始まりに向かって

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ナチスドイツの障がい者大殺戮とやまゆり園(1)・・ただの医者たちが20万人の「障がい者」を殺した

2016-11-28 | 心身障がい




やまゆり園大量殺戮事件の犯人の、知的障がい者を殺害の標的にするという発想は、幾人もの人たちに、「ナチスドイツの大量殺人の思想に近い」と言及されていました。

そこで、ヒュー・G・ギャフラー著「ナチスドイツと障害者「安楽死」計画」という本を読んでみました。

驚くべきことに、ナチスドイツ政権下では、20万人を超える「障がい者」たちが、ユダヤ人大量殺人が行われる以前の段階で、殺されていたということを、わたしは初めて知りました。

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              *****

              (引用ここから)


障がい者の社会史に関する雀の涙ほどの資料を読み進むうちに、私は、ナチスドイツのいわゆる「安楽死計画」に関心を持った。

第三帝国期に生じた医学的事件は、社会の一部が絶え間なく「障がい者」に対して抱いている敵意と恐怖を浮き彫りにしていることに気づいたのである。

ドイツの医者はこういった感情を、異常で明確な形で行動に移したため、何が起こっていたのかについては疑う余地はない。

1930年~1940年代にドイツで起こったこと、ドイツの医者が〝障がいを持つ患者″に行ったことは、ドイツのみならず、世界中の「障がい者権利運動」に重大な意味を持っている。

ドイツの医者を行動へかりたてた感情は、世界中どこでも見つけられるからである。


異なる者への根深い恐れ、病人や障がい者の持つ弱さへの強烈な憎しみ、完璧な健康、完璧な肉体、完璧な幸せへの異常な衝動。。

みな世界共通である。

しかしこれらは空想であり、価値がない。

「身体障がい者」や「精神障がい者」に関して、今日の社会感情を支配しているのは、疑いようもなく福祉と公正さを求める人間的な配慮である。

しかしこの感情には〝裏側″がある。

永続的な「障がい者」は、他者であり、村八分にされ、恐るべき敵とみなされてしまう。

ナチスドイツが白日の下に晒したのが、この〝闇″の面である。

誰にも〝闇″の面がある。

〝闇″の中には強烈で、時には狂暴ですらある感情が渦巻いている。

怒り、恐れ、憎しみ、狂った人間。。

自分自身の感情によって圧倒されてしまった人間は、恐るべきことをしでかすことがある。

狂った民族も同じである。


アドルフ・ヒトラーの帝国をどう解釈すればいいのか?

狂乱した人間のように、ドイツの民族全体が狂気に取りつかれたようだった。

「アドルフ・ヒトラーの狂気がナチスドイツを生み出した」と言われてきた。

しかし「1920年~30年代のドイツの狂気がヒトラーという形で現れた」というのも、同様の真実である。


ヒトラーは狂っていた。

しかしヒトラーは確かに狂ってはいたが、彼は彼の時代のドイツをまさに体現していたとも言えるのである。


ヒトラー帝国にいた医者は、慢性病患者を殺害する計画に参加した。

20万人以上のドイツ市民が、自分たちの医者の手によって計画的に効率よく殺されたのである。

命を失ったのは、社会のよき市民だった。

多くは、施設に収容されていた「精神障がい者」、「重度の障がい者」、「結核患者」、「知的障がい者」であった。

医者の目で「生きるに値しない」と判断された生命だった。

この計画は、ヒトラーが承認し、第三帝国の国家社会主義政権の支持の下で実行されたのは事実だが、これを「ナチス計画」と名付けるのは誤っている。

これは「ナチス計画」ではなかった。

この計画の生みの親は、医者であり、実行者も医者だった。

医者が殺したのである。


基本的な考え方は、50年以上にわたり議論の対象となっていた「社会進化論」の原理と、花開きはじめた「優生学」を論理的に応用したにすぎないのである。

基礎となっていたのは、欧米で幅広く受け入れられていた優生学、遺伝学、生理学であり、それが殺人の正当化に用いられた。


「第2次世界大戦中にドイツの医者が患者に何をしたか?」という問題を、世界は概して無視してきた。

まるで何事も無かったように戦後、ドイツの医者は再度白衣を身に着けた。

ニュルンベルクアイバン(戦後に開かれた連合国による戦争犯罪者に対する国際軍事裁判およびアメリカ軍事裁判)の一部がこの問題を扱い、何名かの個人への訴追が行われたが、それだけである。

行われた裁判は満足のいくものではなかった。




「患者殺害計画」の方こそが、時代の精神を形成していったのである。

「ホロコースト」への前触れとしての役割を果たしたのである。


医療倫理の崩壊であった。

患者と医者との信頼関係への裏切りであり、「ヒポクラテスの誓い(患者に適切な治療を行い、害を与えないという医者による誓い)」の最大の放棄であった。

「生きる権利」と「死ぬ権利」というナチスが解決しようとした問題は、疑いようもなく現代の課題でもある。

現代の医療技術によってこの課題は緊急性を増し、一層困難になっている。

しかし課題自体は終わっていない。

誰が生きるべきで、誰が死ぬべきなのか?

そして何より、誰がその決定権を持つのか?という問題を、ナチスドイツのような中央政府が全般的な政策を策定しようと企てる際に何が起こったのかを見るのは教訓的である。


彼らは、自分自身のおごりによって、判断不能となった殺人者だったことは疑う余地はない。

「進歩」の追求は、集団殺人を正当化できるとする機械論的信仰である。

この側面はこれまで秘密に包まれてきたが、白日の下に晒されなければならない。

狂犬よりおぞましいのは、〝人類を「完璧」にするためには殺人も許される″という、絶えることない信仰であり、おごりたかぶった専門職集団が、他人の権利、生命への干渉を歓迎したことである。


第三の王国がある。

「障がい者」の地である。

ここには民主主義など、かけらもない。

あるのは独裁だけである。

ここでは、普通にあるはずの市民の権利や特権は通用しない。

巨大な壁がこの場所を囲み、壁の内側で何が起こっているのかは外部にはほとんど伝わらない。


         (引用ここまで)
   
 (写真(下)は殺人の中心地であったハダマー精神病院・1945年撮影 同書より)

           *****

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因果と言われるのはつらい・・花田春兆氏「日本障がい者史」(2)

2016-11-23 | 日本の不思議(中世・近世)


引き続き、花田春兆氏の「日本障がい者史」のご紹介を続けます。

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              *****


            (引用ここから)


●古代(平安朝時代・貴族の「障がい者」・岩倉の里子・クグツ・因果応報)

都が京都に移って平安時代になると、「障がい者」は歴史の表面から姿を消していきます。

外来の漢字から、日本独自のかな文字が生まれ、柔らかな文字による女流作家の物語が文学の主流になるなど、日本独自の文化が作られた時代・・それは天皇家を軸にして藤原家など限られた貴族の時代でした。

「やさしさ」と「典型」が求められた貴族社会では、「障がい者」などは、〝異形の者″として忌避されたと思われます。

平安朝の大学者であった菅原道真の使いが密かに教えを乞いに訪れたと伝えられる学者は、都の西の嵯峨に住んでいました。

昼も帳を下していたそうで、よくは分かりませんから、結核などの内部障害だったのかもしれませんが、ともかく障害をもつために、宮廷のサロンから離れて一人書物に親しんでいたのでしょう。

また都の東の郊外の清流のほとりには、盲目の琵琶の名人が住んでいて、通る人々の耳を楽しませたとあります。


これらは、貴族の家の人でも「障がい者」となれば表の舞台である宮廷からは遠ざけられて、郊外の別荘で日を送らなければならなくなっていたということではないでしょうか?


