始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

世界に広がれ、アイヌの響き・・酒井美直さん(アイヌレブルズ)

2017-06-07 | アイヌ

「ユーチューブ・アイヌレブルズ」
https://youtu.be/QwMhjY5uI9U

10年ほど前に、お祭りで見た「アイヌレブルズ」のステージは、とてもすてきで、印象的でした。

半年も前の新聞記事ですが、ボーカルの「酒井美直」さんの記事が載っていたので、大切にとっていました。

記事によると、酒井さんは、今は「アイヌレブルズ」は解散して「イメルア」という音楽ユニットで活動しているということです。


          *****

         (引用ここから)

「イメルア」はアイヌ語で「稲妻が光る」の意味。

プロデュースは「ファイナルファンタジー」シリーズなどゲーム音楽の作曲家として知られる浜渦正志(45)で、ボーカルを担うのが、アイヌ民族の父親を持つ酒井美直(33)だ。


ポップ、テクノ、ロック、民族音楽。

イメルアの音楽は、そのどれにも分類しにくい。

日本語だけでなく、英語やアイヌ語の歌詞の曲もある。


視聴回数は66000回を数え、ユニット名にもなっているデビュー曲「イメルア」は、弦楽器やピアノの旋律に、アイヌ伝統の弦楽器「トンコリ」がアクセントを加える。

アイヌの伝承曲「バッタキ(バッタの意)」のビデオには、CGを多用。

独特の音階と軽快なリズムに乗せて、折り紙のバッタが舞う映像が印象的だ。


アイヌ文化の要素をまったく含まない作品も多い。


5年前にポーランドとフランスで行ったデビューライブには、約300人が訪れ、その後も世界各地でライブを開いている。




「活動家ではなく表現者へ」


北海道帯広市で、生まれ育った。

北海道は今も、アイヌ民族の流れをくむ人とその家族が数万人住むという。

帯広は、彼らが多く暮らす地の一つだ。

酒井の父親はアイヌで、酒井が5才の時、出稼ぎ先の東京で亡くなった。

差別反対運動に身を投じたと聞いたが、父の記憶は、その温かいぬくもりをうっすらと覚えている程度だ。

母親と2歳上の兄と、公営住宅に暮らした。

冬は暖房費を節約するため、日当たりに合わせ、時間帯によって部屋の中を移動することもあった。

母は朝から晩まで働きづめだったが、生活苦を口にすることはなかった。

水泳や英会話など、酒井がせがむ習い事はすべてさせてくれた。

4歳から高校卒業まで酒井にモダンダンスを指導した帯広市の松本道子(83)は、「愛くるしくて明るくて、お利口さん。生徒たちの中でピカ一に輝いていた」と振り返る。

ただ、酒井が家の前に「アイヌ」と書かれたことをボソッと明かした時、たった一度だけ表情を曇らせたことを覚えている。

アイヌの人々はかつて「土人」と表され、日本政府に独自の文化や言語を否定された歴史がある。

小学校の演劇界では主役を務め、中学校でもいつもクラスの輪の中心にいた酒井だが、アイヌであることを「恥ずかしい」と思い、友人にも隠していた。


高校1年の時に、転機が訪れる。

カナダで先住民族の若者たちと交流するツアーに参加した時のこと。

民族の名を、腕に入れ墨し、堂々と伝統舞踏を踊っている同世代の彼らがまぶしく見えた。

「アイヌであることは、誇れることなのかもしれない」と初めて思えた瞬間だった。


東京の大学に進み、国連でアイヌの若者として、先住民族の権利についてスピーチもした。

卒業後、関東に住む若いアイヌら十数人に声をかけ、パフォーマンス集団「アイヌレブルズ」を結成。

「レブルズ」とは英語で「反逆者」の意味だ。

「伝統文化」というイメージにあらがい、アイヌをかっこよく、楽しく表現したいという思いを込めた。

伝統舞踏や伝承曲を現代風にアレンジして、ライブハウスや音楽フェスティバルで披露した。

目鼻立ちのはっきりした美男美女が民族衣装をまとい、激しく踊る姿は話題を呼び、国内外のメディアに取り上げられるようになった。

代表の酒井には、全国の人権団体や行政から講演の依頼が相次いだ。

求められるままに、差別の経験を話し、舞踏や楽器演奏を披露した。

だが、次第に、そんな日々に焦りを感じるようになった。

「アイヌ」や「差別」という部分ばかりが注目されて、このままだと自分は「活動家」になってしまうと思った。

「一人の表現者として認められるようになりたかった」。


2010年、酒井はこれまでの自分と決別するかのように、講演活動を断り、「アイヌレブルズ」を解散した。

次への一歩を踏み出すため、酒井が声をかけたのが、知人の浜鍋だった。



次の記事は、酒井さんの結婚を紹介した記事です。

             *****

           (引用ここから)

「ありのままの君でいい」 2008年11月12日

 悠久の時をこの国に刻み、アイヌの人々は独自の言葉、文化をつむいできた。

その言葉、文化、大地をも奪われた人々のことを、私はほとんど知らなかった。

アイヌのいまを訪ね、そこに吹く新しい風を伝えたい。

    

「アイヌレブルズ」というグループがある。

関東の若いアイヌら12人でつくる。

ポップな音楽に合わせ伝統舞踊を踊り、アイヌ語で歌う。

結成2年、メディアにも紹介され「かっこいい」と公演依頼が相次ぐ。

「レブルズ」は反乱者たち、のような意味だ。

「アイヌを誇れる社会にしたい」という思いを、名前に込めた。

でも、グループの中心、酒井美直(みな)(25)がそう思えるようになったのは、ほんの数年前だった。

高校まで北海道帯広市で育った。

幕別町出身のアイヌだった父の衛(まもる)は、上京してアイヌの権利回復運動に身を投じ、美直が5歳の時に亡くなる。

小学校の時、若い学童保育の女の先生が、ポリ袋を細かく切り裂き、もじゃもじゃの毛に見立てて頭にかぶり、「アイヌがいますよ」と言った。

アイヌだということを隠す大人は多かった。

アイヌの友人と一緒にいるところを見られたくなかった。

アイヌとは良くないこと、そんな空気が自分の心をも染めていた。

美直が変わり始めたのは、高校の時にカナダで先住民族と交流する機会を得てから。

自分と同世代が、自信たっぷりに伝統舞踊を舞う姿に衝撃を受けた。

さらに、東京の大学に進んで2年、豪州で先住民族と交流するツアーに参加して一人の青年と出会う。

米国人の父と、在日中国人の母の間に生まれたロニー・エバソン(28)だった。

小学校4年まで名古屋で過ごした。日本の中のマイノリティーの歴史に関心をもち、米ハーバード大で日本と朝鮮半島の歴史を学んだ。卒業後は北海道の阿寒湖畔にあるアイヌ民芸店に2カ月半、住み込んだ。

そんなロニーに、美直はツアー帰りの飛行機で、胸の内を話していた。

「アイヌであることでコンプレックスもあって。夢を持ったり、恋愛したりする資格すらないんじゃないか、ぐらいに自己否定してて」

ロニーは言った。「美意識、価値観は社会に支配されてて、マイノリティーは犠牲になっちゃう。美直はそのままでいい」

2005年、2人は東京で伝統的なアイヌの結婚式を挙げた。

美直は、唇の周りを黒く塗り、アイヌの成人女性のシヌイェ(入れ墨)を模した。

アイヌを同化しようとする明治政府に、禁止された慣習だ。

「今の日本では不気味に見えても、昔のアイヌにとっては美だった。あえてマジョリティーが支配する価値観にぶつけたかった」

    

そして、「アイヌレブルズ」。

結成のきっかけは、関東地区のアイヌの世話役、美直が「フチ(おばあさん)」と慕う宇梶静江(うかじ・しずえ)(75)の言葉だった。

「若いウタリ(同胞)で、新しいアイヌ文化をどんどん表現してちょうだいよ」と言われた。


歌と踊りなら、それができるのでは。。

呼びかけに、若者たちが集まった。

その中に幕別町出身の村上恵(24)がいた。

小学生の時に机に「アイヌ」と書かれた。

「目立てば、いじめの標的になる」と思い、ずっと下を向いていた。

「アイヌっぽい」自分の容姿がいやで、下まつげを際まで切った。

18歳で、逃げるように北海道から本州に。

美直の誘いに「どんな目で見られるんだろう」と不安だった。

でも公演で拍手を受けるたび、「猫背が伸びる」ような気がした。


今年、出した曲「エカトゥフ ピリカ(君は美しい)」の詞は、美直が書いた。

〝若いウタリに届け″、と。

 エネ エアニ ネノ エアン ヤク ピリカ ナ(ありのままの君でいいんだよ)

それは、かつて自分の心を開いてくれた言葉だった。

          (引用ここまで)

            *****

            ・・・・・

「NHK「俺たちのアイヌ宣言・民族と自分のはざまで」という記事もありました。


            ・・・・・

次は、「文化経済研究会」という文化団体が酒井美直さんの講演を企画しているという記事です。

〝日本文化の中の多様性の重要性″ということがテーマになっているようです。

           *****

       (引用ここから)

「life design journal CLUB  酒井美直氏が生む音楽・文化の多様性」


アイヌ出身の酒井氏は、2006年にアイヌの若者でバンド「AINU REBELS(アイヌレブルズ)」を結成。

2011年に結成され、ファイナルファンタジーシリーズなどの作曲で知られる 浜渦正志氏とともに結成した「IMERUAT(イメルア)」は、より現代的なアレンジの上に酒井氏の歌声が響くユニット。


バンド名を冠した楽曲「IMERUAT」ではアコースティック楽器とシンセサイザー、伸びやかなボーカルが溶け合うアンビエントな雰囲気。

現代的な重音のピアノがリズムを作るGIANTでは、コンテンポラリーなダンスで国家権力への警戒を表現。

●音楽の遺伝子

特定のコミュニティにのみ受け継がれてきたリズムや音階、楽器は、歴史の主流であった西洋音楽と溶け合い、吸収されたように見えながらも、その体内で生き残ってきました。
(ハンガリーのチャール・ダーシュがシュトラウスを経由し西洋音楽に浸透したように)

音楽や芸術に、民族性を乗せるということは、精神的・文化的な意味において、その民族の遺伝子を芸術の物語に組み込むということ。

酒井氏は海外で公演をすることも多く、「IMERUA」の音楽を聴いた誰かが新たな楽曲を生み出せば、それは、アイヌの音楽的遺伝子が国境を超えたということ。

今後、世界の音楽に「IMERUA」がどのように影響するのでしょうか?


