始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

ツングースのサマン(シャーマン)・・憑霊の人間学(3)

2013-05-31 | その他先住民族



引き続き、佐々木宏幹・鎌田東二氏共著「憑霊の人間学」を紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

この部分が、前にご紹介した新聞記事の満州族のサマン=シャーマンを扱った部分です。

テングリという言葉ははじめて聞きましたが、「青く澄みきった空」が根源的なものだとする世界観には、大変心惹かれます。


                   *****

                
                 (引用ここから)



シャーマニズムのあるところには、多かれ少なかれ神の序列、つまりパンテオンというものがある。

最もプリミティブな、、たとえばツングース族その他の北アジア諸族の場合でもそうですが、大体がパンテオンがあるんです。

強い精霊と、並みの精霊と、弱い精霊の序列と言ってもいい。

仏教でも、おしゃかさんがあり、おしゃかさんの後になると、薬師如来だとか阿弥陀如来だとかいろんな如来が出てきます。

生身の存在として悟ったのが釈迦ですから、釈迦仏が根源にあって、その下位に化身、仮仏と言いますか、地蔵菩薩や弥勒菩薩、観音菩薩などがきまして、さらにその下に明王たちがいろいろきます。

さらにその下に諸天と言いまして、天使のような存在がたくさんある。

これがスリランカに行くとスリランカの土着の多神教的なものがその中に入るわけです。

スリランカから海を渡って小乗仏教がビルマやタイに入ると、またビルマやタイの土着の神がみが下に取り入れられていく、こういう仕掛けがでてきます。

もちろん、スリランカの仏教のパンテオンの中にはヒンズー教の多神教や所在不明の神々がいっぱい入っている。


こうした仏教パンテオンの下位の神々が、仏教とともに日本に入ってきますと、大筋において僧侶は上位の仏に関わり、他方シャーマンは下位の明王や諸天に関わるという構造ができます。

その中間には、僧侶にしてシャーマンのような中間的な存在がいるということも、少なくないのです。


ユーラシア大陸の北辺地域では、一番高い神に「テングリ」などがおり、天を象徴する大きな存在で、これはなかなかシャーマンには憑かないんです。

ずーっと奥のほうにいて、宇宙全体を統一支配している神なのです。

そして「憑く」のは、位の低い下の精霊たちです。


シンコゴロフが1935年に有名な本を出版しています。

シンコゴロフの扱ったツングース族は、満州からずっと北の方に分布し、西はバイカルからモンゴルのあたり、東はオホーツク海あたりまでの広大な地域を、静かに移動して狩猟に従事している人々で、社会は父系制をとっている民族です。

そしてパオという折り畳み式の家屋に住んでいたわけです。

家族はだいたい4,5人くらい。
社会的単位は氏族(クラン)です。

ここの中には族長、クラン・チーフというのがいます。

他の社会であったならば、族長がそのまま宗教の親玉をなすのでしょうが、ここの組織の中では、いわゆるサマン=シャーマンが一番偉い。

族長というのは世俗権を握っているのだけれども、サマンがいわばツングース社会の栄枯盛衰を握っている、という位置づけになります。

サマンは男女おりますが、男が非常に多いようです。

このサマンたちの役割は、今言いましたパンテオンと関係しています。


ツングース社会の現実認識によりますと、たとえばAというクランが住んでいますね。

800人なら800人が、いくつにも分かれてパオに住んでいる。

そうすると、それを取り巻くのは原野です。

その外側にはツンドラその他、無人の荒野が取り囲んでいる。

さらにその外側には、魑魅魍魎さまざまな精霊その他が、ずっと自分たちを取り囲んでいる。

そしてその精霊たちは虎視眈々としており、少しでも油断するとツングースに襲いかかろうとしている。

しかしその力がほどほどに調整されていれば、つまり精霊とツングースのクラン社会との間で、うまく調和を保っていれば、トナカイのような動物も十分に採れる。

ところが両者のバランスが崩れると、トナカイも手に入らないし、社会もめちゃめちゃになる。

もともとトナカイが適度に飼育され、適度に増殖くし、そして皮や肉その他を自分たちに与えてくれるのが、いわば精霊たちであり、その力であると信じられているのです。

自然の力と言ってもいいでしょう。

そしてそれには風が吹くとか日が照るとか雪が降るということがありますから、天空を含めた自然の諸力、彼らはそれを「精霊」というように規定します。

つまりスピリッツが無数にあるのだと。

       
              (引用ここまで)

            
                 *****



wikipedia「テングリ」より

天神(匈奴語:撐犂(とうり)、突: 、回語:Täŋri、現代、 蒙:Тэнгэрээ(『元朝秘史』の蒙古語:騰格里(拼音:Ténggélǐ))、土:Tanrı、チャガタイ語:تنكري Tangrī)とは、アジア北方の遊牧民族に共通な、「天上世界」もしくは「天上神」、「運命神」、「創造神」を意味する概念。

中国史の史料上は、屡々「天」と訳されている。

定義と特徴

「テングリ」は中国史における「天」概念と非常に類似しており、天上世界を指すとともに運命神であることも共通している。

ただし中国史において天の人格神である天帝が北極星と同一視されているのに対し、テングリは澄みきった青空のことであると考えられており、その点で相違する。

「テングリ」崇拝は匈奴の時代から確認されている。

又、人格神としての「テングリ」はモンゴルの宇宙創造神話において「テングリ・ハイラハン」という地上を作った創造神として現れ、これも中国には見られない。

ブリヤート族の神話では「西の善きテングリ」「東の悪しきテングリ」という表現が見られ、この二元性は祆教の影響によるものとも考えられている。

又、このことからテングリは必ずしも唯一的な存在ではないことも看取され、これも天とは相違する。

テングリは男性神であり、女性神である大地に対応する。

今日においてはカムチャツカ半島からマルマラ海に至るまで遊牧民の間でシャーマニズムに基づいてテングリへの祭祀が行われている。


外のアジア諸国での影響

テングリ崇拝は中国の天命思想の影響のもとに成立したという見方が有る。

又、反対に中国の火の神「重黎(diung li)」をテングリの音写であるとし、中国の「天」はテングリから派生したものだとする見方もある。

「天」と「テングリ」のどちらかが古く、起源としてさかのぼれるかはいまのところ明らかではない。

日本の「高天原」とテングリを語彙上の結びつきがあるという見方が有る。

ポリネシアのタナガロアもテングリに由来すると考える見方も有る。

但し、以上の論は十分に検証されておらず、テングリ崇拝自体が多様な神話となって複雑なものであるため、関連性を論じるにはいまだテングリ概念自体の解明が不足している。



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遠いあの世と、すぐそばのあの世・・憑霊の人間学(2)

2013-05-27 | 日本の不思議(現代)



引き続き、佐々木宏幹・蒲田東二氏共著「憑霊の人間学」のご紹介をさせていただきます。

これは佐々木氏の部分です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                 *****


               (引用ここから)


沖縄の久高島で12年に一度、丑年に行われる「イザイホー」は、島で生まれ島で育ち島の男と結婚した女性を神女に変身させるための有名なイニシエーション儀礼です。

第一日の夕刻に彼女らのがクバの葉で覆われた儀礼小屋に入る際にナナチバシ(七つ橋)という橋を渡る。

この橋は一枚の板に七つの節目をつけたものですが、やはり人間の領域から異界に入るのには橋が必要なのです。

ここでもあの世に行くのに横が強調されています。

ところが西方に行くと、有名なバベルの塔であるとかジグラット、ピラミッドなどという高い塔が今でも残っていますが、縦が強調される。

「七不思議」の中でも「バベルの塔」では、天空を割ってそびえ、今でも絵に描かれる場合には、先の方は曇っています。

西洋建築史の中でロマネスク方式であるとかゴシック様式とか言いますが、ゴシックはできるだけ天空に高く、神の座に近く、近く、というので高めていったのですが、あれは西の方の産物です。