またこの貴族社会では、「物忌み」という風習がさかんに重んじられていました。

その起源とも思われるものはすでに「古事記」の中で、神話から歴史へ移った部分で、垂仁天皇の息子だった「ホムチワケノミコト」のくだりにも見られます。

〝ものを言わず″・・つまり聾唖状態だったこの息子を、治療のために旅出たせる時、「この道を行くと目や足の悪い人と会って良くないことになるから」、と遠回りをさせたという例があります。

要するに「穢れ」と称される〝悪いもの″〝悪いこと″とされたものからは身を避け、もし耳目に触れた場合は、「穢れ」が清められるまで留まって、謹慎しなければならないという風習です。

その「物忌み」の風習が、この貴族の社会では、占いと重なり合って病的にまで盛んになったのです。


「穢れ」のランクまで、きちんと決められていたようです。

「障がい者」もランクされていたようです。

こうした風習は一種の圧迫となって、「障がい者」が大手を振って歩けない状態を作ったことが考えられるでしょう。

山野に隠棲して生活するというのには、本人の嗜好以外に、こうしたいわば〝外圧″の作用をしていたものの影響も考えないわけにはいかないのです。


更に、都の北にあたる「岩倉」には、「精神障がい者」や「精神薄弱者」との深いつながりが伝わっています。

天皇家にゆかりの姫君が心の病にあった時、この土地の滝を浴びて治ったということで、滝参りする人が増えました。

しかしすぐに治る人ばかりではありません。

長逗留ともなると費用もかかるので、土地の農家に預けられる子供もありました。

こうしたケースが発展して、貴族の「精薄児」または「精神障がい児」がこの農家と養子縁組をすることが行われるようになります。

貴族にとっては付き添いをつけての滞在費の軽減となり、一方の農家にとっては土地争いが起きた時の有力なバックアップを得るというメリットがあったのです。

またその子供にとっては、町の中でなく大自然の中で育てられることで、解放療法になるメリットがあったわけです。

この一種の里親制度は、この土地に1000年以上もの間、時代を超えて伝わり、つい最近まで現存していた、というのですから驚く他ありません。



貴族の中の「障害児」は、表舞台の宮廷から遠ざかった郊外で、ひっそり守られながら生活を送っていたと考えられますが、そうでない庶民の場合はどうだったでしょうか?

貴族がそれぞれに荘園として土地をもつことによって、公地公民の理想は完成する以前に、崩れ始めていきます。

しかし、崩れる以前から、納めなければならない租税の重さや、土地に縛られたくないという理由で、土地を離れて、いわゆる流民となる人々が出始めます。

当時の都会に流れ込んで定住する人もいれば、流民となってさすらう人も出て、やがて集団化していきます。

こうした集団は盗賊化していったものもあったでしょうが、芸能集団としての性格を備えるものもありました。

「クグツ」と呼ばれる集団がそれですが、「クグツ」という本来の名の起こりである「操り人形使い」ばかりでなく、

コマ回しなどの曲芸師、踊り子、琵琶や笛や太鼓の奏者、道化師などが数十人の一座を組んでいたのです。


その集団の中にはカリエス,メクラ、クル病、小人などの「障がい者」がいたようです。

「障がい者」は〝軽減税″であるとはあっても〝免税″ではないのですから、本人にとっての負担はもとより、周囲の人々の負担を増加させる結果にもなっているといえますから、耐え切れずに土地を離れる「障がい者」も多かったはずです。

そうした人々が頼りにして保護を求めたのが、「クグツ」の群れであったことは容易に考えられましょう。


大和・奈良の時代には外来文化の先端であった仏教が、この時代になると生活の中に、少なくとも貴族の生活の中に浸透してきます。

仏教を広く伝えるための仏教説話の中にも、「障がい者」は姿を見せます。

しかしそれらの仏教説話はもともと仏とか高僧の功徳や法力を誇示するためのものですから、「障がい者」に重点をおいたものとはいえないでしょう。

それよりも仏教が浸透していくにつれて人々の間に浸透していく〝因果応報″の思想が、「障がい者」にとって大きな影響をもってくるのです。


奈良時代のこと、行基という僧侶がいました。

高僧で、道路や橋などの土木事業、施薬などの救済事業も卓抜だったらしく、菩薩とさえ崇められていた人なのですが、

その行基が、説法の席で、〝泣き喚く子(今でいう〝重症児″)″を川へ流させた、というかなりショッキングな話です。

これも「前世の因縁」で取り付いていた悪魔を、その法力によって見破り、親を解放してやった、という功徳話なのですが、こちら(障がい者)側から見れば、決して後味の良いものではありません。

「障がい」を負って生まれてきたことが、〝前世″において悪事をした〝報い″だという、この考えで、周囲から見られることが、どれだけ「障がい者」に負い目を負わせ、生き方を委縮させてきたことでしょう。

自分の知らない〝前世″での責任を言われるのは、どうにも割り切れない感情が残りますし、現世での苦労が来世での幸福を約束してくれるのだから、と慰められたとしても、どうもすっきりしません。

〝悪いこと″をした報いで「障がい者」になっているのだ、という烙印は、どうにも快いものではありません。

             (引用ここまで)

              *****


この僧・行基の説法について、同じく障がい者であられる研究者・河野勝行氏は、「障害者の中世」という本で、次のように述べられています。


           
     
             *****


          (引用ここから)


「障がい児」の生まれる原因を女親の不正な行いに求め、「障がい児」の存在を否定し、合わせてその責任も女性に帰してしまう論法は、9世紀初めに成立をみた「日本霊異記」の説話中にも拾えます。

僧・行基の説法の聴聞に、大きな子を背負った貧しい母親が通ってくる。

その子は十余才に見えたが、歩くことはできなかった。

そして、母の背で物を食らうに暇がなかった。

しかも「もっとくれ」と泣きわめくのである。

行基は母親に「その子を川に捨てよ」と命じる。

しかし女はわが子への慈しみから、その命には従わない。

幾日かそれがくりかえされるが、結局、母親は指示に従う。

すると果せるかな、その子は水に沈みつ浮きつしながら、正体を現す。

「俺は前世でこの女に物を貸しながら返済してもらえなかった主だ」。

「そこでこのような姿となって、むさぼり食うことでとりかえそうとしたのだ。見破られて口惜しい」と。


蛭子(ヒルコ)と異なり、仏教的色彩を濃く持っていますが、女親に責任を帰する点など、論理的構造はまったく同じです。

       (引用ここまで)


         *****


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七福神と障がい者・・花田春兆氏・日本障がい者史(1)

2016-11-19 | 日本の不思議(中世・近世)



脳性麻痺の俳人・花田春兆氏がライフワークとして取り組んでおられる「人物・日本の障がい者史」として書かれた部分を、同書「日本の障がい者・今は昔」より一部ご紹介します。

          
           *****

        (引用ここから)


●古代(神話・伝説の世界・奈良時代)

「ヒルコ」

日本の「障がい者」は、歴史の始まりと共に登場します。

「古事記」という日本に現存する最古の歴史書、この書物のごく初めの部分にイザナギノミコトとイザナミノミコトという男女二人の神が出てきます。

日本版のアダムとイブとでも言えましょうか?