●多様性と企業の支持

2007年以降に生まれた子供の半分が、100歳以上まで生きるという国連の調査があります。

65年程度の年月を、一生として捉えていた戦後の価値観で形作られた人生観や仕事観は、通用しないのは明白で、新たな生き方や価値観の先端にいる人に学ぶ必要があります。

「文化経済研究会」が酒井氏にご登壇いただくのは、アメリカという多様性の象徴だった(と一応はされていた)国が、多様性を排除し始めた今、日本においても多様性とは何かを考えることが、社会に参加している人一人ひとりに求められるからです。

我々日本人が単一民族であるという考え方は、知らず知らずのうちに多様性の排除に加担することになり、

多様性にいかに貢献しているかが企業経営にとっても重要な指標となっている昨今は、危険であると言っても過言ではありません。(事実、LGBTへの理解や就業促進をいかに進めているかが米国では企業の指示に直結しています)

日本の国の中ではなかなか直面することがない民族の問題、アイディンティティ、多様性の課題を問う会です。
是非お越しください。

         (引用ここまで)

         *****

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アイヌらしくなくなったアイヌ人のやるせなさ・・瀬川拓郎氏「アイヌ史における新たなパースペクティブ」(3・終)

2017-04-06 | アイヌ



簑島栄紀氏が編さんされた「アイヌ史を問い直す」の中にある瀬川拓郎氏の論文「アイヌ史における新たなパースペクティブ」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

瀬川氏はたくさんの本を出しておられますので、そちらもお読みください。



           *****

         (引用ここから)


●「アイヌ」の環オホーツク海世界進出

比羅夫の遠征を継起とするかのように、遠征後の7世紀後半以降、「オホーツク集団」の南下を排除した北海道には、東北北部から移住が侵攻し、「擦文文化」が成立する。

この北海道への移住は、9世紀ごろには途絶し、移住者は在地の「擦文集団」に同化したようだ。


しかし本州のとの交易はむしろ拡大した。

9世紀末には、それまで石狩低地帯を中心に展開していた「擦文集団」は、「オホーツク集団」が占める北海道東北方面へ、一気に進出した。

この爆発的拡大によって、北海道の「オホーツク文化」は、「擦文文化」と融合した「トビニタイ文化」に変容する。

「トビニタイ文化集団」は、「擦文集団」に同化しながら次第に縮小し、12世紀ごろには完全に「擦文集団」に取り込まれた。


「擦文集団」は、10世紀後半から11世紀には、オホーツク人が占めるサハリン南部にも進出した。

これらの動きは当時の本州で珍重されていた道東の海獣皮、大鷲の尾羽、サハリンのクロテン毛皮などの入手が関わっていたのだろう。


●和人との境界

古代から中世にかけて、交流が活発化するのと並行して、「アイヌ」と「和人」の文化は大きく隔たっていった。

近世末の「内陸アイヌ」は、鮭の産卵場を拠点としていた。

だがそれは、10世紀以降に始まった「干し鮭の移出」と深く関わっていたと見られる。

それ以前には産卵場に立地した集落はほとんどなく、また鮭が遡上しない川筋にも地域社会は成立していた。

つまり鮭は、どの時代においても当たり前のように大量に漁猟されてきたわけではないのだ。


最近発掘調査が行われた15~16世紀の遺跡では、大量のシカの骨が出土し、遺跡の存続期間中、交易のために、万の単位のシカが捕獲されていたと推定される。


日本海沿岸では10世紀以降、貝塚の構成がアワビやアシカなど、交易品となっていた特定種で占められるようになる。

近世の「川上アイヌ」の場合、70戸・300人ほどの人口で、狐800頭、カワウソ200頭、イタチ1000頭、ヒグマ160頭といった、莫大な量の毛皮を毎年出荷していた。

つまり〝自然と共に生きる"「アイヌ・エコシステム」は、10世紀以降に成立した、特定種の過剰な利用を組み込んだいびつな自然利用の体系であり、交易に適応するための生態系適応に他ならないと考えられる。

〝自然と共生する牧歌的な″「アイヌ」のイメージは、近世以降、日本の同化政策の下で、交易民としての性格をはがれ、農業を強制されながら、自給的に細々と狩猟漁労を行ってきた中で形つくられたものだろう。

10世紀以前の状態を「縄文・エコシステム」と呼ぶとすれば、近世以降の「アイヌ」は「アイヌ・エコシステム」から「縄文・エコシステム」に立ち戻ることを余儀なくされた人々だったと言えるかもしれない。



10世紀以降の人々は、商業狩猟・商業漁猟という特定資源に偏った生業が展開する中、鮭の産卵場が発達する草原地帯の低位段丘面に集落を構えていた。

集落群は、丸木舟によって日常的につながり、商品の集出荷という物流を軸として地域社会を成立させていた。

彼らは「川の民」であった。

10世紀を境とする、このような日常空間の劇的な転換は、段丘面と結びついていた「カムイ」や「墓地」の設定、「他界」のありかたにも大きな転換をもたらすことになった。

たとえば「アイヌ」の集落の守護神は「シマフクロウ」だったが、それは「鮭」を食料とする「シマフクロウ」のテリトリーと、低位段丘面の「鮭」の産卵場を占める「アイヌ」の集落が重なっていたことに由来するとみられる。



これに対して、近代に入植した「和人」の大規模開発は、中位段丘面で展開した。

粘土質の広がる中位段丘面は、水田開発の適地という、稲作民としての選択であり、「アイヌ」が暮らしていた低位段丘面は、水田には不適な土壌であったが、彼らはその低位段丘面に集められ、農耕を行うことになった。

サケ漁や仕掛け弓猟など、狩猟・漁猟活動の多くを封じられ、農民として自活することを強いられながら、彼らは〝二流の農耕民″として生きることを余儀なくされたのだ。

このような研究視点は、従来の「文化変遷」といった平板な「アイヌ史」の語りを超えて、地域固有の生態系と結びつきながら、一万年以上の時を生き抜いてきた「アイヌ」の歴史と知を解き明かしてゆくため、また民族的な変容の深さを探るためにも不可欠な視点と言えよう。


  (引用ここまで・写真(中・下)は「かみさまとシマフクロウのはなし」より、シマフクロウの絵)

             *****

子どもの頃に、「コタンの口笛」という、少年向けの小説を読んだことを覚えています。

改めてご紹介したいですが、そこに登場するアイヌの少年は、とても生気がなく、題名である「コタンの口笛」の、口笛の音色はとてもはるかから聞こえてくるように感じられたのでした。

生を受けた人々が、皆その人らしく生きることができればどんなにか自由で幸せであるだろう、と、子供心にも思ったことを思い出します。


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「日本書紀」のエゾ征伐・・瀬川拓郎氏「アイヌ史における新たなパースペクティブ」(2)

2017-04-02 | アイヌ




簑島栄紀氏が編さんされた「アイヌ史を問い直す」という本の中の、瀬川拓郎氏の論文のご紹介を続けます。

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瀬川氏は多数の単行本を出しておられますので、そちらもお読みください。



           *****

          (引用ここから)

●「マタギ」は縄文人の末裔か?

「マタギ」は、東北地方を中心に狩猟文化を伝承してきた農耕民だが、彼らにアイヌ語が伝わる事実が古くから注目されてきた。

それはセッタ(犬)、ハッケ(頭)、ワッカ(水)、ワシ(雪)、ツクリ(木)、サンペ(心臓)、トッピ(火付き)、カンド(天気)、トナリ(皮紐)といったものだ。

この事実は、〝彼らが縄文人の末裔として縄文語=アイヌ語を伝えてきたことを意味する″、と考えられてきた。

しかしこれも、単純な話ではなさそうだ。


「マタギ」は、基本的に日本語を話す本州「古墳時代」の農耕民の末裔であり、彼らが用いるアイヌ語は、借用語としてのアイヌ語であり、狩猟・毛皮加工の技術と一体で取り込まれた「続縄文文化」の残影とも考えられるのだ。


●「阿倍比羅夫」遠征の実像

北海道の「続縄文集団」が本州へ南下した目的を、筆者は本州・古墳社会が持つ鉄製品の入手のためだと考えている。

本州・東北北部に進出した「続縄文集団」は、仙台ー新潟まで北上してきていた「古墳集団」と、前線地帯で混住していたが、そこでは活発な交易が行われていたとみられる。

というのも、「続縄文集団」の南下と並行して、彼らの社会には鉄製品が多く流通するようになったからだ。


4世紀の「続縄文集団」の南下と同時に、「オホーツク集団」もサハリンから南下した。

彼らは舟の活発な利用と、漁猟・海獣漁など海洋適応を特徴とし、農耕や豚の飼育を行うなど、「続縄文集団」とは大きく異なる文化を持っていた。

大陸東北部の「韃靼(だったん)系集団」と関係が深く、青銅製装飾品など大陸製品が流通していた。

「アイヌ」とは異なる人々で、現在サハリン北部などに暮らす漁労民=「ニブフ」に連なる人々と考えられている。

彼らの南下も、古墳社会の鉄製品入手が目的だったのだろう。

この4世紀~9世紀末にかけて、北海道は「オホーツク集団」と「擦文集団」に二分されていたが、両者の関係は融和的ではなかった。



「オホーツク集団」が占める道北・オホーツク海側と、「続縄文集団」が占める道央・道南・太平洋側の間には、空白地帯が広がっていた。

さらに「オホーツク集団」は日本海を南下して、道南や下北半島まで往来していたが、その南下は、「続縄文集団」との接触を避けるように、島伝いに行われていた。


「日本書記・660年」のくだりには、王権が北方世界へ派遣した「阿倍比羅夫」の集団と、「オホーツク人」と考えられる集団との交易場面が記されている。

いずれにせよ、「縄文人」の末裔が占めてきた北海道と、本州・東北北部は、4世紀以降、古墳社会との交易をめぐって、民族的集団が入り乱れる混乱の渦中にあったのだ。


「比羅夫遠征」の中心記事である「日本書紀・3月」のくだりでは、「王権が派遣した「阿部比羅夫」の船団が、渡島(わたりじま)に至り、「渡島蝦夷」と共同で、沖合のヘロベノ島を拠点として、「渡島蝦夷」に危害を加えていた「アシハセ」を討伐する」、という内容だ。

「渡島」には「北海道」、同地の「蝦夷」には「続縄文集団」、「アシハセ」には「オホーツク集団」を当てるのが定説となっている。



「比羅夫」の遠征当時、「オホーツク集団」は最盛期を迎えていた。

「比羅夫」は、「オホーツク集団」から勝ち取った70枚という大量のヒグマの毛皮を持ち帰った。

この事実は、「オホーツク集団」が「続縄文集団」と同様、ヒグマを主たる交易品としており、さらにその規模は零細ではなかったことを示している。

「阿倍比羅夫遠征」とは、「オホーツク集団」による北方世界の混乱を収拾し、それまで本州・東北北部の「蝦夷」を介して行われていた北方産品の民間交易を、王権による官営交易へ転換しようとするものだったとみられる。


大和王権が、すでに7世紀代から北方世界の民族的状況を掌握していたとすれば、列島史のイメージは大きく塗り替えられてゆくことになろう。


     (引用ここまで・写真3・4は、我が家の日本地図より)

           *****

確かに、「阿倍比羅夫の蝦夷遠征」は日本史で習った記憶があります。

大和朝廷が出来たばかりの頃に、悲劇的なヤマトタケルなどと共に、西から東へ、朝廷から送り出されて、「アズマエビス」を平定しようとした人物、という印象があります。

よく考えれば、とても古い時代のことで、よく記録が残されていたものだと感心してしまいます。

「日本書紀」を書いた人々にとって、東北や北海道がどのように感じられていたのか、分かるような、分からないような気持ちがあります。

筆者・瀬川氏は、その「あいまいな印象」を、きちんと整理して、並べなおしておられるのだと思います。

「日本人」としてのわたし達の原点は、どこにあるのか?、、いつも考えることですが、この問題も、そのテーマに関する、大変興味深い資料であると思います。


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アイヌらしさのパラドクス・・瀬川拓郎氏「アイヌ史における新たなパースペクティブ」(1)

2017-03-28 | アイヌ


簑島栄紀氏により編さんされた「アイヌ史を問いなおす」という本の中にある瀬川拓郎氏の「アイヌ史における新たなパースペクティブ」という論文をご紹介します。

重要なテーマが、分かりやすく説明されています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

瀬川氏の著書は、「アイヌの歴史」、「アイヌの世界」など、何冊も単行本が出されています。




           *****

         (引用ここから)