どうやらキリスト教文化とかイスラム教文化と大いに関係があるらしい。

ところが東へ来ると、梯子を上っていくのでなくて、仏教の方でも「三途の川渡り」とか、浄土教の方では「二河白道」といって、一方に極楽浄土があって、こちら側には一般の俗世間がある。

俗世間から浄土に行くためには、間に川が流れていて、一本の細い道がある。

あちら側は浄土ですから、阿弥陀様の他界ですね。

ここへ人間が行く場合には、水がものすごい急流をなしていて、悪いことを娑婆でした人は目が回って落ちてしまう。

「とんじんち」を離れた人だけが、橋を渡ってその先の浄土へ行くと言うのです。

これはご存じのように「三途の川」のいわば変化形というふうに見ていいわけです。

そうなると、他界は橋をかけて行くか、高い梯子を立てて行くか、ということになります。

ピラミッドの突端は大変高い所に位置していますが、ああいうものと比べると、だいたい日本の建物は大地に横に広げて建ててあります。

「竪穴式住居」なんかは土の中にもぐっていて、だいたい地面に結びついている。

そうすると主体がもし霊的にこちらから向こうへ行くという技術をマスターしたとすれば、梯子がかかったところを行くのではなくて、歩いて向こうへ行く。

そして結界の橋を渡る、という世界像が日本人の多くは持っていることは明らかだろうと思います。


ここまではエクスタシーつまり「脱魂」談義です。


もう一つは「憑く」ということです。

この「憑く」は、向こうへ行くのではなくて、向こうからこちらへ「やってくる」のです。

その「やってくる」ときも、天空はるかから神が梯子をかけて降りてくる、といったモチーフは日本には少なくて、どうも横なんです。

横と、さまざまな山からやって来る。

だから前に申しました「草場のかげより、いついつまでもお前のことを心配しているぞよ」というようなことになると、わあって遺族が泣き出すのです。

「草葉の陰」という「あの世」は、決してはるか山稜のかなたなどではなくて、すぐ近く、草いきれのする墓所の陰からひょっと、こう見ている。


                  (引用ここまで)


                   *****

憑霊という現象を、人間学という言葉で括ってみせているところが、この本の面白いところだろうか、と思いました。

共著の鎌田東二氏の方は、もっと突拍子もない感じなのですが、いずれにせよ、人間の根源的な問題として、霊の問題を考えていると言えると思います。

訪れる霊たち。去りゆく霊たち。
世界は霊で満ち満ちている。。
そして自分も、その一こまとしてあり、永劫の時を生き続けているのだろうかと思います。

「ブログ内検索」をしてみましたが、「はしご」で、ホピ族の重要な祭りがたくさんヒットしますので、ホピファンの方はぜひお読みください。



wikipedia「二河白道(にがびゃくどう)」より

二河白道(にがびゃくどう)とは、浄土教における極楽往生を願う信心の比喩。ニ河喩(にがひ)とも。

善導が浄土教の信心を喩えたとされる。

主に掛け軸に絵を描いて説法を行った。

絵では上段に阿弥陀仏と観音菩薩・勢至菩薩のニ菩薩が描かれ、中段から下には真っ直ぐの細く白い線が引かれている。

白い線の右側には水の河が逆巻き、左側には火の河が燃え盛っている様子が描かれている。

下段にはこちらの岸に立つ人物とそれを追いかける盗賊、獣の群れが描かれている。

下段の岸は現世、上段の岸は浄土のこと。

右の河は貪りや執着の心(欲に流されると表すことから水の河)を表し、左の河は怒りや憎しみ(憎しみは燃え上がると表すことから火の河)をそれぞれ表す。

盗賊や獣の群れも同じく欲を表す。

東岸からは釈迦の「逝け」という声がし、西岸からは阿弥陀仏の「来たれ」という声がする。

この喚び声に応じて人物は白い道を通り西岸に辿りつき極楽往生を果たすというもの。




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さまよう心、心は本来さまようものだと・・憑霊の人間学

2013-05-23 | 日本の不思議(現代)



前回の記事に関連して、佐々木宏幹・鎌田東二氏の共著、「憑霊の人間学」という本を読んでみました。

これは佐々木氏の書いておられる部分です。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入いただけます。

     
                *****


                (引用ここから)


シャーマニズムの普遍性についてある大学で話していたら、「私、そういう体験しょっちゅうしますよ」という一年生の女子学生がいるというので、ある先生が紹介してくれました。

その人は八王子に住んでいて、おばあちゃんが丹沢の修験者の一人だった。

90才近くで亡くなったのですが、そのおばあちゃんが修験の道を学びまして、病人にどんな精霊がついているか占って、そして病気治しまでしたようです。

それでその人に連れられて3、4才まで彼女はあちこち回ってくるという経験をしているわけです。

おそらくそのことと結びつくのでしょうが、彼女が夜寝ていると、夜中に眠っているのか現なのかわからない状況において、自分が外に出ていく、というのです。

その時に面白いのは、鍵をかけておくとダメで、鍵だけは開けておくんだそうです。

そしてそこを出ていきますと、行くところは決まって庭や山である。

川や沼や海には行かない。

そして大きな木の元に座っていると、木が話しかけてきて、木と一緒にしばらくの間、対話をしてから戻ってくるという。


「あなたの魂が出て行って戻った時には、自分で自分の身体が見えますか?」と聞くと、それはないという。

そこが丹波哲郎と違うところなんです。

丹波の場合には、自分の幽体が外に出て行って、上から自分の冷たくなった身体を見ているんです。

彼女の場合にはそれがない。


そして「下界はどう見える?」と聞いたら、「鳥瞰図というのがあるでしょう、ああいうふうに見える」って言うんです。

またあちこちの樹木から白い物体が出て飛び回るのが見えるという。


「自分の寝間に戻ってからの感じはどんなですか?」と聞くと、「疲れるんです」と言う。

「疲れるから自分では相当の努力をして天空を飛んだりしているんだと思います」と。


単に夢と言うと、大体自分がそこにいて見ている何かなのですが、彼女の場合は出て行って、上からずうっと下界を見て来て、しかもいつでも憩う木があって、その木は実在の木らしいんです。

その木の下に座りますと、木と対話ができる、ということを言っているんですね。

そういう人が都会にも多いということです。


それから似たようなことですが、芹沢光治良さんという人がある文章の中で、「川端康成の文章はシャーマン的だ」ということを言っております。

川端康成の文学は夜の文学であり、シャーマン的な文学であると。

それはどういうことかと言いますと、川端の文学の主なモチーフには必ず「長いトンネルを抜けたらそこは雪国だった」のような、「山のあなたの空遠く」ではありませんけれども、山を越えたむこうの方に、いわばロマンティックな国とか異界が描かれている。

「伊豆の踊り子」は伊豆の天城超えを描いていて、天城を下駄をはいて歩いている若い学生と踊り子が出会うという筋になっていますが、その天城には今でもトンネルがあって、下田に行く人は長いトンネルを抜けないとそこへ行けないわけです。

つまり闇に中にいったん入って、出てくるとそこに一種の異界がある。

その異なる世界での出来事が、川端文学では大きな役割を果たし、大きな意味をもつものだという。

川端康成は夜、ものを書く人だったらしいのですが、夜、川端さんは原稿を書きながら、実はその魂はずっと他界を経巡っている。

その他界の、たとえば伊豆半島を見ますと、天城山というのは一番高くて、天城から南は下田の方のだんだら坂になり、北は三島の方に来ます。

「雪国」の舞台である越後の境目でみますと、高い山々が谷川岳を含めてあって、それであそこには北の方は真冬、南の方は春という状況があります。

群馬側はぽかぽかしていても、トンネルをくぐるとむこうは吹雪だ、ということがあります。


そうなりますと、ある境界を超えて、その先にさまざまな異界の出来事が展開するということになります。

男と女が本当に無私になり無我になって、自己のすべてをあげて恋愛をするというような、そういう出来事が生じる世界が向こう側には広がっていて、そこへ行くには暗い闇を通っていく。


