始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

ヘブライ語とケルト人・・神官ドルイドはアブラハムを継ぐ者なり、という説

2009-08-28 | その他先住民族
引き続き、中沢新一 編著の「ケルトの宗教・ドルイディズム」という本の中の、鶴岡真弓さんの「ドルイドと創られた古代」という章より、抜粋して引用します。

ヨーロッパの人々が、カトリックの権威からはなれて、自分たちのアイデンティティを模索し始めた時、新しい視点から自分たちの歴史をみることになりました。

日本にも、「日ユ同祖論」による国の成り立ちを説く仮説が根強くあるように、ヨーロッパの人々も、ユダヤと自分たちの歴史的因縁を直観することから「我らの国の成り立ち」を模索する人々が登場しました。

一方、自分たちの魂の源として、彼らの国土に立ち並ぶ多くの古代の巨石群や、ケルトの伝説的宗教指導者であったドルイドの風貌が、彼らの心の中に、しっかりと根付いていることを明らかに意識するようになっていったのだと思います。

そして、その二つを結び合わせることで、聖書の近代的解釈が試みられ、自分たちのアイデンティティの再構築の試みがなされたのだと思います。


*****

                 (引用ここから)


ドルイドの復元やケルト人の復元は16-18世紀にキリスト教西欧で行われた「聖書という起源」への創造に深く関わらざるをえなかった。

それは厳密にいえば、西欧の諸国家の権威によってヘブライ的ないし旧約的起源へ強制的に向かわされたケルトであり、ドルイドである。

16世紀、宗教改革は、聖書に「教会の解釈」が介在することを拒否して、聖書を信者がじかに読むことを推奨した結果、聖書のテキストの研究と原型の復元が急速におこなわれることになるが、旧約聖書の言葉、つまり神の言葉であるヘブライ語の権威の再創造はルネサンス期にすでに始まっていた。

そしてこのヘブライ語の「語系」とケルト人の「人種的系譜」が思いがけないかたちで交差するこの時、ケルト語とケルト人の主題は近代的歴史学の平面に召喚される。


「ドルイド」史は、ノアやエデンの園にさかのぼる血統をヨーロッパ人が持っているという神話に寄与するのである。

すなわちヨーロッパ人はノアの3人の息子セム・ハム・ヤペテのうち、ヤペテの子の「ゴメル」を通じてノアの子孫である、という「神話」の創造である。


「西欧の国民がノアの子孫である」という起源神話は、イタリアの出身でドミニコ会の神学者にして東方学者であったジョヴァンニ・アン二ウスの偽古典的テキストから広まったものである。

アンニウスは、「大洪水後の世界に生き残った民族たちの歴史」を書き、古代史として1498年にローマとヴェネチアで出版したが、それは古代バビロニアの神官で歴史家のベロススの文書「バビロニア誌」に帰せられるものであると主張した。


「バビロニア誌」とは、ベロススが前290年ごろ書き、散逸したとされる、大洪水に関するテキストであり、これに拠ったとするのである。


同書はただちにフランス、フランドル、ドイツで翻訳されて、批判を受けながらも17世紀まで、「ヨーロッパ人のノア子孫説」をけん引したのだった。



この説をケルト人ないしガリア人の子孫であるフランスの国家ほど発展させたところはない。

ヘブライ語の復権に寄与したユートピアン、ギヨーム・ド・ポステルはヘブライ語とケルト人のつながりを強調している。

すなわち、ヘブライ語はノアの子孫に由来し、ヘブライ語からアラビア語また“間接的に”ギリシア語が派生した。

そしてノアの子の子(孫)から(直系で)ケルト人・ガリア人が出た。

ゴメルは小アジアからヨーロッパまでの未開地を割り当てられ、(旧約的な)キリスト教世界の西の地帯を治めることになったからである。


またポステルは「世界予言集(1556年)」で、「ガリア人はヘブライ語で“波に打ち勝った者”の意味であり、したがってガリア人は大洪水から生き残った者を意味する。」という伝説的語源論を展開した。

この書は「ガリアの王の祖とトロイアの王の祖が、ノアの子供にさかのぼる」という説をとっており、圧倒的にガリア人と聖書的古代を結び付ける考え方を広めるものとなった。


またゴメルはギリシア人によってガラタイ(ガラティア)と呼ばれた人々であり、ガラタイはガリア人である。
したがってゴメルはガリアの最初の王である、という説もある。


こうしたヘブライ語という神の言語を使う民の一員として、ガリア人をキリスト教の歴史時間に組み入れたアルプス以北の諸国は、ここに、古典古代の文献に描かれた「ドルイド」を“古代の族長”として、キリスト教の族長と結びつける作業を行うこととなる。

                (引用ここまで)

      *****


wiki「ノアの方舟(はこぶね)」より

ヤハヴェは地上に増えた人々やネフィリムが悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと「神に従う無垢な人」であったノア(当時600歳)に天使アルスヤラルユル(ウリエル)を通じて告げ、ノアに箱舟の建設を命じた。

ノアとその家族8人は一生懸命働いた。

その間、ノアは伝道して、大洪水が来ることを前もって人々に知らせたが、耳を傾ける者はいなかった。

箱舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていた。

ノアは箱舟を完成させると、家族とその妻子、すべての動物のつがいを箱舟に乗せた。

洪水は40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。
水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。

その後、箱舟はアララト山の上にとまった。

40日のあと、ノアは鴉を放ったが、とまるところがなく帰ってきた。

さらに鳩を放したが、同じように戻ってきた。

7日後、もう一度鳩を放すと、鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきた。

さらに7日たって鳩を放すと、鳩はもう戻ってこなかった。

ノアは水が引いたことを知り、家族と動物たちと共に箱舟を出た。

そこに祭壇を築いて、焼き尽くす生け贄を神に捧げた。

神はこれに対して、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全ての生きとし生ける物を絶滅させてしまうような大洪水は、決して起こさない事を契約した。

その契約の証として、空に虹をかけたという。

             旧約聖書『創世記』より


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米中は2大国となるのだろうか?・・ウイグルの人がテロリストって、どういう意味なんだろう?

2009-08-25 | アジア
先月末に開かれた米中政府対談で、アメリカ側は中国との協力関係を求めている、と語りました。

対話のおこなわれた翌日、中国は「対テロ軍事作戦計画」を策定していることを公表しました。

また、中国はロシアとの「対テロ軍事演習」も強化しているようです。


第2次大戦後は、“米ソの冷戦時代”とされ、資本主義と共産主義の東西の対立というテーゼの下に世界は二分されて考えられ、ソ連・中国と米国・西欧は対立しており、日本は米国の庇護の下で戦後の復興をなしとげたと言えるとおもいますが、

今や“米ソ冷戦時代”は過ぎ去り、「テロ」という名の魔女との戦いが、今時のはやりの世界のとらえ方でありまた、戦争のスタイルということになるのでしょうか?

