始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

少年と死刑・・光市母子殺人事件(1)

2012-02-28 | 心理学と日々の想い

光市母子殺人事件の被告に、死刑判決がおりたことをテレビで知り、ここのところ、ずっとそのことが心を離れません。

犯行当時18才と1カ月だったという被告は、公開された写真は大変幼く、いったいなぜそんなことを?という気持と、罪と罰という厳粛な思いに思わず息をのみました。


下の朝日新聞の記事は、2010年に切り抜いていたものです。

はじめて死刑場が公開された時の記事です。


          *****

           (引用ここから)


「厳粛、死刑の現場」
            2010・8月28日朝日新聞

           

入り口に清めの塩が盛られ、お香のにおいが立ち込める。

東京拘置所(東京都葛飾区)の刑場は厳粛な雰囲気に包まれていた。

2006年12月以降17人の死刑が執行された場所。

報道機関の記者として初めて入り、死刑主の最後を辿ろうとした。

木目調の壁に藤色のじゅうたん。

思っていたより執行室は明るかった。

じゅうたんの中央には赤い正方形。

ガーゼで目隠しされた死刑囚の首にロープがかけられ、立たされる「踏み板 」の場所を示す枠だ。

枠のそばから直径20センチほどの大きな金属の輪が床から壁を伝うように4つ取り付けられていた。

ロープは公開されなかったが執行の際は直径3センチ、長さ約11メートルのロープが4つの輪を通して天井の滑車にかけられるという。

空調の静かな音だけが聞こえる執行室。

だが踏み板が開いて死刑囚が下の部屋に落ちる時は大きな音が響くと説明を受けた。

「死刑囚がまさに命を絶つ極めて厳粛な場所だ」として階下の部屋への立ち入りは許されなかった。

ただ検察官ら立会人が執行を見届ける「立会室」からはコンクリートの床の薄暗い部屋が見えた。

かすかな消毒液の匂いが、湧きあがる。

踏み板の真下には格子の蓋で覆われた排水溝が口を開け、生と死の境を感じさせた。

死刑囚が執行室の隣にある「前室」で拘置所長から執行を告げられてからこの部屋に入るまでわずか数分だという。

法務省幹部によると執行当日の朝、多くの死刑囚は日々を過ごしている「房」から出される際にた
だならぬ雰囲気で執行を察知するのだという。

短い間に自分の身の起こることをどこまで理解出来るのだろうか。

死刑囚が刑場に入ってまず連れてこられる「教誨室」には、大きな棚が据え付けられた仏壇があった。

親鸞と蓮如の像。

移動式で死刑囚の宗派によっては神棚や十字架に変わるのだという。

ここで死刑囚は、宗教者の「教誨師」と向き合っていすに座り、茶を飲んだりまんじゅうなどの「供物」を食べたりできる。

教誨室を出て、約10メートルの無機質な廊下をまっすぐ進むと「前室」に辿りつく。

真正面には金色の仏像が見守る。

執行室との間にある青いカーテンは死刑囚が目隠しをされるまで、執行室を見せないように閉ざされているという。

踏み板には、刑務官が数人がかりで運ぶ。

執行直前で抵抗しても実力行使で立たせるのだという。

執行室の奥にある薄暗いボタン室からは、3人の刑務官が「1番」「2番」「3番」と書かれたボタンを前で、幹部職員の指示を待つ。

指示があれば、一斉にスイッチを押す。

そのうちどれかが、踏み板を開くスイッチだ。

執行する刑務官の精神的な負担は相当なものだろう。

「手が震えるほどの緊張感の中、執行されるのは許されない罪を犯した者だ、社会正義のためにやらないと、と自分に言い聞かせている。」

刑場公開を前に法務省幹部は「現場から寄せられた男性職員の声を読み上げた。

           ・・・


限定的な公開、疑問

諸沢英道・常盤大教授(被害者学)の話

裁判員制度で死刑に関わることになった市民が考える材料にしたいと言うが、比較的新しくきれいな東京拘置所の刑場をメディアに限定的に見せることで、どこまでその目的が果たせるのか疑問だ。

本来、刑事施設は国民に対しガラス張りにすべきもので、むしろ希望する市民には普段から刑場を公開すればよい。

ただ、死刑について議論すること自体は良いことだ。

犯罪被害者には逮捕から裁判、刑罰までの過程を知らせることが世界的な流れになっている。

死刑の執行に被害者遺族が立ちあうことも今後検討の対象になるだろう。


                ・・・


          (引用ここまで)


             *****




この記事も同じテーマです。


           *****



産経新聞 2010年8月27日


東京拘置所の刑場を初公開 「踏み板」部屋、刑務官の踏み板開くボタン部屋…

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/100827/trl1008271107002-n1.htm


法務省は27日午前、東京拘置所(東京都葛飾区小菅)の刑場を報道機関に公開した。

千葉景子法相の指示によるもので、国会議員の視察などを除いて、
刑場が公開されるのは極めて異例で、法務省が把握している限り、報道機関への公開は初めて。

千葉法相は刑場の公開をはじめ、死刑についての情報開示を進めた上で、

「死刑制度の存廃も含めた国民的な議論」を呼びかけている。

この日、公開されたのは、東京拘置所内にある2階構造の刑場で、
上階部分の立ち入りが認められた。死刑囚が首に縄をかけられた状態で立つ 「踏み板(刑壇(けいだん))」のある部屋のほか、

死刑囚が教誨(きょうかい)師と面会する部屋や、刑務官が踏み板を開くボタンを押す部屋、

検察官らが立ち会って、
執行を見届けるためのスペースなどが公開された。

一方、死刑囚の死亡を確認する下階の部分への立ち入りは認められなかった。

これについて、法務省は「遺体を扱う厳粛な場所」などと非公開の理由を説明。

また、実際に踏み板が開かれることはなく、死刑囚の首にかける縄も備え付けられていなかった。

千葉法相は先月、1年ぶりとなる死刑執行に法相として初めて立ち会った上で、

死刑制度の存廃を含めた在り方を検討する勉強会の設置と、
報道機関に向けた刑場の公開の方針を明らかにしていた。



         
        *****


平和な生活を一瞬にして奪われた被害者のご一家のお悲しみは察するにあまりありますが、

ご遺族がおっしゃっておられた「事件が起きた瞬間から、勝者はどこにもいない。」という言葉はたいへん深く、

それでも法の裁きがあるとしたら、それはなにをもたらすものなのか、改めて考えに沈んでいます。
コメント (3)
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過激で、懐が深い・・爆笑問題vs中沢「憲法9条を世界遺産に」(3・終)

2012-02-26 | 野生の思考・社会・脱原発
爆笑問題の太田光さんと、中沢新一氏の憲法9条をめぐる対談のご紹介の終わりです。

なかなか革命的な話だと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


        *****

        (引用ここから)


