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広がる「中華」の聖地・5000年前の祖先を祀る・・朝日新聞

2014-01-24 | アジア



李・王・張・劉・陳・楊・黄。。

石の壁の表面に、30センチ四方はある漢字がびっしりと刻まれていた。

中国の人名をほとんどカバーする「姓」が3000種類彫られているという。

石壁は、大きな広場の一角に、何面も並んでいる。

2月下旬、記者は、中国河南省郊外にある史跡「黄帝故里」を訪ねた。

古代中国の中心地だった「中原」に位置し、7万平方メートルの敷地に、巨大な広場や建物が連なる。


「黄帝」とは、約5000年前にここに生まれ、文明をもたらしたとされる伝説的な皇帝だ。

考古学的な裏付けははっきりしないが、「史記」にも記され、同時代の炎帝と並んで中華文明の始祖とされる。



「中華民族は炎黄の子孫」という人も多い。

石の壁で自分の姓をみつけ、そのことを確認するという仕掛けだ。


次の広場には、「同根同祖同源」「和平和睦和楷」と書かれた黄色い旗がずらりと並ぶ。


その隣の広場では、毎年、旧暦3月3日に、例大祭「拝祖大典」が開かれる。

大理石でできた高さ約5メートルの座像が、宝剣を右手に人々を見下ろす。


その先の記念館にも黄帝像が鎮座する。

史跡にある御堂などは、漢の時代から修復が繰り返されてきたという。


だが、石の壁や大理石像、祈念館ができたのは2000年代に入ってからだ。

「中華民族の聖地」として、急速に整備が進められている。

その視野には、大陸外の華人、華僑も入る。


昨年の例大祭に参加した2万人のうち、1割は在外華人だった。

年間では、国外から来る華人が10万人にのぼるという。

「炎黄の子孫という血脈と身内の情を用いて、中華民族の血からを集めることを重視しています」。

史跡の管理委員会の人は語った。


2010年には帰国華僑組織の「愛国主義教育基地」にも指定された。

記念館には、台湾の連戦・元行政院長「首相」の書もあった。

ガイドの女性は、「拝祖大典は両岸(台中)人民のきずなを強めると同時に、祖国統一を促すプログラムでもある」と説明した。


さらに新しいプロジェクトも動いている。

史跡を2~3倍に広げ、周囲の町並みにも手を加えて、一大文化エリアにするという内容だ。

北京の清華大学が構想を練り、国を挙げて取り組む構えでいる。


炎帝の史跡も、整備が進んでいる。

湖南省株州市中心から長距離バスで約3時間。

何度も修復が重ねられてきた陵の隣にある「神農大殿」の中には、高さ約10メートルもの炎帝の石像があった。

江沢民政権時代に建てられ、県の名も炎陵県に。

数年ごとに省政府による大祭も開かれるようになった。

炎帝陵管理局主任は、

「世界から自分のルーツを訪ね祖先を祭る炎黄の子孫が増えてきた。大祭出席者を収容しきれなくなったため、大殿を建てた」と話した。


・・・・・

wikipedia「黄帝」より

黄帝(こうてい)は神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。

また、三皇のうちに数えられることもある。(紀元前2510年~紀元前2448年)

漢代に司馬遷によって著された歴史書『史記』や『国語・晋語』によると、少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、名は軒轅という。

帝鴻氏とも呼ばれ、山海経に登場する怪神・帝鴻と同一のものとする説もある。

蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった。『史記』はその治世を、従わない者を討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。

彼以降の4人の五帝と、夏、殷、周、秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。

おそらくは、中国に都市国家群が形成され、それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろう。

さらに後世になると、中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる。

また、清代末期に革命派が、黄帝が即位した年を紀元とする黄帝紀元と称する暦を用いて清朝への対抗意識を示したことはよく知られる。

だが、辛亥革命後に至り革命支持者を中心に黄帝の存在を否定する主張が高まった。

これに並行して日本でも同様の議論が起こり、白鳥庫吉・市村瓉次郎・飯島忠夫らが黄帝の実在性を否定する論文を著している。

その一方で黄帝は中国医学の始祖として、現在でも尊崇を集めている。

漢の時代では、著者不明の医学書は、黄帝のものとして権威を付けるのが流行した。

現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』も、黄帝の著作とされている。


wikipedia「神農(炎帝)」より

神農(しんのう)は古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人。

諸人に医療と農耕の術を教えたという。

中国では“神農大帝”と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。


神農氏は中国における初めての連盟の名前ともなり、70世代に渡って古代中国を治めたとされる。

また、世界最古の本草書『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)に名を残している。

伝説によれば、神農の体は脳と四肢を除き透明で、内臓が外からはっきりと見えたと言う。

神農はまず赤い鞭で百草(たくさんの植物)を払い、それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した(赭鞭)。

もし毒があれば内臓が黒くなるので、そこから毒が影響を与える部位を見極めたのだ。

その後、あまりに多くの毒草を服用したために、体に毒素が溜まり、そのせいで最終的に亡くなったという。

淮南子に、「古代の人は、(手当たり次第に)野草、水、木の実、ドブガイ・タニシなど貝類を摂ったので、時に病気になったり毒に当ったりと多く苦しめられた。このため神農は、民衆に五穀の栽培することや適切な土地を判断すること(農耕)、あらゆる植物を吟味して民衆に食用と毒草の違い(医療)を教えた。このとき多くの植物をたべたので神農は1日に70回も中毒した。」とある。


信仰

湯島聖堂・神農廟(東京都文京区湯島)湯島聖堂内の神農廟に祀られ、毎年11月23日に「神農祭」が行われる。

薬祖神社(大阪府堺市戎之町)堺天神菅原神社の摂社として、少彦名命とともに祀られ毎年11月23日に「薬祖祭」が斎行される。

少彦名神社(大阪市中央区)には少彦名命とともに奉られ、毎年11月22日・23日に「神農祭」が行われる。

神農はまた「神農皇帝」の名称で的屋の守護神として崇敬されており、儀式では祭壇中央に掛け軸が祀られるほか、博徒の「任侠道」に相当するモラルを「神農道」と称する。

漢代に五行説が流行するとともに炎帝と一体視されるようになり、西晋代に至ると西周以前に漢水流域に居住していた農耕部族の歴山氏と同一視されるようになった。

「国語」に、炎帝は少典氏が娶った有蟜氏の子で、共に関中を流れる姜水で生まれた炎帝が姜姓を姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗ったとあり、炎帝は紀元前2740年ころの古代中国の王で120歳まで生きたといわれている。

炎帝は神農氏の連盟の跡に古代中国を治めたの名前ともなり、その首領は“炎帝”と呼ばれた。

最後の炎帝は黄帝と連合して華夏族を成した。



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