この二神の間に生まれた最初の子供が、3歳頃になっても手足がグニャグニャで、口もきけない。

現代風に言うと、未熟児出産による脳性麻痺の「重度障がい児」でした。


水田の中をヒラヒラ泳いで生き物の血を吸うヒルに似ている、というので、「ヒルコ」と名付けられたその子は、神として成長することもなく、葦の舟に乗せられて、海に流されてしまいます。

両親が新しい国造りの仕事に忙しかったからです。


歴史の表面からは消されてしまった「ヒルコ」ですが、長い歳月の後に、民間信仰の中で「福の神」の「エビス」として復活するのです。

「蛭子」と書いて「エビス」と読ませている例があるのですから、これ以上の証拠はないことになりましょう。



この神様は耳が遠いので、願い事をするときは神社の羽目板をけとばして念を押す、という妙な風習があるのも、言語障害があって返事の確認がしにくい脳性麻痺患者の特徴と関係付けられそうです。


この「エビス」という「福の神」は、釣った鯛をかかえた姿で知られるように、漁業の神として祀られるのです。

流された葦の舟が沈まずに、陸に流れ着いた「ヒルコ」は、その土地土地の人々に支えられ、岸に腰を据えたままできる釣りを覚え、じっと集中ができるところから、やがて潮具合を見ることにも上達して、人々にも教えて重宝がられたのでしょう。

そう解釈すれば、立派なリハビリテーションです。


●七福神



この「エビス」をはじめとする7人の「福の神」を祀る信仰は、江戸時代の中期以降(18世紀後半)にさかんになるのですが、ただ一人の女性である弁財天を除いて、後の6人は皆、「障がい者」ではないか?、などとその頃の庶民の風刺の詩には詠まれています。

「弁天を のぞけば 片輪ばかりなり」   古川柳

そう言われてみれば、「エビス」の脳性麻痺状態をはじめとして、精神薄弱とか水頭症とか骨異常とか、異常な肥満とか、障がい者と見られそうなものばかりなのです。



もっとも、名のある「福の神」ではなくても、福子伝説、福子信仰と呼ばれるものは日本の各地に存在しているようです。

障害を持った子が生まれると、その家は栄えると言われていて、そうした子供は大切に育てられたのだそうです。

これは、障害児が生まれるとその分負担が大きくなるのは当然でしょうが、それだけに親は覚悟を決めて働けば、一家が心を一つにして励むことで、結果として繁栄することになるというのでしょう。

そうした現象を、他の家の人々は、あたかも「その子供が福を持ってきた、と言ったのでもあり、当のその家の人たちも、そう思うことによって気を取り直したことでしょう。


「七福神」は多国籍集団とも言えます。

純粋に日本産なのは「エビス」だけで、「エビス」と相称される「ダイコク」は、これが「大国主命」であるとすれば日本産ですが、「大黒天」が本当だとすれば、明らかにインドの神様なのです。

他の5人の神は、紛れもなくインドと中国の神なのです。



これはわたしの推論なのですが、日本で「障がい者」が歴史の表面に現れてくるのは、大陸からの帰化人とか南蛮人と呼ばれたヨーロッパ人などの渡来によって他民族を意識させられた時代ではなかったかと思われるのです。



話を再び1200年以上も昔に書かれた「古事記」の世界に戻しましょう。

「ヒルコ」以外にも「障がい者」と思われる存在が記述されています。


先ほど「福の神」として名の出た「大国主命」(ダイコク)を助けて国造りに功績のあった「スクナヒコナノミコト」は間違いなく「小人」でした。

父神の手の指からこぼれ落ちたこの神は、イモを舟にし、小鳥(または蛾)の皮を丸剝ぎにしたのをそのまま着て登場します。

いかに小さいか分かるでしょう?

この「スクナヒコナノミコト」を「大国主命」に紹介、橋渡ししたのが「クエビコ」という神です。

この神は、片方の足しかなかったのです。

稲田に飛んできて稲をついばむ雀を追い払うために立てられる一本足の粗末な人形を、日本では「カカシ」と呼んで、田園の風物詩でもありますが、その「カカシ」の祖先ということになりましょうか?

「クエビコ」についての「古事記」の紹介文が、まことに良いのです。


「足は行かねど、天が下のこと ことごとく知れり」、というのです。


神話、伝説から歴史の世界へ移ります。

「古事記」の成立した時代は、大和地方(奈良)を本拠地にした天皇家が勢力範囲を広げて、統一国家をめざしていた時代でした。

「古事記」が書かれたのも、天皇家の正当性を立証し、誇示するのが目的だったのです。

統一国家としての強い中央集権の確立をめざして、公地公民を基盤にした法律を定めました。

この法律の中に、「障がい者」が堂々と明記されているのです。

租税の免額措置です。

一般の人々に土地を分けて耕作させ、収穫の大部分を納めさせるという制度の中で、「障がい者」は納める額を減らすという規定です。

それも「障がい」の種類と軽重の度によって、いくつかのランクに分けている、まことに見事なものです。

公の法律で「障がい者対策」を明示している法律は、第二次世界大戦後の現在に至るまであまり知りませんから、この古代の法律は実に画期的なものだと言えましょう。


大胆な推論をするなら、この二つの時代、つまり大和朝廷の成立期と第二次世界大戦の敗戦後とには、共通するものが大きいのです。

社会基盤の変動によって、「障がい者」が社会の表面に現れざるをえなかったという点です。

天皇家を中心とした大和朝廷による国家統一が進むにつれて、それまでの地方豪族は滅ぼされていきます。

豪族制から貴族制への移行です。

それによって豪族の保護下にあった人々が、庇護を失って、巷に流れ出したことが考えられます。

それと同じに、今般の敗戦下では、直接戦災によるものはもちろん、核家族化の進行による家族主義の崩壊傾向によって、大家族の壁の中に守られていたものがいきなり外に放り出されるような現象もあったのです。


もう一つこの時代は、今で言う「社会事業」に当たるものが盛んだったようです。

悲田院(=老人ホーム)、施薬院(=医療施設)に代表されるのがそれです。

直接「障がい者」のためのものとはうたっていませんが、どちらも対象者の中に多くの「障がい者」が含まれていたことは疑いがないでしょう。

そしてそうした福祉事業のシンボル視されていたのが、藤原家から天皇家に入った光明皇后ということになっています。

          (引用ここまで)

写真は1984年1月号・雑誌「太陽」「特集・新年七福神巡り」より

上から

「各地の土人形の恵比須神」
「浅草寺の節分行事の七福神」
「隅田川七福神発祥の元となった、向島百花園の福禄寿(ふくろくじゅ)神」
「京都・長楽寺の布袋尊」

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岩倉の狂女 恋せよ ほととぎす(蕪村)・・花田春兆著「岩倉」考

