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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

記憶の痕跡を封印する・・ペルー・イカの線刻石の研究史(10・終)

2016-07-12 | インカ・ナスカ・古代アンデス


「イカ・線刻石に秘められた謎」のご紹介を続けます。

著者たちは「あとがき」に次のように書いています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


            *****

    
          (引用ここから)


博士との最後の一日、カブレラ博士は、約束した時間きっかりに私設博物館で我々を迎えてくれた。

我々が案内されたのは、博士が自ら「秘密の部屋」と名付けた非公開の部屋だった。

博士の私設博物館に初めて足を踏み入れた時にはショックを受けたものだったが、今我々が目にしているものはまさにあらゆる想像力を越えていた。

博士の「秘密の部屋」の収蔵品は、理性的な表象力の限界を打ち破ってしまうほど衝撃的なものだった。

説明しようとしてもとても説明できるものではない。

それは我々の精神的受容力の限界を遥かに超えていた。


「恐竜の変態図」も、「人類と恐竜の共存を描いた図」も、「空飛ぶ機械のように見える鳥」の図も、「秘密の部屋」に比べれば色あせて見えるほどだった。

「私はもう選択の余地は残されていない」。

「初めてこれらを見た時、そう悟ったのです」と博士は厳粛に言った。

博士の目に当惑の色が見えたのはその時が初めてだった。


なぜ博士は我々に「秘密の部屋」を見せてくれたのだろう?

我々は、当分の間これらについては言及しないと約束した。

我々には、博士が口止めする理由がすぐに分かった。

「秘密の部屋」を見せてくれたことは、博士の友情のなによりの証だった。

世間にはもうしばらく公開しないでおこうと考えている品々を我々に特別に見せてくれたのだから。


「いまはまだ発表すべき時ではありません」。

博士はきっぱりと言った。

我々には、博士がそれらの品々をしばらく秘密にしておこうと決めた理由がよくわかった。

我々は、その他にも、重大なメッセージを示唆すると思われる、黄金製メダル、宝石をちりばめた十字架、異常に大きい頭蓋骨、謎めいた名と文様の入った土器なども見せてもらった。


さらに博士は、最近の発掘状況についても教えてくれた。

「センセーショナルな遺物が次々にみつかっています。

発掘を続けたらさらにセンセーショナルな発見につながりそうなのですが、発掘現場は再び埋め戻しておきました。

「秘密の部屋」を公開しないのと同じ理由からです。

当分の間はそっとしておきたいのです」。


あの時きちんとお礼を言えなかった分、この本の「あとがき」という場を借りて、改めて博士に感謝したい。


本書は、学術論文として書かれたものではない。

我々の意図は、できるだけ多くの情報と意見を集め、それらを総合して人類の起源と地球の過去に関する現在の学説を洗い直してみることにあった。


学術書は既成の学説に疑いを差し挟むなどもっての他という態度で、あまりにも断定的に原始時代を論じている。

まるで疑問など存在しないかのように。

本書はそうした常識に一石を投じようとしたものである。

我々はできるだけ偏見を排し、既成の学説に囚われることなく疑問点に対して我々なりの答えを示そうとしたつもりである。


            (引用ここまで)


              *****


著者たちより遅れて、イカの地を訪れた浅川嘉富氏は、著書「恐竜と共に滅びた文明・イカ線刻石が語る」で、次のように懐述しています。


              *****


           (引用ここから)


イカやアカンバロの太古の時代までさかのぼらずとも、ある種の恐竜は、もっと最近まで生きていたと思われる目撃記録がいくつか残されている。

久保有政氏は、それを古代の記録や民族の伝承に求めているが、それらはイカの線刻石やアカンバロの土偶に登場する恐竜の姿を彷彿させる。

      
              ・・・


紀元前4世紀に、ギリシアのアレクサンドロス大王がインドのある町を征服したとき、大王はその町の人々が、洞窟に棲んでいるある巨大な爬虫類を神として拝んでいるということを聞いて、その動物を調べにいった。

するとそれは30メートルもある巨大な動物で、鼻息が荒く、その姿の恐ろしさに兵隊たちも驚き、おののいたと記されている。

30メートルもある動物といえば、ウルトラサウルスのような恐竜を思い起こさせる。

また10世紀のアイルランド人は、珍しい大きな動物に出会ったときのことを記録に記している。

その動物には、堅固な爪を持った太く恐ろしい足があって、しっぽにはうしろをむいたとげがあり、また頭は馬のようであったと記されている。

この姿は、ステゴザウルスにそっくりである。

さらに、フランスのナールークという町の名は、昔、人々が「竜」を退治したことを記念してつけられたもので、

「竜」と呼ばれたこの動物は、刀のような鋭い大きな角を持ち、牛よりも大きな体で川に棲んでいたとされており、これはトリケラトプスの特徴に一致する。

              ・・・

調べてみると、数多くの目撃談があるのである。

古代ギリシアの歴史家で探検家でもあるテオドトスは、自身がエジプトで見た、空飛ぶ恐竜の姿を記録に残している。

その姿は蛇のような体で、「コウモリのような羽根を持っていた」と記している。

また、アメリカインディアンのスー族には、サンダーバード(雷の鳥)の伝承がある。

それによると、彼らの祖先も「プテラノドン」(翼幅は6~8メートルもあり、グライダーのように滑空していたとされる翼竜)と思しき空飛ぶ恐竜を見たことがあるようだ。


翼竜については、ごく最近の報告もある。

1975年、アメリカ・テキサス州で、車で走行中の女性3人が、まるでグライダーのように音もなく路肩を横切る、不気味な影に遭遇。

その巨大な影の正体を確認しようとしたところ、長い首をもったコウモリに似た巨大な鳥1羽が草むらに降り、もう一羽は上空を旋回していたという。

この怪鳥は、翌月には森林警備員に、またその後も、数回の目撃証言がある。

               (略)

イカやアカンバロの先住民の遠い祖先が、恐竜と共存していた可能性をはなから否定するのが、決して賢明ではないことが分かっていただけると思う。


           (引用ここまで)


             *****


長い引用になってしまいましたが、ペルー・イカの地から採取された線刻石。

発見された、恐竜と人のからまりあった足跡、、人類の記憶の中には、人類と深い絆をもつ生き物としての恐竜の思い出が刻印されているように思えてなりません。


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最古の人類の足跡・・ペルーのイカの線刻石の研究史(9)

2016-07-07 | インカ・ナスカ・古代アンデス


「イカ・線刻石に秘められた謎」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



             *****

           (引用ここから)

カブレラ博士は言った。

「すべての種と同じように、人類にもかつて様々な種類が存在し、突然変異によって変化していったのです。

たとえばティアワナコ人にはずんぐりとした体形、大きな頭、短い足、長い腕、四本指などの特徴があります。

これらは、イカの石に描かれた人間の特徴と非常によく似ています。

マチュピチュ、サクサイワマン、ティアワナコなどにみられる謎めいた巨石建造物の最古の基礎を築いたのは、おそらくこれら最古の人類だと思われます。

その基礎の上に、それより小さな不揃いな石で比較的単純な作りの建造物が建てられていますが、これはプレ・インカ時代とインカ時代のものです。


わたしはこの現象を「文化的混合」と呼んでいます。

石刻人の進んだ技術と壮大な建造物に、それよりずっと単純なプレ・インカ人とインカの技術と芸術が後から付け足され、混合されたのです。

インカ人にあんな奇跡のような建造物が建てられたと、本当にお考えですか?

彼らには決してできなかったはずです。

現代の技術水準で考えても、どのようなシステムと技術を用いてあのような建造物を作ったのか謎なだけです。

あれほどの巨大な石の塊をどうやってあんな高さにまで積み上げたのでしょう?

漆喰も使わずに石垣を築けるほど正確に石を切るには、どんな道具を使ったのでしょうか?

皆目分かりません。


忘れてならないのは、こうした石垣がこれまでにおきた無数の地震にもびくともしなかったことでしょう。

そんなことはインカ時代の建造物にはありえません。

インカ時代初期の建造物は、技術的にかなり原始的なのですから。

ところが、たいがいの考古学者はこうした巨石建造物はインカ時代のものだと考えています。

技術上の問題は、膨大な労働力と時間を投入することでクリアできたはずだと。


しかしこの理論は、検証のしようがありません。

いくら膨大な労働力と時間をかけても、無理なものは無理です。

あれほどのものをつくるには、技術的なノウハウが必要です。


それだけの技術力が「石刻人」にはあったのです。

それがどこよりも明確にあらわれているのが、マチュピチュの遺跡です。

縦3メートル、横4メートル、重さ100トンもある巨大な基礎石が、完璧に組み上げられています。

インカ人たちはずっと小ぶりで不揃いな切石をその上に積み上げて藁の粗末な小屋を建てて生活していたのです。

これでは、どうにもちぐはぐです。

それなのに考古学者ときたら原始的な藁ぶき小屋の基礎にするために、何者かがあんな巨大な石の塊をアン
デスの頂上まで運んだと言うんですからまったくナンセンスです。


これに対して、イカの石は、文化的混合以前に制作されたものです。

インカ人もこの存在を知っていました。

知っていたのは、支配者とシャーマンやアマウタ(賢人と訳されることが多い。占い師と神官と学者を兼ねたような存在)だけだったかもしれませんが、

アウマタは石刻人の知識を伝える上で大きな役割を果たしていました。


彼らにしてもそれを完全に理解していたわけではありませんでした。

彼らがイカの石から学べたのは彼ら自身の知識水準で理解できることだけで、石に刻まれたシンボルの大半は彼らには解読できませんでした。

それでもイカの石を見ていたため、インカ人もプレ・インカ人も、馬や巨大な動物や舟などの存在を知っていました。

そこへスペイン人が大きな船でやってきて、馬を乗り回し始めたものだから、インカ人は神々が戻って来たと信じ込んでしまいました。

それで彼らは侵入に全く抵抗しなかったのです。

それどころか彼らはスペイン人に帝国各地を見せて回りました。



イカ考古学博物館には、横から見るとモアイそっくりの木彫りが展示されています。

この人物像は、頭に帽子かヘルメットのようなものを被っています。

モアイの頭にもかつて、これと同じようなものが載っていました。

モアイの制作年代は、正確にはわかっていません。

モアイの被り物はずっと以前に壊れてしまい、長い間、モアイの近くに落ちたままになっていました。

最近、モアイの被り物を治す復元作業が行われています。


わたしは不思議に思いました。

ペルーの砂漠や古い墓の中から発見された木彫りとモアイが似ているのはなぜなのか?

それにモアイとイースター島の現在の住民の顔立ちは、全く似ていない。

これはなぜなのかと。


過去に何度も地殻の大変動がおきたのは周知の事実です。

イースター島のモアイとペルーの木彫りとは、あるいはその2つの地域がまだ地続きだった時代に作られたのかもしれません。


古代を解くカギは、今では海底に沈んでいるのではないでしょうか?

