始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

インディアンの起源その1 アトランティス、シリウス、プレアデス・・「我らみな同胞」より

2009-05-31 | アトランティス


ラコタ・インディアンの生まれであり、インディアン思想の研究をしているA・C・ロスさんの本「我らみな同胞」の紹介を続けます。

膨大な量がありますので、ところどころを抜粋で。

北米インディアンの世界に広く伝わる「われわれは星からやってきた」という口承伝説と、「われわれは東の島からやってきた」という口承伝説について、エドガー・ケーシーの語るアトランティスとインディアンの来歴を並べて、もしかしたら、われわれは本当にアトランティスからやってきたのかもしれないし、7つの星からやってきたのかもしれない、それを否定する理由はどこにあるだろうか?と問いかけています。

アトランティスに関する参照文献は別の記事にします。



*****


わたしは先にエドガー・ケーシーは集団深層意識と交信できる自然の能力をもっていたことに触れた。
彼はその能力を瞑想状態によって発揮する。

そして彼がその状態になっているとき、数回にわたり、深層意識の声が彼を通じて、「レッドマンは地上の二つの地点、北米とアトランティスに現われていた」ことを告げた。

これはまったくラコタの口承伝説と同じなのである。

アトランティスに関する様々の文書によれば、この大陸の沈没はおよそ10000年前だという。

しかしながら、これが沈没する前に、人々は警告を受けていた。

それに耳を傾けた人々は北米大陸に移住し、同じ赤肌をした人々と合流した。

エドガー・ケーシーはその無我の境の中で、「この移住はおよそ紀元前15000年に起こった」と語っている。

このようなことがらは、多くの現代人が信じているインディアンはベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に来たという説と矛盾する。


わたしも、ある人々はそのようにして移住してきたであろうことを疑うつもりはない。

エスキモーはこの海峡の両側に住んでいるのだ。
この人々は、ベーリング海峡を渡ったのだろう。

そして彼らは現在もその地域に住んでいるのである。

チャールズ・ベルリッツはその本「アトランティスの謎」のなかで、ポルトガルの探検家の発見を述べている。

「アゾレス列島(ポルトガル領の島々)と西アフリカの間にカナリア島というのがあるが、この島に最初に辿り着いたポルトガル人は、その島の人々がまったく船というものを持っていないため、いったいどうやってそこに居着くようになったのか、どこから来たのか、非常に不思議に思った。

そこでいろいろ聞いてみたあげく、ポルトガル人はこの人々は、10人の王によって統治される政府を持っているということを発見した。」


このことを知ったわたしは、プラトンの言っていた「アトランティスの最初の住人はポセイドンで、その妻はクレイトだったということ、この二人の間には五組の双子がいて、それがアトランティスを統治する王となった」ということを思い出した。

これはカナリア島でポルトガル人が発見したことと実に類似している。

この人々はもともとカナリア島にその起源を持っていたのだろうか?
彼らが船を持っていなかったのはそのせいなのだろうか?



ポセイドンを象徴するものは三叉の鉾(みつまたのほこ)である。

これと同じものがラコタの伝統のパイプの入れ物に見られ、これは純粋さを象徴している。

これは新生児がこの世に来る時、純粋な存在としてやって来るからで、そのしるしがその運び籠にビーズで飾ってあるのはそのためである。

これは「ラコタ族はアトランティスにその起源を持つ」ことを語っているのだろうか?

このようなものを他の部族に探ってみたわたしは、アパッチ族の道化の踊り手はこのしるしのついたかぶり物をしていることを発見した。

アパッチ族はこの道化の元の名を「精霊の山の踊り手」と呼んでいた。

そしてその口承伝説によれば、その山はもともと東にあったという。



さらに調査を続けるとわたしは、ペルーの山中にあるピラミッドの脇に巨大な三叉(みつまた)が描かれていることを発見した。

これに関する文献を調べてみると、この三叉は、太陽と金星が共に人々の頭上に来たとき、大いぬ座の「シリウス」を指すようになっている、ということであった。


このシリウスについて思い出したのは、メキシコにある古代マヤ文明のカバリト・ブランコと言う建造物のことだった。

この建物は、矢じりの形をしており、夏至の日に太陽と共に昇るシリウスを指しているのである。



大西洋の反対側のアフリカにあるドゴン族は、一族はシリウスと特別な関係があるという伝承を持っている。

ラコタの人々も、似たような星につながる起源の神話を持っている。

その話は、「われわれは七つの星からやってきて、ブラックヒルの中に置かれた」というものである。

この起源伝説は、「なぜ我々が当初からたった7つの氏族しか持っていないか、なぜわれわれの宗教にとって7という数が特別な意味をもつものであるか?」を説明しているのである。


わたしはこの話に非常に魅了され、調べをすすめ、その7つの星が「プレアデス」であることを確認した。

伝統のラコタの歴史を調べると、「秋になってこの星座が東の地平線に昇ると、われわれは本来の宗教的な儀式の地に戻ることになっていた。」とある。


クリーク族は「緑のトウモロコシの踊り」という神聖な踊りを踊る。

その時部族の人々は、7本のトウモロコシを集めるが、それぞれはこの部族を構成する7つの支族の7つのトウモロコシの畑から持ってくる。

これが行われないと、その踊りは開催できないのだ。

彼らの創造伝説の一つに、「自分たちは星からやってきた」というものがある。

それは7つの星なのだろうか?


オーセッジ族の創造伝説は「昔、自分たちは星に住んでいた。」とある。

「それは純粋で、高貴な人々だった。そして地球にやってきて、血肉を持つようになった。」
とある。

同様にイロコイ族の創造伝説も、「自分たちはもともと天上からこの地上に下り、血肉を得た。」と言っている。


ナバホ族の話では、「先祖たちが地上に浮上してこの世界にやってきたとき、先祖たちはこの地上にすでに神が住んでいるのを発見し、その神を暗闇の神と名付けた。

人々が、その神にどこから来たのかとたずねると、「自分の名はディリヘ、7つの星から来た」と答えた。
それはプレアデスのことである。」という。


ホピの創造伝説には、二本角の組合(Two Horn Society)というものがあって、そのメンバーはこの星座が中天に差し掛かると、天地創造の歌を歌う。

ホピ族も他の多くの部族のように、「自分たちは星からやってきた」と信じているのである。



メキシコの古代の町、テオティワカンには、石に十字が刻んであって、それは天上の7つの星と整列するようにデザインされている。

また(マヤ)・アステカの暦には、その下方に創造主の双子が描いてある。

これは男女の双子で、宇宙の中の二元性を現わしているのであるが、その双子の頭の上にはプレアデスの7つの星が描かれている。

(マヤ)・アステカの人々もまた、「自分達は星から来た」と信じているのである。



ラコタの口承の歴史は、「われわれはプレアデスから来た」と教えている。

いったい昔のラコタ族は、肉眼では6つしか見えないこのプレアデスが実は7つの星でできていると、どうして知っていたのだろうか?

人々がそれを知っているのは、自分たちはそこからやって来たからだろうか?


     
     *****


写真は
上・ポセイドンの持つ三叉
中・アンデス山中の三叉の印(ベルリッツ著「謎の古代文明」より
下・「集団潜在意識の世界からもたらされた証拠はアトランティス大陸をこの位置にとらえている」と書かれた地図(本書より)



wiki三叉の鉾(みつまたのほこ)→トリアイナより

トリアイナ(希語:Τριαινα)は、トライデント(Trident)とも呼ばれる先端が三つに分かれた漁具あるいは武器の一種。

トリアイナとは、「三つの歯」を意味する。

ギリシア神話の海神ポセイドンが使用する三又銛、あるいは鉾としても知られる。

もともとは漁師が魚を獲るために使っていたこともあり、ローマ時代の剣闘士の一種であるレティアリィはこの武器と網を使用し、主として魚の兜をつけたムルミッロと試合を行った。

漢字表記では三叉槍(さんさそう)、また先端が戟(げき、ほこ)の場合は三叉戟(さんさげき)となる。



Wikiテオティワカンより

テオティワカン (Teotihuacan)とは、メキシコシティ北東約50キロの地点にあり紀元前2世紀から6世紀まで存在した巨大な宗教都市遺跡。

当時のアメリカ大陸では最大規模を誇っていた。

テオティワカン人の宇宙観、宗教観を表す極めて計画的に設計された都市で太陽のピラミッド、月のピラミッドそして南北5キロにわたる道(「死者の大通り」)が基点となり各施設が配置されている。

この都市で祀られた神々は、農業・文化と関係深いケツァルコアトルや水神トラロック、チャルチウトリケ、植物の再生と関係あるシペ・トテックなどである。

太陽のピラミッドの地下には、人類の起源の地との伝説のあるチコモストックをおもわせる七つの洞穴が枝状につながる洞窟があったので都市を建設する際の立地条件になったのかもしれない。

紀元前50年にテスココ湖の南方に立地したクィクィルコがシトレ火山の噴火によって埋まると急速に発展した。

都市の面積は約20平方キロメートルで、最盛期には、10万から20万人が生活を営み下水網も完備されていた。

メソアメリカの中心的都市として機能していた。
テオティワカンとは、「神々の都市」という意味で、これは後にこの地にやってきたアステカ人が命名した。



wikiアステカ文明より

アステカ文明は、先に興ったオルメカ・テオティワカン・マヤ・トルテカ文明を継承し、土木・建築・製陶・工芸に優れていた。

精密な天体観測によって現代に引けを取らない精巧な暦を持っていた。

同時期に隆盛を極めたインカ帝国とは間接交流があったのではないかと推定されているが、直接交流の実態は解明されていない。
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“新たな非殺傷兵器は「音」”・・イラク戦争にも使われている・・公園の子どもに発射するのはやめて~!

