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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

追悼・三笠宮殿下・・(再掲)死んでよみがえるのが、王の務め「古代エジプトの神々」(3終)

2016-10-29 | エジプト・イスラム・オリエント


三笠宮殿下ご逝去を悼み、2013年に当ブログにご紹介させていただいた殿下の研究書「古代エジプトの神々」を再掲させていただきます。

3回記事の3つ目です。

日本の天皇制の由来も含め、何事も広い視野で相対的に捉えようとした、博学で心根の広い殿下のご冥福を、お祈り申し上げます。


               *****

             (再掲ここから)





「エジプトのオシリス(3)・・死んでよみがえるのが、王の務め」
                        2013-02-04 | エジプト・イスラム・オリエント



引き続き三笠宮崇仁殿下著「古代エジプトの神々」を紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****


              (引用ここから)


神から王が授かった霊力も、永続的なものではなかった。

王の霊力が衰えると、農作物が不作となるし、天災地変が起こると信じられていたから、そのような現象が生じると王の霊力が失われたとみられたのである。

フレーザーの大著「金枝篇」の主題がまさに王の霊力が低下したために殺される、いわば社会制度としての「王殺し」であり、この問題が古代社会においていかに重大なことであったかが納得できる。


日本の天皇とても例外ではなかった。

即位の際に行われた大嘗祭で授かった霊力は、毎年行われる同様の儀礼「にひなめのまつり」(新嘗祭)によって更新された。

今日では、新嘗祭は11月23日の夕から翌朝にかけて、皇居内の「神嘉殿」で天皇自らとりおこなう。

そこは普段は空き家であり、これは農家の収穫儀礼で田の神をお迎えするのと全く軌を一にしている。

大嘗祭または新嘗祭は、五穀豊穣の原動力と考えられた天皇の霊力の継承、または更新であったから、単に皇室だけの祭儀ではなく、むしろ全国農民の悲願実現のための農耕儀礼であったのである。


エジプト王も同様の目的のために「ヘブ・セド」と呼ばれた祭儀をおこなったことが記録されている。

最初は毎年の行事だったかもしれないが、現在の資料では即位30年に行ったとされている。

この「セド祭」における特殊の行事は、「ジェド柱」を建てる儀式で、それはオシリスが死から奇跡的に蘇った神話の再現、すなわち王の霊力の復活を願って行われたのであろう。


このようにオシリスは復活神と信じられたから、顔は緑色で描かれた。

古代エジプトでは緑色は植物の色であり、生命発生の色であり、そして善を産む色とされていた。

それゆえオシリスは「偉大な緑色」という称号さえ与えられた。

ただしオシリスは一度死んだのであるし、冥界の王となったのであるから、その体は白色の死衣をまとったミイラの姿をもって表されるのを常とした。

ホルスとして現世に君臨したエジプト王も、死ねば冥界に赴いて、父のオシリスと合体すると信じられたのである。

古代エジプトでは来世への吸引力が強く、古代日本では現世の吸引力が強いという特色を持っていた。


              (引用ここまで)



(写真は左向きに座っているオシリス神。緑色の顔と、白いミイラ状の衣服をまとっている)


                *****



吉村作治氏の「ファラオと死者の書・・古代エジプト人の死生観」という本にも、「セド祭」のことが書かれていました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



                *****



              (引用ここから)


「セド祭」の起源は古く、農耕文化がはじまって「王」という身分が現れた頃にまでさかのぼるとされている。

日本でも、農耕儀礼として最も古いものの一つに、「新嘗祭」がある。

稲の刈り入れが終わった頃、刈り取られて死んだ稲の霊を復活させ、次の年の豊穣を祈るというもので、これと同じように、古代エジプトでも、穀霊を象徴化したオシリス神の再生・復活の神話がある。

そのオシリス神はまた、王権の象徴でもあり、死したオシリスはオシリス神となって来世に復活すると信じられていたように、

古くは王の活力そのものが大地の豊穣に影響すると考えられ、健康を害したり、年老いて活力のなくなった王は殺され、若く活力に満ちた王の即位が求められるということがなされてきたのである。

ちなみに、日本の天皇もまた、稲の能力を宿すものとしてあり、皇位が継承されるときには「大嘗祭」をもって稲の霊を新天皇のもとでよみがえらせるという。

ところで、文化程度が向上していくにしたがって、この「王殺し」の風習は儀式の中で処理されるようになり、長期にわたって統治してきた王の活力を、儀式を通して回復させることを目的とするようになる。

王は象徴的、形式的に殺され、若返り、活力を取り戻して、再び即位するという「王位更新」のための儀式に変わっていった。

そしてエジプトに統一王朝が興った頃には、すでに「王位更新」の儀式として確立していたのである。


「セド祭」は、ナポレオンの発見したロゼッタストーンのギリシャ語碑文では「30年祭」と訳されるように、王の在位30年目に、第1回目が行われ、以降は3年ごとに繰り返される。

祭の開催にあたっては、まず儀式のための建築群が用意された。

サッカラのジェセル王のピラミッドコンプレックスの一角に、「セド祭の中庭」と呼ばれる、王が生前行ったと思われる「セド祭」用の建築群の石造模型が作られているが、実際の建物は石で造られることはなかった。

古代エジプトでは現世の生活に関係する建築物は、王宮をはじめとしてすべて、王の死や儀式が滞りなく終了したときには取り崩せる泥レンガなどの素材が用いられたため、現存しない。


祝祭日の前夜には、王の死を象徴する行為として王の像が埋葬される。

当日は、まず王の「疾走の儀式」が行われる。

走ることによって、自らの活力を証明して見せるのである。

そして、祭壇の上に設けられた玉座に座り、上下エジプトの各州の守護神を前にして、上エジプトの神々の前で上エジプトの王としての白冠を戴き、下エジプトの神々の前では下エジプトの王としての赤冠を戴く。

こうして若返った新王が誕生するのである。


しかし、祭の性格も時代が下がるにつれてさまざまな儀式が加えられ、王位の更新というよりは王の長寿を祝い、今後の繁栄を願うというものが中心になっていった。

臣民から王へ、多くの献上品が奉納され、王からもねぎらいの品々が下されるということが行われた。

また、本来は「セド祭」とは関係のない「大地の豊穣を祈願する儀式」や「聖牛アピスの巡礼」、「収穫祭」「ジェド柱の建立」といったものが、付け加えられていったのである。

中でも、「ジェド柱の建立」は、オシリス神を象徴する「ジェド柱」を建立するという行為によって、一度死んだ穀霊の再生・復活、すなわち王の再生・復活を表す儀式、王に新たな生命と繁栄、健康、喜びなどをもたらす儀式として、新王国時代以降重要視されるようになった。


                (引用ここまで)


                 *****


ジェド柱というものは、よほど大切なものと考えられていたようで、「オシリスの脊髄」という表現もされているようです。

走ることの神聖さは、アメリカ・インディアンのロンゲスト・ウォークや、ナスカの果てしなく長いライン、インカの祭りの勇気試しのマラソンなどにも示されていると思われます。

オリンピックも本来は聖なる儀式であったと思われます。





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などあります。(重複しています)


             (再掲ここまで)

               *****
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追悼・三笠宮殿下・・(再掲)大嘗祭との類似「古代エジプトの神々」エジプトのオシリス(2)

2016-10-28 | エジプト・イスラム・オリエント




三笠宮殿下ご逝去の報を聞き、ご冥福をお祈り申し上げ、3年前にご紹介した殿下の研究書のご紹介を続けさせていただきます。
3回記事となります。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****


             (引用ここから)


「エジプトのオシリス(2)・・大嘗祭との類似」
                2013-01-31 | エジプト・イスラム・オリエント



引き続き、三笠宮崇仁殿下の「古代エジプトの神々・・その誕生と発展」を紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                   *****


                 (引用ここから)


日本の皇位継承の諸儀式の中で、最も重要なのが「おほにへのまつり(大嘗祭)」である。

一般的には、天皇が、新穀(米と栗)や、新米で造った白酒と黒酒、その他の神饌を天照大神はじめ神々に供え、天皇もそれらを頂く「神人共食儀礼」と言われている。

確かにそれは事実である。

この祭の起源は、日本に稲作が伝来した時までさかのぼるはずであるが、当時の記録はないから、古事記や日本書紀にある神話を媒介としてそれを求めねばならない。

この祭では、神座が二か所に設けられること自体が珍しいが、ことに第一の神座はきわめて特殊である。

まず「八重畳」が敷かれ、その南端に「坂まくら」が置かれ、「おふすま」(御衾)がかけられる。


「ふすま」とは、夜具である。

この夜具に関連する記録としては、日本書紀に天照大神が「真床追衾を以って・・“あまつひこひこほのににぎのみこと”に覆いて、降りまさしむ」というのがある。

神話では「ひこほのににぎ」の親は「おしほみみ」であるし、子は「ひこほほでみ」である。

つまり、これら三代の神名に共通しているのが「ほ=穂」である。

とすると、古典の記事は、「稲魂の入った稲穂」が「ひこほのににぎ」という人格神となって天から下ったことの象徴であろう。

そうなれば、第一の神座は、「ほのににぎのみこと」つまり「穀霊」が天から下るドラマの舞台だったと考えられるが、そのドラマがどんなふうに演じられたかは今では知るよしもない。


以上の仮説においても、そのドラマの主役が「穀霊」だけとは言えない。

神話で「ほのににぎのみこと」の子孫が日本の天皇となっているから、そこには「祖霊」が加わっていると見なすべきであり、それが従来いわれた「天皇霊」であろう。

そして新帝がそれを身に着けることこそ、即位の諸儀礼の中でもっとも重要だったに違いない。

また「第二の神座」というのは、新帝が十柱分の神饌を供するためのものであった。


エジプトの場合も、「穀霊」オシリスの「種」をイシスが受けて、ホルスが生まれ、ホルスは新王となった。

言い換えれば、ホルスは「穀霊」と「祖霊」とを継承して即位したのであり、エジプトも日本も、古代における王位継承のパターンは類似していたと思われる。


                    (引用ここまで)


                      *****



鳥越憲三郎氏著「大嘗祭・新資料で語る秘儀の全容」を読んでみました。

大嘗祭という日本古来の神事を、世界的な視野で考えておられます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



                    *****


                   (引用ここから)


再生の場としての「寝座」

大嘗会の中でも、大嘗宮における儀礼については、厳重に秘事として口外することが禁じられてきた。

「寝座」は、なにを意味するものであったのだろうか。

もと大嘗会は新嘗祭にもとづいてつくられ、天武朝に起源するものと思われるが、大宝令で大祭として制定されて以後、天皇権の宣揚に伴って、幾多の変革をもたらした。

「日本書紀・神代の巻」に載せる神話は、7世紀末から8世紀初頭にかけての政治・社会を反映してつくられたものであろうが、その神話をはじめ、初期天皇紀の中に、重大な事件を「新嘗の日であった」とするものが多く見られる。


上代の新嘗会には、儀礼の中で床に臥すことが必要であった。

床に臥すことは、死の擬態を意味し、死して後、神としてよみがえるためであった。

稲穂が刈られることで「穀霊」は死に、冬至において復活すると考えられたのも、同じ思想に基づくものである。

そのため冬至に行われていた新嘗祭、その後の大嘗祭においても、「穀霊」の復活を促す歌が歌われながら、新穀は臼でつかれた。


「死して後蘇る」思想は、世界に普遍的にみられるもので、古代や未開社会に見られる「首狩り」も、本来は農耕儀礼として行われていたもので、

殺された人間は神として復活し、その一年間、農作物の豊穣と人々の安寧を守ってくれると考えられていたものである。


そうした「首狩り」が、中国の解放時まで、雲南省に住むワ族に伝わっていた。

その起源は古く、紀元前の雲南に栄えた国の王墓から出土した多くの青銅製の神殿や貯貝器などに、殺された人間を神として祀る情景が生々しく表現されている。

その後裔であるワ族も、首を聖杯で神として祀る。

そのワ族をはじめ雲南・四川・貴州に住む多くの少数民族を、日本人と祖先を同じくするものとみる説を提唱している者であるが、彼らは農耕神として復活した神を「蛇神」とみており、それは紀元前から続いている。


