始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

淺川嘉富氏の解説「先史文明と考えるべきだ」・・オルメカ文明に関するZ・シッチンの見解(6)

2011-06-29 | マヤ・アステカ・オルメカ
「神々の起源と宇宙人・・マヤ・アステカ・インカ」(五次元文庫)には、先史文明研究家・淺川嘉富氏が、筆者ゼカリア・シッチン氏のよき理解者として解説を書いておられます。


その中で、オルメカ文明に関していくつかの見解を述べておられる部分を、以下に抜粋してご紹介させていただきたいと思います。


                       *****


                (引用ここから)


気になる点がいくつかあったので付記させていただくことにした。

第一点はオルメカ人の問題である。

著者はオルメカ文明発祥の地と言われているメキシコのタバスコ平原に残された黒人の顔が彫られた数個の人頭像を根拠に、オルメカ人は黒人であったと述べている。

たしかに黒人種の一団がユカタン半島のメキシコ湾に面した一帯にいたことは間違いないが、

その時代は著者が述べている紀元前1000年~3000年よりさらに古い時代ではなかったかと、わたしは考えている。


と言うのも、タバスコ平原の「ラ・ベンタ」遺跡などに残されていた黒人の人頭像の原石はハイテクノロジーで彫られているからである。

人頭像を作ったのは現代文明をしのぐテクノロジーをもった人々であったと考えざるをえなくなってくる。


紀元前3000年ごろにオルメカ文明を築いた人々は、先史文明に直結する黒人ではなく、彼らよりはるかに後の時代に、かの地にやって来た人々であったのではないだろうか。


マヤの長老であるドン・アレハンドロは「オルメカ人はマヤ族の一族だ」と語っている。

またマヤ人でシャーマンでもあるヴィクトリアーノ・アルバレス・ファレス博士はマヤ・トルテカ文明説の中で、「オルメカ人はグアテマラの太平洋沿岸の高地で文明を持っていた太古のマヤ人が、紀元前2000年ごろにタバスコ平原に移住した民族だ」と述べている。

なお長老は、「マヤ族に文明をもたらしたのはプレアデス星からやってきた4人の宇宙人の一人で、彼こそがククルカン(ケツァルコアトル)と呼ばれる神であった」、と語っている。

著者の主張するニビル星人とは異なっている。


ただ、メキシコの地に黒人像が数多く残されていることを考えると、セム系の白人と一緒にアフリカから渡ってきた太古の先史文明の黒人一族が紀元前3000年ごろまで生き残っていた可能性はありそうだ。

偉大な姿で残された人頭像は太古の黒人の姿であり、それ以外の黒人像は大カタストロフィーを生き延びた彼らの末裔の姿を描いたものではないかと思われる。

人頭像以外の黒人やセム系の人々の容姿が決して高貴な人物として描かれていないのは、そのためではないだろうか。


            (引用ここまで・終わり)


                  *****


淺川嘉富氏HP「ようこそ!淺川嘉富の世界へ」
http://www.y-asakawa.com/



大きなテーマでありますが、オルメカ文明はマヤ文明の謎を解く一つの切り口であることは間違いないと思われます。

前出の記事で引用させていただいた16世紀の宣教師サアグンによる伝承の記録書も、直接確認したいと思っています。

また、同じオルメカ文明に関するグラハム・ハンコックの見解も興味深いと考えております。



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オルメカ文明に関するZ・シッチンの見解(5)・・紀元前3113年

2011-06-26 | マヤ・アステカ・オルメカ
オルメカ文明について調べています。

ゼカリア・シッチン著「神々の起源と宇宙人・・マヤ・アステカ・インカ」で著者が注目している、古代文明としてのオルメカ文明についての考えを紹介させていただいています。 


                 *****


         (引用ここから)


ひげをたくわえて羽が生えている「空の神」とは別に、「ひげを生やした人々」の姿がたくさん描かれている。

「ひげを生やした人たち」の生い立ちは謎に包まれている。

一つ確かなことは、彼らはインディオではないことだ。

インディオの顔には毛が生えていなくて、ひげがないのだ。

それではこのよそ者たちは、いったい誰だったのか?


いつ、どのようして、このような地中海の船乗りたちが中央アメリカに来たのか?

それを解決すべき考古学上の手がかりには当惑させられるばかりだ。

なぜなら、せっかくの手がかりが、さらに大きな謎へつながっているからだ。


その手がかりとは、オルメカ人のことだ。

明らかに、彼らはアフリカ人なのだ。

そしてさらに当惑させられるのは、多くの絵にセム系と思われる「ひげのある人たち」と、この「オルメカ人」が、同じ場所で同じ時に、顔と顔を付き合わせていた姿がよく描かれていることなのだ。



中央アメリカの失われた文明の中で、このオルメカ人のものは最も古く、そして最も神秘的なものである。

それはあらゆる面で、母なる文明とでも呼べるものだった。

他のすべての文明はそこから生まれ、それを真似したものだった。


この文明は紀元前2000年代の初めに、メキシコ湾岸に沿った地域で、突然の夜明けを迎えた。

そして紀元前1200年ごろには、ほぼ40箇所でその最盛期を迎えていた。


この文明はあらゆる地域へ、主として南の地域に広がって行き、紀元前80年には中央アメリカを横断するまでの足跡を残した。


中央アメリカ最初の絵文字は、オルメカ人の領土で発見されている。

同じように、点と棒を使った計算方法の始まりもここである。


謎の「紀元前3113年」という日付の始まりを記した、最初の「長期計算暦」もここで産まれた。

壮大な彫刻の、最初の不朽の芸術作品も、初めてヒスイを使ったのも、初めて手に持った武器や道具が描かれた絵も、

最初の祭礼センターも、最初の天体に対する方位づけも、すべてオルメカ人が成し遂げたのだ。


これほど多くの「最初のもの」が疑いなく存在していたことから、

中央アメリカのオルメカ人の文明を、これも“すべての最初のものは古代近東に始まった”とする、メソポタミアのシュメール文明になぞらえた説も提出された。

どちらの文明も、その先達や前もってじょじょに進歩する期間もなく、突然花開いたのだ。



そしてオルメカ人がいた場所は、キリスト紀元の初め頃に自ら放棄された。

そのときオルメカ人達が、いくつかの石の頭を埋めようとしていたことは間違いない。

後で誰かがこの場所にやって来たとしても、まさしく同じようなことをしただろう。


古代遺跡「ラ・ベンタ」で、紀元前1000年頃に行われていた観測の仕方から察すると、天文観測はさらに1000年も前に学んだ知識の根源に遡らざるを得ない。

この「ラ・ベンタ」の位置のずれとその紀元前1000年ごろの観測技術は、ずっと前の紀元前2000年頃の夏至、冬至、春分、秋分の時に星星が通過する子午線の移動に基づいたものと考えられるからだ。

紀元前2000年に始まっているとすると、「ラ・ベンタ」は神々だけがいたとされる伝説的時代を除いた「テオティワカン」より前からあった、中央アメリカ最古の聖なる中心地だったということになる。


しかし、これ位さかのぼった年代でも、まだオルメカ人たちが海を渡ってきた本当の時代とは言えないだろう。

なぜならば彼らの長期計算暦は「紀元前3113年」に始まっているからだ。

しかしともかくこの古い年代は、有名なマヤ・アステカ文明のはるか以前にオルメカ人たちがいたことをはっきり示しているのだ。


              (引用ここまで)