2009-05-27 | 野生の思考・社会・脱原発

昨日の記事にご紹介した東京・足立区の公園の“若者駆除装置”設置の、初日の様子の取材記事がありました。

自治体はこの行為を、“実験”と呼んでいます。
未成年の子どもたちに対するこのような“駆除”の“実験”が、許されていいのでしょうか?

      *****


Yomiuri Online2009.05.23より
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/news/20090523-OYT8T00105.htm?from=navr
Yomiuri Online2009.05.23

「足立区の実験 モスキート音 若者どこ吹く風
「勝手にやってれば」「すぐに壊される」」

 若年層にしか聞こえない高周波の不快音(モスキート音)を深夜の公園で流す実験が、足立区で始まった。

初日の21日深夜、現場の区立北鹿浜公園(鹿浜3)で高周波音が流れ始めても、中高生らは、「気にならない」と強がったり、「すぐ壊される」と“予告”したり。

果たして、区の期待する効果は現れるか――。

 実験直前の午後10時半頃、記者が公園に行くと、既に未成年らしい少女4~5人が、トイレ隣の管理棟前に座り込んでいた。

飲み食い、叫び声。

マスコミの取材には、「別に迷惑かけてない」「(大人が)注意すれば刃向かうことはしないし、ゴミとか(自分で)捨ててるし」と開き直る。

 管理棟に入ると、泊まり込みで警戒していた区職員が、「(少女たちに)『高校生?』と聞いたら『ぶっ殺す』と言われた」と嘆いた。

区側は午後11時からの実験開始後、少女らを解散させる手はずのようだ。

 再び屋外に出て、少女らに話を聞くと、多くは区内の中学2~3年生。

少なくとも週に1度は同公園で深夜にたむろしているらしい。

ファミレスではダメなの? 

「お金がかかるし」。自転車を20分こいで来たと語る少女もいた。

 やがて、実験開始。

区が管理棟の壁に取り付けた装置から、高周波音が流れ始めた。

しかし、管理棟に遮られて効果が薄れるのか、少女たちは立ち去るそぶりを見せない。

「ずっといようとは思わない」と効果を認める少女もいたが、「キンキン音が聞こえるけど、勝手にやってればって感じ」との反応が多い。

 そういえば、日中の作動実験では、近所の男性会社員(21)が「すごく嫌な音」と顔をしかめる一方で、「友達とおしゃべりしていれば、それほどではないかも」と話す下校中の女子中学生(12)もいた。

 やがて、今度は高校生(17)ら数人の少年が自転車で集まってきた。

少女たちとも顔なじみのようで、「どう?」と装置の威力を尋ねる。

1人が装置の真下まで来て「世の中に、こんな楽しいものがあるとは知らなかった」とうそぶく。

 別の少年は、「すぐに壊されるよ」。

区は防衛策として、装置にステンレス製の防護カバーを取り付け、電気コードも切られないように、壁の真裏から通してある。

「万一、壊されても、また設置したい」(担当者)と強気だが……。
 
管理棟にいると、外で物音がした。
表に出ると、巡回の警察官の姿しかなかった。

若者たちは一目散に逃げたらしい。これが一番効果があった。
         (2009年5月23日 読売新聞)
 
  

      *****


さて、この“音響兵器”ですが、米軍がイラクで民衆に向けて本格的に強力なものを使っているという5年前の記事がありました。

銃のかわりに、相手を狙ってビームを発射する、、これは平和的でも何でもない、攻撃の一種以外の何なのでしょうか?
しかも、健康面の問題も危惧されています。

今や、銃や爆弾以外にも、非軍事的に相手を打ち負かす方法がいろいろあり、“平和をよそおった攻撃”が、日常の中にも浸透してきていると考えるべきなのではないでしょうか?

公園のモスキート音装置はもちろん戦争の兵器とは違うものですが、音によって相手の行動を制御するという意図のもとに作られているという意味では、“音響兵器”の一種とも言えると思います。

子どもたちに向けて仕掛けることは、あってはならないことのように思われてなりません。


      *****

「Wired Vision News Archives」2004・03・08
http://wiredvision.jp/archives/200403/2004030801.html
「Wired Vision News Archives」2004・03・08


「米軍がイラクに投入する新たな非殺傷兵器は「音」」
             2004年3月 8日


AP通信 2004年03月08日
 ニューヨーク発――イラクに駐留する米軍の兵士は、反抗的な群衆を蹴散らし、敵側とみられる戦闘員を寄せつけないようにできる新兵器を手に入れた。

この兵器は狙った目標に向けて、耳をつんざくような音のビームを発射する。

 『LRAD』(ロングレンジ・アコースティック・デバイス)と呼ばれるこの装置は、2000年にイエメン沖で起こった米駆逐艦『コール』爆破事件の後、小型ボートが米軍艦船に接近するのを防ぐために開発された、いわゆる非殺傷兵器だ。

 米アメリカン・テクノロジー社(カリフォルニア州サンディエゴ)によって開発されたこの装置は、昨年夏以来、一部の米軍艦船上で防御用装備の一環として利用されている。

 今回、音のビームを連続的に発するこの装置を新兵器として採用したのは米陸軍と海兵隊だ。

反抗の中心になっているバグダッド西方のファルージャなど、危険地域に駐留する米軍が群集とかかわる場合、戦闘意志のない市民のなかに、殺人をも辞さない敵が紛れ込んでいることが多い。

 アメリカン・テクノロジー社は最近、米海兵隊から110万ドルの契約を取り付けた。

米海兵隊は契約を通じて、LRADを購入してイラクに配置された部隊に配備する。

また米陸軍でも、イラクで使用する車両に試験的に搭載するため、LRADを現地に送った。

 イラクに送られるLRADの一部は、西部のアンバール州に派遣されて間もない、第一海兵遠征軍と第三海兵航空団の兵員が使用する予定だ。

アンバール州は大部分が不毛地帯で、スンニ派イスラム教徒勢力が大多数を占める。

 公式には、米軍『合同非殺傷兵器理事会』(JNLWD)が定めた装備の一環とはなっていない。

しかし、重量約20キログラムで、直径約80センチメートルの皿のような形状をしたLRADは、人々を殺傷する代わりに戦闘意欲をそぐことを目的として現在開発が進んでいる多くの兵器と同じカテゴリーに属する。

 エネルギー・ビームを発射して相手に苦痛を与え、撃退することを目的とした『アクティブ・ディナイアル』システムも、まもなく現場で試験的に使用される予定だ。

 アメリカン・テクノロジー社で軍事・政府関連事業を担当するカール・グルーエンラー副社長は、LRADは「バグダッドで徐々に使用され始めている」が、動作状態について「最初のフィードバック」をまだ得られていないと述べている。

 同社がパンフレットで「音響による防御機能」と強調しているように、LRADは警告メッセージなどの音声ファイルを遠くから発することができる。
電子翻訳装置と併用すれば、警告を伝える対象を絞り込むことも可能だ。

 群集や敵対行為を行なう可能性のある集団が言葉による警告を無視した場合は、LRADから、ごく狭い範囲に的を絞って耳をつんざく高音のビームを発射できる。

LRADを取扱う兵士やすぐ近くにいる人々に影響はない。
 
アメリカン・テクノロジー社が海兵隊との契約を発表した声明で、第一海兵遠征軍の防御装備責任者スーザン・ノエル海兵隊中佐は次のように述べた。

「(LRADは)海兵隊と、脅威となる敵の間に距離を置き、兵士が慎重に適切な対応を選択できる時間をかせげるようにするものだ」

 グルーエンラー副社長は、かん高いLRADの音について、火災報知機の音のようだがずっと大きな音だと説明している。

LRADの音は最大で約150デシベルに達するが、火災報知機の音は80〜90デシベル程度でしかない。

 この装置は、約270メートルの範囲内なら十分な効果を発揮する設計で、「LRADから約90メートル以内にいると、とても耐えられない気持ちになる」とグルーエンラー副社長は述べた。

 聴覚の専門家は、LRADが発するような大音量で、高い周波数――2.1〜3.1キロヘルツ――の音に長時間さらされるのは危険な場合があると述べている。

 ニューヨーク州立大学バッファロー校に付属する『聴覚および難聴センター』の責任者、リチャード・サルビ氏は次のように説明している。

「耳は敏感な部位で、障害が起きやすい。

LRADの発するような高音にさらされる時間が長ければ長いほど、聴覚に与える影響は深刻になるだろう」

 グルーエンラー副社長も、LRADが発する高音に長時間さらされた場合、永続的な聴力障害を引き起こす可能性を認めている。

 しかし、このような高音は、一度に数秒ずつしか用いないことを想定しているという。

     [日本語版:高田なおみ/湯田賢司]
        WIRED NEWS 原文(English)

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若者に音響兵器を発射しないで~!・・自治体が公園にモスキート音発生装置を設置

2009-05-26 | 野生の思考・社会・脱原発
若者にしか聴こえない音(1オクターブ下げ)


http://www.youtube.com/watch?v=c-yNpC_mca8&feature=related
YouTubeモスキート音1オクターブ下げ


新聞を読んでいたら、またもやびっくりな記事をみつけました。

深夜にたむろして騒ぐ若者たちを“撃退”するために、東京都足立区が公立公園に“モスキート音”という若者にしか聞こえない音を出す装置を設置したと書いてありました。

ゴキブリじゃないんだぞ~~。

どうして自治体がこんなことをするのか信じられません。

モスキート音のことを調べてみると、海外では“音響兵器”というものがすでに使われていることを知りました。

死に至ることはない、“非致死性兵器”という名前もついているそうです。

最近のインフルエンザの発生にしても、空気中に“非致死性”な何ものかがふりまかれているように感じられますが、このような“非致死性”な音響装置を公共施設に、若者をターゲットに設置するとは!