我が国でも、「田の神」を「蛇神」とする信仰が伝わっている。

愛知県の国府宮神社では、江戸期の中ごろまで仕事始めの1月11日に、旅人を捕えていけにえにしていた。

このほか長野県の諏訪大社や福岡県太宰府の観世音寺でも、同じく氏子や旅人を殺して神として祀った。

これらは古社古寺であったために伝承されたもので、古くは広く行われていたものと見てよい。


すなわち「人間犠牲」は、村ごとに、部族ごとに行われていたであろうが、王者となる者は「死して後神としてよみがえる」思想に基づいて、物みな復活する「冬至」の「新嘗」の日に「床に臥す」所作により、神性をもって再生したことを、一般民衆に示そうとしたものと考えられる。

王や酋長は、宇宙の至高神である「日の神」の子孫であるという思想、すなわち日子思想は世界のあらゆる民族に見られた。

        
              (引用ここまで)

    
                *****

                ・・・・・

wikipedia「首狩り」より

「首狩り」は人間を殺し、首級をあげる事を中心とした古い宗教的な慣行のひとつ。

台湾原住民、インドネシア、オセアニア、インド、アフリカ、南アメリカなどで広く見られた慣習であるが、今日ではほとんど消滅したと言われる。なお、古代のスコットランドでも行なわれていた。

自身の所属する集落以外の(時に敵対関係にある)人間を殺害し、切断した犠牲者の首級を持ち帰る。

頭骨の保存に重点が置かれる場合、頭蓋崇拝と呼ばれることもある。

理念

諸説ある。一説では、基本的な理念として人間の頭部に霊的な力が宿るという信仰が根底にあり、その力を自分のものにし、操作しようとする呪術的、宗教的な行為として生まれた行為である。

他方、豊作や豊漁・豊猟を確保するための首狩、死者に他界で使える者を確保するための殉死的首狩、また戦闘での勲功を証明するために首級を持ち帰る首狩(首取)、勇気を示し一人前の青年として結婚可能である能力を示すための首狩、復讐としての首狩、神意を知るための首狩、など首狩の理念には非常な多様性が見いだされる。

首狩りの風習があった部族

エクアドルアマゾン上流のヒバロ族   首級を乾首 (ツァンツァ) に加工していた

フィリピンルソン島のボントック族、イフガオ族、ティンギアン族  祭りの一環として行われた

ボルネオのダヤク族、イバン族   結婚するための条件として首級を手に入れる事があった

南アメリカエクアドル領のヒバロ族   死者を弔う為の葬式の一部として実施された

台湾のアタヤル族(高山族)   成人式の一部として実施された

インドネシアセレベス島のトラジャ族   多産や豊穣の儀礼として行った

ミャンマー北東部のワ族   春の播種期に豊作祈願の行事として首狩りを行った

               ・・・・・


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追悼・三笠宮殿下・・(再掲)「古代エジプトの神々」エジプトのオシリス(1)王権の由来と植物

2016-10-27 | エジプト・イスラム・オリエント

三笠宮殿下がお亡くなりになったと知りました。

3年前に殿下の「古代オリエントの神々」のご紹介をさせていただいたことを思い出し、再掲してみます。
3回記事となります。

博学で開かれた心根をお持ちだった殿下のご逝去を悼み、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

                ・・・・・

              (再掲ここから)




「エジプトのオシリス(1)・・王権の由来と植物」
                2013-01-24 | エジプト・イスラム・オリエント



古代アンデス文明が文字を残さない文明だったのと対極的に、エジプト文明は饒舌なほどに文字の文明だったと思われます。

古代の神聖王、古代の宗教国家という性質からは、二つの文明は似ているところがあるように感じます。

エジプト文明の中の死と生を調べてみたいと思いました。

最初に、三笠宮崇仁殿下の研究書「古代エジプトの神々・その誕生と発展」から、オシリス神話の一解釈を紹介します。

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                *****



                (引用ここから)


エジプト人は非常に古い時代から季節感を抱いていたようである。

一年中ほとんど雨が降らないから、季節のヒントは何といってもナイルの増水であった。

農作業と関連して、一年は三季、すなわち「増水季」、「出現季」、「欠乏季」に分けられていた。


「出現季」というのは、洪水が引いて土地が現れる意味であるが、減水後、撒いた種子から芽が出る時期でもある。

「欠乏季」は言うまでもなく、収穫後から次の増水までの乾燥期である。


そもそもオシリス神話は、農耕生活の中から生まれていた。


本来オシリスは穀物・・それは穀霊によって生を得、成長し、実を結ぶ物・・であった。


また、セトは暴風を象徴していたと考えられる。


その裏付けは、ずっと後代にエジプトにやって来たギリシア人がこのセトを「テュポーン」と名付けたことにある。

それはギリシア神話に出てくる怪物の名であるが、ギリシア語で「テュポーン」というと「激烈な風」を意味している。

今日我々が用いている台風の英語の「タイフーン」の語源でもある。


そうするとセトがオシリスを殺すのは、暴風雨が実った穀物をばらばらと地上に吹き散らすありさまを描写していると言えるし、また、オシリスが蘇生するのは撒き散らされた穀粒から発芽することを象徴的に表現していると受け取れよう。

この見解を補足するのはオシリスのシンボルの「ジェド柱」である。

これは大変古い時代から伝わっているので明確な説明は困難だが、本来は植物の茎を束ねた柱だったらしい。

上方に横棒があるのは、その柱に結び付けられた麦穂を表していると見られる。

そうすると、この柱が農耕儀礼に用いられたことは確かであり、「ジェド柱」には穀物のエネルギー、つまり穀霊が宿っていたことになる。

そして「ジェド柱」を表す記号は、安定とか永続とかを願う護符に用いられるようになった。


エジプトでは非常に古く「セペト」という行政単位ができた。

聖刻文字では「灌漑用の水路」を表す文字を用いている。

ギリシア人がこれを「ノモス」と呼んだので、今日もその呼称を用いることが多いが、本書では「県」と訳しておく。

その県が北エジプトに20、南エジプトに22形成されたことが知られており、前者は北エジプト王国の、後者は南エジプトの王国の基盤となった。


オシリスは「アネジェドに住む者」と呼ばれたが、その地名は北エジプト第9県の呼称であり、その中に「ジェドゥ」という都市があった。

おそらくオシリスのシンボルである「ジェド柱」と関係があったのであろう。


同地はまた、「ペル・オシリス」(オシリスの家)とも呼ばれたので、ギリシア人はそれをなまって「ブシリス」と呼ぶようになった。


                 (引用ここまで)


                  *****


オシリス神話が農耕に関わる神話であるという説は、初めて知りました。

オシリス神話を巡っては、さまざまな解釈がなされてきましたから、この説だけが正しいかどうかは分かりません。

でも、非常に古い由来をもつという「ジェド柱」に、オシリス神話の原点を見るという一つの解釈は、とても面白いと思いました。




wikipedia「オシリス」より

オシリスは、古代エジプト神話に登場する神の一柱。

オシリスとはギリシャ語読みで、エジプト語ではAsar(アサル)、Aser(アセル)Ausar(アウサル)、Ausir(アウシル)、Wesir(ウェシル)、Usir(ウシル)、Usire、Ausareとも呼ぶ。

イシス、ネフテュス、セトの4兄弟の長兄とされる。

王冠をかぶり、体をミイラとして包帯で巻かれて王座に座る男性の姿で描かれる。

同神話によれば生産の神として、また、エジプトの王として同国に君臨し、トトの手助けを受けながら民に小麦の栽培法やパン及びワインの作り方を教え、法律を作って広めることにより人々の絶大な支持を得たが、これを妬んだ弟のセトに謀殺された。

尚、この際遺体はばらばらにされてナイル川に投げ込まれたが、妻であり妹でもあるイシスによって、男根を除く体の各部を拾い集められ、ミイラとして復活。

以後は冥界アアルの王としてここに君臨し、死者を裁くこととなった。

その一方で、自身の遺児・ホルスをイシスを通じて後見し、セトに奪われた王位を奪還。

これをホルスに継承させることに成功。

以降、現世はホルスが、冥界はオシリスがそれぞれ統治・君臨することとなった。

ただし、この神話はエジプト人自身の記述ではなく、ギリシアの哲学者プルタルコスによる「イシスとオシリスについて」に基づくものである。

オシリスの偉業は武力によらずエジプトと近隣の国家を平和的に平定し、産業を広めた古代のシリア王をモデルにしているとされる。

神の死と復活のモチーフは、各地の神話において冬の植物の枯死と春の新たな芽生えを象徴しており,オシリスにも植物神(もしくは農耕神)としての面があると見られる。

右図にあるように肌が緑色なのは植物の色を象徴しているからだといわれる。

古代エジプトの墓の遺跡に、彼の肖像が描かれたり、その名前が記録されているのはそのためであり、当時の人々の死生観に彼の存在が大きく影響していたことの現れであろう。



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ああ、エルサレム、エルサレム・・「ノアの大洪水」のパラドックス(3)

2015-12-30 | エジプト・イスラム・オリエント


あと一日で大晦日ですね。

ご縁をいただき、この一年、お読みくださいまして、ほんとうにありがとうごさいました。

来年も、どうか 引き続き、お読みいただけますよう、お願い申し上げます。

皆様の、幸多き 新年を 祈念 申し上げます。






引き続き、ノーマン・コーン氏の「ノアの大洪水」のご紹介を続けます。


              *****


           (引用ここから)

