始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

利他的遺伝子・・「自分」と「自分達」は、どう違うのだろうか?

2011-12-31 | 心理学と日々の想い
大みそかになりました。

今年最後の投稿になりました。

読んでくださる方、本当にありがとうございます。

どうかよいお年をお迎えくださいますようお祈り申し上げます。





生物学者・柳澤嘉一郎さんの「利他的遺伝子」という本を読んでみました。

「利己的遺伝子」という言葉が流行ったことがありましたが、柳澤さんは、遺伝子レベルの現象をふまえた上で、あえて個体として「利他的」であろうではないか、という提言をしているのだと思います。

当たり前と言えば、当たり前のことなのですが。。

でも、「利他的遺伝子」という言葉は、いい言葉だと感じました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


       *****


       (引用ここから)


動物が群れて暮らすようになると、群の中で生きるための生き残りの術が必要となって来た。

それは群の仲間への気遣いや協力、援助などの「利他」的な行動である。

それは群の秩序を維持するためだけでなく、群の中でその個体が生き抜き、繁殖の相手を探し、子孫を増やすためにも有利であったから、そうした個体はより多くの子どもを残すことができて、世代を重ねるごとに子孫を増やしてきた。

一方「利己」を優先し、自分勝手で群の秩序を乱すような個体は、群を追われたり、あるいは群に残っても、交配のパートナーが得られずに、子孫を増やすことが出来ずに、その数を減らしてきたことだろう。

そして「利他」性は、長い間に動物の持つもう一つの本能として遺伝子に刻まれて、群をつくる動物たちの間に定着してきたと考えられる。


では、この「利他」性の遺伝子はどこから来たのだろうか。

その起源、由来は何だろうか。


考えられるのは、「利他」的な本能の遺伝子よりずっと古くから動物達の間に存在していた、母性本能の遺伝子に起因する可能性だ。

私たちが今ここに、こうして存在しているのは、祖先達がその子ども達を養い育てて来てくれたからである。

子どもの養育は自分以外の生命を育み守ることだから、それは当然、「利他」的な行動で、魚のような産卵しっぱなしのものは別として、多くの動物、特に哺乳類では、母性本能として身にしみついている。


「利他」的な遺伝子が進化的に古い母性本能の遺伝子から生じてきたとの考えは、決して不自然ではない。

母性愛の遺伝子はそれ自身、「利他」的な遺伝子でもある。

ただ両者の違いは「利他」性の遺伝子の方が母性愛の遺伝子よりもその行為の対象が広いというだけだ。


では「利他」性の遺伝子はどのようにして母性愛の遺伝子から生じてきたのだろうか。


それはおそらく、母性愛に関わる遺伝子群の中の一つが、自己複製の時に重複してコピーされ、その行為の対象を自分の子供だけでなく、より広く他者へと向ける働きの遺伝子へと突然変異したのだろう。

単一の変異遺伝子の出現が、その個体の行動を大きく変えることはバソプレシン・ホルモンの例からも理解することが出来よう。

こうして生じた「利他」的な遺伝子は、長い進化の間に突然変異によって多数生じ、それらが増えて、現在の私たちの「利他」的な行動がコントロールされているのだろう。

「利他」的な行動は、「利己」的な行動を抑え、それに拮抗して働いており、「利己」性と「利他」性は一見相反しているように見える。

しかしそれは表裏一体で、種の存続、個体の生存には共に必要な本能行動として、一部の動物の間に広く存在しているのである。


“社会には「利己」的な行動ばかりで「利他」的な行動が見られない”とこぼすが、正直、ヒトほど他者に協調し、協力したり援助したりする種は他には見当たらない。

人と他の動物との最も大きな違いは「利他」性にあると言ってもいい。


このように人の高い「利他」性は、その強い社会性と脳の高度な発達の二つに主に起因している。

では、社会と脳がさらに発達すれば「利他」性もさらに高くなるだろうか、と問われれば、大いに疑問だ。

それはむしろこれからの社会の在り方と教育の仕方に大きく依っている。


子ども達の行動はすべて、遺伝と環境(教育)の掛け算的な結果から生じてくる。

掛け算というのは、その一方が欠ければ結果は何も生じてこないということである。

子どもがどんなに優れた知能や深い思いやりをもって生まれてきても、教える環境が劣悪なら、よい結果は決して期待出来ない。

すべての知識と同じように、社会のルール、道徳や倫理もまた、年長者が教えて初めて、年少者は知ることになる。

もしこの教育がしっかりとなされないならば、社会はまともに存続しないだろう。


かつて地球は無限に広い空間であった。

そこにはゆとりも資源も十分にあって、小さな共同体や個人の欲望や希望はすべて受け入れてくれるものと思われていた。


だが今は、地球は宇宙の小さな一惑星で、その空間も資源も限られていることを誰もが知っている。

近代科学の進歩、特に情報通信機器や交通機関の著しい発展は世界をすっかり狭小にしてしまった。


人々は、地球そのものをも一つの社会として捉えるようになっている。

地球の資源、資財が有限であることは事実である。


この事実を前にして、今なすべき大切なことは、資源、資材の獲得競争ではなく、人々の意識を変えることである。

物へのこだわりを捨てて、物の獲得に費やすエネルギーを精神面へと向かわせることだ。


「利己」から「利他」へと生き方を変えることだ。

そうすれば、地球社会の資源はより長く維持され、資財も公正に分配されて、人類全体がより豊かに穏やかにより長く存続していくことだろう。


私たちは日頃、「利己」的な本能をむき出しにしていても、その心底には、「利他」的な本能をしっかりと持っている。

何か事があれば、それは一気に表面に噴き出してくる。

そのことは災害時の人々の助け合いを見れば分かる。

だが日頃は、それは心底に沈積したままで、潜在している。

私たちはこの「利他」心を日常の生活の中でも、もっと顕在化させたいと願う。


人は「利他」によって心の満足を得る。

「利己」でなく、「利他」で満足が得られるのは、おそらく、共に本能であっても、「利他」の方が「利己」よりも進歩的に新しく、発達した脳の働きが強く作用しているからであろう。

よい生き方とは「利己」と「利他」のバランスを適切に持って生きることである。

よき社会とは、「利己」と「利他」のバランスが適切に保たれている社会である。

地球社会を持続可能なよき社会とするのは、私たち一人一人の、よき「利他」と「利己」のバランスの維持に依存している。


            (引用ここまで)


