のインディアンは、羽のついた棒を振って「蛇」の注意を逸らします。

3人目はいわば警備要員で、もし「蛇」が口から外れたら捕まえる役を担っています。

「蛇舞踏」は、このホピの地ワルピの狭い広場で行われますが、時間は30分ちょっとです。

こうしてすべての「蛇」が、楽器のガラガラという音に合わせて運び出されます。

踊り手達は、その後「蛇」を速やかに草原に持って行き、放ちます。

「蛇」たちは、すぐにどこかに消えていきます。

インディアン達はこのガラガラ道具にも、膝の関節にも、小石で飾り付けた亀の甲羅を付けていて、これでガラガラという音が出るのです。


            (引用ここまで)


               *****


関連記事

蛇を統御する・・ホピ族の「蛇とカモシカの祭り・その(3)

「ホピ」カテゴリー全般

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キバ     15件
ガラガラ    6件
トーテム   13件
稲妻      5件

などあります。(重複しています)
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最新科学 古代人像見えた・・DNA解析 CT精度向上

2014-01-28 | その他先住民族


最新科学 古代人像見えた DNA解析、CT精度向上
                     朝日新聞2010・07・06

                ・・・・・

太古の人類像にせまる重要な発見や研究成果が、国内外で相次いでいる。

古い人骨のDNAを解読する技術や加速器など最新の分析機器を使い、研究の新たな地平が切り開かれている。

現世人類の直系先祖と、地上から消え去った「我ら以外の人類」。

その姿が科学の力で鮮明になりつつある。


グリーンランドの永久凍土から見つかった約4000年前の毛髪の持ち主は、茶色の目ではげやすい男だった。

今年2月、デンマークなどの研究チームが、ゲノム(全遺伝情報)の解読結果から古代人の体質を推定した研究を報告した。

           ・・・・・


この研究については、以下の記事がありました。


           ・・・・・




               *****

2月11日
「グリーンランドの古代人はアジア出身?」

デンマークなどの国際研究チームが、グリーンランド西部の永久凍土でみつかった約4000年前の男性の髪を分析、ゲノム(全遺伝情報)の大部分を解読することに成功した。

古代人の遺伝情報を解読したのは初めてで、男性の祖先がアジア大陸から渡ってきた可能性が高いことがわかった。

11日付の英科学誌「ネイチャー」に発表する。

チームが解読したのは、発見された毛髪のゲノムの79パーセント。

アジアやアメリカなど35地域の住民の遺伝子と比較したところ、ロシア極東地域などに住むアジア系の人々と最も似ていることが判明した。

男性の祖先は陸続きだったアメリカ大陸へ渡り、グリーンランドに移住したらしい。

考古学研究の証拠とも合わせると、移住は5500年前頃にあったとみられるという。

(図像は4000年前にグリーンランドに住んでいた人の顔の想像図・ネイチャー誌提供)


  

             ・・・・・


5月には、ドイツ・マックスプランク進化人類学研究所などの国際チームは、現生人類以外では初めてとなる約40000年前のネアンデルタール人のゲノム解読結果の概要を発表。

現生人類との混血の可能性が判明した。


             ・・・・・



「これまでは古人類の骨が出たらその形を調べた。

今は骨片の遺伝子からプロファイリング(人物像の分析)もできる時代になった。

国立科学博物館の篠田謙一グループ長は、説明する。

人類学にDNA解析の手法が応用されてまだ日は浅いが、細胞内の小器官「ミトコンドリア」のDNAを調べる手法は一般化してきた。

核DNAは各細胞に2セットしかなく、構成する塩基も長大だが、ミトコンドリアDNAは一つの細胞に多数あり、塩基も短く解析が比較的容易だからだ。

突然異変を起こす確率も高く、変異の比較で系統関係を調べたり、分岐した年代を推定したりするのにも役立つ。

3月に新たに存在が報告された48000年~30000年前の未知の人類「デニソワ人」の推定にも、この方法が応用された。

一方、最先端のゲノム解読は、次世代シーケンサーと呼ばれるDNA配列を同時並列で大量に読み取る装置の開発が可能にした。

古人骨の短く断片化されたDNA配列を読み取り、現生人類のゲノム解読結果と照らし合わせながら分析する。


440万年前の頭を復元

昨年10月に報告された440万年前のラミダス猿人の研究では「マイクロフォーカスX線CT(マイクロCT)」が力を発揮した。

化石骨を台の上に置いて回転させながら、X線を照射して、骨や歯の断面を撮影。

医療用CTよりも精密な画像が得られる。

東京大学総合研究博物館の諏訪教授は「精密な撮影のため、歯のような小さなものでも約1時間かけます」。

表面をおおうエナメル質の厚さの微妙な違いまで分かり、データはコンピュータで自在に組み合わせられる。

ラミダス原人の頭部復元では、破片の断面を10000枚以上撮影。

そのうち5000枚の画像から60以上の骨片や歯の3次元データをつくり、頭の形に組み上げた。

18000年前の沖縄本島にいた「港川人」の頭骨も、マイクロCTで撮影。

研究に役立てている。

「港川人」は縄文人の祖先とされたが、近年は否定的な証拠が出つつある。

科学博物館の河野玲子研究員や東大院生の久保大輔さんらは「港川人」のマイクロCTデータを解析。
科学博物館の海部氏と下あごを復元。

国内外のデータと比較して、南方要素が強く、本土の縄文人とは近縁でない可能性を示した。

これがオーストラリア先住民の特徴を含む新たな復元モデル制作に結びついた。


0・5グラムでも年代測定

年代測定の精度も高まっている。

東大大学院の米田准教授らは、沖縄県石垣島の新空港建設現場にある白保竿根田原で見つかった骨片を分析した。

骨から抽出したコラーゲンから約1ミリグラムの炭素の結晶をつくり、加速器質量分析で放射性炭素の数を計測。

その半減期(約5730年)を目安にして、骨の主の死亡時期を調べた。

その結果、骨片の一つが骨の直接測定では国内最古の約200000年前だったことがわかった。

DNA解析とAMSに共通する利点は、微量な試料で調べられること。

いずれも0・5グラム程度ですむ。

従来の計測法による年代測定では数グラム以上の試料が必要だった。

科博の馬場研究員は「昔は貴重な骨を壊すことに抵抗感があった。しかし形態研究よりも重要な結果を得られることがあるのは明白。

支障がない部位から微量の資料をとるならば問題視されなくなった」と話す。

日本は酸性土壌で人骨が土中に長期間残りにくく、10000年より古い人骨の数は限られている。

石垣島で人骨の保存に適した石灰岩の洞穴から貴重な試料がみつかり、研究に広がりが出てきた。

この夏の発掘調査でも新たに人骨が見つかりそうだ。

日本列島は、アフリカから東アジア、東南アジア方面に拡散した現生人類が最終的に辿り着いた重要地点。

人類学への応用が進んだ最新の科学的手法と好条件で残された試料が、世界的な人類史に新たなページを書き加えてくれそうだ。

               ・・・・・

関連記事

「縄文時代の沖縄の「港川人」はアボリジニ似だったらしい」

ネアンデルタール人と共に生きていたら・・彼らはなぜほろんだのだろうか?

「デニソワ人のDNA・・人類は「今とは別な人類」としてあり得ただろうk?


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DNA        14件
グリーンランド     7件
ゲノム         3件
ネアンデルタール    7件
港川人         4件
デニソワ        2件

などあります。(重複しています)
ラミダス猿人については、後日追加します。
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アイヌ復興へ初の国立施設・・運営の主体など課題

2014-01-26 | アイヌ


「アイヌ復興へ“象徴空間”・・初の国立施設、運営の主体など課題」
                               読売新聞2013年10月9日

                  ・・・・・

アイヌに関する初の国立施設「民族共生の象徴となる空間(象徴空間)」が東京五輪を視野に、2020年度までにできることが決まった。

文化の復興拠点として何が求められているのか?