太田 ひとはなぜ右翼と左翼に分けたがるんでしょうね。どちらも自分の役割を意識した瞬間になにか捨てるものがあります。

右翼、左翼で分けてしまうことが、大事なことを見落とすことになるんじゃないかと思うんです。


中沢 太田さんが最近考えたり書いたりしていることを見ると、これは右翼が怒るなと思うところもあると同時に、じゃあ、それは左翼の理論かというとそれとも違う。

たぶんこれが「中道」なんでしょうね。

「中道」だから、右にも左にもいいなと言われる。

あるいは両方から文句を言われる。

その意味で言うと、「日本国憲法」はすごく懐が深い。

ある面とても過激なんですよ。

しかし過激でありながら、その過激さがバランスを産んでもいる。


中沢 「日本国憲法」に共鳴しているこの「中道」というものを明らかにすることができれば、混迷から抜け出る道がみつかると思います。


太田 それはたぶん世界中でできていないことですね。

中沢 できていませんね。

中沢 芸術と政治が合体した時に生まれた最大の失敗作はナチズムでしょう。

ナチズムの思想は、人間が人間を超えて行こうとした。

非人間的なものも飲み込んで、人間を前進させるんだという考えが、現実の政治とつながって行った時、途方もない怪物が生まれた。

ところが「日本国憲法」はナチズムとは逆のことを実行してきました。

この憲法自体、現実には存在しえないことを語ろうとしているわけですから、芸術に近いものだともの言えます。

日本は、それを政治の原理にしようとしてきた。

それが戦後の日本の保ってきたユニークさでした。


中沢 「日本国憲法」がどんなに問題をはらんでいたとしても、日本人の心に深く入っていくものがあった。

ぼくは、世界を変えたいという狂気じみたパラノイアを太田さんと共有しています。

ただ世界を変えようとする思想がひっかりやすい一番の罠が「平和」です。

この「平和」というやつを表現することがいかに難しいか。

戦争を語ることよりずっと難しい。

天国のことより地獄のことの方が表現しやすいものね。

しかし「世界遺産としての憲法9条」を究極に置いて、そこに映し出される自分たちの思想と表現を磨いていけば、今のような混乱から抜け出ていく道がつけられるんじゃないかと僕は確信しています。



「本書あとがき」より (中沢新一)

国家を生命体にたとえてみれば、生命体としての同一性を保つために、免疫機構を備えていなければならない。

自分と他者を見分けて、自分の内部に外からの異質な力や存在が侵入してこようとすると、国家はすぐさまある種の免疫機構を発動させて、これを自分の外に押し出そうとする。

その際にはしばしば、武力が行使される。

いずれにしても国家と戦争は切っても切れない関係で結ばれているのである。

ところが「日本国憲法」は第9条において、「いかなる形であれ、国家間の紛争解決の手段としての戦争を放棄する」と言うのである。

免疫機構の比喩で譬えれば、日本という国家はその機構の最深部分で、みずから免疫機能を解除しようと思うと語っているのと同じである。


自らの存在の深部に、免疫抗体反応の発動を否定しようとしてきたものが、この世には二つある。

一つは「母体」である。

女性の体は自分の身体の内に自分とは異なる生命体が発生してきたとき、異物に対して敏感に反応するはずの免疫機構を部分的に解除して、その異物を数カ月にわたって慈しみ育てる。

もうひとつは「神話」である。

神話はかつて人間と動物は兄弟同士であったと語ることによって、お互いの間に発生してしまったコミュニケーションの遮断と敵対的関係を思考によって乗り越えようとしてきた。

「憲法9条」に謳われた思想は、現実においては女性の産む能力が示す「生命の思想」と、表現においては近代的思考に先立つ神話の思考に表明されてきた「ディープエコロジー的思想」と同じ構造で出来上がっていることになる。


他のどこの国の憲法も近代的な政治思想に基づいて書かれたものである。

だから当然のことながら、そこには生命を産むものの原理も、世界の非対称性を乗り越えようとする神話の思想も混入する余地を残していない。

ところが我が憲法のみが、その心臓部に他のどの憲法にも見出せない尋常ならざる原理を背負っているのだ。

「憲法9条」を世界遺産の一つとして考えて見る時に、はっきりと見えてくるこの国のユニークさだけは明瞭に示すことができたのではないかと思う。


      (引用ここまで・終わり)


               *****


なにか、言葉にしがたいひとつの理想の世界があるような気がする。。

二人が語っているのは、そういういわく言い難い一つの「理想の地」の感触なのだと思います。


なぜ“それ”は、「懐が深い」と感じられるのか?

なぜ“それ”は「過激」だと感じられるのか?

なぜ“それ”に魅力を感じるのか?

その問題をみつめることで、今の文明を相対化できた時、別の形の文明の在り方を見出す可能性があるのだと思います。

その「理想の地」への旅をすることが、若者のつとめであったのは、、昔のことなのでしょうか?


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1万年の先住民の魂を引き継ぐ・・爆笑問題vs中沢「憲法9条を世界遺産に」(2)

2012-02-23 | 野生の思考・社会・脱原発
爆笑問題の太田光さんと中沢新一氏の対談集「憲法9条を世界遺産に」のご紹介の続きです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



            *****
   

           (引用ここから)


中沢 アメリカの建国精神も、アメリカ先住民の平和思想との合作であったとすると、いろいろと面白いことが見えてきます。

アメリカ先住民の、戦争と平和に関する思想というのは、環太平洋のいろんな民族が共通に持っていた考え方の中から、一つの理念を抽出したものになっています。

人間の世界には、憎しみもあれば不正もあり、戦争はいつでも起こる可能性がある。

アメリカ先住民は、戦争は無条件に悪だなどは考えてはいないんです。

そこには立派な戦士たちがいる。

気高い戦士の精神をもった人たちがいて、その上に立って、平和な世界を作りだそうとしていました。

こういう考えは環太平洋の諸民族に共通の考えでした。

戦争と平和についての古い考えを探って行くと、意外なところで「日本国憲法」に通じている考え方を見出すことになります。


「日本国憲法」の精神の底流を流れているものはそんなに表面的なものじゃない。

もっと大きな人類的な思想の流れなんだと思いますよ。


太田 今この時点では絵空事かもしれないけれど、世界中がこの平和憲法を持てば、一歩進んだ人間になる可能性もある。

それならこの憲法をもって生きていくのはなかなかいいもんだと思うんです。


僕らが闘うべき相手が何なのかは、分からない。

人間の作り出した神という存在なのかもしれない。

人の心に住む、何か他のものかもしれない。

その何かがいつも人間に突きつけてくるわけです。

人間はしょせん死んでいくものだ、文明は崩壊していくものだと。

でも、たとえそうであっても自分が生まれて死ぬまでは挑戦していくほうにベクトルが向いてないと面白くないと思うんですよ。


秩序と無秩序、最近はエントロピーと言いますが、この社会はエントロピーが増大していくものだという。

でも、僕としては、そうは思いたくない。

人間は秩序を構築できる生き物であると、少なくとも、生きる態度として示したいと思う。

その証が「憲法9条」だと僕は思っているんです。

太平洋戦争が終わったときに、アメリカと日本が「日本国憲法」で表現したことは、アメリカの世界の古典をこっちに引っ張ってきて、表現してみせたことだと思うんです。

それを今の人間の都合で作りかえちゃいけない。

それをするのは世界遺産に落書きするようなものです。



中沢 「日本国憲法」は短かい歴史しか持っていないようで、実は1万年規模の歴史をもった平和思想なんですね。

環太平洋の平和思想というものの最高表現だとも思っています。

アメリカ先住民の思想がアメリカの建国宣言に影響を及ぼし、その精神の中のかすかに残ったものが日本国憲法に生きている。

それが日本民族の精神性と深い共鳴を持ってきた。

そう考えれば、「日本国憲法」のスピリットとは、1万年の規模をもった環太平洋的な平和思想だと言っていい。

だから決して新しいものではないのです。


             (引用ここまで・つづく)


