始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

ホピ族と、隠された青い星(1)・・刑部恵都子さん

2014-03-31 | ホピの白い兄・石版など


刑部恵都子氏の「聖書の暗号とホピ預言のシンクロニシティ」という本を読んでみました。

刑部氏は、ある時突然「青い星」のビジョンを見ました。

そしてたくさんの導きを受けながら、世界各地を旅するのですが、ここではホピ族に関する部分だけをご紹介したいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

 
                *****


               (引用ここから)


ひもろぎの前で座っていると、瞑っている眼前の左の方に、大きな「青い星」が見えてきた。

しかし星の全容が見えたわけではなく、星の一部だけだった。

その「青い星」が何なのか不思議に思った私は、誰にともなく語りかけていた。


「この「青い星」は地球ですか?

おかしいですね、今私は地球にいるのに、地球と同じような青い星を見るなんて。

この「青い星」は地球ではないのでしょうか?

でも、地球の他に、このような青い星があるのですか?」

   
              (引用ここまで)


                *****


そして、ホピ族に「青い星」に関する予言があることを知り、ホピ族の住むアリゾナ州に旅立ちます。


               *****


               (引用ここから)


ホピの予言9番目「最終章」は次のように語る。

「あなた方は天の住居のことを聞くようになるだろう。

それは大音響と共に落ちてくる。

青い星のようなものが見える時、私たちの民の儀式はまもなく終わりを告げるのだ」。


神秘の民ホピ(平和の意味)は、創造主から特別な使命を与えられた最古のインディアンの部族と言われている。

長いこと平和に生活してきた彼らの間に、現在分裂がおきている。

「ホピの予言」は、「彼らの在り方は世界の縮図だ」としていて、実際世界はまさに分裂状態にあるのだ。


ホピの予言には3つのソースがあるらしい。

「石版」と「岩絵」と「お告げ」だ。

これらの予言は、今までいくつもが的中してきたという。

広島と長崎に投下された原爆は、「ホピの予言」に明確に記されていたという。

この事実が判明した時から、ホピの人々の戦いが始まった。

そして今まで明かすことのなかった「予言」のすべてを、世界に明かす決心をしたという。

なぜなら残り少なくなった「未成就予言」に、世界の転換を告げるものが多々あったからだ。


ではホピの「最終予言」とはいったいどのようなものなのか?

まず石版は紀元1100年に彼らがオールドオライビ(当時のホピ集落の中心地)において、救世主「マサウ」から直々に授かったもので、「マサウ」自身が自ら裏表に象徴を描き込んだという。

2つ目の「ロードプラン」と呼ばれる岩絵は、ホピの生きる道を後の世代が忘れぬよう、ホピの先祖がオライビの近郊の岩肌に刻んだものである。



ここには「ホピの出自」と、「第四の世界」に入ってから人類が辿る「2つの道」が描かれている。

ホピの険しい道は下に、世界の大部分が辿る広い道は上に描かれている。

下の道の最後は「豊作」だが、上の道は波線に示された「混乱」で終わっている。


「ロードプラン」とあるように、ホピにとっては「人類の道」は最初から決まっている。

未確定なのは、誰がどの道をとるか、そして世界がその道を進む速度ぐらいだ。


3つ目の「お告げ」は、ホピの祭司長が「キバ」で祭りの度に受ける天啓である。

時代が進むに従い、岩絵と石版の象徴に封じられていた多くの「予言」が、ホピの長老のお告げを通して解釈されてきた。

その結果、100に上るホピの予言のほとんどがすでに成就しており、現在残すところは数えるほどになっているという。(月刊ムー第249号)


この「予言」に対して、数人の研究者が解読を試みてきた。

そのうちの一人、ホピの歴史と祭祀を初めて世に広めたフランク・ウォーターズは「青い星のようなものが見える時」という部分について、次のように伝えている。


            ・・・


「時は迫っている。

青い星のカチーナが広場で踊る時が来る。

彼はまだ見えない青い星を象徴している。

その星はもうすぐ現れる。

祭りで歌われる聖歌によっても、その到来は予告されている」。

         
                ・・・


私がかつて見た「青い星」は、全容が見えなかった。

なにかの影に隠れているような見え方だった。

しばらくするうちに、そのことが気になり始めた。

青い星は、何の影に隠れているのだろう?

隠れていないのならば、星の全容が見えるはずだと思ったのだ。

それを気にかけながら時々、神籬の前に座ってみるのだが、なかなか青い星は姿を現してくれなかった。


ある日、「青い星」のことで新しい情報が入った。

漫画家でサイエンス・エンターテイナーの肩書きを持つ飛鳥昭雄さんと言う方が「青い星」のことを書いているというのだ。

本のタイトルは「太陽系第12番惑星ヤハヴェ」。

帯には、「太陽の向こうに隠れながら公転する「反地球クラリオンは存在した」」とある。

つまり太陽の反対側に地球と同じ軌道を、同じ速度で回る惑星があるというのだ。

そしてNASAは秘密裡にその「反地球」の探査を決行しており、その存在を確認しているという。


地球よりももっと青いその惑星に、NASAがつけたコードネームは「ヤハヴェ」。

ヤハヴェとは旧約聖書に出てくるモーゼの神であり、アブラハムの神、イエスキリストの父なる神である。

つまり旧約聖書も新約聖書もヤハヴェという神の導く世界なのだ。

そして旧約聖書の最初の五書「トーラー」(モーゼが記したとされる)には、暗号が秘められている。


かつて私が見た「青い星」のビジョンが、「ホピの予言」とつながった。

「青い星」の名前がヤハヴェだとは。。

もしかしたら聖書の暗号に出てくる「終わりの日」とは、ヤハヴェという神の誘導した時代の終焉ではないのか?

だとすると、ホピ族の救世主という存在もまた、ヤハヴェという神なのだろうか?


             (引用ここまで)


              *****


今まで5年半、当ブログで慎重にとりあつかってきた「ホピの青い星」について、著者は臆するところなく、突き進んでゆきます。

この本も、ホピ族に関する重要な資料なので、わたしは大切にご紹介したいと思っております。



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42000年の旅路・・ボルネオ島のニア洞窟

2014-03-29 | その他先住民族


朝日新聞「日曜版」「日本人の起源」2011・05・01

アジアに最初に入ってきた人たち、日本人の遠い祖先が住んでいた巨大な洞窟を訪ねた記者の記事です。


                 ・・・・・

その洞窟は、とにかく巨大だった。

体育館のようにだだっ広く、奥に向かって小高い丘になっている。

その先は真っ暗で何も見えない。

高いところでアナツバメやコウモリが舞っている。

不思議と怖さはない。

むしろ、大きなゆりかごのなかにいる気分だ。

40000年ほど前、ここに「祖先」たちがいたかと思うと、洞窟の奥の暗闇に向かって「会いに来たよ」と走りだしたくなる。

マレーシア・ボルネオ島のニア洞窟。

私がここを訪れたのは、「祖先」の足跡をこの目で確かめたかったからだ。

2人の人類学者・国立科学博物館の海部陽介と沖縄県立博物館の藤田祐樹に同行してもらった。


東京から首都クアラルンプール、そしてボルネオへ。

2日かけて、ブルネイとの国境の町ミリに入った。

そこから車で2時間ほど走り、ようやく「ニア国立公園」の入り口に辿りつく。

ニア川を渡し舟で渡り、鳥や虫の声を聞きながらジャングルを歩くこと1時間。

石灰岩の切り立った崖にぶつかり、木で出来た階段を5分ほど登ると、「さあ、我らが故郷にようやく到着だ」と、洞窟の前で案内役のサラワク博物館長が歌うように言った。



ここで1958年、人間の頭がい骨が見つかった。

深さ2・5メートルの地中に眠っていたため、「ディープスカル」と名付けられた。

2000年、サラワク博物館や英ケンブリッジ大の合同調査団が4年かけて発掘。

現場の地層や「ディープスカル」を再検証し、約42000年前の20才前後の女性と特定した。

東南アジア最古の現生人類だったのだ。


洞窟を訪ねる2日前、私たちはサラワク博物館で「ディープスカル」と対面した。

ふだんは館長室で厳重に保管され、めったに人目に触れることはないらしい。

館長は、白い紙箱からうやうやしく骨を取り出す。

茶褐色で薄く、何かはかなげだ。

40000年の時を超え、身内と向き合っているような気分になる。

「思ったよりきゃしゃですね。骨と骨の結合部分にまだ成人になりきっていない特徴もある」。

海部はいろいろな角度から観察し、そんな感想を口にした。


「ディープスカル」の発見現場は、半世紀前のまま残されている。

周辺では、焦げた跡や傷のある動物の骨、木の実の毒を抜くために灰とともに埋めたと見られる穴の跡もみつかった。

森で生き抜く知恵をもって暮らしていた「祖先」の姿が、目に浮かぶ。

「ディープスカル」の主は、その形態などから「オーストラリアやタスマニアの先住民に似ていたのでは」と推測されてきた。

海部や藤田が研究している沖縄の旧石器人も、同じような集団の仲間だった可能性がある。


海部は研究者になった16年前から、ニア洞窟に来るのが夢だったという。

「日本人のルーツを辿る旅で、ニア洞窟は避けて通れませんから」。



約20万年前にアフリカで生まれた現生人類は、中東からインドを経て東南アジアにやって来た。

そこからユーラシア大陸を北へ、様々なルートで日本列島を含む北アジア各地に広がっていったと考えられている。

「ディープスカル」の主は、アジアに入ってきた初期の人たち、つまり日本人の遠い祖先だった可能性がある。


午後4時ごろ、洞窟の外は猛烈なスコールに見舞われた。

雨に洗われる新緑の木々を洞窟の中から見ていると、まるで大画面のスクリーンのよう。

雨は一滴も入ってこない。

風雨を避けられる一方、十分な光は差し込んでくる。

「祖先」たちのいた場所は居心地がいい。


ただ、やがて彼らは、慣れ親しんだ洞窟を後にする。

行く先々で何が待っているのかもわからないまま、あちこちに散っていった。


海部は言う。

「その好奇心と、何とかなるという自信、これがホモサピエンスの証じゃないかな」。

もし「祖先」たちがニア洞窟に留まっていたら、日本を含む東南アジアの歴史は変わっていたかもしれない。

彼らが前に踏み出してくれたおかげで、日本人はここにいる。


                  ・・・・・

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太鼓の音に乗って先祖の地へ行く・・モンゴルのシャーマンの生活(2)