核武装は、冷戦時代には戦争の抑止力になりましたが、東西の対立というテーゼが意味をもたなくなっている現在、世界の動向は誰にとっても予測不能であり、東西対立といった明白な意識なしには、核武装を維持することはどの国家にとっても重荷なのだと思います。

現代には現代の、新しいセンスの「戦争と平和」の物語が始まるのでしょう。



しかし、「おまえはテロリストだ」と名指す者と名指される者の関係には、どれだけ客観的な正確さがあるのでしょうか。

核廃絶はすばらしいことだと思いますが、その行く先は、核爆弾のような「重厚長大」な道具を前面に出すことはやめて、「軽薄短小」な道具に切り替えて、テロという名で反対勢力を封じ込めていこう、という新しい戦争であるように、わたしには思えます。


しかしそれは、いったい誰と誰が戦うということなのでしょう?

ウイグルの人がテロリストって、、よくわからない理論ではないですか?




最初に7月30日付朝日新聞の、この会談の解説記事を引用します。

  
            *****


“米中、2大国化の兆し・・経済危機で急接近”


28日に閉幕した米中戦略・経済対話(SED)では、両国の急接近が目立った。

外交や経済の世界的問題への対処に共同で乗り出す姿勢を見せるなど、2大国(G2)化の兆しも見える。

ただ、協調を優先するあまり、人権問題などをめぐる応酬は影をひそめた。


「文字通り、世界中のあらゆる地域の問題について国務委員と話し合った。」
クリントン国務長官は2日間の協議をこう振り返った。

世界各地の問題の解決には中国の協力が欠かせないという姿勢だ。

中国国務委員も「米国や世界の他国と調和のとれた世界作りで協力したい」と応じ、会場が沸いた。

両国を急接近させたのは、「対話」を掲げるオバマ米政権の発足と、昨秋来の世界的な経済危機だ。

それまで経常黒字を抱える中国などのアジア各国が、米国の経常赤字を穴埋めする形で米国債を買い続け、結果的に米国の過剰消費と住宅バブルを支えた。

昨年末の前回同対話では、中国人民銀行の総裁が、「行きすぎた消費、借入に頼った成長モデルが、米経済危機の原因だ。」と痛烈に批判。

これに対し、前米財務長官がインタヴューで「中国などの有り余る貯蓄が、世界的バブルの種をまいた。」と反論するなど、責任を押し付け合った。

しかし今回、それが一変。

中国は米国債の最大の保有国で、会社でいえば「筆頭株主」のような立場。

中国側は「米国の財務赤字に注意を向けるべきだ。
米財政を持続可能にする対策を講じる必要がある。」と迫ったという。

従来のSEDが、米国が中国に人民元の切り上げを求める場だったのと比べると様変わりだ。

両国は28日、「米国は貯蓄を増やし、中国は内需を拡大する」ことで合意した。

さらに共同文書には、中国の懸念に配慮して、米国が財政赤字削減を進める内容も盛り込まれた。

対話を通じて、中国が「優位」に立つ「中高米低」の雰囲気が漂った。


はじめての安全保障分野の協議もその構図は変わらない。

「米国のこれまでの節度ある態度に感謝の意を伝えた。」

SED閉幕後に開かれた会見で、中国外務大臣は新疆ウイグル自治区の騒乱に対するオバマ政権の対応をほめちぎった。

これまで中国当局発表で2000人近くが死傷したが、オバマ政権は事態への懸念を示すだけで、当局による武力行使への批判は慎重に避けてきた。

今回も、大統領演説など表舞台では米側は「新疆ウイグル」の言葉に触れずじまい。

閉幕後の会見で記者に問われたクリントン国務長官がやっと言及したものの、「重要事項」との認識を示すにとどまった。

中国側は「米国は騒乱を中国の完全な内政問題と言明した」と公言。

テロ対策をかかげて取締を強める姿勢にオバマ政権の「お墨付き」を得た、との認識を強調し始めた。


オバマ政権には、安保分野でも中国の機嫌を損ねるわけにはいかない事情がある。

北朝鮮の核問題をめぐる6者協議で、北朝鮮に最大の影響力を持つのもやはり中国。

国連安全保障理事会の制裁決議徹底など、米国の打つ手は中国の支持なしでは成り立たない。

オバマ大統領は「米中関係が21世紀を形作る」と強調し、米中が世界の主要問題の方向性を左右する「G2」時代がじわりと近づいている印象を与えた。

ただ、人権などでお目付け役を担った米国の姿が影を潜めたことを懸念する声も出た。


      *****

以下に、対話の内容の記事、中国の対テロ軍事作戦に関する記事、中露の対テロ軍事演習の記事、を紹介します。


      *****

“オバマ米大統領「米中がどの2国間関係より重要」戦略経済対話で”
2009.7.27 23:29
http://sankei.jp.msn.com/world/america/090727/amr0907272330011-n1.htm


 【ワシントン=山本秀也】米中両政府による初の包括的な戦略経済対話が27日、ワシントンで開幕した。


冒頭、オバマ米大統領は「米中関係が世界のどの2国間関係より重要だ」と述べ、突出した対中重視の姿勢を表明した。

今回から議題となる地域安全保障では、「東アジアの核軍拡競争」との表現で、北朝鮮の核保有が日韓の核武装を促す危険を示唆し、米中が共同で朝鮮半島の非核化を実現する必要を訴えた。

 オバマ大統領は、経済分野に政治、安全保障分野を加えた閣僚レベルの米中戦略経済対話について、「積極的で建設的、包括的な米中関係」への重要な一歩だと表明。

米中双方に根強い相手への警戒感を否定し、国際社会で中国が強大なメンバーとなることを歓迎する考えを明らかにした。

 2日間の対話議題として、オバマ大統領は、(1)経済再建(2)エネルギー・環境問題(3)核拡散防止(4)テロなど国際的な脅威の抑止-を指摘。

米中両大国が、相違を踏まえながら対話に臨む重要性を訴えた。

 核拡散防止について、オバマ大統領は、「テロリストが(核)爆弾を獲得したり、東アジアで核軍拡競争が始まることは、米中いずれの国益ともならない」と発言。

北朝鮮が実質的な核保有国となることを容認した場合、近隣の日韓が核武装に走る懸念を中国側に示し、核保有国としての共通利益を軸に北朝鮮の核開発阻止を呼びかけた。

地域安保では、このほかイランの核保有阻止でも、米中が結束するよう求めた。

また、核関連物質の管理など、核拡散防止に向けてオバマ大統領が来年開催を提唱する「世界原子力首脳会議」の成功に向け、中国の協力を促した。

 冒頭演説で、大統領は太平洋地域で進む中国の軍拡に対する懸念は示さず、米中両軍の協力拡大や、テロ関連の情報共有を求めた。

 今回の対話会合には、米側からクリントン国務長官、ガイトナー財務長官、中国側から王岐山副首相(金融担当)、戴秉国国務委員(外交担当)が出席。

冒頭、王副首相は米中が見解の相違を縮め、相互信頼を高めるよう期待するとした、胡錦濤国家主席のメッセージを代読した。

       *****

なお、この記事の“どの二国間関係より重要”は誤訳であるという説もありますが。

この対談の終わった次の日、中国は対テロ作戦の交戦規定(ROE)を策定している、と発表した、という日経の記事を以下に引用します。

      *****


8/1)“中国軍、対テロ交戦規定を策定 実戦へ態勢づくりを加速 ”
http://www.nikkei.co.jp/china/society/index.aspx?n=AT2M3101K%2031072009