ほんとうに人間の感覚はどこまで壊れてしまったのか?!

暴れる若者も問題だけれど、、だからといって、大の大人の公務員が10代の子供たちに向けてゴキブリ退治のような“攻撃”をするとは、あまりにも耐えられない思いがします。



        *****

5月21日・Asahi.comより
http://www.asahi.com/national/update/0520/TKY200905200047.html
5月21日・Asahi.com

深夜の公園で騒ぐ若者、不快音で「撃退」 足立区が実験
2009年5月21日18時57分


 真夜中の公園で騒ぐ若者たちを高周波の音で近づかせない実験を、東京都足立区が21日から始める。

若者だけに聞こえる「モスキート音」と呼ばれる不快音を夜中から未明にかけて鳴らす。

足立区は「無差別に若者を立ち退かせる方法には批判もあると思うが、苦渋の選択だ」という。

 「モスキート音」は、若者しか聞こえないとされる18キロヘルツ前後の高周波発信装置の音。

蚊(英語で「モスキート」)のように「キーンキーン」と耳障りな甲高い音がすることから、名付けられた。

 20歳前後をピークに聴力が徐々に低下する「老人性難聴」の症状を利用したもので、中高年には聞こえない。

街にたむろする若者を追い払うため、英国の科学者が装置を開発。
英国のメーカーが06年に商品化した。

 足立区がこの装置を使って実験するのは、被害が深刻な「北鹿浜公園」。

周辺住民から「騒音で眠れない」と苦情が相次ぎ、昨年度は事務所の窓ガラスが割られたり、トイレの便器が壊されたりした。区内約470カ所にある公園の被害額約300万円のうち、この公園の被害が約70万円を占めたという。

 夜間に巡回する警備員が、トイレットペーパーに火を付けていた若者の集団を目撃。
防犯カメラも深夜、カメラを壊そうとする若者の姿をとらえている。

 対応策として装置の導入が浮上し、区公園管理課は半年間議論を重ねた。

「若者を排除するような装置を、自治体が率先して導入していいのか」という意見もあったが、「憩いの場のはずの公園が、安眠を奪う迷惑施設になってはいけない」(増田治行課長)と導入を決めた。

 21日から、事務所と公衆トイレがならぶ施設の付近に発信装置をとりつけ、毎日午後11時から翌午前5時まで鳴らす。

様子をみて、本格的な導入を検討するという。

         *****



下の記事は、グルジアで用いられた“音響兵器”に関する記事です。


         *****


「Livedoor news」2008・09・17
http://news.livedoor.com/article/detail/3822506/
「Livedoor news」2008・09・17


【国際】 グルジアで使われた「音響兵器」ってどんな兵器?
2008年09月17日10時00分 / 提供:チカラコラムス

 北京オリンピックと時を同じくして始まったグルジアでの紛争は、そのタイミングも相まって国際社会から非難を浴び、大いに注目を集めることとなった。

紛争に至る経緯とともに、そこで使用された最新の兵器に焦点を当ててみると、意外な事実が浮かび上がってくる。
 
「音響兵器」って何?

 グルジア紛争の報道を見ていると、あまり聞き染みのない「音響兵器」が使用されたとの記述が目を引く。

いかにも最新兵器という響きがするこの兵器の正体は、一体どのようなものなのか。

 世界の軍事事情に精通する専門誌『軍事研究』編集部に話を伺ってみると、音響兵器が使われるようになったのは今世紀に入ってからとの答えが返ってきた。

「音響兵器とは、その名の通り攻撃対象に音で打撃を与えるもので、広く分類すると『非致死性兵器』に含まれます。

非致死性兵器は、敵にいきなり発砲したり、死に至る攻撃をするわけにいかない場合に使用されるもの。

攻撃対象の戦闘能力を損なわせる程度のダメージを与えるわけです。

非致死性音響兵器は、おもに暴徒鎮圧や不審船への威嚇として、既に世界では幅広く使われています」

 音で攻撃すると聞くと、とにかく大きな音を出して敵を戦闘不能にさせるというイメージが湧きがちだが、実情は異なる。

音響兵器はやみくもに大音量を発するわけではなく、最大150デジベル(火災報知器の約2倍の音量)に設定されている。

音響兵器の攻撃を受けた側が、その後難聴などの障害を抱えてしまうようではそもそも「非致死性」という本来の主旨から外れてしまう。

つまり、後遺症を残さない範囲内で、人間が最も生理的に耐えられないレベルがこの数値ということだ。

 音響兵器は、アメリカ海軍が艦船に載せている長距離音響装置「LRAD」が最も広く知られているとのこと。

グルジア紛争では、ロシア対グルジアの戦闘上で用いられたわけではなく、あくまでグルジア国内での暴徒鎮圧のために用いられた。

「例えば不審船が現れた場合、その正体が定かでない状況で、いきなり重火器を発砲して撃沈させるような行為は国際法的にも政治的にも問題があります。

そうした時に威嚇として音響兵器を用いると、少なくとも対象の戦闘能力を奪うことができます。

それでも問題解決しない場合に、初めて戦闘となるわけです。

イラクで治安維持任務についているアメリカ軍も、度重なる暴動を抑えるために、音響兵器LRADを使用しています」


技術力向上と情勢の変化が実用を可能にした

 「音を使った攻撃」の研究は前世紀から行われていたものの、実用性という意味ではほぼ効力を持たなかった。

だが、的確な対象に向けて適度なダメージを与える「指向性」技術の向上により、実用的となった。

 それに加え、必要以上の損害を与えるのは人道上好ましくないという価値観の変化が音響兵器の実用化を後押ししたという。

また、たとえ不審な船や暴徒化した群衆であっても、何の警告もなく銃撃を加えているようでは国際的非難を浴びるのがオチだろう。

攻撃する側の心理的負担も大きい。

 それが21世紀に入って起こった情勢の変化であり、だからこそ音響兵器のような非致死性兵器の出番が多くなったというわけだ。

 日本国内にいると、こうした紛争や兵器の話というものはなかなかピンと来ないものがある。

だが、私たちの目につきにくい場所では様々なせめぎ合いが行われていることも頭の片隅に入れておきたい。
           文●松本伊織(エフスタイル)

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エドガー・ケーシーと インディアンの起源

2009-05-24 | アトランティス
北米インディアン・ラコタ族の生まれで、インディアン思想を研究しているA・C・ロスさんの「我らみな同胞・・インディアン宗教の深層世界」という本の紹介を続けます。

彼は自分の文化を、西洋の文化と相対的に見ることができる研究者であると同時に、自分にとって部族の伝統文化がいかに自分の精神を形作っている根幹であるか、ということを熟知している人でもあります。

そのロスさんが、右脳左脳のバランスをとりながら、次なる課題の解明へと進んでゆきます。

次なる課題とは、インディアンのルーツ探しでした。
「われわれはどこからやってきたのか?」

伝承神話を比較しつつ、彼は探索してゆきます。
以下に抜粋して紹介します。


     *****


集団深層意識の世界と交信することのできる、ごく自然の能力をもった人物はエドガー・ケーシーである。

彼は霊感をもった治癒者だった。
病気の治癒を求める人々は彼の元を訪れ、彼は瞑想の世界に入り、集団深層意識の世界と接触を行った。

そうして心の深いところにある情報を得た彼はそれを解釈して、病を持った人に診断の結果と自然の治癒法を伝えたのである。

わたしが驚嘆したのは、エドガー・ケーシーがこのような情報を得る方法は、ラコタ族および他のネイティブ・アメリカンの聖人(メディスンマン)が同様の目的のために行う方法とほとんど同じだということだった。

このような治癒の方法以外にも、さまざまな類似性が両者の間には存在する。


例えばエドガー・ケーシーが深層心理の世界から得た情報と、ネイティブアメリカンが「自分たちはこの北米大陸につねに住んでいた。」と主張するその神話である。

わたしは多くのネイティブアメリカンの創造神話を調べたが、その内一つとして「ベーリング海峡からやってきた」と言っているものはない。

カール・ユングはすべての文化の中にある神話はそこに真実を含み、かつそれらは集団深層心理の世界からやって来たものであると言っている。

ネイティブ・アメリカンの口承の歴史は、「人々はこの地にその起源を持つ」と述べているのである。

そしてエドガー・ケーシーが集団深層心理の世界から得た情報も、これまた「インディアンは1000万年前、北米でその発祥を得た」と言うのである。


最近サンディエゴの海岸で、頭骸骨が発見され、学者はこの頭骸骨をデルマー・マンと名付けた。

そこで学者はその年代をカーボン14方式というので調べようとしたが、失敗に終わった。

それはあまりにも古すぎて、探知が不可能だったからである。

ところがその後、新しい年代探知法が発明され、そこで分かったことは、その頭骸骨は50000年の古さだということだった。

それを読んでわたしは考えた。
「いったいこの人間はどうやってそこに辿り着いたのだ?それはベーリング海峡が開くより、2万年も前の話ではないか?」

結局あのインディアンの創造伝説は、正しいのではあるまいか?