人類は事実、生き残った。

これらの工夫のおかげで、人間は大洪水がもう起こらないと確信できるようになった。

洪水後の世界では、洪水以前の混乱が繰り返されることはなくなり、また誤った対策を繰返されなくなった。

地球には安定したバランスが確立された。

そして神々の側でも、教訓を学んだのである。




聖書の物語が、メソポタミアの物語をモデルとしたものではることに疑いの余地はないとしても、両者の意図は、これ以上に違うものはないほど、違っている。

メソポタミアの物語では、人類をおそった災害は、まったく不当に重いものであった。

それは人間の罪深さによって引き起こされたのではなく、神々の短気と無分別によって引き起こされたのである。


ヤハヴェは、エンリルとはまったく違う。

たしかに彼も同じように無慈悲で、同じように人類を皆殺しにしようと決心した。

しかしヤハヴェは、神の打ち立てた法が守られないことに激怒した審判者として、行動している。

そしてヤハヴェは、神々の首長ではなく、唯一の神である。


「旧約聖書」が、伝説上の素材を集め、それを編集した人々の作品であることは、ずっと以前から認められてきた。

作成にあたったと考えられている収集者・編集者の4つのグループのうち、2つのグループが「大洪水」の部分に貢献したと考えられている。

ヤハヴェ記述者にあたる、ドイツ語から「J」として知られる者と、「祭司」を表す「P」として知られる者の2つである。

「J」と「P」との貢献は、組み合わされている。

「J」も「P」も、メソポタミアのモデルに多くを負っており、両方とも、このモデルを作り替えようとしている。

この物語を貫いている価値観は「P」のものであって、それは特定の歴史的文脈を示している。


というのは、「J」の時期は今なお議論されているところだが、「P」が仕事をしていた時期は分かっているからである。


それは、紀元前550年から450年の間である。

このことは、現在我々が知っている「大洪水物語」は、「バビロニア捕囚」の間か、あるいはこの経験の衝撃の下に作られたということを意味する。

それは絶望的な経験であった。

紀元前597年にバビロニアの王がエルサレムを占領したとき、王とその家族、その他あらゆる住民の大部分は、バビロニアへ移住させられた。

数年後、エルサレムの城壁は破壊され、ソロモンの寺院は焼け落とされた。


4世紀にわたって支配してきたダビデ王朝は、ついに途絶えた。

国家は崩壊し、

ユダ王国は、制度的独立の一かけらまで失った。

この災厄の経験は、〝世界秩序そのものの崩壊”と受け止められた。


予言者エレミアは、エルサレムの廃墟を見つめながら、太初の混とん状態へ戻ったありさまを見ていると感じた。

         ・・・

わたしは地を見たが

それは形がなく、 またむなしかった

天をあおいだが、 そこには光がなかった

わたしは山を見たが、みな震え もろもろの丘は動いていた

わたしは見たが、人はひとりもおらず

空の鳥は みな飛び去っていた

         ・・・


こういう文脈のなかで、聖書の「大洪水物語」は解釈されなければならない。

古代近東の文献では、侵略や征服はふつう、神の命による嵐や洪水に象徴化される。

ここでもそうである。



洪水により、荒れ狂う水を抑えるために神が取り付けた「防壁やドア」は破られ、その結果宇宙は混とん状態となる。

ユダとエルサレムと寺院の破壊は、そのことを意味していた。

正義の人ノアとその家族は、その正しさゆえに災害から逃れた、少数のイスラエル人を表しているにちがいない。

それは「旧約聖書」によくあるように、世界にたいする神の意図を実現するために助けられた「残された者」である。

そして「P」の人々は、流浪の人々の共同・・バビロニアにせよ、あるいはユダに帰国して間もなくの頃にせよ・・のために書いているのだから、この「正義の人々」も、その共同体に属しているに違いない。


しかし「正義である」とは、どういう意味なのであろうか?

「P」の人々が書いていた時代は、イスラエルの宗教が変わりつつある時代であった。

ヤハヴェの神は、それまでは単に少数の人々の守護神であったのだが、今や世界、及びそこのすべての被造物の創造主、全人類の審判者、全知全能の唯一の真の神と考えられるようになりつつあった。

このとき以来、「イスラエル人」、あるいはのちの呼び方では「ユダヤ人」の正義とは、なによりも唯一の、真なる神への完全な献身のうちにあることとなったのである。

この新しい種類の宗教は、はじめ流浪の人々の間で栄え、そこからユダへ戻った人々の間で栄え続けた。


祭司の作者たちは、彼らの性質そのものから言って、この宗教の最も情熱的な布教者に含まれていた。

「旧約聖書」の主要部分が、このことを証明している。

そして「大洪水物語」は、そこに含まれているのである。


ヤハヴェの高められた権威を、ノアへの警告ほど高らかに宣言したものは、他にほとんど考え着くことはできない。

              ・・・

わたしはすべての人を絶やそうと決心した。

彼らは、地を暴虐で満たしたから、わたしは彼らを血と共に滅ぼそう。

              ・・・


メソポタミアの物語とのコントラストが、これほど決定的な点は、他にはほとんどない。

「創世記」をつくりあげた祭司の作者たちは、彼等の神を、比類のない権威の地位へ高めようとした。

聖書の、洪水を命じた神は、実際に極めて強烈な印象を与える。

疑問も許さず、理解されることさえなく、孤独のうちに、恐ろしいほどの威厳をもって、彼は、世界とその内にあるすべてのものの、破滅か救済を、決するのである。


「ノアの大洪水」の物語は、メソポタミアへ連れ去れらた、あるいはメソポタミアから帰ったばかりの「ユダヤ人」の経験と熱望を反映して、作り直されたのである。


            (引用ここまで)

写真(下)は、メソポタミアの王(メソポタミア文明展・カタログより)


              *****

コントラストがある、とは言え、一神教の原型が多神教にある、というのは興味深いことだと思います。

その後のユダヤ教が世界に及ぼした影響を考えると、皮肉なことだと思います。

また、大洪水の記憶は、人類に共通して、深く根差しているのではないだろうかと思っています。



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神々の、さまざまな思惑・・「ノアの大洪水」のパラドックス(2)

2015-12-27 | エジプト・イスラム・オリエント



ノーマン・コーン氏の「ノアの大洪水」という本のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****


             (引用ここから)


もともとのテキストでは、「大洪水物語」は、人類史のなかの一つのエピソードにすぎなかったように思われる。

現存するテキストの断片では、神々の集まりで、最高神エンリルが行った演説の、最後の部分から始まっている。

エンリルは、彼がいかにして神の法を確立し、天から地上へ王をつかわして、王位を確立し、5つのシュメールの都市を作り、それに名前を与え、それぞれの支配者を定め、シュメー地域全体を支える灌漑施設を作ったかを語っている。


次にテキストの空白部分がある。

テキストは、ここで明らかに、神々がどのようにして大洪水を送り、人類を一掃しようと決めたかを報告している。

信仰あつい王が、壁に近づいて,立ちながら、謙虚に神々からの啓示を求め、神の声を聞き、神の集会の決定を知る。


啓示は与えられる。

「洪水が町々を覆い、「人類の種」は滅びるであろう。。

そして三人の最高神の一言によって、王位もまた、くつがえされるであろう」。。


またテキストの空白部分があって、その後の記述により、私たちは、王がどのようにして、巨大な舟で、嵐と洪水から生き延びたかを知る。


ありとあらゆる破滅的な風と疾風が吹きまくり、

嵐は、町々を席巻した。

嵐が7日7晩、この国に吹き荒れ、

破滅的な風が、巨大な舟を高波の中でゆさぶった後、太陽が顔を出し、地と空を照らし、

王は巨大な舟の入り口を開き、

王は太陽神の前にひれ伏した。

王は多くの牛や羊を殺した。


その後彼は、最高神の前にひれ伏し、神は人類の種を保ち続けた報いとして、彼に神と同じような、永遠の生命を与えた。

最後に、王は、超自然的な王国に落ち着く。




こういう「シュメール版・大洪水物語」は、現体制を強化するという政治的な目的のために作られたように思われる。

体制の中心には、王がいる。

そして物語は、王位が神によって作り出されたということを主張するだけではなく、神に深く帰依し、そのため、大洪水の間は〝安全通行証”を、大洪水の後は、「不死の生命」をもって報いられた王を示しているのである。


王と密接に結びついているのは、祭司たちであった。

そして詩は、彼らの利益にも触れているのである。


神々の集会における開会演説で、エンリルは、

「〝わが人類”の滅亡の後生き残ったものたちは、「聖なる地」に新しい町を作り、神の法の順守と信仰のために働くよう望む」、

と宣言している。

これらのことはすべて、まるで宮廷詩人の声を聞いているかのようである。


紀元前1800年頃、セム系のハムラビがシュメールを含むバビロニア帝国を作り上げた時、征服者たちは、シュメールの宗教や文学をかなり取り入れて、適応させた。

とくに「大洪水物語」は、アッカド人によってとりあげられ、書き改められ、修正され、洗練されたものとなった。


物語では、「大洪水物語」に先立って、人類がどのようにして誕生し、どのようにして神の怒りをかったのか、という物語がある。

もともとは、小さな神々が世界維持するのに必要な労働、特に土地を灌漑するという仕事を行っていた。

しかし仕事を約40年も続けた後、小さな神々は反抗し、仕事を放棄し、実際にその道具を燃やしてしまったのである。

そして彼らは、神々の長で、陸地を領分とするエンリルの家へ行き、その家を取り囲んだ。

エンリルは、神々の集会を招集した。


とりわけ、彼は、エンキという神の助言を求めた。


この神は、地下水を支配し、また策略と才知で有名であった。

エンキの提案は、人間という新しい存在を創り出し、小さな神々の仕事の代わりをさせるということであった。

そして、母神の助けを借りて、この提案は実行された。

粘土と、殺した神の肉と血を混ぜ合わせた「人間」が作られた。

このようにして、人間は神々の召使いとして働くように創り出されたのである。


不幸なことに、この解決は一時しのぎのものにすぎなかった。

1200年もたたないうちに、人間はあまりにも多くなりすぎ、その喧噪が神々には邪魔ものとなった。

エンリルが眠ろうとしたとき、大地は牡牛のようにほえたてた。


はじめエンリルは、神々を説得して疫病を送りこみ、この問題を解決しようとした。

しかし、さらに1200年たつと、人口も喧噪もまた元に戻ってしまった。


今度は、雨を降らせるのをやめた。

これはいくらか効果があった。

しかしまた1200年たつと、エンリルは、やはり眠れなくなった。


怒り狂った神々は、6年間続けて、雨と毎年の洪水を止め、その結果、恐ろしい状況が生じた。

飢えた人々は、隣人同士が殺し合い、親は自分の子を殺して、むさぼり食った。


いずれの場合にも、エンキが救いをもたらした。

エンリルが次々と皆殺し計画を奸計するたびに、エンキはそれを挫折させていった。


エンキには、アトラハシスという熱心な信者がいた。

この名前は、「きわめて賢明な王」という意味である。

彼は神話の中の王で、その治世は4800年続いたと考えられている。

災害の脅威が迫ってくる度に、信心深いこの男は、彼の守護神に祈りを捧げ、その度ごとに、エンキはこれに応えた。

エンキが様々に介入したおかげで、人類は生き残り、それまで同様、勢いよく増え続けていった。


ついにエンリルは、人類を完全に絶滅させる洪水を送ろうと決心した。

しかしエンキはそれをもすりぬける方法を発見した。


かれはアトラハシスに直接情報を伝えず、彼の住んでいる葦の小屋の壁に伝えた。

そして壁は、おそらくそこを通り抜ける壁の音で、そのメッセージを伝えた。


エンキの助言は、「巨大な舟を作り、アスファルトで表面をおおえ」、というものであった。

「ギルガメシュ叙事詩」によると、「小屋を引き倒して、それで舟を作るように」、とされている。

アトラハシスは、一生懸命に仕事に取り組んだ。


彼は王として、この奇妙な行動を長老会議に説明しなければならなかった。

長老たちのために、彼は

「エンリルとエンキが仲たがいをしたので、もはやエンリルの陸地に住むことはできず、地下の水の中の守護神の元へ行くために船出しなければならないのだ」、

と説明した。

こうして彼は舟を作ることになった。

神々は、地上をおおった大洪水に積極的に参加した。

嵐の神は、黒雲の中でゴロゴロと鳴り、他の神々は堤防をあふれさせ、また別の神々は松明をかかげて大地を燃やした。


すべてのものは暗黒と化し、山は水中に姿を消し、人々はすべて溺れ死んだ。

神々自身も恐ろしくなり、犬のように身をすくめてうずくまり、地上から天へ逃れようとしていた。

彼らが頼りとしていた食べ物や飲み物のお供えが無くなったので、彼らは人類の破滅を嘆き悲しんだ。


アトラハシスの舟は、嵐を乗り越えて、7日7晩の後、ある山の頂に止まった。

それからアトラハシスは、外を見て、大地が屋根のように平らになり、人間はすべて粘土と化してしまったのを見た。

もう1週間、彼は待ち、その間、舟は山頂に留まっていた。


それから彼は鳩を放ったが、鳩は戻って来た。

つばめを放った時も、同じだった。

しかそこで、アトラハシスは、舟から出て、羊をいけにえとして神々のために香を焚いた。

神々はそのお香をかぎつけ、まわりに集まってきた。


エンリルは、最初は「人間」というものが生き残ったことに激怒した。

しかし次には人類を絶滅あせようとした浅はかさを、母神やエンキに非難され、それを甘受しなければならなかった。


              (引用ここまで)