●DNAが語るアイヌ

●クマ祭りの起源をめぐって

●アイヌ文化の日本語、マタギ文化のアイヌ語

●阿倍比羅夫遠征の実像

●アイヌの環オホーツク海世界進出

●和人との境界

●アイヌ・エコシステムの終焉

●アイヌ・エコシステム論のゆくえ

●景観のアイヌ史


小見出しには、上のようなタイトルがつけられています。

それぞれを要約すると、以下のようになろうかと思います。


●DNAが語るアイヌ

山梨大の足立登らは、ミトコンドリアDNAの分析から次のような見解を示している。

「北海道縄文人」にみられるDNA配列のグループ(ハプログループ)はわずか4種類で、現代日本人の20種類に比べて、著しく多様性が少ない。

このことは、「北海道縄文人」が比較的長期にわたって、周辺集団から孤立していた可能性を示唆する。

さらにそのDNAは、大陸北東部先住民との共通性をみせており、彼らの祖先が後期旧石器時代に、この地域から日本列島に渡来したことを示している。

一方、「近代アイヌ」のハプログループの構成は、多様性をもつ点で、「縄文人」と大きく異なり、さらに、「縄文人」にも「本土日本人」にも存在しない「ハプログループY」を持つのが特徴的だ。

この「Y」は、北東アジア先住民に特有のものであり、4~9世紀にサハリンから道東北部沿岸に南下していた「オホーツク人」にも、この「ハプログループY」が見られる。

つまり「アイヌ」の成り立ちには、「オホーツク人」の大きな影響があった。

と言うことができる。


9世紀末に、「オホーツク人」がサハリンへ撤退した際、道東に残された「オホーツク人」の集団が「アイヌ」に同化・吸収されたことは、考古学では定説となっているので、それを裏付けた形となる。

DNAの面からは、「アイヌ」を「北海道縄文人」の直系とまでは評価できないにせよ、文化的に見れば、「アイヌ」は「北海道縄文人」の後継集団であることに間違いはない。

「本土日本人」や、「オホーツク人」との混血が行われたとしても、文化的伝統やアイデンティティは、「縄文文化」から連綿と、しかし変容を遂げつつ、受け継がれてきたと考えられる。


●「クマ祭り」の起源

生け捕りにした子熊を集落で飼育し、これを共食する祭りは、世界的に見ても、北海道とサハリン・アムール川下流の先住民の間にしか認められない特異な習俗であり、その起源をめぐってさかんに議論が行われてきた。

「アイヌ」の飼い熊儀礼の起源を考える上で、考古学的に重要なのは、北海道の「縄文文化」で行われていたとみられる「飼いイノシシ儀礼」だ。

北海道の遺跡では、津軽海峡の〝プラキストン線″以北に自然には生息しないイノシシの骨がしばしば発見される。



その分布は全道に及ぶが、イノシシの自生を想定できる量や内容ではない。

骨はどれも焼けており、なんらかの儀礼が行われたことを示している。

幼獣を丸木舟で移入していたと考えざるをえない。


ではなぜ、北海道の「縄文人」は、本州からイノシシを移入しなければならなかったのか?

「縄文時代の北海道」には、本州・東北北部から移入した子イノシシを飼育して、共食する「飼い熊儀礼」酷似のモチーフを持つ祭りが存在しており、

この「飼いイノシシ儀礼」を開催するため、本州からイノシシを移入していたと考えるのが自然だ。


北海道と同じく、イノシシが生息しない伊豆諸島でも、イノシシはわざわざ海を越えて移入されていた。

「飼いイノシシ儀礼」は、〝縄文文化圏″の全体で共有されていたのだろう。

この汎列島的な「イノシシ儀礼」を、生態系の差異を超えて共有しようとしていた、と見られる。


「日本書紀」には、ヒグマの毛皮関連の記事がいくつか見られる。

「続縄文集団」は、本州にヒグマの毛皮を移出していたようだ。

そうだとすれば、農耕社会に移行した本州で、縄文イデオロギーが変容し、象徴としての「飼いイノシシ儀礼」が意味を失う中、

北海道では、新たに交易品となったヒグマが重要な意味をもち、猟の活性化に伴って、ヒグマの儀礼も頻繁に行われるようになっていたことは想定できそうだ。

「アイヌ」の「クマ祭り」は、「縄文文化」の伝統を継承しながら歴史的な変容を遂げてきたものであり、「アイヌ」は〝縄文イデオロギーの継承者であると同時に、その変革者でもあった″と言えるかもしれない。


●アイヌ文化の日本語、マタギ文化のアイヌ語

本州・東北北部では弥生時代後期以降、4世紀前後、無人化あるいは過疎化し、北海道から「続縄文集団」が南下した。

その後、本州・東北北部には古墳文化の人々が東北南部や関東などから入り込み、「続縄文集団」は後退しながら6世紀には北海道に撤退した。

北上してきた古墳文化の人々は、農耕民であり、古代日本語を話す人々であったと考えらえる。


本州・東北北部の北上を続ける農耕民集団の一部は、7世紀後期~9世紀に北海道へ渡海した。

彼らは石狩低地帯まで進出して、在地の「続縄文人」と混在していたようだ。

彼らによって、竈(かまど)を持つ住居、農耕具、脱穀用の臼杵、高倉式倉庫、織布の技術、箸の使用などが伝わったと見られ、

続縄文人の文化は一見本州の農耕民と変わらないものになった。


この、〝強く農耕民化した狩猟採取民の文化″を「擦文文化」と呼んでいる。

農耕民がもたらしたのは、物質文化だけではない。

本州の祭祀遺跡から出土する土製勾玉、土製丸玉が出土しており、本州と同様な祭祀が、北海道でも行われていたことを示している。

さらに「近世アイヌ」は、カムタチ(麹)、タマ(魂)、オンカミ(拝み)、タクサ(手草)、シト(餅)、カムイ(神)、ノミ(祈む)といった、儀礼に関係する日本語を伝えていたが、その多くは本州で奈良・平安時代に使用されていた古い言葉の借用だ。

農耕文化だけでなく、祭祀や儀礼も一体となった文化が、本州から北海道に伝わり、「擦文文化」やその後の「アイヌ文化」の根幹をなすことになったようだ。

この文化を伝えた本州・東北北部からの渡海者は、本州中央からは「蝦夷(エミシ)」と呼ばれてきた人々だったにちがいないが、

日本語古語を話した、日本の儀礼体系を身に着けた人々、つまり古代日本の文化そのものを担った人々だったのだろう。

        (引用ここまで・写真(下)は新聞に示されていたプラキストン線の図です)

             *****


このテーマは、今までにもご紹介してきたものですが、非常に興味深いと思います。

なぜ、アイヌの方たちが、彼らの神を「カムイ」(=神)と呼ぶのか?

アイヌ語の「カムイ」が、縄文語として継承されてきたのではないか?、

だから、アイヌ民族が日本人の原点だ、と考えがちですが、研究者たちは、それは違うと言うのです。

そして、アイヌの伝統的神事である「熊祭り」は、アイヌに固有のものというよりは、汎列島的な縄文文化が、北海道にも移入された、と捉えるべきだ、と考えられるというのです。

そして、アイヌ民族という北の民は、さらに北のサハリンあたりの人々であった可能性が、遺伝子の研究からは考えられるということです。

そして、アイヌ民族に農耕文化をもたらしつつ、アイヌ民族が北海道以南へ南下することを押しとどめる役を担ったのが、古代日本語を話す「蝦夷」(えみし・えぞ)と呼ばれる人々であった、ということです。

だから、蝦夷≒アイヌ≒東国のまつろわぬ民、という図式も、単純すぎるということになります。


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「アイヌ交易、北東アジアにも」瀬川拓郎氏・・ダイナミックな交易人としてのアイヌ像

2017-03-25 | アイヌ



去年の春頃、新聞で、瀬川氏のアイヌ研究が「日本史」の優秀研究賞を受賞したという記事を目にしました。

その後、昨秋、新聞に署名記事を見つけましたので、読んでみました。


              +・・・・・

「アイヌ交易 北東アジアにも」   瀬川拓郎
                     読売新聞 2016・10・19

狩猟採集の暮らしに閉じこもり、時代の変化に取り残された人々・・多くの日本人が漠然と持つ、このアイヌのイメージは、考古学によって大きく変わりつつある。

生息する動物の種類が大きく変わる境界が「プラキストン線」として知られるように、北海道にはヒグマやエゾシカなど大型獣が豊富で、良質な毛皮をもつ中小型獣も多い。

トドやアザラシなど海獣類の回遊も、北海道近海がほぼ南限にあたる。

さらに今の季節、大量のサケが川面を黒く染めて遡上する。

北海道は、南に張り出した北の生態系、日本列島における北東アジア的世界だ。

古人骨のコラーゲンによる食生態の分析では、北海道縄文人は肉食主体、本州縄文人は植物食主体とされる。

北海道では縄文時代以降も、肉食と毛皮利用のいわば「旧石器的生産体系」が展開してきた。

その基盤となったのが、北海道の北東アジア的生態系なのだ。




狩猟採集に踏みとどまったにもかかわらず、北海道の遺跡からは異文化の産物が多く出土する。

弥生時代の南島産貝製品、古墳・奈良時代の刀、平安時代の銅椀や鏡、鎌倉時代以降の漆器、サハリンの琥珀玉、大陸のガラス玉などだ。

平安時代の集落跡である厚真町ニイタップナイ遺跡では、アムール川下流域バクロフカ文化の鉄属が出土し、注目を集めた。

おそらく大陸の弓・矢・矢筒のセットが、珍奇な宝として流通していたのだろう。


本州の庶民など到底手にできないこれらの産物を、北海道の人々は陸海獣の毛皮などによって入手した。

彼らが農耕を受け入れなかったのは、旧石器的生業体系という「後進性」を優位性に転換する、交易狩猟民の道を「選択」したからではないか?


ロシアの考古学研究者は、アイヌが11世紀以降、サハリン南部、千島、カムチャツカへ進出していった事実を明らかにしてきた。

中国の史料によれば、サハリンに進出したアイヌは、13世紀には大陸の先住民の村々を襲って略奪を働き、北東アジアに政治的影響力を及ぼす大モンゴルと戦争を繰り広げた。

北東アジアに進出し、交易を拡大していったアイヌは、バイキングともいえる存在だったのだ。


ただし北海道は、基本的に本州の流通圏の中にあった。

それは日本の強い求心性だけでは説明できない。

というのも、その事実は、

●北東アジア的世界の北海道が、なぜ日本列島の縄文文化圏に含まれたのか?

●生態系で北海道と共通する一衣帯水のサハリンが、なぜ縄文文化圏に含まれなかったのか?