2016-11-15 | 日本の不思議(中世・近世)



脳性麻痺の障がいを持ちながら、同病の方たちと作る「しののめ」という俳句の同人誌の主筆であり、障がい者問題に長く広く関わっておられる花田春兆氏の「日本の障がい者・今は昔」という本をご紹介します。


HP「春兆のページへようこそ」もあります。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~shuncho/


           *****

        (引用ここから)


「岩倉の狂女 恋せよ ほととぎす」

芭蕉に次ぐ古典俳句の大家として知られる与謝蕪村の晩年の句に、こんな目をひく作品がある。

思いつめたような激しさで鳴くほととぎすの声に、気違いというのは少々ニュアンスを異にする、もの狂いの女性の恋するひたむきさを想い合わせた、いわば幻想の句なのだ。

京都の「岩倉」は田舎びた土地で、ほととぎすがよく聞けるような場所だったことは、南北朝のころの「徒然草」にも出てくるから、それ以前から知られていたらしい。


でもなぜ、京都の「岩倉」と狂女が結びついたのか?

多くの蕪村についての評釈書も触れていない。


平安時代後期の後三條天皇に、佳子内親王という姫君がいた。

この姫君が、精神がおかしくなられた。

一時的な精神障がい、もしくはノイローゼであったろう。

ところが内親王は「岩倉」へ行って、日ならずして治ってしまう。

大雲寺の「不増不減の泉」と「不動の滝」との、明らかな霊験のおかげということになる。


噂はたちまちに広まって、精神障がいや精神薄弱の人を連れての岩倉参りの列が始まる。

「岩倉参り」と言うよりも、霊験が現れるまで滞在するのだから、「岩倉ごもり」と呼ぶべきかもしれない。

ピーク時には800人に達した、とする記録もあるそうだ。


付近の農家がそうした人々を泊めて、現在の民宿もどきのものができたことも考えられる。

それでも治らずに長引くとなれば、経費節減のために養子縁組のシステムをとるケースも定着していったらしい。

土地をめぐるいざこざが起こったりした時、都の貴族に縁故を持つことは、農家にとってもメリットがあったのである。

そして農作業などは、治療に役立ったことも、もちろんであろう。


後三條天皇は西暦1000年頃、つまり11世紀の頃だから、蕪村とは700年近く隔たっている。

「岩倉の狂女」は、蕪村自身は幻想で句作したかもしれないが、なんと「岩倉」には、その当時も明らかに実在していたはずなのである。

というのは蕪村からさらに100年あまりを経た明治29年、ロシアから訪れた医者が「「京都の岩倉」は精神治療の世界的なメッカとも評すべきだ」との意味のことを発表しているからだ。


終止符が打たれたのは、終戦後の昭和25年。

「精神病者はすべて医者の、つまり医療施設の管理下に置かれるべきだ」とする国の方針が確定し、「岩倉」のシステムが非医学的でいい加減なものだと評価されたからである。

現在行われている精神障がいの治療、もしくはアフターケアとしての外気解放の生活療法、その先端を行っていたとも思われる900年来の伝統と、それを絶ってしまった管理中心の医療行政。

果たしてどちらが新しかったのだろうか?


           (引用ここまで)


            *****


この本は、非常に興味深く読みました。

京都の北にあるという「岩倉」という農村の名は、はじめて聞きました。

そこに1000年近くも、「精神障がい」の方々が普通の村人と共に生活する場所があった、ということに驚きました。

1000年というのは、長い長い時間です。

はたしてどんな日々だったのでしょうか?

また、この「京都の岩倉」では、「精神障がい」の方と「知的障がい」の方が混在して、村の方々と共に、村の家々で生活していたということだと思われます。

今まで連続してご紹介してきた記事は「知的障がい」の方がたのことで、この話は「精神障がい」の方の話が新たに加わっています。

二つの疾患は別のものだと思います。

さらには「身体障がい」もまた、全然別の疾患だと思います。

そのことも考えながら、寛容だった日本の農村の歴史に、思いをはせたいと思いました。




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幸福になる権利・・「ピープル・ファースト」(3・終)

2016-11-13 | 心身障がい


引き続き、ジョセフ・P・さんの「哀れみはいらない。全米障がい者解放運動の軌跡」のご紹介を
続けます。

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          *****

        (引用ここから)



マイクを握ると、心からの声を伝えるパワーが湧き出てくるようだった。

また聴衆は一心に発表を聞きながら、意見や感情を共感し、まったく新しい物の見方を吸収した。

人の話を聞き、共感すること。

時には意見の違う相手と交渉し、怒らずに相手の意見に反対すること。

参加者はこれらを学んだ、と 彼は回想する。

「オレゴン・ピープル・ファースト」という名は、1974年に開催された会議の準備段階で、一人のセルフ・アドボケーターが意見したことに由来する。

彼は「知恵遅れ、障がい者、ハンデキャップ」といった言葉遣いに反対して、こう言ったのだ。

「まず、人間として、扱われたいのです(I want to be treated like a person first)」



〇「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」の、アメリカでの成長

このような歴史を持つ「セルフ・アドボカシーだが、その主張を広めていくことは、黎明期の人々が思ったほどには容易くはなかった。

それはこの時代が、ちょうど施設閉鎖の努力が始まったばかりの時期であったことにも関連する。

つまりそれまで施設で暮らしてきた人たちは、自分の意見を主張しようにも意見を決める材料を持ち得ていなかったし、

持ち得たとしても、選択できなかったのである。

当時の「障がい者」にとっては、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」は、あまりにも新しすぎるアイデアで、親たちは脅かされさえしていた。

法律も、依然、「障がい者」たちの基本的な生活上の権利を制約していた。

たとえば1980年になっても、33州では「知的障がい者」の結婚を禁じていた。

連邦地方裁が、連邦政府の「障がい者断種手術目的補助金」を禁止したのは、1974年が初めてだ。

このような全体状況から、70年代中盤以降にならないと、当事者による「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」運動は始まらなかった。

その後15年間は、ちょうど「障がい者」の権利運動全体も大きく成長した時期だ。

この運動の象徴とも言える「自立生活センター」は、それ以前から年とともに各地に設立されるようになったが、「知的障がい」を持つ人々へのサービスはほとんどなかった。

当時はまだ、「知的障がい者」の運動は、「障がい者権利運動」の輪に入っていなかったのである。

「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」は、この運動の模倣であったと同時に、権利運動の輪に加わろうとする取り組みでもあった。

社会の対応が変化したことも、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利を主張する)」の成長を促した。

今までずっと施設で育ち、生活してきた「知的障がい者」たちが、地域のグループホームやアパートに引っ越すようになり、「障害を持つ児童」は施設でなく、家族と暮らして育ち、地域の学校に通うようになったのである。

地域での生活を通し、彼らには、自分で決める練習の機会がたくさんできた。

自分でどうしたいいかを決められるようになれば、政治的な権利を主張するようになるまでは、あと一歩と言えるかもしれない。



ホプキンスが高校を卒業した時に、身についていたのは、最低限の読み書きだけだった。

彼は大工仕事に必要な技能を身につけたいと期待して、慈善団体経営の作業所に入ったが、そこではめったに仕事もなかった。

たまに小さなネジの数を数えて、ビニール袋に入れ、雀の涙ほどの賃金が支払われただけだった。

ホプキンスは、大工仕事の「だ」の字も教わることなく4年半、作業所に通ったが、結局辞めた。

「あの作業所は、要するに、成人のためのデイケアと同じなんです。それだけの場所です。

「ピープル・ファースト」に関わり合い出して、分かったんです。

同じようにひどい目に遭っているのは、自分だけではなく、福祉の制度は私たちのような人間の価値を卑しめ、搾取し、奴隷扱いしてきました」と、彼は説明する。

「作業所は、社会から隔離されていました。

どうしてこんなに分けられなければならなかったのでしょう?