                 *****


wikipedia「イロコイ連邦」より

アメリカ連邦政府との関わり

イロコイ連邦は、アメリカの独立戦争に際しては英国側に与して戦ったため1779年に破れて、1794年にアメリカ合衆国連邦政府と平和友好条約を結んだ。

アメリカ合衆国国務省のパスポートを認めず、鷲の羽根を使った独自のパスポートを発行、同パスポートの使用はいくつかの国家により認められている。

国連も認める独立自治領であり、1949年にはイロコイ族代表団はニューヨークの国連ビルの定礎式に招かれている。

アメリカ合衆国が1917年にドイツに宣戦布告をした際には、イロコイ連合は独自の独立宣言を発行し、第一次世界大戦同盟国としての地位を主張している。

独立した国家として、FBIなど連邦政府の捜査権も及ばない。

イロコイの連邦制度自体、アメリカ合衆国の連邦制度の元になっており、アメリカ合衆国が13の植民地を州として独立する際に、イロコイ連邦が協力して大統領制を始めとする合衆国憲法の制定にも関係した、とする研究者は多い。

かつてアメリカ合衆国大統領は、就任に当たってイロコイ連邦を表敬訪問するのが慣習となっており、近年のジョンソン大統領まで続いた。

イロコイ連邦はそのヴィジョンをアメリカ合衆国に託するために協力を惜しまなかった。

1780年代の合衆国憲法制定会議には、イロコイ連邦や他のインディアン民族諸国の代表団が含まれていた。

イロコイはフランクリン(→アルバニー計画)や、ジェファーソンに影響を与えたのみならず、アメリカ合衆国の独立から憲法制定にいたる過程で具体的な示唆を与えていた。

共和主義と民主主義の高潔な原理に基づいたイロコイ族の国家組織は、ベンジャミン・フランクリンを含む多くの植民地指導者の関心を集めた。

18世紀中を通して、彼らの五カ国の自治システムの中心にあった共和・民主の両原則は、白人の男性支配の哲学のなか、より正当で人道的な政治手法を捜していたヨーロッパとアメリカの政治体に組み込まれたのである。

合衆国のハクトウワシの国章はイロコイ連邦のシンボルを元にしたものであり、合衆国憲法そのものも、言論の自由や信教の自由、選挙や弾劾、「安全保障条約」、独立州の連合としての「連邦制」など、イロコイ連邦から合衆国へと引き継がれたものである。



wikipedia「環太平洋火山帯」より

環太平洋火山帯は、太平洋の周囲を取り巻く火山帯のことで、火山列島や火山群の総称。

別名環太平洋造山帯とも言い、アルプス・ヒマラヤ造山帯とともに世界の2大造山帯とも言われる。

太平洋プレートを中心とする太平洋の海洋プレートが、その周辺の大陸プレートや海洋プレートの下に沈み込むことによって火山列島や火山群が形成された。

プレートの沈み込みに伴う物であるため、火山活動のほか地震活動も活発である。

太平洋プレートができた中生代以降に形成されたと考えられている。

日本列島やインドネシア、フィリピン、アリューシャン列島などの火山列島、またアンデス山脈、ロッキー山脈などが含まれる。

世界の2大造山帯ともいわれており、共に地震の多発地帯となっているが、環太平洋造山帯は火山を伴った活動が多いのに対して、アルプス・ヒマラヤ造山帯は火山が少なく褶曲が多い点が異なる。

基本的に、東太平洋では諸島、西太平洋では、大陸に付随する山脈を形成する事が多い。



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爆笑問題vs中沢 「憲法9条を世界遺産に」(1)・・言葉は世界を変えるためにある

2012-02-18 | 野生の思考・社会・脱原発



http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012021402000030.html
脱原発「グリーンアクティブ」 「格差社会に抵抗 国民戦線」

2012年2月14日 東京新聞朝刊

          ・・・・・

 文化人類学者の中沢新一氏らは十三日、東京都内で記者会見し、脱原発などに取り組む市民団体「グリーンアクティブ」の設立を正式に発表した。

中沢氏は「原発に依存せず、むやみな自由主義や経済格差に抵抗する人々の力を集め、現状の政治を変えていく」と設立趣旨を説明した。

 団体は「緑の日本」と称した将来の環境政党を目指す部門など、四部門で運営される。環境保護と経済成長の両立を目指した「緑の経済人会議」も置く。

具体的な政策では脱原発を柱に据え、消費税増税と環太平洋連携協定(TPP)の推進反対、熟議の民主主義の構築などを訴える。

 中沢氏は「格差社会を助長するTPPなどの政策に抵抗していく。政治や経済を上からの改革ではなく、右も左もない草の根の民意をくみ上げ、変えていく国民戦線をつくる」と強調した。

             ・・・・・


グリーンアクティブという政治組織を作って「日本の大転換」をめざすこととなった中沢新一氏ですが、大変意義深いことと思いますので、いろいろとご著書を読んでみました。

以下にご紹介するのは、お笑いタレント「爆笑問題」の太田光さんとの対談ですが、なかなか面白かったです。

「憲法9条を世界遺産に」というアイデアを発案した太田光氏と、中沢新一氏が敬意を込めて話し合っています。

二人の力量には何の差もなく、いい友人の楽しい会話という風で、読んでいても心地良さをかんじました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



      *****


        (引用ここから)