              *****


道徳の教科書のようなことが書いてありますが、考える材料としては、いろいろなテーマを含んでいるのではないかと思います。

母性本能というものが、人間の優しさの根源の部分にある、という説は、仕事をしたり、子どもを産んだりしてきた自分としては難しいテーマだと感じます。

ただ、心の広さというものは大層魅力的なもので、そういうものは様々な場面で、様々な人から教えられたことが思い出されます。

男性には男性の魅力がありますし、老若男女、どんな人にも高貴な魂、清らかな魂を感じることは多々あることです。


人類の最初の生活は共同生活だったはずで、人類にとって「共同体」というものは最も根源的なものではないかとも思えます。

共同生活においては、利己主義であって有利なことは少ないはずで、捕獲された一匹の魚をそこにいる人々で分け合うのは生きるために必要なことであっただろうと思われます。

ですから、社会主義の実験をはじめ、常に「共同体」というものが理想として目指されてきたのだと思います。

どれほどの挫折を繰り返しても、人類が到達すべきものは、“今の社会とは何かが違う「共同体」に違いない”という直感が、人類を次の世界へと導いているのではないかと思います。



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生きる悲しみ、死ぬ悲しみ・・石牟礼道子の語り・「名残りの世」(3)

2011-12-27 | メディテーション
親鸞をめぐって開かれた講演会の記録である「親鸞・不知火からのことづて」のご紹介を続けます。

吉本隆明・石牟礼道子・桶谷秀昭氏が話しておられますが、ここでは石牟礼道子さんのお話を取り上げたいと思います。


わたしには、この方のものの感じ方は非常に納得がいくように思います。

生きるためには、生きることのモラルが必要であるに違いなく、まさに“義を言わない”という、古い人々の智恵に則った彼女の言葉には、人の心の底まで沁み渡る性質があるように感じます。

唐突な物言いかもしれませんが、もし“日本の大転換”が目指されることがあるとしたら、それはきっとこのような感性が命を吹き返すことではなかろうか、とも思います。

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               *****
 
  
            (引用ここから)


(水俣病患者の話になり)

よく水俣の患者さんが

「もう人間はいやじゃ、人間に生まれてきとうない」とおっしゃいます。


と申しますのは、現代社会はもう、自らを浄める力がなくなってしまったのではないかという、深い嘆きから出る言葉かと思います。


仏教の歴史は長いわけですが、その中には深い厭世観、末法思想が否みようもなくまつわりついております。

末世の世の中、もう世の中の終わりが来るというふうに、すぐれた宗教思想家たちは考えておりました。

仏教だけでなく、外国の宗教も同様、そう思っていました。

それでも人間の歴史というのは続いてきたわけで、なぜ続いてきたかと思うのですが、やはり私たちの生命は限られております。

命が限られていることも、歴史を保たせてきたのではないか。


(水俣病の)患者さんが死んでゆかれるのに立ち会うことになってしまいまして、こういう人たちが、チッソの社長たちと向き合う場所にたびたび居合わせたのですけれど、

自分たちは、あるいは死んだ者たちは、生きてあたりまえの人生を送りたかったのだ、ということをおっしゃりたいのですが、なかなか相手にも世間にもそれが伝わりません。


あたりまえに生きるとはどういうことか。


この世と心を通い合わせて生きてゆきたい、ということなのです。

先ほど、私どもの地方では心が深いことを「煩悩が深い」と言うのだと申しましたけれど、そのような生身の「煩悩」を、水俣病になってしまって、途中で断ち切られる。。

人様にも、畑にも、魚にもキツネやなんかにも、猫たちにも、生きているものことごとくと交わしたい「煩悩」に、本来自分らは満ち溢れている。。

その尽きせぬ思いをぶったぎられるのが辛い、、

そういう気持ちが大前提にあるのではないでしょうか。


わたしが見た限りでは、患者さんたちは、チッソの人たちに非常に深いまなざしで、一種の哀憐を、深い心を持って向き合っておりまして、それは大悲とか、大慈と言うのに近い姿だとわたしは感じております。


仏教では繰り返し、末世の到来を説きながら来たわけですが、わたしたちは「煩悩」・・非常にもどかしくて、言い得ないのですが、狩野芳崖が描きました「悲母観音」の図、、神秘的な、東洋の魂のもっとも深い世界を、日本人の宗教の意識のもっとも奥のところを描ききった名作だと思いますけれど、

わたしが申します時の「煩悩」の世界とは、あの絵のような世界を思い浮かべております。


わたしどもの命を無明の中で促しているエネルギーが、「煩悩」だと思うのです。

お互いにご先祖様の血をもらっていて、私どもは生まれ変わっていると思うのですが、実際に生きている実感を持てるのは一代限り。

今現在でしかありません。

そう思えば、この世というのはまことに名残り惜しい、
草木も風も雲も。

ほんとうに空ゆく雲の影も、見おさめかも知れません。

そう毎日は思わないですけれども、心づけば名残りが深いですよね。


いまは幸いこういうお寺さまがあって、自分の心の内側を深く差し覗ける日があって、遠い山の声、海の声、ご先祖様方の声を聞くことが出来ます。

「後生を拝みに行こうや」と誘い合わせていらっしゃるわけですが、「後生」とおっしゃる時は、未来に重ねておっしゃっていると思うんです。

わたしどもはみな、多かれ少なかれ、この世に尽きせぬ名残りを残してゆきますので、その自分への名残りが未来の方へ、鐘の余韻さながら、こうも生きたかった、ああも生きたかった、という気持ちが自分の内側へ響いてきます。

その自分の身から鳴る鐘の音のようなものに導かれて、仏様を拝む時は、そういう自分をも拝んでいるのではないでしょうか。


拝むことしか知らぬ衆生というものこそ、実はこの世界の一番奥をなす存在だと、わたしは思います。

衆生というものは、そのように生き代わり死に代わりしてきました。



(島原の乱で、島の人々を救うために切腹した代官の話をして)


先ほど来申しましたような意味での、深い情愛をもった人たち、全き「煩悩」をもって万物と共に在る人たちが、彼の身の回りにいたことでしょう。


その人たちの思いの残っている、あの「煩悩のかかっている土地」に来て、残された人々の声を聴き、顔つきを見て、その人たちと多分、魂も心も通うようになって、すうっと代官の心が変わっていったことでしょう。

深くなっていったろうと、わたしは思います。

この者たちのために死のうと。

そんな特別な人たちがおったわけは無くて、水俣の、先ほど申しましたような、「煩悩」をこの世にかけ足りなく思って、深い名残りを残して死んでゆかなければならなかった者たち、

