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ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

安積遊歩さんの、やまゆり園事件へのコメント・・怖い思いをしていることを伝えよう

2025-05-01 | 心身障がい
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/4d4c4751496b4da80d0323115e27af1e

2017年に私が記したものです。

              ・・・・・


久しぶりになりますが、今日の夕刊に相模原やまゆり園事件の記事をみつけました。

          ・・・・・

「ひと」・奈良崎真弓さん 相模原事件を語る会を主宰する知的障害者」
                          朝日新聞2017・01・19

「私いま壊れそう」。

昨年7月に相模原市の施設で知的障害のある19人が刺殺された翌日、知人にそうメールを送った。

そして考えた。

「こんな事件が起こるのは、知的障害者は何もできないと思われているから。事件への思いを障害者本人の言葉で伝えたい」

4カ月後、9人の知的障害者らと語る会を開催。

封印していた悲しみや怒りがあふれ出た。

この活動を全国に、と計画する。

小学5年の時、算数の計算や漢字の勉強についていけなくなり、友だちからいじめを受けた。

孤独を忘れさせてくれたのは、次兄の勇さんと過ごす時間。

知的障害のある勇さんは、言葉の代わりに豊かな表情で語りかけてくれたが、4年後の秋、20歳で急逝した。

25歳の時、知的障害者の活動家ロバート・マーティンさんから

「障害者自身が声を上げ、物事を決めることが大事。真弓ならやれるよ」と言われた。

周囲から「明るさと行動力は天性のもの」と評される。

数カ月かけて地元の横浜市内に障害者らが集う「本人会」を立ち上げた。

花屋で働く傍ら、障害者自らの発信にこだわる。

「自分でやりたいことを選べて、困った時は『助けて』と言える社会はだれもが幸せなはず。障害のあるなしに関係なくお互いを知り、感じ合おうよ」。

将来は知的障害者への支援拠点「マミちゃんセンター」を作るのが夢だ。

             ・・・・・


次は、かつて見つけたあるブログの安積遊歩さんの「相談コーナー」の質疑応答を掲載させていただきます。

サイト名が分からなくなりましたので、あとで追記させていただきます。



安積遊歩さんは以前当ブログでもご紹介した、骨形成不全症で、障がい者問題に取り組む方です。

安積歩遊(あさかゆうほ)著「癒しのセクシートリップ・わたしは車いすの私が好き」
 
              ・・・・・

          (転載ここから)

●相談者の質問

相模原事件のあと、車いすを使っている自分のことを、「みんなも実は厄介者と見ているんじゃないか?」という疑念がとれなくなりました。

外出は好きなほうでしたが、街に出るのもこわくなりました。

これまでそんなふうに感じたことがなかったので、どうすればよいのかわかりません。

アドバイスがあればお願いします。(かもめ・22歳・学生)


この投稿に対して、安積遊歩さんは、以下のように答えています。

            ・・・

〇「こわい気持ちを人に伝えていきましょう」


私もまったく同じ気持ちになりました。

数日間ではありましたが、恐怖におそわれて過ごしました。


遺族への配慮を理由に被害者の名前が報道されなかったことも、非常な差別でした。

親は、考えに考えて子どもに名前を付けます。

名前とは、その人が何者であるかをもっともシンプルに伝えるものです。

名前を発表しないことによって、犠牲者ひとりひとりの大切ないのち、存在そのものに、思いをはせることができなくなります。

家族への配慮が理由として挙げられましたが、家族にとっても、「障がいを持つ家族」という存在が負担とされる社会だからです。

社会の大多数の人々が、障がい者には名前すら必要でない、という意見に賛同しているんだと私には受け取れます。


私たちの社会は、障がいを持つ仲間たちが、番号をふられてガス室に送られた、ナチス時代と同じようなものかもしれません。

当時のドイツでは、人種主義を背景に、優生学が権威を持つようになりました。

障がい者(こどもやユダヤ人も同様でした)の強制収容運動が広がり、ヒトラーの命令のもと、医者たちによって障がいを持つ人々が移送され、殺されました。

この犯罪がホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)につながるのは、多くの歴史書が語る通りです。