という、日本国成立以前の問題とも関わっているからだ。


北海道は、道東太平洋沿岸を除いて、東シナ海から日本海を北上する対馬海流に取り囲まれている。

海流と海上交通から見た北海道は、南の生態系に組み込まれた世界だ。

北海道が縄文文化圏に含まれ、その後も日本の流通圏となっていた理由はそこにある。


日本と北東アジアの間で、アイヌはどちらにも帰属しない「あわい」の存在として生きてきた。

彼らを理解する手がかりは、北と南の生態系が重なり合う、北海道という「あわい」の世界にある。

南に目を転じれば、亜熱帯の生態系を持ちながら、海流によって日本列島に組み込まれた沖縄もまた「あわい」の世界だ。

沖縄の人々も交易を生業とし、近代になるまで日本と中国いずれにも属さない「あわい」の存在として生きてきた。

アイヌと沖縄人は、縄文人の遺伝子的特徴を強くもつという。

彼らの独自の歩みは、日本列島の「あわい」に生きた縄文人の「選択」だった、と言えるのではないか。


              ・・・・・

    
           (引用ここまで)

静的なイメージがつよいアイヌ民族ですが、最近は、このような研究が多く見られるように思います。

次回は、瀬川氏の文章をもう少し読み込んでいきたいと思います。

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知床のシマフクロウ あえて公開・・アイヌの神様

2016-06-04 | アイヌ



昨朝、函館の森の中で6日間行方不明だった7歳の男の子が無事保護されました。

わたしは、ああ、きっと森の神様たちが守ってくださったのだと思いました。


               ・・・・・

「6日ぶり保護…自ら名乗る、陸自演習場で」 毎日新聞デジタル速報 2016・06・03

 3日午前7時50分ごろ、北海道鹿部町内の陸上自衛隊の駒ケ岳演習場内で、5月28日から行方不明となっていた北斗市追分4の小学2年、田野岡大和さん(7)が見つかった。北海道警によると、隊員が施設で発見した。大和さんが自ら隊員に名前を名乗り出たという。目立った外傷はなく、衰弱した様子もないという。病院で検査を受けた後、詳しい事情を聴く方針。
<5月28日から不明…どうやって過ごしていた?>
<男児「食べ物はなかった」>
<男児はどうやって発見現場に?>
 道警によると、発見場所は、行方が分からなくなった七飯町の山中から6〜7キロ離れている。
 大和さんは28日午後5時ごろ、両親と姉の家族4人で鹿部町の公園に車で遊びに行き、帰宅中に七飯町の林道沿いの山林で1人置き去りにされた。家族は当初、山菜採りの途中ではぐれて行方が分からなくなったと説明していたが、その後父親(44)は「公園で人や車に石を投げつけたため、しつけの意味で置き去りにした」と説明を翻した。
 父親は車で数百メートル走った後、歩いて約5分後に戻ったが、大和さんの姿はなかったと話しているという。http://mainichi.jp/articles/20160603/k00/00e/040/156000c

              ・・・・・



冬に、シマフクロウに関する新聞記事があり、掲載しようと思って大切に保存していたのですが、肝心の新聞記事の写真が保存できていませんでしたので、写真なしですが、投稿します。

記事の代わりに記事に書かれている「鷲の宿」のアドレスを記載しておきます。

「シマフクロウ・オブザバトリー」
http://fishowl-observatory.org/facilities.html


              ・・・・・・


「知床のシマフクロウ あえて公開・・絶滅危惧種 観察と保護共存」 
                      朝日新聞 2015・12・05


北海道の世界自然遺産・知床で、絶滅危惧種シマフクロウを来訪者に見せる試みが始まった。

保護すべき生物をあえて見せることで、知床の自然への理解を深めてもらおうと、地元観光協会が動いた。

環境省は、

「めったに人目に触れることのない希少種を見せて保護、啓発につなげようとしている非常に少ない事例。良い方向に進んでもらいたい」

と見守っている。

知床半島の羅臼町を流れるチトライ川。

日没から間もなく、川沿いの民宿「鷲(わし)の宿」隣の小屋で、家族連れらが薄明かりに照らされた川面を眺めていた。

知床羅臼町観光協会の佐藤紳司さんが説明した。

 「シマフクロウの主なエサはイワナの仲間のオショロコマです。その数から考えると、知床では一つの河川域に一つの家族しかすめないでしょう」

 その時、シマフクロウが流れに浮かぶ岩に降り立った。

「来た!!」。

小屋に歓声が上がる。

フクロウは小屋には目もくれず、微動だにしない。

何分経過しただろうか。

突然、川の真ん中に設けられた給餌(きゅうじ)池へ飛び込み、ヤマメを捕まえた。

「ここではシマフクロウが野生の姿を見せてくれる。それを見て自然を敬愛する気持ちを育んでもらいたい」と佐藤さん。

かつて北海道にシマフクロウは約1千羽いたとされるが、大規模な森林伐採やダム建設で、1960~70年代には推定約70羽に減った。

国は84年から給餌や巣箱の設置で保護事業を実施。

現在、北海道東部を中心に約140羽にまで回復した。

半数ほどが知床半島にいるとされる。

その希少性や美しさから、カメラマンやバードウォッチャーに人気が高い。

環境省は保護の観点から生息地を明らかにしていないが、営巣地を探し出して照明で追い回すといった悪質なケースもあるという。

「鷲の宿」でも、出没情報を得てやってきた客同士がトラブルを起こしたり、ストロボの発光について環境省から指導されたりした。


「人の行動は徹底的に制限」

知床羅臼町観光協会は、知られてしまった出没地を「保護と観察の先進地に」と昨年から動き始めた。

野生動物への給餌は専門家の間でも意見が分かれるため、シマフクロウを人慣れさせず、野生の捕食能力を失わせない程度のエサのやり方をめざした。

簡単には捕食できない給餌池にした。

エサのヤマメが隠れる石を置き、放すヤマメの数も減らした。

川面を照らす明かりも工夫。

シマフクロウが活発に活動を始める夕暮れ時の照度にした。

人の行動も制限した。

必ず小屋の中から観察し、小屋から出る時は決まった経路を歩くよう徹底。

その結果、シマフクロウは長く姿を見せるようになった。

環境省釧路自然環境事務所野生生物課の藤井好太郎課長は

「最大限配慮された取り組みではないか。保護の結果、シマフクロウの個体数は少しずつ増えている。これからは人との関係を個々の場所で考えていかなければならない」と話している。



〈シマフクロウ〉 国の天然記念物。環境省のレッドリストでは絶滅危惧ⅠA類に指定される日本最大のフクロウ。

全長は70センチ近くになり、翼を広げた長さは180センチに達する。

日本では北海道と北方領土に分布。

道内では東部を中心に140羽程度が河川や湖沼周辺の森林に生息し、うち半数ほどが知床半島にいるとされる。

主食は魚類だが、両生類、甲殻類、鳥類、小型哺乳類なども捕食する。アイヌ語でコタンクルカムイ(村の守り神)と呼ばれる。



             ・・・・・


この記事を読んで、まずアイヌのシマフクロウのことを思い出しました。

シマフクロウをうたった「ユーカラ」を、更更科源蔵著 岩船修三絵の、ユーカラの絵本「かみさまと ふくろうのはなし」でご紹介します。





            *****

          (引用ここから)


いちばん偉い ふくろうの神様

むかしむかし、世界がまだ 青い水ばかりで、

たった一か所 油のようなものが、浮かんでいました。

ある日、それが 火のように燃えあがり、

炎の先が 明るい空になり、

火のおさまったあとが、岩になりました。

そこに 空から、男と女の神様が、雲に乗って 降りてきて

海や陸の生き物を つくりました。


そこへ、フクロウの神様が来て、

太陽と月の神様をつくり、

昼と夜を つくりました。


フクロウのかみさまといっしょに 

国造りの神様のおともをして、

セキレイという鳥も、

どろんこの世界に 降りてきました。


セキレイが どろんこの中を、

尾羽を パチンパチンと振りながら、

ちょんちょん 飛び回ると、

その 飛んで歩いたあとが、すこしずつ 土が乾いてきました。


そのセキレイの かわかしたところに 

フクロウの神様が降りて、

大きな目であたりを くるくる見まわしたり、まぶたをぱちぱちさせました。


すると、泥海のようだったところが、 だんだんと 水が澄んで、

きれいな海に なりました。


たくさんの魚が すいすい 泳ぎまわったり、

ぴちぴちと水の上に、 はねあがったりして 遊び、

白いかもめも たくさん集まってきました。


フクロウの中で 一番偉いのは 大きなシマフクロウです。

夜になると、人間の村の近くにきて、村の人にいたずらをする 悪い魔物が こっそりしのんでくるのを、高い木の上から みはりをします。

魔物が近寄ると

「ポッポッ ホン フンフン」と、

大声で どなりつけるのです。

だから 夜になっても、 村の人たちは 安心して ぐっすりと 眠れるのです。


また、エゾフクロウは 村の守り神の シマフクロウのいいつけで、 

月の光の差し込む 森の中を 飛び回ります。


そして、人間の探している 熊のようすを見張りながら

時々 村の近くに来て、

「熊とりにおいで、 熊とりにおいで」と言って、

熊の後を 飛んでゆきます。


それで、朝になって 村の人たちが、

そのあとを追ってゆくと、

かならず 熊がいるそうです。


秋になると、川で生まれて 海に行ったサケが 生まれた川に 帰ってきます。

すると フクロウは、木の上から、

「こっちだよ、こっちだよ」と 呼ぶのです。

すると サケたちは、落ち葉の流れる 山奥の冷たい流れを

きらきらと 光りながら、 水の上を はねたり、

水底を くぐったり しながら 

元気よく やってくるのです。



ある年、かみなりさまの妹が、

高い山に あそびにおりて、

人間の村の方を 見ていました。


秋だというのに、さっぱり さかなの姿が見えません。

これは大変だと、大声で 空にある 神の国に 叫びました。

すると フクロウの神様が、やなぎの木の枝を 杖にし、

さかなのたましいを 背負って 山の上に駆け下りました。


やなぎの葉に さかなのたましいをつけて 川に流したので、

やなぎの葉は みんな 小さな さかなになり、

それで、村の人たちが 助かりましたと。
 

           (引用ここまで)

             *****

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「アイヌの作法・・藤村久和「アイヌ・神々と生きる日々(1)」(3)まであり

「結城庄司・アイヌ宣言(1)・・自然主義者は戦う」(4)まであり

「うさぎが鹿より小さくなったわけ・・「アイヌ神謡集」より

「今日は知里幸恵さんのご命日・・「アイヌ神謡集」の編訳者」

「先住民族サミット・・あれからどうなった?(1)」(2)あり

「アイヌ観はいかにして形成されたか?・・児島恭子「エミシ・エゾからアイヌへ」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/ad338d0a5800b212c81e2ece28d70d19


「金田一はアイヌ語か?など・北東北と北海道・・アイヌと「日本」(1

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「日本書紀」に記されている北海道の民は擦文文化の人々だった・・アイヌと日本(6)

2016-03-12 | アイヌ



佐々木馨氏の「アイヌと「日本」」を読んでみました。

語彙がたくさんあるので、ウィキペディアで整理をしています。

次はwikipedia「擦文文化」です。

 
              *****

           (引用ここから)


「擦文時代」より

擦文時代(さつもんじだい)とは、7世紀ごろから13世紀(飛鳥時代から鎌倉時代後半)にかけて北海道を中心とする地域で擦文文化が栄えた時期である。

本州の土師器の影響を受けた擦文式土器を特徴とする。

後に土器は衰退し、煮炊きにも鉄器を用いるアイヌ文化にとってかわられた。(詳細は「蝦夷#えみし」の項を参照)

この時代、9世紀(平安時代前期)までは擦文文化と並行してこれとは異質なオホーツク文化が北海道北部から東部のオホーツク海沿岸に広がっており、その後13世紀(鎌倉時代後期)まではその系譜を継ぐトビニタイ文化が北海道東部にあって、擦文文化と隣り合っていた。

トビニタイ文化はオホーツク文化に擦文文化が取り入れられたものだが、後期には擦文文化との違いが小さくなった。そこで、トビニタイ文化を擦文文化に含める考えがある。


時代と分布

擦文式土器の使用の始まりは6世紀後葉から7世紀はじめ(飛鳥時代に相当)にあり、ここから擦文時代が始まる。

前代の続縄文時代には、土器に縄目の模様が付けられたが、擦文時代には表面に刷毛目が付けられた。

これは土器の表面を整えるため木のへらで擦ってつけたものと考えられており、これが擦文の名の由来である。

この土器の表面調整技法は同時期の本州の土師器にも使用されており、この点にも土師器からの強い影響が窺える。

土器型式では北大II式までは続縄文土器であり北大III式から擦文土器に含まれる。

擦文土器は、

前代の続縄文土器の影響が残る時期のもの(6 - 7世紀、飛鳥時代)
土師器の影響を最も強く受け東北地方の土師器に酷似する時期のもの(7世紀後半 - 8世紀、奈良時代ころ)
擦文文化独特の土器に刻目状の文様が付けられる時期(9世紀、平安時代前期以降)

