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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

因果と言われるのはつらい・・花田春兆氏「日本障がい者史」(2)

2016-11-23 | 日本の不思議(中世・近世)


引き続き、花田春兆氏の「日本障がい者史」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

              *****


            (引用ここから)


●古代(平安朝時代・貴族の「障がい者」・岩倉の里子・クグツ・因果応報)

都が京都に移って平安時代になると、「障がい者」は歴史の表面から姿を消していきます。

外来の漢字から、日本独自のかな文字が生まれ、柔らかな文字による女流作家の物語が文学の主流になるなど、日本独自の文化が作られた時代・・それは天皇家を軸にして藤原家など限られた貴族の時代でした。

「やさしさ」と「典型」が求められた貴族社会では、「障がい者」などは、〝異形の者″として忌避されたと思われます。

平安朝の大学者であった菅原道真の使いが密かに教えを乞いに訪れたと伝えられる学者は、都の西の嵯峨に住んでいました。

昼も帳を下していたそうで、よくは分かりませんから、結核などの内部障害だったのかもしれませんが、ともかく障害をもつために、宮廷のサロンから離れて一人書物に親しんでいたのでしょう。

また都の東の郊外の清流のほとりには、盲目の琵琶の名人が住んでいて、通る人々の耳を楽しませたとあります。


これらは、貴族の家の人でも「障がい者」となれば表の舞台である宮廷からは遠ざけられて、郊外の別荘で日を送らなければならなくなっていたということではないでしょうか?


またこの貴族社会では、「物忌み」という風習がさかんに重んじられていました。

その起源とも思われるものはすでに「古事記」の中で、神話から歴史へ移った部分で、垂仁天皇の息子だった「ホムチワケノミコト」のくだりにも見られます。

〝ものを言わず″・・つまり聾唖状態だったこの息子を、治療のために旅出たせる時、「この道を行くと目や足の悪い人と会って良くないことになるから」、と遠回りをさせたという例があります。

要するに「穢れ」と称される〝悪いもの″〝悪いこと″とされたものからは身を避け、もし耳目に触れた場合は、「穢れ」が清められるまで留まって、謹慎しなければならないという風習です。

その「物忌み」の風習が、この貴族の社会では、占いと重なり合って病的にまで盛んになったのです。


「穢れ」のランクまで、きちんと決められていたようです。

「障がい者」もランクされていたようです。

こうした風習は一種の圧迫となって、「障がい者」が大手を振って歩けない状態を作ったことが考えられるでしょう。

山野に隠棲して生活するというのには、本人の嗜好以外に、こうしたいわば〝外圧″の作用をしていたものの影響も考えないわけにはいかないのです。


更に、都の北にあたる「岩倉」には、「精神障がい者」や「精神薄弱者」との深いつながりが伝わっています。

天皇家にゆかりの姫君が心の病にあった時、この土地の滝を浴びて治ったということで、滝参りする人が増えました。

しかしすぐに治る人ばかりではありません。

長逗留ともなると費用もかかるので、土地の農家に預けられる子供もありました。

こうしたケースが発展して、貴族の「精薄児」または「精神障がい児」がこの農家と養子縁組をすることが行われるようになります。

貴族にとっては付き添いをつけての滞在費の軽減となり、一方の農家にとっては土地争いが起きた時の有力なバックアップを得るというメリットがあったのです。

またその子供にとっては、町の中でなく大自然の中で育てられることで、解放療法になるメリットがあったわけです。

この一種の里親制度は、この土地に1000年以上もの間、時代を超えて伝わり、つい最近まで現存していた、というのですから驚く他ありません。



貴族の中の「障害児」は、表舞台の宮廷から遠ざかった郊外で、ひっそり守られながら生活を送っていたと考えられますが、そうでない庶民の場合はどうだったでしょうか?

貴族がそれぞれに荘園として土地をもつことによって、公地公民の理想は完成する以前に、崩れ始めていきます。

しかし、崩れる以前から、納めなければならない租税の重さや、土地に縛られたくないという理由で、土地を離れて、いわゆる流民となる人々が出始めます。

当時の都会に流れ込んで定住する人もいれば、流民となってさすらう人も出て、やがて集団化していきます。

こうした集団は盗賊化していったものもあったでしょうが、芸能集団としての性格を備えるものもありました。

「クグツ」と呼ばれる集団がそれですが、「クグツ」という本来の名の起こりである「操り人形使い」ばかりでなく、

コマ回しなどの曲芸師、踊り子、琵琶や笛や太鼓の奏者、道化師などが数十人の一座を組んでいたのです。


その集団の中にはカリエス,メクラ、クル病、小人などの「障がい者」がいたようです。

「障がい者」は〝軽減税″であるとはあっても〝免税″ではないのですから、本人にとっての負担はもとより、周囲の人々の負担を増加させる結果にもなっているといえますから、耐え切れずに土地を離れる「障がい者」も多かったはずです。

そうした人々が頼りにして保護を求めたのが、「クグツ」の群れであったことは容易に考えられましょう。


大和・奈良の時代には外来文化の先端であった仏教が、この時代になると生活の中に、少なくとも貴族の生活の中に浸透してきます。

仏教を広く伝えるための仏教説話の中にも、「障がい者」は姿を見せます。

しかしそれらの仏教説話はもともと仏とか高僧の功徳や法力を誇示するためのものですから、「障がい者」に重点をおいたものとはいえないでしょう。

それよりも仏教が浸透していくにつれて人々の間に浸透していく〝因果応報″の思想が、「障がい者」にとって大きな影響をもってくるのです。


奈良時代のこと、行基という僧侶がいました。

高僧で、道路や橋などの土木事業、施薬などの救済事業も卓抜だったらしく、菩薩とさえ崇められていた人なのですが、

その行基が、説法の席で、〝泣き喚く子(今でいう〝重症児″)″を川へ流させた、というかなりショッキングな話です。

これも「前世の因縁」で取り付いていた悪魔を、その法力によって見破り、親を解放してやった、という功徳話なのですが、こちら(障がい者)側から見れば、決して後味の良いものではありません。

「障がい」を負って生まれてきたことが、〝前世″において悪事をした〝報い″だという、この考えで、周囲から見られることが、どれだけ「障がい者」に負い目を負わせ、生き方を委縮させてきたことでしょう。

自分の知らない〝前世″での責任を言われるのは、どうにも割り切れない感情が残りますし、現世での苦労が来世での幸福を約束してくれるのだから、と慰められたとしても、どうもすっきりしません。

〝悪いこと″をした報いで「障がい者」になっているのだ、という烙印は、どうにも快いものではありません。

             (引用ここまで)

              *****


この僧・行基の説法について、同じく障がい者であられる研究者・河野勝行氏は、「障害者の中世」という本で、次のように述べられています。


           
     
             *****


          (引用ここから)


「障がい児」の生まれる原因を女親の不正な行いに求め、「障がい児」の存在を否定し、合わせてその責任も女性に帰してしまう論法は、9世紀初めに成立をみた「日本霊異記」の説話中にも拾えます。

僧・行基の説法の聴聞に、大きな子を背負った貧しい母親が通ってくる。

その子は十余才に見えたが、歩くことはできなかった。

そして、母の背で物を食らうに暇がなかった。

しかも「もっとくれ」と泣きわめくのである。

行基は母親に「その子を川に捨てよ」と命じる。

しかし女はわが子への慈しみから、その命には従わない。

幾日かそれがくりかえされるが、結局、母親は指示に従う。

すると果せるかな、その子は水に沈みつ浮きつしながら、正体を現す。

「俺は前世でこの女に物を貸しながら返済してもらえなかった主だ」。

「そこでこのような姿となって、むさぼり食うことでとりかえそうとしたのだ。見破られて口惜しい」と。


蛭子(ヒルコ)と異なり、仏教的色彩を濃く持っていますが、女親に責任を帰する点など、論理的構造はまったく同じです。

       (引用ここまで)


         *****


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七福神と障がい者・・花田春兆氏・日本障がい者史(1)

2016-11-19 | 日本の不思議(中世・近世)



脳性麻痺の俳人・花田春兆氏がライフワークとして取り組んでおられる「人物・日本の障がい者史」として書かれた部分を、同書「日本の障がい者・今は昔」より一部ご紹介します。

          
           *****

        (引用ここから)


●古代(神話・伝説の世界・奈良時代)

「ヒルコ」

日本の「障がい者」は、歴史の始まりと共に登場します。

「古事記」という日本に現存する最古の歴史書、この書物のごく初めの部分にイザナギノミコトとイザナミノミコトという男女二人の神が出てきます。

日本版のアダムとイブとでも言えましょうか?