その背景には、「生きる価値のない人には安楽死という慈悲を」という、とても身勝手で傲慢な思想がありました。

報道される相模原事件の容疑者の言葉が事実なら、容疑者は、ヒトラーの、ひいてはナチス時代のドイツで受容されていた思想を模倣していると感じざるを得ません。


すぐに効く答えにたどりつくことは、できません。

ただ一つ言えるのは、〝私たちは驚愕し、大きな恐怖におそわれている″ことに、私たち自身が向き合い、可能な限り表現すること。

そして聞いてくれる人を見つけて、伝えていくこと。

私たちの恐怖心を、社会へ発信することが、必要だということです。

どんなに想像力があっても、当事者の話を聞くこと以上に、当事者の気持ちを共有することはできないものです。


まずは、「どんなにこわい思いをしているか」という自分の思いを言葉にしてください。

そして伝えられる限りの人に、繰り返し伝えていきましょう。

語り伝えることを重ねていれば、私たちはだれもが、自分の日々の暮らし、その積み重ねである人生を、かけがえのない勇気と使えるだけの情報を駆使して懸命に生きているという現実を、忘れないで過ごしていくことができます。


たとえば私は、この事件の数日後、バスに乗ろうとしました。

バスの車掌は「リフトがついていないので乗せられない」と言いました。

もし、事件の影響を受けて私の中の恐怖心が勝っていたなら、「もういいか」と、引き下がっていたかもしれません。

でも気づくと、「バスにリフトがついたのは、私たちがリフトのない時代から乗車を望み、交渉の努力をし、まわりの人の手を借りて乗り続けたから。

あなたが言ったような言葉に私たちがあきらめていたら、いま、路線バスの一台にもリフトはついていなかった。だからリフトのないバスにこそ、私は人の助けを得ながら乗る必要があるのです」と、交渉していました。

運転手に訴える自分の言葉を、半ば冷静に、でも充実感を持って聞きながら、やはり私はあきらめていないんだと気づきました。

周りの冷ややかな人のまなざしも感じました。

それでも、「次はリフトのあるバスにも予約がなければ乗せない」という車掌の言葉にさらに発憤して、その差別性を問いただしました。


状況は、たしかに過酷です。

過酷さは、20年前よりもある意味先鋭化しているかもしれません。

若い人たちが互いに分断され、孤立しているようすには、胸がいたみます。

でもそれと同時に、こうして呼びかける私たちの世代がいることも、事実です。


20年前は、同じような障がいを持っていてさえ、「人に迷惑をかけない生き方を選びなさい」と、年上の先輩たちから説教された時代でした。

障がいを持っていてもがまんしない生き方を選んだなら、同じ感性の仲間とつながることが重要です。

今は、私たちの世代にも自立運動を続けてきた仲間がいますし、若い仲間たちもたくさんいます。

そして、障がいを持たない若い人たちもまた、心のどこかで、仲間として呼びかけてもらうことを、待っているように私には見えます。


決してあきらめないで。

こわい、こわいと言いながらでいいから、外に出かけていきましょう。

〝こわいから外出しない″、という選択を終わりにしない限り、事件の容疑者のような考えに凝り固まっている人たちには、私たちの〝人間性″が見えないままになるでしょう。


分け隔てられることは、互いへの理解をはばむことです。

私たちは、障がいのある人と障がいのない人が、分けられ、隔離されることを止めようと運動してきました。

しかしその運動が充分に行き渡らないうちに、今回のような事件が起きたのは、本当に本当に残念です。

あきらめることなく、努力し続けていきましょう。

わがままだとか、手がかかるから付き合いたくないと言い合いができるくらいの、対等な関係を求め続けていきましょう。(遊歩)


           (引用ここまで)

         
            ・・・・・


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安積遊歩(あさかゆうほ)著「癒しのセクシートリップ・・わたしは車イスの私が好き」

2025-04-27 | 心身障がい

安積遊歩(あさかゆうほ)著「癒しのセクシートリップ・・わたしは車イスの私が好き」を読んでみました。

骨形成不全症で、生まれた時から繰り返し骨折し、大変な困難を抱えておられるであろうに、不屈の精神と知性で切り返し、ヘルパーの男性と結婚して、一児の母となり、今もますます活動的な安積さん。

何十年も前に一度、小さな公民館での講演会でお話を伺いましたが、今も忘れられない魅力的な方でした。

どこを取っても痛快なのですが、「まえがき」と書かれた部分だけご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

  *****


         (引用ここから)