アイヌ人口が最も多い北海道白老町の建設予定地を訪ねた。


9月下旬、豊かな森に接した同町のポトロ湖畔。

ここにアイヌが運営する財団法人「アイヌ民俗博物館」がある。

湖に面し茅葺きの伝統家屋チセ5軒が立ち、屋外博物館的な展示を行う。

手前のチセでは、民族衣装の男女が親子の鶴を演じる「鶴の舞」や子守歌など伝統芸能を披露していた。

この他、木の繊維を紡いだ糸で織る樹皮衣「アツシ」や、儀式用の木幣「イナウ」を製作するなど各チセで実演している。



一時は年間90万人近くが訪れたが、2011年度には15万人を割った。

職員でアイヌの八幡さんは「国立施設ができてもアイヌへの関心が高まり日本人が見に来るでしょうか?」

首都圏で育ち、道外の実情を知るだけに懐疑的だ。


北海道のアイヌの人口は、2006年の調査で約24000人。

狩猟採取に基づく伝統的な生活を営む人はいない。

特にアイヌ語は、明治時代の同化政策で、使える人もごくわずかに。

国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)が「極めて深刻な危機言語」に認定している。


政府がアイヌを先住民と認めたのは2008年になってのこと。

2007年に国連総会で「先住民族の権利に関する宣言」が採択されてようやく文化復興に重い腰を上げた形だ。

「象徴空間」にまず期待されるのは、工芸や建築などの伝統技術や儀礼の伝承とその人材の育成だ。

既に個人では難しい伝承を、同館のように実演で再現しつつ行うことになる。


アイヌ側が懸念するのが、国立施設となることで従来できた行事が行えなくなることだ。

たとえば捕獲後に育てた小熊を殺し、その魂を神の世界に送り返す最大儀礼「イヨマンテ」。

殺す行為が野蛮として北海道庁が事実上禁止した歴史があるのだ。

同館は2009年まで9回行ってきたが、2週間かけてイナウなどの祭具、専用の酒、料理を準備し、宴では3日3晩祈りを捧げた。

老衰で死んだ熊を送るなど、動物愛護団体に配慮した。

だからこそ同館の村木美雪専務理事は「制約はあってもアイヌ自身が運営のイニシアティブを持つことが大切」と語る。

神に語るためのアイヌ語、所作、道具の使い方などを儀礼で確認していくことは、精神文化を伝えることにもなる。


「象徴空間」には国立の博物館も設立される予定で、白老町だけでなく、アイヌが居住した道内全域、ひいては樺太・千島などの文化や歴史の掘り起しの他、今は少ない専門家の育成も望まれる。

ただ他の国立博物館や2015年に北海道博物館に改編される「北海道開拓記念館」(札幌)など地元博物館との連携拠点になる構想だが、どう協力していくかはまだ白紙だ。


また避けて通れないのが、「遺骨の返還」問題だ。

人類学者が明治以降、研究目的でアイヌの墓から骨を掘り出し、今も北海道大・東大など11大学が約1600体分を保管する。

遺骨を納める慰霊施設も建てられているが、白老町以外や江戸以前の遺骨も葬れるかどうかは意見が分かれる。

昭和初期までアイヌの展示は、「見せ物」として差別を助長するという見方さえあった。

文化の再構築と理解の進化をどう進めるか、慎重な検討が必要だ。

       
               ・・・・・

関連記事

「チャランケ祭り・カムイノミ編」

「腹八分目の思想 藤村久和「アイヌ・神々と生きる人々(2)」


「アイヌ」カテゴリー全般

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カムイノミ      5件
イオマンテ      3件
イナウ        1件
熊送り        3件
ユーカラ       8件
消滅危機言語     9件
遺骨         6件

などあります。(重複しています)

wikipedia「先住民族に関する国際連合宣言」より

「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が、2007年9月13日、ニューヨークの国連本部で行われていた第61期の国際連合総会において採択された。

国際連合総会決議には国際法上の法的拘束力はないが、国連広報官は「同宣言は国際的な法律基準のダイナミックな発展を意味し、また国際連合の加盟国の関心や関与が一定の方向に動いたことを示した」としている。

同宣言は、「世界の先住民族の待遇を整備する重要な基準であり、これはこの惑星の3億7000万人の先住民族に対しての人権侵害を無くし、彼らが差別やマージナライゼーション(周辺化)と戦うのを援助するための疑う余地のない重要なツールである」と評した。
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広がる「中華」の聖地・5000年前の祖先を祀る・・朝日新聞

2014-01-24 | アジア



李・王・張・劉・陳・楊・黄。。

石の壁の表面に、30センチ四方はある漢字がびっしりと刻まれていた。

中国の人名をほとんどカバーする「姓」が3000種類彫られているという。

石壁は、大きな広場の一角に、何面も並んでいる。

2月下旬、記者は、中国河南省郊外にある史跡「黄帝故里」を訪ねた。

古代中国の中心地だった「中原」に位置し、7万平方メートルの敷地に、巨大な広場や建物が連なる。


「黄帝」とは、約5000年前にここに生まれ、文明をもたらしたとされる伝説的な皇帝だ。

考古学的な裏付けははっきりしないが、「史記」にも記され、同時代の炎帝と並んで中華文明の始祖とされる。



「中華民族は炎黄の子孫」という人も多い。

石の壁で自分の姓をみつけ、そのことを確認するという仕掛けだ。


次の広場には、「同根同祖同源」「和平和睦和楷」と書かれた黄色い旗がずらりと並ぶ。


その隣の広場では、毎年、旧暦3月3日に、例大祭「拝祖大典」が開かれる。

大理石でできた高さ約5メートルの座像が、宝剣を右手に人々を見下ろす。


その先の記念館にも黄帝像が鎮座する。

史跡にある御堂などは、漢の時代から修復が繰り返されてきたという。


だが、石の壁や大理石像、祈念館ができたのは2000年代に入ってからだ。

「中華民族の聖地」として、急速に整備が進められている。

その視野には、大陸外の華人、華僑も入る。


昨年の例大祭に参加した2万人のうち、1割は在外華人だった。

年間では、国外から来る華人が10万人にのぼるという。

「炎黄の子孫という血脈と身内の情を用いて、中華民族の血からを集めることを重視しています」。

史跡の管理委員会の人は語った。


2010年には帰国華僑組織の「愛国主義教育基地」にも指定された。

記念館には、台湾の連戦・元行政院長「首相」の書もあった。

ガイドの女性は、「拝祖大典は両岸(台中)人民のきずなを強めると同時に、祖国統一を促すプログラムでもある」と説明した。


さらに新しいプロジェクトも動いている。

史跡を2~3倍に広げ、周囲の町並みにも手を加えて、一大文化エリアにするという内容だ。

北京の清華大学が構想を練り、国を挙げて取り組む構えでいる。


炎帝の史跡も、整備が進んでいる。

湖南省株州市中心から長距離バスで約3時間。

何度も修復が重ねられてきた陵の隣にある「神農大殿」の中には、高さ約10メートルもの炎帝の石像があった。

江沢民政権時代に建てられ、県の名も炎陵県に。

数年ごとに省政府による大祭も開かれるようになった。

炎帝陵管理局主任は、

「世界から自分のルーツを訪ね祖先を祭る炎黄の子孫が増えてきた。大祭出席者を収容しきれなくなったため、大殿を建てた」と話した。


・・・・・

wikipedia「黄帝」より

黄帝(こうてい)は神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。

また、三皇のうちに数えられることもある。(紀元前2510年~紀元前2448年)

漢代に司馬遷によって著された歴史書『史記』や『国語・晋語』によると、少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、名は軒轅という。

帝鴻氏とも呼ばれ、山海経に登場する怪神・帝鴻と同一のものとする説もある。

蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった。『史記』はその治世を、従わない者を討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。

彼以降の4人の五帝と、夏、殷、周、秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。

おそらくは、中国に都市国家群が形成され、それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろう。

さらに後世になると、中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる。

また、清代末期に革命派が、黄帝が即位した年を紀元とする黄帝紀元と称する暦を用いて清朝への対抗意識を示したことはよく知られる。

だが、辛亥革命後に至り革命支持者を中心に黄帝の存在を否定する主張が高まった。

これに並行して日本でも同様の議論が起こり、白鳥庫吉・市村瓉次郎・飯島忠夫らが黄帝の実在性を否定する論文を著している。

その一方で黄帝は中国医学の始祖として、現在でも尊崇を集めている。

漢の時代では、著者不明の医学書は、黄帝のものとして権威を付けるのが流行した。

現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』も、黄帝の著作とされている。


wikipedia「神農(炎帝)」より

神農(しんのう)は古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人。

諸人に医療と農耕の術を教えたという。

中国では“神農大帝”と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。


神農氏は中国における初めての連盟の名前ともなり、70世代に渡って古代中国を治めたとされる。

また、世界最古の本草書『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)に名を残している。

伝説によれば、神農の体は脳と四肢を除き透明で、内臓が外からはっきりと見えたと言う。

神農はまず赤い鞭で百草(たくさんの植物)を払い、それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した(赭鞭)。

もし毒があれば内臓が黒くなるので、そこから毒が影響を与える部位を見極めたのだ。

その後、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まり、そのせいで最終的に亡くなったという。

淮南子に、「古代の人は、(手当たり次第に)野草、水、木の実、ドブガイ・タニシなど貝類を摂ったので、時に病気になったり毒に当ったりと多く苦しめられた。このため神農は、民衆に五穀の栽培することや適切な土地を判断すること(農耕)、あらゆる植物を吟味して民衆に食用と毒草の違い(医療)を教えた。このとき多くの植物をたべたので神農は1日に70回も中毒した。」とある。