木彫りを制作した人々が生きていた古代の時代には、大陸の分布は現在とは全く異なっていたことでしょう。

彼らの特徴と「石刻人」のそれとは非常によく似ています」。


アメリカ大陸の先住民と東南アジア、ポリネシア、メラネシアの住民との間に、人種、道具、習慣、制度などの点で多くの共通点があることは、つとに指摘されている。


したがって、アメリカの先史時代を研究する場合には、大陸の移動という問題をけして忘れてはならない。

イカの石に刻まれた、太古の大陸の分布を示したものと思われる2種類の図を見て以来、我々は太古の大陸に関する従来の定説に疑問を抱くようになった。

地球には5つの大陸と大洋がある、と生徒たちは学校で教えられる。

だがもし2億5000万年前に地理の授業があったなら、まったく違うことが教えられていたはずである。

地球には一つの大洋と一つの大陸がある、と。


現在の5大陸は2億5000万年前には一つに固まっていた。

そしてそのまわりを、果てしなく広い太古の海が囲んでいた。


わずか80年前まで、そんなことは誰も夢にも思わなかった。

イタリアのメローニが唱えた大陸移動説は、当時嘲笑をかっただけだった。

地球はきっちりと繋ぎ合わされた形ある塊ではなく、煮えたぎる巨大なるつぼのようなもので、地球表面はたえず変化しているのだという耳新しい理論に、人々は次第に慣れてきたのだ。


           (引用ここまで)

             *****


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アメリカ先住民の謎は深まるばかりである・・ペルー・イカの線刻石の研究史(8)

2016-06-23 | インカ・ナスカ・古代アンデス




「イカ・線刻石に秘められた謎」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



                *****


              (引用ここから)


先史時代の最大の謎の一つに、アメリカ大陸に、いつどのようにして人類が移住してきたかという問題がある

これについては現在もおおいに議論が分かれている。

従来最も有力なのは、アメリカインディアンの祖先は3万年から2万年前に、当時陸続きで氷結もしていなかったベーリング海峡を渡ってシベリアからアラスカへ移動したという説である。


しかし、この独断的な学説の信ぴょう性が最近揺らぎ始めている。

インディアンの祖先が太平洋を舟で横断していたとするヘイエルダールの説の他にも、さまざまな説が従来の定説に修正を迫っている。

ヘイエルダールはインディアンの伝統的な工法で組み立てたいかだで海流を利用して太平洋と大西洋を横断するという冒険を自らやってのけた。

こうして彼は、東西両半球の間に、海の道による交流があったという大胆な仮説を証明してみせたのである。

つまり、「ベーリング海峡説」だけがアジアの諸民族とアメリカ先住民の文化に類似が見られることを説明する唯一の理論ではないのである。


数年前には、こんなことを言っても嘲笑を買うばかりだった。

「アジア人やエジプト人のいかだと、チチカカ湖周辺のアイマラ族のいかだはよく似ている。

先史時代に彼らの間に交流があったのではないだろうか?」

などと言おうものなら、文化人類学者から総スカンをくったものだった。

それが今では歳月、新発見、関心の広がり、若い研究者たちの自由な発想によって古い学説の基礎がぐらつき始めている。


考古学の発見が増えるたびにアメリカ先住民の起源にまつわる謎はさらに深まっていく。

ほんの数十年前には、「中米最古の高度文明が誕生したのは紀元後2世紀のことである」と言われていた。

それが今では、その年代を数千年遡らせなければならなくなっている。

もっともおそく見積もっても紀元前150年は下らないだろう。


オルメカ文明の発見と、ベリーズでの土器の発見によって、中米に文化が誕生した年代は2000年も遡った。

最近では、ベリーズで発見されたような土器は紀元前3000年ごろにはすでに使用されていたと推測されるようになった。

マヤ文明が極めて高度な文明であることは誰しも認めざるをえないところである。

古典的な学説では、マヤ人の祖先はアジアの遊牧民アメリード族である。

彼らは13000年ほど前の最後の氷河期にベーリング海峡を渡り、北米大陸を経由して中南米へ移動したという。

しかしマヤ人の記録を読めば、彼らが遠方からやって来たことは間違いないにせよ、全く別の方向からだったことは明らかである。

カクチケル族の年代記「ポポル・ヴフ」とマヤの預言書「チラム・バラム」には、「我らの祖先は向こう側から、トゥランと呼ばれる土地へやってきた」。

「我らはトゥランで生まれた」と書かれている。

また別の箇所には、「人々は4つの場所からトゥランへやって来た」とある。


紀元前3000年ごろ、大西洋で地殻変動による大災害が起きたと推測されている。

このときアイスランドでは火山が大爆発を起こした。

地中海の島々にはこの時の破壊と復興の跡が見られる。

津波は南米にも押し寄せただろうか?


ホピ族の言い伝えによれば、その昔、大津波によって太平洋に沈んだ「カスカラ」という大きな島があった。

この「カスカラ」から難を逃れて南米大陸へ渡ってきた人々に先導されて、ホピ族はアンデス沿いに北上して、北米大陸まで移動したという。

この言い伝えによれば、この移動が始まったのは40万年前のことだという。


チリ北部の都市でパイプラインを建設中に、砂漠の中から保存状態の良いミイラが多数みつかった。

年代測定の結果、紀元前6000年頃から紀元前2000年頃のものまであることがわかった。

紀元前6000年といえばエジプトのミイラも遥かに及ばない古さである。

そんな古い時代にミイラ製造技術を取得していたのは、いったいどんな民族だったのだろうか?
従来の学説によれば南米はまだ原始状態だったはずなのだが。

これらのミイラのうち数十体が発掘され、現在チリのタラパカ大学に保管されている。


ミシガン大学の考古学学者グリーンマンも、アメリカ大陸には非常に古くから人類が定住していたと考えている一人である。

彼によれば旧石器時代に、人類はカヤックやカヌーに乗って大西洋を横断していたという。

合衆国西部から、そこが食う石器時代のフロンティアだったことを示す遺物が多数出土していると述べている。


ホピ族の民族起源神話はグリーンマンの説よりさらに挑発的である。

それによればホピ族の祖先は海のかなたにある島々からアメリカ大陸へ渡ってきたのだという。


ホピ族は現在世界ができる以前に、3つの世界が存在したという。

最初の世界はすべてを燃やしつくす火によって破壊された。

ふたつ目の世界は氷に覆われて滅びた。

第三の世界は水中に没したという。

ホピ族はこれらの4つの世界はオライビ地方(サンフランシスコ周辺の丘陵地帯)にあったものと信じている。

ホピ族は現在もオライビ地方に住んでいる。

この地方は北米大陸で最も古くから続く集落がある場所として知られている。

ホピ族のこの神話は、オライビ地方の地理的な位置から解釈することができる。


最初の世界を破壊した火とは、25万年前に起きた火山活動のことかもしれない。

第2の世界を滅ぼした氷とは、10万年前の氷河期のことかもしれない。

第3の世界を滅ぼした水とは、2万5000年前に地球を襲った大洪水のことかもしれない。


インカの古い言い伝えに、パカリモク・ルナ(はじめの人間」ほどの意味)と呼ばれる、洞窟に住む平和的な遊牧民が登場する。

興味深いことに、パカリモク・ルナは白い肌をしていたという。

進化生物学者のリチャード・トンプソンは、次のように述べている。

「ホモ・サピエンスとは別系統の原人とホモ・サピエンスとが、何百万年にもわたって共存していたかもしれない。

人類の発達史はより複雑になってしまうが、これは決して考えられないことではない。


こうした原人も、ごく原始的な石器を作っていたかもしれない。

中央アジアでサルと人間の中間のような動物を見たという報告が相次いでいるが、それによればその生物は石を割って道具を作るという。

実際にこれまでに発掘された骨格化石や石器を見ると、ホモ・サピエンスと原人は想像もつかないほど古い時代から共存していたのだと考えざるをえない。

そしてホモ・サピエンスと原人の手によって、非常に原始的なものからきわめて進化したものまで、様々な石器が同時代に製造されたのだ、と。

更新世中期のアメリカ大陸に道具を作る能力をもった生物が存在したことを証明する遺物がこれだけ出ているのにも関わらず、学会の権威者たちはいまだ、従来の学説に固執している。


1982年、ブラジルで洞窟画が複数発見された。

発掘調査の結果、洞窟内には4つの地層が重なっていることが判明した。

最上部は固い炭化層。

その下の3層は砂まじりの粘土層だった。

最も下の層から石灰とともに哺乳類の化石が発見された。

3か所の研究所で化石を分析したところ、29万4000万年から29万5000万年前のものであるとの結果が出た。

発掘を仕切っていたフランスの考古学者ルムリーは、「従来考えられていたよりずっと早い時期からアメリカ大陸には人類が存在していたものと思われる」と述べている。


            (引用ここまで)

               *****


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なぜまたゼロから始めなければならないのだろうか?・・ペルー・イカの線刻石の研究史(7)

2016-06-11 | インカ・ナスカ・古代アンデス



「イカ・線刻石に秘められた謎」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

     
         *****

       (引用ここから)


「地陸移動説のことはごぞんじですね?」カブレラ博士は我々にたずねた。

「太古の昔大陸は一つにまとまっていた、地球が冷えるにつれて大陸は分裂し、次第にはなれていったという、20世紀初頭に提唱された説です。

1970年ユネスコの海洋学者のグループが、アフリカの西海岸と南米東海岸の地層が構造的に一致することを発見しました。

これによってアフリカと南米がかつて一つの大陸だったことが最終的に確認されました。

同時にこれは、リーキーが発見した280万年前の人類オルドヴィア人と、アメジーノが発見したパタゴニア人が実際には同じ大陸の同じ地方の住人だったのではないかということをも意味しています。

従来から考えられていたよりはるかに古い時代の原人の化石が、南米とアフリカ両方で出土したこともこれによって説明ができます。

動かしがたい科学的データがこれだけ揃っているのですから、さらに新しい発見があるだろうと思われます。


1970年のことです。

フィリップス・アカデミーの考古学部長リチャード・マクニーシュがアマゾン川の支流流域で画期的な発見を行いました。

さまざまな石器が、ナマケモノの祖先、馬、ラクダ、原始的なシカ、原始的なネコ科の動物などの化石と共に発見されたのです。

遺物は5つの異なる地層にわたって分布していました。

古生物学の定説によれば、ナマケモノの祖先、原始的なシカ、原始的なネコ科動物は100万年前に、原始的な馬と南米のラクダは1300万年前に、絶滅したとされています。

石器と動物の骨の年代は同じとされています。

彼が発見したものは、まぎれもなく絶滅動物と人類との同時存在の証拠だったのです。

古生物学者たちが年代決定の際に使用している基準は、とっくの昔に修正されてしかるべきものなのです。

先史時代の動物や人類の年代は、19世紀の終わりから20世紀の初めに決定されたものが、いまだに通用しています。


ところが1971年のことです。

コロンビアで体長10メートルのイグアナドンの骨格化石が人間の頭蓋骨といっしょに発見されました。

頭蓋骨は石化作用が進んでいて、ほとんど完全に石灰に変わっていました。

発掘にあたったのはコロンビアの教授です。

この発見は古生物学史上初の快挙と言えるでしょう。

人間と恐竜の化石が同じ場所から発見されたのは、これが初めてです。

これまでは恐竜その他の絶滅動物といっしょに発見されたのは人間の手になる道具類にすぎませんでした。

それが今回、とうとう明らかに人間のものである頭骸骨が恐竜の化石と一緒に発見されたのです。

ご存じのように恐竜は少なくとも6000万年前に絶滅したといわれています。

イグアナドンは1億4000万年前の白亜紀の初めに栄え、白亜紀末期の6500万年前に滅んだとされています。

マルティン教授は、合衆国の複数の大学あてにこの驚くべき発見を個人的に通知しました。

証拠品は大学に保管されています。

1974年にペルー国立大学の招きでリマを訪れたソ連の人類学者は、1973年にインドで中生代に属する地層から人骨が発見されたとのべました。

ソ連科学アカデミーにもその旨の報告がなされました。

この発見も、6500万年前に人類が存在していたことの新たな証拠といえます。

アフリカでも人類学の定説にそぐわないヒト科動物の骨と歯が発見され、これらの化石の年代は、放射性元素年代測定法で測定された結果、7500万年から6300万年前と判明しました。

これまでに知られているうちで最も古い人類の化石ということになります。

この化石は1974年タンザニアで発見されました。

この発見によって、7500万年から6300万年前、つまり中世代から新世代への移行期にすでに人類が存在していたことが証明されました。

原類人猿が誕生したのは2500万年前のことであると主張している人類学の定説に対して、この最新の年代測定法に裏付けられた新発見はおそらく人類の祖先であろう未知の人科動物が従来考えられていたよりずっと古くから存在していたことを証明しているのです。


こうした問題については、まだはっきりしたことは言えません。

ただイカの石を研究するうちにはっきりしてきたことが一つあります。

それはイカの石に文様を刻んだ人類は科学技術の分野で我々現代人よりもはるかに進歩していたということです。

こう考えると新たな疑問がわいてきます。


なぜ何千万年も昔に知能の高い人類が存在していて、現在よりも高度な科学技術が発達していたのだと。

だとしたらなぜ我々人類はまたゼロから始めなければならなかったのでしょう?

