始まりに向かって

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日本人は古代ユダヤについての理解が少ない・・日ユ同祖論の検証(4)

2015-05-30 | 古代キリスト教


トケィヤー氏の「ユダヤと日本・謎の古代史」のご紹介を続けます。

40年前に書かれた本です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

              *****


            (引用ここから)

サミュエル・グリンパーバーグというラビはヨーロッパ系のユダヤ人で、現在イスラエルに住んでいる。

このグリンバーグの個人的な学説によれば、ユダヤ人と日本人は同じ起源を持つ民族であるという。

彼は過去10年以上、このための資料を広く各地に求めているのである。

彼は、多くの日本側の文献をヘブライ語に翻訳している。

また古代日本の歴史も研究し、それを古代ユダヤの歴史と比較している。

このラビ・グリンバーグは、基本的には伝説を一般的な形で述べることをしている作家である。

彼は「ユダヤの失われた10種族」は、シルクロードを経てアジアに渡り、日本人の祖先になったと信じている。

だから、現在の日本文化にはユダヤ起源のものがあると信じているのである。

しかし日本人は自分の文化の中に含まれるユダヤ的特徴についてあまり注意をはらっていない。

それは、日本人が古代ユダヤ文化に関する理解が少ないからであると彼は信じている。


グリンバーグの説によれば、「神道」という言葉自体、ヘブライ語の起源から由来するものであるという。

「神道」という日本語は、古代ヘブライ語の「種族」という意味だと彼は説明する。

オリジナルとなったヘブライ語は「シフト」であるというのである。

グリンバーグもまた、「ユダヤの失われた10種族」のうちのガド族が日本に辿り着いたと考えている。

これは日本の佐伯好郎教授(景教の研究者)が指摘した「ミカド」が「ミ・ガド」から由来するという説と一致するわけである。

ヘブライ語で「ミカド」の「ミ」は「~から」という意味で、英語で言えば「フローム」である。

つまり「ミカド」がもしヘブライ語であるとすれば、「ガド族の子孫」という意味になるわけである。

また彼の説によれば、古代ユダヤ民族たちは各地で多くの迫害にあった。

当時の一般民衆は、自分達と風俗習慣の違う少数民族の存在を非常に嫌ったのである。

この関係は現在も同じことである。

そのために、古代から、ユダヤ民族ははるかかなたの地まで、住みよい土地を求めて移住したのである。

こうした放浪のユダヤの一種族が日本列島に棲みついたのであろうと、グリンバーグは述べている。


また彼は、日本の皇大神宮に納められている「八咫鏡」についても注目している。

その理由は、古代ユダヤ民族においても鏡は神聖視されていたからである。

それは清浄さの印であり、神に対する信仰心の証でもあった。

鏡によって示されたシンボルは、日本の神道においてのシンボルのもつ意味と全く同じであるからである。


また彼は、古代日本民族の「弓月の民」は、「旧約聖書」に述べられた「アイザック」の別名であろうとも考えた。

そして日本語でいう「お札(おふだ)」は古代ヘブライ語の「エフォッド」から由来していると考えた。

これは山伏が胸につけているような一つの胸当てであって、古代ユダヤの僧侶たちが常に付けていたものの名称であろうとも述べている。

さらに面白いのは、彼の説によれば、日本の古代の都である「平安京」という名は、「エルサレム(イエルサレム)」というユダヤ語の意味から名づけられたのではないかとも推測している。

古代ヘブライ語で、エルサレムの「イエル」は「都市」の意味であり、「サレム」は現在の「シャローム」つまり「平安・平和」という意味である。

だからエルサレムは「平安の都」である。

グリンバーグは、日本人の性格とユダヤ人の性格との共通点についても指摘している。

親への尊敬の念、がんこさ、献身を忠実に守る点、集団の中における適応力など、共通な性格的特徴であるとも指摘している。

神道に偶像が存在しないという点も、古代ユダヤにおいて偶像が存在しなかったことと同じだと指摘している。

また祭の様態、死に対するタブーがあること、みそぎ、塩を使う習慣、菊の紋を用いていること、などの共通点を列記している。

更に長い歴史の経過を経ても、日本人は日本人としての主体性を保存しているし、ユダヤ人は歴史的な迫害にも関わらずユダヤ民族の主体性を保存し続けている。

このような特徴もまた、両者の共通点と考えてられている。

他の民族はすべて他の文化に飲み込まれ、民族としての独自性を失ってしまったが、日本人とユダヤ人だけは違っていた。

これらが彼の論文の内容である。


              (引用ここまで)


              *****



2007年に、同じ著者トケィヤー氏が、中丸薫氏と対談している本が出ています。

タイトルは「日本とユダヤ・魂の隠された絆・・日本人の霊力を呼び覚ますユダヤ人の叡智」

冒頭部分は次のように始まっています。


              *****


             (以下引用)


「古の日本にかつて起こったこと、それは「歴史喪失」である」

○中丸

私は、最近京都に行きました。

松尾大社などを見てきたのですが、その時、説明してくださったおじいさんがいたのです。

「ここは石の庭園で中国式です」などといろいろ教えてくださいました。

そのあと私は、

「ここは秦氏一族は関係ないんですか?」と聞いてみたんです。

すると「ええ、関係ありますよ」と答えるんですね。

また私が、

「秦氏はシルクロードを通って、中国にやってきて、さらに朝鮮半島を通って日本にやってきましたが、もとはユダヤの人々じゃないでしょうか?」と聞きますと、

「そうなんです」と。


そこから話が進みまして、

「松尾大社はお酒の神社、お酒の神様を祭っているんです」といった話になりました。

そこは水もいいので、いいお酒ができるんだそうです。

秦氏はユダヤの人々なので、ビジネスもよくおできになる。また、

「お酒とか、京都の西陣織などの織物も、秦氏が作ったものなんです」と説明してくれました。

さらに、「米どころ・・お米の生産なども秦氏が発展させたんです」ということでした。


「すると彼らはものすごい財力をもっていたわけですね?