中沢  言葉の戦場を戦い抜くのは、ほんとうに難しい。

でも僕は今、多くの仲間たちに呼びかけたい。

言葉は世界を表現するためにあるのではなく、世界を変えるためにあるのだから、いま僕たちが
使っているこの言葉に、世界を変えるための力を取り戻してやろうではないか。


太田  平和の問題というのは、最終的には、人間の持っている愛とはなにかという問題に突き当たると思うんです。

愛が人類を破滅させる危険も十分にある。

愛がなければ戦争も起きませんからね。


 
中沢  あのナチズムの場合でさえ、血が結びあう共同体へのゆがんだ愛情が、ドイツ人をあそこまで連れていってしまった。

ほんとうに微妙なものなんですよ。

真理はいつも危険なもののそばにあって、それを求めると間違った道に踏み込む可能性の方が大きいんです。



太田  今の日本の風潮では、癒しという言葉が流行になって、愛情というものを履き違えていますよね。

人間の愛はもっともっと未熟で危ういものなのに、そうじゃないところに行こうとしているように見える。

誰かを憎んだり、傷ついたりすることはすごく人間的なことなんだけれど、そこを否定して逃げようとしているんじゃないか。

過去の戦争も忘れたふりをしている。

それじゃだめだろうと思う。

戦争や愛情から発生するネガティブな感情を否定することは人間そのものを否定することですよね。



中沢 未熟であること、成形になってしまわないこと、生物学でいう「幼形成熟」ということは、ものを考える人の根本条件なんじゃないですか。

矛盾を受け入れている思想はどこか未熟に見えるんですよ。

たとえば神話がそうでしょう。

神話にはちゃんとした論理が働いている。

しかしその論理は矛盾を受け入れて、その矛盾によって動いています。

そうすると未熟に見えてしまうんですね。

普通の大人はそうは考えません。

現実の中ではっきりと自分の価値付けを決めておかなければいけないという、立派な役目があるからです。

効率性や社会の安定を考えれば、そういう大人はぜひとも必要です。

僕も長いこと、お前はいつまでも未熟だと言われてきました。

しかし自分の内面にそう簡単に否定できないカオスがありますから、そのカオスを否定しないで生きて行こうとしてきました。


中沢 「ギフト」と言うドイツ語は、「贈り物」という意味と同時に「毒」という意味ももっています。

贈り物を贈って愛を交流させることは、同時に毒を贈ることだ、とでもいう意味が込められているんでしょう。

昔の人達は、この世界が矛盾でできていることを前提に生きていました。

だから矛盾を平気で自分の中に受け得入れていた。

絶対に正しいとか、純粋な愛情とか、そんなものは信じていなかったし、あり得ないと思っていたわけですね。

神話を通じて理想的な状況を考えようとしていた人々は、一方でとても現実的なものの考え方をしていた。

そういう思考法が、日本人には一番ぴったりくるんじゃないですか。

マッカーサーはよく言ったものです。
「日本人は精神年齢12才の子供だ」って。

12才といえばハリー・ポッターの年ですね。
その年頃の子どもはよく世界を凍らせるような真実を口にするでしょう?

日本人はそういう存在として人類に貢献すべきなんじゃないかな。



中沢  太田さんは「憲法9条を世界遺産に」というすばらしい発想をどんなシチュエーションで思いついたんですか?



太田  戦争していた日本とアメリカが、戦争が終わったとたん、日米合作であの無垢な理想憲法を作った。

時代の流れからして、日本もアメリカもあの無垢な理想に向き合えたのはあの瞬間しかなかったんじゃないか。

日本人の、15年も続いた戦争に嫌気がさしているピークの感情と、この国を二度と戦争を起こさせない国にしよう、というアメリカ側の思惑が重なった瞬間に、ぽっと出来た。

これはもう誰が作ったとかいう次元を超えたものだし、国の境界すら超越した合作だし、奇跡的な成立の仕方だと思ったんです。

アメリカは5年後の朝鮮戦争でまた降りだしに戻っていきますしね。



中沢 グールドという生物学者は、生物の進化は生物が競争して切磋琢磨している状態の中で行われてきたけれど、そういう抗争に入らないで、ゆっくりと成長を続けた生物、いつまでも“幼児型”を保ち続けた生物が哺乳類として後のち発展することになったと言っています。

日本国憲法に関しても、それと同じことが起こりうると考えるべきだと思っています。

太田さんの言うように、日本国憲法はたしかに奇跡的な成り立ち方をしています。

当時のアメリカ人の中にまだ生きていた、人間の思想のとてもよいところと、敗戦後に日本人の後悔や反省の中から生まれて来たよいところがうまく合体しているんですね。

ところが政治の世界でこんなことが起こるのはめったにないことなんですね。

政治の世界の常識が出現をずっと阻止し続けていた“子ども”がとうとう現れてしまい、それで世界は変わらざるをえなくなった。

そういうものを葬り去りたいという勢力は常に存在してきましたが、かろうじて今まで命脈を保ってきました。

もしこれを簡単に否定してしまうと、日本人は確実になにか重大なものを失うことになるはずです。


      (引用ここまで・続く)

   
        *****


wikipedia「幼形成熟」より

ネオテニー(neoteny)は、動物において、性的に完全に成熟した個体でありながら非生殖器官に未成熟な、つまり幼生や幼体の性質が残る現象のこと。幼形成熟、幼態成熟ともいう。

ネオテニーと進化論

進化論においてネオテニーは進化の過程に重要な役割を果たすという説がある。

なぜならネオテニーだと脳や体の発達が遅くなる代わり、各種器官の特殊化の程度が低く、特殊化の進んだ他の生物の成体器官よりも適応に対する可塑性が高い。

そのことで成体になるまでに環境の変化があっても柔軟に適応することができるとされる。

たとえば脊椎動物の場合、それに近縁な無脊椎動物として重要なものにホヤ類などがあり、それらでは幼生で脊椎動物の基本に近い構造が見いだせる。

このことから、そのような動物のネオテニーが脊椎動物の進化の始まりであったとの説が唱えられた。

しかし異論もあり、たとえばより似通ったナメクジウオに近いものを想定する説もある。

また、そのような現生の動物にこだわらなければ、ホヤの幼生の様な姿の祖先的動物がいたと考えた方が簡単ではある。



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先住民と大和魂・・谷川健一の「隠された物部王国・日本」

2012-02-15 | 日本の不思議(古代)
物部氏の謎を追う著作としては、民俗学者・谷川健一氏の著作もたいへん感動しました。

谷川健一氏の「隠された物部王国「日本(ひのもと)」という本をご紹介します。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

民俗学者特有の直感的な感性が、常識とは全く違う世界を見渡しています。


              *****


            (引用ここから)


日本国の使者に接した唐朝の記録「旧唐書」は、

「日本列島の東北部に倭人とは違う「毛人の国」がある」
と記しています。

本書にこれから紹介する白鳥伝説の舞台は九州西端から津軽半島の突端、さらに蝦夷・松前にまでわたっており、

そこには西から東へと日本列島を縦断する古代物部氏の大移動の歴史が深くからんでいます。

またそれは先住民である蝦夷と、後から来た天孫民族との闘争の歴史でもあります。


時代も弥生時代の2世紀から鎌倉時代後期の14世紀にまで及んでいます。

この10世紀を超える時間を、一つの意識が持続して貫流しております。

これは驚くに足りることと言わねばなりません。


その意識とは、縄文時代にまで遡り得る「蝦夷の誇り」でした。

このことを理解するためにはまず第一に、縄文時代から弥生時代への移行を社会の断絶とみなさず、主体は連続するものと考えることです。


日本の歴史は、天皇家の存在よりも古くからこの島国の中央部分を支配していた物部氏と蝦夷の歴史でもあります。

敗者としての彼らの歴史は抹殺され、日本という国号まで盗まれ、ばらばらに解体されました。

日本の歴史を時間的にも空間的にも、もっと深部において一つの文脈として捉えることが肝要だと思われるのであります。


「日本書紀」によりますと、神武天皇が東征した先にはニギハヤヒとナガスネヒコに率いられた強力な連合軍が待ち受けていました。

彼らは河内ヤマトの先住豪族でした。


ニギハヤヒが天降ったときに乗っていた「天盤船(あまついわふね)」の乗務員が「旧事本紀」に記されています。

「天盤船」は空から降って来たとなっているのに、そこに船長や舵取りの名が見えるのは奇異に思われるかもしれません。

しかし 「天盤船」というのは誇張であって、「盤」は固いという意味で、“波風に耐える堅牢な船”ということです。

ニギハヤヒ一行は水路を使い、大阪湾からヤマト川を上ってくさかべへ向かったのです。


わたしは“東遷”と“降臨”はおおいに関係があると考えています。

それが「日本書紀」や「旧事本記」の「神武東征説話」の中に反映されている。


すなわち、神武帝の東征に先立ってニギハヤヒが「天磐船」に乗って国の中央に降臨したことを認めている。

この“ニギハヤヒの東遷”とは“物部氏の東遷“という史実を指しているものとわたしは受け止めております。


ニギハヤヒの神を先祖とする氏族は、物部氏です。

物部氏がニギハヤヒを奉りながら、九州から東へ移った。

そしてヤマトに住みついた、という歴史的な事実が「日本書紀」の中のニギハヤヒの「天盤船」による降臨という説話に反映しているのではないでしょうか。


大和に先住民族がいたとは意外な話に聞こえるかもしれませんが、日本列島の中心であり要所である大和盆地が空き家で、そこに神武東征軍が入ってきたのだと考えること自体、歴史を無視した考え方ではないでしょうか?