写真(下)は、「ハムラビ法典」(メソポタミア文明展・カタログより)


                  ***


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産めよ、増えよ、地に満ちよ・・「ノアの大洪水」のパラドックス(1)

2015-12-23 | エジプト・イスラム・オリエント



クリスマスが近いので、久しぶりにキリスト教ものにしてみました。

「しんがりの思想」の続きは、その次になりますが、きっと「お先にどうぞ」と、どなたもお怒りにならないことでしょう。^^


ノーマン・コーン氏の「ノアの大洪水」という本を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****


          (引用ここから)


「旧約聖書」の「大洪水物語」は、「創世記」の4つの章で詳しく語られている。

新しく創造された大地に、神がアダムを置いてから10世代がすぎた、と物語は語る。

そして人類は非常に「悪者」になった。

人間は悪事をくわだて、悪事を行うことに夢中になっていた。

そして、他の生き物たちも、あまりにもひどい罪を犯していた。


神が世界の状況を見てみると、世界はその住民たちによってまったく痛めつけられ、神もこういう存在を創り出したことを悔やんだほどであった。


1人だけ、正しい男がいた。

それは600才のノアで、彼は 〝神と共に歩み ”、〝その時代の全き人″であった。

神は、ノアにだけ、その意図をこっそりと打ち明けた。


「わたしは地上に洪水を送って、命のある、肉なるものを皆、天の下から滅ぼし去る。

地にあるものは、みな死に絶えるであろう」。


そして神はノアに、こまごまとした指示を与えた。

ノアは木の箱舟をつくり、その内外をアスファルトでおおわなければならなかった。

それに屋根をつけ、3階建てで、各階は部屋に分かれて、横にドアと窓をつける。

舟が完成すると、すぐノアと妻と3人の息子とその妻たちが中に入り、あらゆる種類の鳥と哺乳動物と爬虫類を、一つがいずつ連れて行くこととした。

ノアは、命ぜられたとおりにし、神はその後で、ドアを閉めた。


次いで、大いなる淵の源はことごとく破れ、天の窓が開けた。

雨は降り続き、ついに洪水は地上高くおこり、最高の山の頂上よりも高くなった。

箱舟は、海の表面をただよっていた。

その間、地の上の、動くすべての〝肉なるもの″はみな滅びた。

みな、地からぬぐい去られた。

ノアと共に箱舟にいたものだけが残った。


洪水は長期にわたった。

しかし最後に、神は、洪水を終わらせることに決めた。

すこしずつ、水は引いて、ようやく箱舟はアララトの山の上にとどまった。

偵察に出したカラスは、水が地上から引くのを待ちながら、あちこち飛んでいたが、箱舟には帰ってこなかった。

そこで、鳩を放った。

鳩は、落ち着く所が見つからない、と戻ってきた。

ノアはさらに、もう一度鳩を放った。

戻ってきた鳩は、今度はオリーブの葉を引き抜いて、くちばしにくわえていた。

そこで、ノアは水が引いたことを知った。

神の指示によって、ノアとその家族は箱舟から出て、他の動物もそれに続いた。

次にノアは祭壇を作り、供え物を焼いて捧げた。


神は供え物の焼けるにおいをかいだときに、人間というのは救いようもなく悪いものだけれども、人間のために地上にのろいをかけることは二度としないし、すべての生物を殺すこともしないと、自らに誓った。

これ以後、大災害は起こらないであろう。

それは新しい時代、洪水以後の時代の始まりであった。


新しい世界を始めるために、神はノアとその子孫だけではなく、すべての生き物・・箱舟から出てきたすべての動物と鳥と、そのすべての子孫・・と契約をかわした。

ノアの息子たち、セム・ハム・ヤペテに、彼は仕事を割り当てた。


「産めよ、増えよ、地に満ちよ」。。


彼らはこの仕事を遂行した。

地上のすべての人は、彼らの子孫である。



「旧約聖書・創世記」によって私たちが知っている「大洪水」は、メソポタミアに起源を持つ。

かつてのメソポタミアは、しばしば洪水に荒らされていた。

豪雨と春の雪解けとがいっしょになると、チグリス・ユーフラテス川の堤防は決壊する。

そうなると国土は何百マイルという湖の下に、沈んでしまう。

古代においては、この現象は強力な伝統を生み出した。

かつて、すべてのものをまったく変えてしまうほど圧倒的な洪水があったと信じられていた。

紀元前2800年頃、ウルクの約30キロ北の、古代シュメールの町が、洪水によって荒地となったことが、発掘によって示されている。

文字が刻まれた書板は、紀元前1600年頃のものであるが、それが語っている物語は、口伝の民間伝承として、さらに1000年も前から流布されていたものであった。



           (引用ここまで)

         
             *****

あぁ、なんという、神々の悪意。。

「我、山に向かひて 目を挙ぐ」。。「旧約聖書・詩篇121」


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<欧州の今>「衰退」「イスラム化に不安」 ・・西欧はいずれイスラム化するという感覚(読売新聞)        

2015-10-15 | エジプト・イスラム・オリエント



<欧州の今>「衰退」「イスラム化」に不安」
                     読売新聞2015・08・12

<現実の反映>

欧州は衰退していく。

そんな感覚に西欧がとらわれている。

併せて、欧州はいずれイスラム化するとの悲観論がイスラム系人口の多いフランスを中心に広がっている。

「衰退感覚は現実の反映だ」。

フランスの人気作家ミシェル・ウェルベックさんは、パリの出版社の一室で紫煙をくゆらす。

「フランスは企業倒産が続き、産業は空洞化し、雇用がいちだんと減っている。

ごく普通の若者が職を求めて外国に出る。

ベトナムやタイでパン屋や食堂を開く夢を抱く。

国外の方が夢を実現できると考える・・これは衰退の表れだ。

フランス人の虚栄心は、傷ついている」。

同氏は時の人だ。

フランスで2022年、イスラム教徒の大統領が誕生するーー。

こんな刺激的な筋立ての小説「服従」を1月7日に刊行した。

その日イスラム系の兄弟がパリの風刺週刊誌シャルリー・エブド編集部を襲撃し、風刺漫画家ら12人を殺害した。

同日付のシャルリー・エブド1面を飾ったのは「予言者ウェルベック」の戯画。

「服従」はフランス、ドイツ、イタリアなどでベストセラーに。

「事件に衝撃を受けた。わたしの友人も殺された」。

イスラム大統領誕生の可能性を聞くと、同氏は「その可能性があると考え、不安に思うフランス人、西欧人がいる。小説は現代の
不安を描いた」と言って、こう説明する。

フランスの若者人口の約10パーセントがイスラム系。

移民は子だくさんで今後、さらに増える。

一方、西欧人は自由・消費・快楽など、個人の欲望を満たす自分たちの生き方に、誰もが憧れると信じてきた。

だがイスラム系の一部はイスラム教の聖典「コーラン」の教えに従う生き方こそが優れていると確信し、西欧流を否定。

西欧に失望し、イスラム教に改宗する西欧人も出てきた。

フランスはイスラム系に対する人口的、文化的優位を失う可能性がある。

我々はイスラムに脅かされていると感じる。

中国にも、経済危機にも、環境汚染にもおびやかされている。

あやうい世界に生きている。

そういう感覚は現代の特徴だ。




<疑心暗鬼>

イスラム化について、フランス社会学者ラファエル・リオジエは、「全くの被害妄想」と反論する。

統計的に見てイスラム系移民2世3世の出生率はフランス平均に近づく。

人口比率の逆転はあり得ない。

加えて移民の9割以上はフランス社会に同化している。

同氏は「被害妄想が生まれたのは、欧州の衰退という認めたくない現実を突きつけられた結果」と考える。

西欧は20世紀の2つの大戦を経て、軍事、政治、経済で世界の中心の座を米国に譲る。

それでも、西欧文明は別格と自認し、世界から一目置かれてきた。だが、2003年のイラク戦争では米国が仏独の見解をまった
く無視して、世界戦略上の重大な決定をする。

戦争に反対する仏独は「古い欧州」と切り捨てられた。

もはや西欧は一目置かれる存在ではない。

自尊心は完全に否定された。

同氏は「ナルシストが傷つくように、西欧は傷ついた」と言う。

そして姿の見えない敵に囲まれているとの疑心暗鬼に陥る。

敵を特定しなければ、不安が高じる。

そこで眼前のイスラム系住民を敵として意識した。

仏語辞典によれば、「イスラム化」という言葉が使われだしたのは2003年頃のことだ。


<専制支配再来>

今、欧州衰退を論じる本が目につく。

仏独などで話題になった一冊が、現代欧州と共和制ローマ(前509~前27)末期を比較した「衰退」。

著者のベルギー人は古代ローマ学者であり「二つの時代は似ている。

どちらも移行期の危機にある」と話す。

同氏の主張は、こうだ。

失業と移民、治安の悪化、少子高齢化、文明とテロの戦い。

こうした問題を政治エリートが解決できず、市民は政治に不信を抱く。

ポピュリスト(大衆迎合主義者)が台頭し、政情の安定が損なわれていく。

これは二つの時代の類似点だ。

共和制ローマの場合、改革は失敗を重ね、内戦を経てアウグストゥスによる帝政に至る。

アウグストゥスは「修復された共和制」と呼んだが、実際は専制支配。

政情は安定し、市民は物質的には満たされる。

だが、自由は失われ、躍動感や知的きらめきは消えた。

停滞した安定だった」。

欧州の行方はどうか?

「経済危機が更に深刻になり、移民との衝突がひんぱんに起きるようになれば、いずれは専制支配が出現する。

その後は、欧州は数世紀をかけて、緩慢に衰退し続ける」。

こうした同氏の見解に、ウェルベック氏は影響を受けたと指摘される。

「ウェルベック氏が予感しているのも、専制支配の到来だと思う

これは知識人の多くが共有する予感だ。

それが欧州の今の気分だ。


                 ・・・・・


ブログ内関連記事


「フランス「国民戦線」党首に聞く・・国家かグローバル主義か?」

「アラブの怒り、日本にも責任・・の中章弘氏」

「中田考氏「イスラームのロジック」(1)・・先祖あグラハムの、血を分けた兄弟」(3)まであり

「西欧の原理を押し付けるな・内藤正典氏・・連続テロの底に」

「アラビア語が世界を開く・中国のイスラム教世界の今・・松本ますみ氏」


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クルド人の少数派宗教、「ヤジディ教」の歴史・・ゾロアスター教の伝統を汲む

2015-10-10 | エジプト・イスラム・オリエント



イスラム国に捕らえられていたヤジディ教徒たち200人が、解放された、という新聞記事を読んで、ヤジディ教について
「古代オリエント辞典」で、調べてみました。

クルド人問題という、非常に込み入った歴史的問題があり、長い歴史の中で生き続けてきた、古い複雑な宗教であるということが分かりました。


                    *****

                  (引用ここから)

「ヤジディ教」


クルド人とヤジディ教

ヤジディ教とは、イラク北部からトルコ東部の山岳地帯に居住するクルド人によって信仰されている宗教である。

その教義は古代イラン神話とスーフィズムが融合したもので、それがクルド人に受容されることによって独自の宗教となった。

現在の信者数は、欧米へ離散した層も含めて20万~30万人と推定されている。

ヤジディ教の名称は、かつては古代イラン語の「ヤザダ(崇拝すべきもの)」に由来すると考えられていたが、現在ではウマイヤ朝カリフ・ヤジディ(~683)から採られたとされる。