信仰

湯島聖堂・神農廟(東京都文京区湯島)湯島聖堂内の神農廟に祀られ、毎年11月23日に「神農祭」が行われる。

薬祖神社(大阪府堺市戎之町)堺天神菅原神社の摂社として、少彦名命とともに祀られ毎年11月23日に「薬祖祭」が斎行される。

少彦名神社(大阪市中央区)には少彦名命とともに奉られ、毎年11月22日・23日に「神農祭」が行われる。

神農はまた「神農皇帝」の名称で的屋の守護神として崇敬されており、儀式では祭壇中央に掛け軸が祀られるほか、博徒の「任侠道」に相当するモラルを「神農道」と称する。

漢代に五行説が流行するとともに炎帝と一体視されるようになり、西晋代に至ると西周以前に漢水流域に居住していた農耕部族の歴山氏と同一視されるようになった。

「国語」に、炎帝は少典氏が娶った有蟜氏の子で、共に関中を流れる姜水で生まれた炎帝が姜姓を姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗ったとあり、炎帝は紀元前2740年ころの古代中国の王で120歳まで生きたといわれている。

炎帝は神農氏の連盟の跡に古代中国を治めたの名前ともなり、その首領は“炎帝”と呼ばれた。

最後の炎帝は黄帝と連合して華夏族を成した。



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最古の鉄鋼生産か・・トルコで発掘 前期青銅器時代

2014-01-22 | エジプト・イスラム・オリエント


      *****

2012年4月3日 朝日新聞

「最古の鉄鋼生産か・・トルコで発掘 前期青銅器時代」

中近東文化センターが発掘調査を進めているトルコのカマン・カレホユック遺跡で、紀元前2100年~前1950年ごろ(前期青銅器時代)の地層から出土した遺物に、鉄器の原料となる鉄鉱石や、製鉄や精錬の際に出る不純物である鉄滓が含まれていることが、岩手県立博物館の赤沼英夫氏の分析でわかった。

この層からは鋼の鉄器も出土しており、世界最古の鋼の生産が行われていた可能性が強まった。

確認されたのは、破砕された鉄鉱石が2点と鉄滓が2点。

鋼と推定される鉄片も新たに1点みつかった。

また鉄鉱石から鉄分の少ない部分を取り除いたとみられる岩石片もみつかっており、赤沼さんは「選鉱も行われていた可能性がある」と見ている。

中近東文化センター付属アナトリア考古学研究所の大村所長は、「注目すべき発見だ。今後出土した遺物の年代測定を行うとともに、鋼の生産遺構の発見に努めたい」と話している。


             ・・・・・


「アナトリア発掘最前線」と銘打って、「中近東文化センター」の27年に及ぶ活動を記した記事もありました。

            ・・・・・



「鉄の起源、謎に迫る発見・・炉跡と土器、並んで出土」
                         読売新聞2012年9月19日

トルコ中部のアナトリア高原で、日本の中近東文化センター付属アナトリア考古学研究所が27年にわたって発掘調査を続けている。

世界史の再構築を目指す現場から報告する。

幾多の民族が興亡を繰り返した舞台とはとても思えない。

見渡す限り小麦畑ののどかな高原を、首都アンカラから車で2時間。

直系280メートル、高さ16メートルの平たい丘が現れた。
カマン・カレホユック遺跡だ。

アナトリアには、町の跡に新たな町を作ることが繰り返されて丘になった「遺丘」が無数にある。

遺跡の南側に、車一台が通れる幅しかない道が東西に延びる。

農道かと思っていると、「西はエーゲ海岸、東はタシケント(ウズベキスタン)に続く古道です」と教えてくれた。

交通の要所で水辺に近い場所を選び、人々が連綿と住み続けたのだ。

遺丘には、石器時代から現代まで、9500年に及ぶ歴史が堆積しており、ここでの発掘が世界史の定説を少しずつ塗り替えつつある。

史跡南側の調査区では、約2500平方メートルの広大な面積で「暗黒時代(紀元前1200年から前750年ごろ)」の都市の姿を明らかにしようと発掘が進む。



他の遺跡で生活の痕跡がみつからず「暗黒」と呼ばれていた時代に文化が存在していたことを、カマンでの調査が明らかにした。

北東の角だけが丸い奇妙な形の住居で、ギリシャのミケーネ文明(紀元前1600年~前1200年頃)と同じ波形文様の土器を使った人々の暮らしが姿を現している。

今カマンで最も注目されているのが、鉄の起源に関わる数々の発見だ。

製鉄技術は紀元前1750年~前1200年頃にアナトリアで栄えたヒッタイトが独占し、その帝国崩壊とともに技術が各地に拡散したとされてきた。

だが、カマンではヒッタイトより古い紀元前1950年~前1750年のアッシリア商業植民地時代や、その下の紀元前2100年~前1950年頃の前期青銅器時代の層からも、鉄や鋼が出土し、世界最古の鉄生産がヒッタイト以前に始まっていた可能性が高まっている。

前期青銅器時代まで掘り進んでいる北側の調査区では、この8月も鉄の謎につながる発見が続いた。

20メートル四方を超えるとみられるアッシリア時代の大型建物内で、金属を溶かした炉跡とみられる直径約40センチの穴と冷却用の水を入れたと推測される同約50センチの土器が並んでみつかった。

近くの前期青銅器時代の層からは、鉄鉱石と鉄を精錬する際に出る鉄滓が出土した。

大村さんは「この建物周辺はアッシリア時代以前から、金属の二次加工などが行われてきた重要な場所である可能性が高い」と言う。

では製鉄はどこで行われたのか?

午後10時。「風が吹き始めましたよ」という大村さんの声で研究所の外に出ると、遺跡から離れたバランヌ山から、ゴーという音とともに冷たい風が吹き下ろしてきた。

南から吹くのに「冷たい北東風」と地元で呼ばれるこの風は、8月中旬から9月中旬の夜に吹き、治まるとアナトリア高原に秋が訪れる。

「建物が並ぶ街中ではなく、風が吹き抜ける山間地に炉を作って製鉄に必要な高温の火力を得て、この季節だけ鉄を作っていたのではないか。」

炉の遺構こそまだみつかっていないが、大村さんはそう見ている。

               ・・・・・

「中近東文化センター付属アナトリア考古学研究所」HP


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13000前の最古級ビーナス像・・縄文遺跡から出土

2014-01-20 | 日本の不思議(古代)


1・3万年前 最古級土偶 豊穣ねがい豊満型
                     読売新聞2010・05・30


なだらかな肩のライン、胸の豊かなふくらみ、腰のくびれ。

滋賀県の相谷熊原遺跡から出土した縄文時代草創期の国内最古級の土偶は、高さ3センチと極めて小さいながら、女性の特徴が強調されていた。

土偶は高さ3・1センチ、幅2・7センチ、重さ14・6グラム。

胴体部分のみを表わした造形で、完全な形で出土した。

底を平たく仕上げて自立できる造りは縄文中期(約5000年前)以前の土偶では例がないという。

三重県松坂市の粥見井尻遺跡から出土した同時代の土偶(全長6・8センチ、最大幅4・2センチ)が逆三角形に近い形状なのに対して、今回の土偶は豊満な体型。

京都大大学院の泉教授は「バランスがいい。女性らしさの表現は、多産や豊穣の願いを託したのでは」とみる。



土偶は今回出土した5棟の半地下式の竪穴建物群のうち1棟の埋土から見つかった。

この棟から縄文草創期の特徴をもつ爪形文土器や、矢柄研磨器「砥石」が出土。

土器に付着した炭化物を放射性炭素年代測定法により鑑定した結果などから、土偶も約13000年前のものとみなした。

竪穴建物は直径約8メートル、深さ約1メートルの棟もあり、国内各地で出土した同時代の一般的な竪穴建物(直径4~5メートル、深さ30~40センチ)と比べて規模が大きい。

多大な労力をさいて建てられたと見られ、定住用の建物の可能性がある。

県文化財保護協会は「縄文人の定住化への過程と土偶の出現のルーツの関係をさぐる鍵になる発見だ」。

縄文時代に詳しい国立民族学博物館の小山名誉教授は「乳房が強調されている点に注目。当時の豊饒さのシンボルが女性の胸にあったということだろう。縄文中期の土偶が、腹部や臀部を強調した妊婦型なのとは対照的。小型なのはお守りのように持ち歩くためでは」とみる。