                *****


著者は、古代には同時多発的に多くの古代文明が栄えていたという説に立っていますので、下のような考えを提唱しています。

古代アメリカには、かつて多民族がやってきて、想像を超える先進的な文明を作り上げていたとする著者の説は魅力的です。

ひげを生やした神、白い神は、鉱物採掘に長けていた「洞窟の神」であったのかもしれません。

離れているように思われる人種間に、不思議なつながりがあり、人類の物語は思っているより遥かに躍動的なのかもしれません。


              *****


            (引用ここから)


彼らの能力、登場する場面、その道具などを総合して考えると、一つの結論が導き出される。

オルメカ人たちはおそらく、金や他の珍しい鉱物などの貴金属を掘り出すためにこの新大陸にやってきた採掘者達だったのだ。

「山の中」に穴を作って、トンネルを通したという伝説も、この結論を裏付けている。

それでこのオルメカ人たちから、ナワトル種族の人たちが受け継いで礼拝している古い神々の中に、「山の心」を意味するテペヨロティがいたことも、うなづけるのだ。

彼は、ひげを生やした「洞窟の神」だった。

それで彼の神殿は、山の中に石を使って建てられていたのだ。

彼の絵文字のシンボルは、穴のあいた山だった。

彼もまた、その道具として、ちょうど私たちはトゥーラで見たような、火炎放射器を持った姿で描かれていたのだ。

非常に多くの絵が示しているように、「オルメカ人」がアフリカから来た黒人だという難問は、地中海から来た「ひげを生やした」人たちの謎と絡み合って、さらに複雑なものになっている。

意味ありげに、遭遇シーンのあるものには、その頃は松明しか使われていなかったと思われるのに、わざわざ一人の従者が照明器具をはこんでいる情景さえある。


              (引用ここまで)


                *****


ひげを生やした「洞窟の神」とは、誰なのでしょうか?

古代文明の謎というものは、解きたいという気持ちと、謎のままにしておきたいという気持ちと、両方あります。

ゼカリア・シッチンの文明観は、別の本でも確認したいと思います。



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ピラミッドを作ったのは誰か?・・オルメカ文明に関するゼカリア・シッチンの見解(4)

2011-06-22 | マヤ・アステカ・オルメカ
ゼカリア・シッチン著「神々の起源と宇宙人・・マヤ・アステカ・インカ」の中の、オルメカ文明に関する部分の紹介をさせていただいています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


「神々の故郷」と「自分たちの故郷」をめぐり、まるで過去と現在がしりとり遊びをしているように、ぐるぐるとまわっていますが、


著者ゼカリア・シッチンは、古代中米には他地域の人物がやってきていた痕跡が認められると考えています。


オルメカ人の残した巨大な石像の顔は、アフリカ人の顔であると考えており、

アフリカからやってきたオルメカ人が、特殊な知恵を用いて、古代中米文明を築いたと考えています。


また、いくつも見出されている“ひげをはやした西洋人風の人物”は、フェニキアからきた人々ではないかと考えています。

著者は、古代中米には、聖書以前のメソポタミア・エジプトの文明との類似点が多く存在すると考えています。

それは西洋中心の視点であるとも言えるのですが、著者の力点は、世界に同時期に類似した文明が発生していたという仮説から、文明の原点をもう一つ遡って、その頃地球にやってきていた宇宙人による文明の存在を想定することにあります。

しかし、著者はあくまでもていねいに歴史を追って話をすすめています。



 
                   *****


               (引用ここから)


アステカ王国の首都テノチティトランがその栄華を誇っていたとき、トルテカ族の首都トゥーラはすでに伝説の都市「トラン」として、思い出の中へ消えていた。

そしてトルテカ族がその都市を建設していた時には、「テオティワカン」はすでに神話の中の思い出となっていた。

「テオティワカン」には「神々の場所」という意味があった。


「テオティワカン」は、どのくらいの過去まで、さかのぼれるのか?

当初考古学者たちは、「テオティワカン」はキリスト紀元の1世紀ごろまでに建設されたものと推定していたが、その年代はもっと昔にさかのぼり続けている。

現場の発掘作業で、この都市の祭礼センターは紀元前200年にはすでに4,5平方マイルの広さであったことが確認された。

現在では、紀元前1400年頃だったことが定説になっている。


その頃には、実際に「テオティワカン」の巨大建造物を建立した古代インディオのオルメカ人たちは、メキシコの別の場所に大きな「祭祀センター」を作っていた。

私たちが推測するところでは、一連の構造物、地下の部屋やトンネル、流れを変えた川、方水路のある半地下のしきり、などから推定して、すべてのものが、鉱物を分離し、生成し、純化するための化学的に工夫された設備のために作られたものだと思われる。

紀元前1000年紀、むしろ紀元前2000年紀の中頃に、ピラミッドの建設の隠された技術に詳しい者たちが、この渓谷にやってきたに違いない。

そして彼らはまた物理学に関する知識を持っていて、この地域で手に入る物質から高度に進んだ加工処理設備を作ったのだ。


そしてもし、それが人類でなかったとすれば、このテオティワカンにまつわる伝説と、その名のいわれが、いみじくも初めから示していたように、それは“人間の神々”だったのか?


“神々”の他に、誰が「テオティワカン(神々の場所)」に住んだのか?

誰が最初のピラミッドを建てるために、石やモルタルを運んだのか?

誰が水路をつけて、方水路の操作をしていたのか?


こういう疑問に対して、「テオティワカン」の時代が紀元前数世紀より古くはないと考えている人たちの答えは、すこぶる簡単だ。

それはトルテカ族だという。


しかしもっとずっと昔の時代からあったという見方に傾いている人々は、それはオルメカ人だったと主張している。

オルメカ人は、紀元前2世紀の半ばに忽然と中央アメリカに現れた謎に包まれた人たちである。


そして、このオルメカ人自体が多くの疑問を投げかけている。

なぜならば、彼らはアフリカの黒人だったように思われ、アメリカ大陸には数千年前に太平洋を渡ってきた人々がいるとする説を受け容れようとしない人たちにとっては受け容れがたいことに変わりは無いからだ。


「テオティワカン」にいた人たちと、その都市を建設した人たちが神秘のベールに包まれているとしても、

紀元前にトルテカ族の人たちがこの地に辿りつき始めたことは、ほぼ確実である。

そして紀元前200年ごろには、帝都に君臨した何者かは、荷物をまとめてさっさと立ち去っていった。

そしてこの場所がトルテカ族の都市になったのだ。


数世紀の間、この都市はその用具や武器抗議品でその名をとどろかせていた。

それから彼らがここに辿り着いてから1000年後に、トルテカ族たちも自分たちの荷物をまとめてさっさと出て行ったのだ。

誰にもその理由は分かっていない。

ただ彼らは全員で出発し、「テオティワカン」は見る影もなく荒廃した場所になって、黄金に輝いた過去の思い出の中にだけ生き続けることになった。



ある人たちは、この出来事は紀元700年ごろにトルテカ族たちの新しい首都「トラン」の建設と時を同じくしていると信じている。

トゥーラ川の川岸にある長年人間が住んでいた場所に、「トラン」がトルテカ族の手で「ミニ・テオティワカン」として建設されたのだ。

古写本や言い伝えでは、「トラン」は伝説の都市として語り継がれている。


             (引用ここまで)


                     *****


千年も間があれば、さっさと出て行った、という表現はどうかとも思いますが、著者は部族の心の動きから、そのような表現を用いたのであろうと思います。

どうしても戻りたい場所があり、何千年かけてもそこをめざす、という部族の心があるのではないかと思います。


伝説の都市「トラン(トゥラン)」があった頃は、アステカ族の石のカレンダーにある5つの年代区分においては「4番目の太陽の時代」であったとされるようです。


       
                   *****


             (引用ここから)