「結果的には、法隆寺も、広隆寺も、下鴨神社も、上鴨神社も、また京都の太秦一帯なども、みな秦氏の財力や宗教、文化に関係がある」

と、そんな話をしました。

「とくに日本の神社はユダヤと深い関係があるようですね。

おそらくイスラエルの12部族の中の失われた10部族が、まず日本に入ってきて、物部氏とか日本神話の中心的氏族になっていったに違いない。

さらに秦氏も、何派にも分かれて日本に入ってきたようですね」。

そうしたことが、私も最近非常に分かってきました。


ところが日本では、ある勢力がそうした事実をねじ伏せてきたわけです。

たとえば蘇我氏一族。

彼らは自分達も朝鮮半島の百済からやってきましたが、どうも過去を消したかったようです。

仏教派の彼らは、「古事記」・「日本書紀」の成立以前から日本に存在していた歴史書を、焼き払ってしまったのです。

蘇我蝦夷は、自殺する前に朝廷図書館に火をつけてしまいました。(645)

そのために、日本の歴史があたかも「古事記」・「日本書紀」から始まっているみたいになってしまいました。

それで、つじつまが合わないところがたくさんあります。

隠された部分がずいぶんある、と思うのです。

やはりシルクロードを通って渡来人がたくさん日本に入ってきていますから、日本人は決して単一民族ではないわけです。

様々な血が混ざり合っている。

今日の2人の話から、本当の日本の歴史というものを少しでもお知らせしていければと願っています」。


               (引用ここまで)


                 *****

トケィヤー氏の本は非常に読みづらいのですが、こちらは、中丸氏がバッサバッサとまとめて進行してゆくので、たいへん分かりやすくなっています。

しかし書かれていることはやはり、難しいです。



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秦氏はユダヤ民族か?・・日ユ同祖論の検証(3)

2015-05-27 | 古代キリスト教


M・トケイヤー著「ユダヤと日本・謎の古代史」のご紹介を続けます。

40年前に書かれたものです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


            (引用ここから)


先日わたしは最近刊行された「日本の歴史」という本を読んでいた。

これは小学館から発行されている歴史書で、「古代豪族」という巻に大変興味深い話を見出した。

「日本書紀」の「皇極記」に「常世の神と秦河勝(はたのかわかつ)」という話があり、「「常世の神」というカイコによく似た虫を祀ると富と命が授かるだろう」と世の人々を惑わしていた大生部多(おおうべのおお)という人物が、秦河勝に打ち据えられた」という話である。

著者はこの話について、「秦河勝は仏教の得心者であるから、殴打するなどというのはおかしい」とし、何よりもこんなつまらない事件に中央の朝廷豪族である秦氏が乗り出したというのもおかしい」と疑問を呈している。


著者は大変慎重に書いているので何の結論も出していないが、私はひとつの想像がすぐに浮かんだ。

大陸からやって来た中国系の秦氏の中心人物が、カイコに似た虫を中心として起こった事件に乗り出して、その首謀者を打ち据えたというのは、秦氏がカイコと関係ある何かを握っていたのではないか?

もし秦氏が中国系ユダヤ人ならば、絹とそれに関する産業技術者であると推理することができる。

そして絹とそれに関する技術を独占していた秦河勝は、カイコに似た虫をもてあそんだ人物に対して、何らかの権利をもっていたのではないか、という考えである。

もしわたしの推理が正しければ、秦氏は完全に中国系ユダヤ人ということができるのではないだろうか?


それとは別に、わたしはまた、一人の興味ある人物について語りたい。

中田という日本人がいた。

彼はアメリカに留学し、キリスト教の神学を学んだ。

彼の習ったキリスト教聖書学は、やや初歩的なものであったらしい。

そして彼は非常に原始的なキリスト教徒となった。

日本に帰国してから、彼は自分自身を「僧上」と自称するようになった。

つまり自分のことを「中田僧上」と呼ぶようになったのである。

そしてキリスト教会を作ったのである。

彼は自分の教会を「聖なる教会(きよめ教会)」と命名した。

だがここで中田僧上は非常に不思議なことをしたのである。

1930年当時、まだドイツにはナチスが興っていなかった。

それなのに、中田僧上と彼の信者たちは毎朝、ユダヤ人の安全のためにお祈りを唱えていたのである。

これは非常に不思議なことと言わなければならない。

戦争が終わって1948年に、中田未亡人は日本の占領軍総司令部であるGHQに赴いた。

そこで未亡人は「イスラエルの首席・ラビを祝福したい」と申し出たのである。

「古代ユダヤが崩壊してから数千年の後に、ついにイスラエルの国家が建設されたことを祝いたい」という趣旨であった。

一体こうしたことを申し出るに至るまで、中田家においてはどんなことが行われていたのであろうか?


中田僧上は、1700年前に応神天皇がユダヤ人と接触していたと信じていた。

そして当時、中国大陸から「弓月」と呼ばれる種族が3500人の家族を従えて来日した。

これは「日本書紀」にも記録されているが、その時この「弓月」の人々は初めて日本に絹の織物を持って来たと伝えられている。

その後、仁徳天皇・雄略天皇の時代にも、さらにユダヤ民族の移民が日本にやって来たと彼は信じていた。

これが日本古代史における「秦氏」と呼ばれる人たちであると、彼は考えたのである。

この「秦(=機)」という氏族の名前を、彼は「織物の部族」だと理解したのである。

また「秦氏」の「秦」という字は、秦の始皇帝の「秦」と同じである。

そして「秦氏」は秦の始皇帝の子孫であり、秦の朝廷は古代ユダヤ民族の子孫であると彼は考えたのであった。

これらの「秦氏」は、現在京都にある「太秦(ウズマサ)」の地に移住して生活することになった。

その太秦の「ウズ」は「ユズ」という意味であり、これは「弓月の民」の「ユズキ」から来ているものと考えたのである。

古代中国においては、現在のローマ帝国の首都・ローマを「大秦」という名前で呼んでいた。

これは今述べた京都の「太秦」と大変よく似た漢字が当てはまるのである。

また広隆寺には昔、「大秦寺」という名前がつけられていたそうである。

つまりこれは「古代ユダヤの寺」という意味にも理解できるわけである。

またこの「太秦」の地には「大辟(おおさけ)神社」とよばれる神社がある。

この「大辟」という漢字は、中国語訳「旧約聖書」の「ダビデ」と全く同じ字なのである。

また「太秦」の地には、「イスライの井戸」と呼ばれる井戸が現在でも存在している。

これは恐らく「イスラエル」という言葉から命名されたのではないかと、彼は考えている。

つまり彼の結論によれば、秦氏はユダヤの移民たちであり、その人たちの住んだ京都の「太秦」を、古代ユダヤ人の居留地であったと考えたのである。


「太秦」では、毎年9月になると「牛祭り」というお祭りが行われる。

そしてこの「太秦」で行われる「牛祭り」のときは、面をかぶった踊りが行われる。

この面の顔は、完全に外国人の顔つきなのである。

その時、牛を追い払う行事も行われる。

これと同じような行事はユダヤ民族のなかにも行われている。

ユダヤの暦で、毎年9月の新月の10日後に行われる祭りである。

これは「ヨンキプア」とよばれる贖罪の祭りである。

この祭りのとき、午後に2頭のヤギが引き出され、1頭をユダヤの寺院に連れて行き、もう1頭のヤギを追い払うのである。

「太秦」で現在も行われている「牛祭り」は、これと全くよく似た内容をもっているのである。
            
  
               (引用ここまで)