この二神の間に生まれた最初の子供が、3歳頃になっても手足がグニャグニャで、口もきけない。

現代風に言うと、未熟児出産による脳性麻痺の「重度障がい児」でした。


水田の中をヒラヒラ泳いで生き物の血を吸うヒルに似ている、というので、「ヒルコ」と名付けられたその子は、神として成長することもなく、葦の舟に乗せられて、海に流されてしまいます。

両親が新しい国造りの仕事に忙しかったからです。


歴史の表面からは消されてしまった「ヒルコ」ですが、長い歳月の後に、民間信仰の中で「福の神」の「エビス」として復活するのです。

「蛭子」と書いて「エビス」と読ませている例があるのですから、これ以上の証拠はないことになりましょう。



この神様は耳が遠いので、願い事をするときは神社の羽目板をけとばして念を押す、という妙な風習があるのも、言語障害があって返事の確認がしにくい脳性麻痺患者の特徴と関係付けられそうです。


この「エビス」という「福の神」は、釣った鯛をかかえた姿で知られるように、漁業の神として祀られるのです。

流された葦の舟が沈まずに、陸に流れ着いた「ヒルコ」は、その土地土地の人々に支えられ、岸に腰を据えたままできる釣りを覚え、じっと集中ができるところから、やがて潮具合を見ることにも上達して、人々にも教えて重宝がられたのでしょう。

そう解釈すれば、立派なリハビリテーションです。


●七福神



この「エビス」をはじめとする7人の「福の神」を祀る信仰は、江戸時代の中期以降(18世紀後半)にさかんになるのですが、ただ一人の女性である弁財天を除いて、後の6人は皆、「障がい者」ではないか?、などとその頃の庶民の風刺の詩には詠まれています。

「弁天を のぞけば 片輪ばかりなり」   古川柳

そう言われてみれば、「エビス」の脳性麻痺状態をはじめとして、精神薄弱とか水頭症とか骨異常とか、異常な肥満とか、障がい者と見られそうなものばかりなのです。



もっとも、名のある「福の神」ではなくても、福子伝説、福子信仰と呼ばれるものは日本の各地に存在しているようです。

障害を持った子が生まれると、その家は栄えると言われていて、そうした子供は大切に育てられたのだそうです。

これは、障害児が生まれるとその分負担が大きくなるのは当然でしょうが、それだけに親は覚悟を決めて働けば、一家が心を一つにして励むことで、結果として繁栄することになるというのでしょう。

そうした現象を、他の家の人々は、あたかも「その子供が福を持ってきた、と言ったのでもあり、当のその家の人たちも、そう思うことによって気を取り直したことでしょう。


「七福神」は多国籍集団とも言えます。

純粋に日本産なのは「エビス」だけで、「エビス」と相称される「ダイコク」は、これが「大国主命」であるとすれば日本産ですが、「大黒天」が本当だとすれば、明らかにインドの神様なのです。

他の5人の神は、紛れもなくインドと中国の神なのです。



これはわたしの推論なのですが、日本で「障がい者」が歴史の表面に現れてくるのは、大陸からの帰化人とか南蛮人と呼ばれたヨーロッパ人などの渡来によって他民族を意識させられた時代ではなかったかと思われるのです。



話を再び1200年以上も昔に書かれた「古事記」の世界に戻しましょう。

「ヒルコ」以外にも「障がい者」と思われる存在が記述されています。


先ほど「福の神」として名の出た「大国主命」(ダイコク)を助けて国造りに功績のあった「スクナヒコナノミコト」は間違いなく「小人」でした。

父神の手の指からこぼれ落ちたこの神は、イモを舟にし、小鳥(または蛾)の皮を丸剝ぎにしたのをそのまま着て登場します。

いかに小さいか分かるでしょう?

この「スクナヒコナノミコト」を「大国主命」に紹介、橋渡ししたのが「クエビコ」という神です。

この神は、片方の足しかなかったのです。

稲田に飛んできて稲をついばむ雀を追い払うために立てられる一本足の粗末な人形を、日本では「カカシ」と呼んで、田園の風物詩でもありますが、その「カカシ」の祖先ということになりましょうか?

「クエビコ」についての「古事記」の紹介文が、まことに良いのです。


「足は行かねど、天が下のこと ことごとく知れり」、というのです。


神話、伝説から歴史の世界へ移ります。

「古事記」の成立した時代は、大和地方(奈良)を本拠地にした天皇家が勢力範囲を広げて、統一国家をめざしていた時代でした。

「古事記」が書かれたのも、天皇家の正当性を立証し、誇示するのが目的だったのです。

統一国家としての強い中央集権の確立をめざして、公地公民を基盤にした法律を定めました。

この法律の中に、「障がい者」が堂々と明記されているのです。

租税の免額措置です。

一般の人々に土地を分けて耕作させ、収穫の大部分を納めさせるという制度の中で、「障がい者」は納める額を減らすという規定です。

それも「障がい」の種類と軽重の度によって、いくつかのランクに分けている、まことに見事なものです。

公の法律で「障がい者対策」を明示している法律は、第二次世界大戦後の現在に至るまであまり知りませんから、この古代の法律は実に画期的なものだと言えましょう。


大胆な推論をするなら、この二つの時代、つまり大和朝廷の成立期と第二次世界大戦の敗戦後とには、共通するものが大きいのです。

社会基盤の変動によって、「障がい者」が社会の表面に現れざるをえなかったという点です。

天皇家を中心とした大和朝廷による国家統一が進むにつれて、それまでの地方豪族は滅ぼされていきます。

豪族制から貴族制への移行です。

それによって豪族の保護下にあった人々が、庇護を失って、巷に流れ出したことが考えられます。

それと同じに、今般の敗戦下では、直接戦災によるものはもちろん、核家族化の進行による家族主義の崩壊傾向によって、大家族の壁の中に守られていたものがいきなり外に放り出されるような現象もあったのです。


もう一つこの時代は、今で言う「社会事業」に当たるものが盛んだったようです。

悲田院(=老人ホーム)、施薬院(=医療施設)に代表されるのがそれです。

直接「障がい者」のためのものとはうたっていませんが、どちらも対象者の中に多くの「障がい者」が含まれていたことは疑いがないでしょう。

そしてそうした福祉事業のシンボル視されていたのが、藤原家から天皇家に入った光明皇后ということになっています。

          (引用ここまで)

写真は1984年1月号・雑誌「太陽」「特集・新年七福神巡り」より

上から

「各地の土人形の恵比須神」
「浅草寺の節分行事の七福神」
「隅田川七福神発祥の元となった、向島百花園の福禄寿(ふくろくじゅ)神」
「京都・長楽寺の布袋尊」

            *****


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岩倉の狂女 恋せよ ほととぎす(蕪村)・・花田春兆著「岩倉」考

2016-11-15 | 日本の不思議(中世・近世)



脳性麻痺の障がいを持ちながら、同病の方たちと作る「しののめ」という俳句の同人誌の主筆であり、障がい者問題に長く広く関わっておられる花田春兆氏の「日本の障がい者・今は昔」という本をご紹介します。


HP「春兆のページへようこそ」もあります。
http://www5c.biglobe.ne.jp/~shuncho/


           *****

        (引用ここから)


「岩倉の狂女 恋せよ ほととぎす」

芭蕉に次ぐ古典俳句の大家として知られる与謝蕪村の晩年の句に、こんな目をひく作品がある。

思いつめたような激しさで鳴くほととぎすの声に、気違いというのは少々ニュアンスを異にする、もの狂いの女性の恋するひたむきさを想い合わせた、いわば幻想の句なのだ。

京都の「岩倉」は田舎びた土地で、ほととぎすがよく聞けるような場所だったことは、南北朝のころの「徒然草」にも出てくるから、それ以前から知られていたらしい。


でもなぜ、京都の「岩倉」と狂女が結びついたのか?

多くの蕪村についての評釈書も触れていない。


平安時代後期の後三條天皇に、佳子内親王という姫君がいた。

この姫君が、精神がおかしくなられた。

一時的な精神障がい、もしくはノイローゼであったろう。

ところが内親王は「岩倉」へ行って、日ならずして治ってしまう。

大雲寺の「不増不減の泉」と「不動の滝」との、明らかな霊験のおかげということになる。


噂はたちまちに広まって、精神障がいや精神薄弱の人を連れての岩倉参りの列が始まる。

「岩倉参り」と言うよりも、霊験が現れるまで滞在するのだから、「岩倉ごもり」と呼ぶべきかもしれない。

ピーク時には800人に達した、とする記録もあるそうだ。


付近の農家がそうした人々を泊めて、現在の民宿もどきのものができたことも考えられる。

それでも治らずに長引くとなれば、経費節減のために養子縁組のシステムをとるケースも定着していったらしい。

土地をめぐるいざこざが起こったりした時、都の貴族に縁故を持つことは、農家にとってもメリットがあったのである。

そして農作業などは、治療に役立ったことも、もちろんであろう。


後三條天皇は西暦1000年頃、つまり11世紀の頃だから、蕪村とは700年近く隔たっている。

「岩倉の狂女」は、蕪村自身は幻想で句作したかもしれないが、なんと「岩倉」には、その当時も明らかに実在していたはずなのである。

というのは蕪村からさらに100年あまりを経た明治29年、ロシアから訪れた医者が「「京都の岩倉」は精神治療の世界的なメッカとも評すべきだ」との意味のことを発表しているからだ。


終止符が打たれたのは、終戦後の昭和25年。

「精神病者はすべて医者の、つまり医療施設の管理下に置かれるべきだ」とする国の方針が確定し、「岩倉」のシステムが非医学的でいい加減なものだと評価されたからである。

現在行われている精神障がいの治療、もしくはアフターケアとしての外気解放の生活療法、その先端を行っていたとも思われる900年来の伝統と、それを絶ってしまった管理中心の医療行政。

果たしてどちらが新しかったのだろうか?


           (引用ここまで)


            *****


この本は、非常に興味深く読みました。

京都の北にあるという「岩倉」という農村の名は、はじめて聞きました。

そこに1000年近くも、「精神障がい」の方々が普通の村人と共に生活する場所があった、ということに驚きました。

1000年というのは、長い長い時間です。

はたしてどんな日々だったのでしょうか?

