始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

“たましいの舟”・・神輿より古い神事・熊野(6)

2010-02-28 | 日本の不思議(古代)



澤村経夫氏が「熊野の謎と伝説」において描いている「熊野」を、もう少し見てみます。

*****

(引用ここから)

「日本書紀」上巻に「熊野諸手船(もろたぶね)」が登場する。

この「熊野諸手船」は、紀州の熊野ではなく、出雲の国美保に出現する。

現在でも美保神社の祭礼に、「熊野諸手船」が使用される。

熊野速玉神社の大祭にも、同じような諸手船が、祭船として使用されるが、

「熊野」と名がつく諸手船が、「出雲国」に忽然と現れるのはどんな意味があるのだろうか。


島根県八束郡八雲村には、「熊野」という地名がある。

そこに「熊野神社」があり、昔は出雲大社と肩を並べるほどの尊崇があつく、出雲の両大社と称せられた。

また九州の国東半島にある「熊野摩崖仏」などを取り上げていくと、「熊野」とはなにを意味するのか分からなくなる。

(引用ここまで)


*****

「諸手船」とは何かと見てみると、丸木をくりぬいた舟であることがわかりました。

「諸手船」の祭礼は、出雲の地で行われるのですが、「熊野諸手船」と呼ばれてきたというのです。

なぜ、出雲にありながら、熊野という名がついているのか、わからない、と著者は述べています。

“熊野”というのは、地名ではなく、全く異なる何かを指しているのではないかという思いから、著者は言葉を続けています。


Wikipediaによれば、丸木舟は次のようなものです。


***

諸手船(もろたぶね)は、島根県松江市美保関町の美保神社の神事に用いられる刳舟である。

1955年(昭和30年)2月3日に重要有形民俗文化財に指定された。

年に一度、12月3日の神事以外は境内に安置され海に浮かぶことのないこの諸手船は、およそ40年に一度造りかえることを旨として受け継がれてきた。

古くは、一本のクスノキの巨木を刳りぬいた単材刳舟だったとされ、現船はモミの大木を使い刳りぬき部材を左右に継ぎ複材化した刳舟である。

しかしいずれにしろ丸木舟とされるものであり、且つ現船は、保管されている古船や絵図に残されている明治時代の二世代前のものよりも太い木を使い、古式の技法に則り、いわゆる技術のゆりもどしも見受けられる。

昔の装束をまとった氏子9人が、二艘の諸手船に乗りこみ対岸の客人社の麓と宮前の間を櫂で水をかけあいながら競漕し、舳先に挿した「マッカ」と呼ばれる飾りを神社に奉げるのを競いあう。

また、和歌山県新宮市新宮の熊野速玉大社の御船祭で使用する諸手船は和歌山県の有形民俗文化財に指定されている。


***

では、この丸木舟による祭りは、どのような祭りであるのでしょうか。
同書には、和歌山の方の祭礼が、次のように描写されています。


         *****


(引用ここから)