                 *****

これは大変興味深い話で、ぜひ調査したいと思いました。

当ブログでは、古代の朝鮮半島との関わり、天台宗の〝後ろ戸の神”のこと、オリエントのミトラス神信仰、アジアの弥勒信仰の系譜、など、これに近いテーマをたくさん扱っているので、ますます複雑になってきて、まとめようがないような感じになってきました。

どれかが正しい、とすると、どれかは間違っている、ということになるわけですが、わたしはそうはしたくないと思っています。

歴史の闇、歴史の混沌、あらわになったものと隠されているもの、どれも大切で愛しいと感じます。



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ゲートウェイとしての国境という発想・・ボーダーツーリズムの試み

2015-05-22 | アジア




「国境ツーリズム、友好の船出・・福岡→対馬→韓国・釜山 2泊3日」
                      朝日新聞2015・03・04

              ・・・・・

日中韓ロの、国境をめぐる反発の連鎖が止まらない。

領土ナショナリズムをあおる論調があふれる一方、国境を新たな観光資源として見直し、関係改善につなげようという研究者グループも出てきた。決め手は、日本初の「ボーダーツーリズム(国境観光)」だ。

対馬随一の景勝地、浅茅湾(あそうわん)をクルーズし、隣国を見晴らす展望台も見学。

韓国・釜山では繁華街の南浦洞を散策する。

初春の対馬と釜山を観光するツアーが売りに出されている。

釜山から対馬に入る旅程であれば、特に珍しくない。

対馬は、韓国人観光客の人気スポットだ。

このツアー企画は、順路が逆。

福岡発→対馬→釜山へわたるボーダーツーリズムで、また日本人観光客をターゲットにしていることが特徴だ。

企画したNPO法人「国境地域研究センター」の花松・九州大学講師は、「境界研究」が専門。

北海道大学の「スラブ・ユーラシア研究センター」に勤務していた2012年から、集中的に対馬を訪ねてきた。

北大の「スラブ研」は1990年代、日本で「境界研究」を始めた中心地だ。

ツアーの発案者の一人で、同研教授の岩下さんは、境界研究には

① 国境線をどう引くかや、紛争のある領土問題にどう解決の道筋をつけるかの「ハード」の側面

② 境界の文化・生活・歴史を研究する「ソフト」の側面

の2つの流れに分かれるという。

「われわれはハードとソフトを両方あわせて研究する立場。そうしないと、領土問題の解決も見えてこない」。




「ツーリズムは、研究の実践編」

国境の街の発展には、ゲートウェイ(出入り口)として機能させるのが一番」だからだ。

世界には、前例はある。

米・サンディアゴとメキシコ・ティファナを結ぶメディカルツアーでは、ティファナの安価な歯科医療を米国人が利用する。

韓国と北朝鮮の国境の板門店ツアーは、純然たる観光になっている。

国境の島を巡っては、産経新聞が2008年から「対馬が危ない」、とする記事を連載。

「韓国人観光客の中には、対馬を自国領土だと本気で信じ込んでいる人すらいる」などとし、安全保障、主権国家としての領土保全に関わる深刻な事態にさらされつつある」と断じた。

花松さんは「対馬は、歴史的にも韓国と上手くつきあおうとしてきた。対馬が危ないと言うなら、どうすれば対馬の人たちが豊かに暮らしていけるかを考える方が建設的。

島の活性化が、最終的には、対馬と日本の安全保障につながる」と言う。

岩下さんも「今や島嶼防衛に戦略的意味はない。

本当に「とりで」にすると、島は死ぬ」と話す。

岩下さんらは2013年にも福岡から対馬経由で釜山を訪れる1泊2日の国境観光ツアーを試験的に実施したが、泊まったのは釜山だけ。

対馬はいわば素通りだった。

今回は初めて、観光ツアーとして商品化できる2泊3日のコース設定にした。

福岡空港から空路対馬に入り、日朝交流史を展示する「歴史民俗資料館」などを見学。

2日目に高速船で釜山へ向かい、最終日は国際市場など定番観光コースの他、草染倭館跡を見学する。

江戸時代に対馬藩主導で朝鮮王朝と外交していた場所だ。

交通費、食事代、宿泊代込みで6万円。

14日出発。

今回はすでに満席だが、5月以降も対馬・釜山の別コースで、月に1回程度は実施したい」と花松さんはもくろむ。。

岩下さんによると「対馬と釜山」の他にも、「八重島~台湾」、「稚内~ロシア」のボーダーツーリズムも、徐々に進める計画だ。

6月には「稚内~サハリン」間で実施が決まった。

フェリーでサハリンに入り、エコツーリズムを楽しむ。


              ・・・・・

「NPO法人国境地域研究センター」HP
http://borderlands.or.jp/


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http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/cb64b0b2e13a8d1a37e9ad4205cae115">「多文化に挑む韓国(1)・・外国人労働者」(2)あり



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ボンオドリ、ブームに・・アルゼンチンで現地住民16500人が共に楽しむ

2015-05-20 | アジア

日ユ同祖論については、まだまだ続くのですが、時々違う話題を入れます。



「ボンオドリ、熱い南米・・アルゼンチンで16000人祭り・・日本文化に魅力」
                        朝日新聞2015・02・24


                  ・・・・・


南米アルゼンチンの小さな集落で年に1回、15000人以上が集まる大規模な盆踊りが開かれている。

日本人移住者が始めた祭りだったが、日本的な雰囲気が人気を集め、地域の一大イベントに成長した。

日系人が多い南米でも最大規模の盆踊りだ。

♪わたしゃ真室川の梅の花、コリャー♪

山形県の民謡のリズムに合わせ、踊りの輪が幾重にもやぐらを囲む。

頭上には、色とりどりの提灯のあかり。

おなじみの盆踊りの風景だが、踊っているのはスペイン系やイタリア系中心のアルゼンチンの人たちだ。

農業地帯のラプラタ市近郊にある集落ウルキッサで、16回目となる今年の盆踊りは、南半球が夏本番をむかえた1月10日に開かれた。

首都・ブエノスアイレスから車で約1時間の会場には、過去最多の16500人が集まった。

手作りの浴衣を着て友人と初めて訪れたメリサさんは、「最高!日本のアニメで見た場面と同じ!」と興奮
した様子。

家族で来たマリアさんは3回目。

「音楽がすてき。皆で輪になって踊るのがとても楽しい」と笑顔をみせた。


「日系の行事発展」

ウルキッサは、パラグアイやボリビアに渡った日本人移民が、1960年代以降に再移住した場所だ。

現在は、周辺集落も含め、1~3世を中心に、約1500人の日系人が暮らす。

盆踊りは、子どもに日本語を教えるために日系住民が運営する日本語学校の資金集めを目的に始まった。

当初、参加者は周辺住民だけだったが、独特の雰囲気が評判を呼び、祭りの輪は年々拡大。

今は市の重要文化行事に指定されている。

20代で移住した人は、「これほど人気になるとは思わなかった。日本人とアルゼンチン人が一緒に踊る姿を見るとうれしい」と感慨深げだ。

実行委員長の2世・アントニオさんは「アルゼンチン人には、遠い日本の文化が魅力的に映る。みんなが仲良く踊れるのが特にいい。おばあちゃんも孫も楽しめるからたくさんの人が来る」。