また、この「京都の岩倉」では、「精神障がい」の方と「知的障がい」の方が混在して、村の方々と共に、村の家々で生活していたということだと思われます。

今まで連続してご紹介してきた記事は「知的障がい」の方がたのことで、この話は「精神障がい」の方の話が新たに加わっています。

二つの疾患は別のものだと思います。

さらには「身体障がい」もまた、全然別の疾患だと思います。

そのことも考えながら、寛容だった日本の農村の歴史に、思いをはせたいと思いました。




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シラという言葉と、日本・・北陸の白山信仰(4)

2015-09-20 | 日本の不思議(中世・近世)


引き続き、白山信仰を研究しておられる前田速夫氏の「白の民俗学」のご紹介をさせていただきます。

                *****

              (引用ここから)


「傀儡と白丁(クグツとはくちょう)」

朝鮮半島には、かつて「白丁」と呼ばれた差別された人々がいた。

李朝時代の朝鮮では、滅亡時に高麗から流れこんだ放浪する被差別民のことをいい、柳器をつくり、狩猟に従事する。

獣のに関わらず、歌舞、遊芸、占い、祈祷を業とする集団々を「才人白丁」と呼んだ。

「才人白丁」は、我が国の傀儡にそっくりである。

それゆえ傀儡、サンカは有史以前に日本に渡って来た白丁族であろうとの説がある。

また、西洋ジプシーとの類似を指摘する人もいる。


対して、柳田国男、折口信夫たちは、こうした外来民族起源説には反対の立場をとって、もともとは、巫女がその起こりであるとする。

どちらが正しいかは、「細男(サイノオ)舞」や「傀儡(クグツ)舞」の発生にかかわる安曇族の
「磯良(シラ)舞」に、渡来人がどの程度関わっていたかがカギを握る。

海中から醜い姿を現した踊り手を、朝鮮の「白丁族」の象徴とみなせば、このとき、我が国の安曇族に「白丁」の風習が伝わって、それを記念したのが「磯良(シラ)舞」だったことになる。


この時代、日本列島はすでに、大和民族が形成されていたことは確かだろう。

したがって、渡来した「白丁族」が一部まぎれこむことはあったにしても、傀儡は民族としては日本人である。

ただ、彼らの生業や保持した信仰と芸能の質は、朝鮮の「白丁族」の影響を受けて、それまでと一変した可能性は大いに考えられる。

    
          (引用ここまで)

            *****


同書はその後、「白」(特にその音)にまつわる世界各地の象徴的な意味合いの研究に入ります。

次にご紹介するには、エスキモー(イヌイット)の世界の「白」の意味合いです。

            *****

          (引用ここから)



「SIR」の本源

次にあげるのは、エスキモーシャーマンの語る言葉である。

        ・・・・・

「シラ」とわたしたちが呼んでいる力が存在し、それは簡単な言葉では説明できません。

世界、天候、そして地上のあらゆる生命を支える大いなる精霊。

それはあまりにも力強いものなので、人類に共通の言葉で通じることがなく、嵐、雪、雨、海の猛威などによってのみ、それと知られるものです。

人間の恐れる、自然のあらゆる力です。

しかしこの精霊は、コミュニケーションのもう一つの道を持っています。

陽の力、海の凪、自分ではなにも知らないまま無心に遊ぶ子どもなどです。

子ども達のほとんどは、女性のような、柔らかく、優しい声を聞いています。

声は子ども達のところに神秘的なしかたでやってきますが、とても優しげなので、子ども達は恐れることなく、何らかの危険の徴候があることだけを聞きます。

だれ一人「シラ」を見た者はありません。

その居所は神秘です。

その中で聖霊は、私たちの間にいると同時に、言語を絶するほどの遠いかなたにもいるのです。


          ・・・・・


         (引用ここまで)

          
          *****

読後感としては、白山信仰については、よりいっそうわからなくなったような感じがしました。

著者は、非常に広い視野で、広い関心を持って、「白」のなぞを解こうとしています。

関連著書をもう少し読まないと、ついていけないと思っています。


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白布で顔をおおって舞う踊りの起源・・北陸の白山信仰(3)

2015-09-18 | 日本の不思議(中世・近世)


白山信仰について研究しておられる前田速夫氏の「白の民俗学へ」のご紹介を続けさせていただきます。

               *****

             (引用ここから)


折口信夫の一文に触発されて、門下の西角井正慶は、実地に古表八幡社を調査して、「才の男抄」を著し、傀儡人形の写真をそえて詳細な報告をした。

八幡社のすぐ近くには、現在も「傀儡回し」が住んでおり、県指定文化財の人形芝居が今に伝えられている。

宇佐八幡のすぐ西には、「傀儡の化粧水」という名の井戸が復元され、隣接して、はやとの凶首塚と百太夫殿(百体神社)がある。

境内に入る前に禊をし、また傀儡の徒が集結した場所だった可能性が高い。

滝川清次郎は、この磯良舞=傀儡舞は、安曇族が外来族から伝習したものだ、として次のように論じた。


・・・・・


人の舞う「細男(さいのお)の舞」は「栄花物語」の時代(1025)以前には遡れない。

「細男」とあるのは、「細い男」なる当て字を訓読したものであって無論誤りである。

細男は一般に「さいのお」と読ませている。

これを「才男」として「さいのお」と読ませているものもあれば、「青農」と書いている場合もある。

「せいのう」は「さいのふ」の音便であって、「才夫」と書くが正しかろうと思う。

「才夫」は「「才人白丁」の男」の意味であり、「細男の舞」とはすなわち「才人白丁の舞」であって、「傀儡の舞」というに等しい。

なんとなれば彼らは、朝鮮の漂白優良民である「才人白丁」の日本に渡来した者、すなわち「傀儡子族」であるからである。


「細男の舞」は「磯良舞」とも呼ばれるが、磯良は「イソラ」にあらずして、「シラ」である。


これを「芝良舞(しらまい)」と表記したものもある。

「シラ」は「新羅」であって、「磯良舞」すなわち「朝鮮舞」の意である。


               ・・・・・


「傀儡族」が「才人白丁」で、日本に渡来したもの、という説にはただちには同意しかねるものの、「磯良」は「シラ」であるという指摘は、海に潜る「海女」が「白水郎」と漢字表記されることともあいまって、「白山神」の謎と通い合う。

細川氏は、「細男の舞」の舞人が白布で顔を覆っているのは「住吉神社記」が記す、「すなわち素旗をあげて自ら服ひぬ、

素組もて面獏す」の「面獏」から来ており、この屈辱的な「細男の舞」を「才人白丁」である傀儡族に代わって安曇族が行うようになったのは、彼らもまた大和朝廷によって征服された被征服民族だったからであろう、と付言しているのは、我が国の芸能の起源を海人族のわざおぎに求めた折口説と一致する。


磯良を「シラ」であろうと述べたのは栗田寛氏が最初である。

「たれしの神にてさむらふ 名のらせさむらへ 聞きまほしくさむらふ」

との問いかけに対する返答に、

「あれは御心筑紫の志賀の島にます神、名は安曇の芝良にてさむらふ」と答えている。

「芝良(シバラ)」と表記されていることから、「シラ」と読むべきである、と書いている。

この語は「蛇や蟹が殻を脱ぐ意味に用いられている」、と解説したのはまことに卓見であった。


「磯良神」=「シラ神」説は、西田長男にも支持されている。

「それが「オシラ神」なる傀儡子の起源の一つをなすものであったと考えても、誤りはないのではあるまいか」と述べている。


「百神は白神か?」

傀儡といえば、大江○房の「傀儡子記」は、貴重な示唆と情報を与えてくれる。


         (引用ここまで)


           ・・・・・


Wikipedia「傀儡子」より

傀儡子集団は定まった家を持たず、テント生活をしながら水草を追って流れ歩き、北狄(蒙古人)の生活によく似ているとし、

皆弓や馬ができて狩猟をし、2本の剣をお手玉にしたり七つの玉投げなどの芸、「魚竜蔓延(魚龍曼延)の戯」といった変幻の戯芸、木の人形を舞わす芸などを行っていたとある。

魚龍曼延とは噴水芸のひとつで、舞台上に突然水が噴き上がり、その中を魚や竜などの面をつけた者が踊り回って観客を驚かせる出し物である。

また、傀儡女に関しては、細く描いた眉、悲しんで泣いた顔に見える化粧、足が弱く歩きにくいふりをするために腰を曲げての歩行、虫歯が痛いような顔での作り笑い、朱と白粉の厚化粧などの様相で、

歌を歌い淫楽をして男を誘うが、親や夫らが気にすることはなく、客から大金を得て、高価な装身具を持ち、労働もせず、支配も受けず安楽に暮らしている。


           ・・・・・

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海の神と、クグツ・・北陸の白山信仰(2)

2015-09-06 | 日本の不思議(中世・近世)


すっかり間が空いてしまいましたが、白山信仰について考察している、前田速夫氏の「白の民俗学へ」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

                   *****


               (引用ここから)

「白い神々の系譜」

磯良神と傀儡舞(イソラ/シラ神とクグツ舞)

