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太陽、舟、うずまき、円・・アマテルとアマテラス(3・終)

2011-09-04 | 日本の不思議(古代)
天照大神はいつ、どのように現れたのかについて考えています。

千田稔氏の「伊勢神宮・東アジアのアマテラス」を読んでみました。

著者は続いて、古墳壁画に描かれている「うずまき」と「円」の絵を見て、考察しています。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


         *****


      (引用ここから)


日本の弥生時代文化の遺跡から出土する木製の鳥方について、その鳥方を柱の上に置いたとして、それを朝鮮半島の「ソト」と同型と見る見解がある。

鳥取県西伯郡の角田遺跡から出土した土器には、へら描きのパノラマ図が描かれている。

神殿のような高床式の建物から梯子がかかっている。

その梯子の右に、舟の絵がある。
鳥の装束をつけた人が、かいを漕いでいる。

舟の上の方に渦巻きがある。

この渦巻きは、太陽ではないだろうか。

そうだとすると、ソトの信仰、
あるいは対馬のお天道さんの信仰、
木にかけた鈴あるいは銅鐸まで全部、この絵の中に集中していることになる。

       (引用ここまで)


      *****

著者はここから、以下のように考えています。

      *****


        (引用ここから)


つまりこの絵は弥生時代の太陽信仰を描いたものではないだろうか。

これを「アマテル信仰」の源流として位置づけることはできないか。


福岡県浮葉市の珍敷塚古墳の玄室に描かれた壁画は、「日の神」と航海の関係をイメージさせる。

死者を葬る墓に、太陽と舟が描かれるのはどういう意味だろうか。

この場合、少なくとも死者を葬るための宗教的な祈りが込められているはずである。

絵画は、死者の乗る舟が太陽神によって安らかに死者の世界に導かれるのを祈るために描かれた、というふうに解釈できよう。

舟のイメージを海まで広げると、ホアカリノミコトにもつらなっていく可能性がみえてくる。


装飾古墳の壁画には、円のような文様が描かれたものが少なくない。

福島県双葉の古墳壁画にも、渦巻き文が見られる。

これらの渦巻き模様は、太陽と見ることができると思われる。

これらの壁画は、もともとの信仰はホアカリノミコト(火明命)を中心とするものであって、アマテラスの誕生は意外と後の時代のこと、ということを示しているのではないだろうか。



            (引用ここまで)


             *****


著者は太陽信仰の源を探ることから、アマテラスは日本独自の日本古来の神ではなく、東アジアの神であろうと考えます。


           *****


           (引用ここから)


アマテラスという名の皇祖神へと昇格する神は、ホアカリノミコトであり、かつ中国に起源をもつものではないかと思える伝承がいくつかある。


「日光感精型」の伝承は、一般に北方型と言われてきた。

蒙古、せんぴ、契丹、高句麗などの建国神話に見られるという。

一方、もう一つの要素は「うつろ舟」に乗って漂着したという点で、これは南方系の舟漂流型である。

つまり、この伝承は北方型と南方型の複合型であると理解されてきた。


とすると、なぜ複合型が成立したのかという問いがなければならない。

一つの仮説としては、北方と南方の要素を結合しうる文化交流の動きがあったはずであり、

それを実現できたのは海洋民であった、ということを考えておいてよいであろう。


すなわち、アマテラスの原型となった「日神」の信仰を、東アジアの中でとらえようとしている、ということである。


アメノヒボコ伝承も中国の南部から朝鮮半島へ、そして日本へと円環的なるルートを描いていることになる。

往々にして、日本の先史・古代文化の受容は中国あるいは朝鮮半島から一直線でなされたと考えられがちであったが、中国、朝鮮半島、日本列島によって囲まれる海域を巡る円環状の広域的な文物の動きを追跡する必要がある。



        (引用ここまで・終わり)