人類が現代の進歩の水準に達したのはついこの間のことではありませんか?

われわれの直接の祖先はたかだか280万年前にはまだ猿に近い存在だったはずではありませんか?

人類は従来考えられてきたよりずっと古くから地球上に存在しているのです。

ある程度の知能水準に達してからは、人類は他の生物が死滅しても、生き残るだけの知恵を身につけたのです。

しかしなんらかの原因によって人類が文明の発達した状態から原始状態へと逆戻りする状況が生じました。

原始状態に逆戻りした人類は、また一から始めなければなりませんでした。

このような状況がこれまでに少なくとも一度、おそらくは数度は起こったと思われます。

ですから地球上にはこれまでに数種類の人類が存在したことになります。

人類は進化と退行を繰り返してきたのです。

もっとも新しい人類が、我々ホモ・サピエンスなのです。

イカの石に文様を刻んだ「石刻人」は我々に似てはいますが、我々と全く同じ人類ではありません。

我々と彼らを結び付けているのは、我々と彼らに共通する「人としての条件」です。

我々も彼らも人類に属する動物なのです」。


         (引用ここまで)


           *****

カブレラ博士たちは、地球文明はいくたびも興り、そして滅びてきたという説を語っています。

わたしも、進化論一辺倒よりは、このような説の方が、納得がいくような気がします。

今の世の中を見まわしても、進歩したという感じはあまりありませんよね。。




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人類は何かを知っているのだ、だが何を?・・ナスカ・イカの線刻石の研究史(6)

2016-05-29 | インカ・ナスカ・古代アンデス


著者たちは再び、カブレラ博士の元を訪れます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

        *****


      (引用ここから)





博士は我々に直径およそ1メートルの黄色っぽい石を見せてくれた。

重さは200キロ位だろうか?

浮彫のような手法で文様が刻まれている。

博士のコレクションの中でも最も美しいものの一つである。

「この石はとくに念入りに調べました。

ここに1億5000万年前のジェラ期に繁栄していたステゴザウルスの姿が描かれています。

背中にステゴザウルスの体を守っていた剣盤が二列に並んでいるのがはっきりと分かります。

武器の役目をしていた尾の先の4本のとげもはっきりと描かれています。

この石にはステゴザウルスの成長過程が描かれています。

すこし長めの首を持った方が小さい方の恐竜のメスです。

メスの横に子供の変態の様子が描かれています」。


確かに互いに関連のある絵が連続的に描かれている。

始めにオタマジャクシのような姿。

次に後ろ足が生えた姿。

最後にサンショウウオのように四本脚の姿。

「この発見はきめて画期的です。

古生物学者は、恐竜は現在の爬虫類と同じようにして繁殖したと主張しています。

つまり親と同じ姿、卵から生まれてきたと。

これに対して変態は両生類の特徴です。

両生類は孵化したあと、幼生の状態を経て親へと変態するのです。

この石には、恐竜の知られざる成長過程が描かれています。

恐竜の成長過程をつぶさに観察した者でなければこれほど詳細な知識を得られるはずがありません。

この石の浮彫を解読した後、おどろいたことに、ティラノサウルス、パラサウロロフス、ランベオサウルスなど他の恐竜の成長過程を描いた石もみつかりました。

これまでに古生物学の研究成果と一致する恐竜の絵が37種確認されています。

未知の恐竜の絵もたくさんあります。

これらを分類することはできません。

同じ種を描いた複数の石が発見されて、その種について詳しくわかることもあります。

石の一つ一つに驚くべき精密さで変態の一コマ一コマが描かれています。

これらの石には古生物学上の全く新しい知識が含まれています。

これまでに発見された化石からは、この魚の起源がおぼろげにわかる程度だったのです。

これらの石は、石に彫られた動物と石を彫った人間が同時代に存在していた証拠となるだけではありません。

これらは石を彫った人間の知能の高さも明らかに証明しています。

高い知能の持ち主でなければ動物の成長の過程をこのような細密さで描くことなど到底できません。


6300万年前に生息していた巨大コウモリの成長過程を描いた石が、48個みつかっています。

巨大コウモリは、普通の哺乳類と同じように子供を産んで繁殖すると考えられていました。

しかし石にはこの生物が鳥のように卵から産まれる様子が描かれています。

正直言って、私自身、この発見にはたまげました。

イカの石にはわたしが医科大学で教えてきた人類学的・生物学的知識に全く反することが描かれていました。

私としては、従来の学説をもう一度じっくりと考えなおすことを余儀なくされました。

私はあらゆることを問い直し始めました」。


恐竜が地球上に現れたのは2億年以上も前のことである。

しかし人類が恐竜の化石を始めて見たのは20世紀に入ってからのことだ。

最初に発見されたのは歯だったが、最初それはサイの歯の化石とされた。

遠い過去の闇に光が当たるようになるまでには、もう少し時間が必要だった。


太古の地球では激しい地殻変動が頻繁におきていた。

大陸は水没と出現を繰り返していた。

火山は爆発を繰り返し、地殻を揺るがしていた。

生物は環境が変わるたびに適応を余儀なくされ、適応できなかった種は絶滅した。

恐竜はおよそ1億4000万年のあいだ地球に君臨した。

恐竜は幾多の気候変動、大陸移動、地球的なカタストロフィーに耐えて生き延びたのである。

一つの種の平均寿命がたったの400万年しかないことを考えれば2億5000万年を生き延びた恐竜は極めて適応能力の高い種であったといえる。


恐竜は(現在の)人類の誕生のはるか以前に地球上から姿を消していたにもかかわらず、世界中の聖典、神話、伝説にはなぜか恐竜そっくりの怪物が登場する。

竜や巨大な蛇や怪物の姿が、石や着物や布の上に残されている。

竜の神話、伝説は直接的な交流のない世界各国の文明に共通して見られる。

こうした神話・伝説の語り手が恐竜の化石を目にしていたとはとうてい考えられない。

それではこの現象をどう説明したらいいのだろう?

自分の目で見たはずのない大昔の生物をかなりの正確さでイメージするなどということがなぜできたのだろう?

恐竜絶滅の原因を説明できないのと同様に、恐竜が人間のイマジネーションの世界で生き続けた理由も説明しがたい。

多くの研究者が指摘していることだが、恐ろし気な恐竜の絵を見ると、人間はなぜか嫌悪感と同時に魅力を感じる。

恐竜ほど我々人間をとりこにする動物はないのではあるまいか?

さらに、蛇やワニに対して本能的な恐怖感を抱くのはサルと人間だけである。

サルと人間という、近縁の種だけが、大型爬虫類に対して先天的に恐怖心を抱く。

これに対して他の動物は経験によって蛇やワニが危険な敵であることを学習するのである。


霊長類は「なにか」を知っているのだ。

だが何を?



カブレラ博士は続けた。

「アルゼンチンの古生物学者アメジーノは、アルゼンチンの考古学会では高く評価されています。

彼はアルゼンチンのエルモソ山で、先史人類の大腿骨一本と脊柱のかけら1個と頭蓋骨の破片数個を発見しました。

同じ頃、ブエノスアイレス港の工事現場で中新世(2500万年から500万年前まで)に属する地層から人骨が発見されています。

その他の地域からも中新世に属する地層から人骨や道具類の発見が報告されています。

碧玉製のナイフ、石製の金敷きひとつ、飾り玉数個、線刻が施された大きな石の玉数個、石器20個ほどが同じ地層から発見されました。

しかしセンセーショナルだったのは、こうした道具類とともにトクドソン(中新世の草食性哺乳類。約1300万年前に生息していた)の大腿骨が、しかも珪岩性の矢じりが刺さったままの状態で発見されたことです。

古生物学者たちは、これらは人類の遺物であって、けっして進化した類人猿のそれではない、という結論に達しました。

2000万年以上前のアメリカに人類がいたとすれば、しかも彼らが石を打ち欠いたり磨いたりすることができたとすれば、・・ヨーロッパの人類がこのような技術を覚えたのはずっと後のことです・・、アメリカの人類はヨーロッパの人類とは全く違う発達を遂げていたのだと考えざるをえません」。





私たちが「それではアメリカには類人猿はいなかったのですか?」
と尋ねると、博士は答えた。

「いなかった、というのが古生物学者たちの公式見解です。

これまで類人猿の化石は発見されていないのでね。

原類人類(現在のサル類と類人猿の祖先)から原生類人猿であるゴリラ・オランウータン・チンパンジーは進化した。

南米には類人猿はいない。

だから現類人猿も南米にはいなかったというわけです。

これはあくまでも公式見解ですよ。

しかし、この公式見解も数年前から通用しなくなってしまいました。

センセーショナルな発見があったのです。


ある学術調査隊が南米人跡未踏の原生林を探検中に、2頭の巨大類人類に襲われました。

一頭は射殺され、一頭は逃走しました。

射殺された類人類は死んだ後、撮影されました。

調査隊員は死んだ類人猿を椅子に座らせ、倒れないようにつっかえ棒をして写真に撮りました。

それは体長1メートル以上もあるメスで、他の大陸原生類人猿と同じように尾はありませんでした。

そしてそれは他のどの「類人猿」よりも人間に似ていました。

この画期的な発見は類人猿から人類への進化のプロセスがアメリカ大陸で起こったとするテーゼを補強するものです。

射殺された類人猿が人類に非常によく似ていることを考えると、それは進化した類人猿、つまり猿人なのではないかと思えてきます。

もしかしたら猿人の最後の生き残りなのではないかと。

ほかの猿人は化石の形でしか残っていませんからね。


1972年に人類学者クシャリチャードがおよそ280万年前のものと思われる頭蓋骨の化石を発見しました。

その頭蓋骨は原始人類のものととてもよく似ていました。

それよりずっと新しい化石よりも、それはホモサピエンスの頭蓋骨に近い形をしていました。

放射性の年代測定法による測定が行われているので、この化石の年代には異論の余地はありません。

この発見によって人類誕生はそれまでより1万年遡ることになりました。

この年代測定法がアメジーノの時代にあったらよかったのにと時々思いますよ。

彼の言ったとおり2000万年前と判定していたら、人類学にどんな革命が起きたことでしょう?

しかし当時は化石が発見された地層をもとに判断するしか年代測定の方法がなかったのです。


こうしたセンセーショナルな発見が幸運な偶然の賜物であることは、否めません。

クロマニヨン人もネアンデルタール人も、皆そうです。

こうしたわずかな出土品からは、その時代の地球全体の様子は分からないのです。


シュメール以前、つまり紀元前7000年ないし8000年より古い時代のことになると、分かっていることはまだほとんどありません。

先史時代のおぼろげな異名をはっきりさせてくれる発見は、まだあまりにも少ない。

人類学の歴史はまだ始まったばかりなのでしょう。

イカの石は、人類学の新時代に向けてのささやかな一歩にすぎません。

これからの人類学には、どんなものをも拒否しない柔軟な知性が要求されます。


           (引用ここまで)

写真(下)説明文

ベネズエラのジャングルで射殺された類人猿の写真。「南米に類人猿はいない」というのが専門家の一致した意見だが、南米に大型の類人猿が生息していたこと(もしかしたら現在も生息しているかもしれない)をこの写真が証明している。フランシス・デ・ロイス博士によって撮影されたこの写真は、アルゼンチンの自然科学事典にも掲載されている。


           *****

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人類は退化の過程を辿ったことはないと明言できるのか?・・ペルー・イカの線刻石の研究史(5)

2016-05-25 | インカ・ナスカ・古代アンデス


「線刻画に秘められた謎」のご紹介の続きです。

カブレラ博士宅を辞した著者たちが、ホテルで思いにふけっているところです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

         
          *****

        (引用ここから)

現在、先史時代の人類について分かっていることは少ない。

ほんとうに原始時代の人類は原始的な道具を作ったり洞窟から洞窟へと移り住みながら洞窟画を描いたりするだけの知能しかもっていなかったのだろうか?

