始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

再掲「春分の夜の蝶」(石牟礼道子「ふたりのわたし」収蔵)・・たましいの記憶

2018-02-28 | メディテーション


先日亡くなられた石牟礼道子さんへの追悼の気持ちを込めて、以前当ブログに掲載した文章を、再掲させていただきます。

これは10年前、わたしが夜、母の老人ホームに行った時のことを書いたものです。

娘によそに預けられる母の寂しさ、母をよそに預ける娘の切なさ。

どうしようもない選択だったと今でも思うのですが、それはやはり、〝漠とした悲しさ”、という言葉がよく似合う、生きることの悲しみであり、今も同じ老人ホームで暮らす母は、その父母、その父祖、その先のご先祖様方に、いつも囲まれているように感じられ、畏敬の念に打たれずにいられません。


            *****


         (引用ここから)2008・10・01当ブログ掲載


春分の夜は、母の老人ホームに行ってすごした。

いつもは遅くても夕食の準備までには帰宅するのだけれど、
母はいつも、「ここは夜になるとこわいのよ」と言って引き止めたがっていたので、
祝日のこの日は、夕食の準備をはやばやとすませて夕方老人ホームに向かった。

母はこのごろ少し幻覚が出るようで、
夜中に大きな蝶が飛んでくると言って、
おびえたりベッドから下りようとすると、寮母さんから聞いていた。

夜の闇のなかで、母がどんな気持ちでいるのだろうと思った。

蝶は古来、死者の魂の使いと言われているという。

母を訪れるその蝶は、どこから来て、なにを告げようとしているのだろう。

ずいぶん前に新聞で読んで、切り抜いていた石牟礼道子さんの随筆を読み返したくなった。



               *****



              (引用ここから)


   「自分と出会う 石牟礼道子 「ふたりのわたし」」 

                      朝日新聞 1994年12月27日 


いくつばかりだったろう。

母はサフラン畑の手入れをしていて、わたしはその脇に寝かされ、空ゆく雲に見とれていた。

黄金色の霧がときどき目の上を流れた。

蜜を含んだ椿の花粉だったかもしれない。

おおきな椿の木のある丘の上だった。

刻々と変わってゆく空の様相、
その光の彩と影の動きの壮大なこと。

一生を通して、
幾度この時の雲の記憶がわたしを呼び戻したことだろう。(略)


このような年齢のときは、言葉より思念の方が先に育つのであろうか。

というのもその時わたしは

“もう一人の自分”が雲の彩といっしょにやって来て、
地面の上のわたしと入れ替わるのを感じたのである。


それは漠とした悲しみを伴った、
長い旅への出発に似ていた。

母はそばにいたが、天涯孤独な小さな自分を脱け出して、
その魂のようなのがゆく後ろ姿。

どこへそれはゆくのだろう。

彼方の世界にはここらあたりとそっくりなおおきな椿や畑があり、
父母や近所の人たちがいるかもしれない。

けれどもなぜだか少しずつ違うひとみの色をして、

どきどきするような懐かしいことが、
そこにはあるのではないか。

向こうのわたしは、こちらのわたしとまるで似ていて、

心もそっくりで、

今も同じことを考えているのではないか。

わたしはもうひとりの自分とあいたくて切なかった。(略)


こういうわけで天の運行というものは、

人の心の深層をも呼び起こしてゆくものだと、
このごろまた思うことである。

以来わたしは15,6の頃までこの丘にゆき、
夕暮れの雲を見るのが大そう懐かしかった。


陽の落ちてゆくさきは天草島で、

わたしが幼時に眺めて天の神が来て座するのだと信じ込んでいた大岩は、
25年くらい前にダイナマイトを仕かけられて割られ、

そこらには市営住宅が建ち並んでいる。


隣の畑の境木だったあの大椿は切り倒されて、

まわりを囲んでいた椎の林や柏林も今はない。


そして興味深いことに、

わたしの中ではいまだに二人の自分が出たり入ったりしていて、
迷い子になりながらも住み分けをやっているのに気づかされる。


どうやらこれは、
近代的な自我の分裂などとは違うもののようである。

子供心に思っていた彼方とは、
たぶん前世のことではなかったか。

この世にやっては来たものの、
ちゃんと生まれていなかったのかもしれない。

ただそちらの方に、雲の光があるもので、
わたしの二人旅は終わらない。

   
               (引用ここまで)

 
                *****


死者たちのすむ彼岸のくには明るい世界で、
ひとびとがかつてやってきた処であり、また帰ってゆくふるさとだ、

という東洋に昔からある思いは
なんと安らかな、おだやかな思いであろうか。

闇のなかで母のまわりを飛び交うという、おおきな黒い蝶に、
わたしは親愛のきもちを感じた。

きっとその蝶は、いつだって飛んでいるにちがいないと思うのだ。

ただ、エンジン全開で運転している時には、うまく焦点があわない、
たましいの記憶ではないだろうか。

午後9時老人ホームを出るまで、その夜そこには蝶はやってこなかった。


          (引用ここまで)

          *****

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再掲「「名残りの世」(3)生きる悲しみ 死ぬ悲しみ」・・追悼・石牟礼道子さん・90才で死去

2018-02-24 | メディテーション


間が空いてしまいましたが、引き続き、先日亡くなられた石牟礼道子さんへの追悼の気持ちを込めて、2011年に当ブログにてご紹介させていただいた、石牟礼さんの講演「名残りの世」を、改めてご紹介させていただきます。

             *****


          (引用ここから)


親鸞をめぐって開かれた講演会の記録である「親鸞・不知火からのことづて」のご紹介を続けます。

吉本隆明・石牟礼道子・桶谷秀昭氏が話しておられますが、ここでは石牟礼道子さんのお話を取り上げたいと思います。


わたしには、この方のものの感じ方は非常に納得がいくように思います。

生きるためには、生きることのモラルが必要であるに違いなく、まさに“義を言わない”という、古い人々の智恵に則った彼女の言葉には、人の心の底まで沁み渡る性質があるように感じます。