              *****


とても力強い論考で、たいへん興味深く思いました。

「人間は考える葦である」という言葉がありますが、「人間の足」の力はあなどり難く、人間の「足」も「考え」も、休むことなく活動し続けてきたにちがいないと思いました。

社会は社会の特権階級が作ってきたわけではなく、いつの時代も人々は上から与えられたことなどと全く関わることなく、根源的な活動と思考をし続けてきたに違いありません。




wikipedia「屋形古墳群」より

屋形古墳群(やかたこふんぐん)は、福岡県うきは市にある古墳群。国の史跡。

珍敷塚古墳、原古墳、鳥船塚古墳、古畑古墳の4基の円墳で構成される。

現在、墳丘が残っているのは、古畑古墳と原古墳のみである。

昭和61年(1986年)2月25日に国の史跡となった。

珍敷塚古墳(めずらしづかこふん)

奥壁と壁の腰石のみが残り、墳丘は古い時代に破壊されたと考えられる。壁画には点と線を多様に使った絵が書かれている。

原古墳(はるこふん)

直径約12.4メートル、高さ約3.5メートルの円墳で、石室は全長約8.9メートルの横穴式石室である。奥壁には赤色で大型の船が描かれており、船の上には櫂を漕ぐ人と、弓を持つ人が描かれている。

鳥船塚古墳(とりふねづかこふん)

石室は破壊されており、奥壁の腰石2段を残すのみである。奥壁の1段目には2個の靫と船、同心円文が描かれている。船は大きな櫂のある大型の船で、人物が乗っており帆を張る柱が2ヶ所ある。

2段目には、鳥が船の艫と舳先に各1羽つづ止まっている絵が描かれている。

古畑古墳(ふるはたこふん)