                ・・・・・

とても美しく魅力的な像だと思いました。

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宇宙の穴・・暗黒星雲やブラックホールとは別

2014-01-18 | 環境(ガイア)


「宇宙の穴・・暗黒星雲やブラックホールとは別」読売新聞2010年5月17日

欧州宇宙機関(ESA)は、大量のちりやガスが集まって背後の天体の光を遮る「暗黒星雲」と考えられて黒い天体の一つが、実はからっぽの「宇宙の穴」だと分かったと発表した。

この天体は地球から1500光年離れた星雲「NGC1999」の一部。

写真の白っぽい星雲の中で真っ黒に見える部分で、ESAのハーシェル赤外線宇宙望遠鏡と地上の望遠鏡で詳しく観測したら、なにも無い領域と判明した。



ちりやガスは、誕生したばかりの付近の星が噴き出すジェットで吹き飛ばされたらしい。

この「穴」は、重力が強くなって光さえ抜け出せなくなった天体・「ブラックホール」 (黒い穴)とは別物。



ブラックホールは銀河の中心などにあることが分かっている。


          ・・・・・

   「ナショナルジオグラフィック」にも、記載がありました。

          ・・・・・

「ハーシェル望遠鏡が発見した宇宙の穴」



誕生後間もない星を探すハーシェル宇宙望遠鏡がこのほど意外なものを発見した。

宇宙空間にある完全に空っぽの穴である。


穴があるのはNGC 1999と呼ばれる星雲の中だ。

オリオン座にあるこの星雲はちりとガスで形成された明るい雲で、近接する恒星の光で輝いている。

1999年12月にハッブル宇宙望遠鏡がこの星雲を初めて撮影した際、星雲の中のこの黒い点は周囲より温度が低いガスとちりの塊で、密度が高いために可視光線を通さないと考えられていた。

しかし、欧州宇宙機関(ESA)のハーシェル宇宙望遠鏡が撮影した最新の画像によって、この黒い点が実はまったくの空洞であることが判明した。

ハーシェルは赤外線望遠鏡であるため、高密度のちりを透視して内部の物体を見ることができるはずだが、ハーシェルの画像で見てもこの点はただの黒い点だった。

 この穴は直径が0.2光年で、近くにある生まれたばかりの恒星V380 Oriの断続的な形成過程から生じたものと見られる。

この原始星の質量はすでに太陽の3.5倍に達している。

両極からガスを柱状に超高速で噴出して星の形成後に残った物質を吹き飛ばしており、これはこの星の成熟が近いことを示す前兆だと研究チームは考えている。

「あの星が秒速何百キロものスピードで両極からジェット噴流を放出し、周囲の雲に巨大な穴を開けているのでないかと思う。つまり、噴出したガスが周囲のガスやちりをすべて吹き飛ばしているのだろう」と、研究チームを率いるオハイオ州にあるトレド大学のトム・メギース氏は語る。

また同氏によると、穴を発見した望遠鏡は19世紀の天文学者ウィリアム・ハーシェルにちなんで命名されたが、このハーシェル自身が作成した夜空のカタログに数個の黒い点が記載されていたという。

ハーシェルはこれらの点を穴と考えていたが、いずれものちに暗黒星雲であることが判明した。

「それ以来、宇宙に黒い穴のようなものが発見されるたびに星雲だろうと考えられてきた。それから150年近くたった今、誰もが星雲だと思っていたものがハーシェル宇宙望遠鏡によって穴だと判明したとは、皮肉なものだ」。

               ・・・・・


元宇宙航空研究開発機構職員の中川人司氏の「宇宙授業」という本を読んでみました。

難解なことが、やさしい言葉ですっきりと書かれていました。

関係がありそうなところをご紹介します。

この本を読んでから、この記事を読むと、「宇宙の穴」というものは、宇宙の一部なのではないだろうか、と思いました。


              *****


             (引用ここから)


「宇宙の寿命」

始まりがあるものには終わりがあると言われます。

流行はいつか去り、建物はいつか崩れ、生き物はいつか死んでしまいます。

あの太陽にだって寿命があります。

現在、太陽は約46億才ですが、寿命は109億才。

あと63億年ほどで、燃え尽きてしまうと考えられています。

宇宙が生まれたのは、今から137億年前のことでした。

始まりは、「ビッグバン」とよばれる大爆発で、それから今日までずっと、宇宙は風船のようにふくらみ続けています。


宇宙には終わりがあるのでしょうか?

実は最近まで、いろいろな説がありました。

「宇宙は永遠に広がり続ける」という説がある一方で、「ある程度まで広がると、今度はどんどんちじみ、最後には点となって消える」という説もありました。

この疑問に一応答えが出たのは、2003年のことです。

NASAの宇宙マイクロ波観測衛星WMAPの観測結果によって宇宙の物質量が推定され、宇宙は永遠に広がっていくということが解明されました。

永遠だと言えるのは、宇宙しかない。。


「宇宙の始まり」

1926年、遠い銀河を観測していたアメリカの天文学者エドウィン・ハップルはすべての星や銀河が遠ざかっていることに気づき、宇宙がどんどん広がっていることが明らかになりました。

この宇宙が広がる速度から逆算すると、かつて宇宙はもっと小さかったことになります。

さらに逆算していくと、137億年前には宇宙は一つの点になります。

このときに「ビッグバン」とよばれる宇宙の始まりの大爆発(大膨張)が起きて、それ以来宇宙はゆるやかに膨張し続けています。

この「ビッグバン」が宇宙の始まりと言ってもよいのですが、最新の理論では「ビッグバン」の直前に宇宙は誕生しているとしています。

宇宙の誕生から10のマイナス44乗秒後、宇宙の大きさは10のマイナス34乗センチメートルほどでした。

そして一瞬のうちに1センチメートルほどまで急膨張しました。

この急膨張を「インフレーション」と呼んでいます。

このインフレーションが終わったのは、宇宙の誕生から10のマイナス33乗秒後です。

インフレーションの直後の火の玉のような状態を「ビッグバン」と呼んでいます。

「ビッグバン」は「インフレーション」によって引き起こされました。

10のマイナス34乗センチメートルという大きさは、原子や電子1こよりはるかに小さいものです。

この小さな点の中に、現在の宇宙に存在するすべての物質がぎゅっと押し込められていました。

超高密度の状態です。

宇宙の始まりはすべての物質の始まりであるとともに、空間の始まりでもあり、時間の始まりでもあります。

だから、「宇宙が始まる前にはなにがあったんですか?」という質問はナンセンスです。

時間が流れている中で宇宙が始まったのではなく、時間そのものがその時始まったからです。

時間が始まった時点より前の時間は、存在しません。


「宇宙の外側にあるもの」

空間の中に宇宙があるのではなく、宇宙自体が空間です。

もしもある空間の中に宇宙があると考えると、宇宙の外には何があるかという疑問が生じます。

でも空間とは宇宙そのものです。

「ビッグバン」で宇宙という空間が生まれ、それがどんどん拡大しています。

空間そのものが拡大しているのです。

「宇宙の外」という概念は、ないのです。


              (引用ここまで)


                *****


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「出エジプト」を祝う年中行事・・ユダヤ教徒の祈りの生活(2)

2014-01-16 | エジプト・イスラム・オリエント


引き続き、「ユダヤ教の基本」という本のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****


              (引用ここから)


「聖なる一めぐり」

伝統によって定められている「祭り」と「聖日」は、次のとおりである。


★「安息日」

「天地創造」と「出エジプト」の記念日である。

人も動物も、奴隷も自由人も、みな同様に休むのである。

この日にはすべての労働と争いと心配事が中断され、人は古代ラビたちの気の利いた言葉を借りれば、「来たるべき、より良い世界を前もって味見する」ことができるという。

安息日は、人類の歴史を見ても、解放と休息の日を定期的に定める必要があるという人間の欲求に応えた最初の制度である。

その欲求の普遍性を認識したという点において、注目に値する。

そのためヘブライ精神が個人の幸福と社会の福祉のためにもたらした貢献の中でも特に素晴らしいものとして挙げることができる。

シナゴーグは讃歌と凝った礼拝に彩られ、家庭でめいめいが最も上等な明るい服を着て、まず夕暮れ時にろうそくを灯すことから始まる。

ワインの盃の上で開始の祈りが唱えられ、ごちそうと食卓での歌、安らぎと会話、非公式な学習などが持たれる。

そして安息日の最後はハブダラという美しい分離の儀式で締めくくられる。

ワインの香りと甘い香料の匂い、そしてろうそくの火をもって、喜ばしい聖なる日が閉じられるのだ。

ユダヤ教の安息日はそれ自体が美しいのだが、その美しさをさらに強調するように、この日は豊かな伝説が花を添える。それは例えば、美しく純粋な花嫁が日没の光と共に降りてくるというたとえや、安息日の夕べに家長がシナゴーグから家に帰る途中で2人の天使がそれに付き添うという伝説。