今から25年ほど前、わたしは自分のルーツ、自分の部族の歴史の起源を辿る研究を始めた。

そこでわたしは並列的に次の5種類の起源伝説を発見したのだった。

1、ネイティブアメリカンは、北米大陸で生まれた。
2、ネイティブアメリカンは、地下の世界から浮上した。
3、ネイティブアメリカンは、東の島からやってきた。
4、ネイティブアメリカンは、星からやってきた。
5、ネイティブアメリカンは、西の島からやってきた。

というもので、これらの伝説の一つ、またはそれ以上が、多くの部族の中でそれぞれに信じられ、伝承されている。

ダコタ国家のさまざまな氏族はこのうち最初の4つのものを信じている。

ダコタ語はスウ語圏という大きな言語区分の中の一つだが、この言語を話す部族は全部で36ある。

そこでこれらの部族の起源伝説をさらに比較してみると、それらは皆、「自分たちはもともと東から、あるいは水底から、あるいは東の島からやってきた。」と言っているのである。

マヤ文明は、「自分たちは東の島からやってきて、その島は海底に沈んだ。」という起源伝説を持っている。

ではこのマヤ文明の語る「海底に沈んだ島」というものは、ダコタ族の信ずる「水底からやってきた」という伝説と何らかの関係があるのだろうか?


     *****


アメリカ大陸の東というと、大西洋になります。
そこに沈んでいる島とは?

アトランティス?

なぜインディアンの人々は、そのような伝承をもっているのでしょうか?
ほんとうに不思議です。。



wikiエドガー・ケイシーより

エドガー・ケイシー(Edgar Cayce, 1877年3月18日 - 1945年1月3日)は、予言者、心霊診断家。

支持者からは「20世紀最大の奇跡の人」と称される人物である。
彼の得意とする手法はリーディングと呼ばれる。

まず、彼は他者による催眠状態において第三者からの質問により、アカシックレコード(アカシャ記録)と言われる宇宙意識から宇宙の知識を引き出す。

次に、それに基づいて個人の体を神経の状態や各臓器の状態また体の状態なども透かしたように話し病気の治療法などを口述する。

彼のリーディングの記録は14000件にもおよび、米国のAssociation for Research and Enlightenmentで利用可能な状態で保管されている。

彼の表層意識が答えているわけではないので、予言者というより、治療者・回答者であるとされる。

そして、未来のことは確定しているわけではなく、人の意思にかかっているときっぱり言い切っている。


アメリカ合衆国ケンタッキー州ホプキンスビル出身。 幼少期より予言を行い始める。

保険のセールスをしていたが、咽頭をこわし、会話がままならなくなり写真家に転向。

ノストラダムスやジーン・ディクソンとともに世界三大予言者と言われているようだが、彼の予言者的な部分は一部分であり、半数以上が病気治療のフィジカル・リーディングと呼ばれるもので自己治療に貢献している。

リーディングへの対価は募金制だったため、生活は苦しかった。

身体的な悩みに解決、治療方法を示した「フィジカル・リーディング」に対し、「ライフ・リーディング」と呼ばれる、人生について悩める人々に与えた助言の数々がある。

彼の「ライフ・リーディング」は、人の魂は死後も永遠に存在し続け、転生を繰り返すという、自身が信教していたキリスト教の教義や現在の常識ではにわかには受け入れがたい概念を根幹としており、人生において存在する一見不可解な問題や様々な悩みは、前世との因果関係を知ることによって、その存在理由を明確にすることができるというものである。

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理念だけで融和可能か?オバマ大統領のイスラム政策・・新聞寄稿文より

2009-05-22 | 野生の思考・社会・脱原発
朝日新聞に現代イスラムの研究者の寄稿文がありました。
確かにこういう見方もできると思い、万人にとっての平和というものは難しいものだと、痛切に思いました。
10人いれば10の立場があり、どう判断すればいいのか、考えこんでしまいます。

        *****


「理念だけで融和可能か?オバマ大統領のイスラム政策」
             
                5月7日朝日新聞
     一橋大学教授・内藤正典(現代イスラム地域研究)


4月上旬、アメリカのオバマ大統領は、欧州歴訪の最後にトルコを公式訪問した。
単独の国家としては、トルコが初の訪問国となった。

そしてトルコ国会で、イスラムとの融和を訴える歴史的な演説を行った。
イスラムとは戦争をしない。たとえ合意できないことがあっても、互いを尊重し敬意を払う。
アメリカの繁栄がイスラム教徒のアメリカ人によって築かれたと指摘し、家族にイスラム教徒をもつ人もいる。そして大統領自身がその一人だと述べたのである。
大統領とイスラムとが、いわば家族の絆で結ばれていると言ったのだから、イスラム教徒側は相当な好感を抱いた。
オバマ大統領の父方の家系がイスラム教徒だったからだが、米国大統領としては踏み込んだ発言である。


オバマ大統領は、一度この種の発言をしてしまうと、後に引き返せないことを理解しているだろうか?

ブッシュ政権は9.11をきっかけにアフガニスタン侵攻、イラク戦争を軸に「テロとの戦争」を展開したが、世界中のイスラム教徒からは、対イスラム戦争とみなされ、激しい反発を招いた。

ブッシュ政権はキリスト教保守派の強い支持を受けていたので、戦争に「十字軍」や「正義」という言葉をちりばめ、一種の聖戦意識を高揚させた。

オバマ政権が、これを180度回転させたのはよいが、イスラム世界の現状が変わらなければ、なまじ期待を与えた分、反発も激しくなる。


その意味で、「テロとの戦いの主戦場はアフガニスタンだ。」と言うオバマの主張には、同じ過ちを繰り返す危険が潜んでいる。

イスラム急進派タリバンが勢力を伸ばしているところに軍事力と資金をつぎこんで、治安を回復できるだろうか?

大規模な軍事力の行使は女性や子供の殺傷を伴うから、イスラム世界の反発を引き起こす。

資金の投入は、複雑に入り組んだ部族間の利害関係に吸い込まれ、結果として、生産的投資には向かわず、武器の供給を増やす危険がある。

パキスタン側からのイスラム武装勢力の流入をおさえるには、パキスタンの統治能力を高めなければならない。

政府の統治が及ばず、イスラム勢力が強大化するアフガニスタンとの国境地帯や、カシミール地方をどう管理するのか?

現実に、これらの地域をコントロールできるのは軍であって、政府にできることは限られている。
米国が軍事圧力をかければ、イスラム武装勢力はさらに勢いづく。



オバマ大統領は、「ことば」での民心把握が巧みだが、懸念は、実際にテロとの戦いを実施する軍や援助関係者の現地でのやり方にある。

欧米諸国や日本は援助でも治安回復でも、スキーム(くみたて)を重視するが、重要なことは、現場で民衆の心をつかめるかどうかにある。

イスラム社会、部族社会の組織を知りぬき、女性や子どもを傷つけずに、現地の人々に安心と安定を与える以外に、治安回復の道はない。

武器で威嚇し、支配者に資金を提供するのではオバマ大統領の掛け声は偽りと見なされ、米国主導の安定化は失敗する。


オバマ大統領がトルコでイスラムとの融和を説いたのは、トルコが、アフガニスタン、パキスタンと緊密な関係を持ち、積極的な仲介外交を展開してきたからである。

しかし、トルコのエルドアン政権の与党はイスラム色が強い。

イスラム教徒の心情を理解した政策が実現しない限り、トルコといえどもオバマ政権に協調することはできないのである。

       *****
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ホピの祈り場と、ホログラム

2009-05-20 | ホピ族




北米インディアン・ラコタ族の生まれであり、インディアン思想を研究しているA・C・ロスさんの「我らみな同胞・・インディアン世界の宗教世界」からの抜粋と紹介を続けます。


        *****

わたしの最初の結婚相手はホピ族の女性だった。

わたしはインディアン同士ならうまく暮らしていけるだろうと思っていた。

それにも関わらず、彼女とわたしは喧嘩ばかりしていた。
自分でもどこが悪いのかまったく分からずに、わたしは混乱しきっていた。

そこでわたしはホピ族のものの考え方について研究してみれば、この状況に対する良い考えが浮かぶかもしれないと思った。

そこで最初に分かったのは、ホピ族というのは母系制の人々だということだった。
一家の長は女性なのである。
家も畑も羊も、部族にとって大切なものはすべて女性の所有物なのだ。

わたしはダコタ族のオグララ氏族の中で育った。
これは父系制である。狩猟部族だから、男性が一族の長なのだ。

そこで妻の部族について学べば学ぶほど、わたしは自分自身についてより多くのことがらを知った。

他の文化を学ぶ過程の中で、人は自分自身のことをも同様に学び、自分はその文化の一部をなす存在なのだということが分かるのである。

わたしはこれは(ユングのいう)個人化の過程であり、普遍的機能に一歩近づく道であると考える者である。


ところでホピの予言には、二人の兄弟・・赤いもの(弟」と白いもの(兄)・・の物語がある。

「白い方(兄)は地球の裏側に旅に出たが、やがて帰ってくるであろう。

そこで彼が帰って来た時、二人は一緒になって共に語らい、互いから様々に学ぶことがらを見出すだろう。

その後異なる生活方法を持つ二人は一緒になって、その生活ぶりは同じものになるだろう。」というものである。


わたしがこの予言を聞いた時、真っ先に頭に浮かんだことは、あの脳の左右の半球のことだった。

わたしの考えるところでは、この赤い色と白い色の兄弟はそれぞれが話す言語のために、左脳優勢型と、右脳優勢型になっている。

そのためにばらばらになっているが、いつの日か二人は一つのものになると予言されているのではないだろうか?

異なる文化を持つ者は互いの違いから学べば、我々の脳は総合性を持ったものになるのではないだろうか?