2014-03-27 | その他先住民族


西村幹也氏の「もっとしりたい国モンゴル」のご紹介を続けさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          *****


         (引用ここから)


儀礼の準備には、それなりに時間がかかる。

まずは太鼓をストーブなどであぶって、よく乾かさねばならない。

シャーマンの太鼓は、シャーマンが「オンゴット」の許へと向かう時の乗り物になるという。

ソビヤン婆さんの太鼓には、メス鹿の絵が描かれていた。

トナカイに乗って移動する「ツァータン」ならでは、というところであろう。


太鼓を叩くバチは、ムチと呼ばれる。

太鼓の音は、乗り物の駆ける様子を表わしているという。

したがってよく乾いていい音がすればするほど、シャーマンの乗り物が調子よく走っているということになるのだ。


皮でできた衣装には、たくさんの金属片が縫いつけられている。

刀の形や、人型、鈴のように音が鳴るようになっているものなどで、これらは「オンゴット」をかたどったものであると同時に、悪い「オンゴット」からシャーマンが身を守るために必要なのだと言う。


肩からは、たくさんの細い布がぶら下げられている。

布一本一本がそれぞれ家族たちの「オンゴット」とされ、シャーマンを助けることになる。

儀礼の度に、新しい布を縫いつけていく。

たくさん縫い付けられていれば、それだけ多くの回数の儀礼をこなしてきたことになる。

当然、シャーマンの力の象徴にもなる。


帽子は、黒ライチョウの羽やイヌワシの羽、フクロウの羽などで作られ、額の部分の布には顔が刺繍される。

靴には鳥の足のような刺繍が施され、シャーマンが衣装を一式身にまとうと、鳥のようになるのだ。

どうも、鳥になったり、鹿に乗ったりと話が今一つまとまらないが、とにかくどこかへシャーマンは出向くことには間違いない。


儀礼中はソビヤン婆さんはトバ語を使う。

彼らはトバ人であり、祖先たちと会話をするのなら当然トバ語だ。

正直、勉強不足な私には何を言っているのか分からないのだが、参列者に聞くに、「迎えに来た「オンゴット」と共にどこどこの土地にやってきたところだ」とか、参列者の誰かが胸に思ってる依頼に対して「オンゴット」が何を言っているのかを伝えたりする」のだそうだ。


そして参列者全員が順番に、一人一人呼び出されて、婆さんの前に座らされる。

婆さんが投げたバチを、服の裾で受け取らされる。

婆さんは三度バチを放り投げ、次の受け手を呼び出す。

バチの落ち具合で占いをするのだ。


また、狩猟活動を活発に行う「ツァータン」たちにとっても、シャーマンは重要な存在のようだった。

「ツァータン」たちはトナカイの飼育を行う地域を日常生活の場として「タイガ」と呼ぶのに対して、狩場の場を「ヘール」と呼ぶ。

これはモンゴル語で「草原、平原」を意味するが、“誰のものでもない場所”を暗示し、人間の力が全く及ばない危険な場所を示す。


「ツァータン」は「ヘール」に向かう際、いつも婆さんの所にやってきていた。

人間の世界と「オンゴット」の世界を自由に行き来する婆さんは、いわば二つの世界の出入り口的な存在となっているようで、通常の生活空間から狩場へと行く時に彼女に会ってから行くのは、非常に興味深い現象であった。

といっても、婆さんはお茶を飲ませ、いついつ、誰がどこらへんに行った、という話をべらべらするだけで、特にお祓いや儀式的なことは何もしない。

しかし、すべての狩場の状況に関する情報センターの役割を果たしているようではあった。


婆さんは朝一番に起きるや、誰がいてもいなくても、聞いていてもいなくても、ずっと話し続け、語り続け、歌を歌っている。

そんな人であった。

「歌を録音したいって?
歌なんて忘れちゃったよ、歌えないよ、シシシ。。」と笑って茶を入れながら歌いだす。

そんな人だった。

「タイガ」や「ヘール」のすべてを知っているかのような婆さんは、推定106才で「オンゴット」になってしまった。

きっとどこかの土地を守り、若いシャーマンがやって来た時に、「シシシ。。歌なんて知らないよ」などと言うのかもしれない。

  
                (引用ここまで)


                    *****


>「ツァータン」たちはトナカイの飼育を行う地域を日常生活の場として「タイガ」と呼ぶのに対して、狩場の場を「ヘール」と呼ぶ。
>これはモンゴル語で「草原、平原」を意味するが、“誰のものでもない場所”を暗示し、人間の力が全く及ばない危険な場所を示す。


そうなのだろうなぁ、と思います。

狩場は、〝日常の場所ではない、そして、人間の力が全く及ばない危険な場所”なのだろうと思います。

野生動物との接触は、非日常的な世界なのだろうと思います。

そしてそこに、人間の原点があるのだろうと感じます。


>婆さんは朝一番に起きるや、誰がいてもいなくても、聞いていてもいなくても、ずっと話し続け、語り続け、歌を歌っている。
>そんな人であった。
>「歌を録音したいって?
歌なんて忘れちゃったよ、歌えないよ、シシシ。。」と笑って茶を入れながら歌いだす。


なんだか親しみがわきます。
こういう人、いいなあ、と思います。


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モンゴルのシャーマンの生活(1)・・祖先霊とつながる

2014-03-25 | その他先住民族


モンゴルの草原をこよなく愛する西村幹也氏の「もっと知りたい国モンゴル」のご紹介を続けさせていただきます。

太古の森がかつてあった大地には、今もこのような太古の心を持つ人々が住んでいることを教えていただきました。

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                *****


              (引用ここから)


「アー、疲れた、疲れた」。

もう立っていられないかのように言いながら、婆さんは座った。

しかしこの直前、約2時間もの間、婆さんは歌って、踊って、飛んで、跳ねて、太鼓をたたき続けていたのだ。

「どこまでいったの?誰と一緒だったの?」と尋ねると、

「最初にやって来たのは、ひばりぐらいの大きさの鳥だよ。で、その次は蛇だね。

そして最後に化け物がやって来た。

それで、一緒に行ってきたんだよ」。

婆さんはこの鳥や蛇、化け物の形をした「オンゴット(祖先霊)」と一緒に飛び立ち、とある場所まで行って、そこにいる祖先霊に会ってきた、というのだ。

婆さんの名はソビヤン。

この当時90才代後半という高齢だったにも関わらず、2時間にもわたる儀礼を行った。

秋営地を移動させ、誰もいまだ使っていない土地にやって来て、その土地の低木を抜き、家を建てる場所とトナカイの寝床を作った夜だった。

この土地の精霊、守り神に許可を願い、滞在中の安全無事を祈ったのである。

モンゴルには極度の精神集中状態の中で、精霊などと直接に交信することの出来る特別の人がいる。

モンゴル語では「ブー」といい、男性ブーはザイラン、女性ブーをオットガンと呼ぶ。

いわゆるシャーマンである。

人間の住んでいる世界と精霊の世界を自由に行き来できる存在として、この両世界の調和を維持することを役目としている。

モンゴルでは、チンギスハーン以前の時代より、この「ブー」は生活の場面のみでなく、政治の世界でも大きな力をもっていた。

1600年代以降はチベット仏教にその勢力をそがれ、1930年代の宗教弾圧によって、過去の迷信と喧伝され、社会主義時代に多くが活動を止め、1990年代初頭には山岳地帯にわずかに年配の人が残るのみとなってしまった。

言論、信仰の自由を得た90年代から再び、活動を開始、長い社会主義時代に科学万能の教育を受けた多くのモンゴル人の中で、しっかりと復活を遂げている。

社会主義崩壊による社会不安によって、精神的拠り所がなくなった多くのモンゴル人の中で、いまではウランバートルに「シャーマン連盟」などの組織も存在するに至っている。

しかし都市部におけるシャーマンの活動は、神秘主義的、新興宗教的な色合いも強く感じられ、従来のものとは別物のように思える。


絶対的な自然の力によって支配される遊牧民・狩猟民たちは自然界に対しては一方的に“お願い、感謝”をするだけで、“交渉、相談”が不可能であることを知っている。

しかし人間側にもっとも近い霊的存在と直接に関わることは許されている。

その霊的存在が「オンゴット」と言われる。

この「オンゴット」は、かつてのシャーマンの霊だ。

シャーマンは死後、それぞれに“シャーマンの木”が選ばれ、そこに衣装や太鼓などの儀礼道具一式を掲げ、保管される。

そしてそれぞれのシャーマンは、どこかの土地の守り神として存続し続けるという。

土地の守護神は、かつてのシャーマンの霊なのである。

「ツァータン」達は、それぞれの民族・氏族・家族もしくはもっと大きな集団ごとに“故地”と呼ばれる土地を持つ。

そしてそこにいる「オンゴット」と、ある程度定期的に交信を持つべきであるとされている。

このように自分達の生きる土地が祖先たちによって守られていることを感じ、また、自分達に最も近しい
霊的存在を生活の中で常に意識することで、その土地を守り、また集団としての記憶を今に残すのに一役かってきたのが、シャーマンなのだ。


モンゴル人のシャーマンを「古代の信仰を守る」などと言うように妙に神秘的に扱う人々もいるが、シャーマンの活動は、現在そこに生きる人々を守る為に繰り広げられるのだ。

それは時には現代の文化的なグローバリズムに対する抵抗をするための唯一の、そして強力な武器ともなっており、決して未開の信仰なのではない。

トバ人にしてみれば、大多数を占めるモンゴル人に対して、自分達の独自性を文化的に維持させるのに、同じ祖先を祀り、その集団への帰属心を養い、維持するためにシャーマンは存在し続けているのではなかろうか?

