引き続き、岡谷公二氏の「原始の神社をもとめて」のご紹介をさせていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
前回までは、古代日本と朝鮮には、ただならない関係がある、という説が展開されていましたが、今度は、一万年におよぶ縄文時代の歴史の中にある神社、という観点からの考えが出されます。
このような、単純明快にはいかない、あるいは矛盾する事実を並べて、比較検討するというのは、とても面白いと思います。
別の人による別の本ではなく、一人の人の中に、相矛盾する考えがぐるぐるとまわっているのが感じられます。
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(引用ここから)
神社の起源は縄文時代か?
延喜式(927)に登録された2861社の多くが、その時点ですでにかなりの歴史をへた神社であったことは、十分考えられることだ。
古事記(712)、日本書紀(720)には伊勢神宮や大神大社をはじめ、神社の記述がしばしば見られる。
だから、これらの神社は「記紀」の成立時期から数えて少なくとも200年の歴史をもっていたことになる。
さらにその神域内、あるいはその近くに古墳のある神社がおびただしいという事実がある。
そこから、「神社」と「古墳」とのあいだに容易ならざる関係が存するのは明らかであり、神社の起源は古墳時代へと、さらにその先の弥生時代、そして縄文時代にまで遡る可能性もでてくる。
神道研究家の秦氏の言葉で、次のものがある。
「神社の起源は日本民族の出現と時を同じくし、およそ1万年にもなんなんとする遠い遠い古に遡るが、爾来今日に及ぶまで、両者はその栄枯盛衰を共にしてきていると、わたしはひそかに考えている。」
氏が例証として挙げているのは、相模の式内社「比比多神社」と「阿夫利神社」である。
「比比多神社」は、相模三の宮である。
社殿の背後に大山の威容を望む地にあり、大山を神体とし、その遥拝がこの神社の起源ではなかったかと思われる。
神域全体が縄文遺跡で、祭祀跡、住居跡をはじめ多くの遺物が発掘されている。
その一つ、縄文早期の「尖底土器」は、神社において神体同様の扱いを受けており、また社殿よりやや離れたところから、縄文中期から後期の「環状配石」その他が発掘されている。
これらの遺跡、遺物が神社と全く無関係だとは考えられず、縄文以来の祭祀の継続の中から「比比多神社」が生まれたと考える方が自然であろう。
一方の「阿夫利神社」は、大山の山頂に祀られ、「石尊大権現」とも呼ばれるように、大きな自然石をご神体としている。
ご神体は本殿の中にあって、普段は拝することができない。
社殿の背後からは須恵器や土師器が出土していたが、昭和35年には縄文後期の土器の破片が多数発掘された。
ケーブルカーが途中まで設置されている現在でさえ、容易には近づきがたいこの山道で発掘されたこれらの土器片が、神社と無関係とは言い得ないだろう。
伊豆の「大宮神社」は、修善寺温泉に近い中伊豆町上白岩にある。
広々とした田園地帯のさなかに小さな丘があり、そこにうっそうとして古色をおび、いかにも式内社らしいたたずまいの神社の森が茂っている。
御手洗の近くに刀型の不思議な立石が祀られていて、昔から村の人々の信仰を集めているという。
菱沼氏は「たぶん弥生時代のころからこの場所に祀られていたように思われる」と言うが、近くで発見された縄文遺跡からして、この石も縄文時代にさかのぼる可能性がある。
この遺跡は住居跡、土壌群、環状列石などを含む縄文中期から後期にかけての、今から3000~4000年前の複合遺跡であることが判明している。
神社の南方200メートルというその位置からして、この遺跡が神社と何の関わりもないとはとても考えられない。
環状列石は秀麗な山を望見する位置に設けられている場合が多いことから、それを、山を神としてまつる祭祀場だとする意見が出ているのは確かだ。
秋田県の著名な大湯遺跡と黒又山、青森県勝山の環状列石と岩木山など、その例には事欠かない。
そしてそれは、後年の「大神神社」をはじめとする神体山信仰へとつながってゆくものであろう。
(引用ここまで)
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wikipedia「阿夫利神社」より
