始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

ヤハベはアラーなり、されどアラーはヤハベならず・・イスラームの世界地図(1)

2015-04-29 | エジプト・イスラム・オリエント


21世紀研究会編「イスラームの世界地図」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


            *****

          (引用ここから)


イスラームの教えは、7世紀のはじめにおこった。

「旧約聖書」、「新約聖書」が成立した後、つまりユダヤ教、キリスト教が成立した後だ。

ムハンマドが610年から632年まで、大天使ガブリエルを通じて受けた神の啓示を記したという「コーラン」に、

「「旧約聖書」に登場するアブラハムとその子イシュマエルが、メッカにあるカーバ神殿を建てた」と記されているように、ユダヤ教とはその成り立ちから深いかかわりがあった。

なぜならイスラム教のアラーとは、ユダヤ教徒たちが言うところのヤハベと同じ神なのだ。

ちなみにアラーとは「神」ということであり、英語でいえば「ゴッド」ということになる。

だからアラビア語では、キリスト教徒の神もユダヤ教徒の神も、アラーとなる。

したがってイスラム教では、「旧約聖書」に登場するアダム、モーゼ、イエス・キリスト、ムハンマドに至る人々が、すべて「イスラームの預言者」ということになる。

ちなみに「預言者」とは神の言葉、メッセージを預かった人ということであり、予言者ではない。

唯一絶対の神・アラーは、そうした何人もの「預言者」たちを通じて人々に教えを授けてくれたが、〝称讃される者・平安あれ″、という意味の名前を持つムハンマドが、「最後の預言者」だとされる。

「預言者」たちを通じて伝えられた神の教えも、時代が経つにつれていつのまにか歪められ、世の中が乱れてしまった。

そのためアラーはムハンマドに、正しいアラーの教えを改めて与えたのだとされている。

そして神による最後の教えはアラーの言葉そのもの、つまりアラビア語によって伝えられたとされている。

アラビア語を読める者だけが、神の教えを正しく理解できるのだと考えられている。




「コーラン」が、アラビア語で書かれたものしか認められていないのも、このためである。

別の言語に翻訳したりすれば、そこには必ず人間の意図が入り込み、神の声を正しく聞くことが出来なくなるからだという。

だから「新約聖書」のように、各国語に訳されたものを正典とすることはない。

原理主義と言われる人々は、自分たちがムハンマドと同じアラブ人であり、アラビア語が読めるから、ユダヤ教徒・キリスト教徒より神に近い存在だと思っているという。

したがって、キリスト教徒中心の欧米が世界の実権を握っているというのは、不完全な教えを信じている人々が世界を支配しているということであり、経済の格差も、風紀の乱れもすべてそこに原因があると解釈されているのだ。


私達は、イスラム教徒とアラブ人を同じように考えてしまうことがある。

「旧約聖書」のあの〝方舟″で有名なノアの息子、セム、ハム、ヤペテが地上のすべての民の祖先とされる。

このうちの長男セムが、ユダヤ人とアラブ人などいわゆるセム一族の祖先になったとされている。

これ以後はセムの子孫の物語が中心になり、セムの子孫アブラハムの長男でありながら、異腹の子どもであったために荒野に住むようになったイシュマエルが登場するが、イスラム教では彼がアラブ人の祖先だとされている。


イスラム世界の拡大によって、アラブとは、イスラーム共同体を構成し、アラビア語を自分の言葉とした人々ということになり、本来の意味での「アラブ民族」という存在が薄れてしまった。

つまり「アラブ人」とは、民族名というよりは文化概念となってしまったのかもしれない。

その上、アラブ世界とは言っても、そこにはアラビア語を話すキリスト教徒もいるので、必ずしもアラビア語をアラブの基準とするわけにはいかない。

また、北アフリカのベルベル人や、東南アジアの諸国の人々のようにイスラームの教えは受け入れても、言葉は変えなかったところもある。


言語だけでは〝イスラム教徒″、〝アラブ″をくくることができないとなると、あとは本人がアラブ人だと自覚しているかどうかというところに行きつくのだろう。

ところがこのように〝アラブ”という民族が意識されるようになったのは、ごく近年になってからのことだという。

こうした意識は、19世紀、オスマン帝国の支配下にあったエジプト、レバノン、シリアなどでおこったアラブ復興運動がやがて政治運動に発展し、20世紀になってからのユダヤ国家の建設問題に対抗する形で高まっていったものなのだ。

さらに中東戦争、欧米との対立によって〝アラブ″としての統一、イスラム教徒としての連帯などが強く意識されるようになっていったともいう。




イスラーム国家の中には、「原理主義」を合法的に採用している国もある。

「原理主義」という言葉がキリスト教世界の用語であることはすでに述べたが、この言葉は、むしろ「イスラーム復興主義」、「イスラーム主義」という方が適切だろう。

実際、こうした言葉が使われ始めている。

近代化を図りながらも西欧型社会を否定し、自分達の教えにできる限り忠実な社会を目指そうというものだ。

それは預言者ムハンマドが目指した〝ウンマ″=イスラーム共同体を起こし、社会道徳の根本であるイスラームの法に厳格に従う社会のことだということだ。


その代表的な国家がスンニー派のサウジアラビア、シーア派のイランである。

サウジアラビアでは1992年になってようやく統治基本法=条文憲法が発布されたが、そこではこの国が「コーランとスンナに基づくアラブ・イスラーム国家である」と規定されている。

哲学思想、神秘主義といった思想はイスラームの教えから逸脱したものだと否定し、聖者信仰や死者の墓(名を刻むなどしたもの)を強く否定した。

それはアラー以外のものに信仰心を持つのは多神教だ、という解釈によっている。

また、1979年のイスラーム革命後のイランは、その憲法の中で、「すべての法と条例はイスラームの諸基準に基づかなければならない」としている。


            (引用ここまで)

写真(中)は14世紀のコーラン。大型版で、モスクで会衆が朗読するときに呈示された。
写真(下)は9世紀建立のモスク。
                    「イスラーム歴史文化地図」より



              *****


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自由すぎる首相は、未来への責任をとれるか?・・朝日新聞、がんばる。

