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ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

ニシキヘビに雨乞いの歌をうたう・・「仮面の森」吉田憲司氏・アフリカ・チェワ族の仮面結社の世界(6)

2017-08-30 | その他先住民族



引き続き、吉田憲司氏の「仮面の森」というアフリカの習俗に関する本のご紹介をさせていただきます。

これは、端的に、「蛇を用いた雨乞いの儀式」です。

          *****


         (引用ここから)

○雨乞い儀礼


憑依された人物=霊媒にとって、このように憑霊は一面では病として発現する。

しかしその一方で、こうした憑霊を意図的に招来し、「ニシキヘビ」の霊力を利用することによって、彼女らは予言の能力と雨乞いの能力を獲得する。

「ニシキヘビ」は、雨をもたらす神のお使いと考えられている。

「ニシキヘビ」の体の模様は、白と黒の二色からなるといわれるが、その白色が晴天時に現れる白い雲を呼び、黒色が雨をもたらす黒雲を呼ぶのだという。

雨のあとに現れる「虹」が、「ニシキヘビ」のことだとされる。

霊媒は、この「ニシキヘビ」の霊を通じて神に働きかけ、雨をもたらすことができるようになるというのである。

干ばつに襲われると、人々はまず、森の中の川辺に生えた霊木の下に小さな祠を築く。

そして日を定めて、皆でそこへおもむく。

その際、黒い服を身にまとった霊媒を先頭に立て、歌を歌いながら行く。


私に黒い布をおくれ

そういったのは お母さん お母さん


ここでいうお母さんとは、ニシキヘビの霊のことである。

黒い布は、黒雲と結びつけられ、それによって雨を呼ぶことができると考えられている。

祠に着くと、人々はドラムを叩いて、手拍子をとって歌う。

その歌は、たとえば次のようなものである。


ニシキヘビさん、水をください

わたしの心は 乾いています

降れ、いっぱいに 降れ、いっぱいに


かくして憑霊が始まり、霊媒は踊りだす。

ひとしきり踊りが続いた後、人々は歌をやめて、こう唱える。


雨が降らないので、私たちは、霊媒と共にここにきました。

私たちは、あなたがおなかを空かせているのだと思います。

だから、私たちは食べ物を持ってきました。

どうかこれを食べて、私たちに雨を与えてください。



その後人々は、持ってきたトウモロコシの粥を注ぐ。

木を通じて、その粥はニシキヘビの霊の元に届くと考えられている。

霊媒は、歌声が止んでいる間、そばに座り込んでいるが、人々が再び歌を歌い始めると、起き上がり、踊りを再開する。

その最中に、村から持ってきた鶏の首を噛み破って、その血を吸う。

霊媒に付いた「ニシキヘビ」が鶏を食べている、というわけである。

鶏はそのまま放置される。

しばらく踊ると、霊媒は村に向かって歩き出す。

人々も歌を歌いながら、それに続く。

村に帰りつくと、今一度ドラムが叩かれ、霊媒の踊りが行われる。

この踊りの中でも、霊媒は鶏の首を噛みやぶって血を吸う。

そして、その踊りが終わる頃には、もう雨が降り出すとされている。



種々の霊媒のうち、チェワ社会に最も古くから存在していたと考えられるのは、「ニシキヘビ」の憑く霊媒である。

中でも中心的な役割を果たしていたのは、チェワの発祥の地と言われる丘に住む霊媒である。

彼女は「子供たちの母」という称号を持つ。

その他の祠の霊媒は、この霊媒を頂点として組織化されていたという。

これらの祠は、いずれも人里離れた山中に位置するのが特徴である。

伝承によれば、彼女らはその祠を「狩猟採集民のアカフラ」から受け継いだのだという。

「アカフラ」は今日ではサン人=ブッシュマンを指す言葉になっているが、この場合の「アカフラ」が、現在のサン人を指すのか、他の狩猟採取民を指すのかは定かでない。

これらの祠が狩猟採集民から受け継がれたのは事実だとしても、憑霊信仰は彼らから受け継がれたとは考えにくい。

儀式の機能は雨乞いにあり、その信仰は狩猟より農耕の豊穣性と結びついているからである。

いずれにしろ、この伝承は「ニシキヘビ」の憑霊信仰が古い歴史をもつことを示している。


           (引用ここまで)


             *****

たくさんの蛇に関する呪術的な習俗の中で、ホピ族の蛇に関する習俗もとても有名です。

他の資料もリンクでもご紹介していますが、リンク中の「ホピ族と蛇・・自然現象への呪術的崇拝(1)」(6まであり)というヴァールブルグという研究者が書いた本の冒頭部分を再掲させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

                *****

「プエブロインディアン」という名前の由来は、スペイン語で「村」を意味する語(プエブロ)で呼ばれる複数の集落に、彼らが定住していることにあります。

そのように呼ぶのはまた、現在プエブロインディアンが定住しているニューメキシコやアリゾナの同じ地域で何十年か前までは狩猟と戦いにあけくれていた流浪の狩猟民族と区別するためでもあります。

私が興味を引かれたのは、アメリカのいわば真ん中に、未開の時代の異教的な文化の飛び地が残っているという事態、そして彼らが農業と狩猟を目的とした魔術を、今なお断固として守っている点であります。

この地域では、いわゆる迷信と生活の活動とが相互に手を携えて生きているのであります。

この迷信とは自然現象に対する、そして動物や植物に対する呪術的崇拝です。

インディアン達はそれらが生きた魂を持っていると思い、しかも何にも増して、仮面をかぶって行う自分たちの踊りでこうした様々な魂に力を及ぼすことができると信じているのです。

このように狂信的な魔術と冷めた合目的的な行動が同居している様は、我々から見ると分裂の印にしか思えません。

ところがインディアン達にとっては、分裂でもなんでもなく、それどころか人間と環境世界との間に限りない結合の可能性があるという、解放の体験なのです。


この地域には、固有の宗教形成のファクターがあります。

それは「水不足」です。

「水不足」と、「水への渇望」の故に、魔術的儀礼がなされたからです。

土器の装飾を見ただけで、宗教的象徴の基本的な問題が見えてきます。

見た目にはただの飾りに見える模様が、実は宗教的に解釈する必要があり、宇宙論的に解き明かし得るのです。

それを示しているのが、私があるインディアンからもらった一つの絵です。



この絵では、宇宙論的表象の基本的要素である「家」・・それは「宇宙」が「家」の形をしているという、宇宙論的な想念・・の近くに、非合理的な大きさで動物が描かれています。

謎めいた、そして恐ろしいデーモンとしてここに現れているのは、蛇なのです。


また、自然に魂を見るアニミズム的儀礼の最も激しい形態は「仮面舞踏」です。

これは純粋の動物舞踏であったり、あるいは木を崇める舞踏であったりします。

最後に重要なものとして、生きた蛇との舞踏です。


               (原文引用ここまで)

              
蛇を中心とした、ホピ族の魔術についての研究です。

著者は、ホピ族のことは、「彼らが農業と狩猟を目的とした魔術を、今なお断固として守っている」人々としてとらえています。

文中の絵は、「インディアンの学童が描いた蛇型の稲妻の絵」というタイトルがついています。

家の左右の上方から下りているものが、蛇なのだと思います。

この絵が、ホピ族の世界観を表わしていると、著者は考えています。

ホピ族は、家と世界とを、相似形でとらえていると考えています。

そして、世界は、ただ一つ、蛇とつながりをもっていると述べられています。

             (引用ここまで)

               *****

続きがありますので、ぜひご一読くださいませ。

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英のオーストラリアでの原爆実験・・先住民アボリジニが重大な被害を訴える

2016-02-06 | その他先住民族


「オーストラリアにも被爆の傷・・先住民が来日、「耳傾けて」、50年前、英が核実験」
                        朝日新聞2015・11・28

                     ・・・

英国がオーストラリアで行った核実験の、被曝の実情を語り継ごうと、オーストラリア南部の先住民団体の会長カリーナ・レスターさんが初来日した。

被爆地・広島で講演し、原発事故やウラン採掘など世界約10カ国の「核の被害者」と議論を交わした。

26日、東京都内で朝日新聞の取材に応じ、「黙殺されてきた先住民の声に耳を傾けてほしい」と訴えた。

南オーストラリア州内陸部などで、英国は1950~60年代に核実験を繰り返した。

カリーナさんの父ヤミさん(74)の記憶では、爆発で大地が揺れ、砂混じりの黒い煙が村を包んだ。

村人らを吐き気や下痢が襲い、皮膚病や目の痛みが相次いだ。

だが、核に関する知識はなく、被害の事実は埋もれた。

ヤミさんは両目を失明し、後に抗議運動を主導した。

末娘のカリーナさんが運動を継ぎ、被曝者ら約300人の声を代弁する。

カリーナさんは広島市で21~23日にあった「世界核被害者フォーラム」に参加。

父らの被曝体験を語り、福島の原発事故の被害を受けた酪農家のほか、米国のウラン鉱山やイラクの劣化ウラン弾の被害の専門家らと交流した。

「日本政府は原発に頼らないエネルギーへの転換をあきらめないでほしい」と話している。

                     ・・・



白石理恵著「精霊の民アボリジニ」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

新聞記事と照合すると、来日した女性の父親の話であることが分かります。

      
                   *****


                (引用ここから)

砂漠の核実験

セントラルオーストラリアでは、オーストラリア各地で見られたように、アボリジニの人々は住むところと生活のすべてを取り上げられ、セツルメントやミッションなどの集落に集められて、定住化させられたが、彼らが土地を追われた理由がもう一つある。

1951年、当時のオーストラリアの首相メンジーズは、オーストラリアで核爆弾の実験を行いたいという英国の要請に対し、自分の内閣に相談することもなく二つ返事で承諾した。

その結果西オーストラリア州沖のモンテベロ島で、1952年から56年にかけて3個、1953年に南オ
ーストラリア州のエミューフィールズで2個、1956年から57年にかけてマラリンガで7個の核爆弾を爆発させた。

加えて南オーストラリア州のウーメラがロケット兵器の発射実験基地に選ばれ、そこから発射されたロケットの破片は、軌道の下に住む砂漠の住人の頭を飛び越え1000キロ以上離れたエアーズロックや更にその西や北西にまで飛び散った。

エミューフィールズやマラリンガ一帯には、ドリームタイム以来ウィラング族が住んでいた。

白人とのコンタクトが稀であったこの地域のアボリジニは、当時でもほとんどが狩猟採集だけを生活の糧としながら自然の中を移動するという、昔のままの生活を送っていた。

核実験の意味合いを理解するどころか、白人を見たこともない人もいた。

しかし英国政府もオーストラリア政府も、地域に住む人口の実態をつかむ必要性を認めることもなく、たった一人の担当官を任命し、南北500キロメートルを超える広大な原野に住む人々の退避活動にあたった。