親がつけてくれた名前を「純子」、自分で自分につけた名まえを「遊歩(ゆうほ)」という。

自由に、誇り高く「遊び歩く」。

また、「遊歩」には「UFO」ということばもかけている。

未確認だけれども、科学のこころがわかって、かつ夢のある人なら、こころ躍らせて待っているUFO・・そんな気持ちをこめて。


寝たきりに近かった幼き日、遊び歩くという、こどもにとっての生来の権利・自由も、私にとっては夢のまた夢だった。

兄が私に見せようと、オタマジャクシやトンボを取って来てくれると、その目の前でオタマジャクシの缶詰を作ったり、トンボの脚をむしって糸をつけ、永久に飛び続けさせようとしたり。

またある時は、妹の人形を取り上げて、自分がされたと同じ手術を、その人形に施したりもした。

「やめて!」と泣きながら頼む妹の声を聞きながら、メスに見立てたナイフを人形の足に入れたのだった。

小さな「純子」の、閉ざされた自由への激しい渇望は、幾重にも屈折して表現され続けた。


歩けないことが悲しいのではない。

車椅子で動くことが辛いのではない。

私の絶望と無力感は、障害を持つ女性に対する様々な思い込みと、その思い込みの上に作り上げられた社会システム、そうしたものがもたらす抑圧から来ているのだ。


ならば、絶望と無力感から立ち上がる最初のステップは、自分の名まえに最高の自由と誇りを取り戻してやることだ。


もちろん、親がつけてくれた「純子」という名前も嫌いではない。

しかし純子と呼ばれる度に、ハッシとまわりを睨みつけ(実際、子供の頃の写真を見ると、ほとんどいつも私はそんな顔をしている)、闘って闘ってしか生き延びてこられなかった、小さな自分の姿が頭をかすめてしまうのだ。


これから、どんな人生になるのだろう。

一方的に何かを押し付けられ、様々なものを担わされる人生なんて、もうごめんだ。


私が今、反原発の運動や環境問題に関わっているのも、死や病気に対する恐れからではない。

原発や環境汚染が、自由を希求する心、生きようとする意思に対する妨害であるからこそ、戦うのだ。

たとえ苦しみでさえ、いや、とくに苦しみであるからこそ、自分で選び、チャレンジしていきたい。


積極的に「遊歩」と名乗り始めて6~7年、「遊歩」の人生と、抑圧されている人々の代表である小さな「純子」の日々は、解放に向けてまっすぐにつながっているのだと確信してから、更に自分の人生が興味深く感じられる。


この本を書こうと考えたのは、たぶん小さい「純子」なのだろうと思う。

今、私が「遊歩」となってエネルギーいっぱいで駆け回るのを見て、「純子」が「もっとよく私を見て!」と叫んだのだろう。

本が出来上がるまでのこの一年、私のなかでは繰り返し繰り返し、「純子」と「遊歩」の対話、思いの掛け合いがあった。

そして次第にその対話を、まわりの人と共有したいと心の底から思えるようになっていき、その心の動きに合わせて本も完成されることになった。

「この本を読んでくれた人、一人ひとりの感想が聞きたい」と「純子」が、そして「どこかでの出会いを楽しみにしている」と「遊歩」が言っている。

         (引用ここまで)


           *****

わたしも、パワフル遊歩さんに出会い、小さな純子さんをみつけた一人ですよ~。


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(再掲)ナチスドイツ・ただの医者たちが20万人の障がい者を殺害した・・やまゆり園殺傷事件

2017-08-02 | 心身障がい



障がい者施設やまゆり園の大量殺傷事件から1年。哀悼の念を込めて、当ブログの関連記事を再掲します。これは4回記事です。

              *****

            (引用ここから)

やまゆり園大量殺戮事件の犯人の、知的障がい者を殺害の標的にするという発想は、幾人もの人たちに、「ナチスドイツの大量殺人の思想に近い」と言及されていました。

そこで、ヒュー・G・ギャフラー著「ナチスドイツと障害者「安楽死」計画」という本を読んでみました。

驚くべきことに、ナチスドイツ政権下では、20万人を超える「障がい者」たちが、ユダヤ人大量殺人が行われる以前の段階で、殺されていたということを、わたしは初めて知りました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****

              (引用ここから)


障がい者の社会史に関する雀の涙ほどの資料を読み進むうちに、私は、ナチスドイツのいわゆる「安楽死計画」に関心を持った。

第三帝国期に生じた医学的事件は、社会の一部が絶え間なく「障がい者」に対して抱いている敵意と恐怖を浮き彫りにしていることに気づいたのである。

ドイツの医者はこういった感情を、異常で明確な形で行動に移したため、何が起こっていたのかについては疑う余地はない。

1930年~1940年代にドイツで起こったこと、ドイツの医者が〝障がいを持つ患者″に行ったことは、ドイツのみならず、世界中の「障がい者権利運動」に重大な意味を持っている。