和歌山県新宮市の熊野速玉神社の「御船祭り」は秋祭りで、毎年10月16日に行われる。

神輿が熊野川に達すると、神幸船に神輿を移す。

この船には金爛の帆をあげ、二本の吹き流しを立て、舳先に五彩の稚児像と、「一つ物」が乗船する。

すると熊野側の対岸の“鵜殿”から、「烏止野(うどの)」の旗を立てた「諸手船」が着く。

神幸船は「諸手船」にひかれて、熊野川をさかのぼり、御舟島をまわる神事である。


神幸船の元型は南北朝末期に作られた。
神幸船は、神輿(みこし)などと機を一にする比較的新しい祭りの形態である。

神幸船に乗る「一つ物」は、別名“ショウマンサマ”と呼ばれる。

馬の背に乗せられた青年姿の人形は、本来の神が乗り移った「よりまし」と称するご神体である。

神輿(みこし)という新しいハイカラな祭りの形式が一種の流行で、いつの間にか本来の主人公の御神体が神輿の従者となってしまった。


新宮市の近くの蛭子(えびす)神社でも、御神体の大幡(おおはた)が神輿のお供になってしまった。

「神輿が海を渡れなくとも、大幡が海を渡ることができると、祭りが終わることが出来る」との言い伝えがそのことを明瞭に物語っている。

この様に考えると、「神幸船」は後世に作られたもので、「諸手船」が本来の神の座船であったはずである。


「諸手船」は新宮の対岸の“鵜殿”から出るが、同時に20人の“諸人(もろと)と称す船人が乗船する。

その舳先に、一人の女装した男子が立つ。

赤い頭巾を長くたらし、赤い衣に黒タスキと黒帯をしめた女装の男が、手に櫂をもって、意味不明の“ハリハリセー”と言いながら、舳先で踊るのである。

この奇怪な、しかも祭りで重要な役目を果たす赤衣の人が、なんの固称もつけられず、何の役目かも分からぬまま、遠い昔より受け継がれている。

ある人は「諸手船」を出す“鵜殿”の村のある滑稽で器用な婦人が即興の舞踏としておこなったのがはじまり、と説をなすが、そのように簡単に片づけてよいのだろうか。

神主がお顔張(おこわばり)で口鼻をかくして、神霊をお移しするような、古い行事がそのまま受け継がれている格式高い熊野速玉神社の大祭に、後世の即興の踊りなど、付け入るすきがあるとは思えない。

この赤い頭巾と黒い帯とタスキに、何かの深い意味が込められているのではないだろうか。

口にするのもおそろしい不吉の神、たたりの神、それゆえにないがしろにできず、祀らねばならぬ理由があるはずである。

柳田国男は、赤不浄は女性の血の忌み、黒不浄は死の忌みだと述べている。

熊野では人が死ぬと「死」の言葉をおそれて、「ようなかった」というように、口にするのも恐ろしい神であるために、その伝承が忘れ去られたのではなかろうか。

(引用ここまで・続く)


        *****


wikipedia「舟渡御(ふなとぎょ)」より

船渡御(ふなとぎょ)とは、祭礼などでの神事の一つ。

渡御の一種で、神体や神霊を船に乗せて川や海を渡す。
広義には、その船を送迎する神事も含む。
一般的には、神霊の移った神輿を船に乗せて行われる。


Wikipedia「神幸祭」より

神幸祭(しんこうさい)は、神霊の行幸が行われる神社の祭礼。

多くの場合、神霊が宿った神体や依り代などを神輿に移し、氏子地域内への行幸、御旅所や元宮への渡御などが行われる。

神輿や鳳輦の登場する祭礼のほとんどは、神幸祭の一種であるといえる。

神幸祭は「神の行幸」の意味で、広義には行幸の全体を、狭義には神社から御旅所などの目的地までの往路の過程を指す。

後者の場合は目的地からの神社への復路の過程に還幸祭(かんこうさい)という言葉が用いられる。

神幸祭・還幸祭と同じ意味の言葉に渡御祭(とぎょさい)・還御祭(かんぎょさい)という言葉があり、渡御祭も広義には行幸(渡御)の全体を指す。

本来は、神霊を集落内の祭壇に迎える形であったものが、祭壇が祭祀の施設として神社に発展すると、迎える行為が逆の過程の里帰りとして残り、神幸祭が行われるようになったと考えられている。

このため、磐座などの降臨の地が御旅所となり、現在では元宮や元の鎮座地である場合が多い。

御旅所に向う神幸祭のおおまかな流れは

1. 神輿などに神霊を移す神事
2. 神社から御旅所への渡御
3. 御旅所での神事や奉納(御旅所祭)
4. 御旅所から神社への還御
5. 神霊を還す神事

であり、この過程が数日間に及ぶ場合もある。

2や4の過程において、氏子地域内を巡幸する場合が多い。

御旅所などに向わない場合には、神霊が氏子地域を見回る、或いは、ある特定の場所で神事などを行うために行幸される。


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火祭りは、たたらの火か?・・天狗が荒れるお燈祭り(熊野・5)

2010-02-21 | 日本の不思議(古代)
熊野の壮大な火祭り「お燈祭(おとうまつり)」が行われるのは、熊野速玉大社の摂社である神倉神社です。

神倉神社はたいへん古い神社で、熊野三山の中で最も古い神社だということです。
Wikipediaには次のようにまとめられています。

*****

神倉神社

創建

神倉神社の歴史的な創建年代は128年頃と考えられているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある。