屋台などの準備は、日系住民が総出で行う。

前日には約80人で焼き鳥12500本を仕込み、針金に紙を張った金魚すくいの網は6000本を用意した。

「日本人会」代表の1世の人は「日系人の団結力が光る」と胸を張る。

中心になるのはアルゼンチン生まれの若い世代。

曲は他に演歌の「河内おとこ節」や「「きよしのズンドコ節」など新しい歌だ。

「日本の盆踊りとはちょっと違うかもしれない。

でも、それはそれで楽しくていいじゃないですか?」と顔をほころばせた。


「深夜1時半まで」

ことしの盆踊りが終わったのは、日付が変わった午前1時半。

音楽が止まっても、多くのアルゼンチン人がメロディーを口ずさみながら踊り続けた。

市幹部は言う。

「この祭りは、日系人が日本文化を保ちながらアルゼンチン社会に溶け込んでいることの証しだと思う。

世界でテロや戦争が絶えない中、みんながいっしょに踊る光景は感動的だ」。


「お盆に合わせ、冬にも」

戦前から多くの日本人が移住した南米諸国では、アルゼンチン以外でも盆踊りが行われている。

日本のお盆に合わせ、南半球の冬にあたる7~9月に開催されることが多い。

150万人の日系人が住むとされるブラジルでは毎年、数十か所で盆踊りが行われる。

80年以上前に日本人が入植したサンパウロ州では、約10000人が集まる。

ボリビアでは、日本人移民が熱帯雨林を切り開いた移住地で、「入植記念祭」の一環として盆踊りが行われ、1000人以上が集まる。

複数の日本人移住地があるパラグアイでも、各地で続けられている。

一方、日系移民が110年以上の歴史をもちながら、当初から都市生活者が多かったペルーでは、盆踊りそのものが見られない。

日本人移民の研究を続ける慶応大学教授は「盆踊りの在り方は、移住の時期や居住形態、その国でどう受け入れられたかによって、様々だ」と説明する。

「日本人が渡ったハワイや北米にも、盆踊りはある。

近年はクール・ジャパンブームもあって、〝スシ″・〝サシミ″と同様に、〝ボンオドリ″として、現地での受容が進んでいる。

盆踊りをとおして、日本や日本人、受け入れた国の社会が見えてくる」と話す。

    
                ・・・・・

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たやすいユダヤ教としてのキリスト教という説・・日ユ同祖論の検証(2)

2015-05-16 | 古代キリスト教


トケィヤー著「ユダヤと日本・謎の古代史」のご紹介を続けます。

40年前に書かれた本です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          *****


        (引用ここから)


古代ユダヤの民族は12種族あったと「旧約聖書」には述べられている。

ところがそのうちの10種族が突然、歴史上から姿を消した。

これはユダヤ世界のみならず、西欧世界の大きな謎であった。

彼らはどこへ行ってしまったのであろうか?

