始まりに向かって

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アイヌと「日本」(3)・・擦文文化からアイヌへ・佐々木馨氏

2015-10-24 | アイヌ




ふたたび、東北と北海道とアイヌ、というテーマに視点を戻して、

佐々木馨氏著「アイヌと「日本」――民族と宗教の北方史」という本を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


この本は、2001年に上梓されていますが、最近のアイヌ文化研究の定石に則った著作ではないかと思います。

アイヌの人々は、決して単独に、孤立して、原住民として、生きてきたのではなかった、対外的な交流を主体的に行って、民族としてのアイデンティティを確立した、という考え方だと思います。




             *****

         
          (引用ここから)

「擦文文化」とアイヌ

古代における「えみし」観は、一般に「蝦夷(えみし)=まつらわぬ民」に端を発している。

それが11世紀の王朝国家期、すなわち安倍氏、清原氏、あるいは平泉藤原氏などによる統治の時代に、「えびす」なる過渡的呼称が顕著となる。

さらにその後、「えぞ(蝦夷)=アイヌ」という、ある種、民族学的差別感を合わせ持った、民族的呼称が成立するという具合に変遷する。

この「えぞ(蝦夷)=アイヌ」の等式的呼称は、12世紀のころに成立したとされ、居住範囲は、東北北端から北海道の地と限定される。

12世紀の鎌倉時代にあっては、「えぞ」とは「アイヌ」を指し、今日の北海道は「蝦夷が島」と呼ばれていたのである。

「えぞ(蝦夷)=アイヌ」が成立する以前の文化を、考古学的には「擦文(さつもん)文化」の時代と呼び、その期間はほぼ8世紀~12・13世紀とされる。

この日本考古学上においても、「続縄文時代」に接続する、特異な、優れて古代東北的にして北海道的な

「擦文文化」は、遺跡の分布状況が東北北端から北海道・道南部に集中していた。

こうした分布状況からして、「擦文文化」の直接的な担い手は、「えびす」すなわち、「えぞ=アイヌ」の前身であったのであり、それゆえ「擦文文化」は「アイヌ」文化の祖型であると言われる。

東北地方の「擦文文化」の遺跡の所在は、下北半島および津軽半島に集中しており、北海道・道南部との交流から考えて、「擦文文化」が「アイヌ」文化の祖型と言われるゆえんもここにある。

東北北部の「土師器(はじき)文化」の影響を受け、8世紀に成立し、12・13世紀まで存続したこの「擦文文化」の特徴は、

土器製法では、土師器製法を継いだ擦痕のある土器製法、

住居様式では、従来の円型竪穴に代わる、かまどを伴う隅丸型の竪穴住居、

金属製品や陶磁器の流入では、太刀、蕨手刀(わらびてとう・武器・装飾品)、鉄矢じり、鉄鎌、鉄斧(生産用具)、須恵器、珠洲焼が顕著であった。

「擦文文化」は大麦・あわ・そば・ひえなどの出土品から、一部農耕を伴っていたと考えられているが、主たる経済的基盤は、サケ・マス漁を中心にした漁労・狩猟であった。

「アイヌ=えぞ」の前身である「擦文文化人」が、一定の集団をなして生活していたことは、「諏訪大明神絵詞」の次の一文に散見できる。

             ・・・

日の本、唐子、渡党来此三類各三百三十三の島に群居せり。

今二島は渡島混す。その内にウソリツルコシマとマツマエダケという小島どもあり。

この種類は多奥州津軽外の浜に往来交易す。

夷一把というは六千人なり。

相娶る時は百千に及べり。

             ・・・

このように一把=6000人が単位で行動し、多いときには、その100倍、1000倍となる、ということが資料から判明する。

こうした集団が、近世の「アイヌ」社会におけるコタンの先駆であろう。

中世アイヌの人たちの生活実態を探ることは、上の集団性を除くと寄るべき資料もなく、困難である。

それゆえ、中世アイヌ社会と近世のそれとの間に決定的な社会変動がないことを前提にした上で、近世の一部文献から類推するしか、有効な道はない。


         (引用ここまで)