ひょっとして、人類誕生の歴史は書き換えを迫られているのではないだろうか?

人類最初の技術的進歩である「旧石器時代」のはじまりは、考古学によって年代が特定されている。

しかし「旧石器時代」も、謎に満ちた特異な時代であることは変わりない。


この時代の出来事の多くはまだ謎のままである。

たとえばホモサピエンス=現在人類がネアンデルタール人に取って代わったのはいつなのか?

そしてその交代はどのように起こったのか?

ネアンデルタール人はどこに行ったのか?

ネアンデルタール人は言語をもっていたのだろうか?

ネアンデルタール人は全く芸術作品を残さなかったのか?

最近判明したところによれば、ネアンデルタール人からホモサピエンスへの交代は地球全地域で同時に起こったという。

それはなぜだろう?


そしてまた、人類は常に進化し続けてきたのだろうか?

退化の過程を辿ったことはないのだろうか?

発掘された遺物のなかには、長い長い退化の果ての時代、没落の時代に属するものもあるのではないだろうか?


考古学はあまりにも単純な方法で謎を解こうとする。

たとえば先史時代のさまざまな石器を解釈する際の方法がそれである。

道具の製造と知能の発達は相関関係にあるという理論は一般的に広く受け入れられているが、まちがいなくホモサピエンスに属するオーストラリア原住民アボリジニの存在は、必ずしもそうは言えないことを証明している。

アボリジニは高い知能を有しているにも関わらず、旧石器時代と変わらない道具を使い続けているからである。

インドのビルホル族も、同様の例である。

彼らは他民族の影響一切を拒み、石器時代そのままの遊牧生活を続けている。

彼らは現代世界の衣服、食物、酒、医薬品、金属、意思疎通の手段である言語の受け入れをかたくなに拒んでおり、しかし彼らもまぎれもなくホモサピエンスであり、発達した知能の持ち主なのである。

ひょっとすると人間の知能は外界の影響と無関係に発達したのかもしれない。

そして優れた知能は、考えられてきたよりずっと早くから人間に備わっていたのかもしれない。

既成の考古学は、こうした問題に対してほとんど答えることができない。

ムイラン人の存在のような画期的な発見によって、考古学の知識が将来さらに増すことを祈るのみである。


ムイラン人は、アルジェリアとモロッコの海岸地方で、ネアンデルタール人の遺物を探していた考古学者のグループによって発見された、肉体的にも文化的にも特異な人類である。

ムイラン人の生存年代は、放射性炭素年代測定法によって、1万2000年前と推定された。

複数の場所から100体ほどの埋葬された墓が発見され、調査がおこなわれた。

以来、人類学者の間でムイラン人についての議論が続いている。


突如として現れた彼らはいったいどこから来たのか?

同時期の地球上のどこにもなかった全く新しい複雑で進化した道具類の加工法を、彼らはどのように習得したのか?

その上、同じ地層からアフリカ大陸原産ではない動物の骨が発見されている。

さらに信じがたいことに、このムイラン人の脳の容積は現代人のそれより大きいのである。

ムイラン人の容積は2300立方センチ、一方現代人のそれは2700立方センチである。

巨大な脳溶液だけでも不可解だが、それよりさらに不可思議なのはムイラン人の頭と顔の比率である。

ムイラン人の頭蓋骨は現代人のそれより丸く、彼らの頭蓋骨は大人になっても子供の時の形を保っていたということである。

大人になっても頭蓋骨の大きさが変化しないため、彼らは成長するにつれて垂直方向に拡大していった。

彼らの顔立ちはコーカサス人種と比較してもほっそりしてモダンである。

黒人種の頑丈そうな頭蓋骨に似たところはない。

ムイラン人の頭骸骨が、子供と同じような構造を保ちながら成長していく現象を専門用語で「幼形成熟」という。

これは現代人の重要な特徴のひとつで、子供時代が長いということは、脳の発達にとって有利なのである。


彼らが何者だったにせよ、彼らは北アフリカのこの海岸地方にだけ分布し、出現した時と同様突然姿を消してしまった。

ムイラン人は、未来からやってきた漂流者だったのだろうか?

彼らはむしろ未来人と言うのにふさわしい。

間違って100万年か200万年早く地上に出現してしまったのではないかと思わせるものがある。

考古学者にとって、ムイラン人はやっかいな存在なのである。


新しい発見があるたびに、人類誕生の推定年代は少しづつ遡り、人類誕生は200万年以上前と聞かされても最近では誰も驚かないほどである。

イカの石に描かれているように、恐竜と人類が共存していたとなると、イカの石を無視することはできない。

人類の起源について納得のいく説明は未だに存在していないという事実を消し去ることはできないのである。

        (引用ここまで)

         *****


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カブレラ博士との対話・・イカの線刻石の研究史(4)

2016-05-21 | インカ・ナスカ・古代アンデス



次に著者たちは、最も精力的にイカの石の収集・研究を行っているカブレラ博士のもとを訪ねました。

博士は、前述の浅川嘉富氏がペルーを訪れた際にはすでに他界されていましたので、博士の直の言葉としては貴重なものだと思います。


(浅川氏の本を次にご紹介しようと思っています)

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

            *****


         (引用ここから)


カブレラ博士は語った。

「これらの石を長年研究してきた結果、謎めいた文様の意味が次第に明らかになってきました。

私は初めから、芸術作品に対するような感傷的な態度では石の謎を解くことはできないと感じていました。

石を見ているうちに、私はこれらはある目的のために作られたのではないかと考え始めました。

なにかのメッセージを伝えるためではないのかと。

私はその考えから逃れられなくなりました。

石に刻まれている絵は、本当は「文字」なのではないか?

我々が抱いている文字のイメージとは違う形態の文字ではないのか?という疑念が頭をもたげてきました。

石に刻まれた絵は様々な事物や事実や特性や行動や出来事を象徴的にあらわしている「文字」なのではないかと。

私はこの文字体系の解明に全力を尽くしてきました。

そしてイカの石は図書館のようなものだという結論に達しました。

石のメッセージを残らずくみ取って解明するため、私はできるだけ多くの石を収集し、そのコレクションは「石の図書館」と名付けました。

線刻文様は一つ一つみんな違っていました。

夢中になりましたよ。

まるで一冊の本の1ページ1ページ、図書館の本の一冊一冊を集めていくような感じでした。


イカの石は、内容によっていくつかに分類できるんです。

すべてとは言わないまでも、多くの文明の文字は象形文字から発達してきました。

たとえば古代エジプトやマヤの文字は純粋な絵文字です。

漢字も一種の象形文字といえます。エジプトやマヤのものと比べるとずっと抽象化されてはいますが。

これらの文明はインカ文明やプレインカ文明より古いとされてきました。

インカ文明もプレ・インカ文明も文字を持たなかったと言われていますが、
だからこそ私は、線刻石の文様は文字の原初の形、つまり象形文字として、象徴化される以前の段階を示しているのではないかと考えたのです。

そのような段階の文字は、インカ文明やプレ・インカ文明以前に書かれたとしか考えられないと。



この原始的な文字は特定の意味を表すシンボルの組み合わせによってできているものと思われます。

新しい石をコレクションに加え、テーマ別に分類するたびに、複雑な全体的内容が次第に明らかになってきました。

イカの石はテーマ別に天文学、植物学、動物学、人類学、輸送システム、儀式、狩猟、漁労などに分類できます。


また、イカの石に描かれた人物像のプロポーションは現代人類のそれとは異なっています。

つまり現代人類であるインカ人やプレ・インカ人とも異なっているわけです。

ここのところを見落としてはなりません。

私は始め神話に登場する想像上の生き物かと思ったのですが、古生物学の文献にあたってみると、石に描かれた動物たちが、絶滅した古生物であることがわかったのです。

5本のひずめを持つ馬やラマ、ナマケモノの祖先メガテリウム、頭と首はキリンで体はラクダようなアルティカメルス、巨大な鹿のようなメガセロス、マンモス、巨大な肉食走禽ディアトリマスなどが確認されました。


ペルー人考古学者が1920年に発見したティワワナコ文化の影響の見られる土器にも5本のひずめをもつラマが描かれていました。

5本のヒズメを持つラマは、4000万年前に絶滅しています。

ごぞんじのとおり現在のラマはぐうてい類です。

当時5本指のラマは古代人の空想による擬人化の表現なのだろうと説明されました。

5本のひずめをもつラマと人類が共存していたはずがない。

しかし数年後、同じ地層から5本指のラマの化石が発見されました。

これが発見された以上は、古生物学者も考古学者も、少なくとも人類と5本指のラマの共存を認めざるを得なかったのですが、この事実がもつ意味はその後も無視され続けたのです。


私にとってこの事実が持つ意味は明らかでした。

つまりイカの石はインカやプレ・インカの所産ではないということです。

イカの石を彫った人類は、現在の定説が設定している人類誕生の時代をはるかにさかのぼる古代の昔に存在していたにちがいないのです。

イカの石を制作した人類の正確な年代は、長い間特定できませんでした。

しかしある時、どう見ても恐竜が描かれているとしか思えない石がいくつか発掘されました。

まず明らかにステゴザウルスと思われる動物が描かれている石が発見されました。

これに続いてティラノサウルス、プロントサウルス、トリケラトプス、ランベオサウルスなど恐竜を描いた石が続々と発見されました。


定説によれば恐竜はホモサピエンスが登場するはるか以前に絶滅したとされています。

しかしそれならば、なぜ恐竜と人間がいっしょに描かれているのでしょう?

恐竜と人間を並べて描いた石が何十個となく発見されています。

何億年も昔に、すでに人類が誕生していたということでしょうか?

ホモサピエンスの誕生は4万年から3・5万年前でありどんなことがあっても100万年以上前ということはありえないというのが学界の常識ですが。


イカの石に科学的な説明を与えるのは至難の業でした。

空想だけであれこれ言ってみてもはじまりません。

イカの石には人間と中生代の恐竜がいっしょに描かれています。

そこに描かれた動物たちは、絶滅した古生物に驚くほどよく似ています。

描かれているのは想像上の動物かもしれない、見たこともない動物を勝手に空想して描いたものかもしれない。

しかし、絶滅した太古の生物の姿をはたして空想だけで正しく描き出せるでしょうか?