直径約20メートル、高さ約3メートルの横穴式石室を持つ円墳で、墳丘は2段築成である。

段築面には円筒埴輪が並んでおり、奥壁には三角文、人物、同心円文が赤色で描かれている。



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「飛騨の口碑」 (Misaki-1167)
2014-09-04 03:00:59
「飛騨を一つのしっかりした国らしいものにまとめられた御方が淡上方様(あわのうわかたさま)なのだ。
連絡をしっかり保って攻め込まれないようになぁ。と言っても、飛騨から出て行った者は皆飛騨は故郷であり飛騨へ攻め込むという心配はないんだが、外国の方から日本の国へ攻め込む。今はなくとも後には起こってくるだろうと心配されてのう。先ず飛騨をしっかりと固めて、万一外国が攻めて来た時には、直ちに防げるようにせねばならぬと、連絡網を作らねばならぬと考えられたんだ。
それから飛騨に入る者は富山の方から神通川に沿って上がってくる者、美濃の方からは飛騨川に沿って上がって来る者、楢谷に沿って上がって来る者にとって、籏鉾の奥まで来るよりも便利のよい今の宮村(高山市の南方)に都を遷す御決断をされて、淡上方様の孫に当たる天津日抱位山奇力命を皇統命として、今の宮村の神社の場所に御殿を造り、御殿と言っても今で言うちょっとした小屋のようなもんじゃが、そこに都を開かれたんじゃ。・・・近くに高い山があってのぅ。今、位山と言っておる山よ。あの山の頂上は平たくなっておるので、大勢の人が登って、アワ山(乗鞍岳)を拝んだり、四方を眺めたり、催しをしたり、ちょっと下れば水もあるし、皆の祭りをする場所やった。また死んだ時もそこに納めて朝晩、山へ手を合わせ先祖様に感謝の祈りを捧げて暮らしたんじゃ。・・・頂上にな大きな岩が折り重なっておるんじゃが、あれはのう、山の上にあった岩を丸太ん棒の木の上を転がしたり、引っ張ったりしてあそこに運びあの岩の周りにのぅ、淡上方様から代々の皇統命の死骸を埋めてなぁ、大岩が重なっている下には石を敷き詰めてその上に魚や色々の物をお供えして祀ったんじゃ。
淡上方様は位山命と一緒に宮村へ行かれてそこで亡くなり、位山の大岩の横に葬られたんじゃ。・・・
大昔、飛騨から長野県や新潟に往来するには、アルプスの中尾峠や安房峠が大切な道だったので、乗鞍の麓が都だったのじゃ。大雪が降るようになったので淡上方様は飛騨の宮村に都を遷されて、天津日抱位山奇力命と共に宮村に遷られた後、淡上方様と大淡上方様の長男の山本住日高日抱奇力命の子孫が宮村に住んでおられたのだが、その子孫の内の一人に、その頃は「山麓(やまのふもと)」が約まって、「山本」と言っていた山本高山土公命に伊勢の方へ行くように命令されたんじゃ。山本高山土公命は親戚縁者の若い男20人ほどとそれぞれの妻を連れて、楢谷を降りて美濃へ出て川に沿って下り、伊勢の地、今の鈴鹿という所に家を造って住まわれたんじゃ。
その後、大淡上方様の次男に山下住水分奇力命があり、その子孫が山本高山公命と共に鈴鹿に一時住み、その子孫の兄弟が一人は西の海をあちこち探して今の大三島に行かれ、もう一人が船で伊豆に行かれてその辺を守り、事があると鈴鹿へ知らせ、鈴鹿は飛騨へ知らせたんじゃ。伊豆の山下はまた、今の横浜辺りに分かれたんじゃ。
それからやはり山本、山下の一族の者に命じて、若狭湾、琵琶湖の山本山、神通川が富山湾に出る辺り、石川の鶴来、新潟、秋田、山形辺りの海岸端に住まわされたんじゃ。
こうして淡上方様は海岸の要所に大事な身内を住まわせて外国から大勢人が来て、飛騨を攻め込むことがないように、万一のことがあれば直ちに飛騨へ連絡が来るようになされたんじゃ。そうして、淡上方様の命令を受けて下りて行った者は皆、何代にも渡って連絡が絶えず保たれて、総本家の飛騨の皇統命に忠誠を尽されたんじゃ。・・・
伊勢に行かれた山本土公命から18代目と聞いたが、その御方が猿田彦命と申し上げてな、世間の人は神代と言ってまるでお伽話か夢物語のように思っているようで、こんなことを話すとわしの方が気違い扱いされるが、天孫降臨として『古事記』に出て来る猿田彦命は、飛騨から降りた御方の18代目位の人だぞぅ。そして大山祇命は、その時西の方へ行かれた山下住命の子孫で、山の下に住む命に大と敬称が付いて大山下住命と申し上げ、後に下住がとれて大山祇命命と申し上げるんじゃが、山下住水分奇力命の子孫なのじゃ。この大山祇命の兄弟が伊豆の方へも!・・・