この失われた古代ユダヤの10種族の一つが、日本に定着したという説があるが、それを説明するにはキリスト教とユダヤ教の違い、景教について触れなければならない。


「キリスト教とユダヤ教」

現在のキリスト教は、完全にヨーロッパ化されたものである。

これは北欧の文化的伝統を強く残していて、ゲルマン的であり、民間伝承的なものを含み、その意味で本来のキリスト教とはかなり異なったものである。

キリスト教はユダヤ教から出発した。

その発祥の地はエルサレムである。

だから中近東において発生した宗教である。

したがって、これはユダヤ的な宗教であるということを理解しなければならない。

また、それが中近東的な宗教の性質をもつということも理解する必要がある。

そこにはなんらのヨーロッパ的な特徴は存在していなかったのである。


キリスト教におけるサンタクロースの話は雪の中をトナカイに引かれたそりに乗る話が有名だが、これは何らエルサレムの伝承には属していない。

エルサレムには、雪は降らないからである。

だから本来のキリスト教には、サンタクロースは存在していないのである。

これは古いヨーロッパの土俗的な民間伝承に基づくものであり、キリスト教とは完全に無縁なものなのである。


またクリスマツツリーについても同様のことがいえる。

イスラエルにはまったくクリスマスツリーという習慣はない。

これはキリスト教よりも古い、ヨーロッパの民間伝承にもとづくものなのである。

これらは単にキリスト教徒たちによって取り入れられた宗教的行事にすぎない。

キリスト教は次第にローマ的になり、ゲルマン的となり、元来持っていたユダヤ的特徴を失うに至った。


しかしながら、景教ネストリウス派はヨーロッパ的ではない。

景教は中近東の人たちによって信仰されていた。

ペルシャ人、シリア人、後に至ってアラブ人たちによって信仰された。

当然アラブ文化よりは古い起源を持っている。

だから景教徒たちの行動習慣は、その隣人たちのユダヤ人のそれと大変よく似たものであった。


彼らがキリスト教となる以前、数百年の間、この人たちはユダヤ的文化の影響の下にあり、その結果彼らは何がユダヤ教であるかということについてよく知っていたのである。

ユダヤ人たちはどのようなことをしているか、また何を信じているかなど。

古代社会においてはユダヤ人がもっとも進歩的で高度な知的能力をもっていたからである。

このような典型的なユダヤ文化における基本的な観念は、ユダヤ民族の周辺に位置する人たちによっても保たれることになったのである。


後世にいたり、キリスト教徒が出現した時、それは〝拡散されたユダヤ教”として理解されたのである。

キリスト教には非常に多くのユダヤ的特徴が取り入れられたが、ユダヤ人でなければ行えないような多くの困難は除去されていた。

たとえば何を食べてもいいし、子どもを割礼させる必要もなかった。

子どもの割礼は多くの人にとって恐怖を与えたからである。

そこでユダヤ文化に非常に接近していたこれらの人々は、すべてキリスト教に変わっていったのであった。

つまりキリスト教は〝たやすいユダヤ教“であったのである。



これが「景教とはどんなものか?」という質問に答える鍵となる。

景教徒のほとんどはユダヤ文化の心酔者であり、ユダヤ人の支持者たちによって構成されていた。

景教徒の多くの行動は、完全にユダヤ的であった。

また、きわめて正統的な立場のユダヤ的行事が行われていたのである。

そこでヨーロッパ的キリスト教徒達は、ユダヤ教徒を迫害したように景教徒も迫害したのであった。

なぜならば景教徒は、ユダヤ人のようにものを考えるからであった。

ユダヤ教においては、神はあくまでも神であり、人間はあくまでも人間だった。

神の母であるマリアなどという考え方は、景教徒においては存在しなかったのである。


ユダヤ教は唯一の神である創造主を認めた。

しかしキリスト教の基本的概念である三位一体説は、完全に拒否されたのである。

いかに説明しようとも3つのものは1つではあり得ず、1つのものは3つであることができない。

だから景教徒たちも、この三位一体説を否定した。

この時、すでにユダヤ教的に思考していたのである。


景教の宣教士たちは、ヨーロッパ的キリスト教徒たちと多くの対立点を持つようになった。

というのは、元来のキリスト教がますますヨーロッパ的になり、非ユダヤ的になっていったからである。

キリスト教宣教士会イエズス会士達が15世紀後半から16世紀初頭に中国大陸を訪れた時、数少ない景教徒と接触することになった。

彼らはもはや何の勢力も持っていなかった。

当時の景教は、すでに崩壊の過程にあったのである。

このイエズス会宣教師たちは、景教徒たちに自分達の教会に来るように招いた。

しかし景教徒たちは教会には現れなかった。

当時景教徒のために、教会は存在していなかった。

景教徒たちが神を礼拝し、宗教的雰囲気を味わいたいと思った時は、キリスト教会に行く代わりにユダヤ教の教会堂シナゴーグに行ったのである。


             (引用ここまで)

        
               *****

書かれていることが歴史的に信憑性があるのかどうかは、少々疑問がありますが、著者は、中近東から中国にかけて、とある連続的な文化があったという考えを述べているのだと思います。

シルクロードという言葉はなぜロマンをかきたてるのか、、それは東洋と西洋が分かちがたく重なり合った情景を呼び起こすからではないかと思います。

著者の述べるところを、ゆっくりと味わうと、今とはちがう世界が感じられるように思います。


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日ユ同祖論の検証(1)・・キリスト教・ユダヤ教・景教

2015-05-13 | 古代キリスト教



M・トケィヤー著・箱崎総一訳「ユダヤと日本・謎の古代史」を読んでみました。

この本は1975年に発行された古い本です。

いわゆる「日ユ同祖論」です。

昔一度読んだ記憶があります。
後年訳者の箱崎氏のカバラの解説書は興味深く読んだことも思いだします。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

ちょっと読みにくい文章である上に、途中をはぶいて、結論に近いところをご紹介しようと思いますので、唐突で分かりにくいと思いますが、他の本の傍証も重ねてご紹介したいと思います。

著者トケィヤー氏はユダヤ人のラビで、日本に長く滞在されている親日家でいらっしゃいます。


               *****


              (引用ここから)


シルクロードの終点は、奈良の正倉院であると言われている。

この正倉院に眠る宝物の数々は、かつて数千年前に広大なシルクロードを横切って現在の場所に落ち着いた。

このような奇蹟が行われたシルクロードには、数々の都市が栄えた。

そしてその都市にはユダヤ人たちの居留区があり、ユダヤ学園があり、大きなユダヤ文化センターを形成していたという。

ここでは主にそれらの跡について、話を進めよう。


☆「シルクロード探検の概略」

日本人はシルクロード地帯を「西域」と呼んでいる。

紀元2世紀ごろ、漢の武帝は中央アジアに大軍を送り、汗血馬を求めようとした。

また西暦166年、ローマの皇帝マルクス・アウレリウスの使者・大秦王・安敦がシルクロードを通って中国に来た。

紀元384年には西域人の僧・摩羅難陀が、百済に仏教を伝えた。

そして紀元399年から412年に亘って、法顕とよぶ中国の僧がインドを大旅行したと述べられている。

下って紀元621年、呼応庵洛陽にゾロアスター教の寺院の建立が許可された。

この次の年に、日本の聖徳太子が死亡している。




紀元635年、ペルシャ人アラホンが中国に来て景教・ネストリウス派キリスト教を伝えた。

その後、景教は、中国において非常に繁栄し、紀元781年には歴史学者にとって有名な「景教流行中国碑」が建設された。


この景教は、ユダヤ教ではなかったか?という説をとなえる研究者も存在している。

当時のシルクロードの往来はきわめて頻繁なものであり、紀元751年、中国の派遣軍である高仙芝にひきいられた軍隊は、西域のタラス河畔でサラセン軍に敗北したことが、歴史的事実として述べられている。

その後12世紀に至って、有名なジンギスカンによるヨーロッパの大征服が行われているのである。


西暦1275年、マルコポーロが中国の皇帝に面会した時、この宮廷にはユダヤ人の政治顧問がいたと、彼の「東方見聞録」には明記されている。

近年に至り、西域地方はスウェーデン人探検家スウェイン・ヘディンによって探検されたが、彼は地理学者であり考古学者ではなかった。


日本人による西域探検は、明治30年に日本陸軍の参謀本部が中央アジアに調査員を派遣したことが記録されている。

また明治24年には日本陸軍の古川大佐という人物が「ペルシャ紀行記」を書いているし、明治39年には日野という軍人によって「イビ紀行」という紀行文が刊行されている。

しかし本格的な探検は、大谷光瑞によって行われた「大谷探検隊」の業績である。

これは明治末年より大正初期にわたって3期に分けて行われ、多くの成果をあげた。

大谷探検隊の初期の目的は、初期の仏典の翻訳を調査することにあり、ことにウイグル語による翻訳文を求めることであった。

つまり大谷探検隊はインド語による仏典またはウイグル語経典を入手するために西域に入ったのである。

しかし結果として大谷探検隊は、シルクロードについての考古学的研究を果たすことになった。

その発見の中にはミイランとよばれる遺跡において天使像を発見したことが注目されている。

これは絹の道の天山南路に位置した、古代都市の遺跡である。

この天使像はヘレニズム文化の強い影響を受けていることが指摘されている。



             (引用ここまで)

               *****


wikipedia「大谷探検隊」より

大谷探検隊は、20世紀初頭に日本の浄土真宗本願寺派第22代法主・大谷光瑞が、中央アジアに派遣した学術探検隊。

シルクロード研究上の貴重な業績を挙げた。

1902年 - 1914年(明治35年 - 大正3年)の間に、前後3次にわたって行われたが、戦時中という状況も重なり活動の詳細は不明なところも多い。



第一次探検

第1次(1902年 - 1904年)は、ロンドン留学中の光瑞自身が赴き、本多恵隆・井上円弘・渡辺哲信・堀賢雄の4名が同行した。

光瑞はカシュガル滞在後インドに向かい、1903年(明治36年)1月14日に、長らく謎の地の山であった霊鷲山を発見し、また、マガダ国の首都王舎城を特定した。

渡辺・堀は分かれてタクラマカン砂漠に入り、ホータン・クチャなどを調査した。

別に雲南省ルートの探検が野村禮譲、茂野純一によって行なわれ、この途上で建築家伊東忠太と遭遇。
これが光瑞師と伊東博士の交流のきっかけとなり、のち築地本願寺の設計依頼へとつながる。