『古事記』『日本書紀』によれば、神倉神社は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あめのいわたて)の山であるという。

このとき、天照大神の子孫の高倉下命は、神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏(ヤタガラス)の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている。

熊野信仰が盛んになると、熊野坐神が諸国を遍歴した末に、阿須賀神社に鎮座する前に降臨したところであるとされるようになった(「熊野権現垂迹縁起」)。

この記述に従えば、熊野三所大神がどこよりも最初に降臨したのはこの地であり、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院とも称された。

また、熊野速玉大社の運営にあたった修験者の集団・神倉聖(かんのくらひじり)が本拠地としたのもこの神社である。


境内

山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす方言)と呼ばれる巨岩がご神体として祀られており、この岩の根元を支える袈裟岩と言われる岩の周辺には経塚が発見されており、祭祀具・仏具などの遺物が多数出土している。

この経塚のさらに下層の地層からは、銅鐸片や滑石製模造品が出土している。

立地と出土品の様式から、経塚築造の際に銅鐸が破壊されたものと考えられることから、神倉神社の起源は、磐座信仰から発した原始的な自然信仰だと考えられている。

そうした自然信仰のかたちを現在に伝えるとともに、熊野信仰の最も古い層に関係しているという点で貴重な神社である。

現在は社務所に常駐の神職は居らず、熊野速玉大社の境外社の扱いである。

御朱印や御札などは熊野速玉大社の社務所で取り扱っている。
御朱印には「熊野三山元宮」と記載されている。



*****


この神倉神社の火祭りについて、澤村経夫氏の「熊野の謎と伝説」に貴重な一文がありました。
以下抜粋して引用します。


*****


(引用ここから)

熊野地方史研究会発行の「熊野誌」にあった報告。
神倉神社のお灯祭りのすでに断絶した伝承として、明治2,3年ごろの話として収録されたもの。

聖さまを知る人により書かれた「火をきる聖」と「天狗が荒れる」からの引用。


・・・・・


聖さまは49日の間、山にこもり、水だけを飲んで断食し、満願の日が「お灯祭」の日であった。

へとへとになった聖さまは、社家衆(シャケシ)の方にささえられて、清水の湧く谷におりて、赤土でにごった水を飲んだ。

こうして生き返った聖さまは、神倉神社の参道の途中にある「中の地蔵」というお堂の中で、古式によって火をきった。

火をおこしたのである。


お堂の前の薪火にその火が移されると、鐘が鳴り、それを合図に山の下の大鳥居の前に待っていた「上り子」たちは、どっと駆け上がり、その聖火を自分の松明に移し、山頂のゴトビキ磐の拝殿の中に閉じこもる。


「上がり子」たちは松明を差し上げたまま全部、この籠りお堂の中に押し込められた。

シャケシが大とびらを閉める。

とたんにそれまで夜空をこがしていた松明の光が消えて、神倉山は黒一色につつまれる。


突然、全山を揺るがす大音響がとどろく。

雷鳴か、落雷か、籠り堂の「上がり子」も山麓の見物衆も一瞬恐怖におそわれて、シーンとなる。

その轟音は初野地辺まで聞こえた。

・・・


天狗様が荒れる。

この怪音の秘密は、地蔵堂の中にある。

その中には一体三面の異形の三面大黒が安置されていた。
聖さま以外の誰も拝んだことがない。


天狗は現代の私たちから見れば、想像の産物であるけれど、昔の新宮の人たちにとっては、「天狗荒れ」は恐怖の大音響であった。

今日ではこの「お灯祭り」は毎年2月6日、速玉大社の前を、鉾を先頭に、御幣、宮司、祭員と、神倉山に行列で進むが、その中に長さ一間半の迎火松明を持っている者と、「まさかり」をもった者がいる。