2015-04-25 | アジア


               ・・・・・

「〝わが軍″、自由すぎる首相・・タガ外せば歯止め失う」
                     朝日新聞2015・03・29


自衛隊を〝わが軍"と表現した、安倍晋三首相。

この発言に限らず、戦後日本の政治が守ってきた一線を超えるような発言が目立つ。

一連の言葉から見える政治的な思考の恐れについて、長谷川・早大教授と杉田・法大教授に語り合ってもらった。


「発言で攻撃、自由すぎる首相、野党もメディアも反応に鈍さ」


○杉田

耳を疑うような、首相の過ぎた発言が相次いでいます。

●長谷川

自衛隊を〝わが軍“と呼び、管官房長官も、「自衛隊も軍隊の一つ」と追認しました。
「自衛隊は戦力にあたらない」というのが、戦後日本の一貫した建前です。
戦前・戦中の、軍による国政専断の可能性を断ち切り、人々が自由に生きる空間を切り開いたことこそが、「憲法9条」の意義です。

○杉田

近年、「建前」は空虚な見かけとして、否定的にとらえられることが多く、軽んじられています。
しかし「建前」には、原則とか基本方針という意味もあり、重要です。
物事は原則通りにはいかないが、だからといって原則が不要とはならない。
原則を立てておかないと、大きく道を踏み外してしまいます。

●長谷川

国会での、首相の「日教組!」という答弁席からの野次も、なかなかでした。
首相の品格も、国会の品位も関係ない、と。
〝自由すぎる首相″です。

○杉田

行政を監視する役割を持つ国会で、首相と質問者の関係は、口頭試問を受ける受験生と面接官のようなもの。
受験生が面接官にヤジを飛ばすことは、ヤジの内容が事実か事実誤認かという以前に、試験自体を否定する行為であり、許されません。
首相のヤジは、国会への侮辱といってもいい。
なぜ「不信任決議」の話すら出ないのか?
〝自由すぎる首相″のもと、野党もメディアも「首相たる者」、「内閣と国会の関係とは?」という根本を見失っているのではないでしょうか?

●長谷川 

国会議員の、国会での発言については、憲法で免責特権が認められています。
全国民の代表として、幅広く、自由に議論を展開する必要があるからです。
しかし国務大臣は免責されない、というのが憲法学界の通説です。
国務大臣は、政策遂行について説明責任を果たすために、国会で答弁をするのであって、一議員として同じ立場で自由に発言することは認められません。

○杉田

安倍さんは、昨年衆院解散を表明した当日に、民放ニュースに出演し、街頭インタビューについて「偏っている」という趣旨の発言をしました。
これを国会で質されると、「言論の自由だ」と。
しかし一般市民の意見に首相が反論することが「人権」なのか?
それこそ、市民の言論の自由を、委縮させかねません。

●長谷川 

反論は、してもいいと思います。
ただし、それは「言論の自由」の問題ではない。
あくまでも、説明責任を果たす観点から行われるべきでしょう。
ましてや、番組の編集権への攻撃という形でなされるべきではありません。
「放送法第1条」 には,「放送の不偏・不党、真実及び自律を保障することによって放送による表現の自由を獲得すること」とある。
なにが不偏不党かは、あくまでも各放送局が自律的に判断する、という趣旨です。



「戦後日本の建前を尊と認識・・議論省いた、トップダウンが目標」 


○杉田 

政府与党は、情報の発信力において圧倒的に有利な立場にある。
ゆえにメディアも含めて、ある程度、政府与党に対抗的であることが全体としての公平性につながる。
政府側と、それに対する評論に、機械的に同じ時間を割り振ることが「不偏不党」だというのは、実は偏った議論です。

●長谷川 

編集の自律は、そうであるように見えるという「見かけ」も、とても重要です。
外部の人間が、編集に実際に介入するのは論外ですが、首相が番組の編集に文句をつけたり、与党が「公平中立」を放送局に要求したりすること自体が、編集の自立の見かけを壊す。
そのリスクの大きさを、安倍さんは理解していないようです。


○杉田 

それぞれが正しいと思うことを発信し、議論したり、せめぎ合ったりする中で、公平性や公正性は形成されます。
でも安倍さんはじめ、トップダウン型の国家を志向する人たちは、恐らく「なぜそんな面倒なことをするのか?」と思っている。
「効率がわるい」と。

●長谷川 

メディアを含めた社会全体が、トップダウン型の効率的な企業体になるべきだと思っている。

○杉田 

加えて安倍さんの言動のベースには、〝メディア等に不当に攻撃されている“、という被害者意識があるようですね?
首相たる者、メディアや野党の批判も甘んじて受けなければ、などという「建前」に準じていても損だ、と。
しかもそこが一部の有権者の感覚とも共振している。
戦後日本の「建前」に添って過去の歴史を反省していたら、近隣諸国につけこまれ、日本は損をする。
「本音」を表に出すべきだ、と。

●長谷川 

だから戦後日本の「建前」を凝縮したかのような「村山談話」などの談話は「いやだ」と。
本音ベースの「70年談話」を作りたい、という思考の道すじになるのでしょう。



「〝タガ″を外せば目途を失う、「未来志向」は現実逃避」


○杉田 

先日ドイツのメルケル首相が来日しました。
戦後ドイツもさまざまな問題をかかえていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。
「建前」がソフトパワーにつながることを、安倍さんたちは理解しているのでしょうか?

●長谷川 

そもそも「談話」が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念がからまる記憶の問題です。
記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくらつめても、決着はつかない。
厳密な歴史のレベルで、仮に日本側は中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。
相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと、政治的な判断をした。
それが「河野談話」です。

○杉田 

「談話」の方向性や近隣との外交について、安倍首相は「未来志向」という言い方をよくされますが、意図はどうあれ、それが「過去の軽視」という見かけをもってしまえば、負の効果は計り知れない。
安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれませんね?
しかし政治の存在意義は、さまざまな制約をふまえつつ、なんとか〝解”を見出していくところにあります。
政治的な閉塞感が強まる中で、自らに課せられている〝タガ″を外そうという動きが出てくる。
しかしそれで万事うまくいくと考えるのは、一種の「現実逃避」では?