「ツァータン」たちの話では、かつてはそれぞれの氏族ごとにシャーマンが存在しているのが普通だったと言う。

最低でも季節ごとに一度、月が出る夜に儀礼を行い、自分達の生活の状況を伝え、尋ね事をするのだと言う。

病気の原因を尋ねたり、いなくなった家畜の居所を尋ねたりと依頼は多岐にわたる。

おおよそ普段の生活で出くわすすべての問題の解決を、シャーマンに依頼するのだ。

「病気になったらどうするかって?

まずはシャーマンに原因を聞くよ。

治らなかったら?

その時は、今度は仏教僧に聞くかな。このあたりにはいないけどね。

で、それでも駄目だったら、仕方がない、病院にいくね」。1990年代半ばの話であるが、こんな話を聞かされた。

モンゴル中央から見捨てられたかのような土地で、頼りになるのはシャーマンだけだという状況を暗に示しているようだ。


             (引用ここまで)


              *****


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トナカイに乗ってやってきた人々・・モンゴルの少数民族

2014-03-23 | その他先住民族


引き続き、西村幹也氏の「もっと知りたい国モンゴル」から、西村氏が愛してやまないモンゴルの大草原を描いた部分のご紹介をさせていただきます。


リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                *****


              (引用ここから)


モンゴル高原の大部分を占めるのはモンゴル国であるが、だからといってモンゴル人だけが住んでいるわけではない。

モンゴル国では公式に自国内に2民族の存在(モンゴル民族とカザフ民族)を認めているが、実は第3番目の民族が存在している。(本当はもっといるが)

それがトバ民族である。


母語であるトバ語はチュルク系言語であることから文法的にはカザフ語とほぼ同じであるといってよいが、モンゴル語から入ってきた語彙が多い。

またチュルク系言語を話す民族の多くがイスラム教徒であるのに対し、彼らは仏教もしくはシャーマニズムを信仰の中心に持っている。

言語的にはカザフ民族に近いのだが、宗教などの点ではモンゴルとの関わりから深い影響も受けている。

まるでモンゴルとカザフの中間にあるかのような人々だという印象がある。


さて、このトバ民族の中に、トナカイを飼いながら、針葉樹林帯(タイガ)に住む人々がいる。

「ツァータン」と呼ばれる人々である。

「ツァータン」という言葉は、「トナカイを持つ人」を意味するモンゴル語だ。

草原地帯で馬、牛、ラクダ、山羊、羊を飼うモンゴル人たちにとっては、雪が深くて草原家畜を飼って暮らせない森林の奥深くから、トナカイに乗って人がやって来たのだから、かなり奇異な存在に見えたことだろう。


しかし「トナカイを持つ」彼らが、自分達を「ツァータン」と自称するようになったのは、それほど昔のことではない。

彼らは圧倒的多数のモンゴル民族の中で、母語を忘れるなど、様々にモンゴル化が進む過程で、彼らも自らを「ツァータン」と自称するようになってきている。

モンゴル遊牧民にとっての家畜と、「ツァータン」にとってのトナカイとでは、実は意味合いがまったく違っている。

モンゴル遊牧民は家畜を増やして、余剰分を食肉にまわしたり、大規模な群にして乳などを日常的かつ大量に得ることを第一の目的としている。

つまり家畜を飼うことが、中心的生業となっている。

しかし「ツァータン」たちにとってのトナカイというのは、本来交通輸送手段としての利用が第一である。

トナカイを“たくさん増やす”ことに意義を見出すようになったのは、社会主義時代にモンゴル民族主導でモンゴル的牧畜経済を押しつけられ、トナカイ牧畜への依存度が高くなったからなのである。


彼らの主な生業は本来、狩猟採集漁労であった。

つまり彼らの日常的な食料は、狩りの獲物や自生の植物、木の実、魚などであったのだ。


モンゴルでは1960年代ごろからトナカイ牧畜の大規模化が始まる。

群の単位は数百頭に及び、“第6番目の家畜”として、当時のソビエトでの鹿肉コンビナートにならって
トナカイ牧畜に力が入れられることになったのである。

同時に狩猟採集漁労文化は、徐々に忘れられていくことになった。

狩猟採集漁労という生活形態は、当時の社会主義において「未開社会」を意味した。

それらから脱却して高度な文化生活をすることが、正しい進歩であるとされていたからだ。

しかしそもそも見通しの悪い森林地帯での大規模群飼育は困難であり、また暑さを嫌がり寒さを好むトナカイの性質は、これを飼育する人々に大きな負担を強いることとなる。

社会主義システムが支えてくれてどうにか成り立っていた大規模群飼育は、社会主義崩壊を契機に中小規模(10から30頭)群飼育に戻っていった。

さらに社会主義時代にはもらっていた賃金収入がなくなったため、これもまた、以前のように換金可能な物資を調達しに狩りへと出かけることになっていった。


とこらが、彼らの社会環境は社会主義以前と大きく異なってしまったのである。

つまり、狩猟自体が許可制になってしまったのだ。

いや、実質全面禁止に近い。

“自然界がものをくれていれば生活できる”はずだった彼らの生活は、“密漁、密猟がばれなければ”、という厳しい条件が付くことになっていった。

さらに「森林資源保護」という名目で、一律に木の伐採が禁じられ、これもまた彼らの生活を大きく圧迫することとなっている。


密猟をしたら、また木を許可なく伐採したら、とんでもない額の罰金を払わされることとなっているのだ。

トナカイ遊牧民と紹介されたり、時には「幻の民族」などとマスコミに取り上げられる「ツァータン」であるが、そのどれもが本当の彼らを知らずに、彼らを取り巻くモンゴル人たちが一方的におしつけたイメージにすぎない。

彼らにしてみれば、モンゴル北方のタイガ地域を自由に暮らしていたのに、気がついたら国境線が引かれ、移動もままならなくなり、少数民族に追いやられ、自分達を理解してくれないモンゴル人たちに勝手に名前をつけられ、生業も変えられ、社会主義崩壊と同時に投げ出されてしまい、先住民族の権利と人権を守れ!と叫びたいところだろう。


            (引用ここまで)


               *****


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草原の掟・・モンゴルで生きるすべを学ぶ

2014-03-21 | その他先住民族


「3億年前の森を再現」

中国北部の内モンゴル自治区に約3億年前に広がっていた太古の森の様子を復元することに、中国と米国の研究チームが成功した。

米科学アカデミーの紀要に発表した。

チームは、内モンゴルで約1000平方メートルにわたって掘削調査を行い、火山灰に埋もれた地層から約3億年前の植物の化石を集めた。

6つのグループの植物を特定することに成功、高さ10~15メートルのものが多かったが、25メートル以上になるものもあった。

(復元図は米「科学アカデミー紀要」提供)


               ・・・・・


この小さな新聞記事を大事にして、時々眺めていたのですが、これだけでは短いので、この太古の森が存在したモンゴルの大地について書かれた本を読んでみました。

西村幹也氏の「もっと知りたい国モンゴル」から、西村氏が愛してやまないモンゴルの大草原を描いた部分をご紹介します。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****

             (引用ここから)


「モンゴルってどんなところですか?」とよく聞かれる。

モンゴル民族たちの住む、日本の10倍近い広さの土地のことを、簡単に答えられるはずもない。

「えーと、こんなところだよ」とか言いながら変なポーズをとってみせることもある。

そのポーズがすべてを表現できるとも思えないが、言葉で表現するよりは、“不可解な感じ”が残って、イメージを固めさせないかもしれないと思うのだ。

むろんそんなポーズで相手が納得してくれるはずもなく、そのまま無視されて、次の質問をされることも多い。

「大草原って何も無いですよね?何も無い所に行って何が楽しいんですか?」とも聞かれる。

時間が無い時には、けっして何も無いとは思わないのだが、「何も無いからおもしろいんですよ。だって何も無い状況って見たことないでしょ?日本で。」と答える。

時間がある時は、「何も無いようでいて、見える人や分かる人にはたくさんの情報を得られる土地であり、それをもとに生活が成り立っています。

現地の人々のそういった自然を見つめる視点を探るのが、楽しいんです」と答える。

そして、例を挙げて話を始めることになる。

確かに普通に眺めれば、“何もない所”という表現が非常にぴったりくる。

しかし、そこには草原がある。

河がある。

空がある。

動物もいるし、虫もいる。

人工物が極端に少ないだけだ。

見上げればとてつもなく広い青空、もしくは星空が広がり、とてつもなく広い空間へと自分の意識は誘われる。

すぐ目の前の地面に目をやると、そこにはアリンコが走り回っていたり、いろいろな花が咲いていたり、変わった形をした草の葉が生えていたりの小さな世界が存在し、その小さな空間に意識を向けて楽しむこともできる。

人間の都合も何もおかましなしで様々に営まれる生命が無数にあって、それがとても美しく感じられる。

おまけにそういった観察をするだけでも相当な時間が必要になり、いくら時間があっても足りない。


草原での滞在中に、「何もやることがない」とぼやく人もいる。

そんな人には「○○になってみた気持ちでこの草原にいてみたら?」と言ってみる。

たとえば羊になったつもり。

普通だと、遊牧民になったつもりで羊の群れを見に行き、遊牧民の行動を観察して真似る。

確かにこれも楽しい。

しかしさらに一歩を進めて、“羊になったつもり”になるためには、羊と一緒に行動しながら羊の真似をするところから始めなければならない。

ただ動き回って草を食べているだけに見えるかもしれないけれど、羊が食べる草と食べない草があることに気付くと、ぐっと彼らの気持ちに近づける。

馬の気持ち、牛の気持ち、山羊の気持ち、ネタは尽きない。しいてはタルバガンの気持ち、ついには草花の気持ちに、石の気持ち。。


ところで、そんなことして何になるのだろう、ばかばかしいと思うかもしれないが、草原を知るための第一歩なのだと私は思っている。

都市部で生きる人間は、周囲の人間にある程度気を使って行動する。

周囲の人間の目を気にし、そこからはみ出さないように生きる。

周囲に人間しかいないから、気にすべきは人間なのだが、草原であれば、人間の方が少ないので、気に掛けるべきは人間以外のすべて、と言うことになる。

つまり草原にあるさまざまな自然現象に配慮しながら、そこからはみ出さないようにして生きるということが、本来要求されるはずなのだ。

周囲に他人がいないからといって好き勝手をしていいということにはならないはずで、草原の“暗黙の掟”に従うのが、道理というものなのだ。

そして“草原の掟”は、“草原を知る”ことに始まる。


「こんな所では暮らせない」と言って、草原を“こんな所”と表現する人もいる。

「草原での生活は素晴らしいでしょう?」よりも、「草原での生活は不便でしょう?」と聞かれることの方が多い。

モンゴル人からも、そう聞かれる。

タイガ(針葉樹林帯)に冬籠りした時も、ほとんどのモンゴル人から、「大変だったでしょう?」と半分は奇異なるものを見るかのように、半分は馬鹿にするかのように言われた。