これは文学の内容なのですが、モチーフ的にはネオシャーマニズムのカスタネダであるとか、ハーナーの脱魂論に一脈通じる。


彼らは、野原まで病める人を連れて行って、そこにある穴の中の暗い所をずっと無限に潜って行きます。

すると向こうの方に異なる世界があって、きれいな野原が展開している。

そこへ行って熊や大鳥であるとか、あるいはワシと一体化する。

一体化して、強くなって、この世に戻ってくるというようなモチーフと、どこか結びつくと考えることは可能だと思います。


ただそこで決定的に違いますのは、アメリカインディアンの場合だと、垂直の方向が非常に強調されます。

ところが日本の方は、山を強調してもどちらかというと水平的な方向です。

山があって、そこにトンネルがあり、その暗い所を自己、自我がずっと行きますと、向こうが他界ということになります。


アメリカインディアンの方は、穴があって、穴をずっと潜っていくと、下に広い異国、異国というか異界が展開している。


そうなると一方は他界に行く場合に、橋を架けるわけですが、橋は横にかけるんです。

ところが、一方では梯子というものがあり、梯子は縦にかければ梯子になるし、横にかければ橋になるんですね。


エリアーデの書いたシャーマニズム的なモチーフの中では天界・地界にシャーマンが行く場合に、多くは梯子を使うんです。

天に行くために、梯子を使うんです。


ところが日本の場合を見ますと、梯子で云々というモチーフはきわめて少なく、あることはあるけれども「川を橋で渡る」というのが多いと思います。

橋というのは横に渡っていく。


この橋は「三途の川」をはじめとして非常に多い。


                    (引用ここまで)

  
                      *****


私が思うに、文学全般が、本来シャーマニスティックなものなのではないかという気がします。

一言だって、言霊なしには言えないだろうし、聞き取ることもできないのではないかと思います。

音楽が好きな人は、その音魂を聴いているのでしょうし、絵が好きな人はその色魂を見ているのだと思います。

文化のすべては、途方もなく狂わしいほどの狂気をともなって、命をかけて造形されているのではないかと思います。

ちまたに暮らす、四畳半の日々の生活であっても、5・7・5で語ってみたり、眠るごとに夢の世界に旅をしたり、人間の生活というものは、無限の創造性をもっているものだと、私は思います。



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満州族伝統、サマン再生、保護、観光、芽生える民族意識・・生きているシャーマニズム

2013-05-20 | その他先住民族



趣味の新聞切抜きの続きです。
まだまだ、たくさんあります。
富士山の話が中途半端ですみません。
あれこれ、いろいろと続きます。


               *****

2011年7月25日
朝日新聞

「満州族伝統、サマン再生・・保護、観光、芽生える民族意識」


吉林省九台市小韓村にある満州族の古びた民家の庭。

白い上着に青いスカートのような服を着た「サマン」の石さんは突然目を閉じ、身体を震わせた。

「ザイリ」と呼ばれる介添え役は、倒れかかった石さんを支え、額からにじんだ汗をタオルで何度も拭いた。

石さんはなにか叫ぶと、腰に巻いた金属製の筒がついた「腰鈴」をジャラン、ジャランと鳴らして踊り出した。

「大英雄神」が乗り移った瞬間だ。


石一族の守り神で、中朝国境の長白山から一足飛びにやってきたというのが、周囲の説明だ。

英雄神や蛇神、オオカミ神、虎神など約50の守護神がいるという。


この儀式は旧正月や秋の収穫後の祭りなどで行われている。

清代から11代に亘って「サマン」を輩出している石一族には現在4人の「サマン」がおり、伝統の儀式がほぼ完全な形で保存されている。

神霊や祖先の霊と交信して占いや予言をする人を指す「シャーマン」という言葉は、満州語を含むツングース語系言語の「サマン」が発祥だ。

古来、病気の治療などでも活躍し、欠くべからざる存在だった。


「大英雄神」が乗り移った石さんは、太鼓や槍を振り回して勇壮な舞を披露し、「一族は太平か?」「家族たちは元気か?」などと、満州語で問いかけた。


続いて屋内に入り、「大英雄神」を送り出す儀式に取りかかる。

石さんは、叫び声を上げて踊り続ける。

他の「サマン」達は、石さんを玄関から外に出そうとするが、もがいてなかなか外に出ない。

「サマン」達は「大英雄神がもっと武術を披露したくて去りたくないようだ」と説明してくれた。


やっと「大英雄神」が去ると、石さんは我に返った。

この間のことは何も覚えていないという。


石さんは吉林市で内装業を営む普通の若者だ。

2004年に数か月、老サマンの指導で神に捧げる文言や様々な神を呼ぶ儀式などを学び、長老たちの選考を経て「サマン」になった。


満州族の「サマン」文化は数千年前に発祥したとみられ、かつては満州族の集落には必ず「サマン」がいた。

今では20から30人が確認されているだけだ。


1950年代までは、重病にかかった幼児の中で、神が選ぶ条件とされる兆候に当てはまる子が「サマン」となった。

60年代以降は、「サマン」の教義を学ぶ子供の中から、一族の合議で素質があるとみなしたものを選ぶ形式が定着した。


石一族の長は語る。

「神々が一族の繁栄や豊作を守ってくれる。

600年前から代々受け継いできたサマン文化は貴重な遺産です」


わずか数十万人で「清」を建国し、広大な中国大陸を3世紀にわたって支配した満州族だが、1911年の辛亥革命で「清」が崩壊すると、旧支配層の満州族は排斥された。

1932年には清朝最後の皇帝が日本のかいらい国家「満州国」の建国に利用される。


戦後、侵略者と手を組んだとみなされた満州族の立場は苦しかった。

1949年に新中国が成立すると、文化大革命など政治運動の災禍が襲う。

「サマン」らは「封建時代の迷信を広めた」として捕らえられ、紅衛兵は儀式に関連した道具や書物を焼き払ったという。

石一族の長老の一人は、「家に隠れて伝統行事を守り続けた」と振り返る。


1980年代に改革開放が本格化すると、風向きが変わった。

堂々と伝統儀式を行えるようになり、「サマン文化」の研究も盛んになった。

最近は、文化財保護や観光資源として活用する観点から、地元政府も「サマン文化」に注目、「サマン文化と東北民族研究センター」と「サマン文化博物館」が相次いで開設された。

石一族の伝統儀式は無形文化財に指定された。


歴史の荒波を経て、満州語を話せる人はほとんどいなくなり、氏名も漢族と見分けがつかないほど漢化が進んだ満州族だが、時代の追い風もあって民族意識が芽生えている。

とりわけ「サマン文化」は、数少ない満州文化のシンボル的存在だ。

満州族の文化を紹介するウェブサイトも増え、満州語教室も盛況だ。

かつて満州族が重視した家系図「家譜」を作る人も増えている。

満州語の歌を歌う歌手も現れた。

「サマン文化」を研究している所長は、「われわれ満州族は服装も言語もみんな漢族と見分けがつかなくなってしまったが、祖先から伝承された「サマン文化」は満州族の根っこだ。

しっかり継承しなければ祖先に申し訳ない」と語った。


                *****


新聞は、たいがいの記事は面白くもなんともないのですが、時々こういう記事があるので、つい毎日見てしまいます。

関連記事は後ほど書きます。


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富士山と日本人(1)・・月見草より似合う、憂いをどうすべきか。

2013-05-16 | 日本の不思議(中世・近世)


ずいぶん古い新聞記事ですが、いつか投稿しようと思ってとっておいたものです。

富士山信仰という重大な問題が扱われていますが、この記事は、富士山を世界遺産に登録するための文化的資料が作成されつつあるということの紹介記事であるようです。

しかし、こういった山岳信仰はどれもそうですが、あまり公にされることを好まない性質があるのではないかという気がします。

世界遺産になるかは、まあ、どうでもいいのですが、富士山の魂の永続を祈りたいと思います。




2010年3月31日読売新聞
「富士山信仰ルーツ発掘・・2合目の神社から渡来銭」


                *****



              (引用ここから)


日本の心と言われる富士山への信仰のルーツを探ろうと、山梨県埋蔵文化財センターが2009年度から3年計画で、富士山の発掘調査に取り組んでいる。

江戸時代には富士講が庶民に広がったが、いつごろから庶民の山となったのか?