 
【北京=佐藤賢】31日付の中国英字紙、チャイナ・デイリーによると、中国人民解放軍は対テロ作戦の交戦規定(ROE)を策定していることを明らかにした。

交戦規定は緊急性の度合いに応じてどんな武器を使うかを具体的に定めた規定。

中国軍が対テロ作戦を重要任務に位置付け、実戦に備えた運用態勢づくりを加速していることを示している。

 同紙によると、中国陸軍は交戦規定とは別に、対テロ作戦の部隊編成や指揮系統、武器・食糧補給などの兵たん支援を定めたガイドラインを近くまとめるという。

一連の文書策定を明らかにしたのは、ウイグルなどのテロ勢力をけん制する狙いもあるとみられる。

 交戦規定の策定には、必要のない武器の使用を抑える目的もあり、部隊指揮官による恣意(しい)的な判断を防ぐ効果も期待される。

   *****

7月27日付朝日より。

   *****

“中国が軍事演習公開・・テロ対策アピール”

中国軍は28日、首都防衛の要となる北京市郊外にある北京軍区衛第三師団の演習を報道陣に公開した。

10月の建国60周年記念式典を控え、急速な軍備増強に対する国際社会の不信感をぬぐい、テロ対策への万全の態勢をアピールする狙いがあるとみられる。

迷彩服姿の兵士約100人が参加。バズーカ砲による実弾訓練では轟音で地面が揺れた。

建物内に武装したテロ組織がたてこもったとの想定で、舞台が突入して制圧する訓練も披露された。

師団長は、新疆ウイグル自治区の騒乱について「国内外のテロリストの破壊活動は年々活発になっており、今後、対テロ訓練に力を入れていく」と述べた。

   
     *****



中国とロシアの合同対テロ軍事演習の記事はasahi.comより。


   *****

“中ロが対テロ合同軍事演習 ウルムチ騒乱後の結束強調 ”
2009年7月22日18時30分
http://www.asahi.com/international/update/0722/TKY200907220320.html


 【瀋陽=西村大輔】テロ対策を目的とした中国とロシアの合同軍事演習「平和の使命2009」が22日、ロシア極東のハバロフスクと中国・吉林省で始まった。

中国当局が「国内外のテロリズム、分裂主義、過激主義による暴力犯罪行為」と位置づけた新疆(しんきょう)ウイグル自治区ウルムチの大規模騒乱の直後でもあり、ロシア側との軍事的協調を強くアピールする狙いがある。

 合同演習は、中ロと中央アジア4カ国でつくる上海協力機構(SCO)の活動の一環で、05、07年に続き3回目。

5日間の日程で両国から陸、空軍を中心に計2600人が参加する。


写真は7月29日朝日新聞より。
中国軍の対テロ格闘訓練のようす


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ストーンヘンジより重い石を組み上げて、一人で自分の城を創りあげた男の話

2009-08-21 | アセンション
20世紀のアメリカで、体重45キロの男性が、1100トンもの巨石群を一人で組み立ててお城を作り、しばらく後、それを別の場所にひとりで運び出し、新たに同じお城をもう一度組み立てた、という奇妙な話が本に載っていました。

「古代文明の謎はどこまで解けたか1」(ピーター・ジェイムス ニック・ソープ共著)という本にあったのですが、こういう話はあり得ることであろうと思ってしまいます。

ストーンヘンジのような巨石群やピラミッドなど、巨石文化は、今ある物理学とは違う物理学が、この世にはあったし、またこれからもあり得るということを示しているように思います。

普通に考えれば絶対に作れないはずのものが、作られてきたということは、普通ではない作り方があったし、あるのだということであろうと思います。


世界中に点在する巨石群を見ると、こんなにも明明白白に“理にかなわない”不可思議な現れが、なぜあるのだろうと思わずにいられません。

そして、それら“理にかなわない”不可思議な遺跡群があるということ自体が、わたしたちに、「わたしたちは今とは別の在りようが可能なのだ」ということに思い至るよう、いざなっているのではないか、と思わずにいられません。


視点を変えれば、わたしたちはもっと自由になれるのではないかと思えてきます。


以下、「古代文明の謎はどこまで解けたか1」より引用します。


            *****

                (以下引用)


古代の驚異的な建造物がどうやって創り上げられたかを解き明かそうとする説は枚挙にいとまがない。

これまで多くの本が、「エジプトのピラミッドのようなモニュメントは今日の技術をもってしても建設できない」という考えを繰り返し述べてきた。

そのため、「われわれがずっと以前に忘れてしまった秘密の技術を、古代人は知っていた。」とする信念が生まれた。

なんらかの秘密の知識が関わっていた、という考え方は、古くは「イギリスの魔術師マーリンがストーンヘンジを作った」という説に見られる。

ある中世の画家はマーリンが巨人に変身し、素手でストーンヘンジを組んでいるようすを描いた。

しかしモンマスのジェフリーは「マーリンはすぐれた機械を使った。」と述べている。

ストーンヘンジを、元々在ったアイルランドからイングランドへ移動させようとする人間たちの試みを見て、マーリンは笑い、“少しばかりの装置”を設置すると、「“信じられないほど容易に”石を起こした。」という。

それからストーンヘンジをやすやすとイングランドに建て直し、「やみくもに力を加えるようなやり方よりはるかに優れた」技量の持ち主であることをみずから証明した、のだという。


近年になって多くの人は「マーリンの秘密」を探ることに夢中になった。

20世紀のはじめ、現代の最も奇矯な人物の一人であるエドワード・リーズカルニンは「ピラミッドやストーンヘンジの建設に用いられた、“石を運んで組み上げる古代の秘密”を再発見した。」と主張した。

彼は1920年代にラトビアからアメリカに移住した。

アメリカ各地で転々と仕事をしたのち、リーズカルニンはフロリダに住みつく。

そこでただ一人、近くで採ってきた石と、非常に固いサンゴ、そしてところどころに木材を使って建造物を作る、という奇妙な営みに取り掛かるのである。


彼は自分だけの石のワンダーランドを作り上げていった。

材木や金属廃材を使って、彼は一片30トンにもなる石のブロックをせっせと運んだ。

これはストーンヘンジのサーセン石の平均重量を超える。

星を観測するための目印として7.6メートルのオベリスクを建て、昔話をテーマとした岩や、巨大な石のテーブルと手の込んだ部屋を作った。

総量で1100トンにもなる建造物が作られた。

特に見事なのが、入口の扉で、9トンもある一枚岩が重心で支えられており、ごく軽く触れただけで開くようになっている。

長年孤独な生活を続けた彼は、ある時転居を決意し、マイアミ南部にある土地を選んだ。

そしてトラクターを借りて夜間に作業を続け、すべてを分解し、新しい場所に移し、ふたたび組み立てた。

今ではちょっとした観光名所として知られている「サンゴの城」だ。

1951年に彼が死ぬと、秘密も一緒に失われた。

誰の手を借りた形跡もなく、たった一人でこれ程の驚くべき作業をどうやってやり遂げたのか、今も謎だ。


彼は“石に歌いかけて”、“重量を軽くできる”という噂だった。

彼は「梃子(てこ)とバランスに関する古代の技術を再発見した。」と述べただけで、自分がどうやって作業を進めたかについて、きちんとした手がかりをまったく残さなかった。