実際に暮らしている人々がいるのだから、ここに“暮らせない”のは、その人が暮らし方を知らないだけのはずだ。

“暮らそう”と思う者にとって必要なすべてのものを、草原は与えてくれる。

遊牧民はそれらを、わずかな道具で利用しながら生きてゆける。

一人で生き抜くだけの力を持っている。

ところがぽつんと一人で草原に立つことが、私にはできないのである。

いくら学歴や職歴、経済的優位を振りかざしてもまったく無意味なのが、草原という所なのだ。

そんなものを振りかざせばそれだけ、自分がみじめになってくるのだ。

草原にいると、否応なしに自分の大きさを思い知らされてしまう。

威張っても、気張っても、出来ることは出来るし、出来ないことは出来ない。

いくら「日本だったら」とか「パソコンがあれば」とか言ってみても無意味だ。

そしてこれらの言い訳が通用しないとなると、「草原を人間にとって都合のよい形に変えるべきで、それが人間や科学の進歩と発展だ」などと言いだす。

しかしそれは、敗北を認めずにルールを変えようとしているだけだと、私は思う。

“草原の掟”を変えることなく、そこでしっかりと地に足をつけて生きる術が存在し、それを守りながら草原を守ってきた人々がいる。

そこに学ぶことなくして、ルールばかりを自分に都合よく 変えてしまうことに大変危惧を感じる。

遊牧民の生活は、自然を変えないことを前提に営まれる。

草原やそこに存在するものすべてを慈しむかのような、今は亡きあの爺さんのまなざしと、「草原を知れ」と言った言葉の意味の深さは、草原に対する深い謙虚さと愛情から生まれてきたものだと私は確信する。

草原を受け入れ、草原を愛するものしか、そこに存在できないし、存在してはいけなのだとも思う。

もしかすると、人間は草原に試されているのかもしれない。

草原に生きるにふさわしいか否かを。

   
            (引用ここまで)


              *****

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死者を抱き起こしてろうそくを見せる・・隠れキリシタンの世界(5・終)

2014-03-19 | 日本の不思議(現代)



宮崎賢太郎氏の「カクレキリシタンの信仰世界」のご紹介をさせていただきます。

いよいよ葬儀の式次第が紹介されます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

     
              *****

           
             (引用ここから)

「戻し方」の式次第

1・おじ様(神父)は自宅で「おまぶり」を2枚作り、「サンジュワン様」の「聖水」を打って清める。

「おまぶり」にクロスを引き(十字の印をする)、自分にもクロスを引く。

「申し立て」の中で、「エレンジャ(異教徒)払いと戻し方の時に言葉をまちがえないようにという祈願をする。

普通の水を瓶に入れ、「おまぶり」は紙に包んで持っていく。


2・死者の部屋に入ると挨拶もせず、上座に着いてから挨拶する。


3・御膳の上にろうそく、マッチ、「おまぶり」を入れる盃、茶碗、お水の受け皿を用意させる。


4・死者の顔にかけてある布を取ってもらい、「これから「戻し方」をいたします」と、オラショの「御恩札」を上げる。


5お茶が出る(実際は酒)。

この時、アニマの名(洗礼名)を尋ねる。

「世界の・・(死者のアニマの名前を言う)、悪の世界より「御前」に召し取られましたので、なにとぞ生きしょうの内に誤りました罪咎を御許しくださいまして、七日七日四十九日が間、御導きくださいまして、道の流浪などいたしません様に、パライゾの異状どころにお助け下さいます様に」と申し上げる。


6・死人を抱き起す。


7・用意されたろうそくに火をつけてもらい、手に取り、

「・・さん、これからじさん(=おじ様=神父)がお光を見せますから、このお光の行くごとく行くことですよ」と2回繰り返す。


8・ここからが「戻し方」の「お言葉」となる。


(1)「いかにクロース(十字架) 自ら かからせたまう

人間の悪 のけ給いや 御印

一心に くらみなし 拝み奉る

人間の悪 のけたまいや 逃げるためにべきものなり

尊き八日の七夜様(聖体)を 授かる人は

この「御コンタツ(ロザリオ)」の ご功力をもって

いつも 天のパライゾ(天国)なり アメンゾー」

と唱え、第1回目のろうそくを、死者の顔に向かって、一息で吹き消す。


(2)ローソクに火をつけてもらい、「11条」のオラショを唱える。

ここで第2回目のろうそくを、死者の顔に向かって吹き消す。

その後は、ろうそくはつけたたままにしておく。


(3)「あー あさましや あさましや あさましや

花の都をふりすてて

花の都をふりすてて 花の都をふりすてて

七谷八谷 七谷八谷 七谷八谷

たの水かかるは今ばかり 世界のお水のかけしまい 世界のお水のかけしまい 世界のお水のかけしまい
 アメンゾー」

と唱え、「お水」をかける。


こぼれる水は受け皿にとってもらい、その水は人に踏まれないような場所に捨てる。

この水は、おじ様(神父)が家から持ってきた普通の水である。

ここでおじ様(神父)が自宅で「聖水」を打ち、ロッカンを唱えた「おまぶり」2枚を、死者に「お土産」として持たせる。


(4)「しろきんしょう(白き衣装)を見せ申す 

しろきんしょうを見せ申す しろきんしょうを見せ申す 

しろきんしょうに巻かれ申す しろきんしょうに巻かれ申す しろきんしょうに巻かれ申す アメンゾー」


この時、親指を死者の顔に当てて、クロス(十字)を引き、布を被せる。


9・オラショの「御恩札」を上げ、

「世界の・・(死者のアニマの名を言う)、悪の世界より御前に召し取られましたので、なにとぞ生きしょうの内に誤りました罪とがをおん許し下さいまして、七日七日四十九日が間 御導きくださいまして、道の流浪などいたしませんように パライゾの異状どころに御助けくださいますように」

と申し上げ、死者にクロスを引き、自分にもまたクロスを引く。

ろうそくの火を消す。


10・「戻し方」が終わり、別座でお神酒、魚、飯、汁、膾の膳が出される。

「申し上げ」をしてからいただく。


11・おじ様(神父)は自宅に戻り、「お着きの御恩札」をオラショであげる。



そして喪家では、キリシタンの「戻し方」が済むと、僧侶を迎えて通常とまったく変わらない仏式の葬式が営まれる。

「カクレキリシタン」は真正の仏教徒でもあることを忘れてはならない。

だいだい「カクレキリシタン」の家であっても、普段は主として仏教に比重のかかった宗教生活を送っている者の方がむしろ多いことを忘れてはならない。

そして、仏式の葬儀が終わると、出棺後、ただちにオラショを唱えることが出来る人を3人雇い、オラショを唱えながら「塩・お水(聖水)・オテンペシャ」で、死者の家と和尚さんが近所にとった宿元の「家払い」を行う。

歴史的にはこの「家払い」は、仏教関係者が立ち寄ったことによって生ずる穢れを祓うというものであったと思われるが、現在は死者による黒不浄を家の中より祓うという意識が強いと思われる。

          
             (引用ここまで)


              *****


>そして喪家では、キリシタンの「戻し方」が済むと、僧侶を迎えて通常とまったく変わらない仏式の葬式が営まれる。

迫真力のあるキリシタン式の葬儀をすませると、お坊さんを呼んで仏式の葬儀にとりかかる・・なんともすごい世界です。

キリシタンであるために斬首された祖先をもつ方々の、壮絶な世界観に圧倒されました。


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隠れキリシタンの世界(4)・・二重のお葬式・仏教の汚れを祓って天国をめざす

2014-03-17 | 日本の不思議(現代)



宮崎賢太郎氏の「隠れキリシタンの信仰世界」のご紹介を続けさせていただきます。

次は葬儀に関する部分です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                *****


              (引用ここから)


「経消し」・・二重の葬儀


潜伏時代には寺請制度により、必ずどこかの寺に属し、仏式の葬式を強いられ、死者が出れば旦那寺の僧侶を呼び、不審なことがないかどうかを確認してからでなければ、納棺することもできなかった。

キリシタンの「他界」は、「天のパライゾ=パラダイス」である。

キリシタンの「パライゾ」と仏教の「極楽」は別の場所であると考えられていた。

仏式で葬儀が行われた場合、キリシタンであった先祖たちのいる「パライゾ」には行けない。

なんとしてもキリシタンの葬儀を行い、「パライゾ」に戻らなければならない。


そのために編みだされた方法が、「経消し」であった。

仏式の葬儀が営まれる前に、あるいは、執り行われている最中に、またはそれが終わってから、僧侶が唱えた経文の効力を消すための「オラショ」を唱え、再度、キリシタン式の葬式を行ったのである。


潜伏時代から今日まで、仏式とキリシタン式の二重の葬式が行われてきた。

福江島でも、家の1階では仏式で、2階では〝隠れキリシタン”のやり方で、同時に葬儀が行われていた。

恐らく世界中のいかなる民族、いかなる宗教においても、二重の葬式を営んでいるところは、他にはないのではないだろうか?