昨年発掘に取り掛かったのは、富士山富士吉田口2合目にある富士御室浅間神社。

699年に勧進されたとの言い伝えがあり、富士山近辺ではもっとも古い神社とされている。


慶長年間(1596から1615)に整備され、それ以前の施設や使用状況はほとんどわかっていなかった。

発掘区域は現在の拝殿周辺と境内裏の二か所。

拝殿周辺からは江戸時代の貨幣である「寛永通宝」が出土している。

それに対し、境内裏からはそれ以前に流していた「渡来銭」約40枚が出土している。

また境内裏では礎石やくぎなどはみつからず、社殿などの痕跡も確認されなかったが、旧街道沿いに平らに造成されていることが判明した。

同センターの主査文化財主事は「何等かの信仰施設・・たとえば「ほこら」のような小さな建物がこの場所にあったと考えられる。

「渡来銭」があっただけでは断定できないが、造成時期は中世かそれ以前の可能性が高い」と話している。


二合目の信仰施設が文献に初出するのは1475年。

「大原かた山御室」の土地を保障する神領証文だ。


1500年の記録には、「富士へ胴者参ることかぎりなし(勝山記)」とあり、修験者による山岳での修行目的以外に、胴元と呼ばれた庶民が富士山に参詣しはじめたことが記録に残されている。


だが、江戸時代の「富士講」との関連は、これまで明らかにされていなかった。

「出土銭」に詳しい坂詰秀一・立正大学名誉教授は、

「修験者が銭をもって入山することは考えにくい。賽銭なり何なり、庶民が持ち込んだものではないか。

中世に2合目が庶民の信仰拠点として機能していたと考える材料となると今回の発掘成果を評価する」と語った。


今回の富士2合目の発掘は、日本人と富士山の関わりについて信仰面で補強することは間違いないであろう。

(引用ここまで)


           *****



ちなみに、月見草がなぜ出てきたかについては、GOOの検索によれば下記の次第です。

           ・・・・・

「富士には月見草がよく似合う」とは?

太宰治の「富嶽百景」にある一節。日本一といわれる富士山の雄姿には、けなげな月見草がよく似合うという意味。

           ・・・・・

「びた銭」について。


「貨幣博物館」HP
http://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/a3.html

           ・・・・・


Q3.渡来銭や、びた銭と呼ばれる貨幣とはどのようなものですか?

A3.渡来銭とは、東アジア(主に中国)から日本へ渡ってきた銭貨のことです。

日本では10世紀末から16世紀まで国家による銭貨鋳造が行われず、12世紀以降渡来銭が貨幣として広く流通しました。

16世紀後半には、こうした銭貨を「ヒタ(びた)」と呼んでいた例があります。

当時、「ヒタ(びた)」は良質とされた永楽通宝(明銭)よりは質が劣るものの、広く流通していた銭貨であり、必ずしも質の悪い銭という意味で使われていなかったと考えられています。

びた銭(鐚銭)が質の悪い銭という意味で使用されるようになったのは、これよりあとの時代とされています。

           ・・・・・


「びた一文やらない」、というような使い方が一般的でしょうか。。


「山梨県埋蔵文化センター」HP


wikipedia「徐福」より

徐福(じょふく)とは、中国の秦朝(紀元前3世紀頃)の方士。

斉国の琅邪の出身。別名は徐巿(じょふつ)。子に福永・福万・徐仙・福寿がいるという。

『史記』による記述

司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。

東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。

蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、『竹取物語』でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。

「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる。

瀛州はのちに日本を指す名前となった。東瀛(とうえい)」ともいう。

魏晋南北朝時代の487年、「瀛州」は、行政区分として制定される。

同じ『史記』の「秦始皇帝本紀」に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。

そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せずに始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれている。

現在一般に流布している徐福像は、ほとんどが「淮南衡山列伝」に基づいたものである。


出航地

『列仙酒牌』より

出航地については、現在の山東省から浙江省にかけて諸説あるが、河北省秦皇島、浙江省寧波市慈渓市が有力とされる。

途中、現在の韓国済州道西帰浦市(ソギポ市)や朝鮮半島の西岸に立寄り、日本に辿り着いたとされる。


日本における伝承

青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。

徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡などが有名である[7]。

徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。

ちなみに冠嶽神社の末社に、蘇我馬子が建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、天然の葉たばこが自生している。

徐福が茶を運んだとされる中国茶は、別名埼玉茶であるが、自生種と言われ商業には適さず畑のあぜ道に境界として留めている。

鎌倉に上陸した栄西上人が運び込んだのは抹茶用の宇治茶の品種である。

徐福が持ち込んだ中国茶と抹茶用の茶の花粉が受粉して静岡の藪北種が誕生して煎茶の品種になったと考えられる。

中国の御茶の原木(プーアル茶やウーロン茶そして紅茶の葉は中国茶の品種である)と埼玉の中国茶とDNA鑑定の照合をすれば、徐福が持ち込んだことが証明される。

静岡と埼玉は絹の織物が地場産業であるが、徐福は養蚕の技術を伝来させている。

天女のような羽衣が駿河の浜で銀の柄杓で水を汲んでいたと竹取物語に記述があるが、絹の透けた着物を織ることができたからである。

徐福の一族の女官の着物姿のことを指していると言えよう。

八丈島に童男、童女を五百人ずつ別々に乗船させてきて、離れた島に童男を着けたと郷土史資料館に記述がある。
男の島までの距離はおよそ1000mである。

泳いで渡れる距離であった。

両島の北西に船を着床させられる岩棚が唯一存在する。

陰暦の七夕の日に南風が吹き、その風に乗れば相模湾まで航行可能である。

王子と姫を幽閉させて三年後に秦始皇帝は暗殺され、八丈島は見捨てられたのである。

牢屋番の宦官が死ぬと、伊豆七島づたいに本島に移り住んだのである。

当時の造船技術は進んでいた、長さ120m幅20mである。

木材は鉄木という堅木を使う。

亜熱帯のフィリッピンに自生する船舶用の木材である。比重は重く水に浮くことはない。

腐りにくく船のキール材に使われる。

また当時の船は腐敗し存在しないが、徐福が最初の航海で渤海航路を使って帰路に着いた証拠として、アムール川の河川敷きから数百メートル離れたところに長さ120m幅20mの木造船の遺構が衛星写真で確認ができる。

地形が隆起したために腐敗を免れたのである。

逗子市や葉山町に残る縄文時代末期の陶器や古墳の埋葬方式から観て、徐福たちの居住跡であると推理して間違いはないであろう。

遺構から漁具や水深測量の石球が出土している。

中国の徐福村の出土品と形状が酷似している。

横須賀市郷土資料館に保存されている。

逗子市小坪から古代帆船の石碇が出土している。逗子市教育委員会管理。

徐福が逗留したとの伝承が残る佐賀市金立(きんりゅう)山には、徐福が発見したとされる「フロフキ(不老不死に由来か?)」という植物が自生する。

フロフキは、カンアオイ(寒葵)の方言名で、金立地区では、その昔、根や葉を咳止めとして利用していたという。

丹後半島にある新井崎神社に伝わる『新大明神口碑記』という古文書に、徐福の事が記されている。

徐福が上陸したと伝わる三重県熊野市波田須から2200年前の中国の硬貨である半両銭が発見されている。

波田須駅1.5kmのところに徐福の宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢をご神体としている。

徐福に関する伝説は、中国・日本・韓国に散在し、徐福伝説のストーリーは、地域によって様々である。

『富士文献』は富士吉田市の宮下家に伝来した宮下家文書に含まれる古文書群で、漢語と万葉仮名を用いた分類で日本の歴史を記している。

富士文献は徐福が編纂したという伝承があり、また徐福の来日した年代が、『海東諸国記』の孝霊天皇の頃という記述が『宮下文書』の記述と符合することが指摘される。

ただし、宮下文書はいわゆる「古史古伝」に含まれる部類の書物であり、文体・発音からも江戸後期から近代の作で俗文学の一種と評されており、記述内容についても正統な歴史学者からは認められていない。