唐突な物言いかもしれませんが、もし“日本の大転換”が目指されることがあるとしたら、それはきっとこのような感性が命を吹き返すことではなかろうか、とも思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****
 
  
            (引用ここから)


(水俣病患者の話になり)

よく水俣の患者さんが

「もう人間はいやじゃ、人間に生まれてきとうない」とおっしゃいます。


と申しますのは、現代社会はもう、自らを浄める力がなくなってしまったのではないかという、深い嘆きから出る言葉かと思います。


仏教の歴史は長いわけですが、その中には深い厭世観、末法思想が否みようもなくまつわりついております。

末世の世の中、もう世の中の終わりが来るというふうに、すぐれた宗教思想家たちは考えておりました。

仏教だけでなく、外国の宗教も同様、そう思っていました。

それでも人間の歴史というのは続いてきたわけで、なぜ続いてきたかと思うのですが、やはり私たちの生命は限られております。

命が限られていることも、歴史を保たせてきたのではないか。


(水俣病の)患者さんが死んでゆかれるのに立ち会うことになってしまいまして、こういう人たちが、チッソの社長たちと向き合う場所にたびたび居合わせたのですけれど、

自分たちは、あるいは死んだ者たちは、生きてあたりまえの人生を送りたかったのだ、ということをおっしゃりたいのですが、なかなか相手にも世間にもそれが伝わりません。


あたりまえに生きるとはどういうことか。


この世と心を通い合わせて生きてゆきたい、ということなのです。

先ほど、私どもの地方では心が深いことを「煩悩が深い」と言うのだと申しましたけれど、そのような生身の「煩悩」を、水俣病になってしまって、途中で断ち切られる。。

人様にも、畑にも、魚にもキツネやなんかにも、猫たちにも、生きているものことごとくと交わしたい「煩悩」に、本来自分らは満ち溢れている。。

その尽きせぬ思いをぶったぎられるのが辛い、、

そういう気持ちが大前提にあるのではないでしょうか。


わたしが見た限りでは、患者さんたちは、チッソの人たちに非常に深いまなざしで、一種の哀憐を、深い心を持って向き合っておりまして、それは大悲とか、大慈と言うのに近い姿だとわたしは感じております。


仏教では繰り返し、末世の到来を説きながら来たわけですが、わたしたちは「煩悩」・・非常にもどかしくて、言い得ないのですが、狩野芳崖が描きました「悲母観音」の図、、神秘的な、東洋の魂のもっとも深い世界を、日本人の宗教の意識のもっとも奥のところを描ききった名作だと思いますけれど、

わたしが申します時の「煩悩」の世界とは、あの絵のような世界を思い浮かべております。


わたしどもの命を無明の中で促しているエネルギーが、「煩悩」だと思うのです。

お互いにご先祖様の血をもらっていて、私どもは生まれ変わっていると思うのですが、実際に生きている実感を持てるのは一代限り。

今現在でしかありません。

そう思えば、この世というのはまことに名残り惜しい、
草木も風も雲も。

ほんとうに空ゆく雲の影も、見おさめかも知れません。

そう毎日は思わないですけれども、心づけば名残りが深いですよね。


いまは幸いこういうお寺さまがあって、自分の心の内側を深く差し覗ける日があって、遠い山の声、海の声、ご先祖様方の声を聞くことが出来ます。

「後生を拝みに行こうや」と誘い合わせていらっしゃるわけですが、「後生」とおっしゃる時は、未来に重ねておっしゃっていると思うんです。

わたしどもはみな、多かれ少なかれ、この世に尽きせぬ名残りを残してゆきますので、その自分への名残りが未来の方へ、鐘の余韻さながら、こうも生きたかった、ああも生きたかった、という気持ちが自分の内側へ響いてきます。

その自分の身から鳴る鐘の音のようなものに導かれて、仏様を拝む時は、そういう自分をも拝んでいるのではないでしょうか。


拝むことしか知らぬ衆生というものこそ、実はこの世界の一番奥をなす存在だと、わたしは思います。

衆生というものは、そのように生き代わり死に代わりしてきました。



(島原の乱で、島の人々を救うために切腹した代官の話をして)


先ほど来申しましたような意味での、深い情愛をもった人たち、全き「煩悩」をもって万物と共に在る人たちが、彼の身の回りにいたことでしょう。


その人たちの思いの残っている、あの「煩悩のかかっている土地」に来て、残された人々の声を聴き、顔つきを見て、その人たちと多分、魂も心も通うようになって、すうっと代官の心が変わっていったことでしょう。

深くなっていったろうと、わたしは思います。

この者たちのために死のうと。

そんな特別な人たちがおったわけは無くて、水俣の、先ほど申しましたような、「煩悩」をこの世にかけ足りなく思って、深い名残りを残して死んでゆかなければならなかった者たち、

それからここに今日お出でくださいましたような、ごく普通のお顔の人たちとどこが違っただろうと思います。


お互いに名残深い世を、今はまだ生きているな、と思うばかりでございます。

皆様方のようなお顔を、いつも思い浮かべていることでございます。

今日はお目にかからせていただいてありがとうございました。


        (引用ここまで)


         *****

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などあります。(重複しています)

           (引用ここまで)

            *****



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再掲「名残りの世」(2)草であり、石であったわたしたち・・追悼・石牟礼道子さん・90才でご逝去

2018-02-17 | メディテーション

引き続き、先日亡くなられた石牟礼道子さんを悼み、2011年に当ブログに掲載した講演会「親鸞・不知火からのことづて」のご紹介をさせていただきます。

           *****
   
         (引用ここから)



親鸞をめぐって開かれた講演会の記録である「親鸞・不知火からのことづて」のご紹介を続けます。

吉本隆明・石牟礼道子・桶谷秀昭氏が話しておられますが、ここでは石牟礼道子さんのお話を取り上げたいと思います。

驚くほどに心打つ言葉が現れます。

これが書き言葉ではなく、話し言葉で語られた言葉であるということに、今更ながら陶然としてしまいます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          *****