のものに大別される。

独特の刻目状の文様の土器を狭義の擦文土器とする研究者も存在する。


擦文文化からアイヌ文化への移行についてははっきりしたことがわかっていない。

これは、確認された遺跡の数の少なさのせいでもあるが、土器が消滅して編年が困難になったせいでもある。

11世紀から13世紀(平安時代後期から鎌倉時代後半)に終末を迎えたようである。

分布は現在の北海道を中心とする地域であるが、10世紀から11世紀にかけて(平安時代中期)青森県地方を中心とする北緯40度以北に擦文文化圏が広がったとする見解が複数の研究者から指摘されている。



生活

擦文時代の集落は、狩猟や採集(狩猟採集社会)に適した住居を構え方をしていた。

たとえば、秋から冬にかけてサケ、マスなどの獲物をとる時期には、常呂川や天塩川などの河口の丘陵上に竪穴住居の大集落、つまり本村を構え、他の時期には、狩猟などを営む分村を川の中流より奥に集落を作ったと考えられている。

擦文文化の人々は、河川での漁労を主に、狩猟と麦、粟、キビ、ソバ、ヒエ、緑豆などの栽培植物の雑穀農耕から食料を得ていた。

わずかだが米も検出されており、本州との交易によって得ていたと考えられる。

擦文時代には鉄器が普及して、しだいに石器が作られなくなった。

普及した鉄器は刀子(ナイフ)で、木器などを作る加工の道具として用いられたと考えられている。

他に斧、刀、装身具、鏃、釣り針、裁縫用の針など様々な鉄製品が用いられた。

銅の鏡や中国の銅銭も見つかっている。


これら金属器は主に本州との交易で入手したが、北方経由で大陸から入ってきたものもあった。

製鉄は行わなかったと見られるが、鉄の加工(鍛冶)の跡が検出されている。

また青森県五所川原窯で作られた須恵器が、北海道各地から出土している。

擦文文化の人々は方形の竪穴式住居に住み、川のそばに大小の集落を作って暮らしていた。

前代の続縄文時代後半の住居は検出された例が極めて少なく、実態は不明である。

擦文文化から本州の人々と同じくカマドが据えられるようになった。


伸展葬の土坑墓が一般的な埋葬形態である。

8世紀後半から9世紀(奈良時代から平安時代前期)には、北海道式古墳と呼ばれる小型の墳丘墓が石狩低地帯(石狩平野西部と勇払平野)に作られた。

東北地方北部の終末期古墳と類似しており、東北地方北部との多様な交流関係が窺える。

一方で10世紀半ばから12世紀はじめ(平安時代中期から平安時代後期)にかけて、北東北地方から樺太にかけて環濠集落・高地性集落が多数見られることから、

これを防御性集落とし、「蝦夷(えみし)」から「蝦夷(えぞ)」への転換時期とする見解が出されている。


文献史料

北海道の擦文時代は、道外の飛鳥時代から鎌倉時代後期にかけての時期に相当する。

『日本書紀』にある7世紀後半(飛鳥時代)の阿倍比羅夫の航海をはじめとして、六国史には渡島(わたりしま)の蝦夷(えみし)との交渉記事が多数ある。

渡島の所在をめぐってはこれまで諸説あったが、近年では北海道とみなしてよいとする意見が多い。

もしその通りだとすると、渡島蝦夷は擦文文化の人々ということになる。


          (引用ここまで)

     
            (写真(下)はわたしがイベントで作った鹿笛です)


         *****


前に、東北地方のマタギの狩猟について調べていた時に、マタギの熊狩りは、アイヌよりも古い伝統をもつ
、と書かれていたことに驚いたことを思い出します。

「先住民族アイヌ」ということばも、軽々には使えない、ということだけは、たしかだと思います。

それは、わたしたち一人ひとりの中には、自分が思っているよりはるかに深い、古代の血が息づいているのではないか、という思いにもつながります。



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アイヌの葬式・火の神に旅立ちを依頼する・・アイヌと「日本」(5)

2016-03-06 | アイヌ


佐々木響氏著「アイヌと「日本」」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****

             (引用ここから)


アイヌ民族の、和人とは決定的に違う「死霊」観を伝える文献資料がある。

アイヌ民族は、長い現代までの歴史の中で、言語や教育の領域で屈辱的にも和人としての立場を余儀なくされてきた。

だがこと宗教観だけは、キリスト教のアイヌ民族への伝道・布教などが近代の中であったにも関わらず、辛うじて民族的伝統を保持し続けてきた唯一の領域である。

例えば板倉源次郎の元文4年(1739)の「北方随筆」は、アイヌの死霊観をこう伝えている。

            ・・・

医業なきゆへ、疱瘡、麻疹、時疫病にて死亡の者多きゆへ、病を恐れ、死を忌事はなはだしく、病死あれば、父子兄弟といえども、捨て置いて、山中へ入り、死して後帰る。

死者の取り置きは、新しきアツシを着せ、新しきムシロに包み、山中へ送り、秘蔵せし物ども不残、ともに埋めて、家は焼き捨て、また改めて作りて居せり。ゆえに、壮年なれども死の用意はあらかじめ心がけおき、となり。

死者の妻はかぶりものをして、面を表わさざる事3年。

また再び嫁せず、もって女の心真実にして、嫉妬の念なく、夫に従う道、はなはだもって慎みあり。

                 ・・・


「アイヌ」民族は、極端に病気を恐れ、死を極度に忌み嫌った。

肉親といえども病を得れば山中に運び、死して後も山中に送る。

死者の出た家は、家屋を焼き捨て、改めて作り替えるという。




このアイヌに固有な生死・葬送観がいつの時点で成立したかは不明であるが、民族の発生する擦文期(8世紀~13世紀)まで、その原型は遡上されるに相違ない。

このアイヌの伝統的な生死・葬送観の原型が、日本的なそれとの文化接触を通して、徐々に独自の民族の
心、民族の霊魂観として体系化されていったのではあるまいか?


「アイヌ」の暮らしと心を再現しながら克明に綴られた、萱野茂氏の「アイヌ歳時記」を引いてみたい。

              ・・・

アイヌは今ここで死んだとしても、神の国、つまりこの大地の裏側に、こことまったく同じ土地があり、そこには先に死んでいった先祖たちが待っていると信じていた。

したがって「引導渡し」の時、たくさんのおみやげをもって神の国で待っている先祖たちのところへ行くようにすれば、先祖たちがあなたを快く迎えてくれるだろう、という意味の言葉がある。

神の国への先導役は送りの墓標で、その墓標の先端には、火の神様の分身とされている「消し炭」が塗られている。

「消し炭」は光を発すると考えられていて、死者は墓標の先の光で足元が照らされ、迷うことなく先祖の待っている神の国へ到着する。

すると神の国の者たちは、墓標の先に巻いてある四つ編みの紐を見て、身内であるか否かを識別して迎えるのである。

          ・・・

アイヌの葬送は、どのように行われたのだろうか?

萱野氏は昭和10年代の実例を回想されながら、次のように復元されている。

          ・・・

「引導渡し」

アイヌの葬式を主催するのは、「引導渡し」という近所の男性である。

葬式に必要な墓標を責任持って作った導師は、死体を前に、火の神への報告を兼ねて、自らの導師としての認知を求めて、静かな口調で次のように言う。


墓標を家の中へ 火の神のそばで

国土を司る神 

涙を持つ神 尊い御心に 遠慮をしようと  わたしは思って いるけれど

今日のこの日 先祖の風習 涙のしぐさで あるがゆえに いたらぬわたしだが お互いを大切にする 

それゆえに 祖父が作った墓標 

と言いましても 外の祭壇 祭壇のところに鎮座した神 樹木の神 神の勇者 霊力のある神を 私どもは
頼み 

樹木の神 その神々が 霊峰に  山懐に 大勢いるが 

その中でも  雄弁と 度胸と 薫りとともに 信頼され 授けられた神 えんじゅの木の神 神の勇者を

私どもは 信頼して これこのように 

先祖の墓標と 申しましても わたしどもアイヌ 人間自身が つくったものは 一つもない 

これこのものは アイヌの先祖 オキクルミ神が教えてくれた 

その手の跡を まったく同じに つくった墓標が この墓標だ 

墓標の上端に 火の神様 その印を 塗ってあり 墓標の下端に 祖母の印を 巻きつけた

それと一緒に 墓標の表面 名前も合わせて 書いてある 

立派な墓標 この墓標は 頼んだ神と まったく同じに 鎮座させた 

これこのものは 言うまでもないが ニスクレククルに 授けたのだ 

ここまでは わたしどもの 仕事であったが 

これから先は 火の神様が 墓標の神に 言い聞かされ 

それといっしょに 亡くなった 私の兄にも いってほしい とわたしは思い

遠慮とともに 尊い御心に 私の希望を 申し述べた

              ・・・
 
こう報告した後、今度は、

「墓標を作った当日、亡くなった本人に、立派な送りの神、墓標を作った報告」をする。

そしていよいよ葬式の当日、「火の神へ、死者が無事に先祖のところへ行かれるように、教えてやってほしい」と言う。

と同時に、死者に対して、火の神の言う話をよく聞き、先祖のところへ行くよう、導きつつ

この火の神への報告や依頼、そして死者への諭しは、実にていねいで細やかなものである。

最後の死者への諭しであり、送別の言葉として、こう語られるという。

              ・・・

今日のこの日が 

よい日として 選び恵まれ 

これこの通りに あなたの出発 

神の国へ 先祖の国へ 

行かれることに なっているが 

良い土産を 土産をたくさん お持ちになり 

さあ早く 先に行った あなたの妻 あなたの子供 

そこへ行くぞと そればかりを念頭に置かれ 

自分自身の 心を落ち着け 

あってはならないこと 化けて出るとかという話だ 

そこでわたしの兄上よ 

いつものことだが 首領であったあなたゆえに 

火の神さまの言う言葉に 耳を傾け 

送りの神 送りの墓標や もろもろの神とともに 

たくさんの人たちが あなたの出発を 見送るために ここへきて 見守っているよ。

                 ・・・

菅野氏は、紋別村山紋別の叔父が昭和6年に亡くなった時の記憶として、次のように回想されている。

                 ・・・

当時の二風谷村の棺桶は、板で作った寝棺であったのに、山紋別ではアイヌ風の葬式で、ござで包んだ遺体の二か所に縄を付けて、棒を通し、二人で担ぐ。

担がれた遺体の、前の方は揺れないが、足のほうは何となくぶらんぶらんと揺れるのを見て、その揺れ方が恐ろしくて忘れられない。

本物を見たのは、最初で最後であった。

ござで包んだ遺体を恐ろしいと思ったもう一つの理由は、昔話の中で、死んだ妻がござに包まれた遺体のままで、生きている夫のところへ来た話を聞いていたからである。

この葬式のことを「山へ掃き出す」と言って、アイヌは埋葬した場所には亡骸だけが残り、魂そのものは、先祖の国へ行っているものと信じていた。

従って、墓参という風習は日本人が来て、日本風の葬式をするようになってからのことである。



        (引用ここまで)

 ☆写真(下)は、過日東京で行われたカムイノミの準備の途中の情景を私が撮影したものです。本文とは関係ありません。


          *****


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和人との接触は、アイヌの独自性の一要素・・アイヌと「日本」(4)

2016-03-03 | アイヌ



「アイヌと「日本」」というテーマを追った記事の投稿が10月から滞っていました。

まだ、続きがあります。。


佐々木馨氏著「アイヌと「日本」――民族と宗教の北方史」という本のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

筆者は、アイヌ独自の文化が形成されるにあたり、和人の文化がある程度、相対的に関与していたのではないか?という問いを立てて考察しています。


           *****

        (引用ここから)