          *****



wikipedia「諏方大明神画詞」より

諏方大明神画詞(すわだいみょうじんえことば)は、諏訪大社の縁起。

「諏訪大明神画詞」「諏訪大明神絵詞」「諏訪絵詞」「諏訪大明神御縁起次第」等とも表記される。

寺社の起こりや由緒を記した寺社縁起の1つで、長野県の諏訪地域に鎮座する諏訪大社の縁起である。

1356年(正平11年/延文1年)成立。全12巻。著者は諏訪円忠(小坂円忠)。

元々は『諏方大明神縁起絵巻』・『諏方縁起』等と称する絵巻物であった。

しかしながら早い段階で絵は失われ、詞書(ことばがき)の部分の写本のみを現在に伝え、文中には「絵在之」と記すに留めている。

著者の諏訪円忠は、神氏(諏訪大社上社の大祝)の庶流・小坂家の出身で、室町幕府の奉行人であった。

そのため足利尊氏が奥書を書いている。

成立に関しては洞院公賢の『園太暦』にも記されており、失われていた『諏方社祭絵』の再興を意図したものであったという。

現在は権祝本・神長本・武居祝家本等があり、権祝本が善本とされている。


              ・・・・・


>このように一把=6000人が単位で行動し、多いときには、その100倍、1000倍となる、ということが資料から判明する。
こうした集団が、近世の「アイヌ」社会におけるコタンの先駆であろう。


6000人の1000倍というと、600万人になります。

今、イメージされるコタンの趣きとは全く違いますね。

少なくとも、古代・中世、アイヌ(=蝦夷)は本当に勇猛な大集団だったのではないでしょうか?



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アイヌ語は縄文語から分岐した、という、菅田正昭氏説・・アイヌと「日本」(2)

2015-10-21 | アイヌ


前回の、北東北と北海道とアイヌ、という視点で、

菅田正昭氏の「アマとオウ・弧状列島をつらぬく日本的霊性」という本を読んでみました。

著者はかつて、八丈島の先にある青が島という絶海の孤島の町役場の職員として赴任し、現在も島の研究をしている人です。

リンクは張っておりませんがアマゾンなどでご購入になれます。

菅田氏は、日本列島に生きてきた人々は共通の「縄文語」を持つ「縄文人」というくくりに入れて、その中の差異は方言であろうと考察しています。

アイヌ語は、日本の諸方言の一つであるとする考えです。


                 *****

     
               (引用ここから)


縄文時代にこの弧状列島に住んでいた人たちが話していた言葉を「縄文語」と名付けたとしても、縄文時代は1万数千年もあるのだ。

しかも南北に長く連なったこの弧状列島で話されていた言葉が一様な「縄文語」であるとは、どうしても言えないだろう。

当然、「縄文人」も、一様の人種だったとは言えなくなる。

にも関わらず、言葉も人種も非常に近い存在だった、と言うことはできるかもしれない。

しばらく一緒に生活すれば、すぐに話せるようになったのではないかと思われる。

私は今日の「日本人」を縄文人の子孫、「日本語」を縄文人たちが話していた言語の系統をひく言語であると考えている。

言語学では、日本語もアイヌ語も系統不明の孤立語と考えられているが、その一方で、日本語は韓国・朝鮮語と近い関係があるとも言われている。


ところが、日本語とアイヌ語との関係は、日本語と韓国・朝鮮語よりも深いというデータもある(安本美典「新説・日本人の起源」)。

その意味では、一万数千年という縄文時代のどこかで、日本語とアイヌ語は同根の言語から発生し、その後独自に発達してきた、と言えなくもない。

そしてその源になった言語を「縄文語」とよぶことはできるかもしれない。

現在、日本語は大きく分けると、本土方言と琉球方言の二系統に分類することができる。

さらに本土方言は東部方言と西部方言、九州方言と、八丈方言の4つに分類されている。

もちろん、4大方言の中も、琉球方言の中も、細かく分けることができる。

八丈方言は八丈島と青ヶ島と、今は無人島になっている八丈小島の、いわゆる八丈三島=南部伊豆諸島だけで使われている言語で、国語学者・金田一春彦氏は、八丈方言の文法的特徴が「万葉集」の東歌に近似していることから「万葉集東歌方言」と名付けている。