●長谷川

合理的な自己拘束という概念が、吹っ飛んでしまっている印象です。
縛られることによって、より力を発揮できることがある。
俳句は「5・7・7」と型が決まっているからこそ、発想力が鍛えられる。
しかし安倍さんたちは、選挙に勝った自分達は、何にも縛られない。
「建前」も「法律」も、「憲法解釈」も、すべて操作できると考えているようです。

○杉田 

俳句は好きな字数で詠めばいいのだ、と。。

●長谷川 

あらゆる「タガ」を外せば、短期的には楽になるかもしれません。
しかし政権が交代した時、自分達が「時の政府」を踏みとどまらせる歯止めがなくなる。
外国の要求を、「憲法の拘束があるから」、と断ることもできない。
最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。
その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。


              ・・・・・


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うさぎが、鹿よりも小さくなったわけ・・「アイヌ神謡集」より

2015-04-22 | アイヌ


先日の新聞に、北海道の鹿の話が載っており、アイヌのユーカラのことを思い出しました。


            ・・・・・

「エゾシカ、迷わず帰還 釧路―標津の季節移動 環境省が追跡」
                         朝日新聞2015・04・09


北海道の釧路湿原国立公園で越冬したエゾシカが、約80キロ離れた牧草地で夏を過ごし、再びもとの場所に戻ってきた。

環境省が発信器を着けて追跡していたメスで、往路、復路とも同じルートを通っていた。

釧路湿原のシカの季節移動のデータがここまで詳細につかめたのは初めてだ。

数が増えているシカを減らすため、環境省は冬場、湿原東部の達古武(たっこぶ)沼(釧路町)に面した林地に、柵をシートで覆った囲いわなを設置している。

この場所のシカの行動を把握するため、昨冬に成獣のメス2頭にGPSを組み込んだ発信器を取り付けた。
1頭は昨年4月中旬に移動を始め、約1カ月後に80キロ余り北東の標津(しべつ)町の牧草地に到着。

8月下旬に戻り始め、しばらく途中の標茶(しべちゃ)町にいたが、12月17~18日の暴風雪で積雪が増すと、翌日にかけ一気に約20キロ離れた達古武沼に戻った。

行きも帰りも林に身を隠し、国道を横切る場所も空港の迂回(うかい)も同じコースだった。子ジカと一緒だった可能性が高い。



追跡は発信器付きの首輪が自動的に外れた今年2月11日まで続き、ほぼ周辺にいた。

もう1頭は冬も達古武沼周辺から離れず、秋にハンターに捕獲された。

旧式の機器は、その時々の居場所がわかる程度だった。

夏の湿原には、繁殖のため別の越冬地からくるシカもいる。

行動を把握できれば、影響を及ぼすシカを湿原の外で捕獲するなど広域連携で対策をとれる。

同省釧路自然環境事務所は「発信器を取り付けた個体を増やし、効果的な捕獲手法を探っていきたい」と話す。

 
            ・・・・・



この新聞記事を読んでいたら、アイヌのユーカラの一つを思い出しました。

知里幸恵さんが伝えたものです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。




             *****


           (引用ここから)


「うさぎが自ら歌った謡「サンパヤ テレケ」」


サンパヤ テレケ

2つの谷、3つの谷を飛び越え、飛び越え、

遊びながら兄様のあとをしたって山へいきました。

毎日毎日兄様のあとへ行ってみると

人間が石弓を仕掛けておいてあると

その石弓を兄様が

こわしてしまう、

それをわたしは笑うのを

つねとしていたのでこの日もまた

行ってみたら、ちっとも

思いがけない

兄様が石弓にかかって泣き叫んでいる

わたしはびっくりして、兄様のそばへ

飛んでいったら兄様は

泣きながら言うことには

「これ弟よ、今これから

お前は走って行って

私たちの村の後ろに着いたら

〝兄様が石弓にかかったよーー、フォオオーイ″と

大声でよぶのだよ」


わたしはきいて

ハイ、ハイ、と返事をして、それから

2つの谷、3つの谷を飛び越え、飛び越え

遊びながら来て

私たちの村の村後へ着きました。

そこではじめて兄様がわたしを使いによこしたことを

思いだしました。


わたしは大声で叫び声をあげようとしたが、

兄様がなにを言ってわたしを使いによこしてあったのか

すっかりわたしは忘れていました。

そこに立ち尽くして

おもいだそうとしたがどうしてもだめだ。


それからまた

二つの谷を越え、3つの谷を越え

後へ逆飛び逆飛びしながら兄様のいるところへきて

見ると誰もいない。

兄様の血だけがそこらに付いていた。

(ここまでで話は外へ飛ぶ)(原文ママ)


ケトカ ウォイウォイ ケトカ、ケトカ ウォイ ケトカ

毎日毎日わたしは山へ行って

人間が石弓を仕掛けてあるのをこわして

それを面白がるのが常であったところが

ある日また、前の所に石弓が仕掛けて

あると、その側に小さいヨモギの石弓が

仕掛けてある。


わたしはそれを見ると

「こんなもの、何にする物だろう」

と思っておかしいので

ちょっとそれに触ってみた、すぐににげようと

したら思いがけなく

その石弓にいやというほど

はまってしまった。


逃げようともがけば

もがくほど、強くしめられるのでどうすることも

できないので、わたしは泣いて

いると、わたしのそばへなんだか

飛んできたので見るとそれはわたしの弟

であった。わたしはよろこんで、私たちの一族のものに

このことを知らせるようにいいつけてやったが

それからいくら待っても何の音もない。


わたしは泣いていると、わたしの側へ

人の影があらわれた。見ると、

神のようなうつくしい人間の若者

ニコニコして、わたしを取って

どこかへ持って行った。見ると

大きな家の中が神の宝物で

いっぱいになっている。


彼の若者は火を焚いて、

大きな鍋を火にかけて、掛けてある刀を引き抜いて

わたしのからだを皮のままブツブツに切って

鍋いっぱいに入れそれから鍋の下へ頭を突き入れ突き入れ

火を焚きつけ出した。どうかして

逃げたいのでわたしは人間の若者の隙を

ねらうけれども、人間の若者はちっともわたしから

眼をはなさない。


「鍋が煮え立ってわたしが煮えてしまったら、なんにも

ならないつまらない死に方、悪い死に方をしなければ

ならない。」と

思って人間の若者の油断を

ねらってねらって、やっとの事

一片の肉に自分を化らして

立ち上る湯気に身を交えて鍋の縁に

上がり、左の座へ飛び降りるとすぐに

戸外へ飛び出した、泣きながら

飛んで生きを切らして逃げて来て

わたしの家へ着いて

ほんとうにあぶないことであったと胸撫でおろした。


後ふりかえって見ると、

ただの人間、ただの若者とばかり

思っていたのはオキキリムイ、神の様な強い方

なのでありました。


ただの人間が仕掛けた岩弓だと思って

毎日毎日いたずらをしたのをオキキリムイ

は大そう怒ってよもぎの小弓で、

わたしを殺そうとしたのだが、わたしも

ただの身分の軽い神でもないのに、つまらない死に方、悪い

死に方

をしたら、わたしの親類のもの共も、困り惑うであろう

ことを不憫に思ってくだされて

おかげで、わたしが逃げても追いかけなかった

のでありました。


それから、前には、うさぎは

鹿ほども体の大きなものであったが、

このようないたずらをしたために

オキキリムイの一つの肉片ほど小さくなったのです。


           (引用ここまで)