神ケツァルコアトルがメキシコに現れたのは、「第四の時代」のことだった。

彼は背が高く、容貌も優れ、ひげを生やして、長い二枚の布でつくったチュニカを着ていた。
その杖には宝石が埋め込まれ、6つの星のしるしで飾られていた。

トルテカ族の首都トランが建設されたのも、この時代だった。

知恵と知識の師ケツァルコアトルは、学問や技能や法律、そして52年サイクルによる時間の割り出し方の手ほどきをした。


「4番目の太陽の時代」の終わりごろ、神々の間の戦争が始まった。

ケツァルコアトルは東へ向かって旅立って、彼がやって来た元の場所に戻っていった。

神々の戦争は国土を荒廃させ、野生の動物の数が人間の数を圧倒するようになった。

そして首都トランも見放された。

それから5年後に、アステカ族がこの地にやってきて、「5番目の太陽の時代」、アステカ族の時代が始まったのだ。


            (引用ここまで)


            *****


こういった、ぐるぐると円を描くような時間の感覚と歴史の感覚は、一種独特のめまいを伴うように感じます。

この独特の時間感覚自体が、催眠術のような暗示効果を持っているようにも思われますが、この催眠術にかかるとすると、いったいどのような世界が開けてくるのでしょうか?



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オルメカ文明に関するZ・シッチンの見解(3)・・“神々の場所”=故郷に帰る旅

2011-06-19 | マヤ・アステカ・オルメカ
ゼカリア・シッチンの「神々の起源と宇宙人・・マヤ・アステカ・インカ」という本から、オルメカ文明に関する部分を紹介させていただいています。続きです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                   ・・・・・

           (引用ここから)



しかしある時期になると、この種族たちはこの聖なる都市を放棄し始めた。

最初に去っていったのはトルテカ族で、彼らは自分たちだけの都市「トラン」を建設するために移住していったのだ。

最後に立ち去ったのがアステカ族だった

彼らはいろいろな場所をさ迷い歩いたが、休むということはなかった。


「最後の移住の時がきた」という知らせが、アステカ・メキシカの種族たちに、彼らの神からあった。

彼らは指示された方向に向かって、[水に囲まれた岩から生えているサボテンの上に止まっているワシ]に出会うまで、歩き続けなければならなかった。

彼らはそこに定住して、自らを「メキシカ」と呼ぶことになっていた。

なぜなら、彼らは他の種族たちを統治すると定められた、選ばれた人たちだったからだ。

アステカ族が二度目の移住でメキシコの渓谷に辿り着いたのは、こうしたいきさつがあったのだ。


そして彼らは「真ん中の場所」とも呼ばれていた「トラン」に到着した。

そこに住んでいた人たちは、彼ら自身の先祖たちの親類だったが、アステカ族を歓迎しなかった。

2世紀近くもの間、アステカ族は中央の湖の沼地の端に住み続けた。


そしてついに彼らは自分たち自身の都市、「テノチティトラン」を築いたのだ。

その名称は「テクノの都市」の意味だった。

アステカ族は自分たちを「テクノ」の子孫たちだと考えていたと知られている。

現在、学者たちの間ではこのメキシカ、あるいはテノチアスと呼ばれる種族がこの渓谷に着いたのが紀元1140年頃としている。

また、「テノチティトラン」を築いたのが1325年だったとするのが定説になっている。



アステカ王国の首都「テノチティラトン」が栄華を誇っていた時、トルテカ族の首都「トゥーラ」はすでに伝説の都「トラン」として思い出の中に消えていた。

そしてトルテカ族がその都「トゥーラ」を建設していたときには「テオティワカン」はすでに神話の中の思い出となっていた。

「テオティワカン」には“神々の場所”という意味があった。

そして記録に残された数々の物語によれば、まさにその名の通りだった。


    (引用ここまで・続く)

                   ・・・・・


この種族たちの、[本当の故郷]を探す長い旅の物語は、前に6回に分けて紹介した彼らの神話「ポポル・ヴフ」にも心をこめて描かれていました。

この旅の物語は、本当にホピ族の旅と同じであるように思われます。


ホピ族は、「マヤはホピの落ちこぼれだ」と考えているといいます。

都市を作り、文字を作り、ピラミッドを建設し、人身御供を行い、周囲の部族と攻防を繰り返し、滅びていったマヤ族の血を引くからこそ、

ホピ族は、都市を作らない、文字を作らない、ピラミッドを建設しない、人身御供を行わない、周囲の部族と攻防の泥仕合をしない道を選んだ自分たちに誇りを持っているのではないでしょうか?

だからこそ、ホピ族は自らのことを「平和」を意味する「ホピ」と名乗っているのではないでしょうか?


ホピはマヤ以外の何者でもない、と思わずにいられません。

彼らの心は常に過去を見ており、おそらく彼らの目は後ろ向きについているのではないかと思ってしまいます。

彼らの心をひきつけて離さない、強力な磁力のような過去の出来事があったのでしょう。

それは彼らの神と彼らの約束ごとであり、彼らはそのことを決して忘れることがなかったのだと思います。



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賢者に導かれて「アストラン」から出現した・・オルメカ文明に関するゼカリア・シッチンの見解(2)

2011-06-16 | マヤ・アステカ・オルメカ
ゼカリア・シッチンの古代アメリカ文明の研究書「神々の起源と宇宙人・マヤ・アステカ・インカ」の中からオルメカ文明に関する考えを紹介させていただきたいと思います。続きです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



           *****


         (引用ここから)



その答えを、すでに知られている“歴史的事実”だけから求めるとすれば、アステカ族はさらに進んだ文化をもっていた種族によって谷間に追いやられた、放浪生活をする野蛮な移民者だったようにも思われる。

しかし学者たちが「移住の謎」としている諸伝説から、こうした推測とは違う内容も読みとれる。

こうした情報の元になっているのは、口伝えだけでなく、「古写本」とよばれているさまざまな本である。


「ボツリーニの古写本」には、アステカ族の先祖の家は「白い場所」を表わす「アストラン」という名前で呼ばれていたと書かれている。

そこは「白い雲の蛇」を表わす族長のカップルの住居だった。

この二人が息子たちを誕生させ、その息子たちからナワトル語を話す種族が生まれたという。

その種族にはアステカ族も含まれていた。

トルテカ族もまたこの最初の族長の血を引いてはいるが、彼の母は別の女性だった。

したがってトルテカ族はいわばアステカ族の腹違いの兄弟になるわけだ。


ところで、この「アストラン」がいったいどこにあったかについては誰もはっきりとしたことは言えない。

「伝説のアトランティス」だったという説も含めて、多くの研究の中で最も優れたものの一つがエドワード・セラーの「アステカ族の故郷はどこにあるか?」である。

それによると、「7つの洞窟のアストラン」と呼ばれていたことからも明らかに、7という数に関係した所にあったらしい。

古写本にも、「そこにある7つの神殿によってそれと分かる場所だ」と述べられている。

詳しくは、6つの小さな神殿に囲まれた一つの中央の大きな階段式ピラミッドのある所だという。


サアグンの力作では「アストラン」からの多数の種族たちの移住について述べている。

全部で7種族だった。

彼らは「アストラン」から小さな舟に乗って立ち去った。


到着した種族たちは、案内や先導してもらうための4人の賢者たちといっしょだった。

なぜならこの賢人たちは祭礼の手引きを携えていて、カレンダーの秘密も知っていたからだ。

そこから種族たちは「雲の蛇の宮殿」の方へと向かった。

長い年月をかけてアステカ族やトルテカ族などの種族たちのある者は「テオティワカン」に着いた。

そこに2つのピラミッドが建てられた。

一つは太陽のために、もうひとつは月のためのものだった。


                  (引用ここまで・続く)


               
   