磁気の全般的な重要性に関する一連のパンフレットを書いているが、通常の物理学の見地からすると、ほとんど意味をなさないように思われる。


それでも当然のなりゆきとして、「彼は反重力を操る方法を発見したのだ。」という噂が広まった。

「オルタナティブの考古学」の黄金時代だった1960年代には、先史時代の人々が大きな石を持ちあげて配置するのに用いた方法として、しばしば反重力や空中浮揚が提案された。

「地表を流れる未知のエネルギーが存在し、古代人はこれを使って巨大な石を持ちあげたり動かしたりできる。」という主張もあった。

だが、あらゆる理屈づけにもかかわらず、こうした方法で小さな石のブロックひとつ動かせることを証明した実際的な実験は一つもない。


             *****


写真はリーズカルニンが作った「サンゴの城」右端が本人(同著より)


HP「ステ奇人な方々」の「リーズカルニン・サンゴの城でキミを待つ」
http://www.geocities.jp/suteki_jin/leedskalnin.html

wiki空中浮揚より

空中浮揚(Levitation)とは、物体(特に固体)が空中にとどまること。
重力に逆らっているようにも見えるが、基本的には重力以外の他の力によって支えられている。

単に浮いている場合には、空中浮遊(くうちゅうふゆう)とも呼ばれる。
また、物体が空中で移動している状態は、飛行(ひこう)と呼ばれる。

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ストーンヘンジは“ノアの子孫ドルイド”がつくった高貴なモニュメントであるという説

2009-08-17 | その他先住民族
ドルイドとはどのような人たちだったのかについては、かなり詳しく研究されているようですが、具体的な姿を描写するには慎重さが必要とされるようです。

文字による記録が間接的なため、神秘のベールのかなたの“老賢者”といった趣きが伝わってきますが、 遺物から見出されるものも、非常に複雑な性質で、即断ができないように思います。

それで、「聖者ドルイドとは?」、という定義をあいまいにしたまま、話をすすめます。


言えることは、聖者ドルイドの姿と伝承されるものは、白いローブをまとい、オークの木に生えるヤドリギを特に聖なるものとみなして、月夜の儀式をおこない、胸にかけた金の板で太陽光をあつめて火をたく森の隠者であり、また司法もつかさどり、ケルト社会における老賢者という立場の人々であった、ということです。

しかしこれらはあくまでもローマ人から見た印象であり、独自の伝承が残っているわけではありません。


下に引用した「ドルイド」は、“長いローブの聖者ドルイド”を、“人々を率いる古代ケルトの族長”というイメージでとらえて、考えられた概念です。

以下、中沢新一 編著の「ケルトの宗教・ドルイディズム」という本の中の、鶴岡真弓さんの「ドルイドと創られた古代」という章より、抜粋して引用します。


          *****


古代学者ストゥクリーは30歳ごろ、ストーンヘンジの上を飛び回る破壊者を描いた幻想画に特別の印象を受け、巨石に魅せられて調査をおこなうようになった。

彼はストーンヘンジという神殿をつかさどる神官“ドルイド”が、「英国国教会がいただくのと同様の族長(父権)的宗教を最初にブリタニアにもたらした伝道師である。」と明言した。

そして1726年、突然英国国教会の聖職者となるのである。

もはや一人の古代学者ではなく信仰の実践を担う伝道師となった彼は、「英国」と「族長の宗教(ドルイドの教え)」の根源的な関係についていくつもの著作をものする。

彼は 天地創造にさかのぼって、モーゼとプラトンと、宗教改革以降の英国国教会の教えによった真の宗教の存続を説き、ストーンヘンジおよびエイブベリーの巨石の考古学的検証を盾として、「その宗教はフェニキア人と一緒に来た「族長ドルイド」によってもたらされた。」と唱えたのだった。


この主張は当時のキリスト教史の概念に衝撃をもたらした。

ストゥクリーは、「ドルイド」が「族長の宗教」の伝道者であったことを次のようにも歴史化した。

「『ドルイド』は、ノアの洪水直後に、フェニキア人とともに英国に来た。」

「『ドルイド』は三位一体の観念を理解していた。また、アブラハムの信仰した族長の宗教を信仰した。」

「キリスト教は族長の宗教(ドルイド)が共和体制になったものである。」

彼は当時のイギリスを救済する象徴として、「ドルイド」を語ったのである。

彼は「洪水後、人類が再び繁栄していく時、真の宗教(キリスト教)は(ドルイドによって)ブリテン島に存続した」という見解を、エイブベリーの巨石の形態によって説明したのだ。

著作「エイブベリー・・ブリテンのドルイド神殿」の挿絵には田園の丘を蛇が這うように石の行列が何マイルも並んでいるが、その「蛇」の頭の部分はハックペン(蛇の頭)の丘にあり、巨石はキリスト教の正説に照応する古代の普遍的な神のシンボルで、巨大な環状列石は「父」ないし「創造主」をあらわしており、その息子である「救い主」の伝統的な蛇の姿はこのシンボルから生まれたというのである。


「これらの巨石モニュメントはわれわれの祖先の敬虔を表す高貴なモニュメントであり、今われわれは真の「族長の宗教ドルイド」に新たなきもちで帰依し、「新しいエルサレム」がブリテンにもたらされるようにしなければならない。」というのが彼の考えであった。


そうしてストーンヘンジは1781年、彼の残した案に従って修復された。

そしてそれ以後、まるで古代から続いていたかのようなかたちで、「古代ドルイド団」が夏至の日にストーンヘンジの遺跡内に入る特権を得、「古代宗教の儀礼」を毎年行うことになったのである。

            (引用ここまで)


*****


こう声高に言われると、なんとも奇妙な感じがしますが、「祖先=ノアの子孫」説というものは、人類の起源を語る時の一つの定型とも言えると思います。

世界各地に伝わる「洪水神話」は、一組の男女、ひとつの家族の救済の神話が多いのです。

アジアにも、「自分たちはノアの子孫だ。」という伝承をもつ民族がいます。

そのことはまた改めて書くことにして、ストーンヘンジをめぐる諸説を引き続き見てみます。


写真
1905年にストーンヘンジで行われたエンシェント・オーダー・オブ・ドルイズ(AOD)による「ドルイドの行進」。
この時には256名の新会員が入会を許された。
「図説ドルイド」より


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「ストーンヘンジはドルイド神殿」説・・・起源としてのケルト

2009-08-13 | その他先住民族
ストーンヘンジは誰が作ったと考えられてきたか?、という話の続きです。

古代へのかけはしとしてのケルト、神秘的なケルトの神官ドルイド、古代遺跡ストーンヘンジ。。

これらから、民族の出自をめぐるさまざまな思索が生まれました。

中沢新一 編著の「ケルトの宗教・ドルイディズム」という本の中の、鶴岡真弓さんの「ドルイドと創られた古代」という章より、抜粋して引用します。


*****


ストーンヘンジに関する中世のテキストは伝説的なものであり、直接ドルイドに言及はないが、先住民族“ブリトン人”とのかかわりが述べられている。

1136年に書かれた記述によると、ストーンヘンジは、先住民族“ブリトン人”がアングロ・サクソン人との戦いに敗れた時、ケルトのアーサー王伝説の魔法使いマーリンが彼らのために運んだ石で建てた墓である、とされている。