ドイツの医者を行動へかりたてた感情は、世界中どこでも見つけられるからである。


異なる者への根深い恐れ、病人や障がい者の持つ弱さへの強烈な憎しみ、完璧な健康、完璧な肉体、完璧な幸せへの異常な衝動。。

みな世界共通である。

しかしこれらは空想であり、価値がない。

「身体障がい者」や「精神障がい者」に関して、今日の社会感情を支配しているのは、疑いようもなく福祉と公正さを求める人間的な配慮である。

しかしこの感情には〝裏側″がある。

永続的な「障がい者」は、他者であり、村八分にされ、恐るべき敵とみなされてしまう。

ナチスドイツが白日の下に晒したのが、この〝闇″の面である。

誰にも〝闇″の面がある。

〝闇″の中には強烈で、時には狂暴ですらある感情が渦巻いている。

怒り、恐れ、憎しみ、狂った人間。。

自分自身の感情によって圧倒されてしまった人間は、恐るべきことをしでかすことがある。

狂った民族も同じである。


アドルフ・ヒトラーの帝国をどう解釈すればいいのか?

狂乱した人間のように、ドイツの民族全体が狂気に取りつかれたようだった。

「アドルフ・ヒトラーの狂気がナチスドイツを生み出した」と言われてきた。

しかし「1920年~30年代のドイツの狂気がヒトラーという形で現れた」というのも、同様の真実である。


ヒトラーは狂っていた。

しかしヒトラーは確かに狂ってはいたが、彼は彼の時代のドイツをまさに体現していたとも言えるのである。


ヒトラー帝国にいた医者は、慢性病患者を殺害する計画に参加した。

20万人以上のドイツ市民が、自分たちの医者の手によって計画的に効率よく殺されたのである。

命を失ったのは、社会のよき市民だった。

多くは、施設に収容されていた「精神障がい者」、「重度の障がい者」、「結核患者」、「知的障がい者」であった。

医者の目で「生きるに値しない」と判断された生命だった。

この計画は、ヒトラーが承認し、第三帝国の国家社会主義政権の支持の下で実行されたのは事実だが、これを「ナチス計画」と名付けるのは誤っている。

これは「ナチス計画」ではなかった。

この計画の生みの親は、医者であり、実行者も医者だった。

医者が殺したのである。


基本的な考え方は、50年以上にわたり議論の対象となっていた「社会進化論」の原理と、花開きはじめた「優生学」を論理的に応用したにすぎないのである。

基礎となっていたのは、欧米で幅広く受け入れられていた優生学、遺伝学、生理学であり、それが殺人の正当化に用いられた。


「第2次世界大戦中にドイツの医者が患者に何をしたか?」という問題を、世界は概して無視してきた。

まるで何事も無かったように戦後、ドイツの医者は再度白衣を身に着けた。

ニュルンベルクアイバン(戦後に開かれた連合国による戦争犯罪者に対する国際軍事裁判およびアメリカ軍事裁判)の一部がこの問題を扱い、何名かの個人への訴追が行われたが、それだけである。

行われた裁判は満足のいくものではなかった。




「患者殺害計画」の方こそが、時代の精神を形成していったのである。

「ホロコースト」への前触れとしての役割を果たしたのである。


医療倫理の崩壊であった。

患者と医者との信頼関係への裏切りであり、「ヒポクラテスの誓い(患者に適切な治療を行い、害を与えないという医者による誓い)」の最大の放棄であった。

「生きる権利」と「死ぬ権利」というナチスが解決しようとした問題は、疑いようもなく現代の課題でもある。

現代の医療技術によってこの課題は緊急性を増し、一層困難になっている。

しかし課題自体は終わっていない。

誰が生きるべきで、誰が死ぬべきなのか?