大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ) は、神奈川県伊勢原市の大山(別名:雨降山〈あふりやま〉)にある神社である。
「阿武利」とも表記し、「あぶり」とも読む。
相模国の式内社十三社の内の一社で、旧社格は県社(現・神社本庁の別表神社)。
祭神
本社に大山祇大神(オオヤマツミ)、摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る。
ただし、これらは明治になってから神仏分離の際に祀られるようになったものであり、江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神である石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られていた。
また、摂社には、奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。
これが全国八大天狗に数えられた大山伯耆坊である。
元々は伯耆大山の天狗であり、相模大山の相模坊が崇徳上皇の霊を慰めるために四国の白峰に行ってしまったために、誰も居ない富士講の人々に信仰されたという。
歴史
社伝には崇神天皇の御代の創建とある。
延喜式神名帳では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している。
天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。
中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。
江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した。
明治時代になると神仏分離令を機に巻き起こった廃仏毀釈の大波に、強い勢力を保持していた大山寺も一呑みにされる。
この時期に「石尊大権現・大山寺」の称は廃され、旧来の「阿夫利神社」に改称された。
明治6年(1873年)には県社に列格している。
戦後、神社本庁には属さず、昭和27年(1952年)8月より阿夫利神社本庁として単独
で運営されてきたが、近年、神社本庁の傘下に入った(阿夫利神社本庁も存続)。
wikipedia「日本のストーンサークル」より
環状列石は、長径30~40メートルの隅丸方形に配石した遺構である。
一番外側に、二重・三重に川原石を環に並べた「外帯」と、多くの場合、その中心に「内帯」がある。
「内帯」の内側は、直径5メートル内外の方形または円形の広場ができている。
これらの配石の下に墓穴があったり、石列の間に土器棺があることが多い。
そして、環になっている石の一部が途切れ、幅2~3メートルの通路ができ、両側に石が並び外に続いている。
以上のような環状列石が、日本においては、現在までに主に東北の青森県と秋田県北部、北海道渡島半島を中心に道北を除いて道の各地に検出されている。
血縁・地縁をもった氏族の連合が40~50キロほどの距離をおいた領域を占有し、その中心に祭の場を築造したのではないか、と考えられている。
この遺跡が日本ではじめて公表されたのは1886(明治19)年小樽市の忍路環状列石である。
東北地方から北海道にかけてのストーンサークルは縄文時代中期後半から後期にかけて作られている。
大きさは直径30m以上のものと直径10m以下のものがあり、大きいものは祭祀の場として作られ、小さいものは竪穴住居の周囲に石を置いたものが多い。
直径が30m以上のものは、まず縄文時代中期の終わりごろに静岡県、山梨県、群馬県付近で作られる。
続いて縄文時代の後期前半に秋田県北部や青森県、北海道西南部で作られる。
同じころ、岩手では石を直線状や弧状に並べるものが作られている。
配石遺構は、縄文中期後半から後期になると各地で築造され、九州を除いた日本各地で発見例が増えてきている。
現在までのところ最も古いと考えられているのは長野県諏訪郡原村にある阿久遺跡の配石遺構で、縄文時代前期のものと推定されている。
東北地方
秋田県鹿角市の大湯環状列石が有名である。
大湯環状列石は大きな2つのストーンサークルでできているが、近くには構造が似ている一本木後ロ遺跡があり、これは墓であることが調査によって明らかになっている。
このため、大湯環状列石も墓群とそれに付随する祭祀の場であると推測されている。