第二次探検

第2次(1908年 - 1909年)は、橘瑞超、野村栄三郎の2名が派遣され、外モンゴルからタリム盆地に入りトルファンを調査した後コルラで二手に分かれた。
野村はカシュガル方面、橘はロプノール湖跡のある楼蘭方面を調査した。
有名な李柏文書はこの時に発見されたと見られる。

第三次探検

第3次(1910年 - 1914年)は、橘瑞超、吉川小一郎の2名が、トルファン・楼蘭などの既調査地の再調査をはじめ、ジュンガリアでも調査を行うほか、敦煌で若干の文書を収集した。

報告書類

三度の探検により貴重な古文化財がもたらされたが、その報告書として『西域考古図譜』2帙(1915年)、『新西域記』2巻(1937年)が刊行され、研究報告として『西域文化研究』全6巻(1958年)がある。
現在では、将来された文書の資料集である『大谷文書集成』1(1984年)も公刊されている。


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難民受け入れこそ、真の「国際貢献」だ・・難民申請5000人突破。

2015-05-09 | アジア


「難民申請、初の5000人 昨年認定は11人・・就労目的一因か?」
                          朝日新聞2015・03・11


日本で難民認定を求める外国人が2014年、初めて5000人に達した。

2013年に初めて3000人を突破したが、さらに5割増えて、過去最高を大幅に更新した。

就労目的で来日した外国人が、難民申請が増えていることが要因の一つと見られる。

一方、難民と認定された外国人はわずか11人に留まる。

日本の認定基準の厳しさが、改めて浮き彫りとなった。

法務省入国管理局によると、難民認定を申請した人は、10年前には384人だった。

昨年は国籍別では、ネパール人が1293人で、初めて最多となり、トルコ、スリランカの順に多かった。

日本は繰り返し申請ができ、申請中は強制送還されない。

また、2010年にあった制度変更によって、在留資格を持つ人に限り、申請の半年後から就労が認められる。

入管局は、こういった制度が口コミで広がり、申請急増につながっていると分析する。

うその申請を手助けするブローカーの存在も明らかになっており、入管局は昨年ネパール人の男を摘発した。

難民は人種、宗教、政治的な迫害の恐れを理由に認められるが、日本はその審査が厳格で、数万人規模で受け入れる欧米諸国より、きわめて少ない状況は変わっていない。


            ・・・・・


             ・・・・・


「難民受け入れ拡大こそ、国際貢献」
                 朝日新聞2015・04・05


自国に帰れば、社会的に苦しめられ、危険が及びかねない。。

そんな人々を「難民」とよぶ。

日本は、そうした人たちを守る「難民条約」の加盟国だが、実際に受け入れた人数は、極端に少ない。

2014年に認定したのは11人だ。

1997年以来の1けたに比べれば、落ち込んだ2013年の6人からわずかの増加。

難民と認めないまでも、人道上の配慮から在留を認めた110人が別にいるが、それでも年間10000人超えや数千人規模を受け入れる北米や欧州の国々に比べてはるかに狭き門だ。

「難民条約」は、人種や宗教、特定集団に属していることなどを理由に、迫害される恐れのある人の保護を求めている。

だが、具体的な解釈は、個々のケースの判断は加盟国に委ねられている。

認定の在り方は、各国の基本的人権や自由に対する感覚を、はからずも露呈してしまう。

阿部政権は安全保障政策ではさかんに 「国際貢献」をあげているが、真剣に「貢献」を言うならば、「難民受け入れ」と正面から向き合うべきだ。

シリアやイラクなど、各地で紛争が起こっている国際状況を見れば、この分野こそ緊急の必要性が高い。

「国連難民高等弁護官事務所」は先月、世界で去年86万人が先進各国に保護を申請し、過去22年で最多だったことを明らかにした。

そのうちシリア難民の申請は、15万人。

地理的に近い欧州の受け入れにも限界がある。

日本ではこの3月、シリア人3人が認定されたが、昨年11月時点では2011年以降、シリア人の認定はずっと0だ。

裁判になっている4人のケースを見ても、シリア国内の反政府デモに参加していたり、少数派のクルド民族だったりで、帰国して迫害はないと言い切れるのか疑問がぬぐえない。

〝迫害の恐れ″の解釈が厳しすぎるのが、問題だ。

国際機関の意見も取り入れて国際基準にそろえる必要がある。


だが法務省の今の取り組みは、そうした基準の緩和より、むしろ逆の方向に重きを置いているように見える。

「年間5000件に及ぶ「難民認定申請」の中には、虚偽のものが増えている」として、手続きを見直そうとしている。

本当に救済が必要な人が後回しになる仕組みは改めなければならないが、申請をしにくくしたり、申請中の生活を不安定にしたりしては本末転倒だ。

疑うことからはじめては、「難民認定」という制度自体、成り立たない。

「難民救済」という基本的な人道支援は、先進国の最低限の義務であることを自覚すべきだ。


             ・・・・・


同じような新聞記事ばかり載せて、、と思われるかもしれませんが、わたしとしては結構まじめに考えています。

これは現実だから、目をそむけるわけにはいかないのだと思います。

日本が国際的にどのような態度をとるのかは、自分自身の問題であると思っています。


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あなたの上に平安あれ・・「イスラームの世界地図」(2)

2015-05-06 | エジプト・イスラム・オリエント


21世紀研究会編「イスラームの世界地図」のご紹介を続けます。

礼拝の順序の説明ばかりを集めましたが、とてもよいと思いましたので、掲載させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。       


            *****


          (引用ここから)