         (改行は原文どおりです・写真は私がイベントで教わって作った「鹿笛」)


            *****


鹿も、うさぎも、愛しい生き物だと、心から思いました。


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生活苦でヤギ盗み食べた・・ベトナム人実習生、岐阜で公判

2015-04-18 | アジア


「生活苦、ヤギ盗み食べた・・ベトナム人実習生、岐阜で公判
借金して来日、毎日20時間勤務、逃走」
                        朝日新聞2015・02・21


               ・・・


岐阜県美濃加茂市で昨年8月に、除草用に飼われていたヤギを盗み、食べたとして、来日していたベトナム人の技能実習生が窃盗罪に問われる事件があった。

岐阜地裁で開かれた公判で、被告の男たちは日本での過酷な生活について供述した。

なぜここまで追い詰められたのか?

起訴状によると、いずれもベトナム国籍の両被告は、仲間5人と共謀し、昨年8月、美濃加茂市の公園でヤギ2頭を盗んだとされる。

除草効果を研究するため岐阜大学教授が市などと協力して飼っていた16頭の「ヤギさん除草隊」の内の2頭だった。

法廷での供述などによると、被告Aは来日前ベトナムの田舎町でタクシーの運転手をしていた。

両親と妻、娘の家族5人くらしで、月給は日本円で16000円ほど。

暮らしは貧しかったという。

日本で働けば月給20万円から30万円。一日8時間労働、週5日勤務で土日は休み。

こんな話を仲介会社から聞き、思いつかないほどすばらしいと飛び付き、来日を決めた。

仲介会社には、自宅と土地を担保にして銀行から借金した約150万円を支払い、2013年3月に農業の技能実習生として来日した。

長野県の農業会社でトマトを育てる仕事についたが、勤務状況は聞かされていたものとはかけ離れていた。

毎日午前6時から夜中の2時まで働き、休みはない。

午後5時までは時給750円。

以降は1袋1円の、出来高払いで、トマトの袋詰めをした。

1000袋詰めたこともあったという。

あてがわれた寮は、農機具の保管場所。

シャワーはあったが、トイレはなく、電源盤の下の約2平方メートルで寝ていた。

家賃として月額2万円が給料から天引きされ、手元には6万円程度しか残らなかった。

それでも可能な限りの3、4万円を母国に仕送りし続けた。

寮と職場を往復するだけの日々。

7か月間我慢したが、疲れてしまい、逃げ出した。

愛知県日進市の土木会社で、仕事を見つけた。

しかし在留期限が切れた14年3月に解雇され、無職になった。

借金を残したままベトナムに戻れば、担保にしている自宅などが奪われてしまう。

家族にも打ち明けられず、スーパーで弁当などの万引きを繰り返した。


同7月頃からはB被告と同県春日井市のアパートで一緒に暮らすようになった。

B被告も無職。

約200万円の借金をして、短期大学に通うために来日したが、学費が払えずに退学していた。

8月上旬、ベトナム人の仲間約20人で誕生日パーティーを開いた際、ヤギを盗む計画が持ち上がった。

居合わせた7人が、車で公園に向かった。

A被告が運転し、B被告が実行役で2頭のヤギを捕まえて、首輪をはずし、粘着テープで口や足をしばった。

ベトナムでは、ヤギは鍋ものなどの庶民の味で、すぐに解体して食べたという。

2人は別の窃盗事件と出入国管理法及び難民認定法違反の罪に問われている。

検察側は今月12日、懲役2年を求刑。

弁護側は最終弁論で、執行猶予付きの判決を求めた。

判決は27日に言い渡される。


             ・・・

岐阜県美濃加茂市で昨年8月、除草用に飼われていたヤギを盗んで食べたとして、窃盗罪に問われた
ベトナム国籍の無職ブイ・バン・ビ被告(22)と、同レ・テ・ロック被告(30)=いずれも愛知県春日井市=の判決公判が27日、岐阜地裁であった。

四宮知彦裁判官は「安易で身勝手な動機で責任は重いが反省し、更生の意欲を示している」と述べ、2人に懲役2年執行猶予3年(求刑懲役2年)の有罪判決を言い渡した。

http://www.asahi.com/articles/ASH2W344FH2WOHGB001.html
            2015・02・27朝日デジタル

            ・・・

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外国人技能実習生、難民申請・・アジア人労働者の問題

2015-04-15 | アジア
                ・・・・・


「難民申請急増、就労目的か?・・今年度最多3600件、法務省是正へ」
                   読売新聞2014・10・18

日本への「難民認定申請」の件数が急増している。

法務省によると、今年1月から9月の申請件数は約3600件で、過去最多だった昨年の3260件をすでに突破し、最終的に4000件を超える見通しだ。

2012年3月の制度改正で、正規滞在の外国人であれば、審査結果が出るまで合法で働けるようになったことから、実は就労が目的の偽装申請が横行していると見られている。

制度改正は審査期間中に経済的に行き詰る申請者への配慮が目的だった。

審査が半年以上に長引いた場合に限り、生活費をみずから稼ぐことを認めた。

また、申請時点で不法滞在の外国人には適用されない。

このため改正後に増えたのは、留学や短期滞在中の正規の在留資格を持つ外国人からの申請だ。

2010年の668件から、2013年は2404件と3倍増超えとなった。

留学ビザで来日した外国人の場合、許可を得て原則一日4時間までのアルバイトが可能だが、「難民認定申請」して半年経てば、職種を問わずフルタイムで就労できる。

同省入国管理局には、日本語学校などから「留学生が「難民認定申請」をして本格的に働き始め、学校に来なくなった」という相談が寄せられているという。

職業技術を習得してもらう目的で、外国人を「技能実習生」として受け入れている農家や製造業者などから、「実習生がいなくなった。本人に連絡をとったら、稼ぎが増えるから難民申請をした」と言われたという相談も相次いでいる。