         (引用ここから)



このあたり(熊本・不知火)では、「煩悩」を、当然あるものとして把握して言う言い方がございます。

たとえば
「わたしゃ、あの子に煩悩でならん。」
とか申します。

情愛の濃さを一方的に注いでいる状態、全身的に包んでいて、相手に負担をかけさせない慈愛のようなもの、それを注ぐ心の核になっていて、その人自身を生かしているものを「煩悩」というのです。

情愛をほとんど無意識なほどに深く一人の人間にかけて、相手が三つ四つの子どもに対して注ぐのも「煩悩じゃ」と。

人間だけでなく、木や花や犬や猫にも、「煩悩の深い人じゃ」と肯定的に言うのです。


これはどういう世界なのかと常々わたしは思います。

大衆ーー仏教では「衆生」と申しますがーーわたしは、生きてゆくのに時代の論調などを必要とせぬ人々のことをいっておりますがーー宗教というものは、ついには教理化することのできぬ「玄義」というものを、その奥に包んでいるのではないでしょうか。


そして「玄義」とは、そのような「衆生という存在」だとわたしは思います。


衆生というものは生々累劫、担っている悲愁を、みずから体系化することをいたしません。

教理教学を含んでいる経を、「荘厳な有り難い声明」とだけとらえているのは、そういう人々の直感というか把握力でございましょうし、

究極の虚無、たとえば「往生」(死)というものとだけ向き合っているのではないでしょうか。


しろうとで考えてみましても、だいたいお釈迦様という方は世の中を捨ててしまって、世の中を好かない、というところからまず仏教というものは始まったように思います。

極端に言えば、世の中にもういたくないから子孫を残さずに消えてしまおうと、そういう所を仏教は含んできたと思うのです。



(ご近所の働き者のおばさんと会話して)

「わたしゃもう、足の痛うして。行こうごとあるばってん、行かれんが。草によろしゅう言うてくれなあ。」

と伯母さんが言いなさる。

実際、人間だけじゃなくて、草によろしゅう言うたり、魚によろしゅう言うたり、草からや魚からやら、ことづてがあったり、皆さんもよくそういうこと、おっしゃってますよね。


お寺というのは「荘厳」を形にしてあるわけですが、よいお経をお坊さんがあげられるのを聞きまして、ああ、よかお経じゃった、と村の女の人たちがよく言われますが、浄められ、「荘厳」されますわけでしょう。


「草がことづてる」というのも、それにつながるような風の音でして。

自分のまわりの誰か、誰か自分でないものから、自分の中のいちばん深い寂しい気持ちを、ひそやかに「荘厳」してくれるような声が聴きたいと、人は悲しみの底で思っています。


そういう時、山の声、風の声などを、わたしどもは魂の奥で聞いているのではないでしょうか。

なぜならわたしどもは、今人間といいましても、草であったかもしれず魚であったかもしれないのですから。



        (引用ここまで)


            *****



>人間だけでなく、木や花や犬や猫にも、「煩悩の深い人じゃ」、と肯定的に言うのです。

>これはどういう世界なのかと、常々わたしは思います。

>大衆ーー仏教では「衆生」と申しますが、わたしは、生きてゆくのに時代の論調などを必要とせぬ人々のことを言っておりますがーー宗教というものは、ついには教理化することのできぬ「玄義」というものを、その奥に包んでいるのではないでしょうか。

>そして「玄義」とは、そのような「衆生という存在」だとわたしは思います。



なんと深い言葉でしょうか。

この講演会のもう一人の論者吉本隆明氏が追及しておられるドストエフスキーの苦悩の境地を、石牟礼道子さんは石牟礼さんの道筋で、一人で究明していらっしゃるのであると思います。

言葉というものの可能性を、とても感じる一文ではないかと思います。

そして、わたしたちは、今は人間の姿をしているけれど、ある時代には草として生き、ある時代には魚として生き、天地をめぐっているに違いありません。



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(引用ここまで)


               *****

なお、写真は不知火とは関係ありません。

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再掲「「名残りの世」(1)いとしく思いあう風景」・・追悼・石牟礼道子さん・90才で死去

2018-02-14 | メディテーション
4日前のご逝去を悼み、2011年に、当ブログにご紹介した石牟礼道子さんの文章を、あらためてご紹介させていただきます。3回連続です。


          *****


「石牟礼道子「名残りの世(1)・・いとしく思いあう風景」
                            2011年12月20日

前にお盆のことを調べていたら、親鸞の話をする本を多くみかけました。

この石牟礼道子氏のお話も、親鸞的世界を語るものでした。

熊本・不知火のお寺で縁あって開かれた「親鸞をめぐる講演会」に、話手の一人として参加なさったものです。


煩悩と知性と宗教をめぐる、親鸞のパラドックスに満ちた世界が、無名の人々の生き様の中に、みごとに存在している、ということ、

また、苦しみにみちた人生には、それをいやす、濃い情がなければならないのが人の世だ、ということ、

それから、苦しみは、浄化されなければならない、ということ、

人の苦しみ、悲しみを浄化するのが、人の世の努めだと思う、ということを言っておられるのだと思いました。

長いお話を、はしょりながら、まとめたので、意味がわかりにくいと思いますが。。


吉本隆明・石牟礼道子・桶谷秀昭氏の講演記録「親鸞・・不知火よりのことづて」をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



                 *****

             (引用ここから)


(子どもの頃、母におぶわれて行ったお寺の思い出、大人たちがお寺に集まってきている時のことを思い出しながら)