ヤジディ教の歴史

ヤジディ教成立の直接の契機は、ウマイヤ朝カリフの子孫と称するフャイフ・アディーがスーフィー教団の一派「アダヴィー教団」を創始し、イラク北部のクルド人の間に布教を開始した12世紀初頭に遡る。

この教団は布教の便法として、土着の古代イラン神話を吸収しつつ、次第にイスラームから逸脱する傾向を見せながら、
クルド人の間で広く信者を獲得することに成功した。

とくに13世紀のモンゴル人政権期には、教団からイスラームとは別宗教の態をなしたヤジディ教に発展し、急激に勢力を伸ばした。

16世紀以降のオスマントルコ統治時代に入ると、ヤジディ教のクルド人諸侯がイラク北部からトルコ東部で世俗的な支配者に任命され、この地域でのヤジディ教徒による支配体制を強固なものとした。

しかし19世紀に入るとヤジディ教は「啓天の民」ではないと見なされ、しばしば周辺のスンニー派イスラム教徒から迫害を受けるようになった。

このためヤジディ教徒は徐々にオスマントルコ領内からグルジア、アルメニアなどのコーカサス諸国へ逃亡した他、20世紀後半になると知識人層のドイツの移住が目立つようになる。

現在のヤジディ教徒は、イラク北部からトルコ東部といった従来からの本拠地の他に、コーカサス諸国とドイツに分布している。


ヤジディ教の資料

ヤジディ教に関する研究は、1850年ごろからスタートした。

しかし彼らに関する情報は限られている。


一次資料は、20世紀の後半になってやっと出揃った。

第1に、ヤジディ教徒の吟遊詩人達が、宗教行事の際に朗読する讃歌を集大成した「ケウル」。

本書はアラビア語の語いを大量に含んだ北東クルド語で書かれてるが、正確な成立年代は不明である。

1979年になって、やっとアラビア文字で記したものが公刊された。

1985年にその補遺も出版された。


第2に、シャイフ・アディー作と伝わる2編のアラビア語詩。


第3に、「ジルヴェ」とその注釈「メシェフ・レシュ」と称される二つのアラビア語文献。


これら以外には、周囲のイスラーム教徒による外部観察記録がある。

それらにはイスラーム的な先入観があるので、外部資料だけに依拠するならば、ヤジディ教は、逸脱的イスラームの一派のように見える。

1930年以降はこの立論が支配的になり、ヤジディ研究はイスラーム学の枠内で試みられた。

古代イラン的な観点からも研究されるようになったのは1990年以降のことである。



ヤジディ教の信仰


一次資料によると、ヤジディ教の骨子は古代イランの信仰から継承したと思われる。

カースト制度、清浄儀礼、拝火儀礼、聖紐の着用などである。

すなわち、ヤジディ教はクルド人としての出生によって帰属するもので、改宗は不可能である。

また血統にもとづく階級制度が存在し、神官階級に生まれないと、ヤジディ教神官にはなれない。

さらに七大天使(総称してハフト・セッルと呼ぶ。その首位は孔雀の形をしたマラク・ターウース。イスラーム教徒からは、これがサタンを表わすと理解され、「悪魔崇拝者」と蔑称される)と、それらが統括する地水火風などの諸元素への崇拝が重要で、特に拝火崇拝が大きなウエイトを占める。


これらに対して、ヤジディ教と古代イランの信仰との相違点も明らかになっている。

ヤジディ教において、神の代わりに世界を支配する孔雀天使(マクラ・タウース)は、善と悪の両方を支配し、この世の悪に対しても責任を負う。

また七柱の聖なる存在が輪廻転生を繰り返すとされ、他宗教の信仰を融合するシステムとしても機能している。

さらに、教祖シャイフ・アディーを埋葬した「ラリシュの谷」を聖地とし、ヤジディ教徒が毎年10月に訪れなくてはならない教団の中心と定められている。


ヤジディ教の創成神話

ヤジディ教の構成要素は、イスラーム的な教義だけで説明できるものではない。

彼らの創世神話によれば、神は「世界の要素がすべて詰まった真珠」からこの世を創造し、大天使に委託してそれを運行させている。

ここまでは七大天使思想、「犠牲祭」による世界創造などの点で、ゾロアスター教に近い。

しかし、この後ヤジディ教の神聖史は、あからさまにイスラーム的な観念を接合する。

すなわち、最初の人類アダムには、シャヒード・イブン・ジェールという息子がいた。

これが、クルド人=ヤジディ教徒の始祖である。

アダムの真の信仰は、実はこの知られざる息子に継承された。

その子孫がウマイヤ王朝の始祖ムアーヴィア(在位661-680)であり、その息子、ウマイヤ王朝第二代カリフ・ヤジディ(在位680-683)にいたって、シャヒードの教えを復活させたのである。


以上のような、ゾロアスター的であり、同時にイスラーム的な教義がヤジディ教の創世神話である。(青木健)


                (引用ここまで)

                  *****


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クルド人の少数派宗教「ヤジディ」教徒200人、イスラム国から解放される。

2015-10-07 | エジプト・イスラム・オリエント



「イスラム国」の出現以来、イスラム教について、注視していたのですが、4月のこの記事を読んでからは、「捕虜・クルド人の少数派の宗教=ヤジディ教」というものにも、関心をもつようになりました。

なかなか資料がなくて、苦労しています。

                
                     ・・・・・



「IS,少数派教徒200人解放・・イラクで拘束の高齢者ら」
                               朝日新聞2015・04・09

過激派組織「イスラム国(IS)」は8日、イラク北部で、拉致していた同国の少数派・ヤジディ教徒200人あまりを解放した。

ロイター通信が伝えた。

解放されたのは、昨夏「IS」が大量に連れ去ったヤジディ教徒のうち、高齢や子どもら。

「IS」と戦う少数民族・クルド人の治安部隊に引き渡されたという。

ISは、ヤジディ教徒を「悪魔を崇拝している」として、集落をたびたび襲撃、殺害した。

女性やこどもを、奴隷にしたりしているとされる。

「IS」は、今年1月にもヤジディ教徒の高齢者ら約200人を解放したが、今回とともに、解放の理由は明らかになっていない。


                     ・・・・・


ヤジディ教徒が、トルコの国会議員になった、という記事もありました。


                     ・・・・・




「トルコ・宗教差別と戦う国会議員」
                        読売新聞2015・07・07


トルコで6月7日に行われた総選挙で、宗教差別に直面する少数民族の女性、フェレクナス・ウジャが初当選した。

ウジャさんは、古代メソポタミアの信仰に起源を持つヤジディ教徒の信者。

周辺国を含めても約100万人に過ぎず、トルコでは数万人程度と見られる。

イスラム教徒が大多数を占めるトルコで、ヤジディ教の信者が国会議員になるのは初めてだ。

「差別は根強く、反政府勢力とみなされ、住民全員が強制移住させられた村も少なくない。女性に対する暴力もある」という。

「誰にでもまず声をかける」戦術で、町の市場を丹念に歩き回り、支持者を増やした。

ドイツ生まれで市民権を持ち、1999年から10年間、ドイツ選出の欧州議員を務めた経験も役立った。

ヤジディ教徒は、イスラム過激派から「悪魔崇拝」のレッテルを貼られ、イラクとシリアではイスラム教徒による迫害が深刻化する。

ウジャさんは「宗教や民族による差別をなくしたい。トルコを民主的で自由な国にしたい」と抱負を語った。


                        ・・・・・



なぜ、イスラム国が、ヤジディ教徒たちを一挙に解放したのか?、などということの理由が、わたしに分かるはずもありませんが、なんとなく気になりました。

なにか、政治的な理由があるということだけは、分かります。

とても複雑な理由なのではないか?と思いました。

ヤジディ教は、クルド人の中の少数派の宗教である、ということですので、次の投稿で少し調べてみたいと思います。


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あなたの上に平安あれ・・「イスラームの世界地図」(2)

2015-05-06 | エジプト・イスラム・オリエント


21世紀研究会編「イスラームの世界地図」のご紹介を続けます。

礼拝の順序の説明ばかりを集めましたが、とてもよいと思いましたので、掲載させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。       


            *****


          (引用ここから)


イスラームの礼拝

イスラーム教徒にとって信仰の柱の一つである礼拝は、一般には次のように行われる。

まず、毎日の礼拝が義務づけられており、決まった時間に定められた形式で行われる。

場合によっては、決められた時間より後で礼拝することも認められている。

ただし先に済ませておくことは許されない。



一日5回の礼拝は、次のように定められている。

●ファジュル

早朝、または夜明けの礼拝。
白糸と黒糸の見分けがはっきりつく明るさになった時に行う。
6時半ごろ。

●ズフル

正午過ぎの礼拝。
太陽が真上に来たときに行う。
1時半ごろ。

●アスル

夕方、または午後遅くの礼拝。
太陽が半分傾きかけた時、あるいはまっすぐに立てた棒の影が棒の長さと同じになった時に行う。
4時半ごろ。

●アグリブ

日没後の礼拝。
太陽が地平線から消えた時に行う。
6時40分ごろ。

●イシャーフ

就寝前、または夜半の礼拝。
アブリブを行って約1時間半後に行う。
8時15分ごろ。


この他、安息日である毎週金曜日の午後には公式礼拝が行われる。


公式礼拝には、イスラーム教徒は男女を問わずモスクに集まり、礼拝を行う。
また説教も行われる。

礼拝はこうして決められたものだけではなく自発的に行うこともある。

礼拝にあたっては、男性は労働中の場合もあるので、最低限膝までの下半身をおおう衣服。
女性は、手と顔以外のすべてを覆う衣服を身に着けることが決められている。


●アザーン 

モスクから町中に届くように礼拝の呼びかけであるアザーンが次のように唱えられる。

1 アッラーフ アクバル(4回)
意味 アラーは偉大なり

2 アシュハド アン ラー イラーハ イッラッ=ラー(2回)
意味 アラーの他に神はないことを誓う

3アシュハド アンナ ムハンマダン ラスールッ=ラー(2回)
意味 ムハンマドはアラーの使徒であることを誓う

4 ハイヤー アラッ=サラー(2回)
意味 礼拝のために来たれ

5 ハイヤー アラ=ル=ファラー(2回)
意味 成功のために来たれ
(夜明けの礼拝であるファジュルの時のみ)

アッ=サラート ハイルン ミナン=ナウム(2回)
意味 礼拝は睡眠に勝る

6 アッラーフ アクバル(2回)
意味 アラーは偉大なり

7 ラー イラーハ イッラッ=ラー(2回)
意味 アラーの他に神はいない



礼拝の順序は、一般的には次のように行われる。

宗派、国、地域、またその時々の礼拝の種類によって、繰り返す回数、動作、となえる語句が異なる。

ただしどこの国であってもアラビア語で行う。


1 メッカの方向(キブラ)に向かって立ち、礼拝の種類、回数を告げ、意思表示を行う。

2 両方の手のひらを耳の高さに上げて、次の文句を唱える。
アッラーフ アクバル(1回)