磯良は「イソラ」、ないし「シラ」と読み、古代海人族の安曇氏が祀った神だ。

彼らの本拠地であった博多湾上の志賀島には、「磯良大明神」を祀る志賀海神社があり、その神社の祭りには「細男(サイノオ)の舞」が奉納される。


この「細男の舞」の起源が、一風変わっている。

「八幡宮同君」や「太平記」が伝えるところでは、こうだ。

神功皇后の三韓征服に際して、竹内宿祢は、

「竜宮に汐干珠、汐満珠という、潮の干満を自在にする宝珠がある。これを得れば刀に血を塗らずとも服属するだろう」と奏上した。

さて、「その竜宮に誰を遣わすか?」という段になって、住吉の大神が次のように言った。

「海中に久しく住んで、海の案内をする安曇磯良(あずみのいそら)という者がいる。ただし、カキ殻が取り付いて醜い男であることを恥じて、召しても応じないであろうから、彼の好きな舞を舞っておびき寄せることにしよう」

するとはたして亀の背に乗って現れて、顔に白い覆いをして、自らも舞ったので、「細男の舞」、す
なわち「磯良の舞」と呼んだというのである。

この 「細男の舞」は、志賀海神社の祭りの他に、全国の八幡系の神社を中心に、春日若宮のおん祭や、祇園御霊会で演じられ、宮中にも取り入れられて、神楽の元祖となった。


そしてこれと関連するのが、豊前の古表八幡社が今に伝える、傀儡(クグツ)による舞である。


折口信夫は次のように言う。

神楽の最初に「阿知女阿知女(アチメアチメ)おおお(オオオ)」と述べる「阿知女作法」というのは、「太平記」が伝える名高い伝説でも想像できるように、「阿知女阿知女」は磯良を呼ぶ声で、
「おおお」は磯良の返答である。

あるいは人長と「才の男(サイノオ)」といったような対立で演じたものであったかもしれない。

とにかく磯良の出現によってこの儀式は始まった、という元の記憶が留められているのである。

「才の男」は海系統の者、「大人」(おおびと)は山系統の者と見てよいであろう。

でもこの二つは、元はやはり一つ考えのものでなければならない。

この「才の男」の末が二つに分かれて、一つは傀儡子の手に移って、「手くぐつ」から次第次第に「木偶(でく)人形」となった。

「手くぐつ人形」の略語が、「木偶人形」となったのであろう。

もう一つの流れは、早く「大人」と融合して、大社大社の「細男」・「青農」となった。


             (引用ここまで)


               *****


これはちょっと難解で、これから勉強したいと思います。

白山本宮神社史編纂委員会編「図説・白山信仰」という本に、直接関係はないと思いますが、ここに書かれている話に近いのではないかと思われる写真がありましたので、ご紹介させていただきます。

今回は写真だけです。

「新潟県糸魚川市能生の白山神社で行われる舞楽・稚児舞」という写真があり、実に怪異な印象を受けました。

舞いの舞台は、神社内にある池の中に仮設され、橋がかけられている「水舞台形式」というものだそうで、これは海の中から現れる「磯良(いそら)」に似ているのではないかと考えました。


              *****


            (引用ここから)






「陵王」という主人公の舞い



画面左下は、「陵王の古面」



「能抜頭(のうばとう)」という役の舞い


            (引用ここまで)


              *****

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wikipedia「阿知女作法」より

阿知女作法(あちめのわざ、あちめわざ、あちめさほう、あじめのさほう)とは、宮中 及び神社等で歌われる神楽歌の一つ。

本来は、神の降臨を喜び、神聖な雰囲気を作るためと思われる一種の呪文。

あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)、お~けー(一度)のフレーズを阿知女作法と呼び、これが2組(本方・末方)に分かれて唱和される。

神楽歌は、庭燎(にわび:夜の準備)、採物(とりもの:神迎え)、前張(さいばり:神祭り)、明星(あかぼし:神送り)の段階に大きく分けられるが、阿知女作法で有名なものは庭燎の後に、また、採物、前張
等でもフレーズを変えて繰り返される。

鎮魂祭の歌(下記)にも使用される。

平安中期には儀礼として完成していた。

延喜末年頃に譜の統一が行われている。


十一月中寅日 鎮魂祭歌

あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)
①あめつちに きゆらかすは さゆらかす かみわかも かみこそは きねきこう きゆらならは

あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)
②いそのかみ ふるやしろのたちもかと ねかふそのこに そのたてまつる

あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)
③さつおらが もたきのまゆみ おくやまにみかりすらしも ゆみのはすみゆ

あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)
④のほります とよひるめかみたまほす もとはかなほこ すゑはきほこ

あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)
⑤みわやまに ありたてるちかさを いまさかへては いつかさかえむ

あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)
⑥わきもこが あなしのやまのやまのもと ひともみるかに みやまかつらせよ

あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)
⑦たまはこに ゆうとりしてて たまちとらせよ みたまかり たまかりまししかみは いまそきませる

あ~ち~め―(一度)、お~お~お―(三度)
⑧みたまみに いまししかみは いまそきませる たまはこもちてさりくるみたま たまかへしすなや

⑨ひと ふた み よ いつ むゆ なな や ここの たりや


意味が判明していないところが多く、漢字を当てたとしても、その漢字が意味と合っているかも判っていない。

歌なので、音はそれほど変遷していないとの仮定で、ひらがな表記とした。


「あちめ」とは、男神と考えられている安曇磯良を指すといわれ、「お~お~お―」とは、安曇磯良が返答している声との説(太平記等)がある。

しかし、後世に当て字したものだろうか、「阿知女」と、「女」の漢字がついており、詳細は不明である。

また、「うずめ」の転訛との説もある(愚案抄)。


①「ゆらかす(振らかす)」の言葉が使われており、鎮魂祭にあたり、天皇の衣を動揺させることを歌った可能性がある。

「きね」とは巫女である可能性もあるとされる。

②「いそのかみ ふるやしろ」とは石上神宮を指していると考えられる。

③「さつお」とは猟夫と漢字で当て、猟師のこととされる。

④「とよひるめ」とは天照大神であるとされる。

「ほこ」は矛であるとされるが、意味不明。

⑤「みわやま」は三輪山である。

抄「ちかさ」は茅草の転訛とする説もある。

⑥「みやまかづら」とは、山蔓などで作った鬘という説がある。

⑦「たまはこ」とは、魂の鎮まる函。実際には葛函という。

⑧「たまかへしすなや」は、「ゆっくりお留め申すがよい」と訳す説もある。

⑨数を1から10まで数えており、十種神宝の呪法として有名な「ひふみの祓詞」と関係があると考えられる。

                  ・・・
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北陸の白山信仰(1)・・菊理(きくり)姫とは、だれなのか?

2015-08-05 | 日本の不思議(中世・近世)


荒俣宏氏の、「サルタヒコは白く輝く朝鮮系の神である」という話を読んで、白い山、白山の信仰について考えてしまいました。

白山は、なぜ「白い山」という名前なのだろうか?

そう思って、前田速夫氏の「白の民俗学へ」を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                    *****


                 (引用ここから)


柳田国男は、「白は本来忌々しき色であった。日本では神祭の衣か喪の服以外には、以前はこれを身に着けることはなかったのである」と述べている。

白は日常の俗を超絶した聖なる色であると同時に、畏怖の念を呼び覚ます怖い色、タブーの色でもあったのだ。

もう一つは、お隣りの朝鮮半島で人々が白衣を好み、李器の白磁など、白色が目立つことについて、韓国の民俗学者は、「それはむしろ天空信仰に支えられた明るさの色であって、太陽の白光に由来する」、と述べていることが注目される。

「白い」という韓国語は、「日」および「太陽の明るい属性」を意味すると考えられるとし、日本語の「シロ」、「シラ」とも同根である、と述べている。


では、白山信仰は、日本の神話の中では、どのように位置づけられるのか?

「日本書紀・神代の巻」には、次のようにある。

         ・・・

その時に 菊理姫神 また白す(もうす)ことあり

         ・・・

白山の主神に据えられた菊理姫が古文献に登場するただ一つの箇所である。

この後、

         ・・・

イザナギ尊聞きしめて ほめたまふ
すなわち散去(あらけ)ぬ

         ・・・

と続くのだが、この時菊理姫が何と言ったのか、書かれていない。


イザナギが、黄泉の国に愛しいイザナミを訪ね、その腐乱した死体に恐怖して、この世との境の黄泉平坂まで逃げ帰ってきて、イザナミと問答をした直後のことだ。

したがって、これは難問中の難問なのだが、折口信夫の解釈はこうだ。

               ・・・

続く場面がイザナギの禊であることからして、菊理姫は、蘇るために禊を勧めたのであろう。

すなわち、「菊理姫」は「ククリ(潜り)」を意味しており、水中に入って禊をすることであろう。

しれこと(白事)とは、死のけがれを祓うのに、巫女の呪言が必要とされたのである。

               ・・・

こうしてみると、白山信仰は死をめぐる宗教の印象が濃厚で、とりわけ死から再生することに深く関わっていることが看守される。


古代漢字学者・白川静によると、

「白」は古代中国では「どくろの形、その白骨化したもの、つまりしゃれこうべが字源で、葬式を「白事」と称した」という。


白山信仰の歴史は、公式には養老元年(717)、「泰澄開山」をもって始まるが、その発生は有史以前に遡るであろう。

泰澄はむしろ「中興の祖」と言うべき存在で、原始からあった土着の信仰に、仏教、道教、陰陽道など、大陸や朝鮮半島から新たに渡来した信仰を加えて、当時流行の神仏習合思想を注入するとともに、朝廷が望む国家鎮護の役割も加え、中央でも通用する宗教としての体裁を整えたのであったろう。