つつましい晴れ着をまとってきた人々が、全身的に心をかたむけてお坊様の話をきいている。

そういう場所でしばしば出てくる「煩悩」という言葉を考えてみます。

幼いなりに思い当たっていたことがいろいろございます。

朝晩自分の家で起きていること、隣近所や親類の家で起きていること、たいがい小さな争いごとや悲喜劇のさまざまで、

人々が背負っている苦悩のさまざま、そういう表情のさまが「煩悩」というものを表わしているということだろうと、子ども心にいちいち思い当たります。



人間の生身と傷心の世界、人間存在よりも深い作品というものはなく、すべての宗教や文学は人間存在への解説の試みなのだろうとわたしは思うのですが、

この度し難い世界を読み解こうとしてきた長い苦闘の歴史を見ましても、行きつかねばならない到達点など、ないのではないかと思われます。

そうは申しましても、阿弥陀如来というものを人格化せずにはやまなかった先人たちの欲求というものはやはり一つの到達点でして、後世はこの到達点を、後追いするばかりでも大変だという気がいたします。

そのことも仏教は予言しておりまして、後追いをせねばならぬ後の世の時の流れを、天文学的な言い方で「百千万億劫(ごう)」などと言っております。


わたしどもは、あるいはそれを、「業」とも言い換えております。


最初に、そういう意味を含めた仏教の予言がありました。

長い時の流れから言えば、一瞬にして人類史の基底部を見通すほどな最初の人間の叡智が、予言の形をとって語られ、書かれてきました。

仏教の古典に触れて思うのは、自己の運命を予知してしまった人間の「業」、その知性の「業」の深さです。


ところで、そういうものと、宗教書など一度も読まないただの普通の人々が、生きてゆく過程の中でおのずから弁えてくる「業」というものとは、一つになると思います。

そのような意味で、人間というものは何らかの意味で、一人一人が人類史の体験を、己の中に蓄えていると言えませんでしょうか。


薩摩には、「義を言うな」と言う言葉がありますけれど、浄土真宗に言う「義なきを義とす」、、と申す、あの義なのでしょうか。

知というものは、存在の一番底を見通せた時に、その頂をも仰ぐことができるのではないかとわたしは思うのですが、

人間世界と申しますのは、このように生々しいゆえに、「荘厳」ということがより必要になってくるのだと思います。


            (引用ここまで)
        
  
              *****


ここで言う「荘厳」というのは、仏教の形であったり、そのほかの形であったりして、人の思いを浄める作用をもつものではないかと思います。

石牟礼道子さんの言葉はほんとうに味わいがあり、私はこの文章を読みながら、思わず何度も声に出して読んでしまいました。

そうしている自分の声を聞きながら、私は何をしているのだろう?と思うと、それは祈りをしているのにちがいない、と思いました。

度し難い人の世、傷心の世界。

そうした人の世を生きなければならない人間を愛しく慈しむ思いが、石牟礼道子さんの言葉には染みわたっているように思います。

著者が描くお寺のお坊さんのお話を“全身的に心を傾けて”聞きあう人々の世界は、ひとつのつつましい人の世の理想の姿として描かれています。

理想というものが空理空論ではなく、誰もが自分の手で触れ、心から納得できる世界として在るとしたら、それはどんなに貧しくとも、何ものにも代えがたい至宝であることでしょう。




wikipedia「荘厳」より

荘厳(しょうごん)とは、仏語で仏像や仏堂を美しくおごそかに飾ること。また、その物。お飾りともいう。宗派により異なる。

智慧・福徳・相好で仏などの身を飾る(包む)ことも意味する。

サンスクリット語のvyuha(分配、配列)が語源とされ、「みごとに配置されていること」「美しく飾ること」の意。

漢字の「荘」「厳」はいずれも「おごそかにきちんと整える」 という意味。

「立派で厳かな」という意味の荘厳(そうごん)は荘厳から派生した言葉。

荘厳は一般には「そうごん」であるが仏教では「しょうごん」と読む。呉音。

信は荘厳なり

寺堂の立派な装飾を見て信心が啓発されるという意で、内容は形式によって導かれるというたとえ。

「信は荘厳から起こる」「信は荘厳より」ともいう。

香光荘厳

念仏三昧をたたえた言葉。香に染まると香気が漂うように、仏を念じて仏の智慧や功徳に包まれること。

染香人(ぜんこうにん)のその身には 香気(こうけ)あるがごとくなり
これをすなわち なづけてぞ 
香光荘厳(こうこうしょうごん)と ま(も)うすなる 
                     『浄土和讃 勢至讃』

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仏教   15件

などあります。(重複しています)

             
             (引用ここまで)

               *****

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追悼・石牟礼道子さん・90才で2月10日死去・・絶筆・朝日新聞連載「魂の秘境から」7「明け方の夢」

2018-02-10 | メディテーション



「〈石牟礼さん死去〉水俣病の受難に感応・絶対的な孤独描く」

「石牟礼道子さん死去・水俣病を描いた小説「苦海浄土」」朝日新聞デジタル 2018・02・10

大好きな作家の石牟礼道子さんが亡くなりました。

つい先日、昔とまったく変わらない石牟礼道子さんの文章を、朝日新聞の連載「魂の秘境から」で読んだばかりでした。

猫の話を書いておられ、全文が詩であるような散文の間に、猫にまつわる詩をはさんで、極上の美味な文でした。

90才にして、むかしと全く変わらない文章を書かれる、この方に、なんという力をお持ちなのかと感嘆し、変わらぬ語り口に安堵したばかりでした。

ご冥福をお祈りいたします。

以下、1月31日の朝日新聞「石牟礼道子・「魂の秘境から」7「明け方の夢」を、追悼の心を込めて、ご紹介させていただきます。


                *****

                (引用ここから)