        *****       



ここに紹介されている“我々は「沈んでしまった島」から移住してきた”、という記憶は、ホピ族も伝えています。


以前「ホピの笛祭り」として、フランク・ウォーター著「ホピ・宇宙からの聖書」からの引用を、当ブログでも
2回に分けて紹介させていただきました。

この祭りは、ホピ族が「沈んでしまった島」から移住した記憶を伝える祭りです。

以下に再掲します。


           
             *****


「ホピの笛祭り(1)・・2009・12」より
log.goo.ne.jp/blue77341/e/d109a6d2bd520ce8f0f375eca7e4e7b4


     ・・・・

笛族の儀式は16日間続く。

祭壇の左側には水瓶と正しく配置されたトウモロコシ。

また中央寄りにはオウムの姿をした木彫りの像と、熱帯産の鳥をあらわす像。

右側には木製の扇または櫂が二つ。

また葦で作られた二つの小さな輪がトウモロコシの葉にくるまれて置かれている。

フルート・スプリングの水は、人が現われ出た水を象徴している。

儀式前と開始後の4日間は、酋長は塩を口にせず、ひたすら祈りと精神集中に費やす。


祭りの16日目の昼、灰笛族と青笛族はフルート・スプリングに集まって「出現の場面」を演じる。

オウムやインコなど、熱帯産の鳥の赤い羽根の頭飾りをつけた男女が、泉を囲んで輪を作る。

灰笛族の長が泉の中に入り、小型のいかだにまたがって、青色の櫂(かい)でこれを漕ぎだす。

歌に耳を傾けながら彼のしぐさを見ていると、その意味が分かってくる。

大波が第三の世界を滅ぼし、人々は葦のいかだに乗って次々と島をわたり、最後にこの第4の世界の岸に現れる。

そしてコーラスが彼らの苦しみを歌い始めると、長は黒い泥の入った器を持って泉から這い上がり、全員の顎を泥で塗る。


一行はオライビに向かって行列していく。

             ・・・・・


「ホピの笛祭り(2)・・2009・12」より
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/76bc1a8a5478b3a86bcaa5c9a6a492cc

             ・・・・・




笛の音に合わせて歌いながら、灰笛の一団は広場の前で立ち止まる。

指導者は身をかがめ、地面の上のコーンミールで雲のシンボルを描く。

二人の笛娘が杖を使って自分の輪をこのシンボルの上に投げる。


これは輪の象徴する葦のいかだが、島から島へ渡ったことを表わす。

小さな葦の輪は前にも出現の時に使った葦のいかだを象徴しているが、もっと深い意味が隠されている。


今の第4の世界に渡って来る際に、人々がとどまった島をも象徴しているのだ。

この島々は、かつて第3の世界にあった山山の峰だった。

そして、人々が第4の世界に安全に辿り着くとすぐ、島々は沈んでしまったのである。


かつての文明の痕跡をとどめる第3の世界の陸も島々もこうして姿を消してしまった。

このため、笛娘たちは自分の手で輪に触れることができず、常に杖を使って扱わなくてはならない。

それはホピ族にとって、秘密の聖なる知識だからである。


杖もまた聖なるものであり、笛祭りの間中、深く念が込められている。

それはかつての存在についてのホピの秘教的な知識がこもった、魔法の杖を象徴するからである。


他の民族はこの知識を忘れ去ってしまった。

ホピが誰であるかについても、人類の起源についても知らないでいる。

だが、いつの日か次の周期を予兆する大きな地殻変動が起こり、これら海没した島々も再び浮上して、人類の出現に関するホピの秘教的知識を傍証することになるのだ。


オライビでは、笛族の行列は蛇キバの前にあるシパプニ・・出現場所を表わす小穴のところ・・で常に停止した。

ここはとても重要なスポットである。

「ポワム祭」では、二人の聖なるカチナ、エオトトとアホリはこの場所で7つの連続する世界を象徴的に表わし、各世界の中間にある“出現の道”を清めるため、シパプニに水を注ぎ込んだ。

また「蛇・カモシカ祭り」のときには、蛇族の祭司たちが蛇をもったまま隠れ家に近づいた時に、足踏みができるよう、この上に音響板がかぶせられる。

そこで笛族の祭司たちもまた、シパプニの中に水を注ぎ込む。


外にいる2宗団は、笛にあわせて出現の物語を歌い続ける。


歌は4節にわかれ、各説は島から島への旅を物語る。

陽は地平線に沈み始め、広場に影が伸び始める。

歌は止み、二つの宗団は列を作って、暗くなりつつある広場を後にする。


          (引用ここまで・終)

        ・・・・・

           *****


わたしには、アステカ族の伝承とホピ族の伝承は、同じできごとの記憶のように感じられます。

本書に紹介されている古文書によると、「彼らは4人の賢者に導かれて進んだ」、ということです。

「暦の知恵も、その賢者たちに教わった」、と述べられています。

ホピ族の言う「白い兄」も、同じ人の記憶ではないでしょうか?



人々はどこから来たのか?

賢者とは誰なのか?

人々はなにを記憶しているのか?

サアグンという16世紀のフランシスコ会の宣教師が聞き取った伝承の引用は、何度も目にするので、直に読んでみたいと思います。





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オルメカ文明に関するゼカリア・シッチンの見解(1)・・原始的な文明という矛盾

2011-06-13 | マヤ・アステカ・オルメカ
話は変わりますが、、中央アメリカの古代文明について、ゼカリア・シッチンが大論文を書いています。

「マヤ・アステカ・インカ・神々の起源と宇宙人」という題の本ですが、昨冬の「古代メキシコ・オルメカ文明展」に行った時、会場で売られていたので買ってみました。


「古代メキシコ・オルメカ文明展」公式サイト
http://www.asahi.com/event/olmeca/


展覧会場では、「マヤ暦による2012年地球滅亡説」のDVDなども販売されていて、マヤ文明とオルメカ文明の関連を考えるとても良い機会となりました。 (このDVDは買いませんでしたが)


ゼカリア・シッチンの本は550ページもあるのですが、その中からオルメカ文明に関わる部分を抜粋してみました。


「マヤ」と聞くと、とても神秘的で謎に包まれていると感じますが、マヤ族の複雑な歴史を辿ることにもエネルギーを注ぎたいと思います。

ゼカリア・シッチンの宇宙人来訪説は後に検討することにして、一つのオルメカ文明の研究書として見てみたいと思います。

以下、「マヤ・アステカ・インカ・・神々の起源と宇宙人」より。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



                *****


                (引用ここから)



多くの歴史家たちが認めるところでは、トルテカ族は少なくとも紀元前1000年前、おそらくは紀元前1500年前、アステカ族がこの舞台に登場する前に、メキシコの中央高原にやってきていた。

後に来たアステカ族は、ただ地面から金箔をはがして採ることしかできなかったが、

トルテカ族はすでに採掘、それも金銀や他の金属、そしてトルコ石のような宝石の本格的な採掘方法を知っていた。

それはどうしてだろうか?

そしてこのトルテカ族に採掘の秘密を教えた者は一体誰だったのか?