白山神が都に知れ渡ったのは、中央政府の神祇体制に組み込まれたからだが、その後律令制度が崩れた後もさらに勢力を伸ばした点には、比叡山の果たした役割が大きい。

比叡山を開いた最澄は、近江志賀郡の出身で、父三津首百枝は泰澄の父と同様、やはり渡来人の家系であった。

唐から帰朝した最澄が天台宗を開いたのは、806年。

平安時代末までには、白山と「本末関係」を結んだ。

泰澄の「澄」が、最澄の「澄」と同じであることも、その関係を物語っている。

以後、白山信仰は急激に密教化し、修験道色も濃厚になる。

仕上げとしては858年、比叡山の地主神である麓の日吉山王神社に「客人神」として白山社が祀られたことが挙げられる。


「客人」とはこの場合、「眷属」として外部から招かれたものの意味だが、ここから直ちに想起されるのは、折口信夫がこれを「まれびと」と訓読して、彼の古代研究の中核に据えたことである。

すなわち、折口のいう「客人」とは、時を定めて異郷(他界)から来訪する神の意味なので、白山の女神がやって来たのは他界からである。



話は飛ぶが、江戸吉原の遊郭で「白山神」を祀っていたことは、下の一行から知られる。

青桜にて「客人権現」の宮を信ずるのも おかし
山王一社の「客人権現」は 女なり 
青桜に 女客は入らぬものなり


筆者は、蜀山人こと太田南畝。

傀儡が祀る「百神」や、遊女が祈る「百太夫」が「白山神」に他ならないことを証する貴重な文言で、「客人神」の意味はこれほどに広いのである。

「白山神」の「渡来の神」としての性格も、「客人神」に含めていいだろう。




泰澄をはじめ、白山信仰と縁のある僧侶が秦氏の家系で、白山の主神である菊理姫の顕現の姿を「天衣瓔珞をもって身を飾る」と異国風なことを強調したのは、今来の神としての正体が、当時は公然たる事実だったからではあるまいか。

のちの「白山曼荼羅図」を見ても、忠実に唐風に描かれているし、比叡山の別院である三井寺が、「新羅明神」を鎮守にして、白山権現を祀っていたのは重要である。

地理上の位置ゆえに、古代の北陸は、朝鮮からの表玄関だった。

高句麗が、唐・新羅の連合軍によって滅亡したのは668年。

百済の陥落は、その前の660年である。

すぐ隣りの日本列島に、大量の亡命者が流れ込んだであろうことは、近年、南ベトナムが陥落した折、多くのボートピープルが黒山をなして我が国に流れ込んだことを考えれば、いっこうに不思議ではない。

それ以前からも、何波にも亘って、とうとうたる移住があったことだろう。

一説によると、紀元前3,4世紀から6世紀までの約1000年間に、少なくとも数十万人、最大150万の人々が朝鮮半島や中国大陸から流入したと言われている。

能登、越前、若狭など、上陸地点に近い地域はもとより、大和への経路である近江一帯に、点々と渡来人の里が連なり、そこでは多く十一面観音が祀られている。

菊理姫の「きくり」は「高句麗」がなまったものという説があるくらいだ。


おまけに、白山麓の白峰では「ギラ言葉」といって、「わたし」のことを「ギラ」と呼ぶなど、朝鮮語のなまりが顕著で、郷土芸能のかんこ踊りを見ても、打ち鳴らす「かっこ」やリズムは朝鮮のものだ。

踊りのときに白いハンカチを振るのは、婦人が長い袖を振る古代の風習を今に伝えている。

白峰では、母や妻、近所のおかみさんを呼ぶのに、「イネ」という。

それは韓国語の「エビネ」の音に近い。

泰澄の母の名が「伊野」であったのとも通じて、見逃せない。



                 (引用ここまで)

写真(下)は「白山三社権現画像(中央が白山ひめ)」(同書より)


                   *****


とても興味深い話が次々と書かれていて、驚嘆してしまいました。

著者・前田氏は雑誌「新潮」の編集長を定年退職後、民俗学の探究に取り組んでおられる方だそうです。

白山、一度訪ねてみたいものです。


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焼畑文化を考える・・マタギの世界(3)

2014-07-05 | 日本の不思議(中世・近世)


引き続き、佐々木高明氏の「山の神と日本人」という本のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


         *****


       (引用ここから)


「東北日本の畑神信仰の基層にあるもの」


日本列島における「山の神」の信仰は単一・同質のものではない。

東北日本の「山の神」信仰には、狩猟民や山稼ぎ人などの「山民」の信仰する「山の神」信仰の色が濃く、稲作農民の信仰する「山の神=田の神」の影は色薄いと感じられる。

私は、会津山脈から北上山地に見られる「良い種を持って天から降りて来る畑神の去来信仰」の中に、“稲作以前の神の姿”を強く感じるのである。


「常陸国風土記」に描かれている、稲作民が土着の強者“夜刀神”を山地に祭り上げる説話は、水田稲作民が東北日本に進出した際の、土着の非・稲作民との接触・交渉の典型例の一つと考えることができる。


だが西日本から日本列島の東北部へ、稲作文化をもった人々が進出した際、そこで接触した東北日本の土着文化は、必ずしも採取狩猟のみに依存する文化ではなかった。

既に縄文時代の東北日本における、幾種類かの作物遺体が確認されている。

東北日本において、ある種の農耕が営まれていた可能性を否定するわけにはいかない。

しかもその農耕は西日本の照葉樹林型の農耕とは系統と特色を異にする“もう一つの農耕”であった可能性が少なくないのである。

この「もう一つの農耕」の存在を推測させる根拠は、日本列島の在来作物、特に東日本を中心とした地域の在来作物の中には、南方には系統がつながらず、むしろ北方の東北アジアやシベリアにその系統がつながるような作物がいくつも存在することである。

しかもそれらの作物の伝来は、いずれもかなり古いと想定されている。


アワやキビは、従来は中国・華北の黄土台地がその起源地とされていた。

しかし再調査の結果、その起源地は中央アジアからアフガニスタンを経て、北西インドに至る地域であることが判明した。

アワやキビはそこから、シベリア南部経由の北回りの道とインド経由の南回りの道の両方のルートに分かれて東アジアに伝わったと考えられている。


たとえばアイヌの人たちが古くから栽培しているキビは、本州のものと比べて、極めて早成で草丈が低く色が紫である。

これは中央アジアやヨーロッパのキビに見られる特徴と共通するもので、この種のキビは北方ルートで伝播した可能性が強いという。

大麦、蕪をはじめ、蕎麦の栽培、豚の飼育なども北方の特徴である。



「続縄文時代」の後期(4~6世紀)には・式土器が北海道から東北地方へ南下し、ほぼ現在の秋田・盛岡・仙台を結ぶ線以北の、東北地方の北部に広がるようになる。

また、「ペツ(あるいはベツ、大きな川)」や「ナイ(小さい川)」などに代表されるアイヌ語地名もほぼ同様の分布を示し、東北地方の北部一帯を覆っている。

おそらく現在のアイヌ語に近い言葉を話す集団が・式土器を携えて北海道から南下し、かなりの期間、東北地方の北部一体に定着したと考えて誤りないと私は思っている

他方、律令国家による9世紀初めごろまでの城柵建設の北限も、この文化圏の南限にほぼ一致している。

この線以北は、8世紀まではもちろん、それ以後もかなり長く蝦夷の文化地域であり、北海道南部と連続する同一の文化圏を作っていたと見て差し支えないと考えられる。

北上山地は、まさにこの蝦夷地域の中核地帯であり、そこに分布する焼畑の特異な特色が本州の他の焼畑と異なっている理由は、北方系の畑作農耕がかつて北海道南部やこの地域に展開し、その伝統が今日まで残ったものと考えると、その特色の成立が理解できる。

北方系の雑穀類は、サハリン経由の他に、沿海州あるいは朝鮮半島北部などから日本海を横断するルートを経て、続縄文時代ないしその前後の時代に東北日本の北部などに伝来した可能性も少なくないと考えられる。

727年、最初の渤海国使が山形県の出羽に漂着したのをはじめ、8世紀から9世紀初頭頃にかけて、渤海使の多くが東北日本北部に到着している。

こうした事実から見て、この日本海横断の伝播路によって、北方系の畑作農耕が早い時期に北海道南部や東北北部に伝来した可能性も、決して小さくはないと考える。


          (引用ここまで)


            *****


この、きわめて学術的な文章を読んで、わたしは、日本における「焼畑」文化ということを、強く意識しました。

わたしの好きな昼ごはんは、おむすびです。

白いお米を塩味でほどよく握ったおむすびほど、おいしいものはないのではないかと思うほどです。

このおむすびは、稲作文化になりますが、それ以前、また、それ以外に、焼畑文化が日本にも色濃く存在したということは、とても衝撃的でした。

今、若い人たちに流行りの「カフェご飯」なるものも、国籍不明、東西混交の食べ物ですが、焼畑文化についても、もう少し勉強しなければいけないと、思いました。


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神と仏を重ね合わせる・・中世・比叡山の天台宗と、神仏習合(4)

2014-06-10 | 日本の不思議(中世・近世)


引き続き、黒田龍二氏の「中世日吉社における神仏関係とその背景」という講演をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****

         (引用ここから)