安息日の間ずっと敬虔なユダヤ人にはもうひとつの魂、いわば普段より一回り大きな精神が与えられるという信仰など。その他にも想像力豊かな人々の伝説作りの能力が開花して生まれた、深く親しまれてきたこの安息日という制度を包み込む、風変わりな、あるいは荘厳な、情緒的な、あるいは啓発的な、様々な詩的な考えが存在する。

忠実なユダヤ教信者にとっては喜びと薬である安息日は、さらに別の意味をも持っている。

安息日はユダヤ教とユダヤ人集団の元気を回復させる。

この健康増進剤としての効力は非常に高く、近代のユダヤ思想家アハド・ハアムの述べた「イスラエルが安息日を守ってきた以上に安息日がイスラエルを守ってきた」という警句も、文字通りに適切な表現である。


★「新年祭」

新しい年の始まりを祝い、世界の創造という物語を記念する日である。

そして当然ながら神の主権を再確認し、心の再生を追求する機会として伝統によって定められた日である。


★「贖罪日」

厳かな「白い断食日」で、夜明けから日暮れまで信仰深い人は懺悔のしるしになにも飲み食いせず、祈りと告白を通して人生を振り返り、悪い行いを捨てることを誓い、神と善とに立ち返る再生の時を求めるのである。


★「仮庵の祭り」

9日間行われる楽しい祭りで、最初の8日間は収穫の完了と、古代イスラエル人たちが砂漠で仮小屋の中に住んだこと、そして人間が神の翼の隠れ家に永遠にとどまることができることを記念し、祝う。

最後の日の律法感謝祭では、シナゴーグで一年かけて続けたトーラー朗読の完結と新たな始まりを記念する。


★「過ぎ越しの祭り」

春の到来と、エジプトからのイスラエルの民の解放という二つの事柄を記念する行事であり、将来イスラエルと人類すべてに与えられる救済の約束という喜びを確認する時である。


★「7週の祭り、ペンテコステ」

一つの意義は穀物の収穫と最初の果物の採りいれ時を祝う農業祭であり、もう一つは、シナイ山での啓示を記念する歴史的・道徳的な聖日である。


★「光の祭り」

昔、良心の自由のために戦ったマカベア家の勝利を思い出す日であり、人間の不屈の魂の象徴である。


★「くじの日」

イスラエルの民が、ペルシアの悪人ハマンの手から救われた経験を思い出し、いつの時代のハマン達にも負けない自分達の力を再び確信する日である。


★「アヴの月9日」

「黒い断食日」で、エルサレムの第一及び第二神殿が破壊されたことを嘆いて過ごす日である。


このようにユダヤ人の一年は、様々な色彩と詩情に彩られている。

眠気を払って、魂を呼び覚ます牡牛の角笛。

清浄と再生の象徴であるトーラーの巻物を覆う白い布。

シュロの枝やシトロン。

毎夜火がともるのが増えていく、8本に枝分かれしているハヌカの燭台。

迫害者(ハマン)の名前をかき消すための騒がしい道具。

救い主メシアの先駆けである、エリアに対して開かれる扉。

哀歌の悲しい詠唱。

預言の7つの慰めの教え。

懺悔の時期の始まりを告げる、不気味な深夜の礼拝。


イスラエル民族の過去と、常に変わらぬ人間の情熱と、将来に対するイスラエルと全人類双方の希望とを反映して、一年間もまた、楽しくかつ厳しい聖なる時の一めぐりに姿を変えるのだ。


              (引用ここまで)


                *****


wikipedia「過越」より

過越(すぎこし)またはペサハ (pesach) とは、聖書に記載されているユダヤ教の祭り。

聖書の出エジプト記 12章に記述されている、古代エジプトでアビブ(ニサン)の月に起こったとされる出来事と、それに起源を持つとするユダヤ教の行事のことである。

イスラエル人は、エジプトに避難したヨセフの時代以降の長い期間の間に、奴隷として虐げられるようになっていた。

神は、当時80歳になっていたモーセを民の指導者に任命して約束の地へと向かわせようとするが、ファラオがこれを妨害しようとする。

そこで神は、エジプトに対して十の災いを臨ませる。

その十番目の災いは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子を撃つ」というものであった。

神は、戸口に印のない家にその災いを臨ませることをモーセに伝える。

つまり、この名称は、戸口に印のあった家にはその災厄が臨まなかった(過ぎ越された)ことに由来する。

3月末から4月はじめの1週間、ユダヤの人びとは「出エジプト」のときの多忙を忘れないよう、イースト菌入りの食品を食べない。パンもイーストなしである。


wikipedia「仮庵の祭り」より

仮庵の祭り(かりいおのまつり)は、一般に太陽暦10月頃に行われるユダヤ教の祭りである。

過越祭(ペサハ)と七週の祭り(シャブオット)とともにユダヤ教三大祭の一つ。

ユダヤ人の祖先がエジプト脱出のとき荒野で天幕に住んだことを記念し、祭りの際は仮設の家(仮庵)を建てて住んだことにちなむ。

聖書では、祭りの際にイスラエルの地のユダヤ教徒の成人男性には、エルサレム神殿へ巡礼することが要求されている。

秋の収穫祭の側面ももつ。

初日から7日間、みな仮庵に住む。

また毎日「焼き尽くす捧げ物」が献じられる。

神殿破壊以後は犠牲は行われていない。

捕囚期後、イエスの時代には、祭りの期間中、毎日エルサレム神殿へ市内のシロアムの池から黄金の器で水を汲んで運び、朝晩二回行われる犠牲の際、供え物とともに祭壇に水を注ぐ行事が行われた。

『ヨハネによる福音書』7章37節から38節で言及される「私を信じる者のうちから、生きた水が……流れ出る」は、この行事を背景とした記述である。

現代のイスラエルにおいてもスコットの期間中はいたるところで仮庵が設置されている。


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ユダヤ教徒の祈りの生活・・「旧約聖書」とつながる

2014-01-14 | エジプト・イスラム・オリエント



紀元前後のイスラエルの建築物の遺構が発見されたという記事を、前回ご紹介しました。

ユダヤ教についてもう少し詳しく知りたく思い、ユダヤ教について書かれた本を探してみました。

「ユダヤ教の基本」という本をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

  
               *****


            (引用ここから)

日々の生活規則

典型的なユダヤ人の一日を紹介してみたい。

これは過去にはすべてのユダヤ人が、そして現在では正統的ユダヤ人が過ごす生き方で、伝統によってその輪郭が描かれてきた。

つまりこの宗教生活は主に、儀礼的律法の問題として、あらかじめ定められているものである。

朝目覚め、まだ体を動かさないうちにユダヤ人は、命を与え、意識を回復させてくださった神に感謝する。

「あなたの御前に感謝を捧げます。

永遠に生きたもう王よ、

あなたは慈悲深く、私の魂を取り戻させてくださいました。

あなたの信実は偉大です」

と祈る。

それから起き上がり、朝の一連の行動一つ一つの中に、決められた祝福の祈りを称える。

最初の勤めとして定められている、洗顔、手洗いの時、地に足を降ろす時、トイレ、トーラーの定めた房で飾られた下着を身に着ける時。

このように、ユダヤ人はすべてのしぐさについて神を思い、獅子のように力強く、鹿のように素早く、天にいます父なる神の御意を行うことができるように、との神の教えに従おうとするのである。