ここにケルト起源のアーサー王伝説と、ストーンヘンジの関係が示される。


しかし、英国はもとよりヨーロッパで最古級であることが推測されるストーンヘンジの建造者については、その他実にさまざまな説が出され、その多様さはそのまま、英国の起源の権威にかかわる国家的議論の反映となっていると言えよう。

すなわち建造者としてはフェニキア人、ローマ人、ブリトン人(アングロ・サクソン人に対抗したブリタニアの先住民族)、ブラミン人、デーン人 エジプト人、カルディア人、そしてレッドインディアンまでが考えられた。

科学時代以前には、巨人、小人、超自然の存在。
科学時代以降にはアトランティス人、異星人を建造者とする説も出た他、その機能も様々に憶測された。

神殿、観測所、記念碑、議事堂、墓地、太陽系儀、石器時代のコンピュータなどと言われてきたのである。


その中で17世紀初頭、「ストーンヘンジは『ブリトン人』の建造物」との解釈が支配的となる。

それは近代英国にとっての「ブリタニア観」、つまりは彼らが複数もつ「古代」の可能性のなかから「ブリトン」の要素を積極的に歴史化する史観と考古学が、手を結ぶことであった。

1624年、エドマンド・ボルトンはストーンヘンジを、ローマ時代のブリタニアでローマ支配に抵抗した“ブリトン人”の女性「ボウディッカの墓」とする説を出した。

また他にも、“ブリトン人”の勝利記念の神殿、“ブリトン人”の広場という説も出された。

これらの説には「ブリトン」の対抗概念としていずれもローマが置かれていることは明らかだが、アングロ・サクソンとは異なる“ブリトン=ケルト文化”の起源を取り出そうとする英国考古・歴史学の萌芽が、ストーンヘンジをめぐる議論の中で輪郭をあきらかにしていったと言える。


「ストーンヘンジは最も傑出した結社をもつ僧侶すなわちドルイドの神殿である」と書いたのは、ジョン・オーブリーだった。

彼は、英国南部のエイブベリーの巨石やストーンヘンジという二大モニュメントの他、小規模なストーンサークルは、「ローマ時代のものではなく、“古代ブリトン人”のものであり、要塞ではなく、宗教儀礼の場所であった」と主張。

これを「ドルイドの神殿」とした。

オーブリーは他界し、彼の草稿を整理したストゥクリーにより、「“ブリトン人”のモニュメントとしてのドルイド神殿説」というストーンヘンジの解釈は完成する。
        
                 (引用ここまで)

*****


ストーンヘンジの円形と巨石は、強いイメージ喚起力をもっており、それは人の心に神聖な思いをいだかせたのだと思います。

ストーンヘンジが作られたのは紀元前3000年から紀元前1600年(1500年にわたって作りかえられた)のこととされており、その時代の遺跡からはドルイドに直接結び付くものは発見されていません。

ドルイドという階級がケルト民族の中にあらわれ、社会的・組織的に宗教活動が行われたのは起源前1~2世紀からと推定されています。

ですからドルイドがストーンヘンジを作ったということはないようです。

ですが、聖なるサークルと聖なる神官のつくりだす情景はなにがしかの真実を伝えているのではないかと思えます。

もし後代のドルイドたちが、すでにあった巨石ストーンヘンジを用いた宗教儀式を行ったとしたら、どのような儀式であっただろうか、、と考えた人たちは多かったようです。

実際に彼らはストーンヘンジを用いた儀式を行ったのでしょうか?

ドルイドたちの遺物とみなされる物からは、さまざまな出来事が想定されるようですが、断定的な見解はまだ出ていないようです。

わたしが思うのは、エジプト・ギリシア起源とは異なる、もう一つのヨーロッパの起源が、ここには伏在しているに違いないという感じですが、大きな問題だけに即断することはできないであろうと思われます。

次回に続きます。




写真
スミス「ストーンヘンジの祭」(1815年)
「ケルトの宗教ドルイディズム」より

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裁判員制度のスピード判決・・わたしは4日ぽっちでわたしの人生を裁いてほしくない。

2009-08-08 | 野生の思考・社会・脱原発

先日、はじめての「裁判員制度」による裁判がありましたが、わたしは、判決までに4日というのは、どうしても短すぎるのではないか?、という感想をもちました。

事件には、その人の全人生の重みがかかっていると思います。
ことばが巧みな人もいれば、うまく言えない人もいると思います。

それをたった3,4日でスピード判決を行うのでは、弁護側が機能しないのではないか?、と思いました。

8月6日付の朝日新聞によると、被告は2日目に初めて、「相手が先に手を出した。」と語って、法廷内を驚かせています。

そういうことが積もりに積もって、事件がおきたとも言えるのに、そういう事実が出そろう前に、判決を出すのは、法の精神に反しているのではないでしょうか?

以下に8月6日付朝日新聞より転載します。


*****

「3日間の審理をふりかえって」裁判員法廷@東京

2日目

“被告、新事実を語る”

被告人質問
証人尋問のあとに始まった被告人質問では、「新事実」を被告人が語りはじめた。

「被告女性にあごや肩を押され、のけぞりながら刺した」
被害女性が先に攻撃したという話は、捜査段階の供述にもなかった。

検察官の追及がはじまる。
「なぜ自分に有利な話なのに話さなかったのか」
被告「被害者遺族に死刑にしてくれと言われているから、言わなければならないと思った」

3日目

“弁護側の最終弁論”
弁護側は「被害者の侮辱的な言葉が被告の我慢を爆発させた」と強調。

4日目

“判決”


        *****

新聞には、抽選にはずれて傍聴していた裁判員候補者の感想も載っていました。
(3日目に取材)

        *****


「候補者は見た」裁判員法廷@東京

「はじめての傍聴はとてもいい勉強になりましたが、嫌な思いや「不完全燃焼」という感じの方が多く残りました。

たとえば、肝心な、殺害の引き金となった被告と被害者の口論の内容が、被告の言葉からしかわからなかったこと。

被告は、「被害者に挑発され、生活保護の受給を馬鹿にされた」と主張しました。

でも被害者の声は聞けず、一方的な言い分しか分かりません。
十分な判断材料が得られないまま結審してしまったように思います。

被告はどんな人物なのか。
被害者はどんな方だったのか。
事件の状況は?