<「下殿」の形成>

最初に述べたように、「山王宮曼荼羅」を見ると、本地垂迹説の関係が極めて明瞭に示されている。

そして(しかし?)江戸時代には、本殿の床上内陣に神像が祀られ、床下の下殿には本地仏が祀られていた。


それでは下殿が床下に作られた理由は、本地垂迹説に基づいて仏像を祀ることだったのかというと、わたしはそうは考えていない。


本地垂迹説は仏を上位に置く考え方で、「山王宮曼荼羅」でも仏が上に描いてある。

またそのような単純な上下の関係以外にも、先に見たように下殿には下層民を中心とするいささか猥雑な世界が広がっていた。

したがってはじめから本地垂迹説に基づいて下殿を設け、本地仏を祀るということではなかっただろうと思う。


一般的な事例を見ても、本地仏は理念上のものである場合、あるいは神社の近辺に神宮寺や本地堂を作って祀る場合、または仏像を神体とする場合が多い。

本殿床下に本地仏を祀るという事例は「日吉社」以外には知られていないのである。




もう一つの考え方としては、「反本地垂迹説」がある。

これは神主仏従、神本・仏従と表現されるように、本地垂迹説を逆転させたものであるから、神が上で仏が下というのはちょうどよいことにはなる。

しかし本説の形成期は鎌倉時代後期から南北朝期で、大成されたのは室町時代とされる。

一方下殿は「平家物語」の説話的題材であるから、すでに「平家物語」の形成期以前に存在したこととなり、下殿ができたのは鎌倉時代前期以前、一説には平安時代、11世紀に遡るという見方もある。


したがって、下殿の形成に関しては次のように整理できる。

1・祭礼前の宮籠りのような祭祀上の用途があった。

2・「日吉社」が巨大化し、境内が下層民も含む民衆にまで開放的になった時代に、下層民のたまり場となり、また同時に民衆にとっては究極の祈願の場と認識された。

3・以上の時期に下殿がどれほど建築的に整備されていたかに関しては疑問があり、おそらく室町時代に下殿は整備されて本地仏が祀られるようになった。


このように整理すると、神仏習合の好例のように見える「日吉社」本殿の建築構造は、相当に複合的な契機で形成されたものであると言える。

神の内に霊威を見、仏の内に慈悲を見、しいて言えば、神と仏を重ねて見ていたであろうことが重要である。

特に下殿に集う人々の意識の中には、神と仏を区別しようという意図も、一緒にしようという意図もなかったのであろう。


中世の「日吉社」は基本的に延暦寺の一部である。

だから「日吉社」の最終的な責任者は天台坐主ということになる。

それはよいとしても、では日吉社自体の責任者は誰なのか?、

そして一体どこまでが日吉社なのか?、、このあたりが難しい問題である。


前近代においては、神事と仏事は微妙に入り混じっていることが多く、その区別は当時の人々の関心事ではない。

そのため、日吉社を神社と寺に分けるとか、日吉社で行われる行事を神事、仏事にわけることはそうとう困難であると同時に、どれほどの意味があるのかがわからなくなるのである。


               (引用ここまで)


                  *****

地下のいうものの持つ、秘密めいた妖しさを感じます。

天台宗と神道の関連は、なかなか奥が深いようです。


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床下の井戸・・中世・比叡山の天台宗と、神仏習合(3)

2014-06-07 | 日本の不思議(中世・近世)


引き続き、黒田龍二氏の「中世日吉社における神仏関係とその背景」という講演をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


            (引用ここから)


<床下の祭祀>

本殿床下に特殊な意義がある事例としては、他に次のようなものがある。


全国にたくさんあるお稲荷さんの社では、床下を囲う壁の背面側に穴が開けられている場合がある。

お稲荷さんは狐を眷属神、使いの神としていて、狐が出入りするための抜け穴が床下に開けてある。

床下から神の使い、あるいは神自体かもしれないが狐が出入りするという考えが一般的にある。


これに関連した興味深い例は、奈良県十津川村の「玉置神社」である。

ここの「三柱神社」という境内社は、「三狐神」という稲荷神を祀っている。

その本殿の床下には部屋がこしらえてあって、そこで狐落としをやっていたという。

昔は精神病が動物霊の憑依によるものと解釈される場合があり、治すためには憑依した霊を人体から離すこと、たとえば霊が狐とされた場合には狐落としという民間療法が有効とされた。

そのための部屋が本殿床下に作られているのである。

二畳ほどの、大人は立てないくらいのせまい部屋で、外から施錠すると真っ暗になり、出ることができない。

そこに病人を閉じ込めておくと、ばたばたと暴れたあげくに静かになり、狐は落ちたという。

床下に大きな霊力があるということも考えられる。




「山王七社」のうちの十禅師社(現「樹下神社」本殿の床には、井戸がある。

「十禅師」の神が井戸の神であるとか水の神であるという伝承はないし、この井戸のことは記録に出てこないので、一体どういう由緒があるのかまったくわからない。

しかし本殿の下に井戸があるということ自体が普通のことではないから、この井戸はなんらかの霊力をもつのであろうと推測される。


池の上に本殿を建てたという伝承は、京都の「八坂神社」にもある。

「八坂神社」は疫病の神であるから、水と全く関連がないわけではない。

また「大宰府天満宮」は、菅原道真のお墓の上に立っていると言われている。


伊勢神宮では「本殿」のことを「正殿」という。

「正殿」の床下の中心には「心の御柱」という杭のような短い柱があり、古代から少なくとも江戸時代までは、その前で伊勢神宮の最も重要な祭祀として、由貴大御饌(ゆきのおおおみ)という食事を奉る祭儀があった。

祭儀は「大物忌(おおものいみ)」という成人前の女子が中心になって行われた。


神事の一環として床下に入る、あるいは籠ることもある。

江戸時代の記録によると、「日吉社」の「山王祭」では、祭りの前に大宮の下殿に宮仕という職の者が全員集まり、二十一社に神酒を供えた。

このことの意義を見極めるには至っていないが、あるいは下殿の本質に関わる問題を含んでいると見られる。

というのは、この当時大宮下殿には大宮の本地仏である釈迦如来が祀られていたが、この祭儀は二十一社に対するものであって、大宮に対するものでも釈迦如来に対するものでもないからである。


神社の祭儀の直前に関係者が神社に籠って精進潔斎する行為も宮籠りというが、これはそのような宮籠りと見るべきものであろう。


このような宮籠りが床下で行われた事例としては、兵庫県出石郡但東町の「日出神社」がある。

ここでは祭りの宵宮に、子ども達が本殿の床下でたき火を焚いてお籠りをしたということで、本殿床下が真っ黒にすすけているという報告がある。


            (引用ここまで)

   
             *****

興味深い事例がたくさん挙げてあり、ドキドキしました。

なぜ、神社の床下に、大きな井戸があるのでしょう?
これ以上不気味なものって、そうは思いつきません。

子どもの頃、友達といっしょにつくった隠れ家を思い出しました。
井戸は作れなかったので、バケツで水を汲んできて、ドロ団子など作ったことを思い出しました。

お稲荷さんの由来も心惹かれるし、心御柱もふしぎだし、興味が尽きません。


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地下の祭壇・・中世・比叡山の天台宗と、神社(2)

2014-06-05 | 日本の不思議(中世・近世)



「神と仏のいる風景・社寺絵図を読み解く」という本を読んでみました。

これは国立歴史民俗博物館が主催したフォーラムをまとめたものです。

その中から引き続き、黒田龍二氏の「中世日吉社における神仏関係とその背景」という講演をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


            (引用ここから)


さて、「日吉社」の本殿の使い方は他に類を見ない特殊なもので、床下に部屋がある。

床下の部屋は「下殿」と呼ばれていて、建築的にしっかりと作られている。

江戸時代には床上の「内陣」には神をまつり、「下殿」には本地仏をまつっていたことがわかっている。

「内陣」に神をまつることは、中世そして古代に遡るであろうと思われるが、中世における「下殿」の状況は漠然としかわからない。



江戸時代の神仏の祀り方は、最初に言及した「神仏習合」の考え方、あるいはその次に紹介した「本地垂迹説」の考え方で理解でき得るものだった。

中世の状況はどのようなものだったのであろうか?


「床下参籠」

「北野社参詣曼荼羅」の一場面を紹介する。


「北野社」は京都にある「北野天満宮」のことで、この絵はその境内を描いたものである。

制作年代にはいくつかの説があるが、私は室町時代のものと思っている。

この場面は境内社の一つを描いたもので、床下が吹きさらしの小さな本殿で、「松童八幡・弥陀」と書いてある。

これはその社殿に祀られる神を現したもので、八幡は「宇佐八幡」とか「石清水八幡」とかの八幡であり、「松童」は八幡神の眷属神である高良明神に仕える暴れ者の神である

さて、問題はその本殿の床下にきれいな女性がうずくまっていることである。

大変狭い場所に不自由な姿勢でかがみこんでいるから、単に参拝とか休憩とか、そういう我々に理解可能な理由で窮屈な姿勢をとっているわけではないと言える。

これは一体何をしているのか?