3 両手を体の前で組み、コーランの「開扉の章」他、コーランにある任意の3節以上を唱える。


「コーラン・開扉の章」は以下の通り。

 「コーラン・メッカ啓示・全7節」

慈悲ふかく、慈愛あまねきアラーの御名において・・

A 讃えあれ、アラー、万世の主、

B 慈悲ふかく、慈愛あまねき御神、

C 審きの日、「最後の審判の日」の主宰者。

D 汝をこそ、我らはあがめまつる。
汝にこそ、救いを求めまつる。

E 願わくば我らを導いて、正しき道を辿らしめたまえ、

F 汝の御怒りをこうむる人々や
踏み迷う人々の道ではなく、

G 汝の嘉し給う人々の道を、歩ましめたまえ


4 両手をひざ頭につけて、次の句を唱える。

スプハーナ ラッビヤ=ル=アジーム(3回)
意味 偉大なる我が主に栄光あれ

5 直立の姿勢に戻りながら、次の句を唱える。

サミアッ=ラーフ リ・マン ハミダ
意味 アラーは称讃する者を慶び讃えたもう

6 1の句を唱えながら平伏し、次の句を唱える。

スブハーナ ラッビヤ=ル=アアラー
意味 荘厳至高なる我が主に栄光あれ

7 体を起こす

8 1の句を唱えながら平伏する

9 神を讃え、ムハンマドと善良なイスラーム教徒のために祈りの句を唱える。

10 7の姿勢に戻る。

顔を上げ、アラーへの称賛、僕であることを誓い、次の句を唱える
ラー イラーハ イッラッ=ラー

この句を唱える時は、右手の人差し指を立てて突出し、神が唯一の存在であることを示す。

この後、神へ恵みを乞う句を唱え、両側の同胞の方を向いて「アッサラーム アレイクム(あなたの上に平安あれ)と挨拶の言葉をかける。



イスラム用語小辞典

ア行

「アラー」 イスラムにおける唯一なる神の呼称。
語源的にはアラビア語で「神」を意味する語。
〝アラーという名の神“が、いるわけではない。

「アザーン」 人々に対する礼拝の呼びかけ。男性のみが行う。

「アブラハム」 旧約聖書の預言者。コーランでは「メッカのカーバ神殿を建設しアラーに捧げた」と伝えられている。

「アラブ」 遊牧民を意味する。現在では一般に「アラビア語を話すイスラム教徒で、自分をアラブ人と自覚する人々」ということになろうが、厳格に規定することは難しい。

「アラファート」 メッカ巡礼中、重要な礼拝がおこなわれる丘。預言者ムハンマドがここで別離の説教を行ったと言われている。

「アル=アルカーヌ・ル=ハムサ」(5本の柱)
イスラム教徒が実行すべき5つの務め。すなわち、信仰告白、礼拝、喜捨・施し、 断食、巡礼のこと。

「イスラーム」 アラーに絶対服従する、という意味。

「岩のドーム」 エルサレムの神殿の丘にあり、預言者ムハンマドが昇天したとされる岩の上に建てられた建物。

「ウンマ」 民族、部族、国家などと訳されることが多いが、正確にはどれもあてはまらない。
イスラーム共同体というべきか。神が人類救済するために使徒をつかわし、よびかける集団のこと。

「エルサレム」 予言者ムハンマドの時代には、礼拝の方向はエルサレムだった。
またムハンマドがここで昇天したとされ、624年、神殿の丘に岩のドームが建てられた。


カ行

「天啓の民」 アラビア語で「神が啓示した啓典を信仰する人々」のこと。
ユダヤ教徒、キリスト教徒を含む。

「コーラン」 イスラームの聖典。神から預言者ムハンマドに下された啓示。
語源は「声高く朗誦する」という意味。

サ行

「最後の審判」 イスラーム教徒の根本信条の一つ。
この世が終わりを迎えて万物が死に絶えた後に行われる、とされている。

万物の死後、天使の吹き鳴らすラッパの音ですべての人が生き返り、生前の行いについて神の裁きを受ける。
そして、良き信者は楽園に、悪しき信者と異教徒は地獄へ、と分けられる。

永遠の生命は、この最後の審判の後に得るものだとされている。
したがって現世はその前の一時的な段階に過ぎないと考えられている。


「ザムザムの泉」 メッカにある名高い水場。
アブラハムの妻が幼子イシュマエルのために水を得ようとした時、神の慈悲によって湧き出した泉とされている。

    
          (引用ここまで)

写真(上)は14世紀につくられたコーランの彩色写本。
写真(中)はムガール朝時代の絵画。賢者たちが討論をしている図。
写真(下)は9世紀建立のモスク。
                「イスラーム歴史文化地図」より


            *****

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ヤハベはアラーなり、されどアラーはヤハベならず・・イスラームの世界地図(1)

2015-04-29 | エジプト・イスラム・オリエント


21世紀研究会編「イスラームの世界地図」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


            *****

          (引用ここから)


イスラームの教えは、7世紀のはじめにおこった。

「旧約聖書」、「新約聖書」が成立した後、つまりユダヤ教、キリスト教が成立した後だ。

ムハンマドが610年から632年まで、大天使ガブリエルを通じて受けた神の啓示を記したという「コーラン」に、

「「旧約聖書」に登場するアブラハムとその子イシュマエルが、メッカにあるカーバ神殿を建てた」と記されているように、ユダヤ教とはその成り立ちから深いかかわりがあった。

なぜならイスラム教のアラーとは、ユダヤ教徒たちが言うところのヤハベと同じ神なのだ。

ちなみにアラーとは「神」ということであり、英語でいえば「ゴッド」ということになる。

だからアラビア語では、キリスト教徒の神もユダヤ教徒の神も、アラーとなる。

したがってイスラム教では、「旧約聖書」に登場するアダム、モーゼ、イエス・キリスト、ムハンマドに至る人々が、すべて「イスラームの預言者」ということになる。

ちなみに「預言者」とは神の言葉、メッセージを預かった人ということであり、予言者ではない。

唯一絶対の神・アラーは、そうした何人もの「預言者」たちを通じて人々に教えを授けてくれたが、〝称讃される者・平安あれ″、という意味の名前を持つムハンマドが、「最後の預言者」だとされる。

「預言者」たちを通じて伝えられた神の教えも、時代が経つにつれていつのまにか歪められ、世の中が乱れてしまった。

そのためアラーはムハンマドに、正しいアラーの教えを改めて与えたのだとされている。

そして神による最後の教えはアラーの言葉そのもの、つまりアラビア語によって伝えられたとされている。

アラビア語を読める者だけが、神の教えを正しく理解できるのだと考えられている。




「コーラン」が、アラビア語で書かれたものしか認められていないのも、このためである。

別の言語に翻訳したりすれば、そこには必ず人間の意図が入り込み、神の声を正しく聞くことが出来なくなるからだという。

だから「新約聖書」のように、各国語に訳されたものを正典とすることはない。

原理主義と言われる人々は、自分たちがムハンマドと同じアラブ人であり、アラビア語が読めるから、ユダヤ教徒・キリスト教徒より神に近い存在だと思っているという。

したがって、キリスト教徒中心の欧米が世界の実権を握っているというのは、不完全な教えを信じている人々が世界を支配しているということであり、経済の格差も、風紀の乱れもすべてそこに原因があると解釈されているのだ。


私達は、イスラム教徒とアラブ人を同じように考えてしまうことがある。

「旧約聖書」のあの〝方舟″で有名なノアの息子、セム、ハム、ヤペテが地上のすべての民の祖先とされる。

このうちの長男セムが、ユダヤ人とアラブ人などいわゆるセム一族の祖先になったとされている。

これ以後はセムの子孫の物語が中心になり、セムの子孫アブラハムの長男でありながら、異腹の子どもであったために荒野に住むようになったイシュマエルが登場するが、イスラム教では彼がアラブ人の祖先だとされている。


イスラム世界の拡大によって、アラブとは、イスラーム共同体を構成し、アラビア語を自分の言葉とした人々ということになり、本来の意味での「アラブ民族」という存在が薄れてしまった。

つまり「アラブ人」とは、民族名というよりは文化概念となってしまったのかもしれない。

その上、アラブ世界とは言っても、そこにはアラビア語を話すキリスト教徒もいるので、必ずしもアラビア語をアラブの基準とするわけにはいかない。

また、北アフリカのベルベル人や、東南アジアの諸国の人々のようにイスラームの教えは受け入れても、言葉は変えなかったところもある。


言語だけでは〝イスラム教徒″、〝アラブ″をくくることができないとなると、あとは本人がアラブ人だと自覚しているかどうかというところに行きつくのだろう。

ところがこのように〝アラブ”という民族が意識されるようになったのは、ごく近年になってからのことだという。

こうした意識は、19世紀、オスマン帝国の支配下にあったエジプト、レバノン、シリアなどでおこったアラブ復興運動がやがて政治運動に発展し、20世紀になってからのユダヤ国家の建設問題に対抗する形で高まっていったものなのだ。

さらに中東戦争、欧米との対立によって〝アラブ″としての統一、イスラム教徒としての連帯などが強く意識されるようになっていったともいう。




イスラーム国家の中には、「原理主義」を合法的に採用している国もある。

「原理主義」という言葉がキリスト教世界の用語であることはすでに述べたが、この言葉は、むしろ「イスラーム復興主義」、「イスラーム主義」という方が適切だろう。

実際、こうした言葉が使われ始めている。

近代化を図りながらも西欧型社会を否定し、自分達の教えにできる限り忠実な社会を目指そうというものだ。

それは預言者ムハンマドが目指した〝ウンマ″=イスラーム共同体を起こし、社会道徳の根本であるイスラームの法に厳格に従う社会のことだということだ。


その代表的な国家がスンニー派のサウジアラビア、シーア派のイランである。

サウジアラビアでは1992年になってようやく統治基本法=条文憲法が発布されたが、そこではこの国が「コーランとスンナに基づくアラブ・イスラーム国家である」と規定されている。

哲学思想、神秘主義といった思想はイスラームの教えから逸脱したものだと否定し、聖者信仰や死者の墓(名を刻むなどしたもの)を強く否定した。

それはアラー以外のものに信仰心を持つのは多神教だ、という解釈によっている。

また、1979年のイスラーム革命後のイランは、その憲法の中で、「すべての法と条例はイスラームの諸基準に基づかなければならない」としている。


            (引用ここまで)

写真(中)は14世紀のコーラン。大型版で、モスクで会衆が朗読するときに呈示された。
写真(下)は9世紀建立のモスク。
                    「イスラーム歴史文化地図」より



              *****


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エルサレムで、7天界の預言者達と会う・・ムハンマドの生涯(6・終)

2015-03-31 | エジプト・イスラム・オリエント


ひき続き、小杉泰氏の「ムハンマド・イスラームの源流をたずねて」のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

            *****

         (引用ここから)


「夜の旅」と「昇天の旅」

「夜の旅」とは、一夜のうちにムハンマドがメッカからエルサレムへと往復したことを指す。

「昇天の旅」とは、ムハンマドがその時、エルサレムにおいて、かつての「ソロモンの神殿跡」から7層の天に昇り、諸預言者たちに出会い、ついにはアラーの身元に達するという旅である。


ある夜、ムハンマドは天使ガブリエルの訪問を受けた。

彼は、ガブリエルに伴われて旅に立つ。

彼が乗った天馬は、一飛びで視界のかぎりまで進むという。

ムハンマドはエルサレムに向かった。


              ・・・

讃えあれ、その僕ムハンマドを夜の間に、聖なるモスクからアラーが周囲を祝福した。

遠方のモスクへと旅させた方アラーに。

それはムハンマドに神印を見させるためであった。

まことにアラーは全聞者、全見者である。「コーラン・(章名不明)」


             ・・・

当時のエルサレムはビザンツ帝国の支配下にあり、イスラエルの民の神殿は破壊されたままであった。

神殿の廃墟がある丘から、ムハンマドは天に上った。

第1天から第7天まで、順に昇る。

第1天では、ムハンマドをアダムが迎える。

アダムは人類の祖であるが、イスラム教の教えでは「最初の予言者」でもある。

アダムはムハンマドに向って「ようこそ、心正しき息子にして心正しき預言者よ」と言う。

第2天では、洗礼者ヨハネとイエス・キリストが迎える。

「ハディース」では、2人はムハンマドの母方のいとこと紹介されている。

2人はムハンマドに対して「ようこそ、心正しき兄弟にして心正しき預言者よ」と挨拶する。

この言葉は、天を上るたびに繰り返される。

第3天には、「旧約聖書」のヨセフがいる。

第4天には、イドリースがいる。

「旧約聖書」のエノクと考えられる。

第5天には、「旧約聖書」のアロン=モーセの兄がいる。

第6天には、モーセがいる。

そして最後の第7天に上ると、そこではアブラハムが待っている。

アブラハムは、アダムと同じ挨拶をする。

すなわち「ようこそ、心正しき息子にして心正しき預言者よ」と言う。


人類の父アダムが「息子よ」と言うのは当然であろうが、アブラハムの場合はどうであろうか?