マリリン・ファーガソンは左右双方の脳半球の機能をいっしょにすることができれば、そこにはなにか新しいものが生まれるはずだ、と提唱している。

左右双方の脳の総合状態からくる知識はそれぞれを足し算した以上のものであり、それぞれのいずれとも異なるものなのだとも言っている。

均衡の哲学、つまり「赤い道」の哲学は総合的な脳活動の鍵である。

ブレイクスリーは右脳を使うことによって、我々は集団深層意識の世界と接触することができるということを言っている。

またユング博士はすべての文化の中にある神話はそこに真実を含み、かつそれらは集団深層心理の世界からやって来たものであると述べている。


*****


赤い弟と白い兄というホピの神話は、右脳と左脳の統合の象徴ではなかろうかと、彼は語っています。

次に彼は、ホピの祈りの場「キヴァ」について、ホログラム理論を用いて検証を試みています。



         *****


さてわたしは、ネイティブアメリカンの哲学思想と一致する考えを外の世界に探し求めていく努力の一環として、まず心霊によるエネルギー解釈に焦点をおく。

エドガー・ケーシーはその心霊による情報の中で、

「神のエネルギーはさまざまな部分から成り立ちながら、同時に一つの総合をなす。」と語っている。

ゲイリー・ズーカフは「踊るウー・リー師匠達」という著書の中で、

「もしわれわれが自分たちの現実を第四次元の方向から見ることができるならば、宇宙の森羅万象は我々の前に過ぎ去っていく時とともに解き明かされてきたもの、描かれ、ありようのままに、織りなされる空間時間の上にすでに存在してきたものであることがわかるだろう。

われわれは、すべてを、過去を、現在を、未来を、一目で見ることができるであろう。」
と語っている。

この言葉をわたしが解釈すると、

「もし人が自我を超越して第五次元に立つことができるならば、その人はすべてを見ることができるだろう。」と言えよう。

さらにわたしはこのことに関して即座にエドガー・ケーシーの次の言葉を思い出した。

「もしひとが集団深層意識の世界と交信するならば、過去と未来のすべては現在となる。」


すでに述べたように、集団深層意識の世界は知能の下層部分に属する。

そこでわたしが突き当たったものは、頭脳の働きに関するさまざまな研究だった。

ホログラフィーというものは、スクリーンなしで映像を空中に投射する。

ホログラフィーは、一連の鏡を異なる角度に設置し、その映像が一点に集中することができるようにする投射の特別な仕掛けである。

「ホログラフィーの本」の中でジェフ・バーナーは「ホログラムの独自の視野は、あたかもその物体を見ている人間がその物体の内側に入って、本来的に自分が立っている場所をその内側から見ているようなものである。」と述べている。

脳心理学者とホログラフィー技術者は、われわれの頭脳はホログラフィーのように働くという点で、意見の一致を見るだろう。

人間の脳というものは、それ自体を観察することのできる唯一の器官なのである。


さらに技術者たちは次のように問う。
「われわれ人類は、宇宙全体のホログラフィー的な投影なのではないだろうか?


わたしとしては、この疑問が投げかけるところのものに、非常な興奮を覚える。

なぜなら、ホログラフィーはわれわれの伝統的儀式の説明を助けてくれる可能性が実に大だからである。

そこでまずその試みとして、ホピ族の祈りの場「キヴァ」を持ち出そう。

これはその建築構造とその使用のしかたにおいて、その方面の典型と言うべきものである。


「キヴァ」は円形の構造をもっていて(現在は四角)、地下に作られ、その入口は屋根の上に作られた穴である。

メキシコのリオ・グランデ・プエブロで伝統的な儀式の踊りをみた日の夜、わたしは夢を見た。

その夢の中で「キヴァ」は、すでに述べたユングの心理モデルと同じものとして現れたのだ。

「キヴァ」のてっぺんはエゴで、それを経て中に入った人は、自分の集団深層意識の中に入っていくのである。

「キヴァ」の中から出てくる踊り手たちは、その集団深層意識の中の、さまざまなアーキタイプ(元型)なのだった。

夢からさめたわたしは今や自分はホピ族の広場の踊り手の踊りが意味する、内的な秘伝の意味を知ることができたと思い、とても幸せな気がした。

そしてホピ族が「キヴァ」の中に伝統的な作法にそって入る時、その人はもはやその人ではなく、カチーナの世界の一部になるのだということが心底理解できたのだった。


同様にスウェットロッジも、この方面における別の例として挙げることができる。

人が神聖なスウェットロッジの中に入るとき、それはもはや二本の足を持った生き物ではなく、霊魂の世界の一部になる。

ラコタの祈りはつねに「ミタクエオヤシン」つまり、「我らみな同胞」という言葉で終わる。

宇宙のすべてのものは互いに関連しているということである。

この様な心で物事を見るということは、わたしに観察者が立っているはずの場所を、あたかも自分がそこにいるように、その立場から見ることを可能にしてくれるものである。

わたしの経験から言えることは、ホピの「キヴァ」の中にいる人もこの様に感じているに違いないということである。

これは「われわれの存在は宇宙のホログラム的な投影ではないのか?」、という疑問に対する答えなのではなかろうか。


       *****


彼はインディアンの儀式ではスピリット達が訪れ、人々にさまざまなアドバイスをもたらすという経験を何度もしているので、そのようなことがおこる“場”について、科学的根拠を説明しようとしているのだと思います。

そこがいかに“集団深層意識的”であり、かつ四次元的であるか、ということを彼は考えているのだと思います。

そこでは、伝承が語るように、世界の森羅万象が巡る輪をたどっている様が、具体的に感じとることができるのだということが言いたいのでしょう。

彼の言葉を用いるならば、「われわれはなにゆえにしかじかのことを行うのか」についての考察なのだと思います。

少し分かりにくいのですが、傾聴に値すると思い、紹介させていただきました。


写真は、ロス博士が見た夢、「ホピ族の祈り場「キヴァ」の内側をサイキの中の潜在意識の世界としてとらえたもの」と説明がついています。

縦長な絵なので、上半分と下半分になりました。
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レッドマン(インディアン)本源の教え・・ユング心理学とインディアン思想

2009-05-17 | 北米インディアン
前回の続きです。

ラコタ族の生まれであり、インディアン思想を研究しているA・C・ロスさんは、若いころ、自分の飲酒癖に悩み、メディスンマンに助けを求めました。

それらの経験から、彼は西洋と東洋どちらの良いところも取り入れる、独特の世界観を持つようになりました。

彼の著書「我らみな同胞・・インディアン宗教の深層世界」から抜粋してみます。

飲酒癖に苦しむ彼に、メディスンマンはこう助言しました。


          *****


聖なる人はわたしにこう言った。

「偉大なる聖霊に祈りなさい。
「赤い道」を歩むことができるように祈り、祈願するのだ。」

そこでわたしはその「赤い道」というものを見出すことができるよう祈りを始めた。

そうは言っても、その「赤い道」というものがそもそもなにごとであるかなど、さっぱり分からないし理解していなかったのである。

ある日わたしは夢を見た。

「赤い道」が夢に現れ、空中に浮かんでいた。

そしてその上を歩いている自分が見えたのだった。

わたしの友人の誰彼、飲酒の悪癖に悩んでいない人々が左側にいて、わたしを呼んでいるのが見えた。

わたしは「いやだ」と叫んでいた。

するとわたしの右側に飲んだくれている友人の一群が現れた。

その人たちもわたしを呼び入れようと招いていた。
「おい、こっちに来ていっしょに飲めよ。」

わたしはそこで叫んでいた。「いやだ。」

「わたしは中立だ。
わたしはこの「赤い道」を歩き続けるのだ。」


しらふでいるために、この夢は非常に助けになった。

誘惑が来ると、わたしはそれに対し、「いやだ」とも「うん」とも言わず、「あとで」と言うようになったのである。

かくしてわたしは「赤い道」をその中心に向かってひたすら歩きはじめたのだった。

それは中道、つまり極端な両端のいずれにも属さない中立の道だった。

それはいずれの側にも、その存在を許す道なのである。

そしてこれが右脳の考え方、全体性の道だということを認識するようになった。



ユング心理学では、もし人が“良い方”に行きすぎたり、“悪い方”に行きすぎて平衡が乱れた時、「影」がその人の意識を貫き、その人をコントロールし始めると教えている。

ここで言う「影」とは人格の影の部分のことであるが、キリスト教で言うなら、悪魔に相当しよう。


ラコタの根本の教えの一つは、人はこの世ではある一定の生き方、「赤い道」か「黒い道」かのいずれかによって生きるというところにある。

「赤い道」に生きた人はその一生が終わって肉体の死が訪れた時、霊魂は宇宙の中心に戻ることができるが、「黒い道」に生きた人はその一生が終わって肉体の死が訪れた時、霊魂は再びこの世に還って、新しい肉体に戻る。

他の部族、たとえばウィネバーゴ族も“霊魂の蘇生”ということを信じている。

この人々の間にはメディシン会という組織があって、非常に複雑な神学体系を構成している。

ホピ族の信仰では、宇宙は上層(つまり人々の世界)と下層(霊魂の世界)に分かれている。

彼らは人が死ぬと、その霊魂は肉体を離れ霊魂の世界に旅して再び生まれ変わると信じている。

エスキモー、アリウト、トリンギット族などの人々も、“霊魂の蘇生”ということをその宗教の根本にしている。


ユング博士は、宗教的な象徴はもともと総合的な物事の象徴、サイキの象徴、そして平衡の象徴であると言っている。

その一つの例として、道教の陰陽の円形を挙げている。

そこには白黒の二つのデザインが均衡をなして並び、またそのデザインの中に他方を表す点が置いてあるのである。

ユング博士はこの円形を、意識と深層心理の間にある平衡として言及している。

ヒンズー教の象徴は曼荼羅とよばれる。

ユング博士は曼荼羅は統合性、均衡の象徴であると述べている。

わたしはこれをよく見てみたが、そこには我々ラコタ族が儀式に取り入れているメディスンホイールに使われているのと同じ四つの方角が示されている。

そこでわたしは考えた。

それならメディスンホイールはユング博士が言った平衡の象徴、統合性の象徴ではなかろうか?