それからここに今日お出でくださいましたような、ごく普通のお顔の人たちとどこが違っただろうと思います。


お互いに名残深い世を、今はまだ生きているな、と思うばかりでございます。

皆様方のようなお顔を、いつも思い浮かべていることでございます。

今日はお目にかからせていただいてありがとうございました。


        (引用ここまで)


         *****


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草であり、魚であったわたしたち・・石牟礼道子の語り・「名残りの世」(2)

2011-12-24 | メディテーション
親鸞をめぐって開かれた講演会の記録である「親鸞・不知火からのことづて」のご紹介を続けます。

吉本隆明・石牟礼道子・桶谷秀昭氏が話しておられますが、ここでは石牟礼道子さんのお話を取り上げたいと思います。

驚くほどに心打つ言葉が現れます。

これが書き言葉ではなく、話し言葉で語られた言葉であるということに、今更ながら陶然としてしまいます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          *****


         (引用ここから)



このあたり(熊本・不知火)では、「煩悩」を、当然あるものとして把握して言う言い方がございます。

たとえば
「わたしゃ、あの子に煩悩でならん。」
とか申します。

情愛の濃さを一方的に注いでいる状態、全身的に包んでいて、相手に負担をかけさせない慈愛のようなもの、それを注ぐ心の核になっていて、その人自身を生かしているものを「煩悩」というのです。

情愛をほとんど無意識なほどに深く一人の人間にかけて、相手が三つ四つの子どもに対して注ぐのも「煩悩じゃ」と。

人間だけでなく、木や花や犬や猫にも、「煩悩の深い人じゃ」と肯定的に言うのです。


これはどういう世界なのかと常々わたしは思います。

大衆ーー仏教では「衆生」と申しますがーーわたしは、生きてゆくのに時代の論調などを必要とせぬ人々のことをいっておりますがーー宗教というものは、ついには教理化することのできぬ「玄義」というものを、その奥に包んでいるのではないでしょうか。


そして「玄義」とは、そのような「衆生という存在」だとわたしは思います。


衆生というものは生々累劫、担っている悲愁を、みずから体系化することをいたしません。

教理教学を含んでいる経を、「荘厳な有り難い声明」とだけとらえているのは、そういう人々の直感というか把握力でございましょうし、

究極の虚無、たとえば「往生」(死)というものとだけ向き合っているのではないでしょうか。


しろうとで考えてみましても、だいたいお釈迦様という方は世の中を捨ててしまって、世の中を好かない、というところからまず仏教というものは始まったように思います。

極端に言えば、世の中にもういたくないから子孫を残さずに消えてしまおうと、そういう所を仏教は含んできたと思うのです。



(ご近所の働き者のおばさんと会話して)

「わたしゃもう、足の痛うして。行こうごとあるばってん、行かれんが。草によろしゅう言うてくれなあ。」

と伯母さんが言いなさる。

実際、人間だけじゃなくて、草によろしゅう言うたり、魚によろしゅう言うたり、草からや魚からやら、ことづてがあったり、皆さんもよくそういうこと、おっしゃってますよね。


お寺というのは「荘厳」を形にしてあるわけですが、よいお経をお坊さんがあげられるのを聞きまして、ああ、よかお経じゃった、と村の女の人たちがよく言われますが、浄められ、「荘厳」されますわけでしょう。


「草がことづてる」というのも、それにつながるような風の音でして。

自分のまわりの誰か、誰か自分でないものから、自分の中のいちばん深い寂しい気持ちを、ひそやかに「荘厳」してくれるような声が聴きたいと、人は悲しみの底で思っています。


そういう時、山の声、風の声などを、わたしどもは魂の奥で聞いているのではないでしょうか。

なぜならわたしどもは、今人間といいましても、草であったかもしれず魚であったかもしれないのですから。



        (引用ここまで)


            *****



>人間だけでなく、木や花や犬や猫にも、「煩悩の深い人じゃ」、と肯定的に言うのです。

>これはどういう世界なのかと、常々わたしは思います。

>大衆ーー仏教では「衆生」と申しますが、わたしは、生きてゆくのに時代の論調などを必要とせぬ人々のことを言っておりますがーー宗教というものは、ついには教理化することのできぬ「玄義」というものを、その奥に包んでいるのではないでしょうか。

>そして「玄義」とは、そのような「衆生という存在」だとわたしは思います。



なんと深い言葉でしょうか。

この講演会のもう一人の論者吉本隆明氏が追及しておられるドストエフスキーの苦悩の境地を、石牟礼道子さんは石牟礼さんの道筋で、一人で究明していらっしゃるのであると思います。

言葉というものの可能性を、とても感じる一文ではないかと思います。

そして、わたしたちは、今は人間の姿をしているけれど、ある時代には草として生き、ある時代には魚として生き、天地をめぐっているに違いありません。



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石牟礼道子の語り・「名残りの世」(1)・・いとしく思いあう風景

2011-12-20 | メディテーション

前にお盆のことを調べていたら、親鸞の話をする本を多くみかけました。

この石牟礼道子氏のお話も、親鸞的世界を語るものでした。

熊本・不知火のお寺で縁あって開かれた「親鸞をめぐる講演会」に、話手の一人として参加なさったものです。


煩悩と知性と宗教をめぐる、親鸞のパラドックスに満ちた世界が、無名の人々の生き様の中に、みごとに存在している、ということ、

また、苦しみにみちた人生には、それをいやす、濃い情がなければならないのが人の世だ、ということ、

それから、苦しみは、浄化されなければならない、ということ、

人の苦しみ、悲しみを浄化するのが、人の世の努めだと思う、ということを言っておられるのだと思いました。

長いお話を、はしょりながら、まとめたので、意味がわかりにくいと思いますが。。


吉本隆明・石牟礼道子・桶谷秀昭氏の講演記録「親鸞・・不知火よりのことづて」をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



         *****

        (引用ここから)


(子どもの頃、母におぶわれて行ったお寺の思い出、大人たちがお寺に集まってきている時のことを思い出しながら)