ヤマトの国の支配者はもともとナガスネヒコでした。

これは「日本書紀」が認めている。

ナガスネヒコをヤマトの真の支配者たらしめたものは、ニギハヤヒ神であり、ニギハヤヒを奉る物部氏の権力が背景にあった。


物部氏は2世紀の後半「倭国の大乱」の時に金属工人と共に九州の筑紫平野から摂津・河内・和泉・大和へ移動したようです。

ニギハヤヒの魂を扱う物部氏が、どうして金属を精錬する工人集団と密接な関係を持っていたのか?

古代の戦争の場合には、武器は呪術をもって敵の魂を制するという特別の役割を持っていたからです。

また銅鏡は人間の霊魂を見る道具と考えられていたことから、霊魂を扱う物部氏にとって、青銅器は最も関係の深い道具に違いなかったと思います。


古代日本列島には、九州を中心とした「倭国」、近畿を中心とした「日本」、東北を中心とした「毛人の国」と、少なく見積もっても3つの国がありました。

ニギハヤヒは「大倭」を司る威霊を神格化したものですから、これがその身に入り来ると「大倭(やまと)」を得、これが去ると「大倭」を失うことになる。

ニギハヤヒが神武天皇に従ったために、ナガスネヒコは力を失って滅んだ。

ニギハヤヒの神を祀って、代々の主上の御身にその霊を鎮魂することを司るのが、霊部(もののべ)の職であったのです。


神武帝に服属した物部氏は天皇霊の他に、大和の国の神、その他の国々の魂を扱う有力な氏族として残ります。

そして天皇即位の時、すなわち大嘗祭には物部氏が天皇霊を著(しる)け奉るだけでなく、新しく服従した蝦夷や隼人などの種族の代表者も出て来て、大嘗祭を行ったのです。


「物部王国」と「毛人の国」を制圧し、大和朝廷がその国家態勢を確立したのは、天武・持統天皇時代あたりです。

最初は「村君」から始まり、国々を併合するにしたがって「オオキミ」の頂点に立っていった天皇の宗教的な司祭としての側面は今もって消えていません。


                (引用ここまで)


                *****


>日本の歴史は、天皇家の存在よりも古くからこの島国の中央部分を支配していた物部氏と蝦夷の歴史でもあります。

>敗者としての彼らの歴史は抹殺され、日本という国号まで盗まれ、ばらばらに解体されました。

>日本の歴史を時間的にも空間的にも、もっと深部において一つの文脈として捉えることが肝要だと思われるのであります。


なんと潔い文章だろうか、と思います。

わたしも少しでも後を追うことができたら、、と願っています。



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出雲の謎は日本の謎・・関裕二氏の「消された王権・物部氏の謎」の推理

2012-02-11 | 日本の不思議(古代)

梅原猛氏の出雲に関する大著を読んで、ますます古い日本の姿を見たいという気持が強くなりました。

特に、大和に先にいたとされる物部氏については、大いに考える必要があるのではないかという気がします。

また、日本人の魂の原形に辿り着くには、古神道と道教と密教のからまりあった紐を逆に辿ってほどいていくような作業が必要なのではないかと思います。


かつて出雲王国が存在していた、そしてその上にかぶさるように大和朝廷は成立した、という推定は、日本という国家がどのように成立したのか、というテーマそのものであると思われます。

成立期の日本史についてたくさんの論考を発表しておられる関裕二氏の「消された王権・物部氏の謎」を読んでみました。


アマテラス(天照大神)とオオモノヌシ(大物主神)は、どちらが本当の日本の太陽神なのか?

伊勢神宮の「心の御柱」は、なにを祀っているのか?

関氏の論考は、なかなか力強いものがあると私は思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


*****


(引用ここから)


“あいまいな日本“という言葉があるが、今日の日本がここにあるのは“あいまい”という叡智が日本を守り続けてきたからであり、さらにこれからの世界が生き延びるために必要不可欠なのが、この日本特有の“あいまいさ”ではないかとさえ思う。

なぜ“あいまいさ”が長所となりうるのか?

その答えは歴史に隠されている。


6世紀、日本古来の神道と新来の仏教をめぐる争いは、物部守屋と蘇我馬個の権力闘争となり、ついには武力衝突へと発展した。

結果は周知の通り、仏教推進派である蘇我馬子の勝利となるが、ここで奇妙なことがおこる。


宗教戦争に勝ちぬいたはずの蘇我氏が、神道に対する弾圧を行った記録がまったく残らず、以後二つの宗教は日本のあらゆる地で共存し、共に融合してゆくこととなるのである。


なぜ仏教は神道を駆逐せず、まるで同化するかのように土着化していったのであろうか?

一神教の世界から見れば、教義も教典もないこのような信仰は、原始的な宗教ということになろうが、多くの渡来人が流入した日本にとって、このような信仰形態をくずさなかったことが、逆に幸いしたと考えられるのである。



「日本書紀」が認めるように、物部氏は天皇家が登場する以前の大和の大王家であった。

そして大和朝廷成立後8世紀にいたるまでは、物部氏が重大な発言権を持ち続けたように、天皇家と物部氏という二つの王族は曖昧な形で共存の道を選んでいたのである。


ところが物部氏の衰弱後、物部氏は“鬼”のレッテルを張られ、歴史の敗者として神・天皇の対極に朽ち果てたのであった。

問題は物部氏を追い落とした大和朝廷が、これを完璧に滅ぼしたわけではなかったことにある。

それどころか、“鬼”となった物部氏はここからもう一つの日本=裏社会を形作ることで大和朝廷と対等に渡り合おうとしてゆくのである。

なぜ“鬼”と化した物部氏は神の子天皇を選び、逆に天皇は“鬼”の接近を許したのであろうか?

ここに“あいまい”な日本の行動原理が作用したとしか思えない。


天皇家最大の祭りとされる大嘗祭や伊勢神宮祭祀は、物部氏の祖神を祀る天皇家の秘儀である可能性が高い。

即位後最初の新嘗祭を大嘗祭といい、天皇家は8世紀以来この伝統行事を続けてきたが、この祭りの中では唯一物部氏のみが他の豪族には見られない形で祭りの中心に位置して来た。

最大の問題はどちらの祭りもその中心部分が“秘中の秘”とされ、厚いベールで包まれている点にある。

そしてそこに出雲あるいは物部と深い関係が見出せるのである。


天皇家はなぜ最も大事な祭りの神を秘密にするのか?

そして天照大神よりも格上の神とはいったいなにものなのであろうか?


伊勢神宮の“秘中の秘”は、「心の御柱」と呼ばれる奇妙な柱のことである。

20年に一度の遷宮に際し、この柱は祭りの最も重要な地位を占める。

ではなぜ「心の御柱」が神聖視されるのか?

そしてその理由が秘密にされているのか?