先日、年若い友人が熊本市の療養先を訪ねてみえた。

新聞社の水俣支局にいるうちに働き盛りで早期退職をして、そのまま水俣に居着いてしまった人である。

「最近、一緒に住むようになって」。

かざして見せられた携帯電話から、「にゃあ」と声がした。

赤茶色の虎猫の仔であった。

もの心ついたころから、いつも近くに四、五匹はいたものだったが、足腰の自由が利かなくなり、飼うのをあきらめてもう数年になる。

時折、こうして猫のお福分けにあずかって気を紛らわせている。

水俣川の川口近くに住んだ家は、近代化の波がそこだけ遠慮して通り過ぎたような百姓家であった。

猫たちは飼うともなく、床や壁の破れ目から、するりと入り込んで来るのである。

父や母と追い出し役を押しつけ合ううち、十数匹も居着いてしまって、しまいには猫一家に人間一家が同居させてもらっている風にもなってくるのだった。

白も黒も赤も三毛もいて、みなミイと呼ばれていた。

あれは黒白ぶちのミイだったろうか。

ほとんど納屋のような貧家であったから、水俣川を下ってきた流木を使った梁はむき出し。

ボラやアラカブ、海のものを囲炉裏であぶった煙が染みついてもいる梁の上で、ねずみが台所からくすねたダシジャコをこれ見よがしにカリカリやる。

その顎の動きまで目に入ってしまう。

「お前や、好物の盗らるっぞ」と、ミイの太ったお尻を押してみると、後足で蹴り返して抗議する。

母のはるのは「ほんにほんに、ねずみもろくろく捕りきらん」とあきれた声を出しながら、魚を料る(こしらえる)時はいつも、わたをまず煮てやって、人間より先に食べさせてしまうのだった。

この前、明け方の夢を書き留めるようにしるいた「虹」という短い詩にも、やっぱり猫が貌(かお)をのぞかせた。

どうやら、黒白ぶちの面影があるようにも思える。



不知火海の海の上が、むらさき色の夕焼け空になったのは

一色足りない虹の橋が かかったせいではなかろうか

漕ぎ渡る舟は持たないし なんとしよう

媛(ひめ)よ そういうときのためお前には 神猫の仔をつけておいたのではなかったか

その猫の仔は あそびほうけるばかり 

いまは媛(ひめ)の袖の中で むらさき色の魚の仔と 戯れる夢を見ている真っ最中


かつては不知火海の沖に浮かんだ舟同志で、魚や猫のやり取りをする付き合いがあった。

ねずみがかじらぬよう漁網の番をする猫は、漁村の欠かさぬ一員。

釣りが好きだった祖父の松太郎も仔猫を舟に乗せ、水俣の漁村からやってくる漁師さんたちに、舟縁越しに手渡ししていたのだった。

ところが、昭和三十年代の初めごろから、海辺の猫たちが「狂い死にする」という噂が聞こえてきた。

地面に鼻で逆立ちしてきりきり回り、最後は海に飛び込んでしまうのだという。

死期を悟った猫が人に知られず姿を消すことを、土地では「猫嶽(だけ)に登る」と言い慣わしてきた。

そんな恥じらいを知る生きものにとって、「狂い死に」とはあまりにむごい最期である。

さし上げた仔猫たちが気がかりで、わたしは家の仕事の都合をつけては漁村を訪ね歩くようになった。

猫に誘われるまま、のちに水俣病と呼ばれる事件の水端(みずはな)に立ち合っていたのだった。

             (引用ここまで)

               *****

わたしが石牟礼道子さんを、深く好きなのは、上の文章にも「変わらぬ語り口に安堵した」と、気づかないで書いたように、まさに「語り」として、読み手の心に触れてくるからだと思っています。

口承文化というのは、文字の無い世界の文化のように思われがちですが、石牟礼さんの文章は、書き言葉が、語りの言葉として、ひとびとの心の非常に深いところに届くように思われます。

信じられないほどの、魂のこもった言葉が、ひとびとの心を、知らないうちに、浄化し、癒すのだと思います。

これがシャーマニックでなくて、なにがシャーマニックであろうと、わたしは密かに思っています。

下にリンクを張った、過去のご紹介記事でも、そのことに触れています。

また、元タイトルは、「名残りの世・石牟礼道子の語り」でした。

こころ急いてアップしたもので、「の語り」の文字を落としてしまいました。

「石牟礼道子全集」というものは、もうすでに出来上がっていて、折々に、追加をしていくばかりの体制なのだそうですが、1月31日に掲載されたこの文章が、「絶筆」になるのかもしれませんね。

石牟礼道子さんの言葉でいうところの、「ことづて(言伝て)」を、たしかに受け取れましたことを、幸せに思います。


ブログ内関連記事 次に順次「再掲」します。

「名残りの世」石牟礼道子(1)・・いとしく思いあう風景」

「名残りの世」石牟礼道子(2)・・草であり、魚であった私たち」

「名残りの世」石牟礼道子(3)・・生きる悲しみ、死ぬ悲しみ」

「春分の夜の蝶」石牟礼道子随筆「ふたりのわたし」を納めています。
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「平安時代の国家行事としての相撲大会・・「相撲の歴史」新田一郎氏著(4)

2018-02-07 | 日本の不思議(現代)



引き続き、新田一郎氏の「相撲の歴史」のご紹介をさせていただきます。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

               *****

             (引用ここから)

「相撲節(すまいのせち)」の起源

8世紀に始まり、9世紀には平安朝廷の年中行事として定着した「相撲節(すまいのせち)」は、12世紀末に断絶するまで、およそ400年にわたり、雅楽・饗宴などを伴う絢爛たる催事として、宮廷の初秋を飾っていた。