ユング博士はキリスト教のもともとの教えはその中に、Xを含む円形だったが、後にそのXの部分が円の外側に突き出すようになって、結果として不均衡の象徴になってしまった、ということを言っている。

博士の言うところでは、そのためにこれは人間自らを自然の上に据え、自分を自然より優れた存在と考える妄想の象徴になってしまった。

そのキリスト教信念の下にある現代人を、彼は平衡を失った存在であるとしているのである。


統合性の象徴であるメディスンホイールは、今日でもラコタ族の儀式に使われている。

Xの字が交差するその中心はタンカシラ、ワカン・タンカ、あるいは神の家とされている。

ユング博士は精神生活における現代人の問題はみずからの意識の部分にばかり頼り、深層心理の部分を無視して生きていることであると言った。

精神の救済を内に求めるべき時に、外にばかり求めているというのである。

それはラコタ族の言う「黒い道」、つまり感覚にばかり頼る生き方なのである。


平衡は「赤い道」の中では表に出てこない。

あなたが「赤い道」を歩むとき、あなたは物事の中心にいる。

だから両極端のいずれにも属さず、それでいながらいずれの極端にもその存在を許すのである。

それは誘惑に対しては、その誘惑がなにごとであろうとも、それに負けることなく、しかも際限なく“後回し”にすることである。

「だめだ」と言う代わりに、「あとで」と言うことである。


さらにわたしは研究の過程で、トーマス・ブレイクスリーという人の「右脳による問題解決法」というものも知った。

その一つは“思考の培養”とでも言うべきものである。

彼は人がもし考えることがあって、しかもどうしてもその答えが意識に昇ってこない場合は、その考えを一度去ることだと言う。

つまり自分自身に「あとで」と言えば、考えに対する答えは後にあなたの下にやって来ると言うのである。

伝統のラコタの言葉には、「なにかをしたり言ったりする前に、かならず二度考えろ」というのがある。

これはわたしにはブレイクスリーの“思考の培養”と実に似ているように思われる。


     *****


インディアンの進むべき「赤い道」すなわち人間としての生き方が、インディアン自らの手によって説明されています。

そしてそれが、西洋文明とどのような関係にあるのか書かれています。

物事に対して、イエスでもなく、ノーでもない態度を取り続けることが、物事の平衡を保つ秘訣であると言っていますが、これはきわめて東洋思想に近く、私たち日本人は、暗黙のうちに了解できるのではないでしょうか?

道教の陰陽や、曼荼羅は東洋人の心の底にずっと流れつづけている中庸の感性を表している図形だと思います。

彼はインディアンの世界と、それ以外の世界の両方に共通して見られる形や思想を比較することで、インディアンの思想を分かりやすく説明しています。

インディアンの世界では、円と4という数が聖なるものとされていますが、その意味するところも道教や仏教にみられるものと同じく、バランスと中庸と万物流転の精神であろうという彼の説は、納得いくものだと思います。


写真は
上・インディアンロンゲストウォークのマーク
中・タオの陰陽マーク
下・ケルト十字
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オール マイ リレーションズ!・・ラコタ族教授のインディアン研究

2009-05-14 | 北米インディアン
コロラド大学でネイティブアメリカン哲学思想、歴史、芸術を教えておられたラコタ・インディアン、A.・C・ロスさんの本「我らみな同胞(ミタクエオヤシン)・インディアン宗教の深層世界」という本を読みました。

彼は幼い時から白人の家で育てられ、白人による教育を受けたのですが、大学生時代、ユング心理学の講義を聞いたら、なんとそれはラコタ族のごく普通の考え方と同じであることを発見し、インディアンの文化は西洋の文化とどのような関係をもっているのか、さらにインディアンの発祥の地はどこか、と研究した人です。
以下「我らみな同胞」より抜粋して紹介します。


     *****


最近になってはじめて自身の伝統文化に接するようになった人間として、わたしは次のようなことを自問しはじめた。

「なぜわれわれはしかじかのことをし、しかじかのことを信ずるのだろうか?
このような伝統的信仰の裏には、それなりの理由があるにちがいない。」

ラコタの人間として自分のルーツを探っていくわたしの試みは、こうしてインディアンの創世に至るすばらしい探究の経験に至ったのである。

欧米文明は、アメリカ・インディアンの先祖はおよそ20000年前にベーリング海峡を経てアジアの北東部からアメリカ大陸にやってきたと教えている。

ところがラコタ族の口承の歴史では、インディアンは常に西半球に、特に北米大陸に存続・在住していたと記録されているのである。

わたしはこのことをよくよく考えてみた。

学会の権威は人間が進化を遂げたのは西半球ではないと言っている。
私は手に入るあらゆる本によって自分のルーツを求めるきっかけを探した。

本で始まったわたしの研究は、のちには郷里の祖父母から昔話を聞くという方向に向かった。


  *****


昔話の探索の後、部族の伝統的な行事や儀式に参加して、彼は大学に戻りました。

そしてユング心理学を専攻することにして、はじめて講義を聞いて、それが自分の部族が行っているさまざまな行事や儀式の考え方と同じだと知って驚きます。
転載を続けます。


     *****


ユング博士は、心は三つの段階に区分することができると言っている。

心の一番上層をユング博士は「意識」とよんだ。
これはまたの名をエゴとして知られている。
これは心の中の活動的な部分で、わたし達は起きている間、常に使っているものである。

その下に位置するものを彼は「個人意識」と呼び、ここにはわたし達がこの世に生まれて以来、見知ったことがらの記憶が堆積している。

ここは抑圧または抑制された部分であるから、われわれはずっと昔の事柄は憶えていない。

最も下位に位置するものを、ユング博士は「集団意識」とよぶ。

彼によれば、わたし達の祖先から伝わったすべての知識や記憶はこの部分に潜在意識となって堆積しているという。

ユング博士によれば、現代人は人種に関わらず、あまりにも意識の世界にかたよって均衡を逸しているという。

そして現代人はこの無意識の部分をおろそかにしていると言うのである。

博士の研究はこの下層心理に働きかける、従来とは異なる方法が存在することを知っている。

そのために彼が使った方法の一つが「夢」である。

彼の説によれば、夢とは意識的な内容の無意識な完成なのである。

別の言い方で言えば、夢とは無意識の世界からやってきて意識の世界に浸透したものなのである。

だが心の中の無意識の部分はそれ自体では語ることができないので、それが意識の世界に浸透すると、イメージや象徴、考え、勘といったような形をとる。


ラコタ族は伝統として世の中の森羅万象は、めくるめく環の中にあると信じている。


伝統的なネイティブアメリカンの世界には書き言葉はない。

伝統的な社会では、人はなにかの知識や情報を得たければ、儀式に行くのである。

“通訳”(儀式の担い手)はあの世と交信し、そしてあなたの疑問に答える。

 

      *****


彼はまた、脳の右脳と左脳について考えます。

 
       *****


本能は右脳の機能の一つである。

人がもし、あることについて何らかの感触をもったなら、その人はそれを意味あるものとして受け入れるべきだろう。

このような受け入れの態度こそ、我々が子供に教えなければならないものなのである。

それが本能を研ぎ澄ます助けとなるからである。

別の右脳の機能は全体性思考で、これは一目で物事の総体図が分かるものである。

これはそこから始まって、その総体を構成している一つ一つのものを見てゆく考えを統率するもので、つまりは左脳の直線的思考と反対の方向を辿る。

ところでこの全体性思考はネイティブアメリカンの伝統的な儀式で使われているものである。

その例は「パイプの儀式」で、パイプに詰められたたばこは、地上のすべての緑のもの、四つ足のもの、翼あるもの、そして水の中に住むものをあらわす。

パイプにこのようなものを詰める行為は、これらすべてのものがパイプの中に集まってくれるようにする祈りの行為なのである。

そしてそのパイプは四つの方向、宇宙の神秘を統率する不思議の力、そして母なる大地に捧げられる。

あなたがそのパイプを吸うとき、あなたはこれらすべてのものがあなたの中に入り、あなたと一つになるよう念願しているのである。

これは非常に全体的な思考形態、宗教というものに対する右脳的なアプローチである。

ラコタ族の言葉では、祈りの締めくくりは「ミタクエオヤシン」であるが、その意味は、直訳するならば、「わたしのすべての同胞たち」(オール・マイ・リレーションズ)ということになる。

これは「われわれはすべてのものと関連を持つ」ということである。

私には、これはどう見ても右脳的思考のように思われる。

 
         *****


彼は、西洋人とインディアンの二つの文化を相対的に見て、インディアンの思想が現代の西洋人の心にとっても、とても大切なものではないかと語っています。

彼の元奥様はホピ族だったということで、ホピ族の文化の紹介もしています。
続きは次回に。。

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東北のヤタガラス・・出羽三山のカラスやうさぎや天狗たち

2009-05-10 | 日本の不思議(中世・近世)
「熊野のヤタガラス」の続きです。

神武天皇を大和へと導いた熊野のヤタガラスは、その後、聖徳太子の時代に登場します。

聖徳太子のおいの蜂子皇子(はちこのみこ)は、崇峻(すしゅん)天皇の息子ですが、父天皇が曽我馬子による暗殺の危機にあると知り、聖徳太子のアドバイスに従って585年、京都から日本海を通って東北に脱出しました。