大湯環状列石には日時計状組石があり、環状列石中心部からこの日時計中心部を見た方向が夏至の日に太陽が沈む方向になっている。
同時に野中堂環状列石から万座環状列石を見た方向もその方向になっている。
大湯環状列石の万座環状列石は日本最大のストーンサークルである。
大湯環状列石の周囲には建物跡がある。
青森県青森市の小牧野遺跡のストーンサークルは細長い石を縦横に並べる独特な石の組み方をしており、これは「小牧野式」と言われている。
小牧野遺跡では人が死ぬと最初に土葬をして、次に肉が腐ると骨だけを甕棺土器に入れて再葬した跡が残っている。
土葬用の穴が50基に対し再葬用の穴が3基しかないことから、再葬は有力者のみが行ったと思われている。
秋田県北秋田市の伊勢堂岱遺跡には3つのストーンサークルがある。
ここにもストーンサークルと少し離れた場所に日時計状組石があって、ここから一つのストーンサークル中心部を向いた方向が、夏至の日に太陽が沈む方向になっているのが興味深い。
伊勢堂岱遺跡も墓群を中心とした祭祀の場である。
ここには小牧野式石組もあり、大湯式の日時計状組石と共存することで注目された遺跡である。
そのほか、東北地方には大森勝山環状列石(青森県弘前市)、太師森環状列石(青森県平川市)、湯舟沢環状列石(岩手県滝沢村)などがある。
これらはいずれも縄文時代前期~中期には円筒土器文化圏に属した地域に所在する。
北海道
道内では、渡島半島・日本海側からオホーツク海側にかけてストーンサークルが検出されている。
例えば渡島の鷲ノ木遺跡(森町)、後志の忍路環状列石、地鎮山環状列石(小樽市)、西崎山環状列石(余市町)など、また石狩川上~中流域の音江環状列石(深川市)、神居古潭ストーンサークル(旭川市)などが挙げられる。
このうち忍路環状列石は日本の考古学史上において初めて学会にて報告されたストーンサークルであり、2番目に発見報告された音江環状列石と共に、国の史跡に指定されている。
鷲ノ木遺跡は道央自動車道の建設中に発掘された。
その後の調査で国の世界遺産暫定リストにも名前を挙げられる程貴重であることが分かったため、遺跡の真下にトンネルで通すことで開通に至った。
その他の地方
•群馬県安中市にある天神原(てんじんばら)遺跡は、後・晩期に属し、配石墓]のうえに環状列石が並んでいる。
その周辺の溝から掘立柱建物や石棒祭祀の後がみられ、その外側に周堤が巡らされ、その周堤の外側に住居が建てられている。
•長野県諏訪郡原村の阿久遺跡の配石遺構は縄文時代前期のものと推定されており、今までの発見例からでは最も古いと考えられている。
•東京都町田市の田端遺跡にも縄文中期のストーンサークルがある。
この遺跡の石柱を結んだ線は冬至に太陽が沈む方向を向いている。
•野村遺跡(群馬県安中市)では冬至には妙義山に太陽が落ちる。
•縄文中期末葉の千居遺跡(静岡県富士宮市)と牛石遺跡(山梨県都留市)には環状列石と配石遺構が見られ、富士山周辺の祭祀遺跡として注目されている。
•和歌山県海南市溝ノ口遺跡で竪穴住居の他にストーン・サークルが見つかっている。
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などあります。(重複しています)
○様
コメント、どうもありがとうございました。
そうかもしれません。
分かりません。
日本の文化から、中国と朝鮮半島の文化の影響を引いた時に、何が残るのか、難しいですよね。
縄文の文化は日本列島で独自に発生し、それが日本人の原点だ、ということは、筆者も肯定しています。
神社の歴史は縄文時代に遡るのだ、と書いています。
だからこそ、済州島の文化と類似しているのは不思議だと書いているのだと思います。
このテーマで、最後の記事をアップするのを忘れて、ナバホのことをアップしていまいました。
明日、最後の記事をアップします。
答えが出るわけではないのですが。。
その影響を受けている日本学界もバイアスがかかっているように思えます。つまり人の意志の介入が見えて素直に楽しめない。
コメント、どうもありがとうございます。
お盆で帰省しており、失礼いたしました。
これは、、けっこう大変な問題ではないかと思っております。
わたくしも、ずっと考えておりますが、よくわかりません。
今後とも、謎解きに挑んでゆきたいと思っております。
結局、純和風というものを、誰が作ったのか?ということが、よくわからないのです。