イスラームの礼拝

イスラーム教徒にとって信仰の柱の一つである礼拝は、一般には次のように行われる。

まず、毎日の礼拝が義務づけられており、決まった時間に定められた形式で行われる。

場合によっては、決められた時間より後で礼拝することも認められている。

ただし先に済ませておくことは許されない。



一日5回の礼拝は、次のように定められている。

●ファジュル

早朝、または夜明けの礼拝。
白糸と黒糸の見分けがはっきりつく明るさになった時に行う。
6時半ごろ。

●ズフル

正午過ぎの礼拝。
太陽が真上に来たときに行う。
1時半ごろ。

●アスル

夕方、または午後遅くの礼拝。
太陽が半分傾きかけた時、あるいはまっすぐに立てた棒の影が棒の長さと同じになった時に行う。
4時半ごろ。

●アグリブ

日没後の礼拝。
太陽が地平線から消えた時に行う。
6時40分ごろ。

●イシャーフ

就寝前、または夜半の礼拝。
アブリブを行って約1時間半後に行う。
8時15分ごろ。


この他、安息日である毎週金曜日の午後には公式礼拝が行われる。


公式礼拝には、イスラーム教徒は男女を問わずモスクに集まり、礼拝を行う。
また説教も行われる。

礼拝はこうして決められたものだけではなく自発的に行うこともある。

礼拝にあたっては、男性は労働中の場合もあるので、最低限膝までの下半身をおおう衣服。
女性は、手と顔以外のすべてを覆う衣服を身に着けることが決められている。


●アザーン 

モスクから町中に届くように礼拝の呼びかけであるアザーンが次のように唱えられる。

1 アッラーフ アクバル(4回)
意味 アラーは偉大なり

2 アシュハド アン ラー イラーハ イッラッ=ラー(2回)
意味 アラーの他に神はないことを誓う

3アシュハド アンナ ムハンマダン ラスールッ=ラー(2回)
意味 ムハンマドはアラーの使徒であることを誓う

4 ハイヤー アラッ=サラー(2回)
意味 礼拝のために来たれ

5 ハイヤー アラ=ル=ファラー(2回)
意味 成功のために来たれ
(夜明けの礼拝であるファジュルの時のみ)

アッ=サラート ハイルン ミナン=ナウム(2回)
意味 礼拝は睡眠に勝る

6 アッラーフ アクバル(2回)
意味 アラーは偉大なり

7 ラー イラーハ イッラッ=ラー(2回)
意味 アラーの他に神はいない



礼拝の順序は、一般的には次のように行われる。

宗派、国、地域、またその時々の礼拝の種類によって、繰り返す回数、動作、となえる語句が異なる。

ただしどこの国であってもアラビア語で行う。


1 メッカの方向(キブラ)に向かって立ち、礼拝の種類、回数を告げ、意思表示を行う。

2 両方の手のひらを耳の高さに上げて、次の文句を唱える。
アッラーフ アクバル(1回)

3 両手を体の前で組み、コーランの「開扉の章」他、コーランにある任意の3節以上を唱える。


「コーラン・開扉の章」は以下の通り。

 「コーラン・メッカ啓示・全7節」

慈悲ふかく、慈愛あまねきアラーの御名において・・

A 讃えあれ、アラー、万世の主、

B 慈悲ふかく、慈愛あまねき御神、

C 審きの日、「最後の審判の日」の主宰者。

D 汝をこそ、我らはあがめまつる。
汝にこそ、救いを求めまつる。

E 願わくば我らを導いて、正しき道を辿らしめたまえ、

F 汝の御怒りをこうむる人々や
踏み迷う人々の道ではなく、

G 汝の嘉し給う人々の道を、歩ましめたまえ


4 両手をひざ頭につけて、次の句を唱える。

スプハーナ ラッビヤ=ル=アジーム(3回)
意味 偉大なる我が主に栄光あれ

5 直立の姿勢に戻りながら、次の句を唱える。

サミアッ=ラーフ リ・マン ハミダ
意味 アラーは称讃する者を慶び讃えたもう

6 1の句を唱えながら平伏し、次の句を唱える。

スブハーナ ラッビヤ=ル=アアラー
意味 荘厳至高なる我が主に栄光あれ

7 体を起こす

8 1の句を唱えながら平伏する

9 神を讃え、ムハンマドと善良なイスラーム教徒のために祈りの句を唱える。

10 7の姿勢に戻る。

顔を上げ、アラーへの称賛、僕であることを誓い、次の句を唱える
ラー イラーハ イッラッ=ラー

この句を唱える時は、右手の人差し指を立てて突出し、神が唯一の存在であることを示す。

この後、神へ恵みを乞う句を唱え、両側の同胞の方を向いて「アッサラーム アレイクム(あなたの上に平安あれ)と挨拶の言葉をかける。



イスラム用語小辞典

ア行

「アラー」 イスラムにおける唯一なる神の呼称。
語源的にはアラビア語で「神」を意味する語。
〝アラーという名の神“が、いるわけではない。

「アザーン」 人々に対する礼拝の呼びかけ。男性のみが行う。

「アブラハム」 旧約聖書の預言者。コーランでは「メッカのカーバ神殿を建設しアラーに捧げた」と伝えられている。

「アラブ」 遊牧民を意味する。現在では一般に「アラビア語を話すイスラム教徒で、自分をアラブ人と自覚する人々」ということになろうが、厳格に規定することは難しい。

「アラファート」 メッカ巡礼中、重要な礼拝がおこなわれる丘。預言者ムハンマドがここで別離の説教を行ったと言われている。

「アル=アルカーヌ・ル=ハムサ」(5本の柱)
イスラム教徒が実行すべき5つの務め。すなわち、信仰告白、礼拝、喜捨・施し、 断食、巡礼のこと。

「イスラーム」 アラーに絶対服従する、という意味。

「岩のドーム」 エルサレムの神殿の丘にあり、預言者ムハンマドが昇天したとされる岩の上に建てられた建物。

「ウンマ」 民族、部族、国家などと訳されることが多いが、正確にはどれもあてはまらない。
イスラーム共同体というべきか。神が人類救済するために使徒をつかわし、よびかける集団のこと。

「エルサレム」 予言者ムハンマドの時代には、礼拝の方向はエルサレムだった。
またムハンマドがここで昇天したとされ、624年、神殿の丘に岩のドームが建てられた。


カ行

「天啓の民」 アラビア語で「神が啓示した啓典を信仰する人々」のこと。
ユダヤ教徒、キリスト教徒を含む。

「コーラン」 イスラームの聖典。神から預言者ムハンマドに下された啓示。
語源は「声高く朗誦する」という意味。

サ行

「最後の審判」 イスラーム教徒の根本信条の一つ。
この世が終わりを迎えて万物が死に絶えた後に行われる、とされている。

万物の死後、天使の吹き鳴らすラッパの音ですべての人が生き返り、生前の行いについて神の裁きを受ける。
そして、良き信者は楽園に、悪しき信者と異教徒は地獄へ、と分けられる。

永遠の生命は、この最後の審判の後に得るものだとされている。
したがって現世はその前の一時的な段階に過ぎないと考えられている。


「ザムザムの泉」 メッカにある名高い水場。
アブラハムの妻が幼子イシュマエルのために水を得ようとした時、神の慈悲によって湧き出した泉とされている。

    
          (引用ここまで)

写真(上)は14世紀につくられたコーランの彩色写本。
写真(中)はムガール朝時代の絵画。賢者たちが討論をしている図。
写真(下)は9世紀建立のモスク。
                「イスラーム歴史文化地図」より


            *****

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「西欧の論理を押し付けるな・内藤正典氏・・連続テロの底に」