この問題を解く鍵は「平家物語」など文芸作品の中にある。

「平家物語」では北の政所が関白の病の平癒をいのり、日吉社に七日間籠って願を立てた。

そして「もし願いがかないましたら、下殿にいるもろもろの片輪の人に交わって、千日のあいだ朝夕宮仕えいたしましょう」というのがある。


下殿とは本殿の床下である。

そこには日常的にもろもろの片輪の人がいるという状況があって、そこにこの高貴な女性も交わって千日間神様に奉仕いたしましょう、と言っている。

下殿にいる人々は「宮籠り」と呼ばれ、他に乞食、もいると書かれている。


御伽草子「うばかは」では継母にいじめられた姫君が家を出て、さ迷い歩き、尾張の寺の縁の下に籠る。

そこで観音からのお告げを受け、姫の運命が開けていく。


〝堂の縁の下に籠る”ことによって運命が急展開して開けてくることから、”縁の下”は寄る辺ない弱者の究極の祈願の場であるという観念が存在したであろうことがわかる。

つまり「平家物語」の願立ての祈願の場は「日吉社」本殿の床下であったが、床下における祈願は「日吉社」だけのことではなかったと言える。

以上のことから「北野社参詣曼荼羅」の松童八幡の床下にうずくまっている女性は、なんらかの強い祈願を行っているのだろうと推定されるのである。


             (引用ここまで)


               *****


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比叡山の天台宗と神社(1)・・僧侶になった神々

2014-06-03 | 日本の不思議(中世・近世)



「神と仏のいる風景・社寺絵図を読み解く」という本を読んでみました。

これは国立歴史民俗博物館が主催したフォーラムをまとめたものです。

その中から黒田龍二氏の「中世日吉社における神仏関係とその背景」という講演をご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****


            (引用ここから)


「神仏習合」というのは単純にいえば神と仏がいっしょになる、すなわち違うものが一緒になるという捉え方だが、それは明治の「神仏分離」を経た現在の我々の感じ方が多分に反映された見方であると言える。

それに対して、ここでは中世における実態、内容を検討することによって当時の考え方、感じ方に迫ってみたい。


中世の「日吉社(ひえしゃ)」・・延暦寺と日吉社


平安時代から中世にかけて、「日吉社(ひえしゃ)」は日本最大の神社であったといってよい。

「日吉社」は、今は「日吉大社」といい、滋賀県大津市の坂本にある。

比叡山延暦寺の琵琶湖側である。

平安時代の終わりに権勢をふるった白河院が、自分の意のままにならないものとして「鴨川の水、すごろくの賽子、山法師」の3つを挙げた。

自分の言うことを聞かない山法師、つまり延暦寺を憎んでいる。


延暦寺は全国的に荘園を持ち、多数の僧兵を擁し、日本の政治を左右する権力を持った巨大権門寺院で、院や朝廷の命令に従わない。

荘園の領地争いなどで延暦寺側に不利な裁定が下ったりすると、比叡山の僧侶が大挙して「日吉社」の神輿をかついで京都に入ってきて、延暦寺側の要求を、鎮守である「日吉の神」の神意として誇示する。

それは要求が通らないと神罰が下るという脅しを含む強引な要求なので「強訴」という。

このことも比叡山延暦寺と「日吉社(ひえしゃ)」は一体であることを示している。

この二者を中心に据えて話してみたい。


「日吉社」における神仏関係の第一点は、延暦寺の鎮守であったことである。


「山王祭」は「日吉社」の最大の祭りであるが、現在の「山王祭」でも天台坐主すなわち延暦寺の最高責任者であり、日本天台宗の最高位の僧侶が「日吉の神」に奉幣をおこなうという次第がある。


次に、中世では神仏を「本地垂迹説」の関係で捉えるのが一般的な考え方であった。


「日吉社」における「本地垂迹説」の関係を明晰に示したものが、奈良国立博物館の「山王宮曼荼羅」である。


本地垂迹説とは次のようなことである。

仏教の教えは大変に深淵で日本の民衆には理解しづらいものである。

そこで仏は日本の神の形を借りて現れ、仏教の教えを日本人に親しみやすく分かりやすく説いている。

そのとき、仏のことを「本地」あるいは「本地仏」といい、日本の神となって現れることを「垂迹」という。



この「山王宮曼荼羅」は、大きく描かれた日吉社の景観の上に神と仏がずらりと並んでいて、それぞれの社にまつられる神々の説明になっている。

日吉社にはたくさんの神がおられるが、その中心は山王二十一社である。

下段中央の神は「日吉社」の中心である「大宮」で、その姿は僧形で描かれている。

その上に釈迦の絵があるので、大宮の本地は釈迦如来であることがわかる。

第二位である神「二宮」も僧形で、本地は薬師如来である。

第三位の神である「聖真子」も僧形で、本地は阿弥陀如来である。

神々の姿は多様で、和装の女性、童子、顔が猿の神、動物姿の牛もいる。

上位三柱の神を山王三聖というが、それが出家した僧侶の姿で描かれていることに注意したい。

日本の神はすでに出家しているわけで、明治の神仏分離以後形成された神の概念とは大きく隔たっているといわなければならない。


            (引用ここまで)

              *****


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日本の異端と正統・・鎌田東二氏

2014-05-28 | 日本の不思議(中世・近世)


「日本のまつろわぬ神々」という本の序文に、鎌田東二氏が書いておられる「異端の神々の肖像・日本宗教史における正統と異端」という文章を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


               *****


              (引用ここから)

「異端」とは何だろうか?

「正統」に対立したり、反逆したりすることだろうか?

日本の宗教や思想や社会の中で「異端」とか「異端者」とは何かを考えると、ヨーロッパの宗教史や思想史と比較して、宗教的権威や権力と正面衝突するような激烈な思想や運動がほとんど起こっていない。

一種の無風地帯のように見える。

もちろんたとえば「日本書紀」に、富士川のほとりで常世(とこよ)の虫の信仰をもった人々が秦河勝(はたのかわかつ)によって弾圧されたという記録もある。

また、飛騨の両面宿儺(りょうめんすくな)が反逆者として殺されたという記録もあるにはあるが、それとてほとんど同族か同系列と思われる秦氏内の内部鎮圧であったり、朝廷に少し刃向ったりする程度のことで、深刻な思想的対立や相容れなさとは別物であると思われるのだ。

たとえば反逆者の神話的原像であると言えるスサノオノミコトも、前半では大変なすさぶり、荒ぶりを発揮して父のイザナギからも、姉のアマテラスからも追放されるが、後半では怪物ヤマタノオロチを退治して、その尾から出てきた不思議な剣(草薙の剣)をアマテラスに献上することになる。


反逆児や異端児も、このような一定の枠に収まっているのである。

というのもそもそも日本思想の体質がたいへん「習合」的な傾向を持っていて、「神」や「神道」とは全く異なる思想原理や教団体制や儀礼様式をもっている「仏」や「仏教」も、隣の国の神「蕃神・他神(ばんしん・あだしがみ)」として受けいれ、接ぎ木してしまったりする。

柔軟性とも無節操とも言える体質の中になるので、「異端」というもの自体が明白なものとは成り難いところがあると言えるからだ。


その事例が「日本書紀」である。

これは実に不思議な異様な書で、とくに「神代」の巻など、本文の他にたくさんの異伝承を 「一書に曰く」と並列列記して、何がなんだかまったく訳が分からなくなるところがいっぱいある。

まるでわざとかく乱するために書かれているかのように、複雑怪奇なのである。

つまり「正系=本文」を混乱させるかのように、「異系(異伝承)」が「一書に曰く」という形式で併記されているのである。


ということは、「正統」というのも本当のところは曖昧であったということだろう。

これは別の言い方をすると、日本には秦の始皇帝のような絶対権力者がいないということにもなるだろう。


日本の天皇は、中国的な皇帝とは異なる。

そのあたりの天皇の事情や構造を、私は古代における「調停的一者」ととらえている。

とはいえ、中世になると道元の「正法眼蔵」とか日蓮の「立正安国論」とか北畠親房の「神帝正統記(じんのうしょうとうき)」などの、「正系」を主張する思想や立場が現れた。


とりわけ南北朝の対立による「正系」争いの浮上は、「正統」と「異端」を生み出す政治的事件となった。

しかしそれでは政権を勝ち取った北朝が正統かと言えばそうではなく、破れて追放された南朝の方が正統であると、北畠などは主張し、それが後世に多大な思想的影響を与えるのだから、事態は単純ではなく、錯綜している。


日本の思想史や宗教史の中で「異端」を考えるときには、このような特殊に日本的な事情や時代状況、思想構造を念頭に置きながら「異端」を考える必要があるだろう。


確かに中世にはたとえば「神道五部書」のような「異系・異端」思想のようなものが流行したようにも見える。

それらはいわゆる「記紀神話」とは異なる「異伝承」を記載し、その立場を主張した。

吉田神道も、思想的にはいくらか「異端」的であった。

しかしその主唱者の吉田兼俱(かねとも)は神祇官大副で、いわば神祇行政の大幹部であり、「異端」者ではない。


近世にも「旧事本紀大成経」のような「異端」的文書が偽作され、作者は弾圧を受けている。

また近世・近代に、様々な偽書的文献が世に現れてくる。

大本教などは 「富士文献」のようないわゆる偽書的文献や解釈をみずからの神学や宇宙論の中にうまく取り込み、二度にわたる官憲の徹底的な弾圧を受けたが、しかしそのリーダーであった出口王仁三郎は天皇家のご落胤説を内包させていた。


かくもこの「日本」という国柄は、理路整然とも首尾一貫ともいかない複雑怪奇で「正系」・「異系」が相互転換するような構造を持っている。


あらゆる「異端・異説」は「一書に曰く」の枠内にある。

そうした過激で破滅的な「異端者」が発生しにくい微温的で調停的な思想風土の中で、「異端の神々」がどのような「異端性」を発揮したか、本書を通して見直し、考え直していただければ幸いである。