そして何より、誰がその決定権を持つのか?という問題を、ナチスドイツのような中央政府が全般的な政策を策定しようと企てる際に何が起こったのかを見るのは教訓的である。


彼らは、自分自身のおごりによって、判断不能となった殺人者だったことは疑う余地はない。

「進歩」の追求は、集団殺人を正当化できるとする機械論的信仰である。

この側面はこれまで秘密に包まれてきたが、白日の下に晒されなければならない。

狂犬よりおぞましいのは、〝人類を「完璧」にするためには殺人も許される″という、絶えることない信仰であり、おごりたかぶった専門職集団が、他人の権利、生命への干渉を歓迎したことである。


第三の王国がある。

「障がい者」の地である。

ここには民主主義など、かけらもない。

あるのは独裁だけである。

ここでは、普通にあるはずの市民の権利や特権は通用しない。

巨大な壁がこの場所を囲み、壁の内側で何が起こっているのかは外部にはほとんど伝わらない。


         (引用ここまで)
   
 (写真(下)は殺人の中心地であったハダマー精神病院・1945年撮影 同書より)

           *****

ブログ内関連記事

「再掲・青木やよひ著「ホピ族と兵役拒否の思想」を読む」


「環太平洋文明があった・・中沢新一「熊から王へ」(5)」(1)~(4)あり

「チンパンジーより平和なボノボ・・殺人する猿、しない猿」

「利他的遺伝子・・「自分」と「自分達」は、どう違うのだろうか?」

「河合隼雄のナバホへの旅(1)・・逃げ惑うインディアンの残像」(7)まであり

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(再掲)やまゆり園殺傷事件・「ピープル・ファースト運動(1)・・独立宣言「障がい者自らが、決める」」

2017-07-30 | 心身障がい



知的障がい者施設やまゆり園の殺傷事件から1年たちました。

哀悼の意を込めて、当時の当ブログの記事の再掲を続けます。

これは世界での障がい者の当事者の運動を記録した本のご紹介です。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

                 *****

              (引用ここから)

ピープル・ファースト運動(1)・・独立宣言「障がい者自らが、決める」
                                    2016-11-09


横浜で開かれた「ピープル・ファースト」運動が、世界でどのようにして始まったのかが書かれている「ジョセフ・P・シャピロ著「哀れみはいらない・・全米障がい者運動の軌跡」という本を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


            *****

          (引用ここから)


「ピープル・ファースト」

「私たちはこれから決議について投票します」。

約300人の聴衆は、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」という運動の草分けである。

どこに住みたいかから、他人からどう呼ばれたいかまで、あらゆることを「知的障がい者」自らが決定する、この原則を元にした、新しい運動である。

「今日は皆さんに、二つのことを是認していただきたいと思います。

まず皆さん一人一人が、〝雷を鳴らして″ください。

それから皆さん一人一人が、自分の権利をしっかり主張してください」。


集まった聴衆の多くにとっては、会議に参加することだけでもかなり思い切った、反逆行為とさえ言えた。

それまでずっと自分以外の誰かによって、人生をどうするかを決められ、何をどうするか言われ続けてきたからだ。


その日、「ピープル・ファースト」の会議が終わる頃、「知的障がい」を持つ人々にとっての重要な課題を掲げた「独立宣言」が採択された。

混沌とした雰囲気の会場には大きな喜びが溢れ、まさに人々が〝雷を鳴らして″いるかに見えた。

宣言にはこんなことが書いてあった。

1・州の大規模収容施設を閉鎖することを望む

2・職場や作業所での有給の病気休暇を望む

3・これらの場所での休暇、祭日には休めることを望む

4・自分たちは男女交際の権利がある

  グループホームや施設においても、自分が選んだ相手とセックスする権利がある

5・「知恵遅れ」、「精神薄弱者」という言葉は邪悪だ。
  私たちがまるで子供で、他人に依存する存在 で   あるかのように見せかける。
  この言葉をこれ以上使わないことを望む
  どうしても言わなければならない場合は、「知的遅滞のある人」と言うこと

6・とにかく私たちのことを、まず人間として(people first ピープル・ファースト)見てほしい。


「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」は、「知的障がい」を持つ人々による新しい権利運動だ。

周りに過少評価され、自分で選ぶ機会も奪われ、「永遠のこども」として扱われ、人より劣った人生を送るのも当たり前と思われてきたことに対して起こした「自己決定の運動」である。

「障がい者権利運動」の一つとしても位置付けられるし、「知的障がい者」に特化された問題に焦点を当てた運動とも言える。

この活動は全米各地で見られる。

カリフォルニア州では、州議事堂の前で集会を開き、社会サービス(「障がい者」、高齢者、低所得者、少数民族などに対するサービス)全般の予算削減に反対した。

デンバーでは、出来高払いの賃金しか払っていなかった作業所で働いていた「知的障がい者」たちがストライキを起こし、障がいを持たない同僚と同等の給料を要求した。

またコネチカット州では、州会長モンローが州立施設に住んでいる「障がい当事者」のために記者会見を開き、たくさんの人を集めた。

彼らが地域のグループホームに移行する一助となったらしい。

「全米知的遅滞者協会」が行った1990年非公式の調査によれば、現在アメリカには374の「ピープル・ファースト」の支部、および同様の団体があるという。

この数は1985,87年には200だったことを考えれば、著しく増加している。

「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」は、参加者が多く、発想の新しさにおいて、大きな影響を残した。