配給されたポンコツ車ではとても一帯の地形を乗りこなすことができず、実験の数日前に、立ち入り禁止地区の監視にむかった担当官自身が、泥にはまって荒野で何日も身動きがとれなくなったこともあった。

核実験の安全基準は当時の基準と比べても雑であり、その結果実験に参加したオーストラリア兵は後に奇病難病に苦しんだ。

しかし核実験の際にどれだけのアボリジニがその地域に住んでいたのか、どれだけのアボリジニがその結果どのように苦しみ、人々の健康や生活がどのように侵されたのかなど、正確なことは知られていないし、今となっては知られぬままで終わることであろう。

マラリンガの土地の所有権はその後、 原住民土地権法にのっとり、アボリジニに返還されたが、人々はドリーミングの地に戻って生活を開始することができない。

一帯には今日もプルトニウムやウランが飛び散り、実験に使われた汚染された物体がコンクリートの簡単な容器に入れられて地中に埋められている。

その周りではウサギやトカゲが穴を掘って巣を作り、今日でも核で汚染されたウサギが発見されている。

どれだけの放射性物質が、どれだけの範囲にわたって残留しているのか、正確な数字は知られていない。

そして放射性の土が、風に乗ってどこまで広がったのかもわからない。

マラリンガで実験の行われた幾年には、約450キロメートル北にあるアーナベラのミッションで、はしかが大流行し、多くの新生児や幼児が死んだという記録が残っている。

今となっては、この現象の実態を掴むこともできない。


ヤンクンジャジャラ族のヤミー・レスターは、当時10歳であった。

一族と牧場に住んでいたヤミーは、真っ黒な雲がゆっくりと牧場に接近し、何が起きたか分からずに、みんなが恐怖におののいた、あの朝を覚えている。

その後まもなく、みんなが次々に下痢、嘔吐、できものや皮膚病をうったえた。

そして死人がでた。

ヤミーはやがて失明した。


そのヤミーが1980年のある日、風邪で寝込んでいた時に、ラジオで偶然当時を回想する「核実験安全監視委員会」の1人のインタヴューを聞いた。

「マラリンガとエミューフィールドの実験の話をしていました。

そして「アボリジニの安全に関しては十分に考慮しました」という言葉を聞いて、はっと我に返ったのです。

この人の言っていることは間違っている。

牧場で起きたことを私は憶えている。

アボリジニ側の話を知っている人は誰もいない。

だれかが知らせるべきだ、と思い、私は新聞社に勤めている知り合いに連絡しました。

マラリンガのアボリジニの人々のため、そして一帯の牧場に住んでいた民間の白人のため、そして真実を知る権利を否定されている一般のオーストラリア人のために、核実験の実態を明らかにしなければならないと思いました」


こうして、不治のガンを患っている、当時実験に参加したオーストラリア兵や、アボリジニ団体の強い要請にこたえ、オーストラリア政府は「王立諮問委員会」を開き、マラリンガ エミューフィールズにおける英国の核実験の背景と影響を調査した。

311人が証言台に立ち、210人から書面による証言が集められた。

一般から「諮問委員会」に提出された証言や意見の開陳は10000ページに及んだ。

そして核実験施設や事後処理における英国政府、オーストラリア政府のずさんな地度が明らかにされた。

核実験が行われた地域や放射能汚染地域には、砂漠では貴重な水場やアボリジニの聖地があるだけではなく、ドリームタイムから汚染地域の北に住む部族が、そこを通って南の部族を訪問し、大切な部族共同の儀式を開いてきた。

1991年、1992年にはマラリンガの長老の一団が再度英国を訪れ、英国政府にマラリンガの土地の清掃を要求するキャンペーンを繰り広げた。

それに続き、オーストラリア政府も、政府レベルでの折衝を行った結果、英国政府は基本的には損害賠償を行うことには同意した。

しかしそれから1年をへた今日でも、オーストラリア政府からの損害賠償や清掃方法についての具体的な話し合いを開始しようという要請に対し、英国政府は対応を示さずに終わっている。


                (引用ここまで)

                  *****



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アボリジニの野焼き・・温室ガス削減に効果と、COP21で紹介

2016-01-20 | その他先住民族



「温室ガス減 先住民の知恵・・豪アボリジニ「火つけ」応用」
                        朝日新聞2015・12・11

                ・・・

大規模な山火事に悩むオーストラリアで、先住民アボリジニーの伝統を温室効果ガスの排出削減に生かす試みが進んでいる。

数万年前から受け継いできた延焼を防ぐ知恵で、排出をどれだけ減らせるのか。

科学的に計算して「排出権」として売ることも可能になった。

南十字星の下で

北部準州の州都ダーウィンから車で3時間余り、1800平方キロのほとんどを森林が占めるフィッシュリバー地区。気温45度、ワニが泳ぐ川を渡り、熱風が吹く大地を進むと、水牛やカンガルーの群れが、土ぼこりをたてて通り過ぎる。

しばらく行くと、黒こげの木々が並ぶ森が現れた。

「ここは外部からの人間の失火で燃えてしまった。

木が枯れたままでは動物も来ない。一度死んだ森は生き返るのに何年もかかる」。


同地区で自然保護活動をする先住民レンジャー、ジョン・デイリーさんが表情を曇らせた。

乾期のうちでも最も乾燥する8月に、山火事が起きたのだ。


だが、離れた場所にある別の森に入ると、風景が一変した。

同じユーカリの木でも、焦げているのは幹の下部分だけ。

上部は緑色に芽吹いた枝が伸びる。

「4月に『火付け』しておいた。森を生かし続けるアボリジニーの知恵だよ」。

デイリーさんは誇らしげだ。


「火付け」とは、火のついた木片を手に、サバンナの下草に火を付けて回ること。

豪州大陸に5万年以上暮らすアボリジニーに代々伝わる。

カンガルーなどを追い立てる狩猟のほか、大火事を防ぐ効果がある。

燃えやすい下草を焼いておけば、木々に燃え広がる原因をあらかじめ取り除くことになるからだ。


山火事の原因は、落雷から旅行者の失火まで様々だ。

だが、燃えた分だけ温室効果ガスの二酸化炭素などが発生してしまう。

そこで、先住民土地公社が政府から補助金を得て2010年に、白人の牧場主らから同地区の土地を計約1300万豪ドル(約11億円)で購入。

2011年から、公有地になった土地で、約20人の先住民レンジャーが「火付け」を始めた。

弱い火をおこす「火の種」と呼ぶ薬品をヘリコプターから落とす方法も使うと、焼失面積は以前の30分の1近くに減った。

北部準州のアボリジニーらを代表する公的機関「北部土地評議会」のジョー・モリソン代表は、

「乾燥大陸を植民地化した白人にとって、火は恐ろしい悪の存在。

だが、火と共存してきた我々は、幼いころから火の管理法をたたき込まれている」と話した。


排出権取引で収入も

火付けの知恵を山火事の管理に生かそうと働きかけたのは、連邦科学産業研究機構(CSIRO)のガリー・クック博士だ。

北部準州のサバンナで土地や植生を調べ、「山火事による温室効果ガスの排出は深刻だ」と考えていた1990年代、「木の棒でちょこちょこと火を付けて歩く人々」に気づき、「これを排出を減らす仕組みに応用できないか」と考えた。

乾期に燃える草木などの重さや、排出される煙の成分を分析。

毎年、国土の約25%を占めるサバンナの山火事が、豪州全体で出る温室効果ガスの2~4%を占めるとはじき出した。

さらに、植生の種類や衛星画像などのデータも加え、火付けを始める前の温室ガス排出量を算出。

火付けで排出を減らした分を豪州が独自に認証する「炭素クレジット」(温室ガス1トン削減分が1単位)として、排出権取引で国内で売れるようにした。

買う側の企業が、自社の温室ガス排出と埋め合わせて、排出削減に貢献する仕組みだ。
 
フィッシュリバー地区で11~14年に企業へ売られたクレジットは50万豪ドル(約4200万円)分以上で先住民社会の貴重な収入源となった。

取り組みは、北部準州の14万平方キロのサバンナに広がっている。

先住民土地公社のネリッサ・ワルトンさんは「先住民の伝統文化と科学が融合した画期的なモデル」と評価する。

ただ、2年前に労働党から保守連合に政権交代したことに伴い、クレジットの単価自体は下がっている。

労働党政権は企業に排出削減義務を課しており、企業がクレジットを買う仕組みだったが、保守連合政権は「排出量を減らす取り組みを直接、政府が支援する」という方針に転換。

今年から様々な排出削減のクレジットについて、政府が主に費用対効果の高い順に買う制度に変えると価格が急落した。

11月5日の最新の競売では、クレジット1単位の平均価格は12・25豪ドル(約1100円)と労働党時代の約半額になった。


COP21でアピール

国内ではクレジット売買にブレーキがかかる状況となっているものの、国連大学高等研究所のサム・ジョンストン上級研究員は、アボリジニーの知恵は世界中で活用できるという。

「南米やアフリカ、アジアには、「火付け」に似た方法が先住民に存在した国が多い。

すでに約20カ国が豪州の制度に興味を示している」
 
こうした国々では近年、温暖化対策として先住民の伝統的なエコシステムが見直されており、豪州で確立された算出法などが役立つ。

パリで開かれている国連気候変動会議(COP21)でも、アボリジニーの代表者が「国際先住民フォーラム」で火付けによる火災管理を発表し、「先住民は温室ガスから地球を守る最高の保護者」とアピールした。

               ・・・




この記事を読んで、アボリジニの集落から、ミステリアスな方法で招待を受け、約3か月をすごした海美央さんの本「アボリジニの教え・・大地と宇宙をつなぐ精霊の教え」という本を思い出しました。

アボリジニの女性が彼女に語った言葉です。


              *****

           (引用ここから)

現在、都会となった場所は、かつては森だったのよ。

その森には、様々な動植物たちが存在していたのよ。

それが人間によって、破壊されていった。

人間によって崩されてしまった自然の中に今、人々は置かれている。

その中で、これからも人々は、辛く悲しい思いをしながその風景を見るでしょう。

でもね、たとえばブッシュ・ファイアーを考えてほしいの。

乾季になると自然発火してしまい、何日間も草木が燃え続けるのよ。

動物たちは焼かれ、それは悲しい風景ではあるのよ。

でも、それで大地のバランスをとっていく仕組みになっているの。

その後は「時」の恵みによって、再び新しく新鮮に、自然はうまれ変わっていく。

また素晴らしい世界がやってくるのよ。

これはなんてありがたいことなんでしょう。
 
            (引用ここまで)

              *****


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和歌山・太地町の「追い込み漁」非難・・水族館のイルカの入手も禁止に

2015-11-11 | その他先住民族



「捕獲イルカとの交配 重要・・追い込み漁禁止に対応」
                           読売新聞2015・06・22

  
                   ・・・・・

日本動物園水族館協会が、世界動物園水族館協会の警告に従い、和歌山県太地町で行われている追い込み漁で捕獲したイルカの入手を加盟水族館に禁じる決定をした。

東京海洋大教授・加藤秀弘氏にインタヴューした。


〇今回の決定と今後の展望をどう見ていますか?