つつましい晴れ着をまとってきた人々が、全身的に心をかたむけてお坊様の話をきいている。

そういう場所でしばしば出てくる「煩悩」という言葉を考えてみます。

幼いなりに思い当たっていたことがいろいろございます。

朝晩自分の家で起きていること、隣近所や親類の家で起きていること、たいがい小さな争いごとや悲喜劇のさまざまで、

人々が背負っている苦悩のさまざま、そういう表情のさまが「煩悩」というものを表わしているということだろうと、子ども心にいちいち思い当たります。



人間の生身と傷心の世界、人間存在よりも深い作品というものはなく、すべての宗教や文学は人間存在への解説の試みなのだろうとわたしは思うのですが、

この度し難い世界を読み解こうとしてきた長い苦闘の歴史を見ましても、行きつかねばならない到達点など、ないのではないかと思われます。

そうは申しましても、阿弥陀如来というものを人格化せずにはやまなかった先人たちの欲求というものはやはり一つの到達点でして、後世はこの到達点を後追いするばかりでも大変だという気がいたします。

そのことも仏教は予言しておりまして、後追いをせねばならぬ後の世の時の流れを、天文学的な言い方で「百千万億劫(ごう)」などと言っております。


わたしどもは、あるいはそれを、「業」とも言い換えております。


最初に、そういう意味を含めた仏教の予言がありました。

長い時の流れから言えば、一瞬にして人類史の基底部を見通すほどな最初の人間の叡智が、予言の形をとって語られ、書かれてきました。

仏教の古典に触れて思うのは、自己の運命を予知してしまった人間の「業」、その知性の「業」の深さです。


ところでそういうものと、宗教書など一度も読まないただの普通の人々が生きてゆく過程の中でおのずから弁えてくる「業」というものとは、一つになると思います。

そのような意味で、人間というものは何らかの意味で、一人一人が人類史の体験を、己の中に蓄えていると言えませんでしょうか。


薩摩には、「義を言うな」と言う言葉がありますけれど、浄土真宗に言う「義なきを義とす」、、と申す、あの義なのでしょうか。

知というものは、存在の一番底を見通せた時に、その頂をも仰ぐことができるのではないかとわたしは思うのですが、

人間世界と申しますのは、このように生々しいゆえに、「荘厳」ということがより必要になってくるのだと思います。


            (引用ここまで)
        
  
              *****


ここで言う「荘厳」というのは、仏教の形であったり、そのほかの形であったりして、人の思いを浄める作用をもつものではないかと思います。

石牟礼道子さんの言葉はほんとうに味わいがあり、私はこの文章を読みながら、思わず何度も声に出して読んでしまいました。

そうしている自分の声を聞きながら、私は何をしているのだろう?と思うと、それは祈りをしているのにちがいない、と思いました。

度し難い人の世、傷心の世界。

そうした人の世を生きなければならない人間を愛しく慈しむ思いが、石牟礼道子さんの言葉には染みわたっているように思います。

著者が描くお寺のお坊さんのお話を“全身的に心を傾けて”聞きあう人々の世界は、ひとつのつつましい人の世の理想の姿として描かれています。

理想というものが空理空論ではなく、誰もが自分の手で触れ、心から納得できる世界として在るとしたら、それはどんなに貧しくとも、何ものにも代えがたい至宝であることでしょう。




wikipedia「荘厳」より

荘厳(しょうごん)とは、仏語で仏像や仏堂を美しくおごそかに飾ること。また、その物。お飾りともいう。宗派により異なる。

智慧・福徳・相好で仏などの身を飾る(包む)ことも意味する。

サンスクリット語のvyuha(分配、配列)が語源とされ、「みごとに配置されていること」「美しく飾ること」の意。

漢字の「荘」「厳」はいずれも「おごそかにきちんと整える」 という意味。

「立派で厳かな」という意味の荘厳(そうごん)は荘厳から派生した言葉。

荘厳は一般には「そうごん」であるが仏教では「しょうごん」と読む。呉音。

信は荘厳なり

寺堂の立派な装飾を見て信心が啓発されるという意で、内容は形式によって導かれるというたとえ。

「信は荘厳から起こる」「信は荘厳より」ともいう。

香光荘厳

念仏三昧をたたえた言葉。香に染まると香気が漂うように、仏を念じて仏の智慧や功徳に包まれること。

染香人(ぜんこうにん)のその身には 香気(こうけ)あるがごとくなり
これをすなわち なづけてぞ 
香光荘厳(こうこうしょうごん)と ま(も)うすなる 
                     『浄土和讃 勢至讃』



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自然エネルギー・文明の生成・ユートピア・・中沢新一著「日本の大転換」の研究(3)

2011-12-17 | 野生の思考・社会・脱原発
中沢新一氏の「日本の大転換」を読んでみました。

著者は、東日本大震災と福島の原発事故という出来ごとをきっかけに、生き方や考え方を変えようとしている人々は、著者の説く新しい思考による新しい文明の担い手になることができる、と述べ、人々に新しい生き方をするよう提唱しておられます。


         *****


       (引用ここから)


東日本大震災と福島第一原発の事故は、私たちに新しい思考の出現を促している。

それを「エネルギーの存在論=エネルゴロジー」と名付けた。

今回の未曾有の出来事をきっかけに生き方や考え方を変えようとしている人々は、誰でも「エネルゴロジスト」になれる。

「エネルゴロジスト」は、この危機があらわにした日本と日本人の抱える深刻な困難を見つめることの中から、次のような認識を持つにいたった。


1・原子力発電という技術体系は、致命的な欠陥を抱えている。

  原子力発電からの脱出が、人類の選択すべき正しい道である。


2・太陽光発電、風力発電、バイオマス発電などのいわゆる自然エネルギーの開発と普及は、原子力発電が産んだ時代をゆっくりと終焉に向かわせ、

 新しい秩序である「第8次エネルギー革命」の時代を開始させることになるだろう。

 生態圏をただ収奪するのではなく、生態圏を蘇らせることによって、人類は初めて地球上で他の生き物を益する生き物となるであろう。


3・この構造転換は、社会と市場経済の間をつなぐインターフェイス構造の大規模な復活を誘発し、経済の構造も変えていくであろう。

4・「第8次エネルギー革命」の産み出すものは、人類の心の本性との親和性がきわめて高い。

「第8次エネルギー革命」は、科学に内在する過激な抽象主義をゆっくりと変質させていくだろう。


      (引用ここまで)