そんなことはとうていありえません」。


 
         (引用ここまで)

写真と解説文



イカの石の中でも最も謎めいた石の一つ。3億年前に生息していた原始的な魚アグナトゥスが。




これはどう見てもティラノサウルスである。ティラノサウルスは白亜紀最大の肉食恐竜で、体長は14メートルもあった。




重さ約200キロの石に、1億5000万年前に生息していたステゴザウルスの成長過程が描かれている。




中央の石に、ラマの体にキリンの首をもった古生物アルティカメルス(約4000年前に絶滅)が描かれている。




南米の馬はおよそ9万年前に絶滅した。この石は明らかにそれよりも古い時代に彫られたのだ。


            *****


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地下の秘密トンネル・・ペルー・イカの線刻石の研究史(3)

2016-05-16 | インカ・ナスカ・古代アンデス



コルネリア・ペラトゥ、ベルナント・ロイディンガー共著の「模様石に秘められた謎」をご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

航空博物館館長との話は続きます。

        *****

     (引用ここから)

インカの新たなる謎 

航空博物館館長は次に、書類の中から、我々にとある雑誌を選び、読ませてくれた。

「ワスカラン山はペルーのアンデス地方にそびえたつ標高6747メートルの高山である。

インカ時代の輸送路(インカ道)はワスカラン山から北に260キロほど続き、山のなかで途切れている。

この地方では、すでにピサロの時代に堀り広げた入り口がいくつか発見されている。

当時そうした洞窟は貯蔵庫だろうと考えられていた。

最近これら「インカ洞窟」に興味をもった洞窟学者たちが、ケーブルウインチといった現代装備に身を固めて洞窟内部に挑戦し、驚くべき発見をした。

多層構造になっている洞窟の中を進んでいったところ、山脇から62メートル下がった地点で、岩の隔板が出てきた。

この板は高さが8メートル、幅が5メートル、厚さが2・5メートルある巨大なものだが、コロの役目をする石玉の上に乗っているため4人がかりで強く押せば動かすことができる。


壁を越えて進んでいくと、更に驚くべき発見が待っていた。

同じような壁を数枚越えた先に現代の地下工事現場も真っ青の巨大なトンネル構造物が広がっていたのだ。

トンネルは海岸へ向かって伸びている。

トンネルの傾斜は、急傾斜なところでは24パーセントになる。

トンネルの壁には溝をつけてざらざらにした石のタイルが敷き詰められ、すべりどめの役目を果たしている。

そのトンネルの長さは90ないし105キロ、深度は終点の海岸地点では海面下25メートルにも達する。

こんなトンネルを掘るのは現代の技術力をもってしても大事業だ。

ましてや14・5世紀にはどんなに難事業だったことだろう?

ピサロとスペイン副王の魔手から守るため、インカ帝国の人々は財宝をこの地下トンネルを使って疎開させた。

このトンネルは「グアナペの地下トンネル」と呼ばれている。

グアナペとは、トンネルの終点の島の名前である。

トンネルはかつてこの島にまで通じていたと思われるが、現在は海岸線まで到達した地点で終わっている。

トンネルが下降して行く先に投光器の光に照らされて真っ黒な海が見える。

インカ人とその祖先の地下トンネルはどこに通じていたのだろう?

もしかして、失われた文明の宝物庫に通じていたのだろうか?

今となっては誰にも分からない」。


雑誌を読み終わった我々に、館長は言った。

「この地下トンネルは、インカ時代の建造物と共通点などないにも関わらず、インカ人が造ったことになっています。

インカ人にあんなトンネルが造れたはずがないのです。

第一、 建設に必要な道具類がありませんでしたから。

それに建築様式も違います。

しかしインカ人がこのトンネルのことを知っていて、一部利用していたことは事実のようです。

この巨大な地下トンネル網に通じる入り口は、中米から南米のチリやアルゼンチンの至る地域で発見されています。

岩盤を彫り抜いて造られたこうした地下道は、迷路のようにあらゆる方向へ伸びています。

ペルーではこうした地下道はケチュア語で「チンカナス」と呼ばれています。

地下道の調査にあたったのは、おもに各国の将校たちです。

しかし、調査結果に関する各国間の情報交換は、情報機関レベルでさえも行われていません。

現代の地下鉄道をもしのぐこの地下トンネルを作ったのは、インカやプレインカよりはるか昔にこの大陸に栄えていた未知の文明です。

100キロに渡って続くこの地下道が何のために作られたのか、その目的は全く分かっていません。

地下道の大部分は地震によって崩れてしまっていたり、海面下で水没していたりで、調査不可能の状態です。

巨大な岩の板といい、複雑な構造の岩の壁といい、小柄なインディオや彼らの泥小屋や土器とはおよそ結びつきません。

かつてアメリカ大陸には、彼らとは似ても似つかないタイプの人間が住んでいたのではないでしょうか?

1966年に、合衆国デユーク大学海洋学研究チームがリマ西方80キロの地点で水中写真を撮影しました。

水深2000メートルの海中で撮影を行ったところ、非常に古い時代の都市の遺跡が水没していることが判明しました。

写真には象形文字の刻まれた遺跡が泥で覆われた海底に横たわっているのがはっきりと映っていました。

さらに水中探知機で調べたところ、古代遺跡と思われる丘の存在が確認されたとのことです。

カブレラ博士が研究を始める数年前に、イカの石のいくつかはすでに発見されていました。

それらは現在すべて個人所有となっています。

こんにち航空博物館でご覧になった石は間違いなく本物です。

イカの石はシンボルの壮大な集合体ですが、そこから読み取れるメッセージはある種の雑誌が書き立てたがるような〝予言めいた” ものなどではありません。

イカの石に描かれているのは、遠い過去の時代の知識と歴史なのです。

石に描かれた「科学技術」は、現在知られているどの古代文明にもなかったものです。

そこに描かれている人間の姿は、インディオには似ていません。

その体格はインディオのそれとは全く異なっています。

インディオよりずっと大きかったのです。

イカの石には何百万年前に全滅した動物と共に人間の姿が描かれています。

一方、原生動物、犬、猫、サル、馬などの絵は一つも発見されていません。

宇宙人やUFOと解釈できるようなものも描かれていません。

また象形文字やアルファベットのようなものもみつかっていません。イカの石の存在は国際的な考古学界にはまだほとんど知られていない。

これまで2人の世界的権威がイカの石をその目で見、意見をのべただけにとどまっています。

それ以来現在に至るまで、イカの石を巡っては混乱が続いているのです」。




偽造という問題に関して、次のような疑惑がわいてくる。

カブレラ博士の博物館にほんとうにそれほどの石が所蔵されているとすれば、それらすべてに精巧な細工を施したのは誰なのだろう?

なにしろそのカブレラ・コレクションは11000個をくだらないというのだ。

読み書きもろくにできない地元の農民にステゴザウルスとブロントサウルスの違いがわかるはずもない。

イカの石には、複雑な外科手術の様子が精密に描かれている。

彼らがそんなことを知っているはずもない。

ましてや1億年も2億年も前の大陸の分布などを彼らが知っているはずはないのである。

我々は、館長の話を聞きながら、茫漠とした気持ちに襲われた。

 
          (引用ここまで)

写真(下)は同書より。以下のように解説されています。

「イカの石の模写。「機械のような鳥」の頭に、アンテナのようなものがついている。
また階段のようなものが、恐竜に武器を突き刺している人間(おそらく狩りをしているのだろう)に向かって延びている。
彼は縄のようなものを片手で握っている。
下の恐竜の頭の周りには、蛇のようなものが見える。
これが何を意味しているかは不明である」
 

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低空飛行権を握っていたのではないか?・・イカの線刻石(2)・航空博物館にて

2016-05-09 | インカ・ナスカ・古代アンデス




事情があり、投稿に少し時間がたちましたので、もう一度この本をご紹介しようと思った経緯から書き始めます。

数年前、浅川嘉富氏の「恐竜と共に滅びた文明・・世界初公開・15000年前に掘られた石・イカ線刻石が語る」という本を読みました。

面白かったのですが、ちょっとセンセーショナルで、ほんとうかなあ、という気持ちもあったので本棚に入れたままにしていました。

先日図書館でふと「模様石に秘められた謎」という別の翻訳本をみつけました。

同じくペルーの石に掘られた線刻画について書かれていました。

浅川氏はペルーに旅立つ日の朝、知人からこの本を郵送で受け取ったのだそうです。

そして飛行機の中でその本を読んだ後、本物の線刻石を見たということでした。

南米の古代文明という大きな問題にもう一度立ち向かってみようかという気持ちになりました。

まずは、多少冗長ではありますが、コルネリア・ペラトゥ、ベルナント・ロイディンガー共著の「模様石に秘められた謎」をご紹介します。

著者たちは次に、軍事機密の保管庫であるペルー空港博物館をおとずれます。


リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


         *****


       (引用ここから)



我々(著者たち)はイカの石調査のため1988年ペルーを2度目に訪れた時、この空軍博物館を訪問した。

館長の大佐が我々を案内してくれた。

イカの石の収集に大佐が熱心だったのは、その芸術的価値ゆえであった。

裏庭に足を踏み入れた我々は突然立ちすくんだ。

そこにイカの石が3つ置かれていたのだ。

20世紀最大の考古学的発見の一つと言えるであろうイカの石、年代も文化的分類もいまだ不明のイカの石。

我々は夢中で石に近寄り、石の埃を払おうとした。


大佐によれば裏庭のイカの石はカブレラ博士から寄贈されたものだということである。

石の大きさはまちまちである。

描かれているのは、様式化された鳥の絵で、その描線には有名なナスカの地上絵を思わせるところがあった。

ナスカの地上絵は大きすぎて、高空から眺めなければ何が描いてあるのかわからない。

描かれたのは何千年も前のことと思われるが、謎である。


地上絵を描いた高度な文明。。

これをのちの時代のナスカ文明やインカ文明と混同してはならない。

ナスカの地上絵の年代と目的を解き明かそうという試みが繰り返し行われているがすべて推測の域を出ない。

ナスカの地上絵をアンデス地方の謎の巨石建造物と結び付けて考え、その成立年代を従来考えられてきたよりずっと古いとする説の方がよほど現実的ではないか?

イカの石の線刻文様を紙に書き写してみて、初めて明らかになったことがあった。

線刻の描線が、まるで図案を前もって製図に描いてからそれを起伏のある石の上面に転写したもののようだったのである。

というか起伏のある石表面に画をスライドのように投影し、それをなぞったり彫り込んだようにさえみえた。

その描線は石表面のでこぼこに合わせて彫り込まれた線とは明らかに異なっていた。

この事実も、ナスカの地上絵を思い起させる。

地上絵の直線も、土地の起伏とは無関係に一定の方向に向かって地平線まで伸びている。

地上絵の研究に一生を捧げたドイツ人数学者は、「地上絵は原画を拡大するという方法で描かれたものにちがいない」と述べている。

土地測量の知識のある人にしか実感できないかもしれないが、原画を巨大に、しかも正確に引き延ばすという作業は高度な熟練を要するのである。


古代ペルー人はどのような器具や方法を用いてこれを行ったのだろうか?

イカの石を前に、われわれが抱くのもこれと同じ疑問である。

もちろんイカの石とナスカの地上絵では大きさに違いはあるけれども。


この点について尋ねると、大佐はちょっと微笑んで、「製図工にも分からないそうです」と答えた。

テーマ的に関連のある絵が描かれている複数の石を調査した結果、全く同じ幾何学模様が繰り返し彫り込まれていることが判明したという。

しかしはるか昔に、どのような技術を用いて原画を石に模写したというのだろう?

誰がどんな目的で?


我々はまずイカの石の素材そのものの年代をたずねた。

「イカの石は安山岩です」と大佐は説明を始めた。

「この地方の安山岩は、中生代に成したと考えられています。

イカの石は周りの水で角がとれて丸くなっています。

イカの石自体ができたのはおよそ2億2000万年前と考えられます。

アンデス山脈自体よりも1億6000万年古いことになります」。

さきほども述べたが、航空博物館は公共の博物館ではない。

空軍所蔵の製図工の手になるイカの石の線刻文様のコピーを閲覧するにも大佐の口添えが必要だった。

まるで軍事機密のような扱いだった。

イカの石は航空博物館には不似合いである。

その展示にも格別の注意が払われていないように思われる。

いくつかの石が裏庭に無造作に置かれている。

あとの大部分は地下室にしまい込まれたままである。

整理もされないまま積み重ねられているので、じっくり見ることも撮影することもできなかった。


大佐は現役時代、空軍の情報部に所属していた。

大佐は過去数十年間ペルー上空でおきた重要な事件について報告を受ける立場であった。

UFOの目撃証言は、逐一報告されていたはずである。

UFOの目撃証言件数では、ペルーはアメリカ大陸随一である。

大佐は専門家として、イカの石がUFOと関係があるとする説をどう考えているのだろう?