中国における伝承

北宋の政治家・詩人である欧陽脩の『日本刀歌』には「其先徐福詐秦民 採藥淹留丱童老 百工五種與之居 至今器玩皆精巧」(日本人の祖である徐福は日本に薬を取りに行くと言って秦を騙し、その地に長らく留まり、連れて行った少年少女たちと共にその地で老いた。

連れて行った者の中には各種の技術者が居たため、日本の道具は全て精巧な出来である)と言った内容で日本を説明する部分が存在する。

秦記30年の年 徐福たちが逃亡に成功した年である。

資治通鑑と史記の記述は、その年は何も記することが無かった。と記されているが、資治通鑑は女たちは黒衣を着て喪に服していた。

これは、徐福たちが集団でエスケープしたために、残された老人たちや男たちが逃亡幇助の罪で殺害された事を意味しているのである。

そして秦記の汚点になるので記載をしなかったのである。


朝鮮における伝承

朝鮮半島で書かれた『海東諸国記』には、孝霊天皇の時に不老不死の薬を求めて日本の紀州に来て、そして崇神天皇の時に死んで神となり、人々に祀られるとある。

徐福達が最初の航海のとき、帰路について渤海航路で上陸し徒歩または朝鮮で調達した馬車で秦国までもどる。

そのときの記載の可能性が高いのである。




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アイヌの地にダムは要らない・・平取りダム「土地の価値」とはなにか?

2013-05-13 | アイヌ



2012年12月22日朝日新聞に、

「アイヌの聖域 水没の危機・・ 平取ダム計画」という署名記事がありました。



             *****


北海道の日高管内西部を流れる沙流川は、地域のアイヌ文化を育んできた。

アイヌ語でシシリムカ(ほんとうに あたり 塞がる させる)と呼ばれるように、砂が多く流れる川でもある。

この川の上流に巨大ダム「平取ダム」を作る計画が進められ、まさに建設の可否を決める重大局面を迎えている。


川の中流には巨費を投じた「二風谷ダム」がある。

建設当時、2人のアイヌ民族出身者が「アイヌ民族の文化享有権」をめぐる裁判を提起、「アイヌ民族の文化享有権を不当に無視ないし軽視した」として札幌地裁で違憲判決が出され、確定した。

この判決を踏まえ、「平取ダム」建設の文化的側面への影響を調べるため、地元のアイヌ民族出身者や研究者などからなる「アイヌ文化環境保全対策調査委員会」が2003年に発足、筆者も加わり、06年に報告書をまとめた。

アイヌの伝統文化を継承する動植物資源、とりわけヒグマやワシタカ類への影響が大きいとされ、予定地にチニミシリ(我ら祭る所)が存在することも分かった。

ところが現状は、アイヌの聖域の水没に何ら対策が取られないまま、工事が進められようとしている。

これは「アイヌ文化振興法(1997年成立)」や「先住民の権利に関する国連宣言(2007年採択)」の趣旨に背く重大な問題である。

アイヌの伝統と近代の開拓による景観が混じるダム予定地の周辺は、国から重要な文化的景観に指定されている。

縄文時代から、海峡を越えて本州でも石斧に使われた「あおとら石」の唯一の算出地でもある。

こうした文化遺産や自然環境を踏まえ、この地の価値を総合判断する作業が求められる。


「平取ダム」が抱えるもう一つの問題は安全性だ。

沙流川は砂がたまるスピードが極めて早く、ダムには適さないと当初から指摘されていた。


「二風谷ダム」には湖面から顔をだすほど土砂が堆積している。

「平取りダム」からの放流による砂が加わればどうなるのだろう。

ダム推進派はデータを使って安全性を主張するが、恣意的な変更を繰り返したデータには不安を覚える。

下流の自治体議会からは安全が確保されるまで工事の中止を求める意見書さえ出ている。

国土交通省北海道開発局が先月出した報告書は「平取ダム建設は妥当」と結論づける。

だがそこに文化的課題への具体的な対策は記されていないし、「二風谷ダム」の使用可能年数も示されていない。


「平取りダム」建設は当面凍結すべきだ。

今必要なのはこの地に根付くアイヌ文化への配慮と、信頼できるデータに基づく検討再評価を通じた沙流川の安全性と美観、流域社会の健全な生活の構築だ。


大阪学院大学(アイヌ民俗学)大塚和義


                *****


アイヌの聖地、二風谷のダム建設に関する問題は、過去に取り上げた記憶がありますが、平取ダムというダムの建設問題も、また存在するのだと、新たに知りました。

先住民族が、先住民族としての生活を送る権利が、保障されているはずなのに、このように、なしくずしに、彼らの生活の領域が侵されていくことに、悲しみを感じます。

こういうことを続けていくことが、アイヌのみならず、和人の生活の幸せをも奪っていくのではないかと思われてなりません。



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ベルベル人の祭りが再開・・ノアの方舟が着地した地の、自由人と呼ばれる人々

2013-05-09 | その他先住民族


だいぶ古い記事ですが、ベルベル人という言葉を見た時、なぜか心がときめきました。

ウィキペディアによれば、1万年以上の先住民。やっぱり。

そして、まるで世界史の教科書を読んでいるかのように、西洋・中東史の始まりから存在しつづけた人々。。

「キリスト教徒にとっては、ノアの方舟が辿り着いた聖地アララト山に住んでいた人々」という意味をもつという。

彼ら西洋地域の人々にとっては、日本で感じるよりもはるかに複雑微妙な、陰影を含んだ存在なのだろうと思います。

いわゆる「消滅言語」の問題でもあると思いました。



2010年7月21日の朝日新聞の記事です。


                *****

               (引用ここから)