彼が到着したのは、山形県鶴岡市の海岸でした。

山形に上陸した彼の前に、三本足のヤタガラスが現れました。

ヤタガラスに導かれて、山の奥へと進んでいきました。

その山は“黒い羽”という名前の、羽黒山でした。

そして羽黒山の山中で修業をかさね、出羽(いでは)の神を拝して593年、蜂子皇子(はちこのみこ)は出羽三山を開山したとされています。

羽黒山、月山、湯殿山、この三つの山は以来、修験道の山となり、明治政府が廃仏棄却令で、仏教から神道への変更を強行するまで、神仏混淆の山岳仏教の一大修業場として大きな力を持ちました。

伝説によれば、役の行者もやってきたけれど、途中で戻されたという話もあるそうです。

それほど、強いエネルギー、あるいは独自の権力をもった場所だったと言いたいのだと思われます。



ヤタガラスに導かれた蜂子皇子(はちこのみこ)は、羽黒大権現という名の山の神に出会います。

“羽黒”とは、カラスを指しているように思われます。

彼が導かれたのはカラスの山であり、カラスの神であったということではないでしょうか。


羽黒山のおおみそかには、「からすとび」という行事が行われます。

これはヤタガラスを現していると言われています。

この行事の後には、うさぎの身なりをした人も登場します。

うさぎは月山からの使者であるとされています。
うさぎは、月のシンボルなのでしょう。

黒いカラスと白い兎が、まるで童話のようです。

内藤正敏著「日本異界発見」から引用します。

       ***


深夜11時、松例祭もいよいよクライマックスを迎える。

まず本殿で「烏とび」がはじまる。

12人の山伏が二つに分かれて右回りと左回りに進みながら、空中にカラスのように飛び上がり、その姿の美しさと高さを競いあう。

「烏とび」が終わると「うさぎの神事」となる。

白うさぎのぬいぐるみを着た山伏が、本殿正面で12人の山伏の真ん中に座り、山伏が一人づつ扇で机をたたくとうさぎが従うしぐさをする。

この時のカラスは羽黒権現の使者で“太陽”、うさぎは月山権現の使者で“月”とされ、カラスとうさぎで日月の運行を表す。



         ***


ヤタガラスは、羽黒山の世界においては、山そのものを黒い羽のカラスのイメージでおおい、そのイメージは開祖・蜂子皇子(能徐=のうじょ、ともいう)の人物像にも転移されているようです。

父天皇を暗殺され、都を追われた皇子は、奥まった山の中でいつのまにか不思議な鳥に変貌してしまったかのようです。

皇子は耳までさけた口、おそろしいこの世のものならぬ風貌をしていたとされていますが、都を追われ、山にこもって修行をした皇子は、カラスの山で、いつしか異能をもつ怪鳥に変化していったのではないでしょうか。

鳥のような、人のような山の生き物といえば、天狗でしょうか。



大和和夫著「天狗と天皇」によると、天狗は負けた者の神となるということです。

          ***

山の天狗は反権力で敗者につく。

なぜかというと、権力は里にあり、山は里・中心と対立する異世界・周辺とみなされていたからである。

日本中の修験の山の天狗が牛若を守っているのは、仏教が我が国に伝来する以前からの固有信仰である山岳信仰に、天狗信仰は根ざしているからである。

その固有の信仰を特に色濃く受け入れた密教は、空海の真言密教であった。

真言密教が民衆に受け入れられ、空海崇拝や伝説が民間に根強く広がっているのは、民衆が伝えてきた固有の信仰を空海の真言密教が取り入れ、民衆の信仰により近いものになっていたからである。

山の神としての天狗は、里の権力にとっては荒ぶる神、魔であり、反権力の“もののけ”であった。

         ***


また、天狗の鼻が高くなったのは新しいことで、元は鳥のくちばしだったということです。

         ***

天狗像は「今昔物語」に見られるように、室町時代まではトビの姿か、トビのくちばしをもった人として描かれている。

鼻高の天狗は主に近世からのもので、古く見ても室町時代末以降のものである。

               同著より

         ***


カラスや天狗は、羽のある人間、鳥人間であり、東洋の天使と言えるのかもしれません。

東北のヤタガラスは、大和の地に現れたヤタガラスとは一味違う“すごみ”があるように思われます。


羽黒山の奥の院である湯殿山は日本のミイラ仏のメッカでもあります。

ここのミイラはエジプトの王様のように死後人々によって処理がほどこされて作られたものではなく、本人の力で、自力でミイラになった方々です。

これは世界的にも貴重なもので、そこに込められた精神の力を思うと、日本という土地の精神風土がかなり違った色合いで感じられるように思います。

天狗とミイラのこと、また改めて続けたいと思います。


出羽三山神社公式HP

写真は
上・蜂子皇子(能除)
下・羽黒山の“からすとび” 内藤正敏著「日本異界発見」より


wikpedia「i羽黒山」より

出羽三山は、約1,400年前、崇峻天皇の御子、蜂子皇子(能除太子)が開山したと伝えられる。

崇峻天皇が蘇我氏に害された時、蜂子皇子は難を逃れて出羽国に入った。

そこで、三本足の霊烏の導きによって羽黒山に登り、苦行の末に羽黒権現の示現を拝し、さらに月山・湯殿山も開いて三山の神を祀ったことに始まると伝える。

月山神社は延喜式神名帳に記載があり、名神大社とされている。

出羽神社も、神名帳に記載のある「伊氐波神社」(いてはじんじゃ)のことであるとされる。

古来より修験道(羽黒修験)の道場として崇敬された。

三山は神仏習合、八宗兼学の山とされた。

江戸時代には、三山にそれぞれ別当寺が建てられ、それぞれが仏教の寺院と一体のものとなった。

羽黒山全山は、江戸期には山のいたるところに寺院や宿坊が存在した。


wikipedia「烏天狗」より

烏天狗または、鴉天狗(からすてんぐ)は、大天狗と同じく山伏装束で、烏のような嘴をした顔、黒い羽毛に覆われた体を持ち、自在に飛翔することが可能だとされる伝説上の生物。小天狗とも呼ばれる。
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「レモン哀歌(高村光太郎)」への哀歌

2009-05-07 | 心理学と日々の想い
 
 
 高村光太郎作 「レモン哀歌」

    
    *****


そんなにもあなたはレモンを待ってゐた

かなしく白くあかるい死の床で

わたしの手からとった一つのレモンを

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

トパアズいろの香気が立つ

その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉に嵐はあるが

かういふ命の瀬戸ぎはに

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時

昔山頂でしたやうな深呼吸を一つして

あなたの機関はそれなり止まった

写真の前に挿した桜の花かげに

すずしく光るレモンを今日も置かう

    高村光太郎「レモン哀歌」



     *****


死というものにおよそ無縁な高校生のころ、学校の国語の授業でこの高村光太郎の「レモン哀歌」を聞いたことを思い出します。


それは午後の授業で、その授業のあとは、みんな机を教室の後ろに下げて、掃除の準備をしなければなりませんでした。

ところが、ある机の列がある男子生徒が机につっぷしているので、その移動が止まってしまいました。

なんだよ、早くしろよと、みんなが言ったのだけれど、その男子は動きませんでした。

じっと見ると、かれが泣いているということがみんなわかりました。

みんな、それで、そのまま教室を出て行きました。

わたしはみんなといっしょにその光景を風景のように通り過ぎたことをおぼえています。

国語の担当の先生は大変上手な先生でしたけれど、それでも、わたしは泣くことはありませんでした。

どうしてこの人はこんなところで泣いているんだろうという、不思議な気持ちばかりでした。


そしてそれからだいぶたって、ある瞬間、「ああ、そうか、、わたしは、人を愛するということも、愛されるということも、なにもかもわかっていなかったのだ、、。」
とやっと気づいた瞬間のことだけが今も思い起こされます。

そこから人生がやっと始まったのだと、今では思い起こされます。


智恵子のように、あなたと呼ばれて大切にされることがどれほど稀有なことなのか、わからなかったし、そのために不安でもあった時代を思い出します。

机に泣き伏していた男子は、本当の恋をしていたのだと、当時半分分かったようなことがやっともう少しわかったように感じられたのでした。


無限の未知数をはらんだ青春の時を、もう一度味わいたいような、、。

レモンの香気はもう似合わないのかもしれないような、、。


光太郎と智恵子の物語は清冽で、レモンの香りはいつまでたってもみずみずしいので、こんな詩を読むと、生きていることが切なくて、今頃になって泣いてしまいます。


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お地蔵さまと、閻魔さま・・「小野篁(たかむら)」の冥府渡り

2009-05-03 | 日本の不思議(中世・近世)
小野妹子の子孫であり、小野道風や小野小町のおじいさんでもあった「小野篁(たかむら)」は、閻魔さまのお友達だったということです。

なんと、彼は夜毎、井戸から地底の地獄に降りて、閻魔さまの仕事を手伝って、また別の井戸からこの世に戻って、涼しい顔で日々の生活をおくったのだそうです。


伝説ですけれど、第三者の証言もあります。
「今昔物語」なので、まあ、メジャーと言えましょうか。。

久野昭著「日本人の他界観」より転載させていただきます。

       *****

7世紀に小野篁(たかむら)という人物がいた。

漢学、和歌、書などにすぐれ、養老律令の注釈書「令義解(りょうのぎげ)」の撰集者の一人としても知られている。

834年遣唐使に任じられながら乗船せず、5年後絞首刑になるところを、死一等減じられて隠岐に流されたが、後に許され、852年に死んだ。

この「小野のたかむら」に、ある日病死した西三条大臣良相(よしすけ)が地獄で会った、という話を「今昔物語集」 が伝えている。

良相(よしすけ)が病死し、地獄の王宮に連行されると、閻魔王の家臣の居並ぶ中に「小野のたかむら」がいて、「この日本の大臣は心が素直で、他人のために良いことをする人物だから、自分に免じて今度の罪は見逃してやってほしい」と、閻魔王に頼んでくれた。