「イカの石の文様になにか宇宙人を連想させるものがありますか?」と我々はずばり聞いてみた。

「カブレラ博士のコレクションにはUFOを思わせるものや描かれている石は一つもありません。

過去50年間、何度となく空軍に見せられた目撃証言によれば、いろいろとヴァリエーションはありますが、UFOは葉巻やコーヒーカップの受け皿のような形らしいですね」という返事だった。

「でもイカの石には種類の特定できない鳥が描かれていますよ。
これこそまさに未確認飛行物体というべきじゃありませんか?」

「たしかに様式化された、鳥を思わせる飛行物体の絵はイカの石だけに見られるものです。

こんなものが描かれているということ自体がセンセーショナルなことではあります。

しかしだからといって地球外生命と関連づけなければならない理由はどこにもありません。

ヘルメット、その他の装備を身に着けた古代人や宇宙人を思わせる人物が描かれているわけでもありません。


イカの石の文様は既知の古代アンデス文化のどれとも関係がなさそうなのです。

既知のモチーフとの唯一の接点は、ハチドリを象ったと思われる画だけです。

ナスカの地上絵にもこれと似たものが見られます。

イカの石はナスカの地上絵よりずっと古いのです」。


「イカの石が偽造品だという可能性についてはどうお考えですか?」と尋ねると、大佐は再びかぶりを振った。

「偽造の線はありえません。

カブレラ博士は70年代のかなり長期に渡って情報機関の監視下にありました。

博士が信頼できる人物であることは実証済みなのです」。


我々は次にイカの石の制作年代について尋ねてみた。

「文献を調べても、どうもそこのところがあいまいなんですが?」と。

「イカの石の制作年代はまだ分かっていません。

しかしイカの石に文様を刻んだのが既知の文明でないことはたしかです。

もちろん現代文明でもありませんよ、そう言いたがる人が、考古学者やマスコミにもたくさんいますがね」と大佐は笑いながら言った。

「我々はイカの石をなんとか既知の文化に当てはめようと長年比較検討してきました。

しかしイカの石と既知の文化との結びつきはどうしてもみつかりませんでした。


たとえばこの画ですが、これを見るとイカの石を制作した人々は制空権を、すくなくとも低空飛行の制空権を握っていたように思われます」


          (引用ここまで)

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太古の南米文明の謎に挑む・・イカの線刻石(1)

2016-04-29 | インカ・ナスカ・古代アンデス


数年前、浅川嘉富氏の「恐竜と共に滅びた文明・・世界初公開・15000年前に掘られた石・イカ線刻石が語る」という本を読みました。

面白かったのですが、ちょっとセンセーショナルで、ほんとうかなあ、という気持ちもあったので本棚に入れたままにしていました。

先日図書館でふと「模様石に秘められた謎」という別の翻訳本をみつけました。

同じくペルーの石に掘られた線刻画について書かれていました。

浅川氏はペルーに旅立つ日の朝、知人からこの本を郵送で受け取ったのだそうです。

そして飛行機の中でその本を読んだ後、本物の線刻石を見たということでした。

南米の古代文明という大きな問題にもう一度立ち向かってみようかという気持ちになりました。

まずは、多少冗長ではありますが、コルネリア・ペラトゥ、ベルナント・ロイディンガー共著の「模様石に秘められた謎」をご紹介します。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

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       (引用ここから)


「イカの石の研究史」(1)・・1961年にはじまる


ペルー・アンデス山脈のふもとのオクカヘ砂漠には、パンパとよばれる果てしない平原が広がる。

この地に立つと時間の流れの外にいるかのような気持ちに襲われるが、それもあながち錯覚とばかりは言え
ない。

オクカヘ砂漠のいたるところに転がっている岩は、おそらく地球最古の岩なのである。

ほこりっぽい道路が、点在するオアシスを結んでいる。

ほとんど一年中干上がっているが、川もあるにはある。

インカ文明やプレインカ(前インカ文明)の担い手の末裔である住人たちは、干上がった川のほとりのやせた土地から上がるわずかな農作物でかつかつの生活を送っている。

しかし考古学者にとっては、この地域一帯はまさに宝の山である。

このあたりには海岸からアンデスのふもとにいたるまで、インカ時代やそれよりも古い時代の墓が無数にあるのである。


イカはこの荒涼とした砂漠地帯の真ん中に位置するオアシスの都市である。

400年ほど前に建設されたイカは、現在でもにぎやかで豊かな都市である。

ここイカにスペイン系ペルー人の外科医カブレラ博士は住んでいる。

アマチュア考古学者である彼は、この地域の歴史を徹底的に研究してきた。

首都リマの大学教授たちより徹底的にかつシステマチックに研究してきたといえるかもしれない。

博士は「人類史の定説を根底からくつがえしかねない衝撃的な遺物を発見した」という。

それを見れば太古の昔に我々とは別種の人類が地球上に存在したと考えざるを得なくなる、と言うのである。


紀元前4万年から1万年ごろ、アメリカ大陸とアジア大陸は陸続きだった。

人類はこの頃、マンモスやマストドンを追って陸続きだったベーリング海峡を越えて初めてアメリカ大陸へ渡り、その後次第に南米に下っていった、というのが現在にいたるまでの定説となっている。

ペルーに人類が到着したのは、最も早くても20000年前のことであると。

そしてペルーの地に文明が生まれたのは比較的遅く、およそ3000年前のことだったと言われてきた。

谷間や海岸沿いにさまざまな文化が生まれ、その中からプレインカのさまざまな大国が誕生した。

わずかな期間で滅んだ王国もあれば、長期間栄えた王国もあった。

インカ文明およびプレインカ文明は古代ペルー文明とか先コロンブス文明、あるいはプレヒスパニック文明とも呼ばれている。

これらはペルーの古典文化として広く知られている。

しかし、この確固たる定説がアマチュア考古学者の発見によって、今や崩壊の危機にひんしているのである。



それは1961年のことだった。

いつもは一年中ほとんど干上がっているイカ川が思いがけず氾濫し、あたり一帯水浸しになった。

アンデス地方では数十年ぶりの大洪水だった。

突然大奔流となったイカ川は、砂漠の砂を海へと押し流した。

それとともに深い地層からさまざまな石が洗い出されてきた。

その中に、不思議な絵が刻まれた石がいくつか混じっていた。

突然出現したこれらの石は、明らかに未知の文化に属していた。

そこに刻まれた絵には南米では存在が知られていない動植物が含まれていた。

しかもそれらは人類が誕生するはるか以前に栄えていた動植物だったことが判明したのである。

石に刻まれた主なモチーフには、次のようなものがある。

○未知の地域の地図、および星座図のようなもの
○工学的機器、望遠鏡、拡大鏡
○先史時代に絶滅した動物、それらの成長の様子を示した図、高度な外科手術を現した図
(中には心臓、腎臓、肝臓、脳移植など極端に複雑な手術の図もある)
○輸送機械
○様々な楽器
○儀式、宗教、スポーツ、性的行動、社会的活動を描いた図
○格闘シーン等を描いた図、その他何をしているところが分からない図もある

このような石が、砂が洗い流されたイカ川の岸辺に忽然と姿を現したのである。

石は半ば砂に埋まった状態で岸辺に散らばっていたところを、インディオの農民たちに偶然発見された。

彼らは、かつて高度な文明が栄えたこの地方で食うや食わずの生活を送っている。

農民たちは考古学者にとって悪夢のような存在である。

ずいぶん以前から彼らは、考古学者を相手にして貴重な石を掘り出し、好事家に売り飛ばしては生活の足しにしてきた。

こうした遺物がしかるべき研究者の手に渡ることはめったにない。ペルーではこうした盗掘者はワケーロと呼ばれている。


農民たちは、黄金や宝石やワカ(聖なる貴重なもの)を探して、古い墓など考古学上貴重な場所を暴き、破壊してしまう。

彼らは家族ぐるみ部族ぐるみで盗掘を行っている。

金銭的価値無しとみなされたものは埋め戻されてしまう。

こうして無数の貴重な遺物が研究者の手に触れることなく地中に葬り去れて、朽ち果ててしまう。

農民たちは盗掘品を外国人だけでなく裕福なペルー人にも売りさばいている。

大農園の所有者や金持ちならほとんど誰も、こうした品々をコレクションとして所持している。

懲役刑という厳しい罰則付きの禁止令が出ているにも関わらず、盗掘品の違法な取引は一向におとろえる気配がない。

盗掘を行っている農民たちに腹を立ててみてもしかたがない。

何か月かの家族を養えるだけの金になるのだから。

それに出土品の学術的価値など彼らには知る理由もないのだから。


1966年、カブレラ博士は無料で治療をしてやった農民から、重石にでもどうぞと小さな石を贈られた。

石には奇妙な鳥の絵が彫り込まれていた。

ある日、博士はふと石に彫り込まれた鳥が神話にでてくる動物に似ているように感じた。

それが気になって詳しく調べてみようと思い立った博士は、手に入る限りの資料と石を突き合わせてみた。

出てきた結果に、博士は困惑してしまった。

石に彫り込まれた絵に唯一似ている鳥が、1億4000万年から8000万年前に生息していた翼竜の復元図だったからである。

生きた翼竜をその目で見た人間がいたはずはない。

そんなことは常識だ。

しかしいったい誰がジュラ紀から白亜紀にかけて生息していた翼竜を、これほど正確に描くことができたのだろう?

この絵を彫り込んだ人間は、どこから翼竜の知識を得たのだろうか?


調査の結果に戸惑った博士は、石が後世の偽造品である可能性も捨てきれないと、石の出どころを突き止めることにした。

この調査が、イカの石・・今までその存在すら忘れ去られた太古の人類が残した「石の図書館」の発見・・という快挙につながったのである。

博士は診察室を私設博物館に改造し、これまでに収集した11000個の石を保管している。



石の大きさはまちまちで、200キロもある堂々たるものから、ごく小さめな目立たないものまである。

イカの石の発見者は、博士だけではなかった。

考古学者ヘルマン・ブーゼが1965年に発表した「ペルー入門」によれば、同種の石をかなり収集した人もいる。

しかし彼らはすでに故人となっていて、個人の所有物ということで公開されていない。

1966年リマの日刊紙に「オクカヘ砂漠の謎の石」と題する記事が掲載された。

記事を書いたのは当時ペルー工科大学学長だったアレハンドロ・ペシアだった。

この記事にも石に描かれた謎の絵、なかでも、「未知の種類の鳥と植物と星の絵」のことは詳しく述べられている。

特に星の絵はプレインカの絵画には見られないモチーフであるといえる。

「先コロンブス文明の魔法の石」は博物館目録に登録はされたが、しばらく後、忘れ去られてしまった。

最初に新聞記事のきっかけとなった石が発見されたのは1966年のことだった。

それからまもなく考古学者が同種の石を発見した。

彼は100個ほどの石を収集し、その分析をペルー工科大学工業研究所に依頼した。

同研究所の著名な教授が責任者となって作成された鑑定書はセンセーションを巻き起こした。

石の表面と線刻部分をおおっている酸化層を分析した結果、絵が刻まれたのは「1万2000年以上前である」と判明したからである。

この鑑定結果の鑑定書のオリジナルは今もペルー工科大学で閲覧することができる。

もちろん考古学界はこの鑑定結果に大いに驚いた。

イカの石の最低年代とされた1万2000年前といえば、従来の学説によれば人類がアジアからアメリカ大陸にわたってきたばかりの時代ではないか?