ここでムハンマドを「息子」と呼ぶアブラハムは、〝諸預言者″の父としてのアブラハムであろう。


「昇天の旅」の物語が何を象徴しているかは、自明だろう。

これは〝諸預言者″の系譜の物語であり、ムハンマドがこれらの予言者たちの系譜をひき、彼らと同族であることを確認し、

そして彼らがアラーから命じられたのと同じ使命を、ムハンマドが果たしているということを確認しているのである。

第7天の先には、天使がアラーを讃える「館」がある。

ムハンマドはさらに「スィドラの樹」に至った。

いったい、どのような樹であろうか?


               ・・・

まことにムハンマドは再びガブリエルにまみえた。

さいはてのスィドラの元で。

そのそばには、安息所の楽園がある。

覆う者がスィドラを覆う時、視線はそれることなく、見過ぎることもない。

まことにムハンマドは、主の最も偉大な印を見たのである。(「星」章)

               ・・・


この体験のあと、ムハンマドは一日に5回の礼拝を命じたという。

ムハンマドが一夜のうちにエルサレムを往復したというこの話題は、彼らの間に疑念と動揺を生んだ。

これを契機に、ムハンマドは「深く信じる人」と呼ばれるようになった。

このような盟友の堅い信頼は、ムハンマドにとっては大きな財産であった。



この後、ムハンマドたちは協力して布教を行い、大きな成功をおさめた。

メディナの信徒たちは、わずか2年の間に「戦闘の誓い」を行うまでになった。

メッカでの布教に比べ、メディナでの布教が成功した理由には、いくつかあげられる。

まず、メディナにはユダヤ教徒が相当数おり、一神教的な考え方に慣れていたと考えられる。

また、メッカの人々にとって、ムハンマドの権威を受け入れることは、彼と彼の一族の覇権を認めることであった。

部族的な競争の原理からも、個々人の血統的な矜持からも、これは簡単に受け入れられるものではない。

また、コーラン形成の進展という要素もあった。

ムハンマドの教えは、アラーの啓示としてのコーランを認めよ、という点に尽きる。

彼が預言者であるということも、そのひとの一つの側面である。

その布教においては、コーランこそが最大の武器であった。

コーランは、メディナへの移動時期までに、ほぼ骨格が完成していた。

メッカの人々が次第に断片が結集してゆくコーランを見ていたのに対して、メディナの人々は「啓典」としてかなり熟成したコーランと出会った。

当時のコーランは書物ではなく、ムハンマドと信徒の記憶の中に保存されたコーランであるが、人々のさまざまな質問にコーランを充分に参照しながら答えたことであろう。

ムハンマドがメディナの地に到着したのは、622年のことであった。

ムハンマドはまず最初のモスクを建てた。

モスクの建設には、信徒たちが集まって働き、ムハンマド自身もレンガを運んだという。

これ以降のムハンマドは、新しい共同体の指導者として忙しい毎日を送ることになった。

あらゆる面での指導者としての暮らしが、彼を待っていたのである。


             (引用ここまで)

写真(中)はイスラームのタイル・イラン(AD8~16世紀)
            「岡山市立オリエント美術館カタログ」より
写真(下)は鈴木鉱司氏著「真実のイスラーム」より・メッカのカーバ神殿
     カーバ神殿に詣でる信者たち
         


               *****


イスラム教の成立史をひもといてみて、たいへん興味深く思いました。

要するに、イスラム教は、ユダヤ教の亜種ということになるのだろうか?と思いました。

ムハンマドは、ムハンマドが登場する以前からあったモーゼ・アブラハムへの一神教的信仰を復活させようとしたということでしょうか?

しかし同時にまた、イスラム教の神・アラーはムハンマドが登場する以前から存在したアラブ独自の神であり、しかし、アラブの人々はそれを信仰しなかったことを、神アラーは、ムハンマドを通じて戒めているということになるのでしょうか?

非常に複雑で、ナイーブな問題だと感じます。。

コンプレックスという概念を持ち出したのが、ユダヤ人フロイトであったことなども思い浮かびます。




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まことにこれは、アブラハムとモーゼの経典・・ムハンマドの生涯(5)

2015-03-28 | エジプト・イスラム・オリエント


ひき続き、小杉泰氏の「ムハンマド・イスラームの源流」のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

             *****

           (引用ここから)


「コーラン」の中には、いくつか偶像神が言及されている。

            ・・・

汝らはアッラートとウッザーのことを考えたか。

そして3番目のマナートのことを。(「星」章)

              ・・・

アッラートは立方体の石で太陽神、ウッザーは3本の木で金星神、マナートは黒石で運命の女神とされる。

偶像神は宗教的な意味だけではなく、部族的結合を象徴する側面をもっていたようである。

それらは特定の部族と関わりが深かった。


この時代の彼らは、「アラー」という神の存在を知っていたのであろうか?

そう判断できる材料はある。

              ・・・

あるいは、汝らには息子があり、アラーには娘があるというのか。(「山」章)

               ・・・

という表現がある。

これは部族が、天使を〝アラーの娘たち″と言っていたことを反映している。

アラーという神はこの時代にも知られており、最高神と理解されていたようである。

にもかかわらず、彼らが依拠し、祈願の対象とするのは身近の偶像だった。

多神教の神々が偶像であったのに、アラーには偶像はなかった。

イスラームは、それが新奇な教えではなく、人類の祖・アダムから連綿として続く一神教の系譜に位置すると主張する。


               ・・・

自らを清め、その主の御名を唱え、礼拝をする者は成功する。

しかるに汝らは現世の生活を好む。

来世こそはより良く、永続する。

まことにこれは古の経典の中にある教えである。

それはアブラハムとモーゼの経典。(「始原者」章)

                ・・・


アブラハムは「旧約聖書」の大族長アブラハムであり、ムーサはモーゼである。

カーバ神殿はアブラハムが建立したものであり、その時代には純粋な一神教があったとする。

そうであればこの時代の多神教、偶像崇拝は、そこから堕落したものということになる。

一族は必ずしもそれを否定してはいない。


               ・・・


わが徴(章句)が読誦されると、彼は「それは古人の物語にすぎない」と言う。(「筆」章)


               ・・・


ムハンマドの生まれた部族・クライシュ族の奉じる多神教は「父祖の宗教」とされているから、直接的な祖先たちが伝えている伝統である。

それに対して、コーランが「古人の物語」であるということは、それ以前の宗教と似ているとの認識を示唆している。


「コーラン」は最初期から、この世の暮らしには死後も続きがあって、いつか裁きがあるということを強調している。

それに対して、部族は深刻な疑問を呈していた。


                ・・・

彼らは言う。

我々が死んで土と骨になった時、我々が蘇らされるというのであろうか。(「信徒たち」章)

                ・・・


「コーラン」は唯一神が天地と世界の創造主であることを強調するが、それは部分的には来世の復活を証明するためである。

「コーラン」は言語的な力を駆使して、来世の情景を描き出している。

アラーとムハンマドを信じて楽園に入り、豊かで安らかな生活を得る者と、髪と来世を否定して、火獄に落とされ、はてしない苦しみを得る者の姿を活写し、イスラームへの帰依を迫った。


当時のアラビア半島人は、詩人の世界、言語的イメージの世界に生きている。

絵画的・造形芸術的な要素が弱かったことは、彼らの奉じる偶像が自然石や輸入されたギリシアの彫像だったりすることからも判然する。

優れた仏師などによって造形的なイメージが人々の想像力をかきたてる文化と比べてみれば、その違いは明白であろう。


来世の姿が、言語的イメージを通して、目に見えるものになるとき、時代は根底から揺らがざるを得ない。

それは現世だけのリアリティを前提としていたからである。

イスラームへの入信者は数が限られていたにせよ、クライシュ族全体を不安に陥れるだけの思想的な力が生じていたとみるべきであろう。

対立は抜き差しならない段階へと進む。


ムハンマドが妻ハディーシャを亡くしたのと同じ年に、叔父も亡くなった。

この年は後に「悲しみの年」と呼ばれるようになる。

妻と暮らした25年間は、家庭人としてのムハンマドにとって幸福な時期だったであろう。

「布教公然期」になると、激しい批判、迫害が続き、妻の支えはいっそう重要となった。


叔父の死は、なによりも政治的打撃であった。

叔父に代わって一族の長となった者は、ムハンマドに対する部族の保護を取り消した。

ムハンマドに危害を加える者があっても、報復しないということである。

これによってイスラーム迫害に対する抑止力が失われた。

いまや保護者のいないムハンマドとその信者たちには、直接的な危険が襲いかかるようになった。



初期=「メッカ期」は約13年に及ぶ。

この間に唯一神の存在、ムハンマドが神の使徒であること、多神教の否定、神の恩寵とそれへの感謝、といったイスラームの信仰箇条の骨格は整った。

熱心で自己犠牲をいとわない使徒も徐々に増えた。

しかし、当時のメッカの人口はおよそ10000人。

そのうちのイスラム教改宗者は200人ほどにすぎなかったという。

新天地を求める必要があった。


転機は北方から来た。

多神教の時代においても、カーバ神殿を擁するメッカは重要な巡礼地であった。

その巡礼に訪れた際に、ムハンマドの教えに触れ、新しい教えを受け入れた人々がいた。

メディナの人々である。

彼らは、ムハンマドを自分達の町に受け入れてもよい、との意向を表明した。

しかも指導者として受け入れたいというのである。


メディナでは、部族同志の争いが果てしなく続いていた。

普通であれば、しばらく後に適切な和解と、相互抑制が達成されるものであるが、それもできず悪循環におちいっていた。

そのために、社会秩序が危機的な状況にあった。

そのような時期に、イスラム教が住民の間でかなり広まり、調停者としてムハンマドを招くことが、彼らの社会危機を克服する行為と考えられたのであった。


こうして、ムハンマドの布教第2期が訪れた。


            (引用ここまで)

写真(中)はメッカのカーバ神殿
写真(下)はムハンマドが大天使ガブリエルと遭遇したヒラー山(同書より)


              *****


イスラム教の成立史をひもといてみて、たいへん興味深く思いました。

要するに、イスラム教は、ユダヤ教の亜種ということになるのだろうか?と思いました。

ムハンマドは、ムハンマドが登場する以前からあったモーゼ・アブラハムへの一神教的信仰を復活させようとしたということでしょうか?

しかし同時にまた、イスラム教の神・アラーはムハンマドが登場する以前から存在したアラブ独自の神であり、しかし、アラブの人々はそれを信仰しなかったことを、神アラーは、ムハンマドを通じて戒めているということになるのでしょうか?