        *****


夢見られているのは、ユートピアであり、そこに到達するのは容易なことではないと思われます。

かつて人類が無垢であった頃の世界が、夢見られているのだと思います。

人類はこれから、原発を廃止して、自然エネルギーを用いて、生態圏を蘇らせ、他の生物と共存しよう。

そして社会と市場の間に生き生きとした関わりを作りだそう。

過度の科学偏重をやめて、人間の心の本性に基づいた社会と経済を作りだそう。


そのような社会を、どのようにして作るか、という方法論の部分がちょっと面白みに欠けているように思いました。

アジテーションの名手ならば、ここはもう少し力を入れているはずの部分でしょう。

著者の改革の具体策がぼんやりしているので、読後の印象が弱いのですが、それは多分、著者独特の品の良さなのだろうと思います。

つまり著者の心の中では、それはすでに成就しているものであり、はげしい渇望の気持で書いているわけではない、という印象を受けました。


続いて著者は、その改革は日本という場所でおこる必然があるのだと語ります。


         *****


        (引用ここから)


このような大きな転換は、日本でこそ起こらなければならない。

大転換は日本文明を、むしろ文明としての自分の本性への立ち帰りを実現することになる。


日本文明は、ユーラシア大陸が自らを太平洋に押し出して作りだした「リムランド(周縁のクニ)」の列島上に形成されてきた。

ユーラシア大陸の中心部からはずれた周縁のリムランドであったこと、プレートに内包された運動エネルギーのあやうい均衡の上に列島があることは、日本文明の本性にも大きな影響を及ぼしてきた。

リムランド型(周縁)文明はグローバル経済や原子力発電とは、もともと異質な本性を持っていたのである。

グローバル型の資本主義にせよ、原子力発電の設計思想にせよ、中心部の文明にはふさわしい発想であるかもしれないが、明らかにリムランドの文明には適合しない。

それを無理やりに適合させようとすれば日本文明は土台からの破壊にされされていくことになるだろう。

それゆえに、「第8次エネルギー革命」の可能性は、日本文明にとっては大きな僥倖なのである。


            (引用ここまで)

     
              *****


日本文明が崩壊しかかっているのは、日本人が日本人本来の性質になじまない資本主義経済に自分をゆだね、無理やり適合させようという力に圧迫されているためである、と書いてあります。

ですから、“原発事故により日本は危機に陥った”という風には考えられておらず、“日本は原発事故を契機に、原発や資本主義に無理やり適合させられることを拒否しよう”、と筆者は述べているのだと思います。



              *****


            (引用ここから)


どんな文明も、自分を作り成している大もとの原理に帰るのではなければ未来への可能性を自ら開いていくことはできない。

「第8次エネルギー革命」の原理は、おどろくほど日本文明の生成原理と似ている。

そのためエネルギー分野での方向転換によって、文明の深層部には新しい活力が注ぎ込まれ、さまざまな領域に新生の芽吹きがはじまる可能性が予見できる。

原発の開発と共に進んできた「第7次エネルギー革命」の時代はゆっくりと衰退への道に入っていく。

それに代わって、生態圏の生成の原理に立ち戻って、そこに別の豊かさを取り戻そうとする「第8次エネルギー革命」の時代が隆起する。

それに連動して、経済の思想が根底からの転換を始める。

社会は再生への運動を始める。

日本の進むべき道は、今やはっきりと前方に見えて来ているのではないか。


    (引用ここまで・おわり)


         *****


おそらくこの本は、著者から日本文明への、ラブレターなのでしょう。

著者は、日本の古代や、縄文時代や、周辺に存在するひそやかなものたちや、アジアに広がる仏教思想や、欲得ずくでない人々が作りだすユートピアを、熱烈に恋しているのだと思いました。

それにしても、「日本文明の生成原理」と著者が指摘している原理について、もう少し考えたいと思いました。

そこがはっきりしないと、著者が言いたいことがよく分からないからです。

著者の別の本を見ることで、少しでも著者の意図する所が明らかになるかどうかを試みてみたいと思います。



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太陽・仏教・エネルギー革命・・中沢新一著「日本の大転換」の研究(2)

2011-12-14 | 野生の思考・社会・脱原発


先日、全国の寺院の組織である「全日本仏教会」が「脱原発宣言」を発表したという記事がありました。


         ・・・・・


「仏教会が脱原発宣言=避難民と菩提寺の連絡中継も」2011年12月1日
http://www.asahi.com/national/jiji/JJT201112010151.html


 全国の寺院などで組織する全日本仏教会は1日、東京電力福島第1原発の事故に関し、「いのちを脅かす原子力発電への依存を減らし、原子力発電によらない持続可能なエネルギーによる社会の実現を目指す」との宣言文を発表した。

 宣言文は「私たちの利便性追求の陰には、原発立地の人々がいのちの不安に脅かされ、さらに処理不可能な放射性廃棄物を生み出しているという現実がある。

このような事態を招いたことを深く反省しなければならない」としている。

[時事通信社]

              ・・・・・



中沢新一氏の「日本の大転換」を読んでみました。

引き続き、少しご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



著者は、「一神教の文明」から「仏教的な文明」への転換を目指すべきである、と述べています。


          *****


          (引用ここから)


資本主義の「市場」は、自然や他者との交差(キアスム)の構造を通じて形成された社会とはまったく異なる原理で動くシステムなのである。

いったいなにが私たちの世界で破壊されているのか?

社会が、生態圏が、そして社会と生態圏が結びついたところに形成されてきた文明が、破壊されているのである。

文明を作り上げてきたのは「エネルゴロジー=エネルギーの存在論」の構造である。

その構造が今、土台の部分から突き崩され出している。

とりわけ日本文明は、西欧的な文明と違って、交差(キアスム)の構造を基礎として、生態圏との豊かな交通の上に成り立ってきた一種の「生態圏文明」である特質を備えている。


その日本文明が今、かつてないほどに深刻な危機に直面している。

津波と原発の事故は私たちが抱え続けてきた大きな矛盾を、これ以上のものはないと思えるほど激烈な形で、白日の下にさらした。

日本文明は「エネルゴロジー=エネルギーの存在論」的に破たんしかかっている。

がんばればなんとかなる、というレベルはとうに超えてしまった。

危機の本質を知り抜くことによって、文明の大転換を試みない限り、日本文明は衰退の道へと踏み込んでしまう。


            (引用ここまで)

  
           *****


日本の経済は地震と原発事故によって大きな痛手を受けた、というような話を、筆者はしているのではないようです。

では、“危機”とは、“衰退”とは、どのような事態を指しているのでしょうか。

原発によって成り立ってきた日本の経済とは、資本主義経済であり、日本の文明は資本主義経済との関連なしには成り立たないであろう、ということでしょうか。

原発が止まったら、現在の日本の文明は死に絶えるということでしょうか。

危機の本質とは、原発の危険性ということでしょうか。

日本の文明は、これから本当に衰退してゆくのでしょうか。



             *****


         (引用ここから)