それから彼は、正式な礼拝の準備をする。

彼は、再び房のついた衣装で身を包む。

ただし今回はもっと大きい、外に羽織る祈祷用のショールであるが、これは宗教儀式や神聖な勉強の時にのみ身につけるものである。

次に彼は、小さな二つの小箱に聖書の言葉が収められたものを、それに付いている皮ひもで自分の身につける。

これは「あなたはこの言葉を腕につけてしるしとし、額につけて憶えとしなさい」という聖書の掟をまったく文字通り守っているのだ。

二つの箱のうち一つは左の腕、すなわち心臓の横に結びつけられ、心と手が神の御意に従うことを象徴する。

もう一つは目の上の額に付け、同様に知性が聖別される。

最後に彼は皮ひもで、神の名前を意味する不思議な結び目を作って左手に結びつける。

そしてこれら一つ一つのしぐさと並行して、ふさわしい祝祷を述べる。

そしてさらに指をからませる最後のしぐさと共に、「ホセア書」の格調高い魂の婚礼の言葉をもって神に誓う。

「私は永遠にあなたと契りを結ぶ

正義と公平と慈しみと憐みとをもって、あなたと契りを結ぶ

私は真実をもってあなたと契りを結ぶ

そして、あなたは主を知るようになる」

このように神に結び付けられ、神の御意と契りを交わしたところで、ユダヤ人の朝の礼拝の準備が整う。

礼拝は、詩編の朗読、個人的な事柄や集団的信仰、イスラエルの理想などに触れた祈り、そして宗教的学
習の目的で加えられた聖書やラビ文学の朗読などから構成される。

伝統はこの礼拝の式次第がシナゴーグにおいて会衆と共に執り行われることが望ましいとしているが、個人的に行われることも認められている。

どこでなされようと、礼拝は決して短くはない。

伝統的祈祷書の普及版に印刷されている祈祷は約90ページにも及び、すべて読むだけで1時間はかかるものである。

これが終了し、皮ひもが外されるまで、ユダヤ人は食べ物を口にすることができない。

しかも儀式はまだ続いており、朝食の間も、いや実際他の食事の時にもついてまわる。

手を洗い、パンを裂く前に短い祈りを称える。

食事の後には、長めの感謝の祈りをする。

さらに儀式はこの後も続く。

その後午後に1回、夕方に1回の合計2回、ユダヤ人は正式な礼拝を持つ。

その合間にもユダヤ人は神の名前をしょっちゅう思い出さなければならない。

なぜなら伝統は、生活のすべての節目に祈りを持つことを命じているからだ。

食事と食事の間に食べ物を口にしたり、新しい衣服を身に着けたり、旬の果物を味わったり、稲妻を見たり、雷を聞いたり、海や虹や春の木々の新芽を垣間見たり、トーラーや世俗の学問に卓越した人物に出会ったり、良い知らせを聞いたり、悪い知らせを聞いたり。。

これらの思いつく限りほとんどすべての出来事に、短いながら適切な祈りの言葉が存在するのである。

そしてさらに、ユダヤ人には個人的にあるいはグループの教室で、毎日ある程度の時間を伝統の学習に当てることが求められている。

そして夜、寝床に着く時にもまた、眠りを与えられる感謝と、自分の信仰の確認、そして神の御手に自分をゆだねることを祈る。

このようにして、ユダヤ人の一日は、始まりと同じように神を意識しながら終わるのである。


あるいは、仕事や遊びの時間がどれほど残るか心配する向きもあるかもしれない。

当然ながら宗教行為の少ない、または全くない人に比べれば、仕事や遊びの時間は減る。

しかし実際は思った以上に多いのだ。

ここで述べたほとんどの儀式はその都度行われる行為と並行して行われ、全く時間を取らない。

またその他の多くのことも、ほんの一瞬で終わる。

そして残りのことには、伝統は干渉しない。

何が人間存在の究極的なテーマなのか、と伝統は問う。

神そして善ある生活のことではないか?

ならば、それらを追求すること以上に有効な時間の使い道などあるはずがあろうか?


              (引用ここまで)

 
                *****


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ローマ時代のイスラエル北部・・ユダヤの公共建築物か

2014-01-12 | エジプト・イスラム・オリエント



ユダヤ教の記事がありました。
パレスチナ問題などはよく目にしますが、文化遺跡の記事は珍しいと思いました。

               ・・・・・

「ローマ時代のイスラエル北部・・ユダヤの公共建築物か」
                        読売新聞2013年10月9日


イスラエル北部・下ガリラヤ地方の都市遺跡遺構を発掘調査している日本の調査隊が今夏、古代ローマ時代の石積みの大型建物跡で、ランプやコインなどユダヤ人が使った遺物を発見した。

さまざまな民族が混在していた紀元前後のこの地方に、ユダヤ人が重要な公共建築を持っていた可能性が高まった。



同遺跡は南北約350メートル、東西150メートルの卵型で、紀元前3000年ごろから紀元後200年ごろにかけて人々が生活した跡が積み重なって丘状になっている。

ローマ時代の建物跡はこれまでに約10メートル四方を発掘、5部屋がみつかっており、階段の一部が残ることから2階建てだったことが分かっている。

細長い石材を連続した窓のように組んだ「ウインドーウォール」と呼ばれる、格式の高さをうかがわせる建築手法の壁も用いられていた。

今年、建物跡からユダヤ人が用いた独特な形式のランプと、ユダヤ教で汚れを免れるとされる石製容器の多数の破片、コインなどが発見され、ユダヤ人の建物だったことが確実になった。

ランプなどの形式から、紀元前1~後2世紀ごろのものの可能性が高い。

この時代は、ローマ帝国へのユダヤ人の反乱が元で起きた2次に亘る「ユダヤ戦争」の時期にあたる。

紀元後66年に起きた「第一次ユダヤ戦争」では、エルサレムのユダヤ教神殿が破壊され、ユダヤ教の主流が神殿祭祀を行わず共同体ごとにシナゴーグ(礼拝所)を持つ形への変化が進んだとされる。

更に多くのユダヤ人がエルサレム周辺から追われて、ガリラヤ地方に散ったと言われる。

月本昭男・立教大教授(旧約聖書学)は「紀元後132年に始まる「第二次ユダヤ戦争」で放棄されるまで建物が使われた可能性がある。近くで最古級のシナゴーグがみつかる可能性もある。ユダヤ人社会が大きく変化する中で、農村部でユダヤ教がどのように信仰されたかを示す遺跡だ」と話す。

一方、同遺跡内の別の調査では、少なくとも55メートル四方に及ぶ鉄器時代の大型建物の発掘が進んでいる。

今年出土した土器などから、紀元前7~紀元前6世紀頃の建物だったことが判明した。

当時新バビロニアの傭兵としてオリエントに入っていたとされる、スキタイ人に特徴的な青銅製の矢じりも出土した。

この建物の時代は、当初はアッシリア、次いでバビロニアがこの地域を支配したとされる。

イスラエル北部では、これまでみつかった同時期の最大規模の建物で、長谷川修一・盛岡大准教授(聖書考古学)は「軍事キャンプのような施設だったのでは。帝国の交代期にどのような属州の支配が行われていたかを解明する手がかりになる」と期待している。


               ・・・・・

wikipedia「シナゴーグ」より

シナゴーグとは、ギリシャ語のシュナゴゲー(集会所)に由来するユダヤ教の会堂のことである。

聖書には「会堂」の名で登場し、ユダヤ教会と俗称されることもある。

キリスト教の教会の前身であるが、役割はやや異なる。

もともとは聖書の朗読と解説を行う集会所であった。

現在では祈りの場であると同時に、各地のディアスポラのユダヤ人の礼拝や結婚、教育の場となり、また文化行事などを行うコミュニティーの中心的存在ともなっている。

エルサレム神殿破壊後はユダヤ教の宗教生活の中心となる。

ディアスポラ民族主義者や改革派は「神殿(Tempel)」という言葉を用いることがあるが、正統派の中にはこういった「擬似神殿」の敷居を跨ぐことを拒否するものもいる。

ディアスポラの地では改革派から超正統派までディアスポラの立場を取る者たちなどによって守られているが、イスラエルへの移住によって無人のシナゴーグ も多く出てきている。


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グリーンランドの氷床、融解加速のおそれ

2014-01-10 | 環境(ガイア)


グリーンランド氷床、融解加速の恐れ・・微生物繁殖で黒色化
読売新聞2013・06・09

北極に近いグリーンランドの氷床で、夏に藻類などの微生物が繁殖し、黒っぽい色に覆われるようになっていると、現地調査した千葉大の竹内望教授らのチームが発表した。

表面が黒っぽいと太陽の光を吸収しやすくなり、氷床が溶ける速度が加速する恐れがある。

グリーンランド氷床には地球上の氷や雪の内、約9パーセントが存在する。

90%が存在する南極大陸は気温が氷点下50度と寒く、地球温暖化の影響が見えづらいのに対して、グリーンランドの氷床では近年、温暖化によって氷が溶けるのが進み、海面上昇の主な原因となっている。

また数年前からは人工衛星の観測で、特に西側の氷床表面が黒っぽく見えるようになったが、飛んできた土埃や煤が原因だと見られてきた。



竹内教授らは昨年7~8月、グリーンランド北西部のカナック氷河などを歩いて調査。

表面を顕微鏡で観察したところ、藍藻という糸状の微生物が大量に繁殖していた。

藍藻は周囲に有機物や鉱石などを毬のように絡めて、直径1ミリメートル前後の粒を形成する。

この粒が黒っぽく見える原因になっていたという。



これまで竹内教授らは、ヒマラヤなどアジアの氷河を調査し、同様に藍藻が繁殖して黒色化していることを明らかにしてきた。

だがアラスカや南米などの領域では藍藻は少なく、氷河方面の汚れは少ないと見られていた。

竹内教授は「温暖化に伴いグリーンランドなど北極区域でも夏の融解期が長くなり、微生物の繁殖が促される可能性がある。注意深く監視する必要がある」と話している。

北大杉山講師の話

氷河や氷床の融解は、気温や海水温の上昇との関係が注目されてきた。

微生物の影響はあまり考えられてこなかった。

グリーンランドの氷床の黒色化がどのような仕組みで進み、どのくらい影響しているか詳しく調べていくことが大事だ。


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「口開けの儀式」を受けて、復活のしたくをする・・エジプトのミイラ(4・終)