当時のスペイン人の年代記作家たちは、インディオたちが実は文明人であったという事実にショックを受けた。

そのショックを和らげるために、インディオたちが無知だった証拠として、コルテスはインディオの王を「神ではなく、邪悪な悪魔の偶像を崇拝している」と叱責した。

また、こうした邪悪な習慣をなくさせるために、ピラミッドの上に十字架と聖母マリアの姿をかたどった神殿を建てさせようとした。

しかし実際には、十字架のシンボルも、スペイン人が来る前にすでにアステカ族には知られていたのだ。

十字架は天界の大切なシンボルとして、神ケツァルコアトルの盾の紋章として描かれていたのだ。



アステカ族は使っていた道具や武器については、石器時代にあったと言ってもよかった。

奇妙なことに、アステカ族は金細工の技巧はやっていたのに、金属の道具や武器をまったく使っていなかった。


一方では原始的な粘土や木製の品物、そしてグロテスクな彫像があり、他方では巨大な石の彫刻や記念すべき壮大な聖域があるという、この二つの対照には全く驚かされる。

このことは、アステカ族がメキシコにいた4世紀足らずの短い期間では説明が付かない。

このような文明の二面性をどう説明したらよいのか?


        (引用ここまで・つづく)

            
                    *****



「マヤの十字架」とは、彼らの大切な神ケツァルコアトルの盾の紋章に記されていた、とあります。

またそれは、マヤの「生命樹」の形でもあると言われています。

十字の形は、世界を4に分ける図形でもあり、4という数はアメリカ大陸の先住民族にとって、聖なる数であったと思います。

また、アステカ族の前にいたトルテカ族に焦点を当てて書かれていますが、トルテカ族、オルメカ族、マヤ族という、近くて遠い種族間の関わりが、オルメカ族に関する著述の中の相当量を占めています。




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新羅と日本(5)・・アメノヒボコと、角がある人(ツヌガアラシト)の渡来

2011-06-10 | 日本の不思議(古代)
出羽弘明氏の「新羅の神々と古代日本」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


山陰地方には日本最大の弥生遺跡があり、また、スサノオのみならずニギハヤヒを祖とする古代の覇者たちの足跡があるようです。

“天孫族”のヤマト朝廷が出来上がる以前の、長い歴史を思います。

また、前の記事では「牛を祀る」異国の伝統が日本にもあったことを書きましたが、「角の生えた英雄」が朝鮮半島からやってきたことが「記紀神話」にはっきりと記録されているようです。

彼らが「神功皇后」の先祖であり、ヤマタノオロチを切る剣ももたらされたのだと、「記紀神話」が述べているとすると、「記紀神話」はあなどれないと思います。

「天孫降臨」が史実だと考える人はいなくても、日本人の「日本」というものに関する漠然とした単一民族的な歴史認識は、ずいぶん史実とは異なっていると言うべきではないでしょうか?



                *****


              (引用ここから)



鳥取市の「桂見遺跡」からは、縄文時代後期(約3500年前)の大型の丸木舟が複数出土している。

物資の運搬や漁などの存在を示している。

紀元前から2世紀ごろの集落跡も発見されている。

さらに中国山地の大山の山ろくの「妻木(むき)晩田遺跡」(1-3世紀)からは、弥生時代中期から古墳時代の竪穴住居250戸と、柱建物の跡200が確認されている。

同遺跡は吉野ケ里遺跡の3倍強、三内丸山の6倍以上の規模である。


日本最大の弥生遺跡と言われる。

「魏志倭人伝」の中の一国であるとも言われている。

出雲から30キロメートルしか離れていない所に王国が存在したのである。



古代の出雲は一大海洋国家であった。

朝鮮古語で親戚を「あざむ」と言う。

「いずも」はこの語が変化したものであると言われている。

「いずも」は、古代にスサノオノミコトとその一族が開拓した王国であった。

「日本書紀」にも「スサノオノミコトが大蛇を切った剣は「韓さびの剣」と記されている。

この剣は韓国製であったのである。


現在「新羅神社」があるのは、西出雲の石見地方である。

かつては出雲の中心部にもあったと思われるが、出雲大社を中心とする所では、ヤマト政権に服従する過程で“新羅”の要素が消されたのであろう。


しかし西出雲は、神武天皇以前の大和の大王「ニギハヤヒ」の命を祖とする物部氏の出身地である。


五十猛町の林正行氏からいただいた「五十猛今昔」の中に、日本で最も古い「朱の丸の旗」の写真がある。

「物部神社」の神紋も、日の丸に鶴である。

出雲には新羅の太陽信仰が持ち込まれていたことが分かる。


「天日帆子(アメノヒボコ)」は垂仁天皇の時代に、新羅からやってきたと言われる。

九州の伊都国に着き、ついで播磨に行き、さらに宇治川を遡って近江の吾名村にしばらく住み、再び鏡山をへて若狭に至り、丹後から西に進み但馬国出石に居を構えた、と言われている。

この時の天皇の使いが大友主(三輪君の祖=大和の古い豪族)である。


新羅の人・「天日帆子(アメノヒボコ)」は、琵琶湖東地方に勢力を持つ物部氏と知り合い、物部氏の女性をめとって縁戚関係になる。


「天日帆子」5世の孫から生まれた子が「神功皇后」である。

「天日帆子」一族の血は日本の豪族たちと縁戚を結び、やがて皇族と結ばれ、但馬に出雲と並ぶ勢力を築いた、と言われる。


           (引用ここまで・終わり)



                 *****


wikipediaの「アメノヒボコ」の項目には、次のような説明がありました。


      ・・・


アメノヒボコ(天之日矛、天日槍)は、『古事記』、『日本書紀』に見える新羅の王子。

『播磨国風土記』には神として登場する。

「古事記」においては、次の代の多遅摩比多詞の娘が息長帯比売命(神功皇后)の母、葛城高額比売命であるとされている。

しかし「日本書紀」においては阿加流比売神と結婚したのは意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)とされている点で異なる。

なお、アメノヒボコは新羅の王家、朴氏、昔氏、瓠公との関連の可能性があるとする説もある。


日光により妊娠するという話はモンゴル・満州などに広くみられる神話のモチーフである。

また始祖が玉・卵から生まれるという話は半島南部から南洋にまで広がる。

両者を含むこのアメノヒボコの伝説は高句麗の始祖朱蒙の出生伝説との類似が指摘されている。


「日本書紀・垂仁天皇3年春3月」に、昔に新羅王子・アメノヒボコが神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参した事への言及があり、その渡来の記述がある。


神宝

『古事記』によれば珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種である。

これらは現在、兵庫県豊岡市出石町の出石神社にアメノヒボコとともに祀られている。

いずれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とアメノヒボコの信仰が結びついたものと考えられる。


また『筑前国風土記』逸文にも断片的な言及があり、怡土(いと)の縣主の祖先の五十跡手(いとで)が仲哀天皇に自らを高麗の意呂(おろ)山に天孫ったヒボコの子孫であると名乗っている。


      ・・・


wikipedia「ツヌガアラシト」の説明は以下。


      ・・・

都怒我阿羅斯等 (つぬがあらしと)

『日本書紀』では、アメノヒボコの渡来前に、意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が渡来し、この説話の前半部分、アカルヒメが日本に渡りそれを追いかける部分の主人公である。

都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)は3年後に帰国したという。


      ・・・




関裕二氏は「消された王権・物部氏の謎」という本で、上述の「ツヌガアラシト」という人物は何者なのかについて考察しています。

少しだけ紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


         
           *****


          (引用ここから)



「日本書紀」垂仁天皇2年の条に、「一書にいわく」、という形で次のような記述がある。

「額に角有ひたる人、一の船に乗りて、越の国に泊まれり。
彼、そこを名づけて“角鹿”(つぬが)という」


これによると崇神天皇の時代、“額に角を生やした人”が舟にのって「越の国」に着いたという。

その人物に角が生えていたことから、この場所を“角鹿(つぬが)”→“敦賀(つるが)”と呼ぶようになったというのである。



どこからやってきたのかを問うと、「おお加羅国」の皇子で、名は「ツヌガアラシト」であったという。

日本に聖君がいると聞きつけて、こうして帰化しに来た、と語ったことが記録されている。



一説にはこの人物が王子であったところから、王家出身のしるしとして冠をかぶっていたのではないか、

あるいは「ツヌガアラシト」という名称が、“角のある人”と聞こえることから起こったとも言われるが、これは素直に“鬼”と解するべきであろう。

ツヌガアラシト個人だけではなく、「加耶」という国の有り方自体に“鬼”をめぐる問題が隠されていたためである。


(中略)