何もかも謎のままである。


出雲と物部が異名同体であったとする推理は、神社伝承から「日本書紀」の裏を読み説いた原田常治氏によって提唱されたものであった。

その著者「古代日本正歴史」には、物部氏の祖神ニギハヤヒが大和の三輪山の大物主神と同一であり、スサノオの第5子であったことが、いくつもの神社伝承によって証明され、

そればかりか日本の本来の太陽神は、皇祖神・天照大神ではなく、この大物主神であったという。


私見は、大筋で原田説を支持し、物部氏の祖神・ニギハヤヒと出雲神・大物主神を同一とみなす。

天皇家と出雲・物部氏との“闘争と共存”がすでに大和朝廷成立時からはじまっていたことを、「日本書紀」を記した8世紀の大和朝廷は抹殺した。

そのようなことが行われた原因は、8世紀初頭の物部氏の没落であろうが、なんといっても、物部氏の古代社会に占める大きさが、記録にとどめることができないほど巨大であったためであろう。

「古事記」に注目すると、崇神天皇が国の定まらないことを憂いて占ったところ、大物主神が夢に現れて神托を下したとある。

その結果、大和の三輪山の神大物主神を祀ることで治世を安定させたといい、

「大和を建国したのは大物主神であった」という、天皇家にとって屈辱ともとれる歌を自ら詠っていることは興味深い。


崇神天皇から始まった出雲神重視が天皇家の伝統となっていったように、物部氏は古代社会のもっとも重要な神道の中心に位置しているのである。

「もののべ」の「もの」は古代、“神”と“鬼”双方を表わしていた。

これは多神教・アニミズムからの流れであり、神は宇宙そのものという発想から導きだされた宗教観でもあった。

神は人に恵みをもたらす一方で、時に怒り、災害をもたらす。

このような神の両面性を、神道では「和魂」と「荒霊」とも表現するが、物部氏はその両方をあわせもった一族であり、神道の中心に位置していたと考えられる。


物部氏の伝承「先代旧事元紀」によると、

神武天皇の即位に際し、ニギハヤヒの子ウマシマジはニギハヤヒから伝わる神宝を献上し、神楯を立てて祝い、新木も立て、「大神」を宮中に崇め祀ったとある。

そして即位、賀正、建都、皇位継承といった宮中の重要な儀式はこの時に定まったというのである。


神道と切っても切れない関係にあった天皇家の多くの儀式が、ウマシマジを中心に定められたということである。

そしてウマシマジが神武天皇の即位に際し、宮中に祀ったという「大神」の正体が注目される。

大和の地で「大神」といえば、三輪山に祀られる大物主神をおいて他には考えられない。


大嘗祭で祀られる正体不明の神に視点を移せば、ここにも大物主神の亡霊が現れてくることに気づかされる。

天皇家の祖神に屈服し国を譲り渡した出雲神、かたや神武天皇の威に圧倒され国を禅譲した物部氏、このような「日本書紀」の示した明確な図式でさえ疑わざるをえない。

天皇家が“モノ”(鬼)を実際には重視し祀っていたことと明らかに矛盾するからである。

大和朝廷成立=神武の東征は天皇家の一方的な侵略ではなく、この時点で鬼(大物主神)と神(天皇家)の間には「日本書紀」や通説では語られてこなかった、もっと違うかたちの関係が結ばれていたと考えられるのである。


(引用ここまで)


*****


著者にはたくさんの著書がありますが、ほんとうにすごいエネルギーで一つのテーマを追求しておられると思いました。

前に見てみた梅原猛氏は「出雲王国の謎を解く」において、オオクニヌシの存在をはっきりと感じて、“出雲”というもう一つの日本の源泉、もうひとつの日本の姿を歴史の中に透かし見て、日本史を再編する必要を主張しておられました。

そのテーマを関氏の視点と言葉で要約したものが下の言葉になるのではないかと思いました。



>天皇家と出雲・物部氏との“闘争と共存”がすでに大和朝廷成立時からはじまっていたことを、「日本書紀」を記した8世紀 の大和朝廷は抹殺した。


著者はそのからくりを追及するために、たくさんの証拠を挙げています。

この本は実にスリリングな一冊だと思います。




Wikipedia「ニギハヤヒ」より

その他の説とし以下の説もある。

スサノオノミコトの子であり、大物主、加茂別雷大神、事解之男尊、日本大国魂大神、布留御魂,大歳尊と同一視する説

古代史ブームの火付け役と目される原田常治は、推論に推論を重ね、大胆に結論を断定する手法で、大神神社の主祭神である大物主、上賀茂神社の主祭神である加茂別雷大神、熊野本宮大社の祭神である事解之男尊、大和神社の主神である日本大国魂大神、石上神宮の祭神である布留御魂、大歳神社の主祭神である大歳神(大歳尊)と同一だとする。

学術的には大いに問題があるという意見がある一方、影響を受けた作家も多く、多くの読者に読まれてきた経緯もあり、古代史へのロマンを広げる説であるという意見もある。



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禊ぎ祓いと権力・・梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(8・終)

2012-02-07 | 日本の不思議(古代)
梅原氏の「葬られた王朝・古代出雲の謎を解く」を読んでみました。

筆者は「古事記」「日本書紀」は神話の書であると同時に、政治的な文書でもあると考えています。

当時の世界の政治的な様相を分析した目で、今度は出雲大社の建物の分析に入ります。



            *****


          (引用ここから)


出雲大社はいつ、誰によって、何のために、いかなる思想によって造られたのか。

平成12年(2000)に、出雲大社境内において巨大な柱根が発見された。

その柱は直系1・35メートルもあるスギの巨木を束ねて一本とした柱で、三本束ねると直系3メートルに及んだ。

出雲大社の本殿には、このような巨大な柱が9本建てられていた。


この出雲大社がいつ造られたのかは、はっきりしない。

「古事記」・「日本書紀」では神代の昔に日本の支配権をニニギに譲って黄泉の国の王となったオオクニヌシの宮殿として立てられたのが出雲大社であるとされている。

しかしこのような巨大な建築物が、弥生時代と思われる神代の時代に建てられたとは考えにくい。

神社が建てられたのは仏教の寺院が造られた後と考えられるが、日本最初の仏教寺院は蘇我氏が建てた飛鳥寺であり、それが完成したのは推古天皇の御代である。

とすれば、神社が建てられたのは推古天皇以後であるということになる。
 

        (引用ここまで)

 
             *****


出雲大社はいかなる建物かについて、山崎謙氏の著書「まぼろしの出雲王国」には別の見解が書かれていました。


            *****
 

              (引用ここから)



出雲大社はどうしてかくも高いのか?

そもそも神社建築はその発生から言って大きくする必要がない。

なぜなら神社の原初的形態は自然崇拝をベースにしたものだからである。


「古事記」・「日本書紀」で国譲りの代償として、高天原の宮殿のような建物を大国主神が要求したという点からも、出雲大社は通常の神社建築とは別のルーツを持つことを示唆している。

出雲大社は海に近い。

朝鮮半島や北九州から船で海流に乗って日本列島に沿って進むと、船は島根半島のほぼ西端の日ノ岬にぶつかり、出雲に到着する。


海の入り口の建つ高い建物・・それが出雲大社の元の姿ではないだろうか?