どうしていつも僻地に住まわされてきたんでしょうか?

他の人たちは、町で働いているのに、なぜ私たちは障がいのない人達と交流できなかったんでしょう?」

ホプキンスは、こういった状況を作り出す福祉制度を「遅れを招く環境」と呼ぶ。

彼が持っている障がいを、更に助長するかのように、制度が彼の足を引っ張っている、という意味だ。


〇真心をこめて

1985年、ホプキンスと仲間の「セルフ・アドボケーター(自分で自分の権利や意見を主張する人)」は、当時の副大統領ジョージ・ブッシュに会見した。

会見は30分に及んだ。

彼らが「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」の活動について、とうとうと説明したのだ。

ホプキンスは、自分がいかに作業所に落胆したかを語り、ダウン症のジャンセンは「IQ30の娘だったら施設以外のにどこにも住めないだろう」と両親が回りに言われた経験を話した。

しかし彼女はこの時、立派に地域で暮らしていた。

会見に同席した「障がい者運動家」は言う。

「この時ほど、ブッシュ氏の先入観がガラッと変わったことはありませんでした」。

数年後の1990年、ブッシュは、もう一人の人物から、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」についての説明を受けることとなった。

「ADA(障害を持つアメリカ人法)署名式」で、活動の立役者モンローから手紙を渡されたのだ。

大統領は、彼に感謝し、その手紙を後で読むと約束すると、ジャケットの内ポケットにしまった。


            ・・・

「親愛なる大統領へ」

私は「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」について、あなたに説明したいと思い、筆をとりました。

私の名前はモンローと言います。

コネチカット州の「ピープル・ファースト」の代表です。

「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」って、何でしょうか?

それは、自分の持っている権利と、自分の責任を自覚している、ということです。

自分の権利のために、立ち上がれるということです。

自分が言いたいことを言い、自分で自分のために決定し、もっと自立できるということです。

二本の足で立って、「セルフ・アドボケーター(自分で権利・意見を主張する人)」として、権利を押し出すのです。

私たちには、幸福になる権利があります。

他の人と比べて、私たちに遜色があるわけではありません。

立ち上がりましょう。

そして、他の障がいを持った人たちにも伝えるのです。

私たちは、あなたたちの助けになることができる。

大切な問題について、一緒に立ち上がれる。

「障がいを持つ人々」は、自分たちによいことについては、一生懸命頑張れます。

真心こめて T・J・モンロー

          ・・・



1993年、モンローは自立に向けて更なる一歩を踏み出した。

今までずっと暮らしてきたコネチカット州を離れ、テネシー州に移ったのだ。

テネシー州の「ピープル・ファースト」を組織化する仕事を受けたからだった。

「私は今度から机の向こう側に座って、人を使うボスになったんです」。

彼は言った。

「今まではボランティアの組織運動家だったが、今度からはそれを、フルタイムで有給の仕事として行う。

「だけどなにも変わっちゃいませんよ。前と同じように〝雷を鳴らして″皆に、なぜ?どうして?って考えさせ続けますからね」。


          (引用ここまで)

            *****

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私たちは人間なんです!・・「ピープル・ファースト」運動の軌跡(2)

2016-11-11 | 心身障がい



引き続き、ジョセフ・Pさんの「哀れみはいらない。全米障がい者解放運動の軌跡」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

障がい者の自立の問題が考えられるようになったのは、世界的にごく最近のことなのだと知り、とても驚いています。

             *****

           (引用ここから)


この会議でもっとも感動を呼んだのは、モンローが参加者の自由な発言を促したフリートークの約2時間だった。

「知的障がい者」たちが次々と登場して語り、2本のマイクが空く暇はなかった。


発言者の大半は、今まで人前で話した経験がない。

だから発言するだけでも相当の勇気が必要だったし、神経がすりへる経験だったと言える。

が、その経験を経たことで、大きな自信もついたようだ。

たとえばある男性は不安のあまり、ものすごいスピードで話し始め、もともと英語でしゃべっていたのが、出身のイタリア・シシリー島の方言に変わってしまったが、話す内容が誰にも分らなくても、聴衆は彼が発言したこと自体に敬意を払い、盛大な拍手を送った。

友達や恋人、家族、結婚したいという自分の気持ちについて、給料が十分でないことや、仕事に対するプライドについて、「セルフ・アドボケーター」たちは語った。

皆が次々に語るうちに、多くが、「異常者」「劣等者」とみなされて、苦しんできたと分かった。


「私たちは人間であって、動物ではないのです」。

参加者の一人は言った。

彼女は45才だが、今まで母親の家に暮らしていた。

つい最近、自分のアパートに移り、独立しはじめたという。


〇「知的障害を持つ人々」に、いったいどう対応したらよいのか?

「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」を突き詰めて考える時、私たちはこの問いに触れざるを得ない。

もうすこし具体的に言おう。

〇「知的障がい者」には、どれだけの保護が必要なのか?

そしてその保護は、ただ私たちがよく言うところの「保護」でありさえすればよいのか?

「保護」というのは、いつも必ず善意にあふれ、進歩的と言えるのだろうか?


19世紀の改革者たちは、か弱い人たちを助けるという目的で、大規模収容施設を建てた。

ところが今日では、「知的障がい者」を地域社会から隔離するのは間違っているという考えが台頭し、これには専門家の多くも同意している。

このため施設に住む「障がい者」も減り、閉鎖するところも増えてきた。


いわゆる「保護」の名の下で施設収容するのは「パターナリズム」の象徴とさえ言われる。

それは「障がい者」を依存の泥沼に陥らせ、自立の成功を妨害する。

社会が「障がい者」をずっと面倒みるのは経済的なロス、という見方もされるようになった。


一方、どんなに時代が変わっても、「知的障がい者」には「障がい」があることは変わらない。

学習の仕方や意思決定には、支障がある。

たとえばコネチカットの「セルフ・アドボケーター」たちは成人だが、「障がい」があるため、非常に傷つきやすい立場に置かれていることがある。


〇尊厳ある個人としての「知的障がい者」にどう対応するか?