「日本書紀」の「ツヌガアラシト」説話の直後には、「アメノヒボコ」なる人物が半島のもう一つの国「新羅」から渡来した話が載せられるが、 (「古事記」の中で「アメノヒボコ」はなぜか「日本書紀」の「ツヌガアラシト」と同一視されている。)

通説でも、加耶皇子「ツヌガアラシト」を神格化したものが新羅の「アメノヒボコ」であるとされている。


         (引用ここまで)


         *****


関氏の話は壮大に展開されている話の一部を引用したので、意味が取りにくいのですが、

関氏は「鬼」という言葉をキーワードにして、朝鮮半島と日本列島の国々は相互に影響しあいながら、名を取り実を取りし合いながら、国家を形成していったのであろうと考察しています。


大和朝廷に「国譲り」をしたのは誰だったのか、大和朝廷はなぜ、出雲神を恐れ続けたのか、と問い続けていきますが、

その歴史の中には、“角が生えている”とみなされるような“鬼”や多くの荒ぶる力をもつ者たちがたくさんいたことは間違いないでしょう。


“角がある人”という不思議な表現は、とても印象が強く、奇妙な非現実感があります。

それは大陸の遠い「牡牛」を崇拝する宗教とも響きあい、また古来の東洋的な「鬼」の姿も彷彿とさせます。


これらのどれもが、「日本」の文化の原初から存在し、どれをも切り離して考えないことで、原初の日本人の魂を復元することができるのではないかという気がします。


「記紀神話」をもっと細かく見たいです。

それは日本の起源についてのたくさんの謎に満ちているように思います。

アマテラスより先にヤマトにいた「物部氏の祖ニギハヤヒ」についてや、「牛頭天王」のことなど、いろいろなテーマがありますが、次は「太陽」のことを考えたいと思います。





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「天孫族」はどこから降臨したのか?・・新羅と日本(4)

2011-06-07 | 日本の不思議(古代)
出羽弘明氏の「新羅の神々と古代日本・新羅神社の語る世界」を読んで、朝鮮半島と日本のつながりを考えています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

長い引用になってきましたが、次の描写もとても印象的で、ご紹介したく思いました。



       *****


    (引用ここから)

九州・福岡の博多湾の南、糸島半島とその背後地には産火火出身命とその一族を祀る神社が集まっているので、このあたりに伊都国の王国があったのであろう。


日向峠の入り口に案内板がある。

「これより伊都国・日向峠。

この峠は北西の平原遺跡によって1800年前(弥生時代)からの古代名を持つ、日本神話を伝承する土地と考えられています。

この峠から南西に韓国山、北西に櫛触山、その先に高祖山といった神話の山山が連なります。」


日向峠からははるか先に玄界灘に連なる海まで見える。

まさにこの地は古代神話のいわゆる高千穂の峰であるように思われる。


「日本書紀・古事記」の天孫降臨のくだりには、

「筑紫の日向の高千穂のくじふるたけに天振りましき。

この地は韓国に向かい、かささの御前(みさき)にまきとおりて、朝日のただす国、夕日の日照る国なり。
ゆえ、この地はいとよき地とのたまわりたまいて、、」

とある。


日向峠は、まさにその地である。


ここにある韓国とは、もちろん南朝鮮のことであり、そこが天孫族の郷里である。

したがって天孫族である南朝鮮の半島の人々、特に新羅、加羅、加耶などの人々が早くから北九州に渡来して、新しい居住地である高千穂の峰に自分たちの郷里の山山の名を付けたのであろう。

おそらく、南朝鮮の新羅や加羅国などを中心にして、渡来の人々が高祖山とその山麓に王国を築き、鏡、剣、玉を宝器とする弥生文化が展開されたであろう。


         (引用ここまで・続く)

 
         *****


梅原猛氏の「葬られた王朝・古代出雲の謎を解く」を読んでみたところ、この「日向神話」について述べたところがありましたので、こちらも紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


         *****


         (引用ここから)


「古事記」・「日本書紀」の神話は「高天原神話」、「出雲神話」、「日向神話」の三つの神話から成り立っている。

「高天原神話」は天でおこった話であるから確かめようがないが、「出雲神話」と「日向神話」は出雲や日向でおこった話であり、その神話の跡を訪ねることができる。

特に「日向神話」は、アマテラスの孫「ニニギ」が日向の高千穂に降臨して以来、三代を経て、ひ孫の神武天皇が東征の旅に出て、ついにヤマトを占領し、天皇家の祖となる話である。

いわば「日向神話」は、歴史時代に近い神話である。


わたしは平成11年に約一ヶ月間、日向の旅をすることにした。

「古事記」「日本書紀」において、「ニニギ」から神武天皇まで四代の天皇家の祖先が活躍した日向を訪ね、遺跡が多く残っていることに驚いたのである。

しかもそれらの遺跡は、神話そのものをそのまま表すような遺跡ではない。

そのような遺跡ならば、神話が作られた後にその遺跡が作られたとも考えられる。

しかし、それらは中央の歴史書にこそ書かれていないが、間接的にその神話が事実に基づいていることを示す遺跡であった。


         (引用ここまで)


         *****


同じ「筑紫の日向の高千穂」の風景を見て、同じ文献に当たって、

出羽氏は「日向に降り立った朝鮮から来た人々」の姿をありありと目の当たりにし、梅原氏ははっきりそうとは言明していないことも、興味深い相違であると思います。

梅原猛氏の同書「葬られた王朝」については、また改めて取り上げたいと思っていますが、梅原氏も、「日向神話」は事実に違いないという考えであることに触れておきたいと思いました。

梅原氏の同書は、「出雲神話」についての大著であり、また「古事記」や「日本書紀」の分析が大変わかりやすいことは確かだと思います。

同書の「日向神話」に関する記述をもう一箇所、少し紹介させていただきます。


          *****


            (引用ここから)


神武天皇は南九州において、土着の豪族の娘と思われる女性との間に二人の子どもをもうけた。

神武天皇はこの二皇子を東征に同道させていたようであるが、このような南九州の土豪の娘を皇后とするわけにはいかない。

政権を安定させるにはやはり旧オオクニヌシ政権と縁のある女性を皇后としなければならない。

そこで大伴氏と共に朝廷の軍事を司った者が探し出した女性が、三輪山のオオモノヌシの娘であり、彼女は三人の皇子をもうけた。


神武天皇が亡くなった時、継子であるタギシミミがその三人の弟を殺そうとした。

しかし三皇子の一人カムヌナカワが、タギシミミを殺した。

おそらく神武天皇の跡を継ぐ第二代の天皇に、日向の豪族の血をもつ皇子が就くことに、ヤマトの人たちの支持は得られなかったのであろう。

明らかに出雲王朝の血をもつ皇子が第二代の天皇に就くことによって、神武天皇は安泰を保つことができたのであろう。


 
            (引用ここまで)


                *****


もう一箇所、「古事記」などは歴史を偽造しているという津田左右吉の説に反論している部分を、梅原氏の同書から引用します。

  
              *****


           (引用ここから)


天皇家の神聖を示すためには、天皇家はずっと昔からヤマトにいたという方がより説得力をもつはずである。

天皇家の祖先が南九州の片田舎から出てきて、夷荻として軽蔑された「隼人(はやと)」の血が入ってくるような神話をわざわざ偽造する必要があろうか。

天皇家が南九州からでてきたことが事実であるから、ヤマト朝廷もそれを否定することができなかったと考えるのがごく自然である。

          (引用ここまで)