市民に参加を求めるには、まだまだ情報が足りない印象です。

検察は懲役16年を求刑しました。
なぜ15年でも17年でもなく、16年なのか。

「この手の事件はこのくらいだから」では、わたしたちが参加する意味がない。
考えすぎかもしれませんが、考えないわけにはいきませんよね。

このまま評議に参加して量刑が決まっても、たぶんすっきりしません。

被告や検察が控訴したら、「あの日々は何だったんだろう」とも、「わたしも納得していないのだから仕方ない」とも思うでしょう。

被告は殺害後、「自分の口座から四万円を下ろした」と言っていました。
「警察に行くのにあたって金が必要だから。勾留先にものを差し入れてくれる人がいないから」
と説明しました。

そんな孤独な状態のまま、刑務所で老いていくのでしょうか。

罪は罪ですが、なんだかやりきれない思いもしました。

この事件自体は大きく報道されるようなものではなく、単純な事件と思っていました。
でもぜんぜん単純じゃなかったなあと感じています。」

*****

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47news
http://www.47news.jp/CN/200908/CN2009080701000364.html
「裁判員制度反対グループが声明 「刑事裁判ショーだ」」

 全国初の裁判員裁判の判決から一夜明けた7日、実施を批判する弁護士や文化人らでつくるグループ「裁判員制度はいらない!大運動」が、東京・霞が関の弁護士会館で会見。

「『市民参加』という名の刑事裁判ショーだ」とする声明を発表した。

 声明は「被告は検察官に加え『9人の裁判官』から追及され、遺族の被害感情もぶつけられた。

判決は事実認定や量刑も検察官の主張に沿い、明らかに重罰化を推し進めるもの」と批判した。

 今後は、10日から裁判員裁判第2号が行われるさいたま地裁など、各地の裁判所周辺で抗議デモをする予定という。

 2009/08/07 12:20 【共同通信】


産経news 2009.8.6
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090806/trl0908061516009-n1.htm
【裁判員 判決】「重くなること予想できた」安冨潔・慶応大教授


 全国初の裁判員裁判の判決を受けて、弁護士で慶応大の安冨潔教授(刑事訴訟法)は次のように判決を分析した。

 「懲役15年という結論はこれまでの刑事裁判に比べれば重いというイメージがあるが、裁判員裁判としてはこれくらいかなという予想もできた。

一般人である裁判員は、どうしても被害者の側に心情が傾きがちだ。

今回、検察側は、遺族を前面に押し出して、被害感情を裁判員に訴えていた。

そういう意味では検察側の戦略は功を奏している。

今回は被告が犯行を認めている。被告が犯行に至った理由をどう述べようが、殺人という事実は変わらないため、被告が裁判員の同情を引くことは難しい。

そういう意味では、弁護戦略は難しくなるのかもしれない」


産経NEWS 2009・8・3
http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/090803/trl0908031616022-n1.htm
弁護側陳述 “被害者が誘発”
・・・・事件にいたる経緯が書いてあります。・・・・

「量刑上考慮すべき事情」

 本件は、もともと被害者側に主に原因がある紛争が発端であり、被害者が近隣に迷惑をかけないような生活をしていれば起きなかった犯罪である。

 また、被告が注意したことに対し、被害者は謝罪することなく、逆に怒鳴り返したことも原因となっている。

 確かに被告はナイフを取り出し脅したが、被害者は「おぉ、やるのか、やるならやってみろ」と逆につかみかかろうとするなど、犯行を誘発する言動をした。

 被告の犯行は、突発的なものであり、計画的ではなかった。

 また、被告は被害者が死ぬことを意欲しておらず、執拗(しつよう)にとどめをさすような行為もしていない。

 被告は警察に任意出頭しようとした。逮捕後は、素直に事実を認めている。


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ストーンヘンジの夏至祭り・・・神官ドルイドの復活

2009-08-07 | その他先住民族
上の写真は、1958年「ドルイド」と呼ばれるケルトの宗教指導者の姿をした人々によりストーンヘンジで行われた夏至祭の写真を、下記の本から転載させていただいたものです。

同書には「ドルイド」の姿をしたこの人々が、ストーンヘンジで宗教的儀式を行うようになったいきさつについて書いてあります。

ストーンヘンジは誰がつくったものなのか?

この問いに、彼らは「それはケルトの聖者“ドルイド”達がつくった」と主張して、神官ドルイドの装いをして集います。


中沢新一 編著の「ケルトの宗教・ドルイディズム」という本の中の、鶴岡真弓さんの「ドルイドと創られた古代」という章より、抜粋して引用します。

        
          *****
    
            (引用ここから)

ギリシアやローマの著述家によって書かれた「ドルイド」(ケルトの宗教指導者)に関するテキストは、ルネサンス時代に、古典文献の復活にともない明らかになった。

それらはギリシア語やラテン語から各国語に翻訳され、印刷本で流布された。

それらの本は、古代地中海世界が見たアルプス以北世界の民族や習慣について、ヨーロッパ人に知られざる過去を紹介することになったのである。

しかし、古代文献を頼りにする以外に「ドルイド」研究に方途がないわけではない。

というのも、「ドルイド」をめぐる議論は、ギリシア世界やローマ時代が終わり、古代ケルト社会が消滅した後、中世の沈黙を経て、近世から今日まで、西欧の歴史を通して存続し、そこに示される解釈の中に、「ドルイド」は西欧の歴史概念を刻々と映し出す強力な表象として生き続けてきたからである。


近世以降のヨーロッパが「ドルイド・イメージ」の再創造に異常な情熱を示したことに、われわれは驚いてはならない。

ヨーロッパ近世以降の「ドルイド」の復元は、諸国が競うようにして立論するところの、「国家の聖書的起源論」にかかわった。

「ドルイド」とは、西欧の歴史にとって、“古代”創造の枠組みを豊かに表象する何ものかなのだ。
         
               (引用ここまで)

         *****

ドルイドとはどのような人たちだったのかについては、かなり詳しく研究されているようですが、具体的な姿を描写するには慎重さが必要とされるようです。

文字による記録が間接的なため、神秘のベールのかなたの“老賢者”といった趣きが伝わってきます。

遺物から見出されるものも、非常に複雑な性質で、即断ができないように思います。

長くなるので、続きは次の投稿にします。

        
            *****


wikiドルイドより

ドルイド(Druid)は、ケルト人社会における祭司のこと。日本ではドゥルイドとも表記する。

ドルイドという名称の由来は、Daru-vid(「オークの賢者」の意味。
Daruがオークを、vidが知識を意味する)というケルトの言葉である。

なお、vidはサンスクリットのvedaと同源である。

ドルイドの社会的役割は単に宗教的指導者にとどまらず、政治的な指導をしたり、公私を問わず争い事を調停したりと、ケルト社会におけるさまざまな局面で重要な役割を果たしていたとされる。

しかし、ドルイドは文字で教義を記す事をしなかったため、その全容については不明な所が多い。

ガリアやブリタニアの各地に遺された遺物や、ギリシア・ラテン世界の著述家によって記された文献から、ドルイドの実態がおぼろげながら読み取れるに過ぎない。

カエサルの『ガリア戦記』によれば、ドルイドの社会的影響力はかなり大きなものだったようである。

争い事を調停あるいは裁決し、必要があれば人々に賠償や罰金を課した。

ドルイドの裁決を不服とした者は、社会的地位や信用を失った。

ドルイドはこのような大きな権力を持っていたほか、兵役や納税を免除される等、特権的地位にあった。

ドルイドの宗教上の特徴の一つは、森や木々との関係である。

ドルイドはパナケア(ヤドリギ)の巻きついたオークの木の下で儀式を執り行っていた。

ドルイドはヤドリギに特別な力があると信じていたようだ。

これについてはプリニウスが『博物誌』に記している。

また、近代になって発掘された古代ガリアの奉納物にはオークで作られた物が多い。

また、四葉のクローバー等といった希少な植物を崇拝していたという事も伝わっている。

なお、神木の概念自体はケルト人に留まらず世界中に存在する。

5世紀頃のアイルランドのドルイドは、「我がドルイドはキリストなり」と宣言し、キリスト教へ改宗したという。

そのためか、現代のアイルランドでは普通のローマ・カトリックとは一線を画したカトリックが存在していると言われる(ケルト系キリスト教)。

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巨石遺跡ストーンヘンジは誰がつくったと考えられてきたか・・ケルトという源流