垂仁天皇の御代に時代が下がっても、予言の通りに新羅の王子が敦賀に上陸して日本の王になろうとしたが、これをやっつけることができたんじゃ。あの時に、山本や山下の者が多数子を増やして待っていたお蔭で日本が守れたんじゃ。
宮村に都が遷されて飛騨のあちこちに宮は移ったが、長い平和な時が流れた。淡上方様から数えて20代くらいだったか、ヒルメムチとお呼びする大変綺麗なお姫様が現れたんじゃ。ヒルメムチ様は娘の頃から御魂鎮めの深い境地まで行けて、時には遠い所の様子が見えてきたり、これから後どうなるか、誰誰が20日経つと来ると言うとぴたり、ぴたりとよく当たった。
これから日本の国はこのままほおっておくと、日本の近い所にぐっと突き出ている陸地があり、その陸地におる人達が大きな船を造って日本にやってきて出雲という所へ来たり、今の筑紫の辺りへどんどんと来て、鉄の刀を持ってきて気に要らぬ者は片っ端から切り捨て、今の九州を押さえつけて従った者を家来にして、東の方へ攻め込んで、今に日本の国は朝鮮、支那、あちらこちらから来た人に滅ぼされ、飛騨の奥まで殺されてしまう危険があると、御魂鎮めの深い所に入っていると分かってきたのだ。夢見といったんだが、神通力で見る事だなあ。これは大変というので、ヒルメムチ様は自分の娘三人に筑紫へ行って確かめて来るように命令されたのだ。それで猿田彦命が船を準備していたので、その船に乗ってずうっと今の福岡県の東海岸の辺りへ上がったのだ。そこから一族大勢を家来に持っていたコオロギ族と言う人達と仲良くしたんじゃ。この人達は手も足も長いのでコオロギと言ったんじゃ。この人達は今にも攻められるかも知れないから高天原から大勢来て助けてくれと頼んだんじゃ。今の熊本、長崎、大宰府、あの辺だと思うが、朝鮮の方から漂着した人や南の方から流れ着いた人が子を産んでうようよしておって、様子を調べると攻めて来る気配なので、これは大変と早く飛騨へ知らせたかったが、8年かかって飛騨へ知らせたんじゃ。・・・
思兼命という賢い男が相談をまとめてのぅ。外から来る人達の知らせる様子やら、いろいろ聞いたりして、日本が外国に攻められないように国を守り、日本を立派にするにはどうしたら一番いいか、何度も何度も川原に集まって相談したんじゃ。そして九州の恐ろしい災いの基を絶つには、強い若者を大勢集めて、男も女も九州へ行かねばならぬ・・・
飛騨は山奥なのであちこち小国があるが、総本家の飛騨に従わせ一つにまとめた方がいい等の相談がまとまったのじゃ。
そして、天照大神の子や孫の方々の大河内、茨木、田中直、額田、山代など、大勢おられてのぉ、それから饒速日命やその方々が、それぞれの大勢の若者、その若者が妻を連れて、今の滋賀、京都、大阪、奈良、神戸、三重、あの辺りを開く為に、三姫の帰りを待たずして飛騨を降りて行かれた。そして大和に都が開けるように土地を拓いて準備されたんじゃ。」・・・
途中ですが、延々と続きますので今回はこの辺りまでのご紹介に留めます。
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「飛騨の口碑」 (Misaki-1167)
2014-09-04 13:45:27
「そして、出雲の国はのう、伊邪那岐命の妃の伊邪那美命は出雲から高天原(飛騨)へお嫁に来ておいでだった。あの頃、政略結婚だったんじゃ。素戔嗚命は母の国へ行き、その子の大国主命へ高天原の天照大神(ヒルメムチ)の娘多紀理姫は、また、政略結婚で出雲へ行ったんじゃ。ところがなぁ!大国主が次々女を作り須勢理姫を正妻にしたので、多紀理姫は下照姫と阿遅志貴命(加茂命)の二人の幼児を侍女に任せて、逃げて高天原へ帰ってしまったんじゃ。さぁ、大変!高天原と出雲は国を高天原に譲るか、大戦をするかの談判が始まったのじゃ。高天原から多紀理姫の兄天菩日命と櫛屋玉命達が談判に出かけて行ったのじゃ。
出雲へ遣わした天菩日命と櫛屋玉命から、大方3年も経つのに何の連絡も来ないので、心配をして若彦を出雲へ遣わされた。その若彦からも何の知らせもないので、今度は女三人にこっそり様子を伺って来るように命じられたんじゃ。
ところが女三人の内一人が矢に撃たれて殺されたので、女二人がその矢を持ち帰って、報告して矢を見せると、木命が、木命というのは、天照大神(ヒルメムチ)の息子の天忍穂耳命の妻の親で、天照大神の大事な相談役をしておった人で、その神が持ち帰った矢を見て、『これは間違いなく私が若彦に与えたものだ』と言ったので、若彦の裏切りがはっきりして、裏切った者をこのままにしておいてはならぬと、強い強い男三人を出雲へ遣わせて、昼寝をしている若彦を弓矢で撃ち殺したんじゃ。