             *****



アマテラス・神武天皇一族は九州の「日向」の土着の豪族であり、九州からヤマトにやってきた。。

彼らは朝鮮から九州の「日向」にやってきて土着した人々である可能性も高いけれど、

彼らがヤマトに政権を打ち立てた時、その血は出雲系の母方の血で、半分に薄まった、ということでしょうか。


しかし、スサノオも朝鮮からやってきたという前出の「日本書紀」の記述を考えると、出雲族も渡来民であるので、日本の国造りを行ったのは渡来人ばかりとなり、やはり、日本という国の独自性とはどこにあるのか分からないという結論になるのでしょうか。






 Wikipedia「天孫降臨」より

天孫降臨(てんそんこうりん)は、天照大神の孫である瓊瓊杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が、葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために降臨したという日本神話の説話である。

邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。

降った場所については日本書紀に、ソホリ、二上の山等の記述もある。また、日向はヒムカと読み日向国とした記述はない。

天忍日命と天津久米命が武装して先導した。

天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの祖神である。

天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの祖神である。

邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。

それで、ここはとても良い土地である」(「此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地也」『古事記』)と言って、そこに宮殿を建てて住むことにした。

天孫降臨の地としては、九州南部の霧島連峰の一山である「高千穂峰」と、宮崎県高千穂町の双方で、古くから天孫降臨の言い伝えがある。

ただ、高千穂峰の場合は山の名称だけで付近に「高千穂」の地名が無いため、「宮崎県高千穂町の周辺が正しい」とする意見もあるが、どちらの場所を比定しているのかは不明である。





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新羅と日本(3)・・竜宮伝説と、ワニ、あるいは蛇、あるいは亀

2011-06-04 | 日本の不思議(古代)
日本の文化の源を調べています。

ひき続き、出羽弘明氏の「新羅の神々と古代日本・新羅神社の語る世界」を紹介させていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


         *****


(引用ここから)


対馬は朝鮮半島との距離の方が、日本との距離よりも短い。

対馬は中国の「魏志」には「対海国」として登場しており、古代には国境の島ではなく、朝鮮半島を含む文化圏の中の一独立国であった。

対馬には新羅の文化が、神社、地名、山川の名前などに多く残っている。

対馬は早くから半島の造船の技術が伝わったり、海人族が活躍していた。

対馬と海洋民族とのつながりは古く、特に滋賀海人、安曇海人とのつながりが深い。

対馬の「阿須湾」は、古くは「安曇浦」と言われ、神功皇后に関わる伝説がある。


下県郡には「和多都美(わたつみ)神社」がある。

海神神社の一の宮である。

この神社は五つの鳥居があり、うち二つは海中にある。

満潮時には社殿の前まで海水が満ちる。

その様子は竜宮を思わせる神秘的なものであり、竜宮伝説で有名である。

伝承を見ると、「海彦山彦」の伝説は、対馬で生まれた可能性が高い。


社前の渚に聖なる霊石がある。

「磯佳恵比寿」(いそらえびす)と言われる岩座である。

この霊石にはうろこ状の亀裂が縦横にあり、ワニか蛇かあるいは亀か、何とも不気味な感じがする。

これが社前の渚の中に祀られ、三角形の鳥居で守られている。


対馬・上県にも「海神神社」がある。

この神社は白髭(しらひげ=新羅と音が近い)大明神を合祀している。

「対州神社史」には、「白髭大明神に“ほこ”三本あり」と記載されている。

近くの弥生時代の遺跡から出土する銅の矛と一致するという。

神宮寺として「弥勒堂」があったと言われているが、現在は消失した。


「日本書紀」では、海神の正体は、龍またはワニである。


海神(わたつみ)の語源は「綿」は海、「津」は助詞で「の」、「身」は龍蛇である。



(引用ここまで・続く)



        *****


実に意味深長な言葉が続き、目が離せません。

特に「いそらえびす」というものが奇妙で目を引きます。

「わたつみ」とは海のことですから、海の神さまに関する古い伝承が形として残されていると考えると、「三本鳥居」に守られている「磯良恵比寿(いそらえびす)」は、海の神様の正体かもしれません。


筆者によれば、

>うろこ状の亀裂が縦横にあり、ワニか蛇かあるいは亀か、何とも不気味な感じがする。

という霊石だということです。

それを囲んで祀る「三本鳥居」という形も、渡来系の人々の習俗としてあったように思いますが、このような霊石への原始信仰にも、三本鳥居が使われているとすると、日本の精神史の最も深い原点に、渡来人が関わっていたのではないかと考えさせられます。

ワニか、蛇か、亀。。

これらが、日本の神の姿なのかもしれません。


対馬には「竜宮伝説」がある、と書かれています。

海の中には美しい御殿があり、その理想郷に、若者が亀に連れられて行ったという伝説です。

「竜宮」というと「浦島太郎」が連想されますが、丹後では「海彦山彦」の「山彦」が「竜宮」に旅立ちました。



竜宮伝説を調べていたら、高橋大輔氏の「浦島太郎はどこへ行ったのか」という本がありました。

高橋氏は「竜宮伝説」を追いかけて、日本や中国を旅して調べておられます。

そこにも興味深い記述がたくさんありました。

高橋氏は、古書に「浦島太郎」が登場するのは京都府の丹後地方が最初である、という点をまず機軸として捉えています。

以下に少し紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



        *****

              (引用ここから)


日本最古の浦嶋伝説が登場する「丹後国風土記・逸文」がおさめられた「釈日本記」の中に引用された「天書」には次のように書かれている。


               ・・・

天書の第8巻によれば、22年の秋7月に、丹波の人「浦嶋子」は海の竜宮に出かけて、神仙を得た。

                ・・・


これは8世紀に書かれたものである。

また、わが国最初の正史である「日本書紀」に「浦嶋子」(後の浦島太郎)のことが書かれているのは、巻14、雄略天皇の治世22年のくだり。

それは実に短く、ほんの数行たらずのものだ。

                ・・・


秋、7月に、丹波国(後の丹後国)の余社の郡の筒川の人、瑞江(みずのえ)の浦嶋子が舟に乗って釣りをしていると、大亀がかかった。

たちまち亀は乙女となり、浦嶋子は妻にした。

ふたりは海に入り、蓬莱山へ行き、仙人たちを訪ねた。

そのことは別巻に書かれている通り。

              
             ・・・


いずれにせよ、これら二つの古典から最古の浦嶋伝説が今おなじみの話とはだいぶ違っているということがわかる。

文部省唱歌の「助けた亀に連れられて」、、という出だしは、大昔は、亀姫と人とのラブストーリーだった。

またその亀姫に誘われるままに、浦嶋子が出かけていくのは、竜宮ではなく、「蓬莱」。

そこで出会う「仙人」たちや奏でられる「仙歌」など、それらの言葉から中国大陸の文化とのつながりを感じさせる。


        (引用ここまで)

     
       *****



筆者高橋氏は「浦島太郎」と「海彦山彦」が、「竜宮」に行くことで共通していることを重視しています。


そして、対馬では「ワタツミ(海神)」を祀る意識が大変古く、「亀卜」という亀の甲羅を焼いて吉凶を判断する古代の占いが、今でも対馬に伝承されている様子を見学しています。

やはり、亀は古代から神聖なものであったのです。

筆者は次に鹿児島を訪れ、考えています。


         
       *****


            (引用ここから)