そう考えると、浮かんでくるのが灯台のような何らかの港湾施設である。

縄文時代のイメージをくつがえした青森県の三内丸山遺跡でも海に近い場所で巨木柱が出土し、柱の太さからかなり高い建物が立っていたことが想像されている。

出雲の場合、弥生時代にすでに海の入り口にあたる現在地に、灯台のような何らかの高い港湾施設が建っていたのではないだろうか?


それを裏付けるのは鳥取県の稲吉角田遺跡から出土した線刻絵画土器である。

土器には船になって櫓をこぐ人達の姿や、やぐらのような高層建築と長い階段が描かれている。

おそらく当時絵に描かれたような建物が存在したのだろう。

“高い”こと、それは出雲大社本殿に脈々と受け継がれたDNAとでもいうべき伝統といえるのではないだろうか。


            (引用ここまで)


             *****


出雲の地に縄文の響きを感じるとすれば、出雲大社という建築物については山崎氏のように考える方がいいのではないか、という気もします。

しかし梅原氏は出雲大社という建築物は、縄文時代からはるかへだたったヤマト朝廷の創建者たちの思慮遠謀によって建てられたという主張に傾いています。


            *****


           (引用ここから)


「出雲国造家系譜」では「続日本記」の引用に続いて、

「アマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれたアメノホヒの子孫と称する出雲臣が、それまで宇意平野の大庭に置いていた根拠地を、出雲平野のキズキへ移した」という記載がある。

「大庭の根拠地」とは、熊野大社あるいは神魂神社のことで、「キズキ」とは出雲大社のことである。


出雲大社の建造は、表面上は元正、元明天皇の成したもうた大事業であるが、その計画者およびその事業の実行者は藤原不比等であろう。

不比等は謎の人物である。

彼は自分の行った大事業をほとんどすべて用心深く隠した。

「大宝律令」および「養老律令」の制定、平城京への遷都、「日本書紀」の編纂も、すべて不比等を中心として行われた事業であった。

しかし目立つ立場の責任者はみな王子達にして、自分はほとんど表に立つようなことはしていない。

後世に残る巨大な神社建設である出雲大社の建造も、そして「古事記」の編纂も彼の仕事と見て
間違いないと私は思うが、彼はそれらすべてを隠したのである。

権力者が表面に立てば、いつ追い落とされるか分からない。

彼ははなはだ賢く、恐らく権威ある天皇の陰に隠れ、権力を振るい、日本が必要としている政治を大胆に行うとともに、自らの子孫、藤原氏の永久の繁栄を図ろうとしたのであろう。


それでは出雲大社は何のために、いかなる思想によって作られたのか?

出雲大社を作らせた神道は、いかなる神道であろうか?


それは「禊ぎ・祓い」の神道であったと言ってよかろう。

「古事記」もこのような「禊ぎ・祓い」の神道思想によって書かれているものと言える。

「古事記」においては天皇家の祖先神とされる最も尊い神アマテラス・ツクヨミ・スサノオは、共にイザナギが行った「禊ぎ」によって生まれている。

「禊ぎ」によって生まれた神など、世界のどこを探しても見つからないであろう。

アマテラスをはじめとする三人を「禊ぎ」によって誕生せしめていることは、「古事記」という史書に流れる思想を考える上で極めて重要であろう。


また「古事記」においては「祓い」の思想も重要である。

スサノオは自分の犯した様々な悪行の罪によって出雲へ退場させられるが、それを「古事記」は次のように記す。

「ここに八百万の神、共に議りてスサノオの命に千位の置戸を負せ、また髭と手足の爪とを切り、祓へしめて、神やらひやらひき」


まさにスサノオは「祓われた」のである。

「祓い」とは、流罪と同義であろう。

「千の置戸」というのは、罪をあがなう品物を載せる台であり、スサノオは自らの持つ財産をその台にすべて放出させられて、無一文になって追放された。

また髭や爪を切るという行為は、身体の一部を身削ぐ(みそぐ)、、まさに「禊ぎ」である。

このようにしてスサノオは高天原から出雲へ追放になるが、高天原で悪神であったスサノオが出雲では人々を苦しめるヤマタノオロチを退治するなど、善神に一変する。


いったいこの「禊ぎ・祓いの神道」はいつ、誰によって作られたのであろうか。

「禊ぎ・祓いの神道」を最もよく語るのは、「中臣祓」の祝詞と称される「延喜式」にある「六月のつごもりの大祓」の祝詞であろう。

そこで中臣がおごそかにこの祝詞を読むのである。

中臣は、天智天皇と共に蘇我政権を倒した鎌足の大功績によって初めて貴族の仲間入りをし、天智天皇の晩年に政治にも参加できるようにと新たに藤原の姓を賜った新興氏族である。

とすれば、この「中臣祝詞」と言われる「大祓の祝詞」は天智天皇以後、おそらくは「大宝律令」がなされた時に作られたと考えるのがもっとも自然である。

つまり藤原不比等は自らが作った「大宝律令」の精神を表わすイデオロギーとして、「中臣祝詞」を作らしめたのではなかろうか?

そしてそれによって政治は藤原、祭儀は中臣、という支配体制が固まったのではなかろうか?

藤原氏の権威が確立されてからは、そのような儀式は形式的なものになり、その後は廃止されてしまう。

このような「禊ぎ・祓い」の神道が、出雲大社が建造された時代の神道であるとすれば、出雲大社はそのような神道思想によって建造されたと考えねばならない。


スサノオは流罪にされ、オオクニヌシも前王朝の大王として死罪になったと考えられる。


ところで出雲大社は何のために建てられたのか?

「禊ぎ・祓い」の神道は、祓われた魂を鎮魂することを最も重要な神事とする。

前代の王朝、「出雲王朝」のスサノオ・オオクヌヌシは藤原不比等がもっとも手厚く祀った大怨霊神なのであり、

藤原不比等こそがヤマト王朝に敗れた出雲王朝の神々を出雲の地に封じ込めた張本人だと、私は思う。


出雲大社の建造は後世に誇るべき大事業であったと言える。

現在の約2倍の高さにあったこの長大極まる本殿は、何度か倒壊したが、その度ごとに再建され、鎌倉時代はまだそのままであったことが確認された。

江戸時代には本殿は約半分の高さになったが、それでも天皇の祖先神アマテラスの居ます伊勢神宮よりはるかに壮大な神社である。


中国では新しい王朝が誕生する度に前代王朝の歴史書が編まれた。

それには前代王朝の鎮魂という意味も含まれていたであろう。

日本最初の歴史書「古事記」と「日本書紀」も、中国の歴史書にならって日本の歴史を語り、前代の王朝の業績を讃美し、その上で現王朝が前代の王朝に代わらねばならぬ必然性を述べたものと思われる。

「古事記」においてオオクニヌシの国づくりの話が特に詳しく語られているのは、悲劇的な最後を遂げたオオクニヌシの怨霊鎮魂をひそかに行おうとしたからであろう。

出雲大社の建造は、この「古事記」に語られている前代の王朝の神々の鎮魂を具体的に示したものであると言えよう。


          (引用ここまで・終わり)