2009-08-04 | その他先住民族
ストーンヘンジは誰が作ったと考えられてきたのだろうか、という話を続けます。

ストーンヘンジは誰が作ったのか?について書かれたものではありませんが、
ストーンヘンジのあるイギリスを含むアルプス以北の民族についての最初の歴史書の記録は、ローマ人カエサルの「ガリア戦記」だということです。

カエサルが生きていた頃、ローマ帝国は、地中海を中心とした大国家を作りつつありましたから、当時の歴史観からは、アルプス以北の広大に広がる世界は、ひどく野蛮な人々の住むおそろしい土地、と考えられていました。

大雑把に言えば、その“野蛮な人々”が、カエサルが「ガリア人」として描いた人々と言えるのでしょう。


このことについて、大雑把ではなく述べている「図説ドルイド」という本がありますので、抜粋しながら引用します。

同書では、「ガリア」という語と「ケルト」という語が、ほとんど同じものとして、しかし微妙に違うものとして重複するように現れます。

wikipediaによると、次のような関係になります。


         *****


wikipedia「ケルト人」より

ケルト人(Celt, Kelt)は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。

古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。

ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォル、コーンウォルから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存している。

現在のケルトという言葉は言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代~中世において右図で表されている地域の住民が「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていない。

そのため歴史学などでは「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っている。


         *****



著者は、wikipediaの言う限定的な意味合いで「ケルト人」という言葉を使っていると思われますが、

ミランダ・J・グリーン著「図説ドルイド」より引用します。


         *****


「ケルト世界」の広がりを決定しようとする試みは、すべて以下の3つの範疇に属する証拠に頼らなければならない。

しかもこの3つはどれも不完全で、時にあいまいであり、その利用には慎重を期さなければならない。

古代ギリシア・ローマ世界の証言(ガリア戦記など)、考古学、ならびに言語による初期の証拠〈神話物語〉を総合的に判断すれば、ケルト的文化と伝統を持つ世界は紀元前3世紀には、アイルランドからハンガリー(東西)、スコットランドからイタリア北部(南北)にまで広がっていたようである。


古代ギリシア・ローマ世界の観察者たちは「ケルト人」を、アルプス北方の広大な地域に住む人たちだと述べている。

だが、ここでの「ケルト人」ということばは要注意である。

多くの著述家たちは「狭義のケルト人」についてではなく、“ガリーないしガラタエ一般”(ガリアという言葉の語源になった民族)について語っているからだ。

カエサルは「ケルト人」のことをガリアの一部の地域に住む部族だと述べ、ガリア人すべてを「ケルト人」とはよばず、むろんイギリスの原住民ブリトン人を「ケルト人」とはよんでいない。

ただし彼はブリテン島南東部に「ガリア人」と似た生活習慣をもつ人々がいることは認めている。

古代ギリシア・ローマ世界の著述家たちが用いた「ケルト人」という言葉の正確さの程度も、非常に幅があるのだ。


「ヨーロッパに「ケルト語」とよばれる言葉を話していた人々がいた」という初期の証拠は非常に乏しい。

ローマ以前の時代の北部ヨーロッパは、文字を持たなかったからである。

古代ギリシア・ローマ世界の著述家たちによる記録、そして言語学的証拠、考古学的資料、これらすべては「ケルト世界」を描く有力な材料ではある。


だが「ケルト世界」とはなんであろう?

「ケルト世界」の拡大のある部分は、実際の「ケルト人」の移住の結果ではなく、その思想や習俗の波及の結果だったと考えざるを得ない。

では、ローマによる彼らの居住地の占領中と、その後では、「ケルト世界」はどうなったであろう?

ローマの影響は明らかに「ケルト文化」に大きな変化をもたらした。

だが、旧来の伝統がすっかりなくなることはなかった。

むしろ、力強くてみごとな雑種ともいうべき“ローマ風ケルト文化”の花が開いたのである。


5世紀後半、ローマ帝国の中央集権的システムが崩壊すると、「ケルト文化」は大陸の西端とブリテン島北部、アイルランドを除いて消え失せたように見えた。

これら以外の地域ではどこでも、古い「ケルト世界」はサクソン族やフランク族など新興文化によって壊滅させられた。

しかし西方の「ケルト世界」(アイルランド・スコットランド・ウェールズ、コーンウォール、マン島、ブルターニュ)では、ケルト語とケルト文化は生き残って、その後も繁栄した。

ウェールズとアイルランドは魅力あふれる民間伝承神話を作り出した。

また“ケルト的キリスト教”はケルト芸術の新たな開花を促した。

石造りのケルト十字と彩色写本にその最高の表現をみることができる。

              (引用ここまで)


            *****


わたしは、この“石造りのケルト十字架”と似た性質をもつものとして、ストーンヘンジはヨーロッパの人々の意識に刻印されているのではないかと思います。


縄文遺跡を日本の原点として考えると、邪馬台国の祖型と感じることもできれば、邪馬台国以外の文化の足跡を発見することもできる、というような意味合いで、ストーンヘンジはヨーロッパの人々の意識の源泉でもあり、また異物でもあるのではないかと思います。

ローマ帝国から「ガリア」とよばれ(たものに近く)、今は「ケルト」とよばれる文化は、ヨーロッパの人々の血筋の中に含まれているもので、合わさったり分かれたりを繰り返してできたヨーロッパ文明の一つの切り口ではないかと思います。


長くなるので、続きは次回に書きます。



wikiケルト十字より

ケルト十字(ケルトじゅうじ)はラテン十字と十字の交差部分を囲む環からなるシンボルである。

ケルト十字の起源はキリスト教以前にまでさかのぼるが、後にケルト系キリスト教の特徴的なシンボルとなった。

ケルト美術の主要な一部ともなっている。この意匠はまた、アイルランド十字やアイオナ十字とも呼ばれる。


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日蝕(日食)の島・悪石島の古い祭り“ボゼ”と、落人伝説

2009-08-01 | 日本の不思議(現代)


7月22日の日蝕(日食)観測の拠点となったトカラ列島の悪石島を調べてみると、とても興味深い文化があることを知りました。

トカラ列島については日本書紀にも記載があり、また平家の一門が喜界島に流されたり、広く落人伝説が残っているところでもあるようです。

悪という名前がついたのは、南西諸島に落ち伸びた平家の落人が、追っ手が来ないように名付けたという説もあるようです。

また、非常に南方系の仮面と衣装をまとった人物が広場で踊る「ボゼ」というお祭りがあることも知りました。

このお祭りをあつかった2008年8月16日付産経新聞の記事を一部紹介します。
http://sankei.jp.msn.com/life/lifestyle/080816/sty0808161929004-n1.htm


         ***


仮面神ボゼが大暴れ トカラで奇祭
                2008.8.16

写真・・ 赤土のついた棒で観光客や子供たちを追いかけるボゼ=16日午後、鹿児島県十島村の悪石島(古厩正樹撮影)