●加藤

世界動物園水族館協会の警告の背景には、「追い込み漁」に反対する環境団体の圧力があったとされている。

イルカをめぐる思想的な問題に、日本の水族館が巻き込まれたということだろう。

「国際捕鯨取締条約」や「漁業法」に照らしても、「追い込み漁」に違法性はない。

漁民にとっては、伝統を守り、持続的な仕事として漁村を支えてきた誇るべきものだ。

水族館用に必要な頭数を捕獲した後、残りは海に逃がすなどの工夫もしてきた。

私は、世界動物園水族館協会が、漁を「残酷だ」とする指摘には、具体性が伴っていないと考えている。

とは言え、日本動物園水族館協会はあくまで動物園と水族館の組織だ。

世界動物園水族館協会から離脱した場合、動物園は海外から希少動物を入手したり、交換したりする際に支障が生じるおそれがある。

日本動物園水族館協会が水族館と動物園の全加盟施設を対象に行った投票で、世界動物園水族館協会への「残留」」が「離脱」を上回った。

動物園の多くが「残留」に傾いたためと見られるが、これを非難はできない。

今回の決定で、日本動物園水族館協会に加盟する国内の水族館は、イルカの人工繁殖に本格的に取り組むことになる。

ただ、イルカの繁殖技術だけでなく、様々な課題がある。

繁殖では、限られた範囲での交配を繰り返さざるを得ない。

そもそもイルカは病気にあまり強くなく、こうした交配で遺伝的な多様性が失われた結果、さらに病弱なイルカが生まれる可能性が高まるだろう。

また、動物園や水族館は、レジャーだけではなく、教育という役割も併せ持っている。

展示を通じて自然を知り、環境や生物を大切にする考えを学ぶ重要な施設だ。

水族館で生まれ育ち、海で泳いだことの無いようなイルカばかりで、来場者に躍動感や自然の尊さを実感してもらうことができるのか?という疑問は残る。

こうした課題を考えると、人工繁殖だけに頼るのは現実的ではない。

自然界で捕獲したイルカと、水族館で繁殖させたイルカを適度に交配させることが、健康なイルカの確保のためにも、展示のさらなる充実のためにも重要だ。


               ・・・・・



新聞記事を読んで、イルカ漁は縄文時代から、日本の各地で行われていたことを思い出しました。

なぜ、鯨とイルカだけが、捕獲禁止なのでしょうか?

関口雄祐氏の「イルカを食べちゃだめですか?科学者の追い込み漁体験記」という本を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


            (引用ここから)

<クジラを食べるということ>

国際的に認められている「先住民生存捕鯨」

今の時代にイルカやクジラを獲って食べることはおかしいのだろうか?

人は、いや生き物は、何かを食べて生きていかねばならない。

その何かは、往々にして、他の生き物である。

だとすれば、クジラを食べることに批判が上がるのは、生き物だからではない。

では、野生動物だから問題になるのだろうか?

IWCは、加盟国における捕鯨を管理し、商業捕鯨は一時停止状態であるが、例外的に「先住民生存捕鯨」が、世界の数か所で認められている。

これは「地域に密着した伝統で、生存に直接必要な捕鯨」とされるもので、IWC的思考としては珍しく、人の生活に視点を置いた措置で、評価できる。

例えばベーリング海~チュクチ海~ボーフォート海海域の北極クジラについて、2008年から2012年までの間に280頭(1年平均で56頭)捕獲できる(1年間での銛打ちは67回を超えないこと)とする「先住民族生存捕鯨」捕獲枠が、全体合意で設定された。

この海域における北極クジラの生息数は8000~10000頭と考えられている。

この、年平均56頭の捕獲は、最低資源量8000頭の0・7パーセントに当たり、北極クジラの自然増加率は約3%と考えられているので、資源の利用として問題ないとされる。

「先住民生存捕鯨」は、他にも、グリーンランドとカリブ海の一部の国で認められている。

これらは先住民の生活保護のために例外的に認められたとされるが、先住民生存捕鯨だからといって、なにもかも伝統的な方式を保っているわけではない。

船も、用具も、処理も、流通も、現在様式にまったく関わることなく行うことはできない。

「先住民族生存捕鯨」の必要要素に、鯨肉を商業流通させていないことが挙げられる。

太地では、鯨肉はもらうもので、基本的に買わない、非商業的分配が主流である。

これは「追い込み漁」の捕獲物でも、沿岸小型捕鯨の捕獲物でも同様で、地域的な特性と考えてよい。

「捕鯨モラトリアム」以降、太地を日本中で鯨肉の供給量が減り、その結果、太地でも、鯨肉の供給量、流通量は下がっている。

「太地でさえ、捕鯨文化は風前の灯だ」などとささやかれることもある。

実際に一人あたりの消費量は、減っているだろう。

しかし、非商業的な分配に重きが置かれ、そしてその仕組みが今なお残っていることは、そのまま文化の根の深さを物語るものだ。

通常の商業捕鯨とも、「先住民生存捕鯨」とも異なる捕鯨の存在は、それ自体が、日本の捕鯨文化の多様性を表している。

特に太地に関しては、沿岸小型捕鯨のみが、地域の捕鯨文化を表しているわけではなく、イルカ追い込み漁などと相まって形成されている。

本来、「先住民生存捕鯨」は、地域を考える仕組みであり、沿岸小型捕鯨という捕鯨の一タイプについて評価するべきではなかったのだ。

文化とは、固定されたものではなく、変化していくものだ。

現在の追い込み漁が40年ほどの歴史しかないとか、沿岸小型捕鯨が捕鯨砲という近代的な装備で捕鯨を用いるとか、そういった特徴は、時代の変化に合わせた文化の変化であり、一連の捕鯨文化からは決して逸脱
したものではない。


<捕鯨は日本の文化か>

「先住民生存捕鯨」のみならず、イルカ漁を含めた捕鯨は、すべてその必要性、すなわち食べるための手段として始まったはずである。

現在もこれに関わる漁師たちにとっては、生計を立てるための手段であることに変わりはない。

イルカがいるからイルカ漁ができて、鯨がいるから捕鯨が発達する。

鯨に対する関わりの強さ、つまり捕鯨文化あるいは鯨食文化になじんでいるかどうかは日本の国内にも大きな地域差がある。

日本人同士でも、この認識が薄いがために混乱を招く。

捕鯨に強く関わってきた地域があり、別の地域では年に数回の捕鯨の食文化があり、あるいはまったくクジラに関わることの無かった地域がある。

これが文化の多様性だ。

各個人の背負う文化が異なる以上、「日本の文化」を総意として表そうとすることが無理なのだ。

例えば日本には、「昆虫食」の文化を持つ地域がある。

同様に、「豚足」を食する地域がある。

それらと同列に、捕鯨をする地域があるという姿勢でよいのではないだろうか?

       
          (引用ここまで)

           
            *****


「兵庫県立公庫博物館スタッフブログ・縄文時代のイルカ漁の名人」


 wikipedia「豚足」より

豚足(とんそく)とは、食用とされる豚肉の部位で、通常は足関節より下の部分を指す。
中国、台湾、朝鮮半島、東南アジアなどではポピュラーな食材であり、日本では沖縄県や鹿児島県奄美地方(旧琉球国文化圏)でよく食べられている。


 wikipedia「昆虫食」より

昆虫食(こんちゅうしょく)とは、ハチの幼虫、イナゴなど、昆虫を食べることである。食材としては幼虫や蛹(さなぎ)が比較的多く用いられるが、成虫や卵も対象とされる。アジア29国、南北アメリカ23国で食べられ、アフリカの36国では少なくとも527の昆虫が食べられており、世界で食用にされる昆虫の種類を細かく集計すると1,400種にものぼるといわれる