すなわち、現在使われている方言の中で、八丈方言は東部方言(いわゆる東北弁の系統)、西部方言(いわゆる関西弁の系統)、
九州方言(いわゆる九州弁)と並ぶ日本4大方言の一つなのである。

また最近では、八丈方言は琉球方言(琉球語・沖縄語ともよぶ)に匹敵する、ひょっとするとそれ以上に「日本語」の古層を保存している方言だと言われてきている。



日本語の4大方言と琉球方言、アイヌ語は、弧状列島の言語として、ある程度は知っておく方がよいだろう。

特に日本諸語と大きく開いてしまっているアイヌ語の響きは、大切にしなければならない。

山本多助エカシ(エカシはアイヌ語で長老の意味)は、「イタクカシカムイ(言葉の霊・・アイヌ語の世界)」の中で、アイヌも和人も混血を繰り返しながら民族として形成されてきたと捉えている。

これはとても大切な視点だ。

彼は、自然児であるアイヌ民族も、単一民族だったとは言いかねると考えるのである。

彼はアイヌ語を日本語の祖語と見る。

日本語の原形とアイヌ語とは、古い時代には同一の言語であったと捉えている。

すなわちアイヌ語と日本語は共通の祖語から発達してきた言語と言える。

ただし、アイヌ語の方がより祖語に近いものを多く有していると言えるだろう。

そしてその関係はアイヌ人と日本人についても言える。

<イタク カシカムイ>、言うならば言霊のことである。

「イタク」の音韻は、恐山のイタコを想起させる。

イタコの神がかり、イタコの口寄せ。

すなわちイタコは言霊を吐き出す。

おそらくイタコのイタはウタと同根に違いない。

すなわち「歌」である。

神の言葉としてのウタ。

歌うように、訴えるように、神々や精霊の来歴を物語る。

そこには当然、言霊が宿っている。

そして「イタク」は沖縄のユタ(民間の巫女)にも通じる。

もちろん、ユタもイタコと同じく、神々の来歴を、歌うように、訴えるように物語る。

それは縄文精神の顕現だ。

イタクーイタコーウターユタは、おそらく同系の言葉に違いない。

日本語の斎く(いつく)という言葉も、イタクーイタコと同系の言葉ではないだろうか?

神々の声を聴くことができる聖なる場所での斎き。

そしてその斎く場所が固定化し、そこに人が集まるようになって物々交換の場になると、やがて「市」が立つ。

門前町はこうして始まったに違いない。

おそらく沖縄のウタキも、御嶽という漢字があてられているが、イタクーユタの系統の言葉ではないだろうか?

ウタキは神々の声を聞く場所なのだ。

山岳信仰ではないのだ。

縄文の言葉の破片を、私たちの言葉の中から探し出す作業は困難である。しかし、私たちも縄文人の子孫なのだ。そういう意識を
持てば、縄文の声が聞こえてくるはずだ。

縄文人の言葉の魂を見つけること。

縄文のこころをあらわした言霊。

自然界の持つ縄文の記憶。

自然が語ってくる縄文の言霊。


                  ・・・・・


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金田一はアイヌ語か?など、北東北と北海道・・アイヌと「日本」(1)

2015-10-18 | アイヌ


小さな新聞記事ですが、目にとまりました。

               ・・・・・

<追悼>「アイヌ文化の実践に情熱を注いだ 計良光範さん・・自ら行動、在野で貫く」
                                朝日新聞2015・04・25