            *****


大変勉強になりました。

それでは神道の源流はどこにあるのか?、と問いたくなりますが、日本の歴史の大きな作りは見えてきたような気がしました。

著者の梅原猛氏はたいへん意欲旺盛にさまざまな文明の在り方を研究していらっしゃいます。

この本はかつて存在した出雲の大文化圏を、大和朝廷が葬り去り、無かったことにして神社にまつりあげて、新たに自分達の大和朝廷の視点から日本の歴史を改ざんして正史としたのである、ということを書いてありますが、他にも弥生文化に対する縄文文化、ヤマト文化に対するアイヌ文化、黄河文明に対する長江文明、とさまざまな視点から日本の原点をみつめておられます。

前の記事にもとりあげたように、原発による文明に対しては、脱原発の文明を支持しておられます。

日本の文化の源泉はどこにあるのか、という問いは、日本人のアイデンティティを探る試みであり、日本人である自分自身のアイデンティティを探る試みでもあります。

和魂洋才といいますが、日本人は器用で、多少の無理をしても相手の要求を受け入れて、事無きを得る性質がありますから、よほどの覚悟がないと、自分とはなにかが分からなくなってしまいやすいのではないかと思います。




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「古事記」は勤務評定?・・梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(7)

2012-02-02 | 日本の不思議(古代)
梅原氏は「日本書紀」「古事記」は誰によって書かれたのか、何を意図して書かれたのか、何を現わし、なにを隠しているのか、という問題を考えています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          *****


      (引用ここから)


●タケミカヅチについて


タケミカヅチはイザナギがカグツチの首を切ったとき、刀の根元についた血から生まれた神である。

この神はもともと血なまぐさい神であり、まさに武力の神なのである。

タケミカヅチはどこかで藤原鎌足の一面を宿しているように思われる。

藤原氏の祖先神が、祭祀のみを司るアメノコヤネだけでは困る。

人を殺した刀の血から生まれた血なまぐさいタケミカヅチとフツヌシも藤原氏の祖先神でなければならないのである。




●アメノコヤネについて


アメノコヤメはまちがいなく藤原氏=中臣氏の祖先神である。

アメノコヤネが最も活躍したのは、スサノオの乱暴に腹を立てたアマテラスが天岩戸に隠れた時である。

アマテラスを天岩戸から引き出すことを実行したのは、アメノコヤネをリーダーとする神事を司る神々であった。

しかし藤原=中臣氏は、どんなに贔屓目に見てもせいぜい序明天皇の世に朝廷に仕えた御食子(みけこ)の時代に歴史に姿を現したに過ぎない。

しかしその後中大兄皇子と共に蘇我入鹿を殺し、天智天皇の御世をもたらした藤原鎌足が現れ、一挙に成り上がった氏族なのである。

そのような氏族が「アマテラスの岩戸隠れ」及び「天孫降臨」の時に活躍するはずが無い。

これは明らかに神話偽造、歴史偽造と言わざるを得ない。


             (引用ここまで)


            *****


次に著者は「古事記」は誰がつくったのかという問題を考えています。


            *****


        (引用ここから)


「古事記」編集に携わったのは、稗田阿礼と太安万侶のわずか2人である。

太安万侶は父が壬申の乱で功績を挙げて世に出た帰化系の出身であり、決して由緒ある身分の役人ではない。

そしてもしも稗田阿礼がアメノウズメの子孫で、サル女氏の出身であるとすれば、このわが国最初の歴史書編集の大事業に、皇子および王はおろか一人も政府高官が参加していないことになる。

そうとすれば、天武天皇のお命じになった歴史書編集の事業と、「古事記」編集はまったく異なった精神によって始められたものであることになる。

太安万侶が「日本書紀」撰集に参加したことは「弘仁私記」などにも述べられ、「古事記」と「日本書紀」との密接な関係を考えるとき、太安万侶が「日本書紀」撰集にも関わったことは十分考えられる。



おそらく「日本書紀」は「大宝律令」と同じように、名目上は舎人親王を責任者とするが、実質的には藤原不比等を編集責任者として、太安万侶を中心とした多くは帰化系の歴史に詳しい優れた漢人を集めて作られたものに違いない。

そこには「記紀」の神代史の時代において実際に重要な役割を果たしていた大伴氏や物部氏や忌部氏などに属する高級官僚は誰一人として入っていなかった。

物部氏である石上麻呂はおそらく持統天皇のお心を思ったのであろう、和銅3年の元明天皇の平城遷都の後も持統天皇の愛し給うた藤原京にとどまっており、

そして天武天皇の御代に歴史書編集の仕事に参加した忌部氏に属する有力な政治家、忌部子首(おびと)は出雲守に任命されて都を留守にし、彼の得意な歴史書編集の仕事が宮中でひそかに行われていたことは夢にも知り得なかった。

奈良の都の政治は、藤原不比等の独断場であったのである。



そして編集に携わる人間の違いと共に、さらに重視すべきことは、天武天皇が編纂させようとした歴史書と、「古事記」という歴史書の内奥の違いである。


「古事記」および「日本書紀」において編集者が最も力を入れたのは「神代」であったと思われる。

なにせ「神代」においては諸氏族の祖先の功績がいろいろ語られる。

この神代において功績のあった神の子孫は当然、元明天皇当時の律令社会においても高官に就くことが約束され、

そこでまったく功績がないか、あるいは逆に天津神の日本支配に対して敵となった神々の子孫は、律令社会においてとても出世はおぼつかない。

いわば超古代の神代期において、末長い子孫の栄枯盛衰が左右されたのである。

そしてそこでは、藤原氏が独善的に「アマテラス・ニニギ王朝」の功労者とされていたわけである。


これは「諸氏の持っていた帝紀および旧辞の誤りを正し、公平なものを造れ」という天武天皇のお命じになった「詔」とは正反対の精神によって作られた歴史書と言えよう。


このような政治体制においては「古事記」のような、「藤原=中臣氏の祖先神などが、天皇家の祖先神であるアマテラスやニニギの日本の支配に貢献したほぼ唯一の神々である」、とされる歴史書が作成されても何ら不思議は無いのである。



「古事記」は「日本書紀」とは違って、神話の話に力点がある。

しかもその神話に出てくる神々は当時活躍していた氏族の祖先神であり、その祖先神の評価によって氏族の未来は左右されるのである。

神代において天津神の敵となった祖先神や何の功績もない祖先神を持つ氏族は、律令社会において繁栄の見込みが無いのである。


「古事記」は神話の名において諸氏の「勤務評定」をしたようなものである。

そしてその「勤務評定」において100点を取ったのは、藤原氏のみである。

このような「勤務評定」を行い、かつ藤原氏に100点をつけるのは、権力者、藤原不比等以外にはありえず、稗田阿礼と藤原不比等像は全く重なり、稗田阿礼すなわち藤原不比等と断定して差し支えないと、私は思う。


           (引用ここまで)


                *****


万葉集の歌を読むにつけても、古代の人の心のひだの深さ、感受性の陰影とそれを表現する言葉の用い方は今の人とほとんど変わりないように思われます。

当時の人々がなにを考えなにを喜びとしていたのかは、1200年の時の隔たりを感じさせません。

日本の歴史が記された始めの時に、すでに日本人の心理構造は隠しようもなく露わになっていたのだと思われます。

そうであるとすると、「古事記」「日本書紀」の神々の姿に、当時の人間の姿を重ね合わせることも奇妙なことではないのかもしれません。

このような歴史の解釈はいろいろな人が行っていますので、他の人の解釈も合わせて検討してみたいと思っています。




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