その間に熟した様式(式次第・舞楽・伝承など)が、後世の「相撲」に決定的な影響を及ぼした。


さまざまな儀式・故実に彩られた現在の「大相撲」は、その由緒をしばしば平安朝廷の年中行事であったこの「相撲節(すまいのせち)」に求めている。

そうした由緒には、議論の余地のあるものもあるが、「相撲」を「相撲」たらしめる格闘競技としての統一された様式は、この「行事」を通じて形成されたのである。


朝廷行事としての「相撲節(すまいのせち)」の源流は、「農耕儀礼」と「服属儀礼」の2つの側面に求めるのが常である。

「農耕儀礼」、ことに「水の神」にまつわる祭事と「相撲」との関係についての民俗学的な解釈には、

「国譲り神話」の敗者である「タケミナカタ」の名に、「水」=「水の神」の投影を見出す見解があり、

また「相撲節(すまいのせち)」の起源説話とされる「スクネ」と「クエハヤ」の「力比べ」が垂仁天皇7年7月7日に設定されていることは、

「相撲節(すまいのせち)」を「七夕」の「水の神の神事」に結びつける意図から出たものと推察される。


「七夕」と「相撲」の結びつきは、年の後半の農事を前にしての「年占(としうら)」の神事に求められるが、

「相撲節」でも、「相撲人」の取組に先立って、四尺以下の小童による「占手相撲」が行われた。


また、「諺にいわく、左方を帝王方となす」として、貞観年間(859年~877年)以前には、正規の取組の第一番には、右側の「相撲人」が、わざと負けるならいであった。


「相撲節(すまいのせち)」の起源のもう一つの側面=「服属儀礼」については、「スクネ」と「クエハヤ」の力比べ、タケミカヅチとタケミナカタの「国譲り」の2つの神話から、

「遠来の強者=マレビト」が土地の悪しき精霊を圧伏し、その力をもって天皇に奉仕する」というモチーフが共通して読み取れる。

天皇は国家的規模の「年占(としうら)」の主催者として、自らを位置づけ、自らの下に国土を統合する論理を提示してみせたのであった。


「相撲節」の起源を「服属儀礼」の側面から見る場合、注目するべきは、「隼人(はやと)族」による「相撲奉仕」、いわゆる「隼人相撲」である。

「隼人族」とは、南九州およびその南方の島々に出自をもつ人々であり、5世紀ごろから畿内国家に服属し、彼らの一部は畿内に来住して「隼人司」の支配に服し、天皇への奉仕の任にあたった。


「記・紀神話」では、天王家の祖先と、「隼人族」の祖先は兄弟であったとされている。

「日本書紀」によれば、「国譲り」の結果、「葦原の中つ国」の支配者となった天孫ニニギノミコトの子、「ホスセリ」(兄)と「ヒホホデノミコト」(弟)はそれぞれ、「海」と「山」を生業場としていた。

ある時、それぞれの漁具・猟具を交換し、生業の場を変えてみたところ、兄・ホスセリは、弟・ヒホホデノミコトに借りた釣り針を紛失してしまった。

このことから兄弟間の闘争となり、兄を呪詛する言葉と、潮の干満をあやつる珠を海神から授けられた弟・ヒホホデノミコトが、それらを用いて、兄・ホスセリに勝利をおさめた。

「海幸(ホスセリ)・山彦(ヒホホデノミコト)の神話」として知られるこの闘争を、海神の助力を得て制した「ヒホホデノミコト」は、海神の娘「トヨタマヒメ(豊玉姫)」を娶り、父ニニギノミコトの跡を継いで支配者となり、

この国土支配権がその子「ウガヤフキアエズ」を経て、孫・「カムヤマトイワレヒト=神武天皇」を祖とする天皇家に受け継がれる。


一方、敗者となった兄・ホスセリは「ヒホホデノミコト」に臣従を誓い、

その子孫は「阿田君」(阿多隼人)を名乗って、ホスセリが珠によって招き出した海に溺れ、苦しみ、助けを乞う様を歌舞として演ずるなど、種々の芸能をもって仕えるとともに、

都の警護者として昼夜天皇家に奉仕することとなった、という。


この説話は、「隼人族」の天皇家への奉仕の「起源説話」であり、畿内国家への服属の物語であることは言うまでもない。

服属した氏族の祖先を、天皇家の系譜に連なる者として物語に組み込むのは、「記・紀神話」のいわば常套の手法である。


さて、律令体制下、京にあって「隼人司」に属した「隼人」は、宮門の警護に当たる他、歌舞の教習と竹笠の制作とを日常の任とした。

ことに、「裸身にふんどし」を着し、顔面や体にペインティングをほどこした異相をもって演じられる歌舞は、「隼人楽」と称され、

犬の吠え声をまねて邪悪の気を祓う「狗吠え」と共に、「隼人」の技芸を代表するものであった。

これらの歌舞・技芸は、もとは「隼人族」の祖先神の「神おろし」の儀礼であったものを、天皇の前で演ずることによって、天皇=「隼人」の祖先神と重ね合わせ、従属の意をあらわしたのであろう。


この「隼人族」はまた、宮廷で「相撲」をも演じている。

「日本書記」には、天武天皇11年(682年)7月に、貢物を携えて上京した「大隅隼人」と「阿多隼人」が「相撲」をとり、「大隅隼人」が勝ったとする記事がある。

また、持統天皇9年に「隼人相撲」が行われた「西の槻の下」とは、飛鳥寺の西の広場であり、この場所は当時、辺境諸族の朝貢・服属儀礼のときに饗宴の場として用いられていた。

この点からも、「隼人相撲」が「服属儀礼」としての意味を帯びていたことは察せられる。


服属した民として、他によく知られた例として、「大嘗会」や「節会」などに奉仕される「国栖奏(くずのそう)」がある。

「国栖(くず)」は、「国主」と表記されることもあり、地方の土着勢力を指す普通名詞であったらしいが、

一般には、大和・吉野地方に盤踞した「吉野国栖」に代表され、彼らによって奉仕される国栖奏は、地方族長の服属にともなって、芸能が国家に集中され、管理されてゆく典型的な姿として理解される。