非常に複雑で、ナイーブな問題だと感じます。。

コンプレックスという概念を持ち出したのが、ユダヤ人フロイトであったことなども思い浮かびます。



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災いあれ、すべての中傷者、誹謗者に・・ムハンマドの生涯(4)

2015-03-21 | エジプト・イスラム・オリエント


ひき続き、小杉泰氏の「ムハンマド・イスラームの源流をたずねて」のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

預言者として名乗りをあげたムハンマドに対して、世間の人々は恐れ、怪しみ、誹謗します。

典型的な宗教家の姿が、目に浮かびます。。

また、「コーラン」にはこんなことが書いてあったのか?!、、と新たな発見に心躍ります。


             *****

           
           (引用ここから)


当時のアラビア半島は、部族社会である。

部族は、そこに帰属する者にとって、最も重要なアイデンティティを与える共同体であり、安全を保障し、出自に誇りをもたせてくれる存在であった。

さらに半島を支配する統一的な政府はなく、部族同士は互いに優劣を競っていた。


その一方で、それは詩人たちが活躍する社会であった。

遊牧的な社会における言語の価値を、考える必要がある。

遊牧民が持ち運べるものは限られている。

優れたじゅうたん、身に着ける装飾品と並んで、美しい言語は彼らが自由に運ぶことのできる最良の財産の一つである。


このことは5世紀~7世紀のアラビア半島を見れば、はっきりしている。

たとえば、部族の戦いは戦闘だけではなく、詩人の戦いでもあった。勇敢な戦いは、それを讃える優れた詩によって初めて半島全域に流通するメディアを獲得する。

神の言葉が超常的な性質を有するものであるとすれば、詩の言語と雄弁が一つの頂点を極めていた。

詩人の時代のアラビア半島人は、その審判者たる資格を持っていたであろう。

しかし、彼らがムハンマドに投げつけた批判は、次のような章句から見てとることができる。

             ・・・

いや、彼らは言った、それは夢の寄せ集め。

いや彼のつくりごと。

いや、彼は詩人なのだ(「諸預言者」章)

                ・・・



この時代には、狂気は霊精が憑依することで生じると考えられていた。

アラビア語で〝強靭さ″を表わす「マジュヌーン」は、霊精に憑依された者のことである。

ムハンマドがもたらす尋常ならざる言葉を、その超常性を認めつつ、霊精憑依に起因するものと主張することは、彼らの好んだ議論であった。

「コーラン」は、それらに反論している。


               ・・・

まことにこれは、高貴な使徒の言葉である。

〝それ″はけっして詩人の言葉ではない。

それなのに、汝らはごくわずかしか信じない。

〝それ″は、シャーマンの言葉でもない。

これは諸世界の主からの啓示である(「真実の日」章)。

                 ・・・


彼は「アラーの使徒」と名乗ったが、啓示を受け取ることを除けば、一人の人間にすぎないということも自明であった。

「コーラン」は神の絶対性を強調しており、唯一神に対していかなるものを並べ立てることも禁止した。

「預言者」といえども、神格化は許されない。

このことはイスラームの教えの特色の一つであるが、一族からみると逆に不満であった。

「なぜただの人間か?」という問いに対して、「コーラン」の返答は平易である。

   
                  ・・・

彼は言う。

なぜムハンマドに天使が下されないのか、と。

もし我が天使を下したなら、ことはすでに決し、彼ら(誹謗する人々)は猶予されなかったであろう。

                  ・・・



ムハンマドの伝記的事績には、奇跡に類する行為は非常に影が薄い。

ムハンマドにとっては、啓示として「コーラン」を示すことだけが神の証であった。

たとえば天使を人々に見せたり、天から金を降らせるといった奇跡によって自分の権能を示す道は、彼にはなかった。

「コーラン」は終始一貫して、言葉による証明、説得勧誘、場合によっては威嚇などを駆使して教えを説き続ける。

自分の判断と意思によってアラーを認めよ、という要求は、イスラームの大きな特徴をなしているであろう。

ムハンマドの啓示は、伝統に立脚する部族社会の否定であった。

出自、勢力、富などを基準とする社会そのものに、ムハンマドたちは挑戦したのである。

商業で栄えながら貧者に冷たい社会は、厳しく批判された。

                 ・・・

汝は、審判を虚偽だと信じない者を見たか。

それは孤児を手荒く扱う者であり、貧窮者のための食物を与えることを勧めないものである。
                
                  (「慈善」章)


                ・・・


部族の勢力を誇り、富貴に任せて享楽的に生きることも批判された。

                 ・・・


汝は、多寡の争いにうつつを抜かしている。

汝らは、獄火を見るであろう。

その日、汝らは、現世の享楽について問われるであろう。

災いあれ、すべての中傷者、誹謗者に。

それは財を集め、数える者。

災いあれ、計算をごまかす者。

彼らは人々から量って受け取る時は十分に取り、人に渡す時は量を減らしている。
 
                     (「計量をごまかす者」章)


                   ・・・


クライシュ族は、貿易の繁栄によって非常に現世的で享楽的な生活を送っており、多数の偶像を配した多神教も、宗教的・内面的な実態から言えば、退廃していたという見方もある。

社会的にも退廃的な慣行が多くあり、変革を必要とするような社会だったともいわれる。


               (引用ここまで)

 写真(中)は山羊流水文杯・イラン(BC3500頃)
 写真(下)はイスラームのタイル・イラン(AD8~16世紀)
            「岡山市立オリエント美術館カタログ」より


                *****

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衣にくるまれた者よ、立ち上がって警告せよ・・ムハンマドの生涯(3)

2015-03-18 | エジプト・イスラム・オリエント


ひき続き、小杉泰氏の「ムハンマド・イスラームの源流をたずねて」のご紹介をさせていただきます。

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              *****


           (引用ここから)


続く23年近くの生活は、ムハンマドにとって、アラーとコミュニケーションをもった年月であった。

「啓示」はさまざまな時に下った。

時には予期しない時に、思わぬ内容が下った。

時にはムハンマドの必要に答えて、「啓示」が示された。

場合によっては、彼の祈りにも関わらず、啓示が下されるまで長い時間が過ぎることもあった。

いずれにしても彼は啓示された「コーラン」の言葉を師匠として、その導きに従って生き続けた。


しかし、当人にはいかなる確信も持ち得なかったであろう。

にも関わらず、彼は何の躊躇もなく、命じられた道を歩み続けた。

彼は全能のアラーを信頼し、そのアラーが定めた自分の役割に確信を持っていたのであろう。

そのような信頼感や確信というものは、人の人生において確かな手ごたえがなければ成立しえない種類のものである。

ムハンマドはアラーの実在を確かに感じた。

天使ガブリエルは、それ以上に五感に手ごたえのある実在だったであろう。

そして神とその使徒の間の交感が、成立したのである。



それだけではなく、彼の弟子たちもそれを体験しながら生きた。

コーランの表現形態も、アラーが直接ムハンマドに向かって、あるいはムハンマドを通して人間に語りかけるという様式をとっている。

天使はそれをそのまま運んでくるだけである。

つまりムハンマドもその弟子たちも、実在するアラーと直接的に対話して23年間を過ごしたことになる。

「コーラン」は、その対話のアラー側の言葉だけが記録されているのである。

当事者たちは自分側の対応も、あるいは自分の内面もよく知っているから、そこには極めてヴィヴィッドな交感があったはずである。



「啓示」と「啓示」の間隔は様々であったにせよ、絶えることなくコーランの「啓示」が続いた。

「啓示」は続いた。

              ・・・

衣にくるまれた者よ。

立ち上がって警告せよ。

汝の主は、これを讃えよ。

汝の衣は、これを清めよ。

穢れは、これを避けよ。

利得を増やそうとして、施すことなかれ。

汝の主のためには、忍耐せよ。

そしてラッパが吹かれる時、それは苦難の日である。

不信仰者にとって、容易ではない日である。(「衣にくるまれる者」章)

               ・・・


ムハンマドは、警告者としての役割を当てられた。

主=アラーを讃えること、清浄を保つこと、施しは貧者のためであること、主のために忍耐すること、などが命じられ、さらに警告の内容が明示される。


それは「世界の終末の訪れ」と「審判の日」をめぐる警告である。

初期には、命令を下す短い句が多い。

しかし「立ち上がって警告せよ」とは言っても、当初からメッカ全体に布教をするよう命じられたわけではなかった。

近親者・友人にひそかに語る日々が、およそ3年にわたって続く。


               ・・・

汝の近親者たちに警告せよ。

汝に従う信徒には、汝の翼を低く下げよ。

もし彼らが汝に背くならば、わたしはあなたたちの行うことに責任はない、と言え(「詩人」章)

               ・・・




カーバ神殿に近いサファーの丘に立って語ったこともあるが、最初は、対象は直接の血縁者であった。

入信者も、始めのうちは親しい者に限られていた。

最初にムハンマドがアラーの使徒であることを認めたのは、妻ハディーシャであった。

彼女が相談したいとこは、「ムハンマドを訪れたのは大天使である」と言った。

3年の間にイスラームに帰依した者の数は、およそ30名程度と見られる。

ひそかに布教している時期に、彼を信じるものは少数であった。

しかし、ムハンマドが父祖の教えに背く教えを広めようとしていることは、しだいにメッカの人々に知られ、それに対する非難や妨害もなされるようになった。

「公然の活動」をうながす「啓示」が下される時期となったのである。

それは次のような内容であった。


               ・・・

言え!

「わたしは明らかな警告者である」。

布教を妨害するためにメッカの道を分割する者たちにも、わたしは警告を啓示した。

彼らは「コーラン」をバラバラにした。

それゆえ汝の主にかけて、「審判の日」に必ずや彼ら全員を問うであろう。

彼らの行っていたことについて。

そえゆえ、汝が命じられたことを公に語れ!

そして多神教徒から遠ざかれ。

まことにわれは、聴障者たちから汝を守るであろう。

彼らはアラーと共に他の神を置くが、やがてその結果を知るであろう。

それゆえ汝の主を立て、平伏礼をする者の一人であれ。

そして明証が訪れるまで、汝の主につかえよ(「ヒジュルの民」章)


                ・・・


この章句の中の「分割する者達」については、いくつか解釈が分かれる。

カーバ神殿を擁するメッカは、イスラーム以前においても宗教的中心地で、巡礼の季節には各地から巡礼者が訪れた。

彼らはあちこちで、「コーラン」の断片的章句に言及し、それを詩、魔法、聖霊憑きなどと批判した。

さらに〝聴障者たち″はムハンマドの後をつけて、「この者は自分が予言者だと主張している」と周囲の者に大声で言って嘲笑った。


             (引用ここまで)

         写真(中)は、ヒラー山
         写真(下)は、ヒラー山に登拝する信徒たち
                         (同書より)

                *****


大昔、井筒俊彦氏のイスラム関係の本を読んだ時以来、私は久しく、コーランの章句を読んだことがありませんでしたので、この本にはとても鮮烈な印象を受けました。

日本は、イスラム圏ではありませんが、キリスト教圏でもないと思っています。

どちらからも等しく距離をおいて、幾多の文明をながめる視座が必要ではないか、また、有用ではないかと思います。


wikipedia「井筒俊彦」より

井筒 俊彦(1914年5月4日 - 1993年1月7日)は、文学博士、言語学者、イスラーム学者、東洋思想研究者、神秘主義哲学者。慶應義塾大学名誉教授。エラノス会議メンバー。日本学士院会員。

日本で最初の『コーラン』の原典訳を刊行し、ギリシア哲学、ギリシャ神秘主義と言語学の研究に取り組み、ギリシャ語、アラビア語、ヘブライ語、ロシア語など20か国語を習得・研究し、後期には仏教思想・老荘思想・朱子学などを視野に収め、禅、密教、ヒンドゥー教、道教、儒教、ギリシア哲学、ユダヤ教、スコラ哲学などを横断する独自の東洋哲学の構築を試みた。


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