アイヌ民族の文化や歴史を伝える市民団体「ヤイユーカラの森」を札幌で創立し、23年にわたり運営委員長をつとめた。

「自ら行動する」という意味のアイヌ語「ヤイユーカラ」の精神で、研究と実践との融合をめざした。

北海道蘭超町出身。

小学校の時から演劇が好きで、札幌南高校を卒業後、地元の劇団に入団。

脚本作りなどを担当した。

アイヌをテーマとする芝居の公演がきっかけで、アイヌの世界にのめりこんだ。

1975年にアイヌ民族の智子さんと結婚し、夫婦で「森」を運営した。

「お互いが、持っていないものを補い合う、すべての点でパートナーでした」と智子さん。

明治時代以降禁じられてきた、アイヌによる伝統的な鹿狩りを、1994年、狩ってから食べるまでを体験するイベントとして復活させた。

生き物は殺し合い、食い合って生きていく。

命の持つ意味を、身をもって感じてほしかった。

毎年の野外キャンプは、智子さんが指導するアイヌ刺繍の教室など、草の根の活動にこだわった。

学者らによるアイヌ研究を「利用するだけで復権に寄与していない」と批判。

自らは様々な仕事を転々としながら、在野の姿勢を貫いた。




札幌の寺院で起きた差別言葉の落書き事件を書いた「アイヌ社会と外来宗教」をはじめ、アイヌに関する著作は多数。

「森」のニュースレターをまとめた「アイヌ文化の実践」が遺作となった。

俳優の舞香さんはアイヌをテーマにした芝居を、和人の自分が演じていいのか悩んでいた時、鹿狩りに参加した。

計良さんに「怖がらずに思うことをやればいい」と励まされ、舞台を実現させた。

「運命的な出会いだった」と偲んだ。


                        ・・・・・

もう一つ、新聞記事のご紹介です。
                        ・・・・・



<地名の知> 「「金田一」濁点つかぬミステリー」
                           読売新聞2015・05・14


金田一と聞けば、人名が思い浮かぶかもしれない。

盛岡市出身の言語学者・金田一京助。

その名をもじったとされる推理小説の名探偵・金田一耕助。

そして子供に人気の漫画「金田一少年の事件簿」の金田一一(はじめ)。

京助が、先祖の住んだ故郷を思って詠んだ短歌が刻まれた歌碑が建っているのが、岩手県二戸市の金田一温泉郷だ。

金田一温泉駅で降り、市内を南北に流れる馬淵河を超えると、りんご畑の中に温泉宿が点在するのが見える。

行楽地の温泉街と違う、のどかな風景だ。

平安時代に蝦夷を率いて朝廷軍と戦ったアテルイが湯に入った、という伝説もある。


金田一の名が歴史的資料に登場するのは、16世紀ごろから。

この地を治めた南部氏の支族が「金田一」氏と名乗ったという。

ただ地名の由来は、よくわかっていない。

アイヌ語起源説の他、「金田市」とも書かれたことから、「金が集まる市がたった」ことに由来するとの説もある。

公的な呼び方は「きんたいち」だが、地元の人は「きんだいち」と濁って発音する。

濁らずに読むと、外から来た人だと分かるという。

北東北には、アイヌ語に由来をもつ地名や名称が多い。

金田一の由来にもアイヌ語起源説がある。

二戸市史の編集に携わってきた奥昭雄さんによると、「金田一」は、アイヌ語で「キム・タ・アン・エツ」=「山・そこに・ある・岬状尾根」という訳になると言われるが、奥さんは、「アイヌ語の文法にあてはめても意味のとおる言葉にならない。これは間違いだ」と断言する。

「山の方にある沢のところ」を意味するアイヌ語にちなむとする説もあるが、決定的な証拠はなく、残念ながら謎と言う他ありません」と奥さんは話す。

                      ・・・・・

どうということもない記事ですが、東北から北海道の大地に、日本語とアイヌ語が混在して、数1000年の時が流れてきたことに思いをはせてみたくなりました。

学生時代に、北海道の十勝川温泉の民宿でアルバイトをしたことがあります。

十勝川温泉も、平野の温泉地でした。

りんご畑の中にあるという金田一温泉に、なにか似た風景を感じました。


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<欧州の今>「衰退」「イスラム化に不安」 ・・西欧はいずれイスラム化するという感覚(読売新聞)        