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42000年の旅路・・ボルネオ島のニア洞窟

2014-03-29 | その他先住民族


朝日新聞「日曜版」「日本人の起源」2011・05・01

アジアに最初に入ってきた人たち、日本人の遠い祖先が住んでいた巨大な洞窟を訪ねた記者の記事です。


                 ・・・・・

その洞窟は、とにかく巨大だった。

体育館のようにだだっ広く、奥に向かって小高い丘になっている。

その先は真っ暗で何も見えない。

高いところでアナツバメやコウモリが舞っている。

不思議と怖さはない。

むしろ、大きなゆりかごのなかにいる気分だ。

40000年ほど前、ここに「祖先」たちがいたかと思うと、洞窟の奥の暗闇に向かって「会いに来たよ」と走りだしたくなる。

マレーシア・ボルネオ島のニア洞窟。

私がここを訪れたのは、「祖先」の足跡をこの目で確かめたかったからだ。

2人の人類学者・国立科学博物館の海部陽介と沖縄県立博物館の藤田祐樹に同行してもらった。


東京から首都クアラルンプール、そしてボルネオへ。

2日かけて、ブルネイとの国境の町ミリに入った。

そこから車で2時間ほど走り、ようやく「ニア国立公園」の入り口に辿りつく。

ニア川を渡し舟で渡り、鳥や虫の声を聞きながらジャングルを歩くこと1時間。

石灰岩の切り立った崖にぶつかり、木で出来た階段を5分ほど登ると、「さあ、我らが故郷にようやく到着だ」と、洞窟の前で案内役のサラワク博物館長が歌うように言った。



ここで1958年、人間の頭がい骨が見つかった。

深さ2・5メートルの地中に眠っていたため、「ディープスカル」と名付けられた。

2000年、サラワク博物館や英ケンブリッジ大の合同調査団が4年かけて発掘。

現場の地層や「ディープスカル」を再検証し、約42000年前の20才前後の女性と特定した。

東南アジア最古の現生人類だったのだ。


洞窟を訪ねる2日前、私たちはサラワク博物館で「ディープスカル」と対面した。

ふだんは館長室で厳重に保管され、めったに人目に触れることはないらしい。

館長は、白い紙箱からうやうやしく骨を取り出す。

茶褐色で薄く、何かはかなげだ。

40000年の時を超え、身内と向き合っているような気分になる。

「思ったよりきゃしゃですね。骨と骨の結合部分にまだ成人になりきっていない特徴もある」。

海部はいろいろな角度から観察し、そんな感想を口にした。


「ディープスカル」の発見現場は、半世紀前のまま残されている。

周辺では、焦げた跡や傷のある動物の骨、木の実の毒を抜くために灰とともに埋めたと見られる穴の跡もみつかった。

森で生き抜く知恵をもって暮らしていた「祖先」の姿が、目に浮かぶ。

「ディープスカル」の主は、その形態などから「オーストラリアやタスマニアの先住民に似ていたのでは」と推測されてきた。

海部や藤田が研究している沖縄の旧石器人も、同じような集団の仲間だった可能性がある。


海部は研究者になった16年前から、ニア洞窟に来るのが夢だったという。

「日本人のルーツを辿る旅で、ニア洞窟は避けて通れませんから」。



約20万年前にアフリカで生まれた現生人類は、中東からインドを経て東南アジアにやって来た。

そこからユーラシア大陸を北へ、様々なルートで日本列島を含む北アジア各地に広がっていったと考えられている。

「ディープスカル」の主は、アジアに入ってきた初期の人たち、つまり日本人の遠い祖先だった可能性がある。


午後4時ごろ、洞窟の外は猛烈なスコールに見舞われた。

雨に洗われる新緑の木々を洞窟の中から見ていると、まるで大画面のスクリーンのよう。

雨は一滴も入ってこない。

風雨を避けられる一方、十分な光は差し込んでくる。

「祖先」たちのいた場所は居心地がいい。


ただ、やがて彼らは、慣れ親しんだ洞窟を後にする。

行く先々で何が待っているのかもわからないまま、あちこちに散っていった。


海部は言う。

「その好奇心と、何とかなるという自信、これがホモサピエンスの証じゃないかな」。

もし「祖先」たちがニア洞窟に留まっていたら、日本を含む東南アジアの歴史は変わっていたかもしれない。

彼らが前に踏み出してくれたおかげで、日本人はここにいる。


                  ・・・・・

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太鼓の音に乗って先祖の地へ行く・・モンゴルのシャーマンの生活(2)

2014-03-27 | その他先住民族


西村幹也氏の「もっとしりたい国モンゴル」のご紹介を続けさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          *****


         (引用ここから)


儀礼の準備には、それなりに時間がかかる。

まずは太鼓をストーブなどであぶって、よく乾かさねばならない。

シャーマンの太鼓は、シャーマンが「オンゴット」の許へと向かう時の乗り物になるという。

ソビヤン婆さんの太鼓には、メス鹿の絵が描かれていた。

トナカイに乗って移動する「ツァータン」ならでは、というところであろう。


太鼓を叩くバチは、ムチと呼ばれる。

太鼓の音は、乗り物の駆ける様子を表わしているという。

したがってよく乾いていい音がすればするほど、シャーマンの乗り物が調子よく走っているということになるのだ。


皮でできた衣装には、たくさんの金属片が縫いつけられている。

刀の形や、人型、鈴のように音が鳴るようになっているものなどで、これらは「オンゴット」をかたどったものであると同時に、悪い「オンゴット」からシャーマンが身を守るために必要なのだと言う。


肩からは、たくさんの細い布がぶら下げられている。

布一本一本がそれぞれ家族たちの「オンゴット」とされ、シャーマンを助けることになる。

儀礼の度に、新しい布を縫いつけていく。

たくさん縫い付けられていれば、それだけ多くの回数の儀礼をこなしてきたことになる。

当然、シャーマンの力の象徴にもなる。


帽子は、黒ライチョウの羽やイヌワシの羽、フクロウの羽などで作られ、額の部分の布には顔が刺繍される。

靴には鳥の足のような刺繍が施され、シャーマンが衣装を一式身にまとうと、鳥のようになるのだ。

どうも、鳥になったり、鹿に乗ったりと話が今一つまとまらないが、とにかくどこかへシャーマンは出向くことには間違いない。


儀礼中はソビヤン婆さんはトバ語を使う。

彼らはトバ人であり、祖先たちと会話をするのなら当然トバ語だ。

正直、勉強不足な私には何を言っているのか分からないのだが、参列者に聞くに、「迎えに来た「オンゴット」と共にどこどこの土地にやってきたところだ」とか、参列者の誰かが胸に思ってる依頼に対して「オンゴット」が何を言っているのかを伝えたりする」のだそうだ。


そして参列者全員が順番に、一人一人呼び出されて、婆さんの前に座らされる。

婆さんが投げたバチを、服の裾で受け取らされる。

婆さんは三度バチを放り投げ、次の受け手を呼び出す。

バチの落ち具合で占いをするのだ。


また、狩猟活動を活発に行う「ツァータン」たちにとっても、シャーマンは重要な存在のようだった。

「ツァータン」たちはトナカイの飼育を行う地域を日常生活の場として「タイガ」と呼ぶのに対して、狩場の場を「ヘール」と呼ぶ。

これはモンゴル語で「草原、平原」を意味するが、“誰のものでもない場所”を暗示し、人間の力が全く及ばない危険な場所を示す。


「ツァータン」は「ヘール」に向かう際、いつも婆さんの所にやってきていた。

人間の世界と「オンゴット」の世界を自由に行き来する婆さんは、いわば二つの世界の出入り口的な存在となっているようで、通常の生活空間から狩場へと行く時に彼女に会ってから行くのは、非常に興味深い現象であった。

といっても、婆さんはお茶を飲ませ、いついつ、誰がどこらへんに行った、という話をべらべらするだけで、特にお祓いや儀式的なことは何もしない。

しかし、すべての狩場の状況に関する情報センターの役割を果たしているようではあった。


婆さんは朝一番に起きるや、誰がいてもいなくても、聞いていてもいなくても、ずっと話し続け、語り続け、歌を歌っている。

そんな人であった。

「歌を録音したいって?
歌なんて忘れちゃったよ、歌えないよ、シシシ。。」と笑って茶を入れながら歌いだす。

そんな人だった。

「タイガ」や「ヘール」のすべてを知っているかのような婆さんは、推定106才で「オンゴット」になってしまった。

きっとどこかの土地を守り、若いシャーマンがやって来た時に、「シシシ。。歌なんて知らないよ」などと言うのかもしれない。

  
                (引用ここまで)


                    *****


>「ツァータン」たちはトナカイの飼育を行う地域を日常生活の場として「タイガ」と呼ぶのに対して、狩場の場を「ヘール」と呼ぶ。
>これはモンゴル語で「草原、平原」を意味するが、“誰のものでもない場所”を暗示し、人間の力が全く及ばない危険な場所を示す。


そうなのだろうなぁ、と思います。

狩場は、〝日常の場所ではない、そして、人間の力が全く及ばない危険な場所”なのだろうと思います。

野生動物との接触は、非日常的な世界なのだろうと思います。

そしてそこに、人間の原点があるのだろうと感じます。


>婆さんは朝一番に起きるや、誰がいてもいなくても、聞いていてもいなくても、ずっと話し続け、語り続け、歌を歌っている。
>そんな人であった。
>「歌を録音したいって?
歌なんて忘れちゃったよ、歌えないよ、シシシ。。」と笑って茶を入れながら歌いだす。


なんだか親しみがわきます。
こういう人、いいなあ、と思います。


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モンゴルのシャーマンの生活(1)・・祖先霊とつながる

2014-03-25 | その他先住民族


モンゴルの草原をこよなく愛する西村幹也氏の「もっと知りたい国モンゴル」のご紹介を続けさせていただきます。

太古の森がかつてあった大地には、今もこのような太古の心を持つ人々が住んでいることを教えていただきました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                *****


              (引用ここから)


「アー、疲れた、疲れた」。

もう立っていられないかのように言いながら、婆さんは座った。

しかしこの直前、約2時間もの間、婆さんは歌って、踊って、飛んで、跳ねて、太鼓をたたき続けていたのだ。

「どこまでいったの?誰と一緒だったの?」と尋ねると、

「最初にやって来たのは、ひばりぐらいの大きさの鳥だよ。で、その次は蛇だね。

そして最後に化け物がやって来た。

それで、一緒に行ってきたんだよ」。

婆さんはこの鳥や蛇、化け物の形をした「オンゴット(祖先霊)」と一緒に飛び立ち、とある場所まで行って、そこにいる祖先霊に会ってきた、というのだ。

婆さんの名はソビヤン。

この当時90才代後半という高齢だったにも関わらず、2時間にもわたる儀礼を行った。

秋営地を移動させ、誰もいまだ使っていない土地にやって来て、その土地の低木を抜き、家を建てる場所とトナカイの寝床を作った夜だった。

この土地の精霊、守り神に許可を願い、滞在中の安全無事を祈ったのである。

モンゴルには極度の精神集中状態の中で、精霊などと直接に交信することの出来る特別の人がいる。

モンゴル語では「ブー」といい、男性ブーはザイラン、女性ブーをオットガンと呼ぶ。

いわゆるシャーマンである。

人間の住んでいる世界と精霊の世界を自由に行き来できる存在として、この両世界の調和を維持することを役目としている。

モンゴルでは、チンギスハーン以前の時代より、この「ブー」は生活の場面のみでなく、政治の世界でも大きな力をもっていた。

1600年代以降はチベット仏教にその勢力をそがれ、1930年代の宗教弾圧によって、過去の迷信と喧伝され、社会主義時代に多くが活動を止め、1990年代初頭には山岳地帯にわずかに年配の人が残るのみとなってしまった。

言論、信仰の自由を得た90年代から再び、活動を開始、長い社会主義時代に科学万能の教育を受けた多くのモンゴル人の中で、しっかりと復活を遂げている。

社会主義崩壊による社会不安によって、精神的拠り所がなくなった多くのモンゴル人の中で、いまではウランバートルに「シャーマン連盟」などの組織も存在するに至っている。

しかし都市部におけるシャーマンの活動は、神秘主義的、新興宗教的な色合いも強く感じられ、従来のものとは別物のように思える。


絶対的な自然の力によって支配される遊牧民・狩猟民たちは自然界に対しては一方的に“お願い、感謝”をするだけで、“交渉、相談”が不可能であることを知っている。

しかし人間側にもっとも近い霊的存在と直接に関わることは許されている。

その霊的存在が「オンゴット」と言われる。

この「オンゴット」は、かつてのシャーマンの霊だ。

シャーマンは死後、それぞれに“シャーマンの木”が選ばれ、そこに衣装や太鼓などの儀礼道具一式を掲げ、保管される。

そしてそれぞれのシャーマンは、どこかの土地の守り神として存続し続けるという。

土地の守護神は、かつてのシャーマンの霊なのである。

「ツァータン」達は、それぞれの民族・氏族・家族もしくはもっと大きな集団ごとに“故地”と呼ばれる土地を持つ。

そしてそこにいる「オンゴット」と、ある程度定期的に交信を持つべきであるとされている。

このように自分達の生きる土地が祖先たちによって守られていることを感じ、また、自分達に最も近しい
霊的存在を生活の中で常に意識することで、その土地を守り、また集団としての記憶を今に残すのに一役かってきたのが、シャーマンなのだ。


モンゴル人のシャーマンを「古代の信仰を守る」などと言うように妙に神秘的に扱う人々もいるが、シャーマンの活動は、現在そこに生きる人々を守る為に繰り広げられるのだ。

それは時には現代の文化的なグローバリズムに対する抵抗をするための唯一の、そして強力な武器ともなっており、決して未開の信仰なのではない。

トバ人にしてみれば、大多数を占めるモンゴル人に対して、自分達の独自性を文化的に維持させるのに、同じ祖先を祀り、その集団への帰属心を養い、維持するためにシャーマンは存在し続けているのではなかろうか?