おかげで生き返った良相(よしすけ)は、その後、地獄でのことを他人に話すことはしなかったが、たまたま宮中で「たかむら」と二人きりになった時、思いきって「あの冥府でのことが忘れられません。あれはどういうことだったのでしょう」と尋ねてみた。

すると、「たかむら」は少し微笑んで、「かつて死一等を減じられた時のお礼までにしたことですが、あそこでわたしと会ったことは、けっして人に言ってはいけませんよ。
まだ人の知らないことですから。」と答えた。

良相(よしすけ)はこれを聞いて、「たかむら」はただものではないと恐れた、ということである。

もっともこのことは自然に世間に知れ、皆が「たかむらは、閻魔大王の臣として通う人なり」と、恐れるようになったと言う。」


京都・六波羅蜜寺の北の六道の辻を東に折れると、すぐに六道珍皇寺の前に出る。

伝説によれば、「小野のたかむら」は夜な夜な、この六道珍皇寺の境内の井戸から黄泉(よみ)に下りた。

そして嵯峨野の大覚寺の門前あたりが嵯峨六道町とよばれ、そこにも井戸が掘られていたが、伝説によれば、「小野のたかむら」はこの井戸からこの世に戻るのが常であった。

つまり伝説によれば、「小野のたかむら」は夜毎、六道の辻の方の井戸から冥土(めいど)に入っては、六道町の方の井戸のからこの世に戻ることを繰り返していた。

六道の辻は鳥部野、六道町は嵯峨野、どちらもかつては葬送の地であった。

とすれば、平安京の真下に地獄があったことになる。

現世は奈落の真上にあった。

久野昭著「日本人の他界観」より


*****



閻魔さまは怖いと、子供心にも恐ろしかったことを思い出しますが、この「小野のたかむら」という人は、その閻魔さまの補佐をしていたということです。

では、さぞかし恐ろしい男なのだろうと思うと、どうもそうでもないらしく、

閻魔さまとは、実はお地蔵様の化身なのだという考えもあるそうです。

少し古い集落ならどこにでも見かける、野の守り神のような可愛らしいお地蔵様ですが、じつはお地蔵様は人々を救うためにどこにでも出かけ、地獄に赴いた時には閻魔の姿をとることもあるのだ、という考えもあると知り、驚きました。

怖い閻魔さまとやさしいお地蔵様はじつは同じ人だった、、調べていくうちにわかってきて、なんだかとてもホッとしました。


久野氏の本からまた転載します。

         *****


地蔵菩薩の前身は古代インドの大地の女神であった。

「地・蔵」という言葉自体が、“大地”なる”母体”を意味するサンスクリットの漢訳である。

母体として万物を包容し育む大地の徳が、そのまますべての罪人の苦をひきうけて救済しようとの悲願を抱いて、地底にある地蔵菩薩の徳に引き継がれたと見ていい。

釈迦が滅してから弥勒菩薩が出現するまでの、仏のいまさぬ無仏の世の救済者として、地蔵は地獄をはじめ六道にわたって、男子にも女子にも天竜にも鬼神にも化身し、百千万億もの姿で出現する。

地獄では閻魔にも獄卒にも身を変じる。

およそ菩薩らしからぬ地蔵の姿にも、六道を巡り歩きつつ衆生を救済しようとする地蔵の悲願が現れている、と見るべきであろう。


         久野昭著「日本人の他界観」より
      

         *****


あぁ、地獄に仏とはこんなことを言うのでしょうか?

「閻魔」は古代インドで死者を支配する神で、サンスクリット語の神名はYAMAと言い、エンマの名はこの音の写しだということです。

平安時代、日本に末法思想が広まり、古代の日本的な漠然とした“黄泉”のイメージに、このヒンズー・インド仏教由来の激しい地獄のイメージが混ぜ込まれ、混然一体となって、地獄の主、閻魔大王と、地獄の救い手、地蔵菩薩が混合されていったようです。


この世の「最後の審判」とも言うべき“地獄での裁き”に、じつは菩薩の身であるお地蔵様による慈悲がかけられていた、という思想は、なんと優美な、たおやかな東洋的な思想でしょうか?


夜な夜な閻魔さまのお手伝いをしていたという「小野のたかむら」は、現世に戻ってくるときに使う井戸のある矢田寺の御本尊に、彼が地獄で見てきた「地獄地蔵」を、また京都のあちこちに六地蔵を作ったということです。


か舎+菊池昌治著「京都の魔界をゆく」より転載させていただきます。



     *****


矢田寺の御本尊は地獄地蔵あるいは受苦地蔵とも呼ばれ、火焔に半身を焼かれるような姿をしている。

これはその昔、地獄へ通っていた小野のたかむらが閻魔大王に菩薩戒を授けるのに満慶上人を推薦した時、地獄を訪れた上人の、自ら地獄の炎熱に身を焼いている姿を見て、たかむらが感動を受け、現世に戻って姿を刻んだのだという。

矢田地蔵は、地獄から亡者を救う地蔵として信仰をあつめた。

また、洛外の六ケ所に祭られている六体の地蔵は、たかむらが異界で直接、地蔵尊を拝し、一本の木から刻み出したものと伝えられている。

六地蔵はそれぞれ京の都へ入る街道筋にそれぞれ祭られている。

それは京都という魔界都市が設けた結界であり、そしてそこは言わば、この世とあの世との境をなしていた。

人々にとってあの世とは、因果応報の地獄を意味したのだが、果たして魔界とはこの世なのか、あの世なのか。

       か舎+菊池昌治著「京都の魔界をゆく」より

       
          *****



浄土という観念が台頭するほどに、人々の目には、この世もあの世もいっそう救いの無い地獄のように見えてきたことと思います。

ですが、少なくとも「たかむら」の目には、地獄で活躍している地蔵菩薩の姿が見えていたということでしょう。。

あの世もこの世も軽々と通り抜けるこの人物は、56億年先の弥勒菩薩の来迎の時まで、地蔵菩薩が人々の罪をあがなう補佐をし続けるのでしょうか?






wikipedia「地蔵信仰」より

地蔵菩薩 (じぞうぼさつ)、梵名クシティ・ガルバ(क्षितिघर्भ [kSiti gharbha])は、仏教の信仰対象である菩薩の一尊。クシティは「大地」、ガルバは「胎内」「子宮」の意味で、意訳して「地蔵」と言う。また持地、妙憧、無辺心とも訳される。

大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々をその無限の大慈悲の心で包みこみ、救う所から名付けられたとされる。

偽経とされる閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土経(預修十王生七経)や十王経(地蔵菩薩発心因縁十王経)によって、道教の十王思想と結びついて地蔵菩薩を閻魔と閻魔王と同一の存在であるという信仰が広まった。

閻魔王は地蔵菩薩として人々の様子を事細かに見ているため、綿密に死者を裁くことができるとする。

日本においては、浄土信仰が普及した平安時代以降、極楽浄土に往生のかなわない衆生は、必ず地獄へ堕ちるものという信仰が強まり、地蔵に対して、地獄における責め苦からの救済を欣求するようになった。

菩薩は如来に次ぐ高い見地に住する仏であるが、地蔵菩薩は「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」との決意でその地位を退し、六道を自らの足で行脚して、救われない衆生、親より先に世を去った幼い子供の魂を救って旅を続ける。

このように、地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩であることから、古来より絶大な信仰の対象となった。

また後年になると、地蔵菩薩の足下には餓鬼界への入口が開いているとする説が広く説かれるようになる。

地蔵菩薩像に水を注ぐと、地下で永い苦しみに喘ぐ餓鬼の口にその水が入る。

「六地蔵」とは六道それぞれを守護する立場の地蔵尊であり、他界への旅立ちの場である葬儀場や墓場に多く建てられた。

また道祖神信仰と結びつき、町外れや辻に「町の結界の守護神」として建てられることも多い。

これを本尊とする祭りとして地蔵盆がある。


wikipedia「閻魔」より

閻魔(えんま)は仏教・ヒンドゥー教などで地獄の主。また神とも。

冥界の王・総司として死者の生前の罪を裁くと考えられる。

日本では地蔵菩薩と同一の存在と解され、これは地蔵菩薩の化身ともされている。


wikipedia「小野篁」より

小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風がいる。

『令義解』の編纂にも深く関与する等法理に明るく、政務能力に優れていた。

一方で漢詩文では平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、『経国集』や『和漢朗詠集』にその作品が伝わっている。

また和歌にも秀で、『古今和歌集』以下の勅撰和歌集に18首が入首している。


篁は夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという。

この井戸は、京都東山の六道珍皇寺にあり、また珍皇寺の閻魔堂には、篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されている。


『今昔物語集』によると、病死して閻魔庁に引据えられたた藤原良相が篁の執成しによって蘇生したという逸話が見える。


まだ日本に『白氏文集』が一冊しか渡来していない頃、天皇が戯れに白楽天の詩の一文字を変えて篁に示したところ、篁は改変したその一文字のみを添削して返したという。

白楽天は、篁が遣唐使に任ぜられたと聞き、彼に会うのを楽しみしていたという。



(写真は本文とは関係ありません)
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