私たちは世界に先駆けて自覚的に、コンピューターと原子力による第7次エネルギー革命を超えて、第8次エネルギー革命の道に踏み込んでいく、またとない機会を得た。

そしてそれを通して、袋小路に入り込んでいる現代の資本主義に大きな転換をもたらすのである。

そのように今日の事態を理解する時初めて、私たちには希望が生まれる。

         (引用ここまで)


         *****


著者は「第8次エネルギー革命」と名付けた改革によって、資本主義との対決姿勢を明らかにしているようです。

それは日本の経済を“日本文明の本来の姿”に戻す改革であるようです。

著者はなぜ確信を持ってそう言えるのでしょうか。


           *****


       (引用ここから)


「第8次エネルギー革命」がめざしているのは、よく言われているような「自然エネルギーの活用」という言い方でその本質が言いつくされるものではないことを強調しておこう。

来たるべきエネルギー革命は、原子力発電技術の過激さを否定して、「中庸」の技術を目指すのである。

誤解を恐れずに宗教思想とのアナロジーを用いてみよう。

すると「第8次エネルギー革命」は、「一神教から仏教へ」の転回として理解することができる。

仏教は一神教の思考を否定する。

一神教は人類の“思考の生態圏”にとっての外部を自立させて、そこに超越的な神を考え、その
神が無媒介的に“生態圏”に介入することによって、歴史が展開していくという考えを発達させた。

仏教はこのような思考法をラジカルに否定するのである。

仏教は“生態圏”の外部の超越者という考えを否定する。

そして思考における一切の極端と過激を排した「中庸」に、人類の生は営まれなければならないと考えた。


        (引用ここまで)


           *****


一神教は、人類にとってはあまり良くない宗教であると述べられています。

何か諸悪の元という感じです。



           *****


        (引用ここから)


現代の資本主義は、原子力発電による大量のエネルギーを利用しながら、かつてないほどの成長を続けてきた。

原発は、いわば「資本の炉」として、今日稼働を続けているのである。

その資本主義は、次のエネルギー革命が起こる時、ラジカルな変容を迫られることが予想される。

原発の「エネルゴロジー=エネルギーの存在論」の構造と、グローバル化する今日の資本主義との間に本質的なつながりが存在するからである。


第8次エネルギー革命はほとんど自動的に現代の資本主義が陥っている内閉性を打ち破っていく力を秘めている。

人類の経済活動は実のところ生態圏の内部に閉じ込められてさえいないのである。

それは太陽に向かって開かれているのでなければ、自分を維持することすらできない。

経済のもっとも深い基礎には「贈与」が据えられているのである。

太陽エネルギーと同じように「贈与」性がすべての経済活動を根底で支えている。


「脱原発」に始まる新しい「エネルゴロジー=エネルギーの存在論」革命を通過していくうちに、資本主義はもはや自己の原理に内閉していることは不可能になってくる。

そして資本主義はゆっくりとその深部から自己変容をはじめ、その変化はいずれ暮しと実存の全領域に及んでいくことになる。

資本主義が、人類の本性によりふさわしい形態へと変容していくのを、私たちは手助けするのである。


           (引用ここまで)


           *****


脱原発にはじまる「第8次エネルギー革命」は、資本主義を超えて、日本の未来を切り開く、と書かれています。

一神教的な文明から、仏教的な文明への転換である、とも書かれています。

太陽のように、取引による利益を目標としない、“与えること”を原理とする文明、仏教のように中庸の徳で成り立つ文明が、予見されているようです。

この理論は、どの程度妥当性があるのでしょうか。

この理論は、時代を切り開く鍵となるのでしょうか。

著者は、どうしても言いたいことがあり、この本を書いたのだと思います。

著者の心の目に見えている「世界」に、もう少し近づきたいと感じます。





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中沢新一著「日本の大転換」の研究(1)・・東北・縄文・生態圏

2011-12-11 | 野生の思考・社会・脱原発
さて、図書館の本の予約の順番が回ってきて、やっと中沢新一氏の「日本の大転換」を読めたのは、しばらく前のことでした。

読んでみたら、昔にもこういう考え方はあったような気がして、あちらこちらの本を眺めているうちに、早くも年末の気配が漂い始めました。
(脱原発の展望とニューエイジ、脱原発の展望とトランスパーソナルなど)
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/46a5955931bd58f3282477a937b07f7e


浮世のことは何が何でも「年の内」に済ませなければならない、という日本人らしい思いに突き動かされて、、気持ばかり忙しく過ごしております。。

それで、この中沢新一氏の著作について、思い続けておりましたが、

譬えるならばこの本は、「年末」のようなあわただしい性質のものではなく、「年の初め」のひとときのような、のどかさと清らかさと品の良さを備えた作品ではないだろうか、と思うに至りました。

「後書き」には、「『緑の党』のようなものができた時には、この本はその政治的理念をまとめたマニフェストとなる」と書いてありますので、この本は多くの人の手元に届くことを念慮して書かれたのだと思いますので、私も一人の選挙権を持つ者として、この本をマニフェストとして読んでもいいのだろう、と思いますが、

私としては、なにかこの本に内在する“年の始め”のようなおおらかさを、研究の主テーマにしてみたいと思います。


まず、「日本の大転換」から少し紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

本書は、次のような「前書き」から本文へと続きます。

 
              *****


           (引用ここから)


ひとつの明白な事実がある。

それは東日本大震災による福島の原発事故を境として日本文明が根底からの転換をとげていかなければならなくなった、という事実である。

元通りの世界に復旧させることなどはとうてい出来ないし、また、してはならないことだ。

わたしたちは否応なく未知の領域に足を踏み入れてしまったのである。


        (引用ここまで)


          *****


あの地震の日、多くの人が日本文明の危機を自分のこととして感じたことと思います。

余震が続く中、人心地つく間もなく、テレビから「福島の原子力発電所が地震で破壊され、炉心が溶解して放射性物質が大気中に漏れ出し始めた」という情報が絶え間なく流れ始め、多くの人々がこの世の終わりがついに来たと感じたのでした。