2014-01-08 | エジプト・イスラム・オリエント


吉村作治氏の「貴族の墓のミイラのご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****


            (引用ここから)


完成したミイラを墓に納める埋葬の儀式が行われるのは、死後70日以上が経過してからであった。

というのはミイラ制作の一連の行程を終えるには、ヘロドトスが記しているように少なくとも70日を要したからである。

古代の記録によると、ミイラ師は内臓を取り出した死体の脱水と乾燥に52日を費やし、続く16日を包帯巻きに当てたという。

一体のミイラを作るのにこれほどの時間が必要だったのは、脱水や乾燥を完全に行うということもあったが、ミイラ作りの各段階で死者の視力や聴力、呼吸、歩行などの体の各部分が生前と同じ力を回復するように、神官が必要な時に必要な呪文を唱えたり、定められた箇所に護符を置いたりすることが義務付けられていたからである。

たとえ完璧なミイラが完成しても、制作段階で必要な儀式を受けていなければ、死者は再生できないと考えられていた。

儀式は非常に形式ばっており、すべて決められた手順で決められた呪文を唱えなければならなかった。

その上その数も非常に多かった。

おそらくミイラ制作に要した時間の内、少なくとも半分は儀式のために費やされたであろう。


埋葬は、ミイラの完成後三日目に行われた。

完成したミイラは、葬儀の準備の整った葬祭殿に運ばれる。

死者が王や高位の人物だった場合、葬祭殿に向かう葬列には数百人の人間が加わった。

こうした埋葬の行列の様子はルクソール(古代のテーベ)の貴族の谷にあるラモーゼの墓の壁に克明に描かれている。


死者のミイラはみごとな彫刻で飾られた人形棺に納められ、四頭の赤毛の牛が引くそりの上に乗せられた。



列の先頭には再生の神ケプリ(スカラベ)の模型を載せたそりが進み、その後を死者のそりが続き、更に死者の内臓を納めたカノポス壺を乗せたそりが従った。

棺の前を行く神官長は絶えず儀礼書を朗読しながら、手に持った水差しから清めの水を地面に撒いて行った。

列の中ほどには、王の9人の友が儀式用のマントをまとい、柄頭のある杖を持って行進し、宗教的役割をもった貴族たちは白いサンダルを履いて従った。

葬儀に参加したすべての人は、伝統に従って白の葬衣を身に着けていた。


ミイラが葬祭殿に到着すると、今度は葬儀にまつわる儀式の中で最も重要な「口開けの儀式」が行われる。



古代エジプトの人々は神や彫像に命を吹き込もうとする時、彫像の口を開くことによって霊魂が入ると信じていた。

この考え方はミイラに対しても同様で、ミイラとなった死者は「口開けの儀式」を行うことで、再び生前と同じ活動ができると考えられた。

したがって、「口開けの儀式」といっても、口を開けるだけでなく、目、鼻、耳など人間の五感を司る穴はすべて開けられたのである。

「口開けの儀式」は葬祭殿の広場や、死者が葬祭殿を持たない場合は墓の前庭で行われた。

ミイラは棺に納められたまま、所定の場所に垂直に立てられた。

儀式の指揮官は神官長で、彼はその役割を示すためにヒョウの毛皮を身に着けていた。


儀式が始まった。

香がたかれ、清めが終わると、いよいよ神官長によるミイラ再生のための魔術が行われる。

一匹の動物が犠牲にされ、その心臓と足肉が死者に捧げられた。

次に神官長はミイラの前に立ち、手にもった儀式用の“ちょうな”でミイラの口を開けるしぐさを何度も繰り返した。

目や鼻や耳に対しても同様のしぐさが繰り返された。

さらにぶどうと葡萄酒が死者に供えられ、最後に神官長はダチョウの羽でミイラを扇ぐ。


こうして「口開けの儀式」が終わると、もはやミイラは沈黙の状態から脱して、しゃべることも見聞きすることも、ものを食べることすらできるようになったとされたのである。


ツタンカーメン王墓の玄室、奥の壁には同王の「口開けの儀式」の場面が描かれている。

そこでは、死した王の後継者であるアイが神官長の役割を担って、“ちょうな”でツタンカーメン王のミイラの口を開けている。

儀式が終了すると、死者は再び葬列に守られて墓に向かった。

その後、神官長によって最後の祈りが捧げられ、墓は閉じられるのである。

儀式から埋葬に至るまでの間、神官たちが死者の再生を願う呪文を絶えず唱えていたことは言うまでもない。

           (引用ここまで)


               *****

写真は「大英博物館 古代エジプト展カタログ」より


私は去年の夏、「大英博物館所蔵の「死者の書」で読み解く来世への旅」という企画展に行ってきました。

本物の「死者の書」のパピルスやミイラを見て、いろいろなことを感じました。

エジプトの文明についての様々な神秘的な話も頭に浮かびました。

ピラミッドとシリウス星の関係も思い出しました。

「死者の書」はチベットにもありますので、チベットのことも頭に浮かびました。

「出エジプト」から始まるイスラエルのことも思い浮かびました。

これからも、続きを書いてゆきたいと思っています。


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ナイル川の西岸で、死者の復活儀式が行われる・・エジプトのミイラ(3)

2014-01-06 | エジプト・イスラム・オリエント



吉村作治氏の「貴族の墓のミイラたち」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

               *****

             (引用ここから)


古代エジプトにおける葬儀は、既に死者が出た時から始まる。

ヘロドトスが記しているように、死者の家族は大声で泣きわめき、近所隣りに死者が出たことを知らせる。

嘆き声は隣から隣へと広がり、死者の家の周りにはまるで合唱のように鳴き声が響き渡った。

女たちは泣きながら足元の泥をつかんで頭にふりかけ、男たちは喪中であることを示すため、髭を伸び放題にする。


王が亡くなった場合、儀礼は更に多岐にわたった。

ディオドロスは次のように述べている。

「王が亡くなった時、国民のすべてが泣いて衣服を引き裂いた。神殿は閉ざされ、国民は72日の間悲嘆のうちに過ごした」


さて死者の家族は泣いて過ごした後、ミイラ制作のために死体を「死者の町」の住人に引き渡す。

彼らはテーベ(現在のルクソール)の墓地とされていたナイルの西岸に住み、ミイラ制作にまつわる仕事で生計をたてている者達である。

運搬人は家で泣き崩れている家族を残して、死体をナイルの船着き場まで運び、そこに待ち受けている船に乗せる。

この船は、死者をナイルの西岸に運ぶ葬祭船で、大きなパピルスの束をいくつもつなげて作られていた。

船の中央には4本の柱に支えられた円屋根がついており、死体はこの下に置かれた。

そして船頭二人、漕ぎ手一人、泣き女二人、主任ミイラ師と彼より下級のミイラ師が各一人、それに神官一人の計8名が乗り込むと、葬祭船は木製の小舟二隻に引かれて川岸を離れた。

船が東岸から西岸へ移動していく間、神官は棺の傍らで宗教文章を朗読し、泣き女は円屋根のそばに座って、声を張り上げて、歌うように泣き続けるのである。


船が西岸に着くと、死体はライオンをかたどった棺台に載せられ、三人の男によって川岸近くに建てられた「清めの天幕」まで運ばれる。

そこで死者の清めと再生のための儀式が行われるのである。

儀式が始まると、二人の神官が死体に清めの水をふりかける。

これはヘリオポリスの神学でうたわれている、太陽がそこから生まれたという、暗く冷たい海、「ヌン」を象徴してあものであった。

したがってこの儀式は死者の再生を助けるために行われたのである。



しかし死者の再生は、単に一回の儀式だけでは達成されなかった。

ミイラ制作と、続く埋葬の際にもさまざまな儀礼を行なわなくてはならなかったのである。

間もなく神官たちは死体を再び棺台に戻し、ミイラ師たちの仕事場に運んだ。

死体とそれに付き添う人々の葬列が到着する時、ミイラ師たちの仕事場には多くの食料品や葡萄酒などが用意されていた。

死者に安らぎをもたらす神聖な儀式のためである。



神官は新しい死体を前に、パピルスを開いて定められた呪文を唱えた。

その後葬列に従ってきた人々は引き上げるのだが、ミイラ師と神官は更に儀式を続けた。

時には神話の中でオシリス神を復活させたイシス女神とその妹ネフティス女神に扮した女性が儀式に加わることがあったが、これは死体に対して行われる儀式が、すべて死者の復活を願うものだったからである。