「ツァータン」たちの話では、かつてはそれぞれの氏族ごとにシャーマンが存在しているのが普通だったと言う。

最低でも季節ごとに一度、月が出る夜に儀礼を行い、自分達の生活の状況を伝え、尋ね事をするのだと言う。

病気の原因を尋ねたり、いなくなった家畜の居所を尋ねたりと依頼は多岐にわたる。

おおよそ普段の生活で出くわすすべての問題の解決を、シャーマンに依頼するのだ。

「病気になったらどうするかって?

まずはシャーマンに原因を聞くよ。

治らなかったら?

その時は、今度は仏教僧に聞くかな。このあたりにはいないけどね。

で、それでも駄目だったら、仕方がない、病院にいくね」。1990年代半ばの話であるが、こんな話を聞かされた。

モンゴル中央から見捨てられたかのような土地で、頼りになるのはシャーマンだけだという状況を暗に示しているようだ。


             (引用ここまで)


              *****


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トナカイに乗ってやってきた人々・・モンゴルの少数民族

2014-03-23 | その他先住民族


引き続き、西村幹也氏の「もっと知りたい国モンゴル」から、西村氏が愛してやまないモンゴルの大草原を描いた部分のご紹介をさせていただきます。


リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                *****


              (引用ここから)


モンゴル高原の大部分を占めるのはモンゴル国であるが、だからといってモンゴル人だけが住んでいるわけではない。

モンゴル国では公式に自国内に2民族の存在(モンゴル民族とカザフ民族)を認めているが、実は第3番目の民族が存在している。(本当はもっといるが)

それがトバ民族である。


母語であるトバ語はチュルク系言語であることから文法的にはカザフ語とほぼ同じであるといってよいが、モンゴル語から入ってきた語彙が多い。

またチュルク系言語を話す民族の多くがイスラム教徒であるのに対し、彼らは仏教もしくはシャーマニズムを信仰の中心に持っている。

言語的にはカザフ民族に近いのだが、宗教などの点ではモンゴルとの関わりから深い影響も受けている。

まるでモンゴルとカザフの中間にあるかのような人々だという印象がある。


さて、このトバ民族の中に、トナカイを飼いながら、針葉樹林帯(タイガ)に住む人々がいる。

「ツァータン」と呼ばれる人々である。

「ツァータン」という言葉は、「トナカイを持つ人」を意味するモンゴル語だ。

草原地帯で馬、牛、ラクダ、山羊、羊を飼うモンゴル人たちにとっては、雪が深くて草原家畜を飼って暮らせない森林の奥深くから、トナカイに乗って人がやって来たのだから、かなり奇異な存在に見えたことだろう。


しかし「トナカイを持つ」彼らが、自分達を「ツァータン」と自称するようになったのは、それほど昔のことではない。

彼らは圧倒的多数のモンゴル民族の中で、母語を忘れるなど、様々にモンゴル化が進む過程で、彼らも自らを「ツァータン」と自称するようになってきている。

モンゴル遊牧民にとっての家畜と、「ツァータン」にとってのトナカイとでは、実は意味合いがまったく違っている。

モンゴル遊牧民は家畜を増やして、余剰分を食肉にまわしたり、大規模な群にして乳などを日常的かつ大量に得ることを第一の目的としている。

つまり家畜を飼うことが、中心的生業となっている。

しかし「ツァータン」たちにとってのトナカイというのは、本来交通輸送手段としての利用が第一である。

トナカイを“たくさん増やす”ことに意義を見出すようになったのは、社会主義時代にモンゴル民族主導でモンゴル的牧畜経済を押しつけられ、トナカイ牧畜への依存度が高くなったからなのである。


彼らの主な生業は本来、狩猟採集漁労であった。

つまり彼らの日常的な食料は、狩りの獲物や自生の植物、木の実、魚などであったのだ。


モンゴルでは1960年代ごろからトナカイ牧畜の大規模化が始まる。

群の単位は数百頭に及び、“第6番目の家畜”として、当時のソビエトでの鹿肉コンビナートにならって
トナカイ牧畜に力が入れられることになったのである。

同時に狩猟採集漁労文化は、徐々に忘れられていくことになった。

狩猟採集漁労という生活形態は、当時の社会主義において「未開社会」を意味した。

それらから脱却して高度な文化生活をすることが、正しい進歩であるとされていたからだ。

しかしそもそも見通しの悪い森林地帯での大規模群飼育は困難であり、また暑さを嫌がり寒さを好むトナカイの性質は、これを飼育する人々に大きな負担を強いることとなる。

社会主義システムが支えてくれてどうにか成り立っていた大規模群飼育は、社会主義崩壊を契機に中小規模(10から30頭)群飼育に戻っていった。

さらに社会主義時代にはもらっていた賃金収入がなくなったため、これもまた、以前のように換金可能な物資を調達しに狩りへと出かけることになっていった。


とこらが、彼らの社会環境は社会主義以前と大きく異なってしまったのである。

つまり、狩猟自体が許可制になってしまったのだ。

いや、実質全面禁止に近い。

“自然界がものをくれていれば生活できる”はずだった彼らの生活は、“密漁、密猟がばれなければ”、という厳しい条件が付くことになっていった。

さらに「森林資源保護」という名目で、一律に木の伐採が禁じられ、これもまた彼らの生活を大きく圧迫することとなっている。


密猟をしたら、また木を許可なく伐採したら、とんでもない額の罰金を払わされることとなっているのだ。

トナカイ遊牧民と紹介されたり、時には「幻の民族」などとマスコミに取り上げられる「ツァータン」であるが、そのどれもが本当の彼らを知らずに、彼らを取り巻くモンゴル人たちが一方的におしつけたイメージにすぎない。

彼らにしてみれば、モンゴル北方のタイガ地域を自由に暮らしていたのに、気がついたら国境線が引かれ、移動もままならなくなり、少数民族に追いやられ、自分達を理解してくれないモンゴル人たちに勝手に名前をつけられ、生業も変えられ、社会主義崩壊と同時に投げ出されてしまい、先住民族の権利と人権を守れ!と叫びたいところだろう。


            (引用ここまで)


               *****


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草原の掟・・モンゴルで生きるすべを学ぶ

2014-03-21 | その他先住民族


「3億年前の森を再現」

中国北部の内モンゴル自治区に約3億年前に広がっていた太古の森の様子を復元することに、中国と米国の研究チームが成功した。

米科学アカデミーの紀要に発表した。

チームは、内モンゴルで約1000平方メートルにわたって掘削調査を行い、火山灰に埋もれた地層から約3億年前の植物の化石を集めた。

6つのグループの植物を特定することに成功、高さ10~15メートルのものが多かったが、25メートル以上になるものもあった。

(復元図は米「科学アカデミー紀要」提供)


               ・・・・・


この小さな新聞記事を大事にして、時々眺めていたのですが、これだけでは短いので、この太古の森が存在したモンゴルの大地について書かれた本を読んでみました。

西村幹也氏の「もっと知りたい国モンゴル」から、西村氏が愛してやまないモンゴルの大草原を描いた部分をご紹介します。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****

             (引用ここから)


「モンゴルってどんなところですか?」とよく聞かれる。

モンゴル民族たちの住む、日本の10倍近い広さの土地のことを、簡単に答えられるはずもない。

「えーと、こんなところだよ」とか言いながら変なポーズをとってみせることもある。

そのポーズがすべてを表現できるとも思えないが、言葉で表現するよりは、“不可解な感じ”が残って、イメージを固めさせないかもしれないと思うのだ。

むろんそんなポーズで相手が納得してくれるはずもなく、そのまま無視されて、次の質問をされることも多い。

「大草原って何も無いですよね?何も無い所に行って何が楽しいんですか?」とも聞かれる。

時間が無い時には、けっして何も無いとは思わないのだが、「何も無いからおもしろいんですよ。だって何も無い状況って見たことないでしょ?日本で。」と答える。

時間がある時は、「何も無いようでいて、見える人や分かる人にはたくさんの情報を得られる土地であり、それをもとに生活が成り立っています。

現地の人々のそういった自然を見つめる視点を探るのが、楽しいんです」と答える。

そして、例を挙げて話を始めることになる。

確かに普通に眺めれば、“何もない所”という表現が非常にぴったりくる。

しかし、そこには草原がある。

河がある。

空がある。

動物もいるし、虫もいる。

人工物が極端に少ないだけだ。

見上げればとてつもなく広い青空、もしくは星空が広がり、とてつもなく広い空間へと自分の意識は誘われる。

すぐ目の前の地面に目をやると、そこにはアリンコが走り回っていたり、いろいろな花が咲いていたり、変わった形をした草の葉が生えていたりの小さな世界が存在し、その小さな空間に意識を向けて楽しむこともできる。