彼らは「先祖の守ってきたやり方を、子孫たる自分たちも忠実に守っていく。それが自分達の信仰である」と言う。

一方、僧侶の方も、〝カクレキリシタン”(隠れキリシタンの現在の後継者)達のこのような旧来のやり方に対して、非難めいたことは言わない。


歴史的にも、仏教とキリシタンは共存の関係であった。

江戸時代においてキリシタン取締りの監視役的な任務を負わされた寺側としても、潜伏キリシタンたちが檀徒としての務めを十分に果たし、お上に対しても恭順の態度を示し良民である限り、知らん顔で放置しておいた。

ことを明らかにすることは、キリシタンにとってはもちろんのこと、自分達にとってもいかなるお咎めがあるやもしれず、またすべての檀徒を失うことにもなり、なんら益は無かったのである。

したがって葬式に際してなされる二重の葬儀は、「経消し」という仏教否定の側面が歴史的に存在したということは事実であろうが、少なくとも最近ではむしろ逆に、キリシタン式の葬儀も仏式の葬儀も、共にご利益があると考えられている。

葬儀の時、僧侶は座敷でお経を唱え、〝カクレキリシタン”の関係者は別室で「オラショ」を同時に唱える。

現在の〝カクレキリシタン”で仏教を否定する者はいないのであるから、二重の葬儀における仏教否定の意味はまったく存在しないと言ってよい。


この関係は、〝カクレキリシタン”と神道との間にも言える。

われわれはキリシタン、仏教、神道というように、それぞれが独立したファクターであるかのように観念的に理解しては、真の姿を見誤ることになる。

日本の民衆宗教において仏教と神道を明確に分離することが不可能であるように、〝カクレキリシタン”においては一層、それが重層的に混融しているのである。


生月島・平戸地方では、葬式のことを「戻し」、または「戻し方」と言う。

外海・五島地方では「送り」と言う。

「戻し」、「送り」とはいったい何をどこに戻し、送ることであろうか?

カトリックでは人間は神によって創造されたもの、つまり命は神によって与えられたものであると考えられている。

「戻し」「送り」という言葉がかなり古いものとすれば、カトリックの教えによって死者の魂を本来あるべき場所、すなわち神の家である「パライゾ(=パラダイス)」に「戻す」=「送る」という考えであったろう。

このことは生月島に存在する「御霊(おたましい)入れ」、「御霊抜き」という考え方に通ずるものがあ
る。

水も掛け軸も「御霊を入れる」ことにより命を与えられ、「御霊」を抜かれることで、その命を終える。

それと同様に、人間も「お授け」によって御霊を入れられ、「アニマ」を有する生命ある存在になり、「戻し」によって「アニマ」を抜かれることによって、死が成就する。

「授かった「お授け」を戻す」という言葉は、このように解釈できるのではなかろうか?


納棺に際して、死者にまつわる思い出の品や、死出の孤独な旅の途中、さまざまな災厄から身を守る「お守り」を持たせてやるという習慣は、死者に対する残された者のせめてもの思いやりの表現である。

キリスト教でも、死者が生前愛用していた十字架やロザリオを持たせてやるということは、昔も今も一般的に行われている。

潜伏時代もキリシタンたちは、厳しい幕府の監視下にあって様々な努力を行った。

1626年に大名・大村純長が幕府に提出した「キリシタン取締り施策書」を見ると、キリシタンたちは棺にキリシタンの道具を入れたり、死者の衣に十字を縫い付けたりしたらしい。


生月島では、どこの地区でも死者のお土産として、紙の十字架である「おまぶり(お守り)」が用いられる。

おじ様(神父)は自宅で「おまぶり」を2枚作り、「お立ちの御恩札」としてオラショを唱える中で「サンジュワン様」の「聖水」を打って「おまぶり」に「御霊」を入れる。


死者が出たら、「戻し方」の前日に「風離し(かざばなし)」を行う。

「風離し」とは、悪霊、外道などその人についている悪い風を離す儀礼である。

とくに頓死、変死、野山で死んだ時に邪を払うためである。


死者に対して「風離し」を行い、死者の身を清めてから、「戻し」を行う。

「風離し」は生前、重態の時に行うこともある。


生月島壱部地域では、「風離し」の時は4人のオラショを唱える人が必要である。

二人は「風離し」を行い、あとの二人は「お七百」を唱える。

「風離し」には、病者の全快を祈って大豆をいった(芽が出ないように)ものを撒く。

大豆は悪霊が嫌うから使うという。

生きている人に対する「風離し」には133個、死者の場合は63個撒く。

壱部地域では、大豆を1個撒くごとにオラショを一回唱える。


まず最初に大豆を部屋の北東南西と四隅に打ち、本人にも打つ。

大豆を撒く時には、縁の戸を少し開けておいて、悪霊が外に退散できるようにする。

カトリックでは臨終の時に、その人の生前の罪を許し天国に行けるように「終油の秘蹟」を行うが、この「風離し」は「終油の秘蹟」の変形ではなかろうか?


             (引用ここまで)

              *****

>生きている人に対する「風離し」には133個、死者の場合は63個撒く。
>壱部地域では、大豆を1個撒くごとにオラショを一回唱える。
>まず最初に大豆を部屋の北東南西と四隅に打ち、本人にも打つ。
>大豆を撒く時には、縁の戸を少し開けておいて、悪霊が外に退散できるようにする。

豆を一粒撒くごとにオラショを一回唱えるとは、膨大な時間と手間をかけて、ていねいに行われているということだと感嘆しました。

キリストも悪霊を追い出す力をもつ方でした。

このような所でこのような形でそれが引き継がれているとは、驚嘆しました。


wikipedia「病者の塗油」より

病者の塗油(とゆ)は、カトリック教会の七つの秘跡のひとつ。

福音書の中でイエス・キリスト自身が病人をいたわり、癒し、病気の原因と考えられていた悪霊を追い出した。

使徒たちもイエスと同じように病人を癒した。

ヤコブ書5章13節から16節では初代教会において、病人が罪の許しを願い、教会の長老たちによってオリーブ油を塗られ、祈りを受けている様子が描かれている。

カトリック教会はこの伝統を引き継ぎ、病人の癒しのために、聖なる油を塗り、病人のために祈るという儀式を続けてきた。

儀式の流れは初めに祈りがあり、聖書の朗読および連願が行われ、中心的な部分である塗油が行われる。

ついで聖体拝領と祝福が行われて儀式が終わる。

この聖体拝領は特に臨終の人にとっては最後の拝領として大きな意味がある。


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地獄と申するは、暗き処にもろもろ天狗にまた天狗・・隠れキリシタンの世界(3)

2014-03-15 | 日本の不思議(現代)


引き続き、宮崎賢太郎氏の「カクレキリシタンの信仰世界」のご紹介を続けさせていただきます。

筆者は、現在も長崎の小島に現存する隠れキリシタンの世界をつぶさに見ています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****

          (引用ここから)


「上がり様」

四旬節の終わり=「悲しみの上がり」、すなわち復活祭に相当するもの。

入りの日から数えて46日目を「上がり様」としている。

年間の諸行事の最後を締めくくる行事とされ、この日に役の交代式が行われている。


「四十日目様」

「上がり様」より40日目にとる。

カトリックではキリストが復活(=上がり)して40日目に昇天した祝日にあたる。


「お授け」

「お授け」は洗礼である。

キリスト教における「洗礼」は「再生」を意味し、“豊かな死と復活”の象徴的儀礼である。

「洗礼」の意義については、キリシタン時代においても、明治時代の復活期においても、また現代においても、ほぼ共通した教えがなされてきた。


キリシタン時代の代表的な「教義書」である「ドチリイナ・キリシタン」には、

「バウチズモ(=洗礼)とはキリシタンになるサカラメント(=秘跡)なり。これをもてヒイデス(=信仰)とガラサ(=恩寵)を受け奉り、オリジナル科(=原罪)と、その時までに犯したるほどの科(とが)を許し給うサカラメント(=秘蹟)なり」

と述べられている。


「洗礼」とは神より信仰と恵みを受け、罪を許されて信者として認められる儀礼であるという。

ある親父様(神父)は「人間に生えている角を取るためである。角は罪を意味する。人間の罪を取り去り、キリストの身内になることである」と洗礼の教義の核心をついている。


「オラショ」

オラショとはラテン語のOratio(聖歌)に由来する言葉で、キリシタン時代より親しく用いられ、現在にいたるまで〝カクレキリシタン”の間で用いられている。

生月島・壱部地域で歌われている「サルベレジナ」は以下の通り。


                   ・・・

あわれみの御母 皇妃にてまします

御身に 御礼をなし奉る

われらが一命 かんめい

頼みをかけ奉りて 流人となる、ようなる子供に 御身は

しゃくびようなし奉る この涙のためにて、うめき泣きて 御身に願いを かけ奉る

これによって 我らが御とりなしの、あわれみの御まなこを、我らに見向かわせたまいや

またこの流浪の後は、御体内はたあくにてまします、りょうすは、我らに 見せ給いや

深き御にゆうなんなり、深き御あいりんなり、すぐれて天子まします、びるぜんまりや

かのたあとき、でーうすの御母キリスタン、おの約束を受け奉る、身となる様に

たのみ給いや 、あんめいぞーすまりや

                  ・・・

この歌は、西暦1600年に長崎で刊行された祈祷書「おらしょの翻訳」では以下のようになっている。

                   ・・・

あはれみの御母 后妃にてまします 御身に御礼をなし奉る。われらが一めい、かんみ

たのみをかけ奉る 御身へ おれいをなし奉る。

るにんとなる エワの子ども 、御身へ

さけびをなし奉る。此な涙の谷にて うめき泣きて 御身に願いをかけ奉る。

これによて 我らが御とりなして、あはれみの御眼を われらに見むかはせたまへ

又此るらう後は 御胎内の たつときみにてましますゼズスを 我らに見せたまへ。

ふかき御にうなん、深き御あいれん、すぐれてあまくまします ビルゼンマリヤかな。

デウスのたつとき 御母キリシトの 御やくそくをうけ奉る身となるやうに、

たのみたまへ。アメン

                   ・・・

「地獄様の御歌」

この歌の成立は、17世紀中期のキリシタン潜伏時代初期の 生月島の信徒によるものと思われる。

生月の聖地・中江の島で殉教した人々を慕い、パライゾ(パラダイス・天国)を望む、美しく哀しい歌である。

                    ・・・

参ろうやな 参ろうやな パライゾの寺にぞ 参ろうやなあ

パライゾの寺と申するやなあ、広い寺とは申するやなあ

広いか狭いかは わが胸にあるぞやなあ

                   ・・・

「ぱらいぞのひらき」

この歌は、生月島壱部地域のオラショ。

キリシタン時代の教科の香りがどことなく残っているように感じられる。

「パライゾ」は天使や聖人、そしてデウスを直接に拝むことのできるところであるとされ、天国・地獄の観念の核心を突いている。

                   ・・・


ぱらいぞう「天国)と申するは、天月星、もろもろのはんじょう(アンジョ=エンジェル=天使)、びわと(ペアト=聖人)にかぎり、おのれの喜び こうむる処なり

いんへりど(インフェルノ=地獄)と申するは、大地なそこ(底)に、暗き処に、かの天狗に、もろもろ天狗にまた天狗のしたがい、人間のありま(アニマ=魂)限りなし、苦しみ受くる処なり