この「まさかり」は、鍛冶神としての高倉下命を示している貴重な一つの証拠である。

行列は神倉神社に着き、神前で斎火を迎火松明につけて中の地蔵に下り、そこで待つ「上がり子」の松明に火が着けられる。

「上がり子」たちは、神倉神社の門内に登って、閉じ込められ、介錯(かいしゃく)人の手で門が開けられる。

松明を手にした「上がり子」たちは、いっせいに石段をかけおりて、火の竜となるのである。


神倉山の「お灯祭り」は49日前の聖さまの断食から始まっているのであるが、その神事の中心は「火をきる」ことにある。

松明をつけた「上がり子」が駆け下りる「お灯祭り」のクライマックスは聖火を家に持ち帰るための行事にすぎない。

(引用ここまで)


*****


この本の著者は、熊野の火祭りの“火“は、太陽信仰というよりは、古代の製鉄技術と関連があると考えています。

そして熊野の歴史全体を、製鉄という火起こしの技術を持った者の系譜として考えています。

天狗が荒れる山であったという神倉山。

太陽と火と鉄と、、熊野の地が秘める途方もなくプリミティブなエネルギーが噴き出しているように思います。

澤村氏の「火=たたらの火」説を、もう少し見てみたいと思います。

また


>天狗は現代の私たちから見れば、想像の産物であるけれど、昔の熊野新宮の人たちにとっては、「天狗荒れ」は恐怖の大音響であった。

といった描写は、わたしが感じるホピ族のありようととても近いものです。

いろいろな観点から、熊野の地の習俗は大変興味深く思えます。



和銅博物館HP たたらの話
http://www.wakou-museum.gr.jp/tetsu1.html


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破魔矢は、「浜」の矢だった・・海の精霊と弓神事・熊野(その4)

2010-02-14 | 日本の不思議(古代)
続きです。
萩原法子さんの「熊野の太陽信仰と三本脚の烏」の紹介をします。


熊野は古代、太陽信仰を持つ場所であった、と考える著者は、的を打つ(扇祭)ということと、的を矢で射る(大島の水門祭りのお的)ことには、共通した何かがある、と考えています。

扇の的を射る、というと、平家物語の那須与一を連想しますが、矢が放たれ、的を打ちぬく神秘性と、打ちぬかれた扇があでやかに舞い散るイメージがとてもよく似合っているように感じられます。

このような、武術とは異質な「的」と「弓」の組み合わせが、日本各地にもあると、著者は指摘しています。

それは新年の神社の弓行事で、近い距離から座って的に矢を当てて、そのあと的をこわしてしまう「奉射」「おびしゃ」という行事です。

著者はこの行事を各地に見て回り、そこにヤタガラスが描かれているたくさんの事例を発見しています。


先月の新聞に、そのような新年の弓行事=“おびしゃ”が行われた、という記事がありました。

http://mainichi.jp/area/kanagawa/news/20100108ddlk14040265000c.html

・・・・・

奉射祭:新春の神事 五穀豊穣を占う--小田原・白髭神社 /神奈川

 小田原市小船(おぶね)の白髭神社(中村瑛(あきお)宮司)で7日、正月神事の「奉射(ぶしゃ)祭」があり、新年のの五穀豊穣(ほうじょう)の吉凶を占った。

 八百余年の歴史があるとされる市指定の無形民俗文化財。

神社とかかわりの深い小宮家当主の正雄さん(61)と分家当主の幹生さん(43)が交互に7本の矢を20メートル離れた的(直径約2メートル)へ放ち、的中数で吉凶を占う。

今年は4本で「昨年は3本だったので、今年は『吉』」と中村宮司。

 最後の矢が放たれた後は続いて「的破り」。

境内の椿の木で作られ、的の上部につるされた「ツバメ」と呼ぶ3個の鳥形を、小学生7人が取り合った。

ツバメは厄よけになると言われ、3個以外にも全員分が用意されており、参拝客がうれしそうに持ち帰った。

・・・・・・


小田原では、ヤタガラスではなく、ツバメになったようです。

このように各地で、鬼になったり、ねずみになったりするのですが、その元型には、かつて法隆寺の玉虫厨子に描かれていたようなヤタガラスとうさぎが対でいることが追跡できると、著者は考えています。



正月の弓神事の由来について、真弓常忠氏は「神道祭祀」という本で次のように述べています。
以下抜粋して、引用します。


       *****

(以下引用)