けれども、「元通りの世界」に復旧させることはできないかもしれないけれど、出来る限り「元通りの世界」に戻そう、という思いはあったのではないでしょうか。

いわゆる「がんばろう、日本」の意気込みです。

「未知の領域」には来てしまったが、早く「元の世界」に戻りたい、というのが一般国民の普通の感覚でしたでしょう。

ですから、この本はレトリックが駆使された大学教授の学術書なのだろうという印象を持ちました。

けれども同時に、それでは「元の世界」ではない「未知の世界」とはどんなところなのだろう?という好奇心を誘う心地よさでもありました。


        *****


        (引用ここから)


地震と津波は生態圏の直下で起こる地殻の振動に原因しているから、それによって生態圏の受ける損傷は、生態圏自らの力で修復していくことができる。

ところが、原子核の反応という、生態圏の外部、地球をも包み込む「太陽圏」の物質現象が生態圏に及ぼしたものの影響を、長い時間をかけてでも癒していく能力を、私たちの生態圏は持っていない。

原発の建設は産業界からの強い後押しによって支えられてきたが、その産業は経済と一体であり、この経済の在り方が私たちの生活や意識の質を決定している。

原発は私たちの生態圏の外部に属する物質現象からエネルギーを取り出そうとする技術であり、その技術的な問題が、わたしたちの実存と一体になっていることがわかる。

地球科学と生態学と経済学と産業工学と社会学と哲学とをひとつに結合した、新しい知の形態でも生まれないかぎり、私たちが今直面している問題に正しい見通しを与えることなどはできそうにない。

わたしはその新しい知の形態に「エネルゴロジー=エネルギーの存在論」という名を与えようと思う。

        (引用ここまで)


         *****


著者が言いたいことは大体分かるような気がしますが、ところどころよく分からないところもあります。

一番分からなくて、また最後まで分からなかったのが、一番大事な言葉「新しい知の形態である『エネルギーの存在論(エネルゴロジー)』」という言葉でした。

これは未だに分かりません。

 
       *****


       (引用ここから)


福島第一原発での事故は、たんに原子力発電所が機能不全に陥ったのではなく、資本主義システムに組み込まれた「原子の炉」が破たんしたのである。

その事故によって、これまで表面に現れる事のなかった多くの問題がむき出しにされた。

今回の出来事が日本文明にとってまさに文明的危機を表わすほどの重大性をもつと認識されるのは、それが文明と経済の結びつきの根幹に触れているからである。


    (引用ここまで)


       *****


ここは大変よくわかる部分でした。

この本のテーマは、日本の文明と日本の経済の特質を探り、またその未来を展望する、ということだと思います。


       *****


     (引用ここから)


社会というのはどこでも、具体的な人間の心のつながりで出来ている。

社会の中の個人は、程度の違いはあっても、決して孤立して存在してはいない。

さまざまな回路を通して、人間同士の心のつながりを維持しようという方向に社会は働きを行おうとする。

つまり人間同士を分離するのではなく、結びつける作用が社会には内在しているのである。

このような社会の本質を「交差(キアスム)」の構造として捉えることができる。


資本主義以前の世界では人間と生態系の間にもこの「交差(キアスム)」の構造が貫かれていた。

社会は必ず外部性とのつながりを保ちながら、自ら活動する。

つまり社会は矛盾を受け入れながら作動するダイナミズムなのであった。


まさにそのような「交差(キアスム)」の働きによって作られていたのが、他ならぬ東北の世界である。

東北内陸部での稲作農業の発達は遅く、その文化はむしろ縄文文化の歴史の上に築かれてきた。

縄文文化には、西日本から伝わって来たその後の文化には無い、いくつもの特徴があるが、最も大きな特徴は、人間の文化が作り上げる人工秩序と、それを取り巻く自然秩序の間に深い「交差(キアスム)」構造のパイプが作り出されていたところにある。

動物や植物、祖先霊をはじめとする霊的存在が生者の世界との間を自由に行き来し、人工と自然、生と死が混然一体となった全体世界を形成してきた。

人類は十数万年もの間、このような「交差(キアスム)」構造に基づく世界で生きていたのである。

社会というものをこの「交差(キアスム)」構造を抜きにして語ることは不可能である。


         (引用ここまで)


            *****


地震が起き、原発事故が起きたのが「東北地方」であることが、ここで重視されることになります。

首都圏との比較というような問題ではなく、これは東北地方が「縄文時代」の遺産を引き継ぐ地域であるからである、と重ねて強調されます。

また縄文時代とは、人工と自然、生と死が交感する独自の世界であったと述べられます。

縄文時代と東北地方と原発事故。。

これはなんとも不思議な取り合わせで、これからどのように論が展開するのか心が踊りました。。



三省堂大辞典「キアスム」の項より

キアスム [(フランス) chiasme]
メルロ=ポンティの用語。
見るものと見られるものが、相互に可逆的に侵蝕し合っている状態。
主体と客体の分離を乗り越えるための用語。
交差配列。



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今は惑星の危機・・脱原発の展望とトランスパーソナル心理学(4・終)

2011-12-08 | 心理学と日々の想い
1987年に出版され2004年に加筆された、吉福伸逸氏の「トランスパーソナルとはなにか」をご紹介させていただいています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


       *****

        (引用ここから)


キリスト教的な文化圏というものは、危機意識が高まりやすい。

それに対して仏教的な文化圏というのは、そういうことは一切構わずというところがあって、その点すごいよさはあると思うんです。

危機意識の大半は、ほとんどプロジェクション=投影で、局所的な自己の問題の外への対象化にすぎませんからね。

ところが、現状はそうではない。

今の世界は、昔とは違う。

根本的な違いがある。

本当に、危機があると思うんです。

人類だけでなく、惑星の危機だから、それに目をつぶることや、仏教であっても方便や逃げ口上があるとは思わない。


問い そういう「核」や「エコシステム」の危機は、過去の仏教的な感性――つまり直感的に、永遠に無常なる時が流れて行く、というような感性――を抱いている限り、感じるのは難しいですね?

仏教的な感性ではなくて、歴史に一つの段階があり、危機があり、その危機を乗り越えなかったら崩壊していくという、そういう歴史感覚がないと、ちょっと駄目なんじゃないかという感じがするんですが?