そして死者は、既に述べたような方法でミイラにされたのである。


            (引用ここまで)

             *****

大英博物館 古代エジプト展のカタログには、上記のことが、以下のように記されています。


               *****


             (引用ここから)



この世の生を終えた死者は、家からミイラ作りが行われるナイル西岸へと移された。

墓に描かれる「葬送の場面」では、死者は舟で西岸へと運ばれる。

これは、死者が神々の住む世界へ移行することを象徴している。

ミイラ作りの目的は、完璧で永久的な体に作り替えて聖なる存在へと高め、復活を成し遂げたオシリス神の体と同じ状態にすることだった。

オシリス神の遺体を再生し、保存したのはアヌビス神とされ、関連する場面にはしばしばジャッカルの頭を持つ姿で登場する。


              (引用ここまで)

     
                *****

写真は、護符と呪文と内臓を納める壺 (大英博物館 古代エジプト展カタログより)

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オシリスになる儀式・・エジプトのミイラ(2)

2014-01-04 | エジプト・イスラム・オリエント


引き続き、吉村作治氏の「貴族の墓のミイラたち」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                  *****


                (引用ここから)


一方、「アク」はこの世とは隔絶した存在で、死後の世界に住む霊の状態を表すものであった。

つまり死者の第二の生、永遠の命ともいえる。

古代エジプト人が冥界を「葦草の原(イアルの野)」と呼ばれる至福境に仕上げた時、「アク」はそこで飢えも悲しみもない、幸福な日々を過ごすとされた。

このようにミイラは「バー」や「カー」の帰る所として重要なものであり、古代エジプト人が信じていた死後の世界を支える基本的な要素であった。



しかしさまざまな思想を同時に自らのものとすることに長けていた古代エジプト人は、死後の世界を確実なものとするのも「カー」や「バー」や「アク」の存在だけでは満足しなかった。


彼らはオシリス神話の中にも復活思想をとりいれ、死後の世界と結びつけたのである。

オシリス神話は、古代エジプトの歴史を通じて常に宗教の主流をなすものであった。

物語の概略は「地上の良き王であったオシリス神は弟セトの策略にかかり、箱に詰められて海に流されてしまう。

それを知ったオシリスの妻イシスは、妹でありセトの妻でもあるネフティスとともに地中海を探し回り、ついにビブロスの浜辺に打ち上げられていたオシリスを発見した。

オシリスは既に死んでいたが、イシスは遺体をエジプトに持ち帰り、神々の力を借りてオシリスの復活に成功する。

そして息子ホルスを身ごもった。

しかしそのことを知ったセトは、またもやオシリスを探し出すと今度は身体を14に切り刻んでナイル川に投げ込んでしまった。

悲しんだイシスは再び夫の体を探して、ナイルをさまよい、身体の一部を見つけるごとにそこに墓を建てて行った。


こうしてイシスはオシリスの体を拾い集め、元の形に縫い合わせた。そして再び復活させたのである。

しかしオシリスもはや以前のような活力はなかった。

心配した神々は、オシリスを冥界の王として地下の世界に君臨させることにした」

というものである。


ここに描かれた「オシリスの復活」は、古代エジプト人の、“死した後も再び生きたい”という願いの表れであり、冥界で永遠に生き続けるオシリスは、彼ら自身であった。

ちなみに古代エジプトの壁画の中でオシリス神の顔が緑色をしているのは、すでに死んだ神であることを意味している。


                 (引用ここまで)

                  *****


写真はオシリス(大英博物館 古代エジプト展 カタログより)です。

古代エジプトの人々は、オシリスの復活神話にあやかって、自分たちも、ミイラになることで、オシリス神のように再生・復活を果たそうと願ったのでしょう。

そして来世は不思議なほど、現世にそっくりで、いつまでも、いつまでも、死ぬことなく、この世の生活を続けたいという思いが伝わってきます。

同カタログにある「未来の楽園」という章には、来世の情景が次のように書かれていました。


                  *****


                 (引用ここから)


古代エジプト人が憧れた「イアルの野」は、審判をくぐり抜けた者だけが入ることを許された来世の楽園である。

そこには豊かな収穫があり、神々と祝福された死者が平和と幸福の中で永遠の生を享受した。

「イアルの野」の具体的なイメージは、緑が茂り、実り豊かで、満々と水をたたえるナイル渓谷やデルタ地帯の風景を背景に育まれた。

「イアルの野」での生活は、畑を耕す、牛を追うといった生前と変わらぬ生活であり、現実世界と同様に労働が必要とされたが、「シャプティ」と呼ばれる身代わりの小像を副葬することで、それをのがれる手段を講じた。

                (引用ここまで)

                  *****



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エジプトのミイラ(1)・・バーとカーの戻る場所

2014-01-02 | エジプト・イスラム・オリエント



明けまして おめでとうございます。

今年も どうぞよろしくお願いいたします。

この記事は、以前エジプト展に行って、触発されて調べたりしていたものです。

エジプトという大きな文明のことを思うと、ワクワクします。

もっともっと勉強したいと思っています。


              ・・・・・

     
吉村作治氏の「貴族の墓のミイラたち」という本を読んでみました。

吉村氏率いる調査隊が、200体のミイラを発見した時の記録です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


             (引用ここから)


死者のために大量の護符が用意されたり、神殿や墓の中にも描かれた背景には、古代エジプト人の独特な死生観があった。

古代エジプト人は死後の世界を信じており、冥界の入口でオシリス神の裁判を受けて、死後の世界に入ったなら、もやは死ぬこともなく、幸福に暮らせると考えていた。

しかし至福境に至るまでには多くの難関があり、それを乗り越えるために死者にさまざまな力を与える護符がぜひとも必要であったのである。

もちろん護符が死者の体に置かれる時には、神官によって定められた呪文が唱えられる。

この呪文によって、護符はそれが持つ効力を十分に発揮するとされていた。

高位の人物の包帯の中には少なくとも100以上納められたと言われているからである。

そしてそれほど多くの護符が巻きこめるほど、包帯は繰り返し巻かれたのである。

包帯巻きは、初めは大きな布で死体をくるみ、包帯で固定されたら、次に手足の指を別々に包帯で巻き、続いて顔の包帯巻きが行われる。

この時顔の凹凸を補うために、こめかみ、耳、口の上などにそれぞれ神の名を記した詰め物が置かれた。

そして頭全体は、X字型に包帯で巻きつけられた。


包帯巻きの作業は非常に手の込んだもので、この作業だけで少なくとも15日間は必要であった。

包帯巻きが終わったミイラには、死者に似せた埋葬用のマスクがかぶせられた。

日本にもやって来たツタンカーメン王の黄金のマスクからも分かるように、埋葬用のマスクは王や貴族の場合、金や準宝石類を使った豪華なものであった。


死者にマスクをかぶせる風習は、死者をミイラにしたりミイラの体の中に心臓が残されたのと同様に、古代エジプト人の死生観や宗教観から生まれたものである。

古代エジプト人は、死ぬと、ミイラとなった遺体と「魂(バー)」「精霊(カー)」そしてやはり霊の一種である「アク」という4つの存在になると考えていた。

「バー」は人頭の鳥の姿で現され、来世と死者の体を行き来すると考えられていた。



それに対して二本の腕を差し上げた形で現される「カー」は、「バー」より精神的な存在で、本来はファラオ(王)の聖性であった。

王は生きている間「カー」と霊感で交渉を持ち、死後はそれと合体するのである。


信仰が一般庶民のものになってからは、誰もが「カー」を持ち得るようになり、それは生きる活力と聖なる第二の自分との中間的な存在となった。

古代エジプト人が、できるだけ保存のきくミイラを作ろうと努力を重ねたのは、「バー」や「カー」の戻る所として、死者の体を永久に残さなければならなかったからである。

また、墓が岩盤に彫り込まれたり、石で造られたのも、ミイラが保存される場所として決して朽ちない物でなくてはならなかったからである。

さらに、死者の顔にマスクを被せたのは、現世と来世を行き来する「バー」が自分が戻るべきミイラを見間違わないように、という配慮であり、マスクに黄金を使ったのは、黄金が当時の金属の中で唯一腐敗することのない永遠の金属だったからである。


               (引用ここまで)


                *****

写真は「バー」(大英博物館 古代エジプト展カタログより)


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