1月15日の小正月の前後には、各地で弓神事が行われる。

歩射祭、奉射祭、おびしゃ、など種々に呼ばれているが、俗に「ハマ弓」、「ハマ矢」と称する。

一般には弓射は狩猟をかたどるところから、狩猟文化の名残と見るのが常識であるが、はたしてそうかどうかは検討の余地がある。

というのは、弓神事は海岸の村村、神社に多いからである。

宮廷では正月17日に行われた。

起源は、「仁徳天皇12年7月条に、高麗国より鉄の楯と的を貢し、これを射通した者にスクネの名を賜った」との記事がある。

天武天皇9年にも射礼のおこなわれたことが見え、その頃から恒例化したことと察せられる。

住吉大社では、弓のあとに、“くぐつ”のことが見える。

“くぐつ”、つまりあやつり人形のことで、平安後期11,12世紀ごろより始まり、中世に流行したが、その源流は海人族(あま)が宮廷に寿詞を奏上した呪術的芸能から派生した「ほがいびと」」に求められる。

“くぐつ”そのものは、中国から伝来した技芸であるが、それを受け入れた素地には“まれ人“が呪詞を奏し、主を祝福するという呪術的行為があり、それを異国人である“くぐつ”の行うことになったものということができる。

“くぐつ舞”は安曇の磯良(あずみのいそら)の伝説と関係があり、海の精霊が祝福していることを表わす海人族(あま)の呪術的芸能である。

伊勢、志摩の海岸や島には、弓神事がすこぶる多い。

浜島の宇気比(うけひ)神社の弓引神事は、正月11日に行われるが、祭典の後、「盤の魚(ばんのいお)」と称してボラ2尾を調理する。

弓射のあと、子どもが集まって的を破る。

破った的は浜で焼き、最後の矢は沖に向かって放つ。


答志島でも、旧正月17日に行うが、矢は弓にくくりつけてあり、射ても矢は弓を離れない。

射手は射る所作をして、弓と一緒に矢も握ってしまう。


いかにも呪術的な動作であるが、そこに弓神事のもっとも原初的な形がうかがわれる。

元来が、的に命中させることを目的としたものではないことが知られる。


少なくとも弓神事が、海浜・しょ島に多く伝承され、魚の包丁式を伴ったりしているところから見て、どうしても狩猟文化というより、海を生活の舞台としている人々、すなわち海人族(あま)に固有の儀礼と考えられる。

してみると「ハマ矢、ハマ弓」は単純に「浜矢」「浜弓」としてよいことになる。

ただし、鎌倉時代以降、武技としての流鏑馬(やぶさめ)が、八幡系の神社を中心として行われるようになって、「ハマ矢」は「破魔矢」の意をもつことになったのであろう。

        (引用ここまで)


     *****




新年に行われた福井の弓行事の新聞記事です。

http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/local/CK2010010402000167.html

     ・・・・・

魔よけや大漁願い込め3本矢放つ 美浜・早瀬で新春の伝統行事 (1月3日)