人間の都合も何もおかましなしで様々に営まれる生命が無数にあって、それがとても美しく感じられる。

おまけにそういった観察をするだけでも相当な時間が必要になり、いくら時間があっても足りない。


草原での滞在中に、「何もやることがない」とぼやく人もいる。

そんな人には「○○になってみた気持ちでこの草原にいてみたら?」と言ってみる。

たとえば羊になったつもり。

普通だと、遊牧民になったつもりで羊の群れを見に行き、遊牧民の行動を観察して真似る。

確かにこれも楽しい。

しかしさらに一歩を進めて、“羊になったつもり”になるためには、羊と一緒に行動しながら羊の真似をするところから始めなければならない。

ただ動き回って草を食べているだけに見えるかもしれないけれど、羊が食べる草と食べない草があることに気付くと、ぐっと彼らの気持ちに近づける。

馬の気持ち、牛の気持ち、山羊の気持ち、ネタは尽きない。しいてはタルバガンの気持ち、ついには草花の気持ちに、石の気持ち。。


ところで、そんなことして何になるのだろう、ばかばかしいと思うかもしれないが、草原を知るための第一歩なのだと私は思っている。

都市部で生きる人間は、周囲の人間にある程度気を使って行動する。

周囲の人間の目を気にし、そこからはみ出さないように生きる。

周囲に人間しかいないから、気にすべきは人間なのだが、草原であれば、人間の方が少ないので、気に掛けるべきは人間以外のすべて、と言うことになる。

つまり草原にあるさまざまな自然現象に配慮しながら、そこからはみ出さないようにして生きるということが、本来要求されるはずなのだ。

周囲に他人がいないからといって好き勝手をしていいということにはならないはずで、草原の“暗黙の掟”に従うのが、道理というものなのだ。

そして“草原の掟”は、“草原を知る”ことに始まる。


「こんな所では暮らせない」と言って、草原を“こんな所”と表現する人もいる。

「草原での生活は素晴らしいでしょう?」よりも、「草原での生活は不便でしょう?」と聞かれることの方が多い。

モンゴル人からも、そう聞かれる。

タイガ(針葉樹林帯)に冬籠りした時も、ほとんどのモンゴル人から、「大変だったでしょう?」と半分は奇異なるものを見るかのように、半分は馬鹿にするかのように言われた。

実際に暮らしている人々がいるのだから、ここに“暮らせない”のは、その人が暮らし方を知らないだけのはずだ。

“暮らそう”と思う者にとって必要なすべてのものを、草原は与えてくれる。

遊牧民はそれらを、わずかな道具で利用しながら生きてゆける。

一人で生き抜くだけの力を持っている。

ところがぽつんと一人で草原に立つことが、私にはできないのである。

いくら学歴や職歴、経済的優位を振りかざしてもまったく無意味なのが、草原という所なのだ。

そんなものを振りかざせばそれだけ、自分がみじめになってくるのだ。

草原にいると、否応なしに自分の大きさを思い知らされてしまう。

威張っても、気張っても、出来ることは出来るし、出来ないことは出来ない。

いくら「日本だったら」とか「パソコンがあれば」とか言ってみても無意味だ。

そしてこれらの言い訳が通用しないとなると、「草原を人間にとって都合のよい形に変えるべきで、それが人間や科学の進歩と発展だ」などと言いだす。

しかしそれは、敗北を認めずにルールを変えようとしているだけだと、私は思う。

“草原の掟”を変えることなく、そこでしっかりと地に足をつけて生きる術が存在し、それを守りながら草原を守ってきた人々がいる。

そこに学ぶことなくして、ルールばかりを自分に都合よく 変えてしまうことに大変危惧を感じる。

遊牧民の生活は、自然を変えないことを前提に営まれる。

草原やそこに存在するものすべてを慈しむかのような、今は亡きあの爺さんのまなざしと、「草原を知れ」と言った言葉の意味の深さは、草原に対する深い謙虚さと愛情から生まれてきたものだと私は確信する。

草原を受け入れ、草原を愛するものしか、そこに存在できないし、存在してはいけなのだとも思う。

もしかすると、人間は草原に試されているのかもしれない。

草原に生きるにふさわしいか否かを。

   
            (引用ここまで)


              *****

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最新科学 古代人像見えた・・DNA解析 CT精度向上

2014-01-28 | その他先住民族


最新科学 古代人像見えた DNA解析、CT精度向上
                     朝日新聞2010・07・06

                ・・・・・

太古の人類像にせまる重要な発見や研究成果が、国内外で相次いでいる。

古い人骨のDNAを解読する技術や加速器など最新の分析機器を使い、研究の新たな地平が切り開かれている。

現世人類の直系先祖と、地上から消え去った「我ら以外の人類」。

その姿が科学の力で鮮明になりつつある。


グリーンランドの永久凍土から見つかった約4000年前の毛髪の持ち主は、茶色の目ではげやすい男だった。

今年2月、デンマークなどの研究チームが、ゲノム(全遺伝情報)の解読結果から古代人の体質を推定した研究を報告した。

           ・・・・・


この研究については、以下の記事がありました。


           ・・・・・




               *****

2月11日
「グリーンランドの古代人はアジア出身?」

デンマークなどの国際研究チームが、グリーンランド西部の永久凍土でみつかった約4000年前の男性の髪を分析、ゲノム(全遺伝情報)の大部分を解読することに成功した。

古代人の遺伝情報を解読したのは初めてで、男性の祖先がアジア大陸から渡ってきた可能性が高いことがわかった。

11日付の英科学誌「ネイチャー」に発表する。

チームが解読したのは、発見された毛髪のゲノムの79パーセント。

アジアやアメリカなど35地域の住民の遺伝子と比較したところ、ロシア極東地域などに住むアジア系の人々と最も似ていることが判明した。

男性の祖先は陸続きだったアメリカ大陸へ渡り、グリーンランドに移住したらしい。

考古学研究の証拠とも合わせると、移住は5500年前頃にあったとみられるという。

(図像は4000年前にグリーンランドに住んでいた人の顔の想像図・ネイチャー誌提供)


  

             ・・・・・


5月には、ドイツ・マックスプランク進化人類学研究所などの国際チームは、現生人類以外では初めてとなる約40000年前のネアンデルタール人のゲノム解読結果の概要を発表。

現生人類との混血の可能性が判明した。


             ・・・・・



「これまでは古人類の骨が出たらその形を調べた。

今は骨片の遺伝子からプロファイリング(人物像の分析)もできる時代になった。

国立科学博物館の篠田謙一グループ長は、説明する。

人類学にDNA解析の手法が応用されてまだ日は浅いが、細胞内の小器官「ミトコンドリア」のDNAを調べる手法は一般化してきた。

核DNAは各細胞に2セットしかなく、構成する塩基も長大だが、ミトコンドリアDNAは一つの細胞に多数あり、塩基も短く解析が比較的容易だからだ。

突然異変を起こす確率も高く、変異の比較で系統関係を調べたり、分岐した年代を推定したりするのにも役立つ。

3月に新たに存在が報告された48000年~30000年前の未知の人類「デニソワ人」の推定にも、この方法が応用された。

一方、最先端のゲノム解読は、次世代シーケンサーと呼ばれるDNA配列を同時並列で大量に読み取る装置の開発が可能にした。

古人骨の短く断片化されたDNA配列を読み取り、現生人類のゲノム解読結果と照らし合わせながら分析する。


440万年前の頭を復元

昨年10月に報告された440万年前のラミダス猿人の研究では「マイクロフォーカスX線CT(マイクロCT)」が力を発揮した。

化石骨を台の上に置いて回転させながら、X線を照射して、骨や歯の断面を撮影。

医療用CTよりも精密な画像が得られる。

東京大学総合研究博物館の諏訪教授は「精密な撮影のため、歯のような小さなものでも約1時間かけます」。

表面をおおうエナメル質の厚さの微妙な違いまで分かり、データはコンピュータで自在に組み合わせられる。

ラミダス原人の頭部復元では、破片の断面を10000枚以上撮影。

そのうち5000枚の画像から60以上の骨片や歯の3次元データをつくり、頭の形に組み上げた。

18000年前の沖縄本島にいた「港川人」の頭骨も、マイクロCTで撮影。

研究に役立てている。

「港川人」は縄文人の祖先とされたが、近年は否定的な証拠が出つつある。

科学博物館の河野玲子研究員や東大院生の久保大輔さんらは「港川人」のマイクロCTデータを解析。
科学博物館の海部氏と下あごを復元。

国内外のデータと比較して、南方要素が強く、本土の縄文人とは近縁でない可能性を示した。

これがオーストラリア先住民の特徴を含む新たな復元モデル制作に結びついた。


0・5グラムでも年代測定

年代測定の精度も高まっている。

東大大学院の米田准教授らは、沖縄県石垣島の新空港建設現場にある白保竿根田原で見つかった骨片を分析した。

骨から抽出したコラーゲンから約1ミリグラムの炭素の結晶をつくり、加速器質量分析で放射性炭素の数を計測。

その半減期(約5730年)を目安にして、骨の主の死亡時期を調べた。

その結果、骨片の一つが骨の直接測定では国内最古の約200000年前だったことがわかった。

DNA解析とAMSに共通する利点は、微量な試料で調べられること。

いずれも0・5グラム程度ですむ。

従来の計測法による年代測定では数グラム以上の試料が必要だった。

科博の馬場研究員は「昔は貴重な骨を壊すことに抵抗感があった。しかし形態研究よりも重要な結果を得られることがあるのは明白。

支障がない部位から微量の資料をとるならば問題視されなくなった」と話す。

日本は酸性土壌で人骨が土中に長期間残りにくく、10000年より古い人骨の数は限られている。

石垣島で人骨の保存に適した石灰岩の洞穴から貴重な試料がみつかり、研究に広がりが出てきた。

この夏の発掘調査でも新たに人骨が見つかりそうだ。

日本列島は、アフリカから東アジア、東南アジア方面に拡散した現生人類が最終的に辿り着いた重要地点。

人類学への応用が進んだ最新の科学的手法と好条件で残された試料が、世界的な人類史に新たなページを書き加えてくれそうだ。

               ・・・・・

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ネアンデルタール人と共に生きていたら・・彼らはなぜほろんだのだろうか?