 トカラ列島(鹿児島県十島村)の悪石島(あくせきじま)で16日、古くから伝わる奇祭、ボゼ祭りが行われた。

 ボゼ祭りは、毎年旧暦の7月16日に行われるお盆の行事。ヤシ科の植物「ビロウ」の葉で身を包み、赤土と墨で塗られた面を着けた仮面神ボゼが現れ、島民や観光客を追いかけ始めると、辺りは歓声と悲鳴に包まれた。

 ボゼが持つ棒に塗られた赤土を付けられると、悪魔ばらいのご利益があり、女性は子宝に恵まれるとされている。

      
       ***


記事の写真を見て、あまりのプリミティブさ、力強さに思わずはっとしてしまいました。

秋田の“なまはげ”に似てはいますが、顔のつくりが独特です。

日本でこのような仮面衣装は珍しいと思われ、悪石島がこのような南方系の文化がきちんと継承されている島であると知り、驚きました。


wikipediaによると「ボゼ」はこのように説明されています。

 
           ***


ボゼは鹿児島トカラ列島の悪石島に伝わる来訪神行事で、鹿児島県の無形文化財。

ボゼは盆の終わりに現れるとされる仮面装束で、その出現理由には諸説あるが、盆行事の幕を引くことで、人々を死霊臭の漂う盆から新たな生の世界へ蘇らせる役目を持つと指摘する研究者もいる。

また、盆時期には先祖の霊とともに悪霊も現世にやって来るので、その悪霊を追い払うものとする説もある。

盆の最終日翌日にあたる旧暦7月16日に、若者が赤土と墨で塗られた異形の面を被り、ビロウの葉の腰蓑を巻き、手首や足にシュロの皮をあててボゼに扮し、手にはボゼマラという長い棒を持つ。

午後に島内の聖地とされるテラ(墓地に隣接する広場)を出発した3体のボゼは、島の古老の呼び出しと太鼓の音に導かれ、島民が盆踊りに集まっている公民館の前の広場を訪れる。

主に女子供を追い回し、子供達は異様な姿に悲鳴をあげて逃げ惑い、辺りは笑い声と叫び声につつまれ騒然となる。

あまりの恐怖に泣き出す子供すらいることもある。

ボゼはボゼマラを持ったまま人々に迫り、その先端についた赤い泥水を擦りつける。

こうすることで悪霊祓いの利益があり、女性は子宝に恵まれるという。

こうした騒ぎが10~15分続いた後、太鼓の音が六調のリズムに変わると、ボゼが広場の中央に集まり踊り始める。

そして再度の太鼓の合図で再びボゼたちは子供たちを追い回しながら、その場を走り去る。

ボゼがテラへと戻って来た後、顔を覆っていた面はそこで跡形もなく壊される。

一方で残された公民館では、悪霊を祓われた人々が安堵と笑いに満ち、酒や料理を楽しみながら夜が更けてゆく。


稲垣尚友が著した『十島村誌』によれば、ボゼはヒチゲーと呼ばれる冬の節替りの夜に登場する仮面を被った神で、トカラの各島に現れたとされており、その名残が悪石島にのみ残ったとされる。

現在は悪石島の伝統行事として旧暦7月16日のお盆最終日翌日に登場する。
また、島の盆踊りは鹿児島県指定の無形民俗文化財。


創作におけるボゼ

水木しげる『ゲゲゲの鬼太郎』
「鬼太郎国盗り物語」(角川文庫『鬼太郎国盗り物語』などに収録)に登場。本作では沖縄県の妖怪神とされる。


        ***

写真 上・中はボゼ(産経新聞社より)
写真 下は、なまはげ



wiki「まれびと」より
まれびと、マレビト(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神的存在を指す折口学の用語。

折口信夫の思想体系を考える上でもっとも重要な鍵概念の一つであり、日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視される。

沖縄におけるフィールド・ワークが、まれびと概念の発想の契機となったらしい。

来訪神のまれびとは神を迎える祭などの際に、立てられた柱状の物体(髯籠・山車など)の依り代に降臨するとされた。

その来たる所は海の彼方(沖縄のニライカナイに当たる)、後に山岳信仰も影響し山の上・天から来る(天孫降臨)ものと移り変わったという。



wiki「トカラ列島・歴史」 より

地名の由来については諸説あるものの、奄美諸島から沖縄諸島にかけてで「沖の海原」を指す「トハラ」から転訛したという説が有力。

『日本書紀』には「吐火羅国」とある。

699年(文武天皇3年)7月19日に、多褹、夜久、菴美、度感の人が物を貢いだことが、『続日本紀』に記されている(それぞれ種子島、屋久島、奄美大島、トカラにあたる)。

同書によればこれが度感(徳之島との説もある)が日本と通じた始まりであった。


wiki「鬼界ヶ島」より

鬼界ヶ島(きかいがしま)とは、1177年の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛、平康頼、藤原成経が流罪にされた島。薩摩国に属す。

『平家物語』によると島の様子は次の通りである。

舟はめったに通わず、人も希である。住民は色黒で、話す言葉も理解できず、男は烏帽子をかぶらず、女は髪をさげない。農夫はおらず穀物の類はなく、衣料品もない。

島の中には高い山があり、常時火が燃えおり、硫黄がたくさんあるのでこの島を硫黄島ともいう。

翌1178年に康頼、成経は赦免され京に帰るが、俊寛のみは赦されず、ひとり島に残され悲嘆のうちに死んだ。

鬼界ヶ島の現在の場所ははっきりしないが、薩南諸島の以下の島のいずれかと考えられている。

硫黄島 - 1995年5月に建てられた俊寛の銅像がある。火山の硫黄によって海が黄色に染まっていることから「黄海ヶ島」と名付けられたとの説がある。

喜界島 - 俊寛の墓と銅像がある。墓を調査した人類学者の鈴木尚によると、出土した骨は面長の貴族型の頭骨で、島外の相当身分の高い人物であると推測された。

伊王島 - 俊寛の墓がある。


wiki「平家の落人伝説より・鹿児島地方」より

•鹿児島県鹿児島郡三島村

平経正、平業盛らのほか、30あまりの史跡があるとされる。

鹿児島県大島郡(奄美諸島)

平家一門の平資盛が、壇ノ浦の戦いから落ち延びて約3年間喜界島に潜伏し、弟の平有盛、いとこの平行盛と合流し、ともに奄美大島に来訪したという。2005年に平家来島800年記念祭が行われた。

喜界町志戸桶(喜界島)、奄美諸島に到着した平家が最初に築いたと言われる七城跡がある。

喜界町早町、源氏警戒のため築いた城跡がある、平家森と呼ばれている。

奄美市名瀬浦上(奄美大島)、有盛を祀った平有盛神社がある、有盛が築いた浦上城跡と言われている。

瀬戸内町諸鈍(加計呂麻島)、資盛を祀った大屯(おおちょん)神社がある。

龍郷町戸口(奄美大島)、行盛が築いた戸口城跡がある。現地には行盛を祀った平行盛神社もあるが、城跡とは離れている。

龍郷町今井崎(奄美大島)、行盛により今井権田大夫が源氏警戒のため配された、今井権現が建っている。

奄美市笠利町蒲生崎(奄美大島)、有盛により蒲生佐衛門が源氏警戒のため配された。

沖縄県宮古島狩俣   落武者の物という古刀など遺品が伝わる。また平良という地名は平家の姓に由来するものという。
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