このことは一つの課題としてある。


が、これと「知的障がい」があることによって生じる支障にどう対応するかは全く別の問題である。

「セルフ・アドボケーター」は、「障がい」の無い他の成人と同じように生きることを主張する。

言葉を変えれば、それは、リスクもいとわないということだ。

「障がい」のための援助は必要だが、それは従来の「保護」とは違うということでもある。

「保護」によって他から尊敬を得られなくなったり、経験を積むことで自信をつけることが否定されてはいけないのである。




「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」という運動は、スウェーデンから輸入された。

1968年に、スウェーデンの「精神発達遅滞者をもつ親の会」の事務局長が、「知的障がい」を持つ若い成人たちとなにげなく会話をしたときから始まったという。

彼は「知的障がい」を持つ人が、持たない人と同じ日々の行動(仕事に出かけるとかリラックスする時間を持つなど)をするべきと考え、そのためのプログラム作りに取り組んだ。

これは「ノーマライゼーション」という考え方に基づいており、シンプルでありながら急進的な取り組みとして知られた。

このプログラム策定の過程で、「知的障がい」を持つ人々にいろいろな質問をするうちに、彼は気づいた。

好き嫌いの理解に関しては、当事者の方がソーシャルワーカーや他の専門家たちよりよっぽど優れている、ということに。

突然の理解だった。


そして彼は、「障がい者」自身が人生の選択に関して、もっと関わるべきだと自覚した。

今ではこの考え方は、当たり前だと受け止められるかもしれない。

だが当時、「知的障がい者」は、「自己」という感覚が持てない、したがって意思決定など絶対無理だ、と心理学者たちに決めつけられていたし、その理論が世にまかり通っていた。

このため「知的障がい者」と分かれば、自動的に施設に収容され、医師や他の職員らが決定を代行していた。

自宅に家族と住んでいる場合もあったが、意思決定を下すのは母親や父親だった。


しかし事務局長は、今までとは全く違う考え方を実践したのである。

適切な支援と指導さえあれば、「知的障がい者」も〝決定する″ことができるのである、と。



彼は「障がい者」の人々を引き入れ、世界で初めて、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利)」のグループを作った。

治療や訓練について、自分たちが何をどう選択できるかについて話し合ったのが最初の活動だ。

アメリカでこの運動を広めた一人、ダイブワット教授は言う。

「適材と言える人物が時期を得て変革の歴史をつくる。これがやはり世の常なのです」。

モンローは最適の人材だったと言えよう。



〇「まず人間として=ピープル・ファースト」

1969年、スウェーデンから大西洋を越え、アメリカでは「ノーマライゼーション」という考えは、まずホワイトハウスの会議で紹介され、その後「発達障がい者」のサービスにおける革命をもたらした。

施設閉鎖の推進や、「知的障がい」を持つ人を地域の学校に来させること、家で暮らすことや地域で仕事につくメインストリーミングを支える支柱となった。

当初この「ノーマライゼーション」を積極的に推したのは、親や専門家たちだった。

さらに数年たち、「知的障がい者」たち自身が、自分たちで権利を主張しはじめた。


その発端は1973年だ。

スウェーデンでの「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」に触発されてできたカナダのグループが、バンクーバー島で「ピープル・ファースト会議」を開催したのである。

オレゴン州の州最大規模収容施設の施設医療訓練センター局長は、州規模で義務付けられた施設の小規模化を実践する立場にいた。

そこで彼は会議に参加し、大いに触発されて帰国した。

その結果、彼とこの施設に住んでいた3人の「知的障がい者」たちは、翌年の秋にはオレゴンで最初の「ピープル・ファースト会議」を開催してしまった。

当時200名も来ればよいと予想していたのに、560人も集まり、分科会では、地域で暮らしていくためにはどうしたらよいか、「知恵遅れ」と呼ばれたらどうしたらよいか、などのテーマで話し合いも持たれた。

最も感動的だったのは、誰もが何でも言える「フリートーク」の時間だ。

彼ら一人一人が、スーパースター、そしてリーダーになれたのです。

          (引用ここまで)

            *****


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ピープル・ファースト運動(1)・・独立宣言「障がい者自らが、決める」

2016-11-09 | 心身障がい



横浜で開かれた「ピープル・ファースト」運動が、世界でどのようにして始まったのかが書かれている「ジョセフ・P・シャピロ著「哀れみはいらない・・全米障がい者運動の軌跡」という本を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


            *****

          (引用ここから)


「ピープル・ファースト」

「私たちはこれから決議について投票します」。

約300人の聴衆は、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」という運動の草分けである。

どこに住みたいかから、他人からどう呼ばれたいかまで、あらゆることを「知的障がい者」自らが決定する、この原則を元にした、新しい運動である。

「今日は皆さんに、二つのことを是認していただきたいと思います。

まず皆さん一人一人が、〝雷を鳴らして″ください。

それから皆さん一人一人が、自分の権利をしっかり主張してください」。


集まった聴衆の多くにとっては、会議に参加することだけでもかなり思い切った、反逆行為とさえ言えた。

それまでずっと自分以外の誰かによって、人生をどうするかを決められ、何をどうするか言われ続けてきたからだ。


その日、「ピープル・ファースト」の会議が終わる頃、「知的障がい」を持つ人々にとっての重要な課題を掲げた「独立宣言」が採択された。

混沌とした雰囲気の会場には大きな喜びが溢れ、まさに人々が〝雷を鳴らして″いるかに見えた。

宣言にはこんなことが書いてあった。

1・州の大規模収容施設を閉鎖することを望む

2・職場や作業所での有給の病気休暇を望む

3・これらの場所での休暇、祭日には休めることを望む

4・自分たちは男女交際の権利がある

  グループホームや施設においても、自分が選んだ相手とセックスする権利がある

5・「知恵遅れ」、「精神薄弱者」という言葉は邪悪だ。
  私たちがまるで子供で、他人に依存する存在 で   あるかのように見せかける。
  この言葉をこれ以上使わないことを望む
  どうしても言わなければならない場合は、「知的遅滞のある人」と言うこと

6・とにかく私たちのことを、まず人間として(people first ピープル・ファースト)見てほしい。


「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」は、「知的障がい」を持つ人々による新しい権利運動だ。

周りに過少評価され、自分で選ぶ機会も奪われ、「永遠のこども」として扱われ、人より劣った人生を送るのも当たり前と思われてきたことに対して起こした「自己決定の運動」である。

「障がい者権利運動」の一つとしても位置付けられるし、「知的障がい者」に特化された問題に焦点を当てた運動とも言える。

この活動は全米各地で見られる。

カリフォルニア州では、州議事堂の前で集会を開き、社会サービス(「障がい者」、高齢者、低所得者、少数民族などに対するサービス)全般の予算削減に反対した。

デンバーでは、出来高払いの賃金しか払っていなかった作業所で働いていた「知的障がい者」たちがストライキを起こし、障がいを持たない同僚と同等の給料を要求した。

またコネチカット州では、州会長モンローが州立施設に住んでいる「障がい当事者」のために記者会見を開き、たくさんの人を集めた。

彼らが地域のグループホームに移行する一助となったらしい。

「全米知的遅滞者協会」が行った1990年非公式の調査によれば、現在アメリカには374の「ピープル・ファースト」の支部、および同様の団体があるという。

この数は1985,87年には200だったことを考えれば、著しく増加している。

「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」は、参加者が多く、発想の新しさにおいて、大きな影響を残した。