2015-10-15 | エジプト・イスラム・オリエント



<欧州の今>「衰退」「イスラム化」に不安」
                     読売新聞2015・08・12

<現実の反映>

欧州は衰退していく。

そんな感覚に西欧がとらわれている。

併せて、欧州はいずれイスラム化するとの悲観論がイスラム系人口の多いフランスを中心に広がっている。

「衰退感覚は現実の反映だ」。

フランスの人気作家ミシェル・ウェルベックさんは、パリの出版社の一室で紫煙をくゆらす。

「フランスは企業倒産が続き、産業は空洞化し、雇用がいちだんと減っている。

ごく普通の若者が職を求めて外国に出る。

ベトナムやタイでパン屋や食堂を開く夢を抱く。

国外の方が夢を実現できると考える・・これは衰退の表れだ。

フランス人の虚栄心は、傷ついている」。

同氏は時の人だ。

フランスで2022年、イスラム教徒の大統領が誕生するーー。

こんな刺激的な筋立ての小説「服従」を1月7日に刊行した。

その日イスラム系の兄弟がパリの風刺週刊誌シャルリー・エブド編集部を襲撃し、風刺漫画家ら12人を殺害した。

同日付のシャルリー・エブド1面を飾ったのは「予言者ウェルベック」の戯画。

「服従」はフランス、ドイツ、イタリアなどでベストセラーに。

「事件に衝撃を受けた。わたしの友人も殺された」。

イスラム大統領誕生の可能性を聞くと、同氏は「その可能性があると考え、不安に思うフランス人、西欧人がいる。小説は現代の
不安を描いた」と言って、こう説明する。

フランスの若者人口の約10パーセントがイスラム系。

移民は子だくさんで今後、さらに増える。

一方、西欧人は自由・消費・快楽など、個人の欲望を満たす自分たちの生き方に、誰もが憧れると信じてきた。

だがイスラム系の一部はイスラム教の聖典「コーラン」の教えに従う生き方こそが優れていると確信し、西欧流を否定。

西欧に失望し、イスラム教に改宗する西欧人も出てきた。

フランスはイスラム系に対する人口的、文化的優位を失う可能性がある。

我々はイスラムに脅かされていると感じる。

中国にも、経済危機にも、環境汚染にもおびやかされている。

あやうい世界に生きている。

そういう感覚は現代の特徴だ。




<疑心暗鬼>

イスラム化について、フランス社会学者ラファエル・リオジエは、「全くの被害妄想」と反論する。

統計的に見てイスラム系移民2世3世の出生率はフランス平均に近づく。

人口比率の逆転はあり得ない。

加えて移民の9割以上はフランス社会に同化している。

同氏は「被害妄想が生まれたのは、欧州の衰退という認めたくない現実を突きつけられた結果」と考える。

西欧は20世紀の2つの大戦を経て、軍事、政治、経済で世界の中心の座を米国に譲る。

それでも、西欧文明は別格と自認し、世界から一目置かれてきた。だが、2003年のイラク戦争では米国が仏独の見解をまった
く無視して、世界戦略上の重大な決定をする。

戦争に反対する仏独は「古い欧州」と切り捨てられた。

もはや西欧は一目置かれる存在ではない。

自尊心は完全に否定された。

同氏は「ナルシストが傷つくように、西欧は傷ついた」と言う。

そして姿の見えない敵に囲まれているとの疑心暗鬼に陥る。

敵を特定しなければ、不安が高じる。

そこで眼前のイスラム系住民を敵として意識した。

仏語辞典によれば、「イスラム化」という言葉が使われだしたのは2003年頃のことだ。


<専制支配再来>

今、欧州衰退を論じる本が目につく。

仏独などで話題になった一冊が、現代欧州と共和制ローマ(前509~前27)末期を比較した「衰退」。

著者のベルギー人は古代ローマ学者であり「二つの時代は似ている。

どちらも移行期の危機にある」と話す。

同氏の主張は、こうだ。

失業と移民、治安の悪化、少子高齢化、文明とテロの戦い。

こうした問題を政治エリートが解決できず、市民は政治に不信を抱く。