「昔々・・ 物語ふたたび・・10年ぶりベルベル人の祭り」


モロッコ・アトラス山脈の奥深い村々では、独自の言語をもつ北アフリカの先住民族ベルベル人が年に1度の祭りで民話を語り次いできた。

祭りは近代化の波に押され、10年前に途絶。

しかし村人たちは、今春文化人類学専攻の学生の協力を得て、伝統の祭りを復活させた。

現地で古老の話に耳を傾けた。

モロッコ中心都市マラケシュから約6時間車に揺られ、さらに1時間近く歩く。

4000メートル級の山並みに切り込む渓谷にあるイグブラは、むき出しの岩肌に囲まれた人口約250人の山村だ。

村ではかつて、毎年秋に周辺の5村共同の収穫祭「アマワ」が5日間にわたって催され、古老らが若者や子ども達に物語を語って聞かせていた。

その祭が久々に開かれた5月2日夜、村の広場のテントに約40人が集まった。

「昔々あるところに、漁師が息子と娘とくらしておったと。。」

モハメドさんがベルベル語で語り始めた。

少年達が熱心に聞き入る。

それはグリム童話のヘンゼルとグレーテルにちょっと似たストーリーだった。

漁師の後妻の命令で、子供たちは森に捨てられる。

機転がきく妹のおかげで2人は生き延び、人食い鬼の家で暮らす。

成長し美しくなった娘の前に、漁師がやってくる。


別の老人は、賢いネズミがライオンと戦って、人間を守る物語をかたった。

また獲物のない漁師が代わりに持って帰った蛇が子どもを噛んでしまう話も。

いずれも登場人物の失敗がかもしだすユーモアと子どもたちが学ぶべき教訓を含んでいた。

祭りには周辺の村々からも大勢訪れ、地元の歌や踊りや寸劇を楽しんだ。

今回は3日間だけの開催だった。


北アフリカに残るベルベル語は、後にこの地方の支配言語となったアラビア語とは全く異なる文法を持ち、童話や民話の形式の対話など、独自の口承文学を花開かせた。

特に民話が豊かで、村では少なくとも50本ほどの物語が伝えられている。

しかし村では出稼ぎが増えて若年層が減り、「アマワ」は途絶えた。

5年前には村々に電気が入り、テレビの衛星放送が受信できるようになったことから、民話を語る機会もめっきり減ったという。

「テレビで使われるアラビア語の会話が増え、村人はベルベル語を忘れるほどでした」と話す。

カナダ・モントリオール大で文化人類学を専攻するサラさんは2年前、多くの民話が残る地域があるとの噂を聞いて村を訪問、5か月滞在して収集に取り組んだ。

イブグラ村は無医村で、電気が通った後も水道と電話はない。

当初村人らは民話に関心を示さず、不便さばかりを訴えたという。

でもサラさんの相手をしていて初めて、村人らは「自分たちの伝える民話の価値に気づいた」と村人は言う。

「復活を主導したのは村人。彼らの熱意が伝統文化を継承させた」とサラさん。

本来は秋の収穫祭のはずが、ずれ込んで春祭りになった。

しかしイスラム教指導者として村人をまとめたモハメドさんは「時代に応じて祭りも変化して当然。
今後は「伝統文化保存」と「生活の向上」の二兎を追いたい」と話す。

            ・・・

独自文化、復権の兆し

ベルベル人はアラブ人の到来以前から北アフリカにいた先住民族だ。

人口は今なお約2000万人に達し、宗主国フランスなどへの移住者も少なくない。

ベルベル系の著名人としては14世紀の大旅行家イブン・バトゥータや、両親がアルジェリア出身のサッカーの元フランス代表ジダン選手らが知られる。

一部の住民の間には反アラブ意識が強く、アラブ人主導の政府と対立することもしばしばだった。

逆に政府としてはベルベル人組織を「分離主義的」として危険視したという。

モロッコではベルベル人が人口の半数近くに達すると言われる。

険しいアトラス山脈山中に住む人が多く、発展から取り残されがち。

それが逆に口承文学や音楽、踊りなど独自の文化を育むことにつながった。

オランダ・アライダデン大学のダニエラ・メローラ准教授によると、「アトラス山中のベルベル人は性におおらかで、民話や芸能でも男女関係をユーモラスに歌うものが少なくなかった。

しかし近年はアラブ化と厳格なイスラム教の浸透で、男女を分ける傾向が強くなった」という。

ベルベル語はモロッコの公共の場から排除され、話し手が減少したが、同国の民主化の進展によって近年はやや改善されているという。

メローラ准教授は村の祭り復活について「ベルベル人としての自覚を持ち、文化を後世に伝えようとする動きが強まっている」と評価している。

                   ・・・


               (引用ここまで)


                 *****



Wikipedia「ベルベル人」より

ベルベル人は、北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。

北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。

形質的にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。

ヨーロッパの諸言語で Berber と表記され、日本語ではベルベルと呼ぶのは、ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイに由来するが、自称はアマジグ、アマーズィーグ)といい、その名は「高貴な出自の人」「自由人」を意味する。


ベルベル人の先祖はタドラルト・アカクス(1万2000年前)やタッシリ・ナジェールに代表されるカプサ文化(1万年前 - 4000年前)と呼ばれる石器文化を築いた人々と考えられており、チュニジア周辺から北アフリカ全域に広がったとみられている。

ベルベル人の歴史は侵略者との戦いと敗北の連続に彩られている。

紀元前10世紀頃、フェニキア人が北アフリカの沿岸に至ってカルタゴなどの交易都市を建設すると、ヌミディアのヌミディア人やマウレタニアのマウリ人などのベルベル系先住民族は彼らとの隊商交易に従事し、傭兵としても用いられた。

古代カルタゴ(前650年–前146年)の末期、前219年の第二次ポエニ戦争でカルタゴが衰えた後、その西のヌミディア(前202年–前46年)でも紀元前112年から共和政ローマの侵攻を受けユグルタ戦争となった。

長い抵抗の末にローマ帝国に屈服し、その属州となった。

ラテン語が公用語として高い権威を持つようになり、ベルベル人の知識人や指導者もラテン語を解するようになった。

ローマ帝国がキリスト教化された後には、ベルベル人のキリスト教化が進んだ。

ローマ帝国の衰退の後、フン族の侵入に押される形でゲルマン民族であるヴァンダル人が北ヨーロッパからガリア、ヒスパニアを越えて侵入し、ベルベル人を征服してヴァンダル王国を樹立した。

王朝の公用語はゲルマン語とラテン語であり、ベルベル語はやはり下位言語であった。

ローマ帝国時代からヴァンダル王国の時代にかけて、一部のベルベル人は言語的にロマンス化し、民衆ラテン語の方言(マグレブ・ロマンス語)を話すようになった。

ヴァンダル王国は6世紀に入ると、ベルベル人の反乱や東ゴート王国との戦争により衰退し、最終的に東ローマ帝国によって征服された。

当時の東ローマ帝国はすでにギリシャ化が進んでいたため、ラテン語に代わりギリシャ語が公用語として通用した。

ベルベル語はやはり下位言語とされ、書かれることも少なかった。

7世紀に入ると、東ローマ帝国の国力の衰退を好機として、アラビア半島からアラブ人のイスラム教徒が北アフリカに侵攻した。

エジプトを征服した彼らは、その勢いを駆ってベルベル人の住む領域まで攻め込んだ。

ベルベル人はこの新たな侵略者と数十年間戦ったが、7世紀末に行われた抵抗(カルタゴの戦い (698年))を最後に大規模な戦いは終結し、8世紀初頭にウマイヤ朝のワリード1世の治世に、総督ムーサー・ビン=ヌサイルや将軍ウクバ・イブン・ナフィによっ
てベルベル人攻略の拠点カイラワーンが設置され、アラブの支配下に服した。

イスラーム帝国の支配の下、北アフリカにはアラブ人の遊牧民が多く流入し、ベルベル人との混交、ベルベルのイスラム化が急速に進んだ。

また言語的にも公用語となったアラビア語への移行が進んだ。

ベルベル語は書かれることも少なく、威信のない民衆言語にとどまった。

イスラーム帝国の支配下でも、ベルベル人は優秀な戦士として重用された。

711年にアンダルス(イベリア半島)に派遣されて西ゴート王国を滅ぼしたイスラム軍の多くはイスラムに改宗したベルベル人からなっており、その司令官であるターリク・イブン=ズィヤードは解放奴隷出身でムーサーに仕えるマワーリー(被保護者)であった。

ベルベル人は征服されたアンダルスにおいて、軍人や下級官吏としてアラブ人とロマンス語話者のイベリア人との間に立った。

彼らは数的にはアラブ人より多く、イベリア人より少なかった。

時とともに三者は遺伝的・文化的に入り混じっていき、現在のスペイン語にはアラビア語とともにベルベル語の影響が見られる。

またベルベル人の遺伝子もスペイン人やポルトガル人の遺伝子プールに影響を与えた。

イスラム化して以降のベルベル人はむしろ熱心なムスリム(イスラム教徒)となり、11世紀、12世紀にはモロッコでイスラムの改革思想を奉じる宗教的情熱に支えられたベルベル人の運動から発展した国家、ムラービト朝、ムワッヒド朝が相次いで興った。

彼らもイベリア半島に侵入し、征服王朝を樹立した。

これらはベルベル人が他民族を支配した数少ない王朝であったが、王朝の公用語はムスリムである以上アラビア語であり、ベルベル語ではなかった。

アンダルスに入ったベルベル人は当初、支配者はより一層アラブ化してアラビア語を話すようになり、下位の者は民衆に同化してロマンス語を話すようになった。

しかし年月がたち、改宗によってムスリム支配下の南部イベリアにおけるムスリムの全人口に占める割合が増加するにつれ、アラビア語の圧力はさらに高まり、ベルベル語話者やロマンス語話者の多くが民衆アラビア語に同化していった。