若彦は飛騨に妻も子もありながら、出雲の大国主の娘下照姫に妻子のあることを言わずに結婚しておったのじゃ。
下照姫とその兄の阿遅志貴命(加茂命)は、若彦が高天原の飛騨を裏切った為に殺されたことを知らないので、若彦の髪と骨を捧げ持って飛騨の入口まで来て、噂を聞いて若彦の正体を知り吃驚して、これでは恥ずかしゅうて晴れて飛騨へは行けんと、こっそりと飛騨の若彦の親にだけ知らせて美濃で葬式をすることにしたんじゃ。
ところが、若彦の親だけこっそりと行けばよかったのに、本妻も子供も美濃へ行って、あの頃の葬式は喪屋というちよっとした小屋を作ってやるんじゃが、阿遅志貴命は阿保らしいと言って小屋を縛ってある縄を刀で切って、足で蹴り飛ばして、飛騨から行った親や子は泣くし、まあえらい葬式じゃったと大評判だったんじゃ。皆が心から皇統命様に素直に心からお仕えするのに、若彦の裏切り事件は大変な評判だったんじゃ。若彦の親は天津国玉命という偉い御方で荒城の奥の方に住んでいたが、恥ずかしいと言って富山か新潟か、若彦の妻も子も連れて、何処へ行ったか姿を消してしまったんじゃ。親や妻子は気の毒だったのぉ。
その後、建御雷命が二十人ほどの家来を連れて出雲へ行かれて談判し、大国主と事代主は総本家である飛騨の皇統家に出雲をお譲り(正しくは返還)になったんじゃ。
・・・
九州を調査するように遣わされた三姫が、猿田彦命に案内されて帰ってきたのは八年も後のことじゃった。
三姫の報告は『越の人(外国の人)達は、おとなしい日本の人達が食べ物を小屋に蓄えていると取ってしまい、取られまいとすると、よう切れる刀で切り殺し、家を焼き、孕み女を連れて行って腹を切って子を出し、女にはどんどん孕ませ、反抗する者は片っ端から斬り殺して、子供や孫をどんどん増やして、今にも東の方へ攻め込む気配である』ということで、天照大神(ヒルメムチ)様の夢見の通りであったのじゃ。
何度も何度も安川原で会議があってのぅ。既に九州を平定に行く用意が出来ておったから急いで出発することになったんじゃ。
天照大神は天忍穂耳命に急ぎ筑紫へ発つように命令されると、天忍穂耳命は『私は歳を取って体が弱くなってきたので、どうか私の子の邇邇芸命をお遣わし下さい』とお願いされると、天照大神は邇邇芸命を呼ばれて『我々の命(いのち)は淡山(あわやま)、乗鞍岳に生まれて今日に至っておるが、九州へ上がってきて悪さをしている人々は大陸で生まれた人々であって、大自然の中から生まれた尊い命であるから、悪さを正して仲良く出来るようにじゅんじゅんと諭すように、いたずらに戦うことなく、じゅんじゅんに諭して仲良くして行く、こういうことが代々の皇統命が行われたことであり、天が下しろしめせ(治めよ)と代々教えられてきた道である』と、邇邇芸命に親しく教えられて、急ぎ筑紫へ発つように命ぜられたんじゃ。
邇邇芸命が皇統命となられて、飛騨中の若い者がそれぞれ妻を連れてのぅ、飛騨だけでは少ないので、美濃やそれから前に降りていた大河内、茨木、田中直、山本、山下、その他の名は忘れたが、その人達の子どもや孫も大勢連れて、伊勢の猿田彦命が船を準備しておって八岐まで迎えに来てくれていたので、沢山の船を連ねて筑紫の高千穂へ行ったんじゃ。そして天照大神の命令を良く守って順々に九州を平らげて、邇邇芸命の孫に当たるサヌ命(神武天皇)がまた帰っておいでになったんじゃ。しかし飛騨は山奥であるから日本中を治めるには大和がよかろうと、邇邇芸命が筑紫へ行く前に約束しておったから、大和まで帰ってきて都を開いたんじゃ。
サヌ命が今の大阪の所から上陸しようとして戦になってな、サヌ命の兄の五瀬命が弓矢に当たって死なれたんじゃ。それで、紀州の方に廻って大和に入られたんじゃが、天照大神から身分証明の為に頂いた十種神器は、サヌ命の十種神器と饒速日命のものと全く同じであったので、大事な総本家の皇統命であり、長い間待っていた御方である事が分かったんじゃ。ところが饒速日命の妻の兄の長髄彦が言を左右にして軍を引かないので、長スネ彦を縛って東北の方へ流してしまったんじゃ。
饒速日命や大河内、田中直、茨木、その他多くの者が土地を拓いて筑紫から皇統命が帰って来られるのを待っておられたんじゃ。こうして大和に都が開かれて、日本が日本らしくまとまって来たんじゃ。」
以上、今回はここまで御紹介させて頂きました。次回は「皇統家は征服者ではなく大和民族の総本家だ」と「老翁の家に伝わる淡上方様の御遺言」を紹介したいと思います。
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