その辺は難しいと思います。

ヨーロッパでは、マルクス主義の無効化という感じが出て来ても、あとを一生懸命それなりにがんばっているという感じがするんですね。

フランス現代思想であったり、ドイツの「緑の党」であったり。

アメリカがトランスパーソナルとニューサイエンス。

それに対応するだけのものが、日本には残念ながらあまりなくて、まだそれを輸入しているという状況だと思います。

だから今言ったものに対応できる日本独特のものは、やはり仏教だということになってくる。

ですから、もし日本がなにか貢献するのであれば、日本のローカルな気配を取り除き、本質的な部分に関して、グローバルな翻訳のされ方をされた仏教であるというふうに理解してもらった方がいいと思うんです。


 問い  トランスパーソナル心理学にはどのような課題が残っていますか?


心理学には、ある種の動的なダイナミズムがなかなか入っていきにくいんです。

人間は生きているわけですから、人間の心というものは、その時その時、瞬間瞬間、自己組織化している。

そのため、自己の精神内と精神外の見分けさえ付けにくい。

特定の意識状態では、あるプロセスが当人の自己の内側でおこっているのか外側で起こっているのか分からなくなることさえある。

そのインターフェイスはきわめて曖昧なものであって、実際に個の内部と外部を精神的な意味で区分けすることがどこまで可能かということに関しても疑問がある。

要するに、一般に人間の心は、常に流動的でダイナミックに動いている。

しかし心理学では、どうもなぜか生き生きとしたダイナミックな部分が抜け落ちて行く。

それをどう組み込んでいくかというのが、これからの心理学の大きな課題だと思います。

一人の個人の心の内面と、心の外面ともいうべき“対象世界”との間の、切っても切り離せない相互作用のようなものに、もっと本格的に取り組んでいくような、幅の広い人間の有機体全体のモデルを作らなければいけない。

有機体というのは、環境と切っても切り離せない関係にありますから、一人の人間の唯一真実の自己というのは、「人間+社会+環境」からなる全サイバネティック効果と言うことですから、

そのへんを全面的に取り入れて考えていかなければいけないのではないかという気がします。

    (引用ここまで・終わり)


       *****


今の世界は、本当の危機状態にある、という認識。

それに対応するために、日本人は未だ独自の対応策を出していない。

西洋の翻訳ものでない、日本独自の対応策があるに違いない。

ローカル性を取り払った仏教思想は、日本が世界に提案しうる有意義な思想ではないだろうか。


吉福氏はそのように語っておられます。

次回からは、以上のことを、前にご紹介した中沢新一氏の「日本の大転換」と突き合わせて、検討してみたいと思っています。



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滅びるかどうかは人類の実力・・脱原発の展望とトランスパーソナル心理学(3)

2011-12-04 | 心理学と日々の想い
1987年に書かれた吉福伸逸氏の「トランスパーソナルとはなにか」をご紹介させていただいています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

「現代」への問題意識の、早い段階での表現ではないかと思います。


       *****

     (引用ここから)


 問い そうすると結局必然的にニューエイジ思想、トランスパーソナルはエコロジーとかなり接点をもっているわけですね?


切っても切り離せないんじゃないですか。

そうした危機意識が自己の内面を目ざめさせるきっかけになるわけですし、単純に言って、目が自分の意識の内面に向かっていくと危機が見えてくるということがあると思いますから。


 問い しかし中には「エコロジーイデオロギー」に凝り固まった感じのエコロジストがいますね?

だから、それが問題なんです。

ただ単に地球上に存在している外側のエコロジーの崩壊に対処療法的に対応していこうとするエコロジストと、70年代から出てきたディープエコロジー=深層生態学と呼ばれる分野とは、また違うと思うんです。

要するに“内面の危機としての生態系の危機”という捉え方を強く押さえていく必要がある。


 問い それにしても、運動の眼先の効率問題として考えるとディープエコロジーやトランスパーソナルというのは、それをやったらどうなるというものではないですね?


そのことに関して僕が思うのは、人事を尽くして待つしかないということです。

個々人が目ざめていって、自分自身でできるだけのことをして、それで全く手に負えないとしたら、それは人類が「種」として背負った一つのカルマとして、その時点で正面から取り組んでいく他ない。

一人一人の個人がやれることをきちんと全部やった上でその危機が起こったとしたら、それは「種」が背負ってしまったある種の“蓄積”が表へ出て来ていることだと認識して、起こった時に対応するしかないと思うんです。
もう手におえないかもしれないけれどね。


 問い “カルマ”と言わないで、“滅びるかどうかは人類の実力の問題だ”と言ってもいいでしょうか?


いいでしょうね。
そこですごく大切なのは、“敵を作る”という物事の捉え方ではだめだということでしょうね。

敵を作ると実際になにかの運動をしているというか、戦っているという実感が出てきますが、それは実際には自分の内面にある不安の投影なんです。
そういう行動の充実感ではなく、違った形の充実感を作らなくてはならないということです。


 問い トランスパーソナルに関わっている人間の認識からいうと、トランスパーソナルという思想はポストモダンの旗手たりうるんだと言っているのですね?


それは当然、そうだと思います。

人類のこれから進むべき道はこの方向だと言ってるんだから。

「核」と「環境」の危機が重大問題だと。

しかもその「核」と「環境」の危機の問題は、実は個人の内面の危機とまったく同質のものだと。

基本的には個人の内面の危機と、世界の危機の問題は全く同じ事なんだと。

根元にあるのはそういった認識で、そのために、敵・味方を立てて相手を倒すことは不可能なんだ、と。
あなた自身の事なんだから、と。


要するに、たとえば“使用済みの原子炉”をどうするか?というと、現在のところ、安全なわけでもなんでもないわけですよ。

たとえば、これから何十年、何百年後に、人類が存在しているとして、その時に文献が全部失われていてしまって、それが何であるか分からなくて、掘り起こして開ける可能性だって考えられるわけですね。

そういうことを考えて行くと、まったく自然に還元することができないものをいくつも作りだしているということは、人類がどの方向に向かっているかは明確ですよね。

そういうものを作った時点で、この方向への雪崩現象は始まっているんじゃないかという気がしますけれどね。
だから、 無視しようとすれば、目をつむることしかできないですよね。


「理性」の限界と危険を認識しているのであれば、それを超えるような実作業をしていくしかないという気がします。


      (引用ここまで)


      *****


wikipedia「トランスパーソナル」より

トランスパーソナル心理学とは、1960年代に展開しはじめた心理学の新しい潮流で、行動主義心理学、精神分析、人間性心理学に続く第四の心理学。
人間性心理学における自己超越の概念をさらに発展させたとされる。
人間の究極的な目的とは、自己を越えた何ものかに統合されると考え、そのための精神統合の手法を開発した。


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