ポピュリスト(大衆迎合主義者)が台頭し、政情の安定が損なわれていく。

これは二つの時代の類似点だ。

共和制ローマの場合、改革は失敗を重ね、内戦を経てアウグストゥスによる帝政に至る。

アウグストゥスは「修復された共和制」と呼んだが、実際は専制支配。

政情は安定し、市民は物質的には満たされる。

だが、自由は失われ、躍動感や知的きらめきは消えた。

停滞した安定だった」。

欧州の行方はどうか?

「経済危機が更に深刻になり、移民との衝突がひんぱんに起きるようになれば、いずれは専制支配が出現する。

その後は、欧州は数世紀をかけて、緩慢に衰退し続ける」。

こうした同氏の見解に、ウェルベック氏は影響を受けたと指摘される。

「ウェルベック氏が予感しているのも、専制支配の到来だと思う

これは知識人の多くが共有する予感だ。

それが欧州の今の気分だ。


                 ・・・・・


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「フランス「国民戦線」党首に聞く・・国家かグローバル主義か?」

「アラブの怒り、日本にも責任・・の中章弘氏」

「中田考氏「イスラームのロジック」(1)・・先祖あグラハムの、血を分けた兄弟」(3)まであり

「西欧の原理を押し付けるな・内藤正典氏・・連続テロの底に」

「アラビア語が世界を開く・中国のイスラム教世界の今・・松本ますみ氏」


「エジプト・イスラム・オリエント」カテゴリー全般


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クルド人の少数派宗教、「ヤジディ教」の歴史・・ゾロアスター教の伝統を汲む

2015-10-10 | エジプト・イスラム・オリエント



イスラム国に捕らえられていたヤジディ教徒たち200人が、解放された、という新聞記事を読んで、ヤジディ教について
「古代オリエント辞典」で、調べてみました。

クルド人問題という、非常に込み入った歴史的問題があり、長い歴史の中で生き続けてきた、古い複雑な宗教であるということが分かりました。


                    *****

                  (引用ここから)

「ヤジディ教」


クルド人とヤジディ教

ヤジディ教とは、イラク北部からトルコ東部の山岳地帯に居住するクルド人によって信仰されている宗教である。

その教義は古代イラン神話とスーフィズムが融合したもので、それがクルド人に受容されることによって独自の宗教となった。

現在の信者数は、欧米へ離散した層も含めて20万~30万人と推定されている。

ヤジディ教の名称は、かつては古代イラン語の「ヤザダ(崇拝すべきもの)」に由来すると考えられていたが、現在ではウマイヤ朝カリフ・ヤジディ(~683)から採られたとされる。


ヤジディ教の歴史

ヤジディ教成立の直接の契機は、ウマイヤ朝カリフの子孫と称するフャイフ・アディーがスーフィー教団の一派「アダヴィー教団」を創始し、イラク北部のクルド人の間に布教を開始した12世紀初頭に遡る。

この教団は布教の便法として、土着の古代イラン神話を吸収しつつ、次第にイスラームから逸脱する傾向を見せながら、
クルド人の間で広く信者を獲得することに成功した。

とくに13世紀のモンゴル人政権期には、教団からイスラームとは別宗教の態をなしたヤジディ教に発展し、急激に勢力を伸ばした。

16世紀以降のオスマントルコ統治時代に入ると、ヤジディ教のクルド人諸侯がイラク北部からトルコ東部で世俗的な支配者に任命され、この地域でのヤジディ教徒による支配体制を強固なものとした。

しかし19世紀に入るとヤジディ教は「啓天の民」ではないと見なされ、しばしば周辺のスンニー派イスラム教徒から迫害を受けるようになった。

このためヤジディ教徒は徐々にオスマントルコ領内からグルジア、アルメニアなどのコーカサス諸国へ逃亡した他、20世紀後半になると知識人層のドイツの移住が目立つようになる。