現行の制度では、難民に指定されなくても、異議申し立てや再申請を繰り返せば、合法で就労できる立場を維持することも可能だ。

異議申し立ての件数は、2010年の859件から2013年は2408件と大幅に増えている。

制度を就労目的に利用できるという情報が、外国人滞在者の間に広がっているもようだ。

申請件数の増加により、審査期間の平均は11年度の5・25か月から、最近は7か月程度まで延びた。

本当に「難民認定」を必要とする申請者の審査が遅れるという弊害も懸念されている。

同省は事態を重く見ており、法省の私的懇談会 「入国管理政策懇談会」が対策を協議中だ。

不適切な申請をあらかじめ排除する事前審査の導入などを検討している。


             ・・・・・



次は、いろいろと問題が多いと言われる「外国人技能実習生」の記事です。

             ・・・・・




「外国人実習制度・・労働力確保の抜け道」読売新聞2014・10・26


介護や林業など、様々な分野での人手不足を補おうと、政府は外国人労働者の受け入れを増やす方針だ。

その柱として拡充が検討されているのが「外国人技能実習制度」。

働きながら技術を学んでもらえる仕組みだが、賃金の未払いなどトラブルが絶えない。

一体、この制度の何が問題なのだろう?


「だまされっぱなし」

「だまされっぱなしだった」。

中国人男性は苦しそうに語る。

「2年前に来日し、今夏まで関東地方の水産加工会社で働いた。

毎月同じように働いたのに、月給は10万から25万円と増減した。給料は社長のさじ加減で決まった。

社長からは何かにつけて「バカ野郎」とどなられ、頭をひっぱたかれた。

外部との接触を恐れたのか、パソコンや携帯電話の所有も禁止された。

それでも我慢したのは、母国で待つ5才の子と妻が仕送りを待つため。

就航準備のために、親戚に多額の借金もしていた。

簡単には帰れない。

未払い賃金の支払いを求めて社長に直談談判したが、「別の者に聞いてくれ」と言うばかり。

その直後、この夏クビになった。

男性は言う。

「日本ではこれが当たり前なのか?」


「ノーと言えない」

「時給300円で働かされた」「妊娠したら帰国させられる契約を結ばされた」――。

民間団体「移住民労働者と連帯する全国ネットワーク」には、実習生からこんな相談が多く寄せられ
る。

実習生といっても日本人の労働者同様、労働関係法の対象になるが、就労ではなく技術を学んでもらうことが滞在目的のため、受け入れ先が倒産などしない限り、自由に実習先は変えられない。

逃亡防止に保証金を徴収されるケースもあり、同ネットワークは「ノーと言えない労働者、まるで奴隷だ」と言う。

悪評は海外にも広がっている。

米国国務省が2014年6月にまとめた「人身取引報告書」では、パスポートを取り上げられたり、劣悪な住まいの賃料として法外な金額を要求されたりしたケースなどを、「強制労働」の事例として紹介。

保護の強化を求めている。

国も手をこまねいているわけではない。

監督指導を強化する方針だが、指導後に受け入れ先が名称を変えることもあり、摘発には限界があると明かす。


「本音と建て前」

問題が絶えないのは、技術を通した途上国への「国際貢献」という制度の目的と実態が、かい離していることが背景にある。

「外国人技能実習生問題弁護士連絡会」共同代表は、「実態は安い労働力を確保する手段で、裏口から外国人労働者を入れるまやかしの仕組みだ」と指摘。

受け入れ先は、もともと労働者の権利擁護の意識が低いところも目立ち、「そこに実習の名目で働かせているので、ますます権利が軽んじられがちになる」と見る。

国が実習の形式にこだわるのは、単純労働の分野での受け入れを認めていないためだ。

高齢者や女性の仕事をうばったり、治安に影響を及ぼしたりしかねない、というのが理由だろう。

「労働者として正面から受け入れると、移民受け入れの是非を巡る議論に発展しかねない。政治的に困難」(厚労省幹部)との事情もある。

制度創設時の関係者は、「当時、中小企業の一部は「きつい・汚い・危険」の「3K」と呼ばれるなど人手不足が深刻で、経済界から受け入れを求める声が強かった。

国の建前も維持しつつ、抜け道として考えたのが、「国際貢献」という建前。

本音は人手不足の打開だった」と振り返る。


「参考になる取組み」

本来の目的から離れたまま、なしくずし的に受け入れを進めてよいのだろうか?

慶応大学の中島教授は「そもそも人手不足は賃金上昇や付加価値の高いサービスを提供する状態に転換するチャンス。安易に外国人に頼ると問題が先送りされ、変革の妨げになる」と指摘する。

実際ある建設業界団体幹部は、「3K職場でも昔は給料が良かったが、今は待遇も悪い。

制度がなければ一部淘汰されていた。

延命策という面もある」と話す。

受け入れ方法をめぐっては、参考になる取組みもある。

韓国は2004年、「雇用許可制度」を導入した。

未熟練の分野の外国人労働者を受け入れる仕組みで、国内に求人がない場合、送り出し国との取り決めにもとづいて、一定期間外国人を受け入れるのだ。

雇用主に、不当な差別をしてはならないという義務も課している。日本総合研究所部長は「周辺国も豊かになり、「安価な労働力」という発想だけでは、近い将来日本に来てくれなくなる。

人口減社会もふまえれば、人が集まらない職種で外国人を秩序立てて受け入れる仕組みを整えるべきだ」と話している。


           ・・・・・



技能実習生の労働環境が良くないという勧告がなされた、という記事です。

           ・・・・・



「中国人実習生の人権を侵害・・長野の組合に日弁連が勧告」
              朝日新聞2014・12・02

日本で働きながら外国人に技術を学んでもらう「技能実習生制度」をめぐり、中国人実習生の人権侵害があったとして、日本弁護士連合会は1日、国内有数のレタス産地・長野県川上村の川上村農林業振興事業協同組合に対し、労働環境を改善するよう勧告したと発表した。