                   ・・・               

                (引用ここまで)


                 *****


隠れキリシタンの方たちは、日本で西洋の文化を受け入れた最初期の方たちだと思いますが、西洋と東洋が混ざり合った、独特の世界を創り上げていることに感嘆します。

信仰に命をかける、という生き方も、日本人としては特異な生き方だと言えると思います。


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お守りと、開けずの箱・・隠れキリシタンの世界(2)

2014-03-13 | 日本の不思議(現代)


引き続き宮崎賢太郎氏の「カクレキリシタンの信仰世界」のご紹介をさせていただきます。

著者はご両親が隠れキリシタンの子孫であられ、平戸の近くの生月島という島を中心に研究していらっしゃいます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

隠れキリシタンの継承者である現在のキリシタンの方たちの宗教用具・用語の説明が続きます。

     
                *****

              (引用ここから)

「おまぶり」

「おまぶり」とは「お守り」のこと。

生漉きの半紙をはさみで縦横3,4センチ大の十字の形に切って作る。

現在カトリックにおいては紙で作った十字架をお守りとすることはないが、キリシタン時代初期に島原の信徒が、紙に書いた十字架を戸口に糊で張り付けて「まぶり」としていたことがフロイスの「日本史」に見える。

現在も生月島の〝カクレキリシタン”の数件の家に、16~17世紀のキリシタン時代に宣教師たちがヨーロッパからもたらした青銅の十字架が伝えられているが、厳しい迫害時代においてはとても全家庭に行き渡ることはできなかった。

そこでせめて紙でよいから、キリスト教徒のシンボルである十字架の代用となるものを求めたのだろう。

しかし時が経るにしたがって、十字架がキリストの贖罪のシンボルであることが次第にわからなくなり、ただ呪力をもち、悪霊を祓う聖なる道具、すなわち「護符」に転化していき、現在のように「お守り」として用いられるようになった。

キリシタン時代においても、十字架の力によって悪霊に取りつかれた病人が癒されたという記録が散見される。


「おまぶり」を切る前には、手を塩で清める。

切られた「おまぶり」は「サンジュワン様」と呼ばれる「聖水」で清め、「お魂(たましい)入れ」をしてから用いられる。

一度「聖水」で清められると、けっして粗末に扱ってはならない。

正月の「家払い」の行事の時、各信者の家に、「護符」のように「お守り」として配布される。


「野立ち」の行事では、村の中で悪霊が取りつきやすい危険な場所をお祓いした後、この「おまぶり」を岩のすきまに棒で差し込んで、悪霊が付かないようにしている。


た葬式の時にも、死者の耳に入れたり、着物の衿に「お土産」として持たせたりする。

また病気の時に「おまぶり」を飲むと言う人もいる。


「オテンペシャ」

「オテンペシャ」は、麻縄をなって作られた46本のひもを束ねたものである。

本来はカトリック教会で用いられた苦行の鞭=ディシプリーンで、自らの身体を血が出るほどに鞭打って苦行を行ったのである。

「オテンペシャ」は、「悲しみの入り」から「悲しみの上がり」までの46日間(=カトリックの四旬節に相当する)に、一日に一本ずつ、なわなければならないとされている。

したがって「オテンペシャ」は、46本の紐からなっている。

現在の生月島の〝カクレキリシタン”の間では、神道の神主が用いる御幣と同じような用い方をされている。

悪霊を祓うための機能を果たしている。

昔は病人に対しては、病魔払いとして「オテンペシャ」を用いていたという。


「お札様」

「お札様」は、カトリックの「ロザリオの十五玄義」に由来するものである。

キリシタン時代の17世紀初期に日本人の手によって描かれたと言われる宗教画「ロザリオの十五玄義」が、2枚現存する。

キリストの生涯に対するマリアの主な「喜びの5場面」=「告知、訪問、生誕、奉献、聖殿発見」、「悲しみの5場面」=「ゲッセマネの苦しみ、鞭打ち、棘の戴冠、十字架担い、磔刑」、「栄えの5場面」=「復活、昇天、聖霊降臨、聖母被昇天、聖母戴冠」の15場面をいう。

「ロザリオの15玄義」には、これらの15場面がその絵の周囲に描かれ、中央には聖母子像が大きく描かれている。

「お札様」は、これらの15の場面の意味を、墨で小木片に書き記したものである。

キリシタン時代には、このお札を見ながらロザリオの祈りを唱えていたのだろうか?


「お札様」は、“小組”(小グループ)の“頭”の家に保管されている。

“頭”が任期を終え、役が他の者に移動すると、「お札様」も一緒に移動する。

「お札様」は通常2組あり、それぞれ「男様」、「女様」と呼ばれている。

「お札引き」は男性と女性に分かれ、それぞれ「男札」、「女札」の入った袋の中から一枚を引き、吉兆を読むのである。


「お札仲間」には、数えの15歳で入る。

〝カクレキリシタン”社会における成人式の意味を有していたと見ることが出来る。

昔は「お授け=洗礼」を受けていなければ入ることは許されなかったが、現在は洗礼を受けないで入る者がほとんどである。

「お札様」は「ロザリオの15玄義」という典型的なカトリックの信心用具が「おみくじ」に変容しているものと見られる。


「ロザリオ・メダイ・十字架・布きれ・人物像・鏡など」

「ロザリオ」、「メダイ」、「十字架」はキリシタン時代において信徒がもっとも欲しがったものである。

キリシタンに改宗すれば、仏壇を放棄し、位牌を焼くように指導された。

「ロザリオ」の完品を見ることは少なく、多くの場合は断片になっている。

「ロザリオ」の数も少なく、ある程度行き渡るにはいくつかに切断しなければならなかったかもしれない。

「メダイ」は最も流布したらしく、一般的には真鍮のような金属製であるが、中にはアワビのような貝殻を彫って作った「メダイ」もある。


「十字架」には祭壇に置くためのものと、ペンダントのように首からかけるタイプの金属製のものがあるが、キリシタン時代のものはあまり見かけない。


「布きれ」は、「ロザリオ」や「メダイ」など、あるいはそれらを入れた箱を包んでいたものかもしれないが、その「布きれ」自身も先祖より伝えられたものとして大切にされている。

その他にお公家さんのような姿の人物像や布袋様、鏡などが、昔からの伝承品として伝えられている。

これらの伝承品は、一般に正月の間に取り出されて、家庭のおける個人の願立てに廻っててきたしかるべき人に拝んでもらう。

「ロザリオ」、「メダイ」、「十字架」などは、箱にしまって秘されており、しばしば「開けずが箱」と言われた。

他見を許さないものもある。

潜伏時代からの先祖の伝承が、そのまま受け継がれているものである。


一般的には正月の三が日に取り出してお祀りしている。

これらの品々は「お神様」とよばれている。

先祖代々大切な品としてその家に伝承されてきた。

いわば形見のような意味合いが強いように思われる。


               
              (引用ここまで)


                *****


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隠れキリシタンの世界(1)・・聖水サン・ジュアン様で清め、魂を込める

2014-03-11 | 日本の不思議(現代)


「ひですの経」に心ひかれ、宮崎賢太郎氏の「カクレキリシタンの信仰世界」という本を読んでみました。


著者は父方が長崎市の潜伏キリシタン、母方は浦上の潜伏キリシタンの子孫という方です。

自らの血の中にあるキリシタンの思いを感じながら、今なお現実に続く「隠れキリシタン」の伝統について研究しておられます。

そして、現在も続いている信仰の継承者たちは、すでに隠れる必要がないのだから「隠れキリシタン」とは呼べない、というのが著者の考えで、著者は現代の「隠れキリシタン」の継承者の方たちを「カクレキリシタン」と名付けて、区別しています。

調査対象の長崎県の生月(いきつき)島は、平戸から橋伝いにある島です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****


             (引用ここから)


「カクレキリシタン」の行事の基本形は、まず「御前(ごぜん)様」に供え物をお供えして、「オラショ」を上げ、神様からの「お下がり」を受けて、なおらいの神人交流を行い、さらに宴会に移って、垣内(講のメンバー)の親睦を深める、というようになっている。

毎回の行事において異なるのは、この「神寄せ」の「オラショ」を唱える際の「申し上げ」にある。

あとは、ほぼ一定の形式に則って進められる。


             (引用ここまで)


               *****

〝御前様”とはなにか、〝オラショ”とはなにか、、筆者は生月島の〝カクレキリシタン(現在の隠れキリシタンの継承者)”達の宗教世界を紹介するために、主な宗教用具・用語の説明をしています。


               *****

    
              (引用ここから)


「御前様(ごぜんさま)」

「御前様」は生月島の数ある彼らの信仰対象の中でも最高の位置を占めるものである。

人物像を描いたものを掛け軸に仕立てたものである。

人物の中にはキリスト像、マリア像、聖母子像、聖人像、聖書の場面(受胎告知)などがあるが、もっとも多く見られるのは聖母子像である。

潜伏時代初期はまさに西洋画であったものが、時代を経て古くなると描き直され(これを「お洗濯する」という)、これを重ねるにしたがって、次第に日本化していった。

「御前様」という名称は、狭義にはお掛絵をさすが、広義には祭壇に祀られているものすべてを指して言う。

一般にツモト(おやじ役の自宅)にしつらえられた四角い木製祭壇に飾られ、普段は扉が閉められ、行事のときだけ開けられる。


諸行事のほとんどは、まず祭壇の「御前様」に初穂(お神酒と魚)を供え、オラショをあげて、様々な願い事をするという形式をとっている。

祭壇の扉を開け、「御前様」を参詣するには、一定の手続を要する。

通常はまず風呂に入って体を清め、御用着物を着て「御前様」を汚すことのないように準備を整えなければならない。

それから祭壇の前で神寄せをして「何年何月何日、誰がなんの目的で「御前様」に参詣しようとしているのかの「申し上げ」を行い、引き続きオラショを唱える。

終われば再度感謝の「申し上げ」とオラショを唱え、祭壇の扉を閉じる。


外部からの訪問者が、ちょっと拝見したいというようなことは慎むべきである。

彼らにとって神様は生きた存在なのであり、一つ間違えば彼ら自身に大きなたたりを及ぼすかもしれないと信じられているのである。

〝カクレキリシタン”は、行事を行うにあたって「エレンジャ払い=異教徒払い」のためのオラショを唱えているのである。



「お水(サンジュワン様)」


隠れキリシタンの信仰が継承されている地区においては、かならず「お授け(洗礼)の儀式が伝えられ、水は不可欠なものとされ、特定の聖なる場所より採ったものが用いられる。