現在のヤジディ教徒は、イラク北部からトルコ東部といった従来からの本拠地の他に、コーカサス諸国とドイツに分布している。


ヤジディ教の資料

ヤジディ教に関する研究は、1850年ごろからスタートした。

しかし彼らに関する情報は限られている。


一次資料は、20世紀の後半になってやっと出揃った。

第1に、ヤジディ教徒の吟遊詩人達が、宗教行事の際に朗読する讃歌を集大成した「ケウル」。

本書はアラビア語の語いを大量に含んだ北東クルド語で書かれてるが、正確な成立年代は不明である。

1979年になって、やっとアラビア文字で記したものが公刊された。

1985年にその補遺も出版された。


第2に、シャイフ・アディー作と伝わる2編のアラビア語詩。


第3に、「ジルヴェ」とその注釈「メシェフ・レシュ」と称される二つのアラビア語文献。


これら以外には、周囲のイスラーム教徒による外部観察記録がある。

それらにはイスラーム的な先入観があるので、外部資料だけに依拠するならば、ヤジディ教は、逸脱的イスラームの一派のように見える。

1930年以降はこの立論が支配的になり、ヤジディ研究はイスラーム学の枠内で試みられた。

古代イラン的な観点からも研究されるようになったのは1990年以降のことである。



ヤジディ教の信仰


一次資料によると、ヤジディ教の骨子は古代イランの信仰から継承したと思われる。

カースト制度、清浄儀礼、拝火儀礼、聖紐の着用などである。

すなわち、ヤジディ教はクルド人としての出生によって帰属するもので、改宗は不可能である。

また血統にもとづく階級制度が存在し、神官階級に生まれないと、ヤジディ教神官にはなれない。

さらに七大天使(総称してハフト・セッルと呼ぶ。その首位は孔雀の形をしたマラク・ターウース。イスラーム教徒からは、これがサタンを表わすと理解され、「悪魔崇拝者」と蔑称される)と、それらが統括する地水火風などの諸元素への崇拝が重要で、特に拝火崇拝が大きなウエイトを占める。


これらに対して、ヤジディ教と古代イランの信仰との相違点も明らかになっている。

ヤジディ教において、神の代わりに世界を支配する孔雀天使(マクラ・タウース)は、善と悪の両方を支配し、この世の悪に対しても責任を負う。

また七柱の聖なる存在が輪廻転生を繰り返すとされ、他宗教の信仰を融合するシステムとしても機能している。

さらに、教祖シャイフ・アディーを埋葬した「ラリシュの谷」を聖地とし、ヤジディ教徒が毎年10月に訪れなくてはならない教団の中心と定められている。


ヤジディ教の創成神話

ヤジディ教の構成要素は、イスラーム的な教義だけで説明できるものではない。

彼らの創世神話によれば、神は「世界の要素がすべて詰まった真珠」からこの世を創造し、大天使に委託してそれを運行させている。

ここまでは七大天使思想、「犠牲祭」による世界創造などの点で、ゾロアスター教に近い。

しかし、この後ヤジディ教の神聖史は、あからさまにイスラーム的な観念を接合する。

すなわち、最初の人類アダムには、シャヒード・イブン・ジェールという息子がいた。

これが、クルド人=ヤジディ教徒の始祖である。

アダムの真の信仰は、実はこの知られざる息子に継承された。

その子孫がウマイヤ王朝の始祖ムアーヴィア(在位661-680)であり、その息子、ウマイヤ王朝第二代カリフ・ヤジディ(在位680-683)にいたって、シャヒードの教えを復活させたのである。


以上のような、ゾロアスター的であり、同時にイスラーム的な教義がヤジディ教の創世神話である。(青木健)


                (引用ここまで)

                  *****


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クルド人の少数派宗教「ヤジディ」教徒200人、イスラム国から解放される。