リマ大学学長でさえ、鑑定結果には驚かされたと認めた。

誰一人として、これほど古い年代を予測してはいなかったのである。


         (引用ここまで)

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「ナスカの地上絵(1)・・長さ50キロメートルの矢印を眺めたのは誰か?」(3)まであり

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ペルー・ナスカ 地上絵の直線は村落を結んでいる・・山形大・坂井教授が新説

2015-03-03 | インカ・ナスカ・古代アンデス



「ペルー・ナスカの地上絵に新説  直線の地上絵、村落結ぶ…坂井・山形大教授が新説」
                      読売新聞2014・10・22


              ・・・・・


謎に包まれた、南米ペルーのナスカの地上絵。

2004年度から現地で調査している山形大の坂井正人教授(アンデス考古学)が、大半を占める直線の地上絵は、一帯の集落のつながりを地上に示す役割だった、とする新たな見方を提唱した。

また、ハチドリやサルなどの動物絵は、役割が時代と共に変化したとみられ、地上絵の存在理由が少しずつわかってきた。


山形大チームは人工衛星写真を用いて新たな地上絵を発見、原図から歩数換算で拡大した絵を描く実験も行い、様々な謎を解明してきた。

ナスカ台地と周辺に点在する地上絵は、1200以上。

そのうちハチドリやハチ、クモなど生物が中心の「動物絵」は50前後に過ぎず、渦巻き、台形など幾何学模様が200以上あるほか、大部分は「直線」だ。

チームは、地上絵近くに散乱する土器片1万点以上の製作時期や模様、分布を分析。

地上絵の制作が紀元前400年頃から2000年続いたと確認したほか、直線には動物絵と違う目的があったとの見方を強めた。



直線は、文字がなかったナスカで、村落の存在やつながりを表し、再認識する役割があったようだ。

パラカス後期(紀元前400年頃~後200年頃)には、小さな丘から1本の短い直線が描かれた。

ナスカ前期(後200~500年)になると、関連する丘の数が増え、そこから放射状に直線が描かれた。

丘は、ナスカの各村落の「象徴」で、集団の団結を図るため、土器を破壊する儀礼が行われたようだ。


そうした丘は、ナスカ中・後期(500~700年頃)には減少。

地下水路が整備されて、人口が町に集中し、村の数が減ったためとみられる。

代わりに、長いものでは数キロに及ぶ、丘と丘をつなぐ直線が登場。

神殿中心の社会が終わり、村落同士が政治的に結びつき始めたことを示唆するという。


高地の人々に支配されたワリ期(700~1000年頃)には、政治的影響を受けたからか、ナスカの村落の連帯関係は解消され、直線の地上絵はほとんど使われなくなった。

イカ期(1000~1500年頃)に入り、支配から脱すると、直線の地上絵は集団の連帯のために再び利用された。


一時的衰退はあるにせよ、丘と直線は、2000年間、土器破壊儀礼の場だった。

坂井教授は、

「土器の破壊儀礼は、ナスカの諸集団の関係を再認識する行為だったのだろう。文字のないナスカ社会では、地上絵や儀礼によって、社会関係が再認識されていた」と考えている。

一方、動物絵に関しては、同大チームは昨年度、ナスカ台地に面した丘陵地の斜面で、ラクダ科のリャマの絵を何頭分も発見。

絵と、時代ごとの土器の絵柄を照らし合わせ、地上絵制作が始まったパラカス後期のものと判明した。


当時、ナスカは神殿中心の社会。

人々は神殿に巡礼し、近くで製作されていた多彩色土器を持ち帰った。

村落のリーダーはそれを再分配し、地位を維持していたと見られる。

神殿に向かう巡礼ルートの「目印」として、動物や人、人身供犠の場面などがルートから見える斜面に描かれたのが、動物絵の始まりだったようだ。


ナスカ前期になると、動物絵は、居住地に近い平地に描かれた。

農耕社会だったナスカで、豊穣を祈る「儀礼の場」になったらしい。

儀礼ではここで土器を壊し、一部持ち去られたことが分かっている。

現在の儀礼活動を考慮に入れると、持ち去られた土器片は畑や水路にまかれた可能性がある。

絵柄が、豊穣儀礼を助けると考えられたハチドリなどの野生生物になったことが、それを裏付ける。


ワリ期以降、動物絵は廃れていくが、この地では今も雨ごいで土器を壊す儀礼が残るという。

チームは今後、古代ナスカの巨大居住地の発掘に着手し、社会構造の面からもこの見方を検討する予定だ。

                ・・・・・


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聖なる丘がずっとあった・・古代アンデス文明(3・終)

2014-04-20 | インカ・ナスカ・古代アンデス


引き続き、加藤泰建・関雄二氏編「文明の創造力・古代アンデスの神殿と社会」のご紹介を続けます。

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                *****


              (引用ここから)


1975年、東京大学アンデス調査隊はペルー北部の古代遺跡の調査を再開した。

ワカロマ神殿遺跡はこの時発掘された。

ワカロマとは、地元の言葉で「聖なる丘」という意味である。

紀元前1500年から紀元前1000年頃以降、実に長い間、繰り返し壊しては建て替えられて、使われてきたことが明らかになった。

神殿の部屋が発掘されたが、その部屋がどのように使われたのかの考察が試みられた。

部屋はさほど広くないため、仮に屋根構造を持ち、密閉された空間だったとするならば、中央の炉で火を使うとかなりの暑さ、あるいは煙で苦しむかもしれない。

しかしなにより床面に生活を匂わせる遺物が全くなかった点が不思議である。

こうした証拠から部屋は祭祀用に用いられたと考えたのである。




発掘区内で部屋の面積を把握できたものは少なかったが、いずれも3×2メートル程度であった。

マウンド直下で発見された部屋よりは小ぶりであるが、壁や床の作りはよく似ている。

また“連結する部屋”がみられたこと、中には部屋同志を結ぶ通路を備えているものがあったことも共通している。

マウンド直下で発見された部屋を祭祀建造物と判断するならば、こちらの“連結した部屋構造”を一般の住居と推測することができるかもしれない。


ところがこうした小部屋群には、更に奇妙な特徴が認められるのである。

たとえばニッチを備えている部屋もあったし、またそれ以上に驚かされたのは炉の多さである。


焚火後のような雑な作りのものから、部屋の中央の床面にキチンと円形のくぼみが掘られているものもあった。

興味深いのは、部屋の中央に一対のくぼみが設けられている例が2件もあり、しかもいずれの場合でも火を受けているのは片方のくぼみだけであった。


くぼみの形態は、一例では双方ともに円形、もう一例では方形と円形という組み合わせであった。

日常用の住居では考えにくい炉の構造である。


もう一つ重要な建築上の特徴は、部屋の更新や改築を行っている点があげられる。

方形の部屋を囲む壁の高さはせいぜい30センチほどしか残っておらず、前の時期の壁を再利用したり拡張することで次々と立て替えていったことがわかる。

この際、以前の部屋の床上に熱い灰層を敷き詰め、その上に新たに床面を張るという建設過程をふんでいる例もあった。

これは、「コトシュ遺跡」の「ミト期神殿」の「更新過程」を思い起こさせる。

地山に達することなく発掘を終了せざるを得なかったが、それでも6回の建て替えを確認した。

このように、たしかに出来栄えは雑で、一見して一般の住居と判断されがちな小部屋群も、さまざまな点で祭祀活動を思わせる証拠が見え隠れしているのである。


ところで祭祀活動と一口に言うが、いったいどのような祭祀を営んでいたのであろうか?

これに答えることは、かなり難しい。


もう少し南の方の山地では、コトシュ宗教の伝統が存在していたことを思い起こしてみよう。

それは閉鎖された比較的小さな部屋の中で、やはり炉が床面に切られていた。

この炉があるのは、一段低くなった床の中央であり、床下には通気口が走っていた。

壁にはニッチが設けられる場合もあり、こうした部屋が一気に埋められては、その上に新しい、しかも同じ形態をとる部屋が建てられたのである。


これを命名したリチャード・バーガー氏は、コトシュ宗教伝統の痕跡が認められる遺跡として、コトシュ、ワカロマを挙げている。

これまでの前期ワカロマ期の大小の部屋上の構造を見る限り、コトシュ宗教伝統に顕著な特徴はない。

類似している点は、泥の上塗りの壁や床、炉の存在といった漠然とした要素にしかすぎない。

総じてコトシュ宗教伝統の名を冠することはできない。

しかしながら、バーガーが指摘する概念との関連を、小さな閉鎖的な空間で火を用いた儀礼を行い、それに応じた建築活動を展開すること程度に拡大解釈するならば、「形成期初期」から「前期」の時点で、少なくとも、中央アンデス地帯の北部山地のかなりの広い地域で同じ傾向が存在したことが推測できる。

ガルガーダ遺跡を発掘した彼らは、実際に行われたであろう儀礼について、興味深い仮説を提示している。

炉の中からトウガラシの遺残が出土しているので、これを燃やした可能性があるというのである。

トウガラシを燃やした煙は、さほど広くない部屋なら簡単に充満し、儀礼参加者は涙を流す。

この儀礼的行為は、雨を乞う「類感呪術」として解釈できるというのである。


ワカロマの場合、炉にたまった灰の分析によると、雑穀類を燃やした可能性があるという結果が得られているので、彼の仮説はすぐには確定できない。

しかしあれほど狭い空間に煙が充満すれば、トウガラシでなくとも目が染みるかもしれない。

またワカロマの小部屋群の炉の一つからは、海産のチョロ貝(カラス貝の類)の殻が一点だけ出土している。

もちろん食べた可能性は捨てきれないが、一点というのが気にかかる。


発掘当時はさほど気にも留めていなかったが、1993年にカハマルカ盆地から太平洋に向かって下りていく谷中流域のラボンバ遺跡で発掘調査を行った際、「前期ワカロマ期」にあたる二つの墓を発見したことでその特殊性に気づいた。

いずれの墓の副葬品にもチョロ貝が含まれていたのである。


一つは無煙炭製鏡や石製ビーズ玉と共に、もう一つは骨製のヘラと共に出土している。

これらの副葬品は、今日ペルー北海岸一帯に広がる呪術儀礼で用いられる道具の一部とほぼ対応している。

特に貝は、幻覚剤などを吸引する際に欠かすことのできない容器として使用されることが多い。

また現在の山地の儀礼でも、海産の貝が利用される例は数限りがない。

こうしたことから判断すれば、出土したチョロ貝は、幻覚剤などを入れるために用いられた可能性も考えておくべきだろう。


               (引用ここまで)


(写真は同書より・後期ワカロマ遺跡)

                 *****


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食器がないのに神殿がある文明・・古代アンデス文明(2)

2014-04-18 | インカ・ナスカ・古代アンデス


引き続き、加藤泰建・関雄二氏編「文明の創造力・古代アンデスの神殿と社会」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****


           (引用ここから)

             

アンデス文明の起源

文明の起源とは、文明社会がいかにして形成されたのかというその過程のことである。

またその過程はそれぞれの文明により独特である。

その独自の個性的過程を解明することが、文明起源の研究のまずもって最も重要な課題である。

すでに述べたように、先土器時代の、食糧生産が十分に発達していなかった紀元前3000年期の初めごろ、アンデスの人々は高地の採取狩猟を営むグループとは別に、温暖で植物や小動物を得やすい山間の谷間や、豊富な海産物のある太平洋の海岸に、生活の拠点を作っていた。