中でも意義深かったのは、専門家や親たちが、「知的障がい者」を意思決定の過程に参加させた点だ。

この概念自体は以前から言われ、なにも新しくはなかったが、今までは申し訳程度にしか努力されなかった。

「障がい」を持つ者には、持たない者と同等の決定権が与えられなかったのだ。

しかし今回は違う。


たとえば「全米知的遅滞者協会」は、「ピープル・ファースト独立宣言」にある「精神薄弱という呼び方をやめて」という要求に応えて1991年、名称を「The Ark(アーク)」に変更した。

この「セルフ・アドボカシー」は、「知的障がい者」対象のサービスを担う専門家への、第二の革命と言えた。

それでは第一の革命は?というと、それは第2次世界大戦後、「知的障がい者」を子に持つ親たちが始めた。

親たちは当時、「知的障害」を持つ子供にもっとサービスを提供してほしいと訴えたが、同時に、医師や専門家が人を見下したような態度をとっていることにも不満をつのらせていた。

親たちは元々、「障害を持った子供」がいることに対して、後ろめたさを感じていたが、医師はそんな気持ちも解せずに親に接し、彼らに子供に関する意思決定などできっこない、能力がないと決めつけていたのである。

この不満は、いくつもの団体設立につながった。

一つは1950年代に創立された「全米精神薄弱児の親と友の会」で、さきほどの「アーク」の前身だ。

これらの団体は親に対する専門家の見方を変革させ、最終的には両者が対等なパートナーとしてアドボカシーを行うまでに持って行った。

今日の「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)は、この「第一の革命」の功績を一回り大きくさせたと言える。


「アーク」の創立者の一人は説明する。

「親たちの運動は、当初とは違って疲労困憊してしまい、「知的障がい者」の生活を向上させる新鮮なアイデアが、今度は、「障がい者」自身から生まれたのです」。

コネチカット州の「ピープル・ファースト」の顧問は、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)の方が親たちよりも力強い権利の闘士だと感じる。

「息子や娘にほとんど期待するな、と言われ続けてきたのが親です。

だから親は自分たちの要求する水準以下でも喜んで受け入れてしまう傾向がありました。

が、当事者の運動=「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」は、「障がい者」自らの選択が良い、という信念を決して譲らない。

当事者の「障がい」がどんなに重くても、この信念は絶対に譲らないのだ。

ここは自由の国です。言いたいことを言っていいのです」。


専門家や「障がい」のない世界に対する反乱である「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」。



しかしこの反乱は、逆説的にも「知的障がい」を持たない人々に頼って成り立っている。

「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」の核心である「自己主張」をするためには、複雑な情報を得、その中から選択をし、最終的な判断を下さなければならない。

しかし「知的障がい者」は、このプロセスで困難が生じる。

自己主張のためには、どうしても周囲の助けが必要になるのだ。

もう一つの逆説は、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」が、挑戦の対象である専門家や「知的障がい」の無い世界から奨励されてきたことである。

たとえば「第1回コネチカット・ピープル・ファースト会議」では、州の「知的障がい局」のコミッショナーが挨拶に立った。

「すべての人々が対等に存在する、全く新しい世界。皆さんはこういった世界を作ろうとなさっています。新しい時代を担う皆様方に脱帽します」。


「知的障がい者」と呼ばれる人々の能力と経験は、決して一様ではない。

コネチカット州の会議に参加した「セルフ・アドボケイト」を見れば、このことはよく理解できる。

参加者の大半はグループホームに住むか、親と一緒に住んでおり、ごく少数は一人で暮らしている。

けれども中には会議終了後に、大規模収容施設の自分の部屋に戻る人たちもいた。

彼らはそこで人生の大半を過ごしてきた。

参加者の大半は、軽度の「知的障がい者」である。

「アーク」によれば、アメリカには750万人の「知的障がい者」がいるが、その89%は軽度と判定されている。

この意味でコネチカット州の参加者は平均的だ。

ただ一口に「軽度」と言っても、読み書きがしっかりできる人もいれば、他の人に自分の言いたいことを理解させられない人もいる。

また大半は仕事を持っているが、他の「障がい者」と一緒に隔離された施設で生活している人もいる。


          (引用ここまで)

            *****


とても西洋的な文章で、読むのに少し苦労しましたが、このような世界的な障がい者運動の歴史を知ることは、大切なことではないかと思いました。

わたしの子供時代には、学校で障がいのある子どもと友達になった記憶がありません。

わたしの子供たちの学校時代には、数人の障がいのあるお子さまの姿を見かけたように思います。

わたしは全然歴史を知らなかったのだと、改めて思っています。

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行ってきました、1000人の追悼集会「ピープルファースト大会」・・やまゆり園殺傷事件(6)

2016-11-04 | 心身障がい



先月新聞の予告記事をご紹介した、9月の「ピープルファースト大会in横浜」の催しに9月21日・22日、ボランティアとして参加してきました。

だいぶ時間が過ぎてしまいましたが、今も心にはっきりと残る印象的な催しでした。

「ピープルファースト大会in横浜」HP

「相模原やまゆり園殺傷事件(2)・・人権感がる動き広がる・追悼集会やライブ企画」

「1000人集会と言っても、まさかほんとうに1000人?」と思っていたわたしの考えは、大きく覆されました。

実に、本当に全国から1041名の方がたが集結して、それはみごとな大規模な催しが開催されました。

NHKの「テレビニュース」でも放送され、朝日・毎日・読売・東京・神奈川新聞が翌朝、写真入りで記事を出していました。

なんとかして「やまゆり園」の犠牲者の方々を追悼したいと願っていたわたしは、このようにしっかりとした追悼の催しが、障がい者の方々自身の主催で行われたという事実に、とても深い感動を覚えました。

なんのお役にもたてませんでしたが、自分もボランティアとして関わることができて、とても多くのことを学ばせていただきました。



全国大会の会場は、横浜・大さん橋ホール。

正午、全国から皆さん方がやってきました。

わたしもお手伝い。。

昼食が済むとパネルディスカッションがあり、優生思想による大量殺人だ、匿名報道は不可解、やまゆり園の友人が生きているのかどうかも分からない、死んでも名前も呼んでもらえないのか、施設に閉じ込めないで町で安心して暮らしたい、などなど、各自の考えを述べられました。

神奈川県知事は訪れ、菅官房長官はビデオメッセージで、弔辞を述べていました。










その後、参加者全員が、折り鶴を献花に見立てて供え、長い時間をかけて、追悼会が行われました。









当日夜のNHKの「テレビニュース」の時間に、会場でインタビューを受けていた方々の声を流す放送がありました。

翌日の各紙朝刊にも、記事が載っていました。








                ・・・・・

「相模原殺傷 障害者ら議論「同じ人間、名前で報道を」」
                 東京新聞 2016・09・22


相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件を受け、全国の知的障害者ら約千人が参加し、事件について議論する集会が二十一日、横浜市中区であった。