2015-10-07 | エジプト・イスラム・オリエント



「イスラム国」の出現以来、イスラム教について、注視していたのですが、4月のこの記事を読んでからは、「捕虜・クルド人の少数派の宗教=ヤジディ教」というものにも、関心をもつようになりました。

なかなか資料がなくて、苦労しています。

                
                     ・・・・・



「IS,少数派教徒200人解放・・イラクで拘束の高齢者ら」
                               朝日新聞2015・04・09

過激派組織「イスラム国(IS)」は8日、イラク北部で、拉致していた同国の少数派・ヤジディ教徒200人あまりを解放した。

ロイター通信が伝えた。

解放されたのは、昨夏「IS」が大量に連れ去ったヤジディ教徒のうち、高齢や子どもら。

「IS」と戦う少数民族・クルド人の治安部隊に引き渡されたという。

ISは、ヤジディ教徒を「悪魔を崇拝している」として、集落をたびたび襲撃、殺害した。

女性やこどもを、奴隷にしたりしているとされる。

「IS」は、今年1月にもヤジディ教徒の高齢者ら約200人を解放したが、今回とともに、解放の理由は明らかになっていない。


                     ・・・・・


ヤジディ教徒が、トルコの国会議員になった、という記事もありました。


                     ・・・・・




「トルコ・宗教差別と戦う国会議員」
                        読売新聞2015・07・07


トルコで6月7日に行われた総選挙で、宗教差別に直面する少数民族の女性、フェレクナス・ウジャが初当選した。

ウジャさんは、古代メソポタミアの信仰に起源を持つヤジディ教徒の信者。

周辺国を含めても約100万人に過ぎず、トルコでは数万人程度と見られる。

イスラム教徒が大多数を占めるトルコで、ヤジディ教の信者が国会議員になるのは初めてだ。

「差別は根強く、反政府勢力とみなされ、住民全員が強制移住させられた村も少なくない。女性に対する暴力もある」という。

「誰にでもまず声をかける」戦術で、町の市場を丹念に歩き回り、支持者を増やした。

ドイツ生まれで市民権を持ち、1999年から10年間、ドイツ選出の欧州議員を務めた経験も役立った。

ヤジディ教徒は、イスラム過激派から「悪魔崇拝」のレッテルを貼られ、イラクとシリアではイスラム教徒による迫害が深刻化する。

ウジャさんは「宗教や民族による差別をなくしたい。トルコを民主的で自由な国にしたい」と抱負を語った。


                        ・・・・・



なぜ、イスラム国が、ヤジディ教徒たちを一挙に解放したのか?、などということの理由が、わたしに分かるはずもありませんが、なんとなく気になりました。

なにか、政治的な理由があるということだけは、分かります。

とても複雑な理由なのではないか?と思いました。

ヤジディ教は、クルド人の中の少数派の宗教である、ということですので、次の投稿で少し調べてみたいと思います。


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文化への文化的考察ことはじめ・・カウンターカルチャー研究(1)

2015-10-02 | 心理学と日々の想い


わたしがカウンターカルチャーというものの存在を意識した最初の時はいつだったのだろうかと思い返すと、それは、ごく他愛のない中学生頃、とある小さな新聞記事を読んだ時ではないかと思い返す.

記事は、古くからアマゾン河流域地帯にて外界と隔絶して暮らしている人々の生活を簡単に紹介しており、わたしは、習いたての家庭科の教科書を見ながら、その民族衣装に似せたつもりの服を作ったことをよく覚えている。

焦げたようなオレンジ色のと、茶色の、木綿の服を、同じデザインで2着作った。


中学校から帰ると、その服に着替えて、寝そべって漫画を見たりしていた。

しかし、漫画を見ながらも、わたしは漫画をぜんぜん見ていなかった。

もっと遠い呼び声、もっと近いささやき声、もっと強い火と風と水の誘い声に、聴き耳を立てていた。

そしてその後、そういう人々に似た人々が、アマゾンの奥地まで行かずとも、ちょっとしたところで、静かにしかし決然と生きているようだ、ということに、なんとなく気づくようになった。


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