グラナダ王国の時代、支配下の人民の多くがロマンス語やベルベル語の影響を受けたアル・アンダルス=アラビア語を用いていたとされる。

ムワッヒド朝はアンダルスでのキリスト教徒との戦いに敗れて衰退、滅亡し、代わってモロッコ地域にはマリーン朝、チェニジア地域にはハフス朝というベルベル人王朝が興隆した。

マリーン朝はキリスト教徒の侵入に抵抗するグラナダ王国などのイスラーム勢力を支援し、イベリアのキリスト教勢力と激しい戦いを行ったが、アルジェリア地域のベルベル人王朝であるザイヤーン朝との戦いにより国力を一時失い、それに乗じたカスティーリャ王国により1340年にはチュニスが占領された。

しかしスルタンであるアブー・アルハサン・アリーにより王朝は一時的に持ち直し、1347年にはチュニスを奪回した。

しかしマリーン朝の復興は長く続かず、アブー・アルハサンの次のスルタンであるアブー・イナーン・ファーリスの死後は再び有力者同士の内紛で衰亡し、ポルトガル王国により地中海や大西洋沿岸の諸都市を占領された。

マリーン朝は最終的に15世紀の半ばに崩壊し、以後モロッコ地域は神秘主義教団の長や地方の部族が割拠する状態になった。

1492年にグラナダ王国が陥落すると、イベリアに居住していたベルベル系のムスリムは、アラブ系やイベリア系のムスリムとともにモリスコとされた。

モリスコは当初一定程度の人権を保障されていたが、やがてキリスト教への強制改宗によりイベリア人のキリスト教社会に同化させられ、それを拒む者はマグレブへと追放された(モリスコ追放)。

現在でもマグレブではこの時代にスペインから追放された人々の子孫が存在している。

16世紀には、東からオスマン帝国が進出した。

1533年にはアルジェの海賊、バルバロッサがオスマン帝国の宗主権を受け入れた。

1550年にオスマン帝国はザイヤーン朝を滅ぼした。

オスマン帝国の治下ではトルコ人による支配体制が築かれ、前近代を通じて、バーバリ諸国(英語版)におけるベルベル人のアラブ化は徐々に進んでいった。

今日アラブ人として知られる部族の多くは、実際はこの時代にアラブ語を受け入れたベルベル人部族の子孫である。

19世紀以降、マグレブ地域はフランスによる侵略と植民地支配を受けた。

フランス語がアラビア語に代わる公用語となり、アラブ人の一部にはアラビア語を捨ててフランス語に乗り換えるものもいたが、ベルベル人の一部も同様であった。

彼らはフランスの植民地支配に協力的な知識人層を形成し、フランス支配の中間層として働いた。

しかし一方で植民地支配に対する抵抗も継続し、このときベルベル人はアラブ人とともに植民地支配者のフランス人に対抗して、ムスリムとしての一体性を高めた。

しかし、独立後のマグリブ諸国では、近代国民国家を建設しようとする動きの中で、ベルベル文化への圧迫とアラブ化政策がかつてない規模で進められ、人口比の関係からもアラビア語を話す者が増えたため、20世紀後半にはベルベル語と固有文化を守っていこうとする運動が起こった。


wikipedia「コーカソイド」より

コーカソイドは、自然人類学における人種分類の概念の一つ。

欧州人を指すために使われてきたため白色人種、白人とも訳されるが、日照量の多い中東やインド亜大陸に居住したコーカソイドは肌が浅黒い者も多い。

コーカソイド とは、カスピ海と黒海に挟まれた所に実在するカフカース地方にある「コーカサス」(コーカサス山脈)に「…のような」を意味する接尾語のoidをつけた造語で、「コーカサス系の人種」という意味であり、インドから北西アジア(中近東)へ拡散し東ヨーロッパまで広範囲に拡散した。

元々はドイツの哲学者クリストフ・マイナースが提唱した用語であった。

彼に影響を受けた人類学者ブルーメンバッハが生物学上の理論として五大人種説を唱えた際、ヨーロッパに住まう人々を「コーカシアン」なる人種と定義した事で世界的に知られるようになった。

人類学が成立したヨーロッパは20世紀の半ばまで、ユダヤ教やそこから派生したキリスト教に由来する価値観が今以上に重んじられていた。

そのため、『創世記』のノアの方舟がたどり着いたとされたアララト山があるコーカサス地方はヨーロッパ人の起源地と考えられ、神聖視されていた(アルメニア教会に至っては聖地とされている)。

また聖典である『旧約聖書』の創世記1〜6章では、白い色は光・昼・人・善を表し、黒い色は闇・夜・獣・悪を表していた。

これらから初期の人類学を主導したヨーロッパ人学者は、自分たちヨーロッパ人を「ノアの箱舟でコーカサス地方にたどり着いた人々の子孫で、白い肌を持つ善なる人」と定義し、それを表した呼称として「コーカソイド」を用いたのである。

もっともアラブ人やペルシャ人も、宗教はアブラハムの宗教の1つであるイスラム教であり、コーカソイドという宗教用語を当てはめることもできるが、ヒンドゥー教を信仰するアーリア人は語源に合わないことになる。


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才能の交易こそ新しい経済・総理大臣としてゼロ円革命・・2011年に新政府をつくった坂口恭平さん

2013-05-05 | 野生の思考・社会・脱原発



2013年1月10日 朝日新聞に、すごく素敵なインタヴュー記事が載っていました。

当ブログで結構長々とご発言をご紹介させていただいている宗教学者中沢新一氏を、ご自分の“国家”の“文部科学省大臣”に任命なさった“ツワモノ総理大臣”でいらっしゃいます。


 
               *****


             (引用ここから)


「才能の交易こそ新しい経済・総理大臣としてゼロ円革命・・2011年に新政府をつくった坂口恭平さん」



2011年5月10日に新政府をつくり、総理大臣になりました。

現政府は機能不全におちいっている。

でも無政府状態はよくないので自前でつくろうと。

国民は現在、僕のツイッターをフォローしている35000人。

熊本市内の敷地面積200平方メートル、築80年、家賃3万円の一戸建てが首相官邸です。

生存権の死守、これが新政府の政策です。

死にたくなったら、命の電話。

僕の携帯電話の番号を著作やインターネットなどあらゆるところに公開し、この1年で2600人くらいと話しました。


「大変でしょ?」とよく言われますけれど、これ、お金稼ぎですから。

経済活動としてやってるんです。


だって僕は「人間」を「お金」って言ってますから。


「人間自体を貨幣化する」というのが、ネクストジェネレーションの社会です。


「円」が「人」に代わり、「人」を集める行為がこれからの主流になるんですよ。

その「お金」が、俺んとこにチャリンチャリン来てるんですから。
ゴールドラッシュみたいなもんですよ。

ありがとうって。
いつかは一緒に動くぞ、っていう「貯金」です。

“貨幣化”されたくてうずうずしている人は、いっぱいいますよ。

「これなんとかしてください!」って朝から頼られたら、超うれしいっしょ?