ウミガメの話を聞いてみると、鹿児島では特別の存在として神聖視されていたことがわかる。

そしてウミガメが“エビス”と結びついて、竜宮の使いと考えられているのが、興味深い。

“エビス”というのは、語源からさぐってみると、夷、戎、辺とも書かれ、もともとは「異郷人」のことだった。


海の向こうから辿り着くその神秘的な存在は、やがて来訪神、あるいは漂着神となり、

さらに同じように果てしない海から流れくる大量の魚がその神々により司られているとして、豊漁をもたらす神と考えられるようになった。

そんな漂着神がウミガメのイメージとも重なっていったことは自然とうなづける。

丹後の「亀卜」のウミガメも「浮かれ甲(死んで漂っているもの)を使う」とあったが、その意味は実はここにつながってくるのだ。


           (引用ここまで)

            
           *****


対馬といい、丹後(京都)といい、日本海の文化は日本を知る上で非常に重要で示唆に富んでいることは間違いないと思います。



 wikipedia「海彦山彦」より

山幸彦と海幸彦(やまさちひことうみさちひこ)は、日本神話の一挿話。

彦火火出見尊(山幸彦)が、兄の火照命(海幸彦)と猟具をとりかえて魚を釣りに出たが、釣針を失なった。

探し求めるために塩椎神(しおつちのかみ)の教えにより海宮(又は龍宮)に赴き、海神(豊玉彦)の娘・豊玉媛(とよたまひめ)と結婚、釣針と潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)を得て兄を降伏させたという話。




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などあります。(重複しています)









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牛殺しの風習と、牛の王・・新羅と日本(2)

2011-06-01 | 日本の不思議(古代)
引き続き、日本の源郷について、考えています。

前回と同じく、出羽弘明氏の「新羅神社と日本」の紹介をさせていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

筆者の視点は国境を超え、日本とは何かという問いを投げかけます。



     *****


    (引用ここから)


水野佑は「入門・古風土記」において、

「スサノオノミコトは新羅から出雲へ移動して来た移住民集団が奉祀していた神である。

古くは出雲、壱岐など日本海沿岸では「スサヲ」という神の信仰があった。

さらに新羅第二代の王の名「次次雄」は「スサング」と同義語で巫を意味する。」

と説明している。


「次次雄」は紀元4~24年であるので、スサノオノミコトはその頃の神であろうか。

スサノオノミコトは子神の五十猛命(いそたけるのみこと)とともに新羅に降り、「ソシモリ」に住んだが、そこにいることを望まず、出雲国の鳥上山に至ったと言われている。

「記・紀」に記載されている渡来神の中では渡来が一番古い。


スサノオノミコトは新羅の人なのか、倭人なのかはっきりしないが、半島と倭国を自由に行き往来していたようである。

「古事記・日本書紀」の神話の中心はスサノオノミコトの一族(新羅系の人々)である。

このことは古代日本の国家創造に携わった人々は新羅系の人々であったということである。


朝鮮半島からの渡来は、縄文の時代から何回となく行われているが、律令制の確立とともに、古い族とその系譜、また、新しい渡来の人々に対する多くの圧迫が見られる。

桓武天皇の延暦10年には、「牛を殺して漢神をまつるを禁ずる」とある。


牛を殺して天を祀るのは大陸や半島から伝来した風習である。



環日本海文化圏

古来の九州南部と朝鮮は、同一の文化圏であった。

出雲や若狭、丹後、越などの地方も同じ文化圏であったと考えられる。

最も早くから朝鮮半島と交流があったのは、対馬を含む九州地方であったことは「魏志」の記述から見ても間違いはない。

紀元前後ごろから紀元後400年代後半ごろまで、このような状態が続いた。

      
            (引用ここまで・続く)


          *****


筆者は、紀元前後から紀元後4世紀ごろ、朝鮮半島と日本列島の人々は、日本海を仲立ちとして相当深い交流があったことを指摘しています。

スサノオが朝鮮の山を訪れた話は「日本書紀」にも記載されている事柄ですが、視点を朝鮮半島に移して考えると、朝鮮半島の人々にとって日本は活動範囲内であった、ということであると思います。

発想の転換を迫られて、大変刺激的に思います。

また、桓武天皇が「牛を殺して漢神をまつるを禁ずる」ことを指示したということですが、「牛を殺して漢神を祀っていた」という史実があったとしたら、大変興味深いことに思えます。

このような「まつり」は、どのように行われていたのでしょうか?



川村湊氏の「牛頭天王と蘇民将来」という本は、同テーマを以下のように分析しています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          ・・・・・

   
            (引用ここから)


こうした禁令がしばしば出されること自体が、牛を犠牲獣として祭事に殺す行事や習慣があったことを示しており、雨乞いや祟りのお祓いや、祭りの供御として殺牛が行われていた。

(中略)

この殺牛の儀式が「漢神を祭る」とあるように、渡来神の祭儀における犠牲を意味していることは明らかだろう。

死穢(しえ)を忌避する神道や仏教には、動物をほふって神に捧げるという慣習はなかったと考えられる。

それは異国の異神に供御をする方法なのであり、エキゾチックで、異様な儀式と当時の日本人の目には映ったはずである。

しかしその分だけ、きわめて強烈な刺激と印象を与えたことは疑いなく、それは一種の流行神へのもてなし方として、あるいは祈念や願望を叶えるための強烈な秘法として人々をとらえたと言ってよいのである。


(中略)


またそれは、前田憲二監督の記録映画「土俗の乱声」の最初の刺激的な殺牛シーンのように、中国の苗族では、いまでに行われている祭儀であり、はるか古代に遡るものであることが定説になっている。

この苗族の祭のような「殺牛祭神」が、朝鮮ーー日本での殺牛祭神の儀式の直接的な伝播の源泉にあるものと言えるかどうかは不確かだが、こうした風習が大陸起源のものであることは明らかなのである。

       (引用ここまで)


              ・・・・・


同書については、また改めて取り上げたいと思いますが、川村氏は、「牛頭天王(ごずてんのう)」という謎めいた王への信仰の歴史から、日本には渡来民族による渡来文化の痕跡がはっきりと見られることを詳しく論証しています。



さらに、久慈力氏の「シルクロード渡来人が建国した日本」という本では、この「牛を殺して祀る」風習について、次のように論じられています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

         
             ・・・・・


               (引用ここから)


「牛頭天王」の来歴については、ユーラシア各地にさまざまな説がある。

新羅の牛頭山に天下ったスサノオだという説、朝鮮、満州の檀君(だんくん・古朝鮮を建国したとされる神)だという説、中国の盤古(ばんこ・漢民族や少数民族の神話に出てくる神)、、

(中略)

さらに遡ってペルシアのミトラ神、古代イスラエルのタゴン神、古代フェニキアのバール神まで辿れるだろう。

その根源をどんどん遡っていくと、シルクロードからオリエントにまで行き着いてしまう。


             (引用ここまで)

           
                  ・・・・・


この本も、また改めて研究したいと思っていますが、今回はこの部分のみ紹介させていただきます。

私も、「牛」と聞くと、やはりミトラス神の祭祀を連想してしまいます。

簡単に結びつけることもできないでしょうが、簡単に切り離すこともできない問題のように思います。




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wikipedia「牛頭天王」より

牛頭天王(ごずてんのう)とは、日本の神仏習合における神である。

京都祇園や播磨国広峰山に鎮座する神であり、蘇民将来説話の武塔天神と同一視された。

インドの釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神ともされ、祇園神とも呼ばれた。

陰陽道では天道神と同一視された。

神仏習合では薬師如来の垂迹であるとともに、スサノオの本地とされた。

感神院祇園社から勧請されて全国の祇園社、天王社で祀られた。
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