「中田考氏「イスラームのロジック」(1)・・先祖アブラハムの血を分けた兄弟」(3)まであり

「アラブの怒り、日本にも責任・・野中章弘氏」

「ホピの予言・この惑星を救う生き方(3)・・生き残るためのロードプラン」

「出エジプトを祝う年中行事・ユダヤ教徒の祈りの生活(2)」

「ヘブライ語とケルト人・・神官ドルイドはアブラハムの血をひく者なり、という説」

「ムハンマドの生涯(1)・・40才、イスラームの預言者となる」(6)まであり

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国際学級、難民の演劇・・日本語とトモダチに

2015-05-02 | アジア



               ・・・・・

「日本語とトモダチに・・教育2014・子どもを支える」
                     朝日新聞2014・12・21

横浜市立鶴見中学校で、昼休み後の5時間目、3年生の男子生徒が「国際学級」にやってきた。

先に来日して働いていた親に呼び寄せられ、9月に中国から来たばかり。

普段の授業は「日本語が分からず、つまらない」と中国語で話した。

担当するA教諭はこの日は「ご飯を食べて、歯を磨きます」、2人で教科書を読みながら、2つの動作をつなぐ(○○して)の使い方などを確認した。

その後、来年に控える高校受験に向けて、志望動機などの書類を一緒に練った。

将来の夢を聞かれて「宇宙飛行士になりたい」と照れながら答えていた。

鶴見中には、国語や社会の時間に他の生徒と一緒に授業を受けず、国際教室に来て日本語を学ぶ生徒が20人以上いる。

中国の他、フィリピン、ネパール、ブラジルなどルーツや文化的な背景は様々だ。

教諭は中国語を話せるが、英語の担当教諭もいる。

それ以外の言語はなかなか対応が難しいという。


「足りぬ国際教室」

横浜市では、日本語の指導が必要な外国籍の子が5人以上いる小中学校に、国際教室をおき、担当教諭が別室で日本語や教科を教えている。

市教委によると、市内490小中校のうち、国際教室があるのは64校。

県内全体でも2011年のまとめで152校に過ぎない。

昨年度、県内の公立小中学校に通う外国籍の子は6070人。

うち日本語の指導を必要とする子は2578人いた。

両親が国際結婚をするなどし、日本国籍はあるが日本語の指導が必要な子も939人にのぼる。

A教諭は採用以来、横浜市内を転勤しながらずっと「国際教室」を担当してきた。

「継続して担当する人が少なく、ノウハウの蓄積が難しい」

対象者が4人以下だと設置されず、日本国籍を持ちながら、日本語を話せない子に十分対応できないなどの課題もある。


「おせっかいを」

NPO法人」「多文化共生教育ネットワークかながわ」が運営する「たぶんかフリースクールよこはま」は、高校受験に向けた学びの場。

10代後半のこどもたち30人が週3回通う。

進学の仕組みを知らない保護者も多く、3者面談にも力を入れる。

スクール代表は「高校を卒業した方が日本でのチャンスが広がる。一方で、こうした場を知らずに時間がたってしまう子もいる」と、支援の手が差し伸べられない子の存在を懸念する。


かながわ国際交流財団」では、外国につながりのある子を支援するためのガイドブックを11年から作っている。

小学校入学や高校進学、保護者との関係作りなどで周囲が気を付けることや工夫できることを紹介する。

財団では「日本生まれで日常会話に問題がなくても、学習面でつまづきを抱えている子は多い。

支援が必要なのに気づかれていない子がたくさんいる。

普段の生活で母国語を使う保護者は、理解できていなくても「分かりました」「大丈夫です」と答えるケースがある。

周りの人が一歩踏み込んでおせっかいをしてくれると、だいぶ違うのですが」と話す。


              ・・・・・

次は、インドシナ難民の演劇という記事です。

              ・・・・・



言葉や国 揺さぶる即興劇・・インドシナ難民×寿町の住人
「のぞき見」「盗み聞き」して考えて


故郷を追われ、神奈川県内に住むインドシナ難民と、簡易宿泊所が立ち並ぶ横浜・寿町の住人。

さまざまな境遇を経て、各地から横浜周辺に辿り着いた人々が出演する演劇が、30日から横浜市内で始まる。

演劇ユニットPortBによる「横浜コミューン」だ。

言語とは、共同体とは、記憶とは・・訪れた人自らが問い直す作品となっている。

舞台は、学習机やいすが置かれ、日本語教室を模した空間。

インドシナ難民と寿町の住人が2人1組となり、教材の小説を朗読する。

2人は朗読を終えると、小説に関連し、「忘却」「家族」など与えられた題材について語りあう。

演劇といっても事前稽古はなく、どんなやりとりが生まれるのか、なにが起こるのかはわからない。

観客は2階から「のぞき見」し、6組のペアの会話をイヤホンで「盗み聞き」する。

インドシナ難民は、それぞれ日本語の習熟度が違う。

文法や単語の使い方が、間違っていることもある

代表の演出家・高山明さんは「ぼくらはおかしい日本語を聞くと、正しくない、直したいと思ってしまう。でも笑っちゃうくら面白かったり、美しいな、こんな日本語があってもいいなと思ったりすることもある。

間違いも含めて、受容できればいい」。

苦難を潜り抜けて日本にたどりついた難民と、さまざまな苦境を渡り歩いてきた寿町の住人。

彼らの言語、彼らが語る個人的な記憶が重層的に錯綜する空間。

言語、共同体、帰属に対する一般の人の意識に、高山さんは疑問を投げかける。

「日本語はけっして自明のものじゃないし、国というのも、自明なものではない。自明だと考えがちなものも、〝保留して“考えた方がいいよ、と観客にひずみや亀裂を生じさせられればいい」。


「自分達の存在、アピールしたい・・出演する新岡さん」

「横浜コミューン」に出演する新岡さんは、1975年のラオスの政変で、タイの難民キャンプを経て79年に来日したインドシナ難民。

今はラオス語通訳や難民の相談員をしている。

難民で問題なのは「やはり言葉」と新岡さん。

子どもは学校で日本語が話せるようになるが、親は片言で、家庭内でうまくコミュニケーションがとれないこともある。

「難民の子どもや孫世代がラオス語を完全に忘れてしまい、団結がなくなってしまうのでは」とも心配する。

「日本の若い人はインドシナ難民を知らないと思う。「横浜コミューン」の上演を通じ、自分達の存在をアピールしたい」と新岡さんは言う。

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wikipedia「インドシナ難民」

インドシナ難民とは、1975年、ベトナム・ラオス・カンボジア(総称してインドシナ三国)が社会主義体制に移行したことにより、経済活動が制限されたり、同体制の下で迫害を受ける恐れがあったり、体制に馴染めないなどの理由から自国外へ脱出し、難民となった人々の総称。

難民の流出は、1970年代後半から80年代を通して見られ、特にその一部はボート・ピープルとして海外へと脱出したことで世界から注目された。


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