そういうのが、今無いんですよ。

必要とされること。人に喜んでもらえること。

それこそが生き延びるための技術です。



俺の「命の電話」に「死にたい」って電話してくるやつはだいたい友達がいないから、「俺がお前の友達になる。困ったときはいつでも俺に電話しろ」って。

「今まで誰からも認められたことがないんだろ?」
「はい」
「何かつくっているなら作品を送れ。とにかく見るから」

そんなんでだいたい落ち着いてきます。


「人間バンク」を作ろうって言っているんです。


日本銀行券なんかいらない。

人間自体を貨幣化し、それぞれの才能を交易させる。

とにかくみんなで協力しあおうと。

なぜならば、みんな豊かになるぞって。

お前の300万円で俺がやってあげるよって、日本銀行券でも交易可能です。

お金儲けがうまいやつは「お金農家」みたいなもんだから、その才能は生かした方がいい。

だけど日本銀行券はワン・オブ・ゼム。

ヒエラルキーを作らないことが重要です。


なにより人に会うこと。

互いの「才能」という貨幣を、身振りを使って交換するのだから、インターネットだけじゃだめです。

うまくいった人は出て、自分の「国」を作れと。


ウチは卒業制度ありますから。

相互扶助とかじゃない。

俺の場合は、ただのギブです。

「贈与」できるって豊かさの象徴でしょ。

自然がそうですよ。

雨がわーと降って花に水をくれる。

でも誰も返してくれなんて言いません。


curency(通貨)って、もともと「海流」って意味ですから。

地球の自然活動としての「流れ」を、もう一回つくるイメージです。


これは俺の創造的欲望ですから。

「俺がやりたいから勝手にやる」、というのがポイントです。

善意とか社会貢献とかだったら疲れますけど、創造は楽しくってしょうがない。

いつしか最後は、「俺の夢だ」って言いますから。

俺の妄想にお前らが勝手に加担しているだけ。


だから責任は問わないし負わない。

あくまでも非暴力不服従。

ゼロ円精神によるゼロ円革命。


社会を変え得るためには、一回外れなきゃいけないんですよ。

でもみんな、「円」がないと怖い、という妄想に囚われすぎている。

社会に不満があっても、自分が悪いという思考回路になっていて、それが3万人を自殺に向かわせています。


だから僕らが行動してみせる。

一番初めに海に飛び込んで、実は泳げるってわかったペンギンみたいなもんですよ。


みずからをいけにえにして、ゼロ円で豊かに生きていけるという態度を「贈与」する。


そして僕があなたに与えたものは、僕に返さず、他者に返す。


それが新しいエコノミクスを呼び起こすわけ。


才能の交易による新しい経済共同体をつくる。


やろうとしているのは現行の意味での政治じゃない。

芸術(アート)です。


アートの語源は「生き延びるための技術」。

これを見せてあげなきゃいけない。


政治は語るな、つくれ。

芸術は語るな、つくれ。

やりゃあいいじゃん、って。


「ゼロセンター」と名付けた「首相官邸」は、福島第一原発事故の放射能から逃げてくる人の避難所として開放しました。

宿泊費も光熱費もゼロ円。

困っている人を無償で助けるのは当然です。

「公人」ですから。

1か月で100人以上が宿泊し、そのうち60人くらいが熊本に移住しました。


1月10日からは、東京渋谷にある7LDKの二階建ての一軒家を家主さんがゼロ円で貸してくれたんで、「青山ゼロセンター」として仮設ユートピアにします。

2週間限定。「政府」の「国民」で、今やっている新政府展のパスポートチケットをもっていれば、飯も宿泊もゼロ円。

国民皆大臣制度なので、料理が得意な人は食事大臣、掃除がうまい人はお掃除大臣。

自分がなに大臣なのか自分で決めて、できることをやれと。


「俺、なにやったらいいですか?」なんていう質問は一切受け付けていませんから。

いいでしょ、この無敵な感じが。


無敵もなにも、なんにも攻撃しようとか思ってなくて。

あ、そうすか、すみませんって。。

 
          ・・・

        (電話が入る)

「はい坂口です。死にそうなの?大丈夫?、、自分に深刻になるな。
他者のためにだけ行動しろよ。
もう一回やばかったら電話して。
声はまだ大丈夫そうだから。
はいよ、じゃあね。」

          ・・・


人が悩む、社会が荒れている時っていうのは、とにかく言葉がない。

だけどまさに今、新しい言葉や言葉のつながりが生まれようとしている。

芸術の時です。

音楽も演劇も絵も言葉ですから。


俺はそのテキストを織り込んで、テキスタイルにしていく。


絨毯を作って、「みんな座れ」、って言うわけです。

「居心地いいっしょ?」って。


現政府に文句言うより、自分で政府つくった方が早い。

「憲法9条守れ」とか言うより、「戦争に行けと言われても行かない技術」を身につけろって。


他者を変えずに己を変えろ。

選挙も一緒ですよ。
行くからおかしくなる。

熊本市は総選挙の投票率56%。

どんだけ新政府寄りですか、っていう。

しかも無効票率が過去最大って、、絶対みんな俺の名前書いてるっしょ?


「命の電話」を始めたら、去年の自殺者が3万人を切りそうですしね。

いいですね。

いい感じに世の中が狂ってきている。


昔はこういう話をすると頭がおかしいみたいに言われてたんですけど、3・11みたいなのが起きると一気に反転する。

オセロといっしょです。

自然がやっぱり人間を変えていく。

今年もどんどん行きますよ。うん。

で、あなたは何大臣ですか?

     
            (引用ここまで)



           *****



>死にそうなの?大丈夫?、、自分に深刻になるな。
>他者のためにだけ行動しろよ。


うーん、鳥肌たつっていう感じですね!

超サイコー!

表現方法が最高!

お釈迦様も、インディアンも知っている知恵を、この人は今、「現在の言葉」で伝えようとしている。

これが説法でなくて、なんでしょう?

しかも、断固として説法なんて言葉を拒否する。

この人は、時代の寵児だと思いますね~。

さて、これからどんだけになるか、超たのしみですー!



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歌よ、平和につながって・・俵万智さん(朝日新聞)

2013-05-01 | 心理学と日々の想い


朝日新聞(2013年2月1日)より

「歌よ、平和につながって・・俵万智さん」


             *****

           (引用ここから)


東日本大震災の後、仙台にいた小学三年生の息子を連れ、沖縄まで逃げました。

以来、石垣島で2人暮らしを続けています。

「東北を見捨てるの?」などとツイッターで非難され、落ち込みました。


「子を連れて、西へ西へと逃げてゆく おろかな母と言うならば言え」

昨年の三月11日に出した短歌集に収めた歌です。

母親として動き、その思いを紡いだつもりです。


あの日が来るまで何も考えていなかった自分に気づきました。

いったん核の事故が起きれば、故郷が奪われ、生まれてくる命にまで影響を及ぼす。

原発ゼロへ、新たなエネルギーの開発に向け、生活レベルを落としても向かうべきです。


沖縄の人は先祖をすごく敬う。

今自分がいるのは、何百年前の先祖がいたからだ、と。

だから何百年先の子孫のことも考えられる。

今の日本の政治家に最も欠けた発想ではないでしょうか?


8月の6日9日15日。

何度その日が巡ってきても核兵器廃絶の訴えは現実に届かず、世界で紛争は絶えません。


しかし人間には創造力があります。

戦争は始めた人ではなく、一番弱い人、特に子供たちを傷つけ、未来を奪う。

小さい頃、母が読んでくれた岩崎ちひろさんの絵本でそれを学びました。


わたしは短歌をつくる上で、当たり前の日常の中にささやかな幸せを発見していきたい。

そこに幸せを感じられるのは、土台に平和があるからこそ。

歌が平和につながればと願っています。


             (引用ここまで)



               *****


少し前の新聞に載っていた小さな記事です。

私はこういった記事を見ると、切り抜いて、しまっています。

俵万智さんが淡々とおっしゃっておられることは、シンプルで、分かりやすく、これ以上の解説や分析の要らない、、おそらく、これ以上の解説や分析を拒んでおられる、一人の女性の魂の核心の存在を感じます。

私の知り合いの方でも、俵さんのように、すばやく子供をつれて西へ西へと、さらには、遠く海外へと、居所を移していらっしゃる方々がたくさんいらっしゃいます。

なんにもしないで、東京近郊にぼんやりと住み続けている自分は気が狂っているのだ(正気の沙汰ではない)、ということは、私は、分かっているのです。

でも、行動に移すにはエネルギーがいるし、それに必要な天の導きも無ければ、現実に動くというようなことはできないでしょう。

私のまわりの、たくさんの方々の、今、現実に行われている「民族の大移動」を、なんと表現すればいいのか、言葉がみつかりませんけれど、それは、ほんとうに、そのようにするべきことなのだと、私は思っています。

でも、そういった動きを、女性性のなんとかとか、といった、ある種、聞き飽きたような言葉で括りたくないという気持ちがあり、この記事は、そのまんまに、お届けしたいと思います。

命を張って、子どもたちを連れて、故郷を後にされている、すべての女性の皆様に、愛と敬意を込めて。。



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