村松武雄の説くところによれば、畿内国家にとって、関心の対象は、異俗異能を持つ非征服者に期待された呪術的な異能であり、

異族による芸能を取り込むことによって、その呪術的異能をも自らの内に取り込もうとしたのではないかという。

「国栖」・「隼人」などの異族による芸能奉仕は、そうした呪術的異能の奏上の儀式として考えられていたのであろう。

そうしたモチーフのもとに、諸侯の「相撲」の原型を統合し、諸国の強者の持つ力を集中して、天皇に奉仕させることが「相撲節(すまいのせち)」の根幹をなす構造であった。

カイラーは、このことについて、

中国の漢朝に始まり隋・唐朝で定着した武芸大会が、遠国から優れた武芸者を招集して催される国土統一の象徴的な儀式であったとし、これと比較することによって、

地方の強者の服属の儀式としての「相撲節(すまいのせち)」の原型は、中国から移入されたものではなかったか、と推測している。

法廷の儀式に中国文化の影響が見られるのは「相撲節」のみならず、年中行事全体を通して言えることであり、カイラーの推測も注目に値しよう。


こうした構造が軍制と深く関わるものであったことは、容易に推察される。

後の「相撲人」がしばしば近衛府の番長に採用されることなども、諸国から招集されて天皇へ服属・奉仕することになる強者を、より即物的な軍事力の問題として意識していたことを示している。

諸国から「相撲人」を招集し、「相撲節」を運営するシステムは、「続日本記」養老3年(719年)7月には、「初めて抜出司を置く」とあるのがその萌芽であろう。

734年7月には「聖武天皇が「相撲儀」を見た」とあり、これが「相撲節」が確実に行われた記録上最初の例とされている。

いずれにせよ8世紀初頭には「相撲節」の制度が整っていたものと思われる。


                (引用ここまで)

                 *****

NHKで昼下がりに延々と中継される、あの「お相撲」の起源は、「記・紀神話」にさかのぼり、その行事は平安時代を通じて行われ続け、様式化され、洗練されてきた、ということを初めて知りました。

人々の、季節の祭礼であり、また、天皇制が中央集権化するにあたって、敗者となった者が演じる儀礼でもあった、ということです。

桃太郎が、キジやサルやイヌを従えて段々強くなっていった様子を、彷彿とさせます。


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七夕神事としての相撲・・「相撲の歴史」新田一郎氏著(3)

2018-02-03 | 日本の不思議(現代)


引き続き、新田一郎氏の「相撲の歴史」のご紹介をさせていただきます。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

             *****

           (引用ここから)


「相撲」が社会の中で、より特定された共通の意味を獲得してゆく過程で、重要な役割を果たしたのが、「農耕儀礼」だった。

「相撲」に限らず、「綱引き」や「競馬」など、競技的性格を持った多くの技芸の神事的な意味付けについて、民俗学者はしばしば「年占」という道具立てを用いて説明している。

「年占」は、「としうら」と読む。

農事の節目にあたる時期に、先祖を祀ると共に、豊穣への祈願をこめて、その首尾・不首尾を「占う」行事であり、競技的性格を持った技芸の結果によって、豊凶を「占う」ことも重要な類型の一つであった。


「年占」の神事には、大別して2つの類型がある。

第1は、2つの集団の間で戦い、勝った側に「豊穣の予祝」が与えられるというものである。

第2は、豊凶を司る精霊との間での競技を疑製することによって、「豊穣の予祝」を求めるというものであった。


後者の場合、実際にはあらかじめ定められた結果を演じる場合が少なくない。

「豊穣」を司る精霊は、多くの場合、「田の神」・「水の精霊」として考えられており、

精霊を圧伏し、または一勝一負で勝敗を分け、または精霊に勝たせて花を持たせることによって、精霊の力を自分の側に呼び込み、「豊かな収穫への予祝」を得るというのが、彼らの「年占(としうら)」の神事の基本的な構造である。


もちろんそこには、様々なバリエーションがある。

田の中で「相撲」をとり、勝敗を争うのではなく、体に泥が多くつくほど「吉」であるとする「どろんこ相撲」や、

乳児を抱いて、乳児が早く泣いた側を「吉」とする「泣き相撲」などのように、「相撲」の名を冠してはいても、格闘競技としての「相撲」は関心対象でない場合もある。

これら現行の神事の歴史的な起源は明らかではなく、どれほど原形を残しているのか疑問はある。


しかし、こうした「占い」の場面に、子供が登場するケースがかなり多いことは、注意すべきである。

一般に、神意の「占い」に際して子供が重要な役割を果たすことは珍しいことではない。

幼い童は、人として完成された存在ではなく、「人ならぬ世界」から「人の世界」へと転位する途上にあり、それゆえ「人ならぬ世界」の精霊たちと近い距離にあると考えられ、神意を伺うに相応しい媒介と見なされていた。


「相撲節(すまいのせち)」でも、初期には、「相撲人」による「相撲」の前に、「占手(うらて)」と称する4尺以下の小童の「相撲」が行われていた。

小童の「相撲」と「占い」との密接な関係、さらには国家的規模での「相撲行事」である「相撲節(すまいのせち)」と「年占(としうら)」、

とりわけ「相撲節」の起源に密接なかかわりがあると思われる。


「相撲」の神事的意味付けの基本的なモチーフを、「神意の占問い」に求めることは、形態的・技術的に様々なバリエーションがある挌闘を、「相撲」と同定するための、一つの有力な指標であろう。


人知・人力の容易には及ばぬ自然との調和の中で、農耕を営み、収穫をあげようとする農耕民の、自然に対する視線と姿勢が、こうしたモチーフに表現されている。

自然を司る不可知の力の所在を、「田の神」・「水の精霊」として表象し、格闘という表現形式を通じて、神・精霊とコミュニケートし、神意を占い、「豊穣の予祝」を求める。

具体的な形態は様々であれ、そうした意味付けを負った格闘競技が、日本において「相撲」の原型の一つとなったのであろう。


「河童」が、水に対して不浄の行為を働いた者や、水辺を通りかかった人に、「相撲」の勝負を挑み、負けた相手を水中に引き込むという類の民話伝承は、全国各地にある。

「河童」には、地方により多様な呼称があるが、要は、「山童(やまわらわ)」と対になって観念される「水の精霊」であり、「水の神」の零落したイメージと解釈されている。

「河童」と人との「相撲」の民話伝承は、「水の神」・「田の神」の神事の、民話的バリエーションであり、現代に残る「相撲神事」にも、そうした原型を偲ばせるものがある。


「日本書紀」に記された「スクネ」と「クエハヤ」の「力比べ」を、「相撲節(すまいのせち)」の起源神話として位置付ける場合、重要な意味を持たされているのが、「垂仁天皇7年7月7日」という7並びの日付である。