勧告は11月28日づけ。同制度に関して勧告を出すのは初めてだという。

日弁連は2011年から2013年に川上村のレタス農家で働いた中国・吉林省出身の実習生4人に聞き取り調査を実施した。

その結果、

○繁忙期は休日も無く、午前2時から午後5時まで働かされた。

○給料をリーダー格の実習生が管理しており、自由に使えない。

○勤務時間外でも、一目で実習生と分かるよう、常に赤い帽子をかぶるよう強制された。

などの実態が分かったという。

日弁連は、同組合が人権侵害に実質的に関与または黙認したと認定。所管する法務省と厚生省にも実態調査と、実習生制度の廃止を勧告した。

勧告に法的な拘束力はない。

               ・・・・・

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東アジアの軽みこそ、強さである・・「江湖」の精神(東島誠氏)日本は大人になりそこねた(白井聡氏)

2015-04-11 | アジア


イスラム文明もすばらしいですが、東アジアもすばらしいと思うことしきりです。


          ・・・・・


「拡散する排外主義・・大人になりそこねた日本」朝日新聞2014・12・20


ネット空間から「反日」や「売国奴」といった言葉が広がり、メディアにも登場するようになった。

レッテルを貼り、排外的に攻撃する言動が拡散する背景にはなにがあるのだろうか?

この国の歴史と言論をめぐる歩みから考えた。


「江湖」の精神取り戻そうーー歴史学者 東島誠さん


坂本竜馬が理想を求めて土佐を脱藩したときの出港地と言われているのが、伊予国長花(現在の愛媛県大洲市)の「江湖(えご)」の港。

本来の読みは「ごうこ」もしくは「こうこ」です。

「江湖」は、唐代の禅僧たちが、「江西」と「湖南」に住む2人の師匠の間を行き来しながら修行した故事に由来します。

一つの場所に安住することを良しとせず、外の世界へと飛び出すフットワークの軽さを表わします。

国家権力にも縛られない、東アジア独自の「自由の概念」と言ってよいでしょう。

幕末を駆け抜けた竜馬の意思を継ぐかのように「江南」の看板を掲げたのが、明治期の言論界です。

「江南」を名にかんする新聞・雑誌が多数生まれました。

当時は官に対する民、国家に対する市民社会が「江南」でした。

自由民権運動のリーダーだった中江兆民は、東洋自由新聞で読者を「江湖君子」と呼んで社説を書き、晩年は町民自身が「江湖放浪人」などと呼ばれました。

現代では「江南」は全くの死語となりました。

ネット空間においても、わたしは「江南」の精神を見つけにくいと感じています。

「江南」とは正反対の「嫌韓・反中」やヘイトスピーチなど、排外的な主張が溢れているからです。
異論を述べると激しく攻撃され、排除される。

ネットは人々を開くどころか、閉じる方向へと進める役割を果たしていると思います。


「力増す「対外硬」」


ところが明治期を振り返ると、そこには「江湖」の精神が息づいていました。

夏目漱石をはじめとする名だたる文豪が寄稿した「江湖文学」は、無名の読者に投稿を呼びかけて、参加の場を開きました。

同誌の仕掛け人・田岡れい雲は、窮乏していた韓国(植民地支配以前の大韓帝国)からの留学生を援助するため、幸田露伴の妹・幸らの出演するチャリティーコンサートを企画し、「江湖」に対して義捐金を呼びかけてもいます。

しかし「江湖」の精神は、日露戦争を境に衰退していきます。

代わって、政府の弱腰外交をたたき、外国への強硬姿勢を掲げる「対外硬」が力を増し、「下からの運動」が台頭しました。

その頂点が1905年の「日比谷焼打ち事件」です。

ロシアに譲歩したポーツマス条約に不満をもつ数万人の群衆が、日比谷公園に詰めかけ、暴徒化して内相官邸や警察署、政府用語の新聞社を襲撃したのです。

社会派弁護士の花井たくぉうらとの超党派的な政治結社「江南倶楽部」を立ち上げた小川平吉は、早々に「江湖」の世界を離脱し、「対外硬」を推進しました。

さらには政治家として、その後の韓国の植民地化や袁世凱政府への「21か条要求」、治安維持法制定にも深く関与するに至ります。

「江湖」が退潮したもう一つの理由としては、「江湖倶楽部」と共闘して社会変革に取り組んていたキリスト教思想家・内村鑑三のような良心的な知識人たちが、時代の変化とともに内省に向かい、結果として積極的な外への発言を弱めることになった点があります。

かくして「江湖」は「対外硬」に負け、日本は戦争の時代に突入していきました。

ネットの言論空間やデモで「排外主義」が吹き荒れる昨今の状況は、100年前の「対外硬」を思い起こさせます。




「新聞は〝荷車に″」


現代のメディアに「江湖」の精神を復活させる道はあるのでしょうか?

新聞社の主筆も務めた中江兆民は、「新聞は世論を運搬する荷車なり」と語っています。

わたしは荷車での運搬に、汗する肉体労働、そのアナログ感が重要だと考えています

新聞記者は、現場を歩いて取材先の話を丹念に拾うことが大切だと思うからです。

江戸時代に活躍した行商の貸本屋も、重い本を何十冊も背負い、読者を訪ね歩く大変な重労働でした。

彼、彼女らは書物だけでなく、さまざまな情報を直接人と会うことで媒介していったのです。

人々と直接、顔を合わせて交流するその様子は、現代よりもはるかに開かれた社会を感じさせます。

希望や明るさが感じられない時代です。

それでもまだ、考え発言する自由は奪われていません。

既存メディアは、考えるための材料を汗して運搬することを諦めてはいけないと思います。




「大人になり損ねた日本ーー社会思想家 白井聡氏」


「日本人は12歳の少年のようなものだ」。

占領軍の総司令官だったマッカーサーは、米国へ帰国後、こう言いました。

では戦後69年を迎えた今の日本人は、いったい何才なのでしょうか?

このところの「日本人の名誉」「日本の誇り」を声高に言いたてているヒステリックな言論状況をも見ていると、成長するどころか、退行し、「イヤイヤ期」と呼ばれる第1次反抗期を生きているのではないか?、という感じをおぼえます。

中国や韓国は文句ばかりで生意気だから、イヤ。
米国も最近は冷たいからイヤ。
批判する人はみんなイヤ。
自分はなんにも悪くない。

どうしてこんなに子供になってしまったのか?