           ・・・

●器物の多きをみやびなりと、日本の器、たらい、湯桶、盃台のたぐい、すべて金蒔絵を付きたるをよろこぶなり「蝦夷草子」

●宝物とて、それぞれ秘蔵のものあり。

その物は、本邦の古き器もの、つば、目貫、小柄の類なり。

蒔絵物は古きもの、とりわけ秘蔵せり「北海随筆」


            ・・・

というように、和人との交換・交易でもたらされた刀剣類や漆器類を、宝物として珍重していた。

それと同時に、そうした本州からの移入品を、
 
            ・・・

●土人と土人との交易は、太刀および小道具、矢筒の類をもって交易すなり(蝦夷草紙) 


             ・・・


と、アイヌの人たち同士の交換手段、代価商品としても活用していたのである。

このことは、「擦文文化」時期においては漁労・採集経済の段階にあった「擦文人」が、鎌倉期以降の中世に入り、本州社会との交易に全面的に依存するまでに変質していったことを示している。

「擦文文化」から「アイヌ文化」への移行において、アイヌ民族は自ら充分な生産力や社会的結合をとげないまま、本州の商品交換経済の中に踏み込んでいったのである。


               (引用ここまで)


                *****


土器を用いていた「擦文文化」と、交易により入手した鉄器が中心になる「アイヌ文化」は異なるものである、という考古学的な判断があり、「アイヌ文化」は、「擦文文化」の後に現れたものであると述べられています。

「アイヌ文化が成立するのは13世紀である」、ということが定石になっているようです。

ウィキペディアの関係項目をまとめたいと思います。(続きは次回の投稿になります)


                 ・・・・・

wikipedia「蝦夷=えぞ」より

中世以後の蝦夷(えぞ)は、アイヌを指すとの意見が主流である。

(ただし中世の蝦夷はアイヌのみならず後に和人とされる渡党も含む。)

鎌倉時代後期(13世紀から14世紀)頃には、現在アイヌと呼ばれる人々と同一とみられる「蝦夷」が存在していたことが文献史料上から確認される。

アイヌの大部分が居住していた北海道は、蝦夷が島、蝦夷地などと呼ばれ、欧米でも「Yezo」 の名で呼ばれた。

アイヌ文化は、前代の擦文文化を継承しつつ、オホーツク文化(担い手はシベリア大陸系民族の一つであるニヴフといわれる)と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。

その成立時期は上記「えぞ」の初見と近い鎌倉時代後半(13世紀)と見られており、

また擦文文化とアイヌ文化の生活体系の最も大きな違いは、本州や大陸など道外からの移入品(特に鉄製品)の量的増大にあり、アイヌ文化は交易に大きく依存していたことから、アイヌ文化を生んだ契機に和人との交渉の増大があると考えられている。

具体的には奥州藤原氏政権の盛衰との関係が指摘されている。



鎌倉時代後期(14世紀)には、「渡党」(北海道渡島半島。近世の松前藩の前身)、「日の本」(北海道太平洋側と千島。近世の東蝦夷)、「唐子」(北海道日本海側と樺太。近世の西蝦夷)に分かれ、

渡党は和人と言葉が通じ、本州との交易に従事したという文献(『諏訪大明神絵詞』)が残っている。

また、鎌倉時代には陸奥国の豪族である安東氏が、幕府の執権北条氏より蝦夷管領(または蝦夷代官)に任ぜられ、これら3種の蝦夷を統括していたとする記録もある。

室町時代(15世紀から16世紀にかけて)、渡党を統一することで渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏は豊臣秀吉・徳川家康から蝦夷地の支配権、交易権を公認され、名実共に安東氏から独立し、

江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列し、渡党は明確に和人とされた。


               ・・・

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アイヌと「日本」(3)・・擦文文化からアイヌへ・佐々木馨氏

2015-10-24 | アイヌ




ふたたび、東北と北海道とアイヌ、というテーマに視点を戻して、

佐々木馨氏著「アイヌと「日本」――民族と宗教の北方史」という本を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


この本は、2001年に上梓されていますが、最近のアイヌ文化研究の定石に則った著作ではないかと思います。

アイヌの人々は、決して単独に、孤立して、原住民として、生きてきたのではなかった、対外的な交流を主体的に行って、民族としてのアイデンティティを確立した、という考え方だと思います。




             *****

         
          (引用ここから)

「擦文文化」とアイヌ

古代における「えみし」観は、一般に「蝦夷(えみし)=まつらわぬ民」に端を発している。

それが11世紀の王朝国家期、すなわち安倍氏、清原氏、あるいは平泉藤原氏などによる統治の時代に、「えびす」なる過渡的呼称が顕著となる。

さらにその後、「えぞ(蝦夷)=アイヌ」という、ある種、民族学的差別感を合わせ持った、民族的呼称が成立するという具合に変遷する。

この「えぞ(蝦夷)=アイヌ」の等式的呼称は、12世紀のころに成立したとされ、居住範囲は、東北北端から北海道の地と限定される。

12世紀の鎌倉時代にあっては、「えぞ」とは「アイヌ」を指し、今日の北海道は「蝦夷が島」と呼ばれていたのである。

「えぞ(蝦夷)=アイヌ」が成立する以前の文化を、考古学的には「擦文(さつもん)文化」の時代と呼び、その期間はほぼ8世紀~12・13世紀とされる。

この日本考古学上においても、「続縄文時代」に接続する、特異な、優れて古代東北的にして北海道的な

「擦文文化」は、遺跡の分布状況が東北北端から北海道・道南部に集中していた。

こうした分布状況からして、「擦文文化」の直接的な担い手は、「えびす」すなわち、「えぞ=アイヌ」の前身であったのであり、それゆえ「擦文文化」は「アイヌ」文化の祖型であると言われる。

東北地方の「擦文文化」の遺跡の所在は、下北半島および津軽半島に集中しており、北海道・道南部との交流から考えて、「擦文文化」が「アイヌ」文化の祖型と言われるゆえんもここにある。

東北北部の「土師器(はじき)文化」の影響を受け、8世紀に成立し、12・13世紀まで存続したこの「擦文文化」の特徴は、

土器製法では、土師器製法を継いだ擦痕のある土器製法、

住居様式では、従来の円型竪穴に代わる、かまどを伴う隅丸型の竪穴住居、

金属製品や陶磁器の流入では、太刀、蕨手刀(わらびてとう・武器・装飾品)、鉄矢じり、鉄鎌、鉄斧(生産用具)、須恵器、珠洲焼が顕著であった。

「擦文文化」は大麦・あわ・そば・ひえなどの出土品から、一部農耕を伴っていたと考えられているが、主たる経済的基盤は、サケ・マス漁を中心にした漁労・狩猟であった。

「アイヌ=えぞ」の前身である「擦文文化人」が、一定の集団をなして生活していたことは、「諏訪大明神絵詞」の次の一文に散見できる。

             ・・・

日の本、唐子、渡党来此三類各三百三十三の島に群居せり。

今二島は渡島混す。その内にウソリツルコシマとマツマエダケという小島どもあり。

この種類は多奥州津軽外の浜に往来交易す。

夷一把というは六千人なり。

相娶る時は百千に及べり。

             ・・・

このように一把=6000人が単位で行動し、多いときには、その100倍、1000倍となる、ということが資料から判明する。

こうした集団が、近世の「アイヌ」社会におけるコタンの先駆であろう。

中世アイヌの人たちの生活実態を探ることは、上の集団性を除くと寄るべき資料もなく、困難である。

それゆえ、中世アイヌ社会と近世のそれとの間に決定的な社会変動がないことを前提にした上で、近世の一部文献から類推するしか、有効な道はない。


         (引用ここまで)

          *****



wikipedia「諏方大明神画詞」より

諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)は、諏訪大社の縁起。

「諏訪大明神画詞」「諏訪大明神絵詞」「諏訪絵詞」「諏訪大明神御縁起次第」等とも表記される。

寺社の起こりや由緒を記した寺社縁起の1つで、長野県の諏訪地域に鎮座する諏訪大社の縁起である。

1356年(正平11年/延文1年)成立。全12巻。著者は諏訪円忠(小坂円忠)。

元々は『諏方大明神縁起絵巻』・『諏方縁起』等と称する絵巻物であった。

しかしながら早い段階で絵は失われ、詞書(ことばがき)の部分の写本のみを現在に伝え、文中には「絵在之」と記すに留めている。

著者の諏訪円忠は、神氏(諏訪大社上社の大祝)の庶流・小坂家の出身で、室町幕府の奉行人であった。

そのため足利尊氏が奥書を書いている。

成立に関しては洞院公賢の『園太暦』にも記されており、失われていた『諏方社祭絵』の再興を意図したものであったという。

現在は権祝本・神長本・武居祝家本等があり、権祝本が善本とされている。


              ・・・・・


>このように一把=6000人が単位で行動し、多いときには、その100倍、1000倍となる、ということが資料から判明する。
こうした集団が、近世の「アイヌ」社会におけるコタンの先駆であろう。


6000人の1000倍というと、600万人になります。

今、イメージされるコタンの趣きとは全く違いますね。

少なくとも、古代・中世、アイヌ(=蝦夷)は本当に勇猛な大集団だったのではないでしょうか?



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アイヌ語は縄文語から分岐した、という、菅田正昭氏説・・アイヌと「日本」(2)

2015-10-21 | アイヌ


前回の、北東北と北海道とアイヌ、という視点で、

菅田正昭氏の「アマとオウ・弧状列島をつらぬく日本的霊性」という本を読んでみました。

著者はかつて、八丈島の先にある青が島という絶海の孤島の町役場の職員として赴任し、現在も島の研究をしている人です。

リンクは張っておりませんがアマゾンなどでご購入になれます。

菅田氏は、日本列島に生きてきた人々は共通の「縄文語」を持つ「縄文人」というくくりに入れて、その中の差異は方言であろうと考察しています。

アイヌ語は、日本の諸方言の一つであるとする考えです。


                 *****

     
               (引用ここから)


縄文時代にこの弧状列島に住んでいた人たちが話していた言葉を「縄文語」と名付けたとしても、縄文時代は1万数千年もあるのだ。

しかも南北に長く連なったこの弧状列島で話されていた言葉が一様な「縄文語」であるとは、どうしても言えないだろう。

当然、「縄文人」も、一様の人種だったとは言えなくなる。

にも関わらず、言葉も人種も非常に近い存在だった、と言うことはできるかもしれない。

しばらく一緒に生活すれば、すぐに話せるようになったのではないかと思われる。

私は今日の「日本人」を縄文人の子孫、「日本語」を縄文人たちが話していた言語の系統をひく言語であると考えている。

言語学では、日本語もアイヌ語も系統不明の孤立語と考えられているが、その一方で、日本語は韓国・朝鮮語と近い関係があるとも言われている。


ところが、日本語とアイヌ語との関係は、日本語と韓国・朝鮮語よりも深いというデータもある(安本美典「新説・日本人の起源」)。

その意味では、一万数千年という縄文時代のどこかで、日本語とアイヌ語は同根の言語から発生し、その後独自に発達してきた、と言えなくもない。

そしてその源になった言語を「縄文語」とよぶことはできるかもしれない。

現在、日本語は大きく分けると、本土方言と琉球方言の二系統に分類することができる。

さらに本土方言は東部方言と西部方言、九州方言と、八丈方言の4つに分類されている。

もちろん、4大方言の中も、琉球方言の中も、細かく分けることができる。

八丈方言は八丈島と青ヶ島と、今は無人島になっている八丈小島の、いわゆる八丈三島=南部伊豆諸島だけで使われている言語で、国語学者・金田一春彦氏は、八丈方言の文法的特徴が「万葉集」の東歌に近似していることから「万葉集東歌方言」と名付けている。