外海地域には「バスチャンの井戸」があり、平尾地域には殉教者「お六人様」が用いた井戸がある。

生月島のカクレキリシタンは、島のどこからでも見ることのできる中江の島から採った水を用いる。


中江の島では1622年、武士ジュワン(ジュアン)やダミアンなどが殉教している。

中江の島には、殉教した3人を祀るといわれている祠がある。

祠があるところから30メートルほど行くと、お水を取る場所がある。

どんな日照りの時にも隠れキリシタンの役職たちが行ってオラショをあげると、岩の間から水が涙のようににじみ出てくるという。

隠れキリシタンでない人が行っても「お水」は出ないという。

岩の裂け目に木の葉を差し込んで水を伝わせ、一升瓶に集める。

しばらくしても出ない時は、一通りのオラショを何回か上げるうちに必ず出てくるという。

また「家払い」の時など、「お水瓶」を抱いて各家を回るが、戻って来た時には出発した時よりもその「お水」が増えていることがあるという。

そのようにして中江の島から取られた水は「お水」、さらには「サンジュアン様」と呼ばれる。

「サン」は聖なるという意味である。

「お魂(たましい)入れ」といって、その水を更に古い「お魂」の入った「お水」で清めて、「聖水」とする儀式がある。

「お魂」が入れられた「お水」は、何十年たっても決して腐らないという。

「お魂」の入れられた「お水」は「お水瓶」に入れて保存されるが、この「お水」が一種の神様として非常に大切なものとされている。

「お水」は「お授け(洗礼)」、「家払い」、「野立ち」、「餅ならし」、「“おまぶり”(お守り)の御霊入れ」、葬式の時の「家清め」、「新船の魂入れ」、「石塔の魂入れ」、「仏壇の魂入れ」などに用いられる。

腹痛などの病気の時にも飲ませたりしたという。


              (引用ここまで)

(本の表紙の絵は上の大きい人物がゼウス、左側が肩から羽の生えた天使、右側がイエスを抱くマリア) 
               *****


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17世紀のキリシタン本「ひですの経」 内容判明・・創造主デウスの存在説く

2014-03-09 | 日本の不思議(中世・近世)



                 ・・・・・


「ひですの経」 内容判明 創造者デウスの存在説く・・イエズス会が出版
                          読売新聞2012・05・16


1611年にイエズス会が長崎で出版した宗教書「ひですの経」の詳細が明らかになった。

1907年に独ベルリンの古書店目録で紹介されて以降、存在が知られるだけだった「幻のキリシタン版」。

3年前に存在が確認され、専門家が調査を続けてきた。


「ひです」はラテン語で「信仰」の意味。

本の大きさは縦27・9センチ、横19・3センチ。

折井善果慶応大専任講師が2009年、米ハーバード大図書館に所蔵されているのを確認。

豊島正幸東京外語大教授、白井純信州大准教授らとともに解読した。


その結果、スンペイン人説教師のルイス・デ・グラナダが1583年に著した「使徒信条入門」(全4巻)の第1巻の抄訳で、創造主デウスの存在を説く内容と判明。


翻訳者は不明だが、大村純忠・大友宗麟ら九州のキリシタン大名が1582年にローマに派遣した「天正遺欧少年使節」の一人、原マルチノが校閲に関わっていたことが、収録されていたポルトガル語の出版許可状でわかった。



注目されるのは表記の特異さ。

天使を意味する「アンジョ」は「あんじょ」」と表記するのが通例。

しかし「ひですの経」では「あんじょ」の他に漢字で「安如」と記していた箇所があった。

また、古代ギリシア哲学者のアリストテレスについても、最初は「ありすとうてれす」だったのがとちゅうで「ありすとうてれ」に変わるなど、表記が統一されていなかった。


白井さんは「漢字による当て字は、イエズス会のコレジヨ(学校)の教科書など、書写した書物でよく見られる。本来出版物には用いられない用字が「ひですの経」では多用されている」と指摘。

「金属活字が払底した後、木製の活字でおぎなったり、漢字を変体仮名と認識したり、他のキリシタン版にはない特徴が随所に見られることと合わせ、キリシタン弾圧が強まっている時期に混乱している中で刊行されたのではないか」と推測している。


内容については「原典にある記述が一部削除され、付け加えられた部分があった」と折井さんは指摘。

追加部分には、神秘主義的な学説で知られる新プラントン主義思想の影響が見られるといい、「イタリアのルネサンスの流れの中で、新プラントン主義の著作がイエズス会に流布していたことがうかがえる」と話す。


他にも、裏表紙の補強に使われていた反故紙が、記述の異なる本書の断片だったことが判明。

改訂が行われていたことも分かった。

プレス印刷の痕跡を示す圧印なども確認されている。


本書はキリシタン版の制作過程や、宗教史、日本語史、印刷史など、多岐にわたる研究分野の貴重な新出資料として注目を集めそうだ。

「ひですの経」の高精細カラー写真複製本は八木書店、校注本は光文館からそれぞれ刊行されている。


○キリシタン版

イエズス会がヨーロッパの活版印刷技術によって日本で出版した書物の総称。

ローマ字本の他、日本の文字で書かれたものもある。

1590年の宣教師バリニャーノによる印刷機搬入に始まり、禁教令にともなって1614年で終わりを迎えた。

布教伝道のための本の他、「平家物語」や「イソップ物語」を訳した「伊曾保物語」、「辞書」などが伝わる。

・・・・・

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イスラム世界と中国・・増えるエジプトへの留学生

2014-03-07 | アジア


〝中国の今”を取り上げた朝日新聞の別刷り「The Globe」には、次のような記事もありました。

                            朝日新聞2013・04・07



                ・・・・・

「イスラム世界の中国人」

中国の外に暮らす「中華民族」という場合、意識されるのはたいてい漢族だ。

だが、中国の経済活動が中東やアフリカにも広がる中で、イスラム教徒である「回族」が、中国とイスラム世界の接点になりつつある。


「学生がアラビア語を学びます」
「学生がサッカーをします」

教師が黒板にアラビア語で簡単な例文をかいて朗読し、学生たちが復唱する。

エジプト・カイロにあるイスラム教学の最高学府アズハル大学。

その留学生向け基礎コースだ。

世界140か国から、4万人のイスラム教徒が集まる。

この5,6年、急増しているのが中国人の姿だ。

研究教育の責任者、アリ・アブドルバキ氏によると、現在の中国人留学生は1534人。

「中国とエジプトの関係が緊密になっている証拠でもある」という。


アズハル大学の留学生寮の近くには、中華料理店もある。

留学生が母親とともに2年前に開いた。

料理人も中国からの留学生だ。

本格的な中華料理を安く提供する店は、いつもにぎわっている。


中国の人口に占めるイスラム教徒の割合は1・5%程度だが、絶対数では約2000万人もいる。

13世紀のモンゴル帝国が中国から西アジアまで支配したころ、多くのイスラム教徒が中国に入った。

ウイグル族などの少数民族以外に、漢語を話すイスラム教徒は「回族」と呼ばれ、全土にイスラムコミュニティーがある。

一方、カイロなどアラブ世界の商店には、衣服や雑貨、電気製品など中国製品があふれる。

中国国営メディアの新華社は、2005年にカイロに中東総局の新ビルを建て、ほとんどの記事をアラビア語に翻訳して配信している。


雲南省出身でアズハル大アラビア語科4年生の青年は、卒業後の進路について、「将来は故郷でイスラム教育をしたいが、しばらくはお金を稼ぐために広州の会社でアラビア語通訳として就職することも考えている」と語った。

やはり雲南省からきている回族の留学生は、故郷ではイスラム学校の教師で「アブドルワハーブ・ベン・アダム」というイスラム名を持つ。

「イスラムの最高学府で、アラビア語で学問を究めたい」と意気込みを語った。

イスラム教徒として中華文化を担っているという意識とともに、国境をこえたイスラム文明の担い手という意識が共存している。(川上泰徳)


                ・・・・・


中国の中のイスラム教文化についても、後に紹介してみたいと思います。


関連記事

「スミレに宿る神と、誰もいない王座・・マニ教研究・その5」

「マニ教研究・その6・・中国での盛衰」

「環太平洋文明があった・・中沢新一「熊から王へ」(5)

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中国人とはクールにつきあえば理解進む・・楊逸(やんいい)芥川賞作家

2014-03-05 | アジア


同じく朝日新聞の別刷り「The Globe」の「中国の今」を取り上げた記事中に、次の記事もありました。
                               2013年4月7日

              ・・・・・

中国人あるいは華人とはどういう存在なのか?

日本人は中華民族とどう向き合っていけばいいのか?

日本生活が25年になる中国出身の芥川賞作家・楊さんに聞いた。


●問

大陸にいる中国人と、楊さんを含め外国にいる華人は、どこが違い、何が共通しているのでしょうか?