戦後日本が、敗戦を〝無かったこと″にし続けてきたことが、根本的な要因だと思います。


「欠けた〝敗戦感覚″」

日本の戦後は、敵国から一転、庇護者となった米国に付き従うことによって、平和と繁栄を享受する一方、アジア諸国との和解をなおざりにしていきました。

多くの日本人の主観において、「日本は戦争に負けたのではなく、戦争は終わったこと」になった。

ただしそうした感覚を持てたのは、冷戦構造と近隣諸国の経済発展が遅れていたからです。

冷戦が崩壊し、日本の戦争責任を問う声が高まると、日本は被害者意識をこじらせていきます。

「悪いのは日本だけじゃないのに、なぜ謝らなければいけないのか?」と。

対外的な戦争責任に向き合えない根源には、「対内的な責任」、つまりでたらめな国策を遂行した指導者の責任を〝自分たちの手でさばかなかった″事実があります。

責任問題の一丁目一番地でごまかしをやったのだから、他の責任に向き合えるわけがありません。

ドイツは今も謝り続けることによって、欧州のリーダーとして認められるようになりました。


それのみが「失地回復」の途であることを、彼らはよく分かっているのです。

1990年代には、「河野談話」や「村山談話」のように過去と向き合う動きもありました。

ところが今の自民党のなかには、来年、「戦後70年の首相談話」を出すことで「河野談話」を骨抜きにしようという向きもあるようです。

「河野談話」の核心は、慰安婦制度が国家・軍の組織的な関与によって女性の尊厳を踏みにじる行為であったことを認め、反省と謝罪を表明したことにあります。

この核心を否定するのか?


ここまで来たら、やってみたら、いかがですか?

内輪の論理がどこまで通用するのか、試してみたらいい。

国際社会は、保育園ではありません。

敗戦の意味を引き受けられず、自己正当化ばかりしていると軽蔑されるだけです。



「〝内輪″は脱するべき」

子どもを成熟に導くには、本来メディアの役割が重要でしょう。

しかし残念ながら今、大方がこども相手の商売に精を出している。

「嫌中・嫌韓」本が多く出版され、テレビは「日本人はすごい」をアピールする番組を山ほど作っています。


メディアの非力さは、権力との関係でも露呈しています。

新聞社やテレビ局の幹部が、度々首相と会食しているのはおかしい。

民主政治にとって徹底的に重要なのは、「公開性」です。

そのような常識を、日本の政治家は欠いているのではないか?

だから記者は政治家と個人的関係を築いて情報を得ようとし、〝内輪″のサークルが出来あがる。

「衆院選・投開票日」の報道番組で、安倍首相がキャスターの質問に色をなして反論し、イヤホンを外す、という一幕がありました。

一国の最高権力者がこれほど批判への耐性が弱いことに驚きますが、裏をかえせばそれだけメディアが首相を甘やかしてきたということでしょう。

日本の政治にとっても、ジャーナリズムにとっても害悪でしかない、いびつな〝内輪″文化を変えるべきです。

日本は戦後を通して大人国家になり損ねてしまった。

先進近代国家になったつもりだったけれど、社会の内実はゆがんでいたという苦い事実を、まずは正視するしかありません。

それができないのなら、もはや、〝敗戦″するしかないでしょう。


              (写真は、某寺にてveera撮)


              ・・・・・


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アジアで働く これから何をしていくか?が問われている・・朝日新聞

2015-04-08 | アジア


アジアの一員としての日本、というテーマをずっと考えています。

アジアの一員としての日本、という自覚がしっかりあれば、軸足が定まって、ブレないのではないかと思うのです。

もっと自由に、軽々と生きてみたいと思っています。

           ・・・・・

「働く・アジアという生き方・・成長社会だから、やりがい」
                       朝日新聞2014・12・23

アジアでの新しい日本人の生き方を紹介した連載企画の番外編として、タイの人材会社社長の小田原靖さん、アジアでの現地採用と企業をともに経験した佐藤望さん、知日派タイ人経営者ウイム・マノーピモークさんに、その実情や未来を語り合ってもらった。

「道開く度胸と勇気を」

●アジアで現地採用の日本人が増える理由は?

○今は日経企業で、現地採用で雇わない方が少ない。
日経企業同士でやりとりする場合も多く、日本時が必要とされています。



●佐藤さんは中国、タイ、シンガポールと現地採用で働きましたね?

○はい。中国の縫製工場では、駐在員と現地スタッフとの板挟みでした。
現地社員は、どうして給料がこんなに安いんだ?とくる。
上司はコストカットをギリギリやる。
調整役をしなければいけなくなり、勉強になりました。



●現地採用の待遇は?

○中国での医療は海外旅行保険が使え、帰国手当も出ました。
タイではプール付きのサービスアパートに住めました。
シンガポールでは普通のOLのような暮らしでした。
3か国で貯金もできました。

○今は中小零細企業がたくさん進出していて、駐在員より現地採用の給料が高いこともあるようです。
アジアの方が利益を出しているからと。
駐在員の方が給料が高い、というのは幻想になりつつあります。



●アジアの現地の人材と日本人の違いは?

○海外企業は新人を育てる機能がないので、日本企業で研修を受けて先輩に教えられた人は、バンコクで働きはじめた人より鍛えられていると思います。



●アジアで働くやりがいとは?

○成長社会で、やっただけ結果が出ます。
だから、その会社で偉くなって給料が上がるか、その仕事がうまくいかなくても、周りで見てくれる人がいて持ち上げてくれるか。
どちらでもない場合は、ちゃんとやっていないということです。

○今の日本企業では、現地採用組が日本で企業組織のピラミッドを上がる仕組みはないと思う。
自分の道を切り開く度胸とやりがいと勇気を持たないと、心地よいだけになってしまうでしょう。




「女性で苦労、なかった」

●働く上で、言葉はどれくらい必要でしょうか?

○日本人対応の仕事は「社会人力」があればできますが、職場には現地の社員もいます。
前向きに現地の言葉を学ぼうとしないと長続きしません。

○現地のことばを学ばないと広がりがない。
言葉は会社のためというより、自分を成長させる大事なツールだと思います。

○知人に、中国で現地採用から駐在員になった人がいる。
英語で仕事ができる東南アジアと違い、中国語ができると、日本の本社でも
中国担当で生き残る道があると思います。



●現地採用ではキャリアアップはできますか?

○それが普通だと思います。
わたしはこれまで1か所で1年くらい。
1年8か月働いたのが最長です。



●そんな経験を転職先は評価してくれましたか?