 新年を迎え、今年1年の無病息災や豊漁、家内安全などを願う伝統行事が美浜町内各地で行われた。

地区の住民が昔と変わらぬ伝統の作法にのっとり神事を営んだ。

 早瀬では3日、150年以上続くという「浜祭り」が行われ、魔よけや大漁などの願いを込めた3本の矢が力強く空に放たれた。

 矢を射る神事を担当する「代祝子(ほうり)」を務めたのは中川速雄さん(71)。

10年ぶり2度目の大役のため11月から練習を重ね、神事に備えて大みそかから日吉神社にこもって身を清め、祭りに挑んだ。

 中川さんは狩衣(かりぎぬ)姿で登場し、裃(かみしも)を着た地区の代表者らを引き連れて200メートルほど離れた漁港へ移動。

厄や病気などを追い払う「悪魔矢」を海に向かって1本、商売繁盛や大漁を願う「祝い矢」2本を陸に放った。

見守る住民からは「今年はよく飛んだな」などと声が上がり、大きな拍手が送られていた。

 この後「沖の堂」と呼ばれる建物内で、伝統行事「堂の講」も営まれた。

昨年、代祝子を務めた寺澤成一さん(64)が、堂内を飛び回りながら思いつく限りの魚の名称を挙げた。

最後に供え物の魚などに網をかぶせ、大漁を祈願した。

・・・・・


wikipedia「弓矢」呪術としての弓矢より

御弓始め - その土地の一年の豊作を占う神事で、神社の神主や神官が梓弓で的を射抜きその状態で吉凶を判断した。

御結(みけつ)・弓祈祷(ゆみぎとう)・蟇目(ひきめ)の神事、奉射(ぶしや)の神事ともいわれる。

祭り矢・祭り弓 - 五穀豊穣を願い行われる日本各地にのこる神事や祭り。

上記の御弓始めと同じであるが、射手は神職ではなく、その地域を代表する福男などが行う。

弓祭(ゆみまつり)・弓引き(ゆみひき)神事ともいわれる。



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カラスと太陽と海・・熊野の太陽祭祀と扇祭(その3)

2010-02-07 | 日本の不思議(古代)
引き続き、萩原法子さんの「熊野の太陽信仰と三本脚の烏」を紹介します。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

著者は、前回に書いた「扇祭」の原点を求めて、様々なテーマを見ています。


たくさん書かれている事例の中から、ごく少しの部分を選んでいるので、著者の考えの全体はとても説明しきれませんが、著者は、祭りや伝承として自ら語り出す熊野を、とらえようとしています。

著者の感じるところでは、原初の熊野は、海にも山にも太陽信仰をささげている人々です。

その太陽信仰のごく素直な表現が、ヤタガラスであると考えています。

ヤタガラスは中国、朝鮮経由で日本に伝わったと思われますが、太陽に住む霊鳥として、太陽をあがめてきた古代日本の人々のこころにまっすぐに入ってきたと考えられています。

また、カラスが太陽に向かって一直線に飛んでいくように、光輝く太陽のシンボルは“山のてっぺん”“一番高い所”にあるもので、それとは一直線な交わりをしなければならないと考えられています。


熊野那智大社の「扇祭」に見られる6メートルの高い神輿に存するものは、太陽の霊そのものであり、それをヤタガラス帽をかぶった宮司が“打つ”ことで、いったん壊され、そしてまた新たな命が吹き込まれることを望む、という感性は、海岸部の祭りや神事にも共通して見られるとされています。


串本・水門神社の新年の「お的神事」に見られるように、矢で的を射て、古い太陽を一度打ち落とし、新たな太陽を迎えいれる、洗い替えの行為のパターンは、日本人の非常に古い心性ではないかと推察しています。

ヤタガラスは見えたり隠れたりしながら、それらあらゆる古代的な熊野の文化に織り込まれている、と考えられています。



           *****


(引用ここから)


果たして熊野三山すべてにこうした太陽信仰があり、熊野の神が太陽神であると言えるかどうかを次に見てみよう。


熊野那智大社の主神は「夫須美(フスミ)神」といい、イザナミノミコトでもあるとされる。

熊野本宮大社の主神は「家津御子(ケツミコ)神」といい、スサノオノミコトでもあり、
熊野新宮大社の主神は「速玉男(ハヤタマオ)神」といい、
イザナギノミコトでもあるとされる。

三社のフスミ(=ムスビ)、タマ、ケツミコの神がイザナミ、イザナギ、スサノオとして理解されたのは、熊野信仰が朝廷貴族の間に浸透し、中央社会の神と結びつけて理解されたからであるが、

もともとの神、ムスビ、タマ、ケツミコはどのような神であったのか、を考えなければならない。


皇位の継承を「アマツヒツギ」と言い、継承者を「ヒツギノミコ」という言葉があるが、「ヒツギ・日嗣」とは魂の系諸であるとともに、太陽(日)=時間の継承でもある。

現在でも、出雲大社の宮司(出雲国造)は国造としての資格を得るには、「出雲国造の霊継」という神事を経ねばならない。


宮司は、出雲にある「熊野大社」へ参向し、「熊野大社」の神器、ヒキリウスとヒキリキネで、神聖な火をキリ出して、斎食を調整し、「熊野大神とあいなめ(ともに食す)する」ことにより、新国造となれるのである。