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ラミダス猿人については、後日追加します。
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先住民族学校、祖先を知る・・台湾

2013-12-10 | その他先住民族

               ・・・・・

「先住民族学校」祖先を知る・台湾 2013・08・09読売新聞


台湾東部・台東市の中心街から車で約20分離れた自然豊かな郊外の村で、先住民族・ピュマ族が自らの伝統文化を、その子供たちに教える「集落学校」が開かれていた。

ピュマ族で元軍人の林三郎さんが、クマよけの鈴のように腰につけて音を鳴らす伝統的な鉄器の使い方を子供たちに教えた。

「森の中で、敵と遭遇すれば、音のリズムが変わる。遠くにいる仲間に伝える警報機能があるんだ」

続いて、刀や楯の使い方も、実演をまじえた解説した。

ピュマ族は現在約13000人。

日本でもコンサートを開く女性歌手・張恵妹さんもその一人だ。

別の先住民族との縄張り争いを繰り返し、17世紀には台湾を占領したオランダにも抵抗した歴史を持つ。

林さんが紹介した武器類は、今では使われておらず、子供たちは興味津々で見入った。

この「集落学校」は、馬英九総督が打ち出した、先住民族に対する教育振興政策の一環として、今年設けられた。

授業は普段の土曜日や夏休みなどにある。

12才から15才の約30人が武器の扱いのほか、固有の言語や歴史、伝承、祭事など、学校教育カリキュラムには無い内容を3年間学び、民族のアイデンティティーを養う。

この日臨時の助っ人や教師として呼ばれた林さんを含め、教師も全員ピュマ族だ。

学費は無料、志願して入学した楊揮祖君は、「特に弓矢を習うのが面白い。家にいるより楽しい」と話し、評判は上々だ。

入学時に面接を課されるが、元警察官の校長によると、「選ばれたという名誉な気持ちを持たせるため」だという。

台湾当局は、ピュマ族を含め14の先住民族の「集落学校」を、10年間で30校以上設置していく計画だ。

背景には、多数派の漢族文化の流入で、先住民族の固有文化が失われつつあるとの危機感がある。

ただ武器類の扱い方などは実生活に役立つのか、意味はあるのか。

そんな疑問をぶつけると、校長はきっぱりと答えを返した。

「われわれの祖先がどうやって生きてきたかを知ることには、大事な意味がある」


              ・・・・・

読売新聞2013・05・13には、次のような記事がありました。

              ・・・・・



台湾の山岳地帯で自然と先住民文化を満喫するエコツアーが人気を呼んでいる。

森林と共生するブヌン族が案内人だ。

台東県の中心地から車で30分、亜熱帯高木のアコウなどがそびえる海抜500メートル以上の森林に、人口約900人のブヌン族の集落がある。

年間約15000人が参加する「森林文化博物館」と名づけられたツアーの拠点だ。

主催者は地元育ちのマティカラン・アリマンさん。

ツアーに先立ち、山で部族の繁栄を守っているとされる祖霊に酒を供えるよう、参加者にお願いする。

聖なる森林を大切に引き継ぐブヌン族ならではの慣習。

「文化体験を通じ、自然を尊重する心を養ってほしくてね」

ツアーでは、森林散策に加え、猪肉のバーベキュー、山菜料理も楽しむ。

リフレッシュを求める中高年の参加者が多く、木登り遊びに真顔で取り組む姿も。

ツアーは2004年から。

前年に集落一体で台北の開発業者によるリゾートなどの建設計画が持ちあがったことがきっかけだった。

「先祖伝来の地を守りたい」一心で、アリマンさんは予定地約8ヘクタールを約1300万台湾ドル(約4300万円)を借金してして買収。

「自然の大切さを人々が知れば、安易な開発も防げるはずだ」とのアリマンさんの発案で、ブヌン族仲間も案内役に加えたツアーが始まった。

「人間は主役ではなく自然の一部なんですよ」ーー濃い緑の中、参加者に語るアリマンさんの言葉に力がこもった。

                ・・・・・

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沖縄の言葉歌い継ぐ・・上間綾乃さんの歌

2013-11-25 | その他先住民族


2013・06・30読売新聞

            ・・・・・

「ちむぐりさ ちむぐりさ なまや暮らさらん(胸が痛い 胸が痛い 今は暮らしていけない)

フォークの名曲「悲しくてやりきれない」の哀切を帯びたメロディーが、ウチナーグチ(沖縄の言葉)で流れる。

カバーしているのは沖縄県うるま市出身の歌手、上間綾乃さん。

「泣けてくる」「胸に響いた」。

投稿サイト・ユーチューブで静かな人気を呼んでいる。

「ザ・フォーク・クルセダーズさんが歌った原曲を初めて聞いたとき、苦難を乗り越えてきた沖縄の姿と重なったんです。

歌詞は自分で訳したんですが、「悲しい」にぴったり当てはまるウチナーグチがなかなかみつからなくて。

沖縄には悲しみを表わす言葉があまりないんですね。

つらい歴史があっても、「なんくるないさ」(なんとかなるさ)って前を向いて生きていくのが沖縄の精神なのかな」


沖縄民謡を生演奏する那覇市の居酒屋で歌っていた2007年、大手レコード会社のプロデューサーの目に留まった。

「好きな歌を歌い、ご飯が食べられれば充分、東京は怖いと言う不安もありました」。

さそいを断り続けたが、昨年春、熱意に押されメジャーデビューした。

「生活の拠点は沖縄に置かせてほしい」とレコード会社に求めた。

「私を育ててくれた沖縄の地を踏み続けながら、歌いたかった」


琉球国民謡協会の教師免許を19才で取り、三線(さんしん)も弾きこなす。

沖縄では2006年9月18日を「しまくとぅば(島言葉)の日」と定める県条例が施行された。

「ウチナーグチ」を守ろうという機運はあるが、話せるのはお年寄りぐらいだ。

「このままでは沖縄の文化が詰まった言葉がなくなってしまう」という思いがある。

だから今も東京と大阪で、それぞれ月一回ほど、三線教室を開いている。

独学でウチナーグチの勉強も続けている。


「言霊と言われるように、言葉は使われることで魂が宿る。

若い世代にも沖縄の素晴らしい言葉を知ってほしい。

歌を通じて、この言葉はいい響きだなって思うだけでもいい。

針の穴のようなところからでも、広がっていけば、伝承されていくんじゃないでしょうか」。



前を向いて生きていく精神も、沖縄民謡も、授けてくれたのは母方の祖母、「おばあ」の幸喜トヨ子さんだった。

体調を崩し、去年帰らぬ人となった。

その2日前、古里のうるま市に親族が集まり、85才の誕生日を祝ったばかりだった。

「綾乃、帰ってきたのかい?」

最後に覚えているのは、久々に再会したその日の、包み込むような笑顔だ。

おばあが通っていた三線教室で民謡を習い始めたのが、7才の時。

うまく弾けると誉められるのが嬉しかった。

おばあの死後、ショックで寝込んだ。


起き上がってステージに立ったのが今月8日、新江の島水族館(神奈川県藤沢市)でのイベントだった。

「歌うことが、おばあが望んでいることだと思ったから」。

涙は見せなかった。


そして23日、沖縄は慰霊の日を迎えた。

その日は東京・銀座にある沖縄のアンテナショップで、ミニライブを開いた。

「慰霊の日に歌うことには、特別な思いがある。


優しかったおばあが、一度だけ怖い顔を見せたことがある。

小学校のころだ。

沖縄戦の話をお年寄りから聞いてくるという宿題が出て、おばあに尋ねると、「そんなことはいい。あんた達は前を向いて生きていけばいいんだ」。

戦争のことは語ってくれなかった。

あえて口を閉ざすところに、おばあの心痛を感じた」。


「私には、歌わなければならない歌があります」。

そういってライブで時々歌うのは、ひめゆり学徒隊の姿を描いた 「ひめゆりの唄」。

「沖縄の歴史を歌で語り継ぐのは、沖縄民謡の唄者の使命。

おばあたちの世代が経験したつらい歴史をしっかりと気持ちを込めて歌わなきゃって思うんです」。


人のつながりを表わす「結(ゆい)」の心を歌った新曲「ソランジュ」を今月発売した。

「全国の人々に思いを伝えたい」と、ヤマトグチ(標準語)で歌う。

「民謡は民の歌。普通の人たちの思いをメロディーにしている。

骨董品のように思われがちだけれど、新しいものを取り入れながら発展してきたチャンプルー(混ぜ合わせ)なんです。

自分のペースで、ヨンナー、ヨンナー(ゆっくりゆっくり)、民の思いを歌っていきたい」


                  ・・・・・


沖縄の女優・平良とみさんが書かれた「島唄!」という本に、ウチナーグチの美しい歌が紹介されていました。


                 *****


               (引用ここから)


天の鳴響む(とよむ)大主(うふぬし)
明けもどろの花の
咲き渡り
あれよ 見れよ
清らやよ(ちゅらやよ)
地天鳴響む(とよむ)大主(うふぬし)

(天にどよもす太陽の大主よ
夜明けの光が明けもどろの花となって
咲いて開いていくよ
あれよ、ごらんよ
なんと美しいことよ
天地にどよもす太陽の大主よ)        明けもどろの花


戦世も済まち
弥勒(みるく)世もやがて
嘆くなよ臣下
命(ぬち)ど宝

(争乱の時代も過ぎ去り
平和で豊かな時代も
やがてくるであろう
嘆くでないぞ 皆の衆
命こそが宝であるぞ)            命ど宝



恩納(うんな)松下に
禁止(ちじ)の碑(ふぇ)の立ちゆす
恋忍ぶまでの
禁止(ちじ)や無い(ねい)さめ

恩納番所の松の木の下に
禁止令を書き並べた
掲示板が立てられたそうだ
世に恋路を禁ずる掟など
あっていいものか              恩納(うんな)節


             (引用ここまで)


               *****

とても美しい歌だと思います。。


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雲南に生きる少数民族・・進む「漢化」薄れる伝統

2013-11-07 | その他先住民族


いつの記事か、記載し忘れたのですが、「昔ながらの生活を守るプミ族の老人たち」というキャプションのついた写真が印象的でした。

              ・・・・・

色鮮やかな民族衣装を身にまとった人たちが、輪になって踊る。

8月のある日。世界自然遺産「三江併流」の下流にある蘭坪白族プミ族自治県で、一族の男女の婚約式が開かれていた。

踊りの輪は崩さず、隣り合った人に時折、腰から体当たりする。

「強く押すことで、親愛の情を伝えています」。

式に参加したプミ族の女性は、村に伝わる風習をこう解説した。

雲南省に暮らす少数民族は、国内の半数に迫る26民族。

蘭坪県には、そのうち19民族が集まる。

その一つプミ族は自然を崇拝し、森や池などに神が宿るとする思想を持つ。

神聖な里山を不法伐採などから守るため、村人の代表が昔から見回りを欠かさない。

もっとも、こうした伝統は薄れる一方だ。

同県には、世界有数の埋蔵量がある鉛・亜鉛鉱山があり、80年代後半から本格的な採掘がはじまった。

奥地の集落まで舗装道路が入り、鉱山関連の職場で働く少数民族が急増。

民族衣装を着る機会も減り、漢民族と同じ生活スタイルを受け入れる「漢化」が進む。

村民の多くは、こうした流れを受け入れている。

「村人の生活向上が優先、鉱山開発は欠かせない」と同村の教師は語る。



同省北西部のイ族自治県には、女性が家長になる母系社会を築くモースオ人の集落がある。

夫婦は同居せず、夫が妻のもとに通い、生まれた子は母親の家で育つ。

モースオ人の文化に詳しい同県の男性は、次のように語った。

「民族の伝統は、もう失われる寸前」。町に出て働く若者が増え、同じアパートに暮らす若い夫婦が増えた。

収入が増えて、大家族で支え合う必要が薄れ、家族の人数が減った。

特にここ数年、その勢いが増している。

そこで私は、お年寄りから昔話の聞き取り調査を始めた。記録して後世に残すのが私の役目だ」


             ・・・・・


Wikipedia「中国の少数民族」より

中国の少数民族(ちゅうごくのしょうすうみんぞく)では、中華人民共和国(以下中国)政府が規定した、国民の92%を占める漢民族(漢族)以外の少数民族政策による分類における「少数民族」を記載する。