この日付の記録から、「相撲節」は当初は7月7日を定例の節日としており、この日付が、各地の「相撲」を統合するものとして機能したと考えてよい。

「7月7日」といえば、言うまでもなく「七夕」である。

「七夕」といえば、現代では、牽牛と織女の両星が逢う中国起源の伝説を中核とした「星まつり」としての印象が強いが、

それとは別に、「7月7日」は、日本では古くから精霊を迎える「盆」の一部として、「七日盆」と呼ばれる祭の習俗としてあり、

更にその前提には、本来独立した「水神の祭り」があったと言われている。

現在、普通に言う「七夕」は、これらの諸要素が融合して出来上がったものなのである。


「盆」と「正月」はしばしば一組をなして意識され、一年の後半部の始まりに位置する「盆」には、正月と対になる行事が多く見られる。

民俗学の分野では、一年を周期とする通常の暦と並行して、一年の「前半部」を終えた6月末で折り返す、もう一つの暦があり、

7月から始まる1年の「後半部」には、「前半部」と対になる年中行事が散りばめられていたと考えられている。

たとえば、正月を迎える直前の大晦日に、一年の厄を祓って新年を迎える「大祓え」が行われ、6月末にも、これに対応する形で、年の前半の厄を払う「6月祓」、または「夏越(なごし)の祓」が行われてい
たことはその顕著な例である。


つまり田畑の整備と種まきに始まる年の「前半」の農事を終え、収穫へと向かう「後半」の農事を開始するにあたって、

年の「前半」の厄を祓って、改めて土地の精霊を祀り、豊かな収穫を祈ることが、6・7月の年中行事の多くに通底しているのではないか。

その根底には、豊穣を祈る精霊の祭りがあり、それが現在の祖先祭祀の「盆」の前提となっているのであろう。


豊穣を祈る、土地の精霊の祭りと、水の祭祀との結びつき、ことに、「年占(としうら)」の形態をとったものについては、すでに触れた。

しかし、この解釈には、畑作農耕への視点が欠けているという批判もあり、畑作農耕儀礼に類したものも、「相撲」の原型にはあったかもしれない。

「隼人族」を始めとする非征服民族の習俗に注意を払うことも、「相撲」の源流を探る上では重要だろう。

「大三島・一人相撲中継」FNNsline


「水の神」(土地の精霊)をめぐる農耕儀礼と「相撲」の間の密接な関係を示す例として、

伊予大三島(おおみしま)(現・愛媛県今治市の大山ずみ神社)の神事、旧暦5月5日の「お田植え祭り」と9月9日の「抜き穂祭」に際して行われていた「一人相撲」には、その古い形態が残されている。

現在は技芸の継承者が絶えてしまって、行われていないというが、県の無形文化財に指定されていたこの神事は、精霊を相手に「相撲」をとる。

したがって、実際には一人で「相撲」の所作を演じるという、有名な神事として全国的に知られている。

精霊と人間との「相撲」は、三番勝負で、一勝一負から、精霊が勝つ。

精霊に勝たせて、敬意を表することによって、豊作を祈願するのが、この神事の中心的なモチーフであった。

また、奈良県桜井市にある「スサノオ神社」と、同市の「御綱神社」で合同で行われる2月11日(もとは旧暦・正月10日)の「お綱祭り」は、両社の祭神である「スサノオノミコト」と「イナダヒメノミコト」の、夫婦の契りをモチーフにした祭礼である。

男綱と女綱の交合の儀式をもって豊作を祈る祭礼は、全国に広く分布している。

また、ここではそれに付随して、「泥の相撲」が行われている。

田の中で2人の男が「相撲」をとるのだが、勝敗ではなく、泥が体にたくさん付くほど豊穣に恵まれるという「年占(としうら)」の一形態であり、年頭の「予祝の神事」である。

おそらく「スサノオノミコト」と「イナダヒメノミコト」という「記・紀神話」の神の名は後から付けられたものであり、元は土地の神の交合によって豊かな実りを象徴する、「予祝の祭り」が原型であったと思われる。


「神事の起源が垂仁天皇の頃にまでさかのぼる」と主張されている「相撲行事」に、「能登羽咋(はくい)神社」の「唐戸山相撲会」がある。

この神社は、垂仁天皇の皇子を祭神としている。

生前「相撲」を好んだ皇子の霊を慰めるために、北陸七州の「相撲人」を集め、命日である8月25日に、神社に近い「唐戸山」で、「相撲会」が催されていたという。

「相撲節」の起源説とされる「スクネ」と「クエハヤ」の力比べの年代が、垂仁天皇の代に設定されていることを考えると、それが伝承の背景なのかもしれない。


寺社への「相撲奉納」は、かなり古くから各地で行われていた可能性はあるが、朝廷を中心とする国家儀礼的な「相撲奉納」の早い例としては、

聖武天皇の神亀2年(725年)、諸国が干ばつにより凶作に見舞われた際、天皇が伊勢神宮をはじめ諸国21の神社に勅使を派遣し、神明の加護を祈らせた。

その甲斐あってか、翌・4年は豊作に恵まれ、天皇は各地の神社に奉礼のための幣帛を奉り、また神前で「相撲」を奉納させたという。

          (引用ここまで)

            *****

大三島(おおみしま)の「一人相撲」の映像は、圧巻だと思いました。

貴重なビデオなので、リンクを張らせていただきました。

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