●楊

本国を離れて外に出ている人は、より客観的です。中国にいると、どうしても報道される情報に左右され、同じ考え方をしてしまう。

外に出れば、そこでの報道も見られる。

自分の体験なども総合して、自分自身で考える。

中華文化とはなにかということについて、大陸にいる人よりは多角的に考えられるのではないかな。

一方で、どこにいても、歴史上の「中国が中心」という中原的な考え方はある。

他国の人に比べて、自己中心的かもしれない。

この20年ぐらいで中国がすごく発展し、誇りをもつようになると、文化大革命がなければもっと発展していたはずなのに、といった思いも持つ。

それでも、長く外国で暮らすうちに、国の発展は、その国の文化にも影響されていると思うようになった。

かつては中国の文化はいつの時代も政治に抑圧されていた、と考えていたのですが、実はそういう政治をさせるのも、そういう文化だからじゃないのかな、と考えるようになりました。



●問

中国独自の国の形があるわけですね?

●楊

人の価値観の根底には、文化がある。

中国人は儒教というか、家父長制ですよね。

家の中では親が一番大事な存在で、権威がある。

文化大革命を経験しても、それほど変わったと思わない。

結婚したら旦那のために男の子を産まなければと考える。

国レベルにしても、党大会で指導部が変わったけれど、権力をどんどん集中していくわけでしょう?

分散は絶対にしない。

そういう役割の人たちだからと、誰も文句を言わない。

権力組織の在り方、中国人の生き方。

基本的に変わっていないのではないか。



●問

国外の中国人にも、そうした文化はしみこんでいるのでしょうか?

●楊

文化的DNAは、強く残っている。

日本の中華街に親戚が住んでいるので、多少わかる。

米国の中華街でも、中国人の文化的DNAはしっかりと生かされている感じはしますね。

たとえば中国人は家族単位で動く。

日本に来れば、家族を日本に呼びたいと考える。

でも、もし日本にいる米国人が日本人と結婚したとしても米国人の兄弟たちは来ないでしょう。

中国人からすれば、不思議に思いますね。



●問

東南アジアなどでは、ビジネスで成功した華人財閥が現地の経済を動かしています。

中国人には商才があるという見方はできますか?

●楊

やはりメンツを重んじるという部分がある。

成功して、見せびらかしたりなんかする。

そのためにがんばる。

また、いったん出てきたからには、何かを持って帰らないといけない。

故郷に錦を飾らないと。

そうすると、家族親戚を呼んで、何をしたら一番成功できるか、考える。

一人に商才があれば、親族の中でリーダーになり、みんな一緒に頑張ればなんとかなっちゃう。



●問

メンツへのこだわりはどこから来るのでしょう?

●楊

儒教社会でしょう。

何が名誉なのか?

中国人の子どもに将来なにになりたいかと聞くと、偉い人ばかり答えます。

日本だと、看護師さんや保育士さんとか答えますね。

それだと中国人の親は、何でそんなに地味なの?育てがいがない、と思う。

日本人や他の外国人はいろいろな人生がありえるけれど、中国人の多くは出世することしか頭にないですよ。

日本のエリートと中国のエリートでは意味が違う。

中国では、家にエリートが一人出ると、周りの人たちにも出世やら、道が開けるのですから。



●問

儒教は中華民族というより、漢族の文化ですね?

中華民族という意識は各民族の間でどの程度、共有されているのでしょうか?

●楊

中華と漢族は本当は違うけど、漢族の人はイコールと思っているんですね。

少数民族はそう思っていないかもしれません。



●問

日本人は大陸や海外に広がる中華民族の方たちとどう向き合っていけばよいと思いますか?

●楊

友好とか、きれいごとを言わないで、クールにお互いの利益を考えることでしょう。

その方が、感情的にならないでうまくいく。

個人同士の場合には、文化から入ることでしょう。

文化に親しめば、相手のことも分かってくるのでは。

政治の問題には、判断がつきにくいものもある。


                   ・・・・・

wikipedia「楊 逸」より

楊 逸(やん いー、本名:劉 莜(りゅう・ちょう、「ちょう」は草冠に「攸」)、1964年6月18日 - )は日本の小説家である。

中国ハルビン市出身、中国籍。

2008年、「時が滲む朝」で第139回芥川賞受賞。

中国籍の作家として、また日本語以外の言語を母語とする作家として史上初めての受賞となった。

略歴

父はハルビンの大学で漢文を教えていたが、1970年1月に文化大革命で蘭西県の農村に下放され、1973年9月にハルビンに戻る。

中学生の頃、日本にいる親戚が送ってきた日本の都会の風景写真を見て日本に憧れる。

ハルビンの大学に進学し、会計学を専攻するが、将来に不安を感じて卒業の半年前に中退。

1987年、留学生として来日。

この時点では日本語が全く分からなかったため、パソコンの外枠の組み立て工場や、中華料理店での皿洗いなどの仕事をして授業料を稼ぎ日本語学校に通った。

歌手の松田聖子が歌うカセットテープをゴミ捨て場から拾って、それを日本語の聞き取りの勉強に使ったりもした。

お茶の水女子大学文教育学部地理学専攻卒業後、繊維関係の会社や在日中国人向けの新聞社勤務を経て2000年に中国語教師となる。

この間、1991年に結婚して2児をもうけるが、2001年に離婚。

2005年頃から反日デモの影響で仕事が減ったため、小説を書き始める。

2007年、「ワンちゃん」で第105回文學界新人賞を受賞し小説家としてデビュー。

2008年、「ワンちゃん」で第138回芥川賞候補。

同年、「時が滲む朝」で第139回芥川賞受賞。

2009年より関東学院大学客員教授、2012年より日本大学芸術学部文芸学科の非常勤講師に就任。

なお、主として無国籍の研究を行っている早稲田大学国際教養学部准教授・陳天璽とは従姉妹(陳天璽は、楊逸の母の兄の娘)になる。


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「〝英語の次に中国語”有益」

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ネアンデルタール人と現世人類

2014-03-03 | その他先史文明


「現代人は旧人との混血だった?・・遺伝子の1~4パーセントは旧人由来」
                         読売新聞2010・08・19

●問

我々現代人は、古い人類との混血だったって?

●答

今の人類であるホモ・サピエンスに、旧人といわれるネアンデルタール人の遺伝子が混じっていた。

約40000年前のネアンデルタール人の骨の化石からDNAを取り出し、世界5地域の現代人の遺伝子と比べた。
そしたら、3地域の現代人の遺伝子の1~4%がネアンデルタール人由来のものだったんだ。


●問

旧人って、現代人の祖先じゃなかったの?

●答

ネアンデルタール人は共通の祖先から50万年前以降に枝分かれし、別に進化したと考えられている。

いわば今の人類の「いとこ」のような関係で、生物の種としては別なんだ。

大きな鼻を持ち、目の上の骨がでっぱり、腕や脚ががっしりしていた。

脳の大きさは今の人類と同じくらいだったらしい。


●問

今の人類と一緒に生存していた時期があったの?

●答

ネアンデルタール人は約30万年前から3万年前まで欧州や西アジアにいたとされている。

一方、今の人類は約20万年前にアフリカで誕生し、一説には8万年前ごろにアフリカを出た一派が中東を経由して世界に広がっていったと言われている。




●問

混血ということは、今の人類とネアンデルタール人が結婚したということ?

●答

出会いは中東らしい。

10万年前から5万年前のことだそうだよ。


●問

種が違うのに子孫を残せるの?

●答

確かに、違う種の動物が交雑する例はまれだ。

交雑できても一代限りで、子孫あ残らないことも多い。

今の人類にしてみれば、ネアンデルタール人は見た目が大きく違うし、コミュニケーションをとるのも大変だったかもしれない。

果して子孫をつくる関係になれたのかという疑問もあって、交雑はなかったとの考えが有力だったんだ。


●問

旧人って遠い存在だと思っていたけれど。

●答

近年の研究で、ネアンデルタール人の脳の成長スピードは現代人と同じだったことがわかった。

オレンジ色の鉱物を顔料に使っていたような痕跡もあり、おしゃれに気を使っていた可能性がある。

「野蛮な原始人」というイメージはまとはうれなのかもしれない。


             *****


ネアンデルタール人の赤ちゃんについての記事もありました。


             *****



「ネアンデルタール人、1才2か月で乳離れ・・現代人より早い」
                           読売新聞5月23日


現代の人類とは別種のネアンデルタール人は、1才2か月で乳離れをしていたとする研究成果を、米ハーバード公衆衛生大学院などの研究チームがまとめ、23日付の英科学誌「ネイチャー」に発表する。

約2年半かかる現代人よりも、乳離れの時期が早く、出産間隔が短かった可能性がある。

研究チームは母乳に「バリウム」という物質がわずかに含まれていることに着目した。

歯のエナメル質には成長の過程が年輪のように記録されて残ることを利用し、エナメル質のどの部分にバリウムが多く蓄積されているかを調べた。

ベルギーで発見された、8万~13万年前に生きていたとみられるネアンデルタール人の子供の化石から奥歯を取って分析。

その結果生後7か月は母乳だけで、続く7か月は母乳と離乳食の両方で育っていた可能性が高いことがわかった。

現代人の赤ちゃんが乳離れするまでにかかる期間は、社会環境によって異なるが、研究チームによると産業化が進んでいない社会では平均して約2年半だという。

近藤修・東京大准教授「人類進化学」の話・「新たな手法で離乳の時期を推定した興味深い研究だ。ただ分析が一例だけなので、今後の検証が必要だろう」


                 *****


ネアンデルタール人は顔にオレンジ色の塗料を塗っておしゃれをしていた、と書かれていましたが、
ホモ・サピエンスが10万年前に顔料を作っていた、という記事もありました。

     
                 *****



「10万年前の顔料工房・・南ア、世界最古か」
                          朝日新聞10・27


顔料を作っていたと思われる10万年前の工房跡が南アフリカで見つかった。

顔料は、壁画の材料や顔や体に塗ったと考えられる。

米科学誌サイエンスに発表された。

ヨハネスブルクの研究チームが発見。



洞窟内から、黄土がついたアワビや巻貝と混ぜて顔料にしたらしい獣骨や炭、すりつぶしたり砕いたりするのに使う石器などがみつかった。

これまで6万年ほど前に黄土を顔料として使った証拠はみつかっていたが、10万年前の顔料工房は世界最古とみられる。

研究者は「粉状にして、いろいろなものと混ぜて貝殻に入れ、保存していたと考えられる。材料を使って保管する考えがあったことをうかがわせる」としている。

写真上・顔料がアワビの貝殻に保管されていた
写真下・発掘現場の洞窟


             *****


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