中国の民族政策と民族識別工作

中国政府は、民族区域自治という少数民族政策を取っている。

国民を、漢民族と55の「少数民族」とに区分し、その民族ごとに集住地域を「区域自治」の領域として指定した。

そこでは、「民族の文字・言語を使用する権利」、「一定の財産の管理権」「一定規模の警察・民兵部隊の組織権」「区域内で通用する単行法令の制定権」などを行う事を認めている。

国民を構成する諸集団が、どの「民族」に帰属するかを法的に確定させる行政手続きを、民族識別工作といい、清代から民国期にかけて伝統的に「五族」とされてきた民族数は、この手続きにより56にまで増加した。

現時点でもまだ、識別されていない民族、あるいは便宜的に他の民族籍に分類されている民族も多数存在する。

ロシア系はオロス族として少数民族と扱われている。

宋代に西方から移住して開封に定着したユダヤ人は、「猶太」と呼ばれ、中華人民共和国建国後の1952年の国慶節には2名の代表を北京に派遣したが、民族識別工作が進展する中で、「少数民族」としての認定をうけることができなかった。

それでも「戸籍簿の民族欄」には「猶太」と記すことが許されていたが、1996年に至り、民族籍として「漢族」または「回族」のいずれかを選択するよう求められた。


中国政府と少数民族の間に関する諸問題

これらの少数民族には、各自の言語、文化を維持する権利が保証されている。

特に各少数民族語を教授言語とする初等中等教育が原則保証されているが、実際は北京語以外による高等教育は認められず、また少数民族語を教授言語としても、各少数民族史の授業を認めないことが同化政策として問題視されることもある。

また、少数民族の優先的な上級学校進学、公務員採用などのアファーマティブ・アクションも採られているとされ、この恩恵に浴するために漢族が少数民族を詐称することが問題になっているという。


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フィリピン少数民族 守る固有文字・・教える親減少、政府援助もなし

2013-09-16 | その他先住民族



これも塩漬け記事ですが、大事な記事だと思い保存していました。

                *****

2011年9月26日
朝日新聞


「フィリピン少数民族 守る固有文字・・教える親減少、政府援助もなし」


「鳥はマンギャンの文字ではどう書きますか?豚は?」

フィリピン中部のミンドロ島。山奥のバイ地区にある学校「マンギャン教育センター」の教室で、生徒達は教師の質問に競って手を上げる。

曲線のない鋭角的な文字だ。



16の子音と3つの母音を組み合わせた48文字が基本。

同島の山岳少数民族マンギャン族が守り続ける民族固有の文字だ。


同国には現在、国語のタガログ語など約170種の言語があると言われる。

フィリピンにしかない固有文字を守るのは、日常生活ではマンギャン語を話すマンギャン族の一部など、2,3の少数民族だけだ。

他の言語は16世紀以降のスペインと米国による植民地統治下で学んだローマ字で表現されている。

電気もない山間部に住むマンギャン族の多くは、竹で作った家に住み、焼畑農業と狩猟採集生活を営む。

服装も腰布に上半身は裸か、Tシャツのような簡単な上着、それに山刀といったシンプルなものだ。


彼らがいつから文字を使い始めたのか、わかっていない。

16世紀にスペイン人が、原始的な生活の中で固有の文字を使う住民の文化に目を見張った、という記録があるだけだ。

「親に聞いても、自分の両親から学んだ、としか知らない。
この文字は長い間、竹の家の中で、親から子へと伝えられてきたのです」と教師は言う。

小刀で竹筒に刻まれてきたこの文字は、日常の会話を記すためではなく、民族独自の7行詩を表現する「アンバハン」と呼ばれる文語を記すために使われていたという。

マンギャン族が住む山中は、植民地時代に、西欧文化を半ば強制された平地からは隔絶されていた。

そのことも、古くからの文字を西欧文化の波から守った。


だが近年、マンギャン族の子供たちも平地の小学校に通う。

少数民族の民族文字の教育は義務教育の範囲外なので、小学校では教えない。

民族文字を教える親達も減っている。


センターの1年生の生徒72人に聞くと、家で民族文字を習ったことがある生徒は10人だけだった。

「家で学んだことがある子とない子では、民族文字の学力が違うので、初めはクラスを分けている」と教師。

政府の補助が受けられない授業で、人手は多くかかり、負担は大きい。

しかもマンギャン文字を教える学校はマンギャン族が自主運営するこのセンターだけだ。


マンギャン族にとっても、いまや最初に覚える文字はローマ字。

日本の中学・高校にあたるセンターに進学して初めて、民族文字を教科書で学ぶことができる。

「残念だが、フィリピンが高度な文化をもっていたことを示すこの貴重な文字は消えつつあります」。

この村に半世紀以上住み、生活と教育の向上に献身してきたオランダ人の元カトリック神父は嘆く。

自らマンギャンの言葉と文字をマスターし、50年近く前に「教育センター」を設立、教科書も作った。

だが母国の友人たちから集めてきた資金は、友人たちの高齢化で得られなくなっている。


子どもたちは学校でタガログ語や公用語の英語を学ばなければならず、とても忙しい。

その上民族文字は山を下りて平地で仕事を得るための役には立たない。

政府からの援助もない中で、子供たちがこの先も学び 続けたいと思うかどうかに、文化の存続がかかっている。

                *****

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朝鮮と古代日本(1)・・済州島をめぐる考察

2013-07-08 | その他先住民族



前回は、本州の「御嶽(みたけ)」信仰を見てみましたが、「御嶽」といえば、沖縄の「御嶽(うたき)」を思い起こします。

そこで、視野を少し広くして、「原始の神社を求めて」という岡谷公二氏の本を読んでみました。


副題は、「日本、琉球、済州島」となっていました。


済州島という島は韓国の島で、本土にはもうなくなってしまったような古い、「堂(たん」と呼ばれる祭祀をする所があるそうです。

著者はそれを見て歩き、「堂(たん)」というものが、沖縄の「御嶽」にとてもよく似ていることを実感します。


筆者は、済州島は日本と距離的にごく近いので、古代から韓国と日本は分かちがたく交流があったに違いないと思いながら、何年もかけて巡り歩きます。


著者は沖縄の御嶽は日本の文化にとってどういう位置づけになるだろうかという問いを根本にもっているのですが、見れば見るほど、考えれば考えるほど、沖縄と日本と朝鮮の、相互の影響と独自性の関係、縄文文化と弥生文化の根源がどれなのか、わからなくなっていきます。


沖縄の「御嶽(うたき)」は、日本の神社の原型に近いと思うのですが、済州島の「堂」は、その「御嶽」と似ているし、どちらが古いのかというと、済州島ではないだろうか?と考えます。


そして、そういう目で見ると、日本の本土の歴史の中には、薄紙をはりつけたように、朝鮮文化が分かちがたく混入していると考えます。

また、辺境の地である琉球のみならず、本土の日本古来の文化だと考えられている部分にある朝鮮文化の総量の多さに絶句します。

日本文化の極みとされる伊勢神宮ですら、朝鮮文化の深い関与が考えられる、と考えます。


では、神社の起源はどこにあるのか?、と筆者は考えます。

日本独自の文化である縄文文化の中に、その原初の形があるのだろうか?、それとも、渡来人が稲作と共にもたらした弥生文化にその起源があるのだろうか?

どちらなのだろうか?、、と。

そして、この問題は自分の手に余る、と余韻を持たせた言い方ですが、言わんとすることはわかるような気がします。



                   *****


                 (引用ここから)


私が済州島の「堂(たん)」に心を引かれたのは、その在り様が、いかにも沖縄の「御嶽」に似ていたからである。

「堂」とはいうものの、建物のあるところは少なく、神木の前に祭壇をつくり、石垣で囲んで置くのが一般的で、しかも祭りをするのは主として女性たちであるという。

「堂(たん)」は決して済州島だけのものではない。

少なくともかつては、神社や御嶽同様、朝鮮半島のどの村にもあったものらしい。

しかし儒教を国教とする李期500年の支配のもとで大きく変質し、韓国本土では急速に姿を消しつつあるようだ。


済州島は12世紀まで、譚羅という独立国だったため、言葉も習俗もいまだに韓国本土とはだいぶ異なっており、その「堂」も、本土の「堂」とは、あるいは別箇に形成されたものかもしれないと思われた。

済州島にも、もちろん儒教は入っているのだが、その教育は男性に限られたため、女性は古来からの坐俗の信仰を持ち続けているとのことだ。

だから村祭りも、表向きは男性の祭官たちによって、儒教的に行われ、そのあと女性たちが「堂」に集まって、堂祭りをするという二重構造になっているところが多いらしい。


済州島は、朝鮮半島から南へ80キロメートルの海上に浮かぶ、韓国最大の、最南端の島である。

平地は少なく、人々は漁業によって生きてきた。

ここは海女の本場で、島の海女たちは日本の対馬、志摩、伊豆、房総にまで出稼ぎに来ている。


私の見た最初の「堂」は、忘れがたい。

それはミカン畑の中の小さな森だった。

沖縄の「御嶽」は、最近鳥居を設けているところがまま見られるが、この「堂」は、入口を示す鳥居に類するものも、垣根すらない。

車一台通れるほどの農道からいきなり森に入る。

森といっても、数本の、幹の黒ずんだ榎の古木が枝を差し交しあっているだけだ。

榎はそれほど高くはそびえず、むしろ横に広がるので、古木ともなれば、数本で小暗い茂みを作りだす。

一本の榎の下には大きな岩があって祭壇をなし、その上には、祭りに使ったものらしい鉄のろうそく立てや、盃や、焼酎の小瓶などが置いてある。

ここは村の中心の「堂」、日本の鎮守の森に相当するところだ。

人家から離れた、鳥の声しか聞こえない静かな森の中に立っていると、ふと霊気の翼に触れるようだ。

空気の中には、みかんのほのかな甘い匂いがする。

榎の下枝が揺れて、神意を伝えてでもいるかのようだ。

ここは沖縄の「御嶽」と同じように、何の仲立ちもなく、素直に神と向かい合うことのできる場所だ。

「御嶽」とこの島の「堂」の間には、たしかに通い合うものがある。


             (引用ここまで)


                *****

実は私はまだ沖縄地方に行ったことがないのです。

行ったことがないんだ、と人に言うと、驚かれます。

あんなにすてきな所に、どうして行かないの?と。

いつか折を見て、訪ねてみたいと思っております。


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