              (引用ここまで)


                *****

wikipedia「常世神」より

常世神(とこよのかみ)は、『日本書紀』に登場する新興宗教の神。

この神を祀ると、富と長寿が授けられ、貧者は裕福になり、老人は若返ると説かれた。

古来から行われてきた共同体的な祭祀ではなく、個人の欲求を適える信仰であるところに特色があるといわれ、民間道教の一種ではないかとの説もある。

『日本書紀』によると、皇極天皇3年(644年)、東国の富士川の近辺の人、大生部多(おおふべのおお)が、村人に「虫」を祀ることを勧め、

「これは常世神である。この神を祀れば、富と長寿が授かる。」と言って回った。

巫覡(かんなぎ)等も神託と偽り、「常世神を祀れば、貧者は富を得、老人は若返る。」と触れ回った。

さらに人々に財産を棄てさせ、酒や食物を道端に並べ、「新しい富が入って来たぞ。」と唱えさせた。


やがて信仰は都にまで広がり、人々は「常世虫」を採ってきて清座に祀り、歌い舞い、財産を棄捨して福を求めた。

しかし、全く益することはなく、その損害は甚大だった。

ここにおいて、山城国の豪族・秦河勝(はたのかわかつ)は、民が惑わされるのを憎み、大生部多を討伐した。

巫覡等は恐れ、常世神を祀ることはしなくなった。

時の人は河勝を讃え、

太秦(うずまさ)は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲(きた)ますも
(秦河勝は、神の中の神と言われている 常世の神を、打ち懲らしめたことだ。)

と歌った。


『日本書紀』では続いて、「この虫は、常に橘(たちばな)の樹に生る。あるいは山椒(サンショウ)に生る。長さは4寸余り、親指ぐらいの大きさである。その色は緑で黒点がある。形は全く蚕に似る。」と記している。

アゲハチョウの幼虫ではないかといわれる。

「常世の国」は、海の彼方にある、不老不死の世界のことである。

大国主命の国造りを助けたスクナヒコナ命や、浦島子(浦島太郎)が行ったのが常世の国といわれる。

この常世の国には、「時じくの香(かぐ)の木の実」という、不老不死の仙薬になる木の実が生えており、『記紀』では「橘」のこととされる。

橘は常緑樹で、雪や霜にも負けずに繁茂し、その実も保存の効く植物であるために、常世の木と同一視されるに到った。

橘に発生する「虫」が常世神とされたのも、これに関連づけられている。

当時、仏教の信仰に篤い豪族は他にもおり、また、秦河勝より強い政治権力を持った人物も多かった。

なぜ河勝ひとりが、常世神信仰を討伐したのかについては、全国に秦人・秦部を抱え、殖産興業を推進してきた秦氏としては、民の生産・経済活動を停止させる宗教は、看過できなかったとする考えがある。

また、渡来氏族である秦氏の河勝は、新興ではあるが原始的な「神」を恐れることなく、これと対決出来たのではないかとも言われる。




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17世紀のキリシタン本「ひですの経」 内容判明・・創造主デウスの存在説く

2014-03-09 | 日本の不思議(中世・近世)



                 ・・・・・


「ひですの経」 内容判明 創造者デウスの存在説く・・イエズス会が出版
                          読売新聞2012・05・16


1611年にイエズス会が長崎で出版した宗教書「ひですの経」の詳細が明らかになった。

1907年に独ベルリンの古書店目録で紹介されて以降、存在が知られるだけだった「幻のキリシタン版」。

3年前に存在が確認され、専門家が調査を続けてきた。


「ひです」はラテン語で「信仰」の意味。

本の大きさは縦27・9センチ、横19・3センチ。

折井善果慶応大専任講師が2009年、米ハーバード大図書館に所蔵されているのを確認。

豊島正幸東京外語大教授、白井純信州大准教授らとともに解読した。


その結果、スンペイン人説教師のルイス・デ・グラナダが1583年に著した「使徒信条入門」(全4巻)の第1巻の抄訳で、創造主デウスの存在を説く内容と判明。


翻訳者は不明だが、大村純忠・大友宗麟ら九州のキリシタン大名が1582年にローマに派遣した「天正遺欧少年使節」の一人、原マルチノが校閲に関わっていたことが、収録されていたポルトガル語の出版許可状でわかった。



注目されるのは表記の特異さ。

天使を意味する「アンジョ」は「あんじょ」」と表記するのが通例。

しかし「ひですの経」では「あんじょ」の他に漢字で「安如」と記していた箇所があった。

また、古代ギリシア哲学者のアリストテレスについても、最初は「ありすとうてれす」だったのがとちゅうで「ありすとうてれ」に変わるなど、表記が統一されていなかった。


白井さんは「漢字による当て字は、イエズス会のコレジヨ(学校)の教科書など、書写した書物でよく見られる。本来出版物には用いられない用字が「ひですの経」では多用されている」と指摘。

「金属活字が払底した後、木製の活字でおぎなったり、漢字を変体仮名と認識したり、他のキリシタン版にはない特徴が随所に見られることと合わせ、キリシタン弾圧が強まっている時期に混乱している中で刊行されたのではないか」と推測している。


内容については「原典にある記述が一部削除され、付け加えられた部分があった」と折井さんは指摘。

追加部分には、神秘主義的な学説で知られる新プラントン主義思想の影響が見られるといい、「イタリアのルネサンスの流れの中で、新プラントン主義の著作がイエズス会に流布していたことがうかがえる」と話す。


他にも、裏表紙の補強に使われていた反故紙が、記述の異なる本書の断片だったことが判明。

改訂が行われていたことも分かった。

プレス印刷の痕跡を示す圧印なども確認されている。


本書はキリシタン版の制作過程や、宗教史、日本語史、印刷史など、多岐にわたる研究分野の貴重な新出資料として注目を集めそうだ。

「ひですの経」の高精細カラー写真複製本は八木書店、校注本は光文館からそれぞれ刊行されている。


○キリシタン版

イエズス会がヨーロッパの活版印刷技術によって日本で出版した書物の総称。

ローマ字本の他、日本の文字で書かれたものもある。

1590年の宣教師バリニャーノによる印刷機搬入に始まり、禁教令にともなって1614年で終わりを迎えた。

布教伝道のための本の他、「平家物語」や「イソップ物語」を訳した「伊曾保物語」、「辞書」などが伝わる。

・・・・・

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カエルを捕える白蛇神・・弁才天の変身(3・終)

2013-12-26 | 日本の不思議(中世・近世)


山本ひろ子氏の「異神」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


            *****


           (引用ここから)


経典は、次のように述べている。


              ・・・

舎利弗は次のように尋ねた。

「なぜ未来世の貧しい衆生に福徳を施すのですか?

いかなる因縁で、衆生の運命は貧困から富貴へ、また富貴から貧困へと転変するのでしょうか?


仏は答えると、城の北西の方角に向かって三度弾指した。

すると乾の方角から、一人の美しい天女が現れた。

頭上に白蛇を乗せ、四方に如意宝珠、ほこ、剣、棒をたずさえた天女は、15人の童子と35000の眷属を率いていた。


仏の前に進み出た天女は「如意宝珠」という名の神呪を受持していると告げ、その由来を次のように語る。



「如意宝珠は悠久の昔に空王如来より授けられたものです。

「宇賀神王」はこの力を仰ぐことにより、福の神として貧窮無福の衆生を利生してきたのです」というのだ。


仏は「宇賀神王」を讃嘆しつつも、次のように言う。

「その福徳にあずからない者もいる。それは障碍神(しょうげしん)である」。


「宇賀神」の住まう所は、吉祥の方位であった。

しかしその反対側、辰巳(東南)には三悪神がいるという。


三悪神とは「飢渇神」、「貧欲神」、「障碍神」という名の悪神である。

経文には彼らのおぞましい姿が描かれているが、とりわけ「貧欲神」は“ガマ”と表現されている。


「宇賀神」が降伏する対象は、しばしば“ガマ”の姿をとる。

「宇賀神」の冠上の“白蛇”は、“ガマ”の姿の「貧欲神」をしりぞけ、剣の力で「障碍神」を破り、如意宝珠の効能で「飢渇神」を降伏する、という。

「宇賀神王」は三悪神のいる辰の方向と対峙していることで、三神の障碍の働きを封じているのだった。


舎利弗が再び、仏に向かって問う。

「なぜ長者は今世に七度富貴、七度貧困になったのか」の因縁を尋ねる。


すると仏は、「長者が仏事を怠ったため、「荒神」の怒りをかい、福徳を奪い取られて貧と福が逆転した」と答える。

七貧の原因は荒神にあった、とされるのだ。


この経典から、「宇賀神王」の物語は、仏典に「荒神」因縁譚を取り込んだものであることがわかる。

そのためにプロットに無理がありストーリーの展開がなめらかでないにしても、福を与える者と奪う者という両極の関係において、「宇賀神」と「荒神」が劇的に交渉する場面が浮かびあがってくるのだ。

  
             (引用ここまで)


                *****


筆者の論考はまだまだ続くのですが、今回はこのあたりで止めておきます。


蛇年の蛇が十二支の中にあるように、蛇と人間は深いかかわりがあるのだと思われます。


年明けには弁才天の信仰、天台宗の信仰、荒神の信仰、神仏混交に分けて、調べていきたいと思います。


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