当時の人々の食糧入手活動の中で、栽培がどのくらいの重要度をもっていたのか、まだあまり明らかではない。

しかし先土器時代での発見例が少ないというのは、やはり栽培の比重があまり高くはなかったということなのだろう。



しかし まもなく人々は、大きな祭祀建造物を建て始める。


灌漑農業がすでにあったという説もあるが、たとえあったとしても、それは小規模のものであった。

文明の指標の一つである、大きな公共建造物は、アンデスの場合、農耕がまだあまり進んでいない時に、神殿建築として始まり、次第に規模を大きくしていったのであろう。

アンデスの事例からするに、そのような神殿が「更新の反復」という慣習と相まって、食糧生産、人工増加、政治システム、宗教思想とその視覚的な表現などの進展を刺激し、鼓舞し、文明への過程を加速させたと考えられる。


普通、文明の起源については、次のようなことがよく言われてきた。

食糧生産が、余剰と貯蔵を可能にし、それを使って生産に直接的には従事しない人間を養うことが可能になり、そのような一群の人間たちが別の活動を行うことで分業が成立し、それを統合しコントロールする政治のシステムが発達し、政治をコントロールする者が権力を持ち、大勢の労働力を集中して大規模な公共建造物などを創り出し、かくして文明社会が成立する。


しかし、アンデスではむしろ逆に近い過程があったと考えた。

まずはじめに神殿があった。

公共建造物が始めにあり、神殿の更新を繰り返すために、食糧生産の余剰が必要になる。

食糧生産が、自動的に余剰を生むのではない。

社会的必要が、余剰を生ませるのである。

文明への転換のきっかけは、おそらく色々あるのであろう。

ただ我々がアンデス文明の形成期の遺跡をいくつも発掘してきたことを基礎にすると、アンデスでは神殿とその祭祀の維持が、社会をして生産性の向上や政治、宗教、技術、芸術など、文化のさまざまな分野での洗練の過程を始動させたという結論に至るのである。



このような考え方を生み出した始めが、コトシュ遺跡の発掘であった。

以後述べるように、日本の研究者たちが重ねてきた息の長い発掘調査により、今日ではアンデス文明の形成過程が非常に長いものであること、その過程において、神殿が社会発展の重要な要因になっていることが明らかになった。

それゆえに我々は「形成期」を従来の考えではなく、神殿の発生にまで遡らせ、「形成期早期」という時代を設けたのである。

    
             (引用ここまで)

               *****


この「交差した手」は、とても美しいと思いますが、どういう意味をもつものなのでしょうか?

同書には次のような記述もありました。


              *****


           (引用ここから)

床面はじつにきれいなままで、わずかにマットのようなものを置いた跡が一か所で認められるだけであった。

床面も壁も、最後まできれいに保たれていたのであろう。

入り口を入って正面にみえる北壁には、むかって左に前回みつけた「交差した手」のレリーフがあり、向かって右にはおなじようなレリーフがもう一つ取り付けてあった。

ただし、今回新たにみつかったレリーフは、左のレリーフに比べて腕がやや細い。

また、このレリーフでは、交差が逆であった。


この左右対称の位置と腕の太さと重なり方の微妙な違いは、この二つのレリーフの腕が男女の腕、さらに言えば男女に象徴される二元性あるいは双分原理を意味していると考えてまず間違いはなかろう。

発掘のデータからはこれ以上の意味を探ることはできないが、「交差した手の神殿」はまさしく公共の儀礼や行事を双分的な世界観のシンボルを前にして営んだ場所であった。


            (引用ここまで)

              *****


「交差した手」は二つセットで対照的に飾られていたようです。

(写真は「消えた古代文明」より・コトシュ遺跡全景と「交差した手」のレリーフ)



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4500年前の古代アンデス・・諸王国の歴史

2014-04-16 | インカ・ナスカ・古代アンデス



古代アンデス文明のことを調べてみると、日本人の調査団が画期的な発見をしていることが分かります。

吉村作治氏監修の本にもあったように、古代アンデス文明の始まりの時期は、以前はチャビン・デ・ワンタルという大きな神像のある神殿の成立時期であると考えられていました。

しかし日本の調査団が、それ以前の遺跡を発掘し、土器を作り始める以前の時期から、すでに神殿がたくさん作られていたことを立証し、アンデス文明の開始時期を大きく遡って、紀元前2500年としたということです。


その調査団の40年にわたる調査のまとめを、加藤泰建・関雄二氏の「文明の創造力・古代アンデスの神殿と社会」で読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

長い長い時間、異国の土を掘りながら考え続けてきたのであろう、重みのある思索が書かれていました。

本は、古代アンデスの歴史を4つに分けて、早期・中期・後期・末期と一つずつ説明されています。


          *****


        (引用ここから)


アンデス文明の始まりは、紀元前2500年ごろにさかのぼる。

その萌芽はシエラとコスタでそれぞれ独立して見られたが、やがて紀元前800年頃、両地域を結ぶ最初の回路が開かれ、主として北部ペルーにおいて大きな変化が生じた。

その後、再び地域を超える大きな人々の動きが起こったのは、紀元前250年頃のことで、各地で発展してきた神殿を中心とする社会が揺らぎ、それまでとはかなり違った社会が組織化されていった。

アンデスではこうして3世紀頃に王国が出現する。


最初の王国が登場したのは、北海岸のノチェなど、灌漑技術の発達に伴って広い農地を獲得していったコスタの川谷平野であった。

一方その間において、山地では独自の社会発展がみられた。


7世紀以降、再びアンデスでは地域間の交流が頻繁になり、特に中部や南部山地と南海岸で相互に連動した大きな動きが見られた。

それまで北海岸を中心に発展してきたモチェ王国などは、この動きの中で終焉を迎えた。


アンデスでは王国の時代になっても長い間都市は生まれなかった。

しかしこの頃になってようやく山地のティワナク、ワリなどで大きな都市的社会が出現する。


この汎アンデス的な動きは、他の地域にも都市のような新しい居住スタイルをもたらすことになった。

しかしそれは、必ずしもワリやティワナクを中心とする統一国家が確立したということではない。

むしろこの変化は局地的に吸収され、それぞれの地域内での新しい発展につながっていった。


こうしてコスタでは古い王国が解体し、新たに社会の再編成が行われた。

北海岸ではチムー王国、南海岸ではチンチャ王国など、以前よりも規模の大きい地方王国が登場してきた。

これらの王国は、いくつかの川谷平野を統合し、かなりの国家社会を創り上げていった。

このように大きな統合社会が生まれにくい地形的条件の中で、アンデスの人々は徐々に社会領域を拡張させていった。


その帰結として15世紀後半にインカ帝国がついに登場した。

3000年以上もの長い年月の中で、環境との調和的関係を保ちながら展開してきたアンデス文明が、ようやく自然の制約を超える段階に到達したのである。


ところがこの試みは完成には至らなかった。

インカ帝国はわずか数十年にしてスペイン人に征服され、アンデスの伝統は消滅してしまうのである。

ヨーロッパの植民地となったアンデス社会は、それ以前とは全く違う別のシステムとなってしまった。

こうして国土を分断する環境上の制約は、現代に至るまで近代国家ペルーが抱える大きな課題となっている。


アンデスの遺跡は、現代の都市の周辺にあるだけとは限らない。

むしろアンデス山中の奥深く、いまだ現代文明の波さえ達しないような場所に、数多くの遺跡が眠っている。

このような遺跡へのはるかな道のりは、まさに時間をさかのぼる旅であり、それは時に3000年以上のへだたりを超えていく。


ペルー領アンデスの最高峰、標高6768メートルのワスカランをはじめとする雪山がそびえたつブランカ山群を超えたアンデスの東側、標高3100メートルあまりの小さな参観の谷間に、アンデス文明の中でもっとも印象的な遺跡の一つ、チャビン・デ・ワンタル神殿がある。



紀元前800年ごろに建設された壮大な石造建築であり、神殿の内部には複雑にめぐらされた数多くの回廊がある。


そして、この建物の威容もさることながら、そこに発見された石彫や工芸品の数々には驚かされる。

神殿を飾っていた百数十点におよぶ石彫には、ジャガー、猛禽類、蛇などをモチーフとした象徴的な図柄が精巧な技法で彫り込まれていた。



神殿の内部に納められていたという数多くの土器も一級の芸術作品ばかりである。

鮮やかに磨きがかけられた器面には、石彫と同様に、複雑な図柄が刻まれている。

これらの土器は、いずれもたんなる什器であるとはいえず、明らかに当時の宗教観念を表現する目的で制作されたものである。


かつて多くの研究者は、この洗練された表現をチャビン様式とよび、それこそアンデス文明の母胎をなすものであると考えた。

しかし、チャビン・デ・ワンタルの神殿建築に見られる技術や図像表現は、あまりにも完成度が高く、それが突然出現したとは考えにくい。

当然それに先行する段階があったにちがいないという議論がおこった。

また、この場所の近辺には大きな社会が形成される余地がない、という立地条件が問題になった。


はたしてアンデスの文明は、本当にこの地で発生したのだろうか?

チャビン問題の解明は、長い間アンデス文明研究の一つの焦点になり、とくにその起源や先行形態をめぐる研究がすすめられていった。

アンデス文明の起源を探る研究は、たんにペルー先史の出発点をあきらかにするということに留まらない。


そもそも人類がいかにして文明というものを築き上げていったのかという、根源的な問題とも関わっている。

チャビン問題の解明は、旧世界における文明の出現には見られないアンデス文明独自の事象を引き出すことによって、人類史上の重要な結節点ともいえる「文明の形成」という問題に、あらたな光を投げかけることを目指していたのである。


               (引用ここまで)


(写真は「古代アンデス文明展」カタログより)


                 *****


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古代アンデスのジャガー人間像を発見

2014-03-01 | インカ・ナスカ・古代アンデス


                 ・・・・・

「獣頭人身像、石で封印・・アンデス・パコパンパ遺跡」       読売新聞2013・09・25


ペルー北部・アンデス山中のパコパンパ遺跡で、国立民族学博物館など日本ペルー合同調査団が紀元前800年~前500年のものとみられる獣頭人身の彫像を発見した。

特異な出土状況は、古代アンデス文明で神殿が果たした役割の解明に新たな手がかりを与えそうだ。


彫像は石灰岩製で高さ1・6メートル、幅43センチ、厚さ24センチ。

顔は丸い目や平いた口、上下4本の牙など、ジャガーの特徴を持ち、身体は人で、胸の前で両手を合わせた様子が彫られていた。


民博の関雄二教授は「力の象徴のジャガーが人と結合した姿は、リーダーが宗教的な力を持ち始めたことを主張しているのだろう」とみる。

彫像は同遺跡でこれまでに5体確認されているが学術調査で発見されたものではなく、元の位置や使われ方は不明だった。


今回の彫像は同遺跡を構成する3壇の巨大な基壇のうち1段目から2段目に上がる階段の途中でみつかった。

階段は崩落した後、大量の小石で封印するかのようにおおわれており、その中で石彫が腹部を下にして倒れていた。


注目されるのは頭部の周辺にわざわざ周囲の小石より大きな切石を積んでいたことだ。

神殿を破壊する過程で、意図的に倒され、より念入りに封印されていたとみられる。


古代アンデスでは、同じ場所に何度も神殿を建て変えたことが分かっており、同遺跡でも前800年~前500年に何度か建て替えられた形跡が見つかっている。

このため、半世紀にわたってアンデスの発掘を続ける日本の研究者たちは、建て替えを通じて平等な社会から権力が生まれ、社会が発展したとする「神殿更新説」を提唱した。

周辺で出土した土器から、石彫と階段が封印されたのは、紀元後200~300年頃と見られる。


関教授は「神殿更新が終わった後もしばらく、一帯を聖域として使い、やがて封印して否定するという過程が明らかになった」と話している。


                ・・・・・

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