すなわち、現在使われている方言の中で、八丈方言は東部方言(いわゆる東北弁の系統)、西部方言(いわゆる関西弁の系統)、
九州方言(いわゆる九州弁)と並ぶ日本4大方言の一つなのである。

また最近では、八丈方言は琉球方言(琉球語・沖縄語ともよぶ)に匹敵する、ひょっとするとそれ以上に「日本語」の古層を保存している方言だと言われてきている。



日本語の4大方言と琉球方言、アイヌ語は、弧状列島の言語として、ある程度は知っておく方がよいだろう。

特に日本諸語と大きく開いてしまっているアイヌ語の響きは、大切にしなければならない。

山本多助エカシ(エカシはアイヌ語で長老の意味)は、「イタクカシカムイ(言葉の霊・・アイヌ語の世界)」の中で、アイヌも和人も混血を繰り返しながら民族として形成されてきたと捉えている。

これはとても大切な視点だ。

彼は、自然児であるアイヌ民族も、単一民族だったとは言いかねると考えるのである。

彼はアイヌ語を日本語の祖語と見る。

日本語の原形とアイヌ語とは、古い時代には同一の言語であったと捉えている。

すなわちアイヌ語と日本語は共通の祖語から発達してきた言語と言える。

ただし、アイヌ語の方がより祖語に近いものを多く有していると言えるだろう。

そしてその関係はアイヌ人と日本人についても言える。

<イタク カシカムイ>、言うならば言霊のことである。

「イタク」の音韻は、恐山のイタコを想起させる。

イタコの神がかり、イタコの口寄せ。

すなわちイタコは言霊を吐き出す。

おそらくイタコのイタはウタと同根に違いない。

すなわち「歌」である。

神の言葉としてのウタ。

歌うように、訴えるように、神々や精霊の来歴を物語る。

そこには当然、言霊が宿っている。

そして「イタク」は沖縄のユタ(民間の巫女)にも通じる。

もちろん、ユタもイタコと同じく、神々の来歴を、歌うように、訴えるように物語る。

それは縄文精神の顕現だ。

イタクーイタコーウターユタは、おそらく同系の言葉に違いない。

日本語の斎く(いつく)という言葉も、イタクーイタコと同系の言葉ではないだろうか?

神々の声を聴くことができる聖なる場所での斎き。

そしてその斎く場所が固定化し、そこに人が集まるようになって物々交換の場になると、やがて「市」が立つ。

門前町はこうして始まったに違いない。

おそらく沖縄のウタキも、御嶽という漢字があてられているが、イタクーユタの系統の言葉ではないだろうか?

ウタキは神々の声を聞く場所なのだ。

山岳信仰ではないのだ。

縄文の言葉の破片を、私たちの言葉の中から探し出す作業は困難である。しかし、私たちも縄文人の子孫なのだ。そういう意識を
持てば、縄文の声が聞こえてくるはずだ。

縄文人の言葉の魂を見つけること。

縄文のこころをあらわした言霊。

自然界の持つ縄文の記憶。

自然が語ってくる縄文の言霊。


                  ・・・・・


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金田一はアイヌ語か?など、北東北と北海道・・アイヌと「日本」(1)

2015-10-18 | アイヌ


小さな新聞記事ですが、目にとまりました。

               ・・・・・

<追悼>「アイヌ文化の実践に情熱を注いだ 計良光範さん・・自ら行動、在野で貫く」
                                朝日新聞2015・04・25


アイヌ民族の文化や歴史を伝える市民団体「ヤイユーカラの森」を札幌で創立し、23年にわたり運営委員長をつとめた。

「自ら行動する」という意味のアイヌ語「ヤイユーカラ」の精神で、研究と実践との融合をめざした。

北海道蘭超町出身。

小学校の時から演劇が好きで、札幌南高校を卒業後、地元の劇団に入団。

脚本作りなどを担当した。

アイヌをテーマとする芝居の公演がきっかけで、アイヌの世界にのめりこんだ。

1975年にアイヌ民族の智子さんと結婚し、夫婦で「森」を運営した。

「お互いが、持っていないものを補い合う、すべての点でパートナーでした」と智子さん。

明治時代以降禁じられてきた、アイヌによる伝統的な鹿狩りを、1994年、狩ってから食べるまでを体験するイベントとして復活させた。

生き物は殺し合い、食い合って生きていく。

命の持つ意味を、身をもって感じてほしかった。

毎年の野外キャンプは、智子さんが指導するアイヌ刺繍の教室など、草の根の活動にこだわった。

学者らによるアイヌ研究を「利用するだけで復権に寄与していない」と批判。

自らは様々な仕事を転々としながら、在野の姿勢を貫いた。




札幌の寺院で起きた差別言葉の落書き事件を書いた「アイヌ社会と外来宗教」をはじめ、アイヌに関する著作は多数。

「森」のニュースレターをまとめた「アイヌ文化の実践」が遺作となった。

俳優の舞香さんはアイヌをテーマにした芝居を、和人の自分が演じていいのか悩んでいた時、鹿狩りに参加した。

計良さんに「怖がらずに思うことをやればいい」と励まされ、舞台を実現させた。

「運命的な出会いだった」と偲んだ。


                        ・・・・・

もう一つ、新聞記事のご紹介です。
                        ・・・・・



<地名の知> 「「金田一」濁点つかぬミステリー」
                           読売新聞2015・05・14


金田一と聞けば、人名が思い浮かぶかもしれない。

盛岡市出身の言語学者・金田一京助。

その名をもじったとされる推理小説の名探偵・金田一耕助。

そして子供に人気の漫画「金田一少年の事件簿」の金田一一(はじめ)。

京助が、先祖の住んだ故郷を思って詠んだ短歌が刻まれた歌碑が建っているのが、岩手県二戸市の金田一温泉郷だ。

金田一温泉駅で降り、市内を南北に流れる馬淵河を超えると、りんご畑の中に温泉宿が点在するのが見える。

行楽地の温泉街と違う、のどかな風景だ。

平安時代に蝦夷を率いて朝廷軍と戦ったアテルイが湯に入った、という伝説もある。


金田一の名が歴史的資料に登場するのは、16世紀ごろから。

この地を治めた南部氏の支族が「金田一」氏と名乗ったという。

ただ地名の由来は、よくわかっていない。

アイヌ語起源説の他、「金田市」とも書かれたことから、「金が集まる市がたった」ことに由来するとの説もある。

公的な呼び方は「きんたいち」だが、地元の人は「きんだいち」と濁って発音する。

濁らずに読むと、外から来た人だと分かるという。

北東北には、アイヌ語に由来をもつ地名や名称が多い。

金田一の由来にもアイヌ語起源説がある。

二戸市史の編集に携わってきた奥昭雄さんによると、「金田一」は、アイヌ語で「キム・タ・アン・エツ」=「山・そこに・ある・岬状尾根」という訳になると言われるが、奥さんは、「アイヌ語の文法にあてはめても意味のとおる言葉にならない。これは間違いだ」と断言する。

「山の方にある沢のところ」を意味するアイヌ語にちなむとする説もあるが、決定的な証拠はなく、残念ながら謎と言う他ありません」と奥さんは話す。

                      ・・・・・

どうということもない記事ですが、東北から北海道の大地に、日本語とアイヌ語が混在して、数1000年の時が流れてきたことに思いをはせてみたくなりました。

学生時代に、北海道の十勝川温泉の民宿でアルバイトをしたことがあります。

十勝川温泉も、平野の温泉地でした。

りんご畑の中にあるという金田一温泉に、なにか似た風景を感じました。


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うさぎが、鹿よりも小さくなったわけ・・「アイヌ神謡集」より

2015-04-22 | アイヌ


先日の新聞に、北海道の鹿の話が載っており、アイヌのユーカラのことを思い出しました。


            ・・・・・

「エゾシカ、迷わず帰還 釧路―標津の季節移動 環境省が追跡」
                         朝日新聞2015・04・09


北海道の釧路湿原国立公園で越冬したエゾシカが、約80キロ離れた牧草地で夏を過ごし、再びもとの場所に戻ってきた。

環境省が発信器を着けて追跡していたメスで、往路、復路とも同じルートを通っていた。

釧路湿原のシカの季節移動のデータがここまで詳細につかめたのは初めてだ。

数が増えているシカを減らすため、環境省は冬場、湿原東部の達古武(たっこぶ)沼(釧路町)に面した林地に、柵をシートで覆った囲いわなを設置している。

この場所のシカの行動を把握するため、昨冬に成獣のメス2頭にGPSを組み込んだ発信器を取り付けた。
1頭は昨年4月中旬に移動を始め、約1カ月後に80キロ余り北東の標津(しべつ)町の牧草地に到着。

8月下旬に戻り始め、しばらく途中の標茶(しべちゃ)町にいたが、12月17~18日の暴風雪で積雪が増すと、翌日にかけ一気に約20キロ離れた達古武沼に戻った。

行きも帰りも林に身を隠し、国道を横切る場所も空港の迂回(うかい)も同じコースだった。子ジカと一緒だった可能性が高い。



追跡は発信器付きの首輪が自動的に外れた今年2月11日まで続き、ほぼ周辺にいた。

もう1頭は冬も達古武沼周辺から離れず、秋にハンターに捕獲された。

旧式の機器は、その時々の居場所がわかる程度だった。

夏の湿原には、繁殖のため別の越冬地からくるシカもいる。

行動を把握できれば、影響を及ぼすシカを湿原の外で捕獲するなど広域連携で対策をとれる。

同省釧路自然環境事務所は「発信器を取り付けた個体を増やし、効果的な捕獲手法を探っていきたい」と話す。

 
            ・・・・・



この新聞記事を読んでいたら、アイヌのユーカラの一つを思い出しました。

知里幸恵さんが伝えたものです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。




             *****


           (引用ここから)


「うさぎが自ら歌った謡「サンパヤ テレケ」」


サンパヤ テレケ

2つの谷、3つの谷を飛び越え、飛び越え、

遊びながら兄様のあとをしたって山へいきました。

毎日毎日兄様のあとへ行ってみると

人間が石弓を仕掛けておいてあると

その石弓を兄様が

こわしてしまう、

それをわたしは笑うのを

つねとしていたのでこの日もまた

行ってみたら、ちっとも

思いがけない

兄様が石弓にかかって泣き叫んでいる

わたしはびっくりして、兄様のそばへ

飛んでいったら兄様は

泣きながら言うことには

「これ弟よ、今これから

お前は走って行って

私たちの村の後ろに着いたら

〝兄様が石弓にかかったよーー、フォオオーイ″と

大声でよぶのだよ」


わたしはきいて

ハイ、ハイ、と返事をして、それから

2つの谷、3つの谷を飛び越え、飛び越え

遊びながら来て

私たちの村の村後へ着きました。

そこではじめて兄様がわたしを使いによこしたことを

思いだしました。


わたしは大声で叫び声をあげようとしたが、

兄様がなにを言ってわたしを使いによこしてあったのか

すっかりわたしは忘れていました。

そこに立ち尽くして

おもいだそうとしたがどうしてもだめだ。


それからまた

二つの谷を越え、3つの谷を越え

後へ逆飛び逆飛びしながら兄様のいるところへきて

見ると誰もいない。

兄様の血だけがそこらに付いていた。

(ここまでで話は外へ飛ぶ)(原文ママ)