「(植松聖(さとし))容疑者が語った『障害者はいらない』という言葉は、子どものころからわれわれに向けられている」。

参加者たちは事件を痛みとともに受け止める。

事件の犠牲者が匿名となっていることには、参加者から疑問の声も上がった。

集会は、知的障害者の当事者がつくる「ピープルファーストジャパン」(事務局・奈良県三宅町)が年に一度、各地の持ち回りで全国大会を開催。

今年は横浜での準備中に事件が発生、テーマを差し替えて「匿名報道」「入所施設の立地」の問題について、各地代表の知的障害者ら四人が意見交換するなどした。

大会の実行委員長、小西勉さん(51・神奈川)は神奈川県警が「プライバシーへの配慮」などを理由に被害者を匿名発表した点について「仲間として言いたい。誰が亡くなったか分からない」と発言。

「せっかく付けてもらった名前を出してほしい。みんな同じ人間なのに…」と続けた。

土本秋夫さん(60・札幌)も「亡くなっても人間とは扱われず、名前を隠すのは差別だ」と強調した。
 
参加者からは、全国で施設に入所する知的障害者が約十三万人いるのに、やまゆり園をはじめ、施設が山あいなど不便な場所に多いことへの疑問も出た。

中山千秋さん(49・大阪)は「地域で邪魔にされ、行政や親の都合で入所させられることもある」と課題を挙げた。

小田島栄一さん(東京)は「あなたは何もできないんだから、施設に行かないと仕方ないでしょうと言われたこともあった」と振り返り、「障害者は地域に『いらない』と言われる」風潮があると指摘。

「知的障害者も地域でのびのび暮らしたい」と求めた。

一方で会場から「施設にもいい点はある」という意見も出た。

集会の最後に、参加者が花束や折り鶴を犠牲者に手向けた。

大会は二十二日に、障害者施設での虐待事件などをテーマにした分科会を開いて閉幕する。

         (新聞ここまで)
         
           ・・・・・




2日目は大雨の中を、別会場に分かれて、テーマ別のディスカッションが行われました。

「自分の人生を人に伝える」というテーマの会場では、参加者全員に「自分の人生を人に伝える」という課題が出され、短い時間でまとめて、それを一人一人発表していました。

発表者のお一人が「私はみじめでも、哀れでもありません。生きたくて生きているんだ、ということを知ってほしいです」とはっきりと語っておられたことがとても心に残りました。

その後、大さん橋の大ホールに戻り、1000人による神奈川宣言。

「私たちは、障がい者である前に、人間だ。津久井やまゆり園の事件を忘れない。」

という宣言を採択し、閉幕しました。



(写真・一番下は「ピープルジャパン北海道」のチラシで、大会宣言ではありません)。



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施設を出ると行き場が無い・・「みいちゃんの挽歌」施設で焼き殺された自閉症の女の子(2)

2016-11-01 | 心身障がい



「みいちゃんの挽歌」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


行方不明となった瑞穂さんは、13日後に、なんと施設の焼却ボイラーの煙突の中から黒焦げになって発見されたのです。

焦げた片足がボイラーの下に垂れ下がってきたのを、13日もたってから職員が発見したというのです。

しかも瑞穂さんのタンスの中の服や持ち物など計10キログラム以上のものも一緒に発見されました。

瑞穂さんは、入れないように仕切りがしてある、高熱を発しているボイラーの煙突に、ひとりで10キログラムの自分の持ち物を持ってよじ登り、その中に落ち込んだ、というのが警察の捜査の結論でした。

そんな理不尽なことがあるわけがありません。

ネットで調べたかぎりでは、裁判のその後の経過は分かりませんでした。

筆者であるお母さまの筆致は、とても節度があり、またお父さまも、常に冷静に現実に対応しておられることがよくわかりました。

なんらかのことが明らかになったのかもしれませんが、それよりも、地域の同じ障がい者の保護者の皆さんがやっとの思いで作った施設の存続を優先して行動されたのではないかと、わたしは思いました。

「目次」は次のように書かれていました。


           *****


         (引用ここから)


第1章 「行方不明」の知らせ

第2章 無残な遺体で園内に

第3章 真相を知りたい

第4章 陳述=亡くなるまでの1年間

第5章 残された多くの疑問点


        (引用ここまで)

          *****

聡明なご両親が、どんな気持ちでこの痛ましい事件に立ち向かわれたのかと思うと、胸が張り裂けそうです。

最後の「後書き」の部分をご紹介します。


          *****

        (引用ここから)

「後書き」

本書によって、娘・瑞穂の生前および亡き後の傷つけられた人権と、人間としての誇りをよみがえらせることが、私に課せられた使命のように感じられました。

またそのことを記すことは、全国の一部の心無い知的障がい者施設の、入所者やこれから入所使用する人たちの、人権を守ることにもつながるのではないかと思われました。


私の娘が自閉症者ではなく、健常者だったらどうだったのだろうか?

わたしは、ずっとそのことを自問自答し続けました。

障がい者であったがために、このように簡単に片づけられてしまったのだろうか?

知的障がい者施設の入所者の生命が、こんなにも軽んじられてしまっていいのだろうか?

そうした自らの問いかけに答えるのが、亡き娘・瑞穂に対して私に課せられた義務と責任であると思いました。

そしてわたしが出した結論は、こうでした。


「すべてを障がいのせいにされて、口をつぐんでいる訳にはいかない」


メモ書き記録を頼りに綴り始めたものの、私にとってこれを書くことは、魂の救済であると同時につらい体験を再現させる作業でもありました。

しかしそんな時には、亡き娘が一生懸命に製作した、壁にかけられたビーズの手芸作品が私を鼓舞してくれていました。

また、私が原稿を書いていることを知った、知的障がい者が身内におられるという女性の、次の言葉も私を勇気づけてくれました。

「知的障がい者施設に子供を預けている親は、施設内で心無い指導員が入所者いじめをしているのを見聞きしても、施設を出されてしまうと他に行き場所がないから、言いたくても言えないんです。

だから、あなたが、そういう人たちの代表だと思ってぜひ書いてください」。


そのような励ましによってなんとか書き終えたものの、浅学の私には到底、自分だけの力では書けなかったことと思います。

この原稿を書いていた間中、後ろから背中を突き動かしている何かを感じていました。

本当に不思議な力を与えられていたようでした。

それは瑞穂の魂であったように思います。

瑞穂の魂が私に書かせたに違いありません。


瑞穂は、これから先もまだまだ生き続けられたはずです。

せめてペンネームの中で、生き返らせてあげようと思いました。

なお、本書で娘・瑞穂が入園していた施設の名称などをはっきり書きませんでしたが、それは、地元の知的障がい者の親の方々が、大変な苦労をして作った施設であることが判っているだけに、あえてしませんでした。

それに、瑞穂が亡くなって7年あまり経っていますので、S園もいい方向に向かっているかもしれませんので。。

瑞穂のようなことが、知的障がい者施設で二度と再びあってはならない。

瑞穂の凄惨な死を無駄にしてはならない。

それを願うばかりです。

4年あまり続いた裁判の一審判決が「棄却」という形で終わったことは本文で述べましたが、裁判はまだ続きます。

今後の審理の中で少しでも真実が明らかにされることを期待するのみです。

謹んでこの本を、亡き瑞穂の霊に捧げます。

1999年夏  瑞木志穂


           (引用ここまで)

            *****


謹んで、瑞穂さんの霊と、ご家族の皆様に、哀悼の気持ちをお捧げいたします。


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