古来、出雲国造は連綿と代変わりの時には、「熊野大社」へ参拝している。

「ヒツギ」や「キリビ」の行事(で熊野が重視されることは)は、熊野の神が太陽神であることを物語っている。



熊野の最南端、潮岬の潮岬神社の神域には、太陽祭祀の遺跡があった。

そこは「高塚の森」と言われる場所で、潮岬の南端、黒潮が流れる雄大無比な光景が眼前に広がっている。

森の中に直径60メートルの封土があり、中央に三段の巨石の磐座(いわくら)がある。
この磐座は、夏至の日の出と深くかかわるという。

この「高塚の森」は、地元では応神天皇の家来の墓との伝承があったが近年、遺跡が発見された。


潮御崎神社の近くに「入り日のガバ」と呼ぶ洞窟があり、それは西向きで夕日が差し込むという。

沖縄の「太陽の洞窟・テダガガマ」と同様に、「入り日のガバ」は「太陽が沈み隠れる洞窟」(そこから地底を通って朝には再び東に現れる)だったのではないだろうか。

潮岬は本州の最南端に位置し、太陽に最も近づくことができるし、それを遮る何物も無い場所である。

今でこそ太陽祭祀といえば伊勢に集約されているが、伊勢神宮はあくまでも天皇の守護神として祀られたものである。

伊勢に太陽祭祀が移る以前は、潮岬を中心として串本、大島一帯に太陽信仰の一大拠点があったようだ。

こうした信仰の中から、熊野の太陽神としてのヤタガラスが生まれてきたのであろう。

そしてそのカラスを「岬カラス」とか「お岬」と呼ぶのは、こういった背景があってのことであろう。



串本沖の大島の水門(みなと)神社の小正月の例祭、水門祭りでは、境内で「お的の神事」がある。

裃をつけた弓頭2人が宮司から弓を授かり、大きな的を射る。
その後、“鶴”とよぶ海岸に行く。

そして前日建てられた「お山」のまわりを三回めぐる。

「お山」は正月に使用したしめ縄、榊、門松などを各戸から持ち寄ったものと椎の葉で、高さ5,6メートルの四角錐に作ったもので、椿の花と短冊をつけた竹を頂上に結ぶ。

さらに広げた日の丸三本を円形にし、その真中に神鏡をつけたものを、海に向けて、山中に設置したものである。

的を射終わると、子ども達が的の取り合いをし、的は壊す。

この水門祭りの「お山」は、てっぺんの神鏡に新生した太陽を迎えるための“造形物”であると言ってよいのではなかろうか。

かなり素朴な形ではあるが、むしろその故に那智の「扇神輿」の元型とみなすことができる。



熊野には有名な船祭りが多い。

船が古来より神霊の乗り物とされていたことは、古代の「天の鳥船」からも知られる。

わかりやすい例では、装飾古墳に船の絵が非常に多いことである。

中には福岡県の鳥船塚古墳や珍敷塚(めずらしづか)古墳のように、船の舳先に鳥が停まり、その上に太陽が描かれている図もある。


鳥は日の神の使いであり、船は日の神の乗り物とされる。


日本書紀の国譲りの神話には、熊野諸手船亦名鳩船(くまのもろたぶねまたのなをはとぶね)とある。

諸手船は古代の船をかたどった船(丸木舟)で、多くの手櫂をもって漕ぐ。


熊野速玉大社の「御船祭」では、諸手船は神輿船を先導して熊野川を上り、御船島に向かう。

諸手船に乗り込み、櫂(かい)を操る役を担う“鵜殿”の人々は、「自分たちは神武天皇を案内したヤタガラスの子孫だ」と自負し、「烏止楚浦」と記した幟を船に立てる。


(引用ここまで)


         *****


写真は夫須美神座像・「別冊太陽・熊野」より


「うきは市HP」
屋形古墳群(珍敷塚・原・鳥船塚・古畑)・写真あり
http://www.city.ukiha.fukuoka.jp/hp/page000000400/hpg000000355.htm

「串本町大島・水門祭りHP」・写真あり
http://genkikushimoto.com/event/kiioshimaminatomatsuri/05.htm


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