ケトカ ウォイウォイ ケトカ、ケトカ ウォイ ケトカ

毎日毎日わたしは山へ行って

人間が石弓を仕掛けてあるのをこわして

それを面白がるのが常であったところが

ある日また、前の所に石弓が仕掛けて

あると、その側に小さいヨモギの石弓が

仕掛けてある。


わたしはそれを見ると

「こんなもの、何にする物だろう」

と思っておかしいので

ちょっとそれに触ってみた、すぐににげようと

したら思いがけなく

その石弓にいやというほど

はまってしまった。


逃げようともがけば

もがくほど、強くしめられるのでどうすることも

できないので、わたしは泣いて

いると、わたしのそばへなんだか

飛んできたので見るとそれはわたしの弟

であった。わたしはよろこんで、私たちの一族のものに

このことを知らせるようにいいつけてやったが

それからいくら待っても何の音もない。


わたしは泣いていると、わたしの側へ

人の影があらわれた。見ると、

神のようなうつくしい人間の若者

ニコニコして、わたしを取って

どこかへ持って行った。見ると

大きな家の中が神の宝物で

いっぱいになっている。


彼の若者は火を焚いて、

大きな鍋を火にかけて、掛けてある刀を引き抜いて

わたしのからだを皮のままブツブツに切って

鍋いっぱいに入れそれから鍋の下へ頭を突き入れ突き入れ

火を焚きつけ出した。どうかして

逃げたいのでわたしは人間の若者の隙を

ねらうけれども、人間の若者はちっともわたしから

眼をはなさない。


「鍋が煮え立ってわたしが煮えてしまったら、なんにも

ならないつまらない死に方、悪い死に方をしなければ

ならない。」と

思って人間の若者の油断を

ねらってねらって、やっとの事

一片の肉に自分を化らして

立ち上る湯気に身を交えて鍋の縁に

上がり、左の座へ飛び降りるとすぐに

戸外へ飛び出した、泣きながら

飛んで生きを切らして逃げて来て

わたしの家へ着いて

ほんとうにあぶないことであったと胸撫でおろした。


後ふりかえって見ると、

ただの人間、ただの若者とばかり

思っていたのはオキキリムイ、神の様な強い方

なのでありました。


ただの人間が仕掛けた岩弓だと思って

毎日毎日いたずらをしたのをオキキリムイ

は大そう怒ってよもぎの小弓で、

わたしを殺そうとしたのだが、わたしも

ただの身分の軽い神でもないのに、つまらない死に方、悪い

死に方

をしたら、わたしの親類のもの共も、困り惑うであろう

ことを不憫に思ってくだされて

おかげで、わたしが逃げても追いかけなかった

のでありました。


それから、前には、うさぎは

鹿ほども体の大きなものであったが、

このようないたずらをしたために

オキキリムイの一つの肉片ほど小さくなったのです。


           (引用ここまで)

         (改行は原文どおりです・写真は私がイベントで教わって作った「鹿笛」)


            *****


鹿も、うさぎも、愛しい生き物だと、心から思いました。


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祖先の遺骨をコタンに返して・・アイヌ民族が救済のぞむ

2015-02-19 | アイヌ



「アイヌ遺骨集約は人権侵害・・それぞれの集落に返して・救済申し立て」
                      2014・12・31朝日新聞

                 ・・・

全国の大学が研究用として収集・保管してきたアイヌ民族の遺骨を集めて慰霊施設を作るとする政府の方針について、アイヌ民族と支援者が30日、「遺骨は先祖の集落「コタン」に返すべきで、集約はアイヌ民族の人権を侵害している」として、日本弁護士連合会に人権救済を申し立てた。

申し立てをしたのは、浦幌アイヌ教会会長の差間正樹さんらアイヌ民族13人と支援者の計21人。

記者会見した差間さんは「大学にあった先祖の骨を見た時、すぐに返してあげたい、何とか地元で安らかに眠ってほしいと思った」と先祖への思いを語った。

遺骨は戦前から戦後にかけて人類学者が研究用に収集したもので、今も北大や東大など12大学に約1600体が保管されている。

政府の計画では、アイヌ民族博物館などの施設がある北海道白老町にアイヌ文化の復興拠点として「民族共生の象徴となる空間」をつくり、その一角に各大学の遺骨を集めて尊厳のある慰霊をするという。




「風習を重んじて」

これに対し、「アイヌ民族にはコタンで先祖を慰霊する風習がある」といい、差間さんらは「多くの遺骨は収集された地域がわかっており、各コタンに返すべきだ」と訴えている。

政府は遺骨の継承者であるかを証明できれば返還に応じる方針だが、そもそも身元が判明しているものは23体しかない。

差間さんは「先祖の遺骨を勝手に持って行ったうえ、返す時には証明しろというのは大きな民族差別だ」と訴えているとも話した。


「歓迎する意見も」

一方、慰霊施設への集約を歓迎するアイヌ民族もいる。

北海道アイヌ協会副理事長は「大学がどんな状況で保管しているか分からない。北大だって1984年に納骨堂ができる以前は実験室の片隅に置いていた。大学にあるよりは慰霊施設にある方がいい。コタンが残っているところは少なく、コタンに返すのは難しい」と話す。

内閣官房アイヌ総合政策室は「地域返還については検討中である。関係者の意見をよく聞きたい」としている。

                 ・・・


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オホーツク文化に情熱・・網走モヨロ遺跡発掘から100年

2014-02-09 | アイヌ


昨日は、大変な大雪で驚きました。

吹雪で視界もほとんどなくなるほどになり、夕闇が迫り、白と黒の二色しかない世界の中で、風の音を聞いていると、なぜか心が落ち着いて、無性になつかしい気持ちがしました。

一夜明ければ、なにごともなかったかのような日常が戻ってきました。

寒い地域に住んでいらっしゃる方には日常のことと思いますが、私にとっては大変非日常的な一日でした。

                ・・・・・


「オホーツク文化に情熱・・米村喜男衛(北海道網走市)」
2013・10・17朝日新聞


冬には流氷が接岸する北海道網走市に、5世紀から9世紀、縄文文化でも弥生文化でもない古代文化があった。

動物の骨で漁具を作り、アザラシなどを狩って暮らす「オホーツク文化」は、ロシアのサハリンから伝わったとされる。

大正から昭和にかけて、この文化の研究に情滅をそそいだ理髪店主がいた。

国指定史跡「モヨロ貝塚」を発見した米村喜男衛である。

作家の司馬遼太郎は「オホーツク海道」で、伝説の聖都市トロイアの存在を実証したドイツ人シュリーマンになぞらえ、功績をたたえている。


「知られていた“歴史的日本人”とは違う人々が住んでいたことを発見した」

米村は青森県出身。

子どもの頃に畑で石器を拾い、考古学に興味を持った。

経済的な事情で11才から奉公に出た。

弘前市や東京の理髪店で働きながら、古本で考古学を学び、遺跡の発掘調査に参加した。

そこで知り合った東京帝国大・人類学教室の鳥居龍蔵に影響を受け、アイヌ文化に引かれた。



1913年(大正2年)9月、21歳で網走を訪ねた米村は網走川河口近くを散歩中、砂丘の断面で貝殻の層の堆積を見つけた。

棒の先でそっと崩すと、貝殻や骨角器、土器片などが出てきた。

米村は、落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせながらさらに調べた。

土器片には、縄文・弥生式土器とは異なる文様があった。

新発見を確信した米村は、遺跡の近くに理髪店を構え、仕事の合間に貝塚へ日参して、徹底して調べた。
店の2階は、土器、石器、人骨など多数の出土品の収蔵庫になった。

国の史跡となった1936年(昭和11年)、出土品を中心に「郷土館」(のちに「網走市郷土博物館」)が設立された。

米村は10年後に館長に就任した。


米村の孫で現在の館長・衛さんは「祖父は自慢めいた話は一切しませんでした」と振り返る。

米村は、普段の生活でも辞書をよく手にする勉強家だった。

明治大学で考古学を専攻した衛さんは、教授から「君のおじいさんに大変世話になった」と聞かされ、その功績を改めて実感したという。


・貝塚発見から100年の今年、郷土博物館の文官

異彩放つ魅力知って・・オホーツク観光連盟伊藤正則氏

米村さんがモヨロ貝塚を発見してから、100年になります。

今も色あせない功績をもっと広く知ってもらいたいと考え、モヨロ貝塚や常呂遺跡(北見市)、白滝遺跡
群(遠軽町)などの古代遺跡群をめぐるバスツアーやスタンプラリーを行っています。

地元のホテルではモヨロ貝塚から出土した土器のレプリカを展示しているところもあります。

オホーツク文化は日本にもともとあったのではなく、北方から移って来た人々が築いた文化ですから、生彩を放っている。

その点が魅力です。

多くの人にその歴史を探ってほしいですね。


・・・・・


「モヨロ貝塚館」HP


wikipedia「モヨロ貝塚」より


モヨロ貝塚は、北海道網走市北1条東から北3条東にかけてあるオホーツク文化の代表的遺跡である。

網走川河口左岸、オホーツク海のそばに位置する。

国の史跡に指定されている(指定名称は最寄貝塚)。

本貝塚名は、当時のアイヌ人がモヨロ・コタンと呼んでいたことから、1918年(大正7年)米村によって付けられた。モヨロは「入江の内、あるいは所」という意味。


本貝塚は、網走川河口の左岸(北岸)にあり、標高5メートルの砂丘台地に立地する。

編年的に日本の縄文時代晩期に並行する時期から住居が作られ、続縄文時代が続いた。

さらにオホーツク文化に変わっても集落が営まれた。

住居は竪穴式で、死者は貝塚に埋葬された。

オホーツク文化の大型住居には、海獣、ヒグマなどの骨が丁寧に並べられていた。

貝塚からは屈葬された人骨が多数見つかった。

多数出土した物には骨角器、土器、石器があり、また本州で制作されたとみられる鉄の刀(直刀・蕨手刀・毛抜形太刀など)や鉾、大陸から持ち込まれたとみられる青銅の鈴などがあった。

土器や骨角器にはクジラ・イルカ、クマの彫刻が見られる。

牙で熊など動物をかたどった像があり、中には優れた造形の牙製女性像もある。

道具類の比重から海獣の狩猟に重点があったと推測されている。


発掘史

1913年(大正2年)に網走を訪れた青森のアマチュアの考古学研究者米村喜男衛(よねむらきおえ)が発見し、学界に報告した。

発見した土器から縄文文化ともアイヌ文化とも異なる文化の存在を知った米村は、網走に住むことを決めて米村理髪店を開業し、傍らで遺跡の調査と研究に携わった。

大正時代には、この遺跡の文化が北方的な独特のものであるということ以上はわからなかった。

1933年(昭和8年)に、オホーツク海の南沿岸に広がるオホーツク沿岸文化が、同時代の北海道の文化と別個のものとみなされるようになった。

今日いうオホーツク文化である。

遺物を保存・展示するために、1936年(昭和11年)に網走に北見郷土館(現網走市立郷土博物館)が建てられた。

モヨロ貝塚は同年12月16日に国の史跡に指定された。

1941年(昭和16年)、1942年(昭和17年)、海軍施設建設のため遺跡の一部が破壊され、緊急発掘を受けた。

100体を超える人骨と多量の土器、石器、骨角器、金属器などが出土した。

北海道大学医学部・大場利夫によって資料報告(『北方文化研究報告』北海道大学・昭和31年および以降)されている。

史跡指定時28軒確認されていた住居址は、このため現在には約20に減った。

戦後、1947年(昭和22年)から1951年(昭和26年)にかけて大規模な調査が実施された。

平成期はじめの発掘で約80基ほどの墓が密集して発見され、また大麦はじめ多くの栽培植物の種子が見つかっている。

現況

遺跡はモヨロ貝塚館を中心にした公園として整備されている。

北見郷土館の後進である網走市立郷土博物館にも展示がある。

2003年(平成15年)と2004年(平成16年)に発掘が行われ、土製のクマ像など多数の遺物が見つかった。

2013年5月、改装されたモヨロ貝塚館が開館。



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