○規模が小さく、自分にまかせてくれる会社からの需要はありました。

○男女格差を感じてアジアに出た人もいます。

○日本より女性にチャンスが与えられると思う。
タイのデパート業界では女性社長が目立ちます。

○女性だから、と苦労したことはありません。

○アジアで起業する日本人も目立っています。

○すごい数で起業しています。
最近はサービス業の起業が多いです。



●佐藤さんはインドで起業しましたね?

○貿易のエージェントをしたいのです。
東南アジアの家具などをインド業者に卸す仕事を考えています。


「やり直せるのがいい」

●老後を含む社会保障の不安はありませんか?

○日本の年金も健康保険も一度も払ったことがなく、自分で稼いでためるしかないと思います。

○十分に支給されるかどうか分からない日本の社会保険に頼るより、自分で稼ぐ方が金額が分かります。



●結婚して子どもを持つと、冒険がしにくいのでは?

○家族を持つかどうかも含めて、人それぞれ、選ぶ道だと思いますね。

○家族を持たない人生もありでしょう。
日本では家族を持つべきだという考えが強くて、まじめに働かないといけなくなり、1年2年とふらふらすることもできない。



●小田原さんは、お子さんが3人と聞きましたが、どうですか?

○親が日本人同士なので、日本人学校に通わせ、一番上の子は北海道の寮のある高校に通っています。
インターナショナルスクールに通った結果、英語もタイ語も中途半端な若者を見てきましたから。

○私は日本で育ち、13才でタイに帰ってきました。
タイ人として生きていくなら、と親が帰してくれました。
今は、そこそこ語学ができる人はいっぱいいますし。



●起業で失敗したら?

○やり直せないと帰ってしまう人もいますが、成長社会でやり直せるのが、良いところです。

○アジアに働きに来る人も、年々、甘い、軽い気持ちで来る人が増えている。
ただ、失敗を教訓にして、再挑戦できる人はやり直しがきくと思います。

○アジアでは「過去」より、「今何をしているか」、「これから何をしていくか」、にウェートが置かれているんです。
悲壮感がないんです。



●40代、50代で失敗したら厳しいのでは?

○日本から職を求めてきた人が「もう25才だから最後です」と言う。
もう25だから、ということはアジアではない。
何歳でもやっていける。
逆にタイでは、働いた経験がある人や、定年後にやってくる人もいます。



●現地採用の経験を生かして日本で起業した人もいます。
海外で働いた経験が日本に戻っても求められる時代が来ますか?

○わたしが日本の企業に就職した1997年頃の日本は、人口1億2千万人の購買力のある国でした。
今では高齢化も進み、良い意味での改革が必要で、外国人も受け入れないといけないでしょう。

○日本でも、外国人を使ったことがあります。
外国人と働いたことがある経験が評価される時代が来るとすれば、よいことではないでしょうか?
そのような社会になれれば、日本は将来生き残っていくかもしれないですね。



★読者の反響

「文化、人を知れば、将来の肥やしになる。どこで生きるかは問題でなくなるでしょう」とはジャカルタや中国で勤務した男性。

アジアで長年、開発協力の仕事をした男性は「謙虚に学び、」智慧を出しあい仕事を進めることが大切」

1985年にシンガポールで日本語学校を作った女性は「当時、時間を守らない文化がありました。わたしは自分の価値観を保ちつつ、彼らの考え方に合せるため、仕事の約束では先方に出向くことにしました」。

家族が働くために出国した女性は「日本人が海外との懸け橋になる、大きな力になり得るとの文章にうなずけました。家族にエールを送ります」。

現地採用組のキャリアアップの現状、社会保障面のリスクといったテーマをもっと取り上げるべきだとのご意見もいただきました。今後の課題といたします。


                ・・・・・

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移民宿・・日本人が集団移民した頃。。

2015-04-04 | アジア



朝日新聞・2014年12月

            ・・・

移民宿

「バンクーバーの朝日」という映画が昨年12月に封切られた。

舞台はかつて日本人街と呼ばれ、日本からの移住者たちがコミュニティを形成していた町。

さびれた、簡易宿泊所街のような一区画で、それゆえ往時の移住者たちの苦労がしのばれる場所だ。

日本人の集団海外移住は1868年(明治元年)に始まる。

42人がグアムに渡ったが、暑さと過酷な労働で病死する者が続出し、残った者も、外国船の助けを借りて日本へ戻るというむごい結果に終わった。

だがその後も集団移住は続き、ハワイ、カナダ、アメリカ、ブラジル、オーストラリアと地域も広がっていく。

今でこそ経済大国だが、日本は貧しかった。

人々は海外に活路を求めた。


持ち物をすべて売り払い、一家全員で移住するケースも多かった。

移住先での仕事は農地開拓、鉱山労働など。

労働は低賃金で過酷なものだった。

事前の情報はろくに無い。

現地の言葉もできない。

業者に騙され、女郎屋に売られた娘もいた。



だけど後戻りはできない。

横浜で船を待つ彼らの胸には、希望と同時に不安が渦巻いていたことだろう。

そんな移住者たちにとって頼みの綱だったのが、「移民宿」だ。

正式には「外航旅館」という。

最盛期の大正から昭和初期には、横浜港に近い関内を中心に、20軒以上もの「移民宿」があった。

資料を見ると熊本屋、福島屋、上州屋など、地方色を出した宿名が多く目につく。

横浜駅への出迎え、パスポート取得、健康診断、荷物の手続き、運搬、これから行く国の情報入手、通貨の両替まで、宿はすべてを請け負った。

こういうことを個人で行うことは困難な時代だったから、「移民宿」は必然だったのである。

海外移住は、決して楽な選択ではなかった。

人種差別にさらされた上、太平洋戦争が勃発すると「敵国人」とみなされ、苦労して築いた財産を没収されたりもした。

にもかかわらず、日本人は移民先の産業・文化に大きく貢献し、各地でその業績をたたえられている。



横浜の移民宿も、戦争中は軍の寮に転用されたり、終戦後は関内の至る所が進駐軍に接収されたりで、大打撃を受けた。

この時点で廃業した宿も少なくなかった。

その後日本は急速に経済発展し、集団移民はなくなった。

1980年代に入ると同時に、横浜の移民宿もすべて消滅。

関内を歩いても、その痕跡をみつけることは難しい。

だがバンクーバーの日本移民街では、初期の移民がこの地で築き上げた事績を忘れないよう、在留日本人たちが町の公園に集まり、毎年「日本の祭り」を開催している。


        ・・・


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