中でも意義深かったのは、専門家や親たちが、「知的障がい者」を意思決定の過程に参加させた点だ。

この概念自体は以前から言われ、なにも新しくはなかったが、今までは申し訳程度にしか努力されなかった。

「障がい」を持つ者には、持たない者と同等の決定権が与えられなかったのだ。

しかし今回は違う。


たとえば「全米知的遅滞者協会」は、「ピープル・ファースト独立宣言」にある「精神薄弱という呼び方をやめて」という要求に応えて1991年、名称を「The Ark(アーク)」に変更した。

この「セルフ・アドボカシー」は、「知的障がい者」対象のサービスを担う専門家への、第二の革命と言えた。

それでは第一の革命は?というと、それは第2次世界大戦後、「知的障がい者」を子に持つ親たちが始めた。

親たちは当時、「知的障害」を持つ子供にもっとサービスを提供してほしいと訴えたが、同時に、医師や専門家が人を見下したような態度をとっていることにも不満をつのらせていた。

親たちは元々、「障害を持った子供」がいることに対して、後ろめたさを感じていたが、医師はそんな気持ちも解せずに親に接し、彼らに子供に関する意思決定などできっこない、能力がないと決めつけていたのである。

この不満は、いくつもの団体設立につながった。

一つは1950年代に創立された「全米精神薄弱児の親と友の会」で、さきほどの「アーク」の前身だ。

これらの団体は親に対する専門家の見方を変革させ、最終的には両者が対等なパートナーとしてアドボカシーを行うまでに持って行った。

今日の「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)は、この「第一の革命」の功績を一回り大きくさせたと言える。


「アーク」の創立者の一人は説明する。

「親たちの運動は、当初とは違って疲労困憊してしまい、「知的障がい者」の生活を向上させる新鮮なアイデアが、今度は、「障がい者」自身から生まれたのです」。

コネチカット州の「ピープル・ファースト」の顧問は、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)の方が親たちよりも力強い権利の闘士だと感じる。

「息子や娘にほとんど期待するな、と言われ続けてきたのが親です。

だから親は自分たちの要求する水準以下でも喜んで受け入れてしまう傾向がありました。

が、当事者の運動=「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」は、「障がい者」自らの選択が良い、という信念を決して譲らない。

当事者の「障がい」がどんなに重くても、この信念は絶対に譲らないのだ。

ここは自由の国です。言いたいことを言っていいのです」。


専門家や「障がい」のない世界に対する反乱である「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」。



しかしこの反乱は、逆説的にも「知的障がい」を持たない人々に頼って成り立っている。

「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」の核心である「自己主張」をするためには、複雑な情報を得、その中から選択をし、最終的な判断を下さなければならない。

しかし「知的障がい者」は、このプロセスで困難が生じる。

自己主張のためには、どうしても周囲の助けが必要になるのだ。

もう一つの逆説は、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」が、挑戦の対象である専門家や「知的障がい」の無い世界から奨励されてきたことである。

たとえば「第1回コネチカット・ピープル・ファースト会議」では、州の「知的障がい局」のコミッショナーが挨拶に立った。

「すべての人々が対等に存在する、全く新しい世界。皆さんはこういった世界を作ろうとなさっています。新しい時代を担う皆様方に脱帽します」。


「知的障がい者」と呼ばれる人々の能力と経験は、決して一様ではない。

コネチカット州の会議に参加した「セルフ・アドボケイト」を見れば、このことはよく理解できる。

参加者の大半はグループホームに住むか、親と一緒に住んでおり、ごく少数は一人で暮らしている。

けれども中には会議終了後に、大規模収容施設の自分の部屋に戻る人たちもいた。

彼らはそこで人生の大半を過ごしてきた。

参加者の大半は、軽度の「知的障がい者」である。

「アーク」によれば、アメリカには750万人の「知的障がい者」がいるが、その89%は軽度と判定されている。

この意味でコネチカット州の参加者は平均的だ。

ただ一口に「軽度」と言っても、読み書きがしっかりできる人もいれば、他の人に自分の言いたいことを理解させられない人もいる。

また大半は仕事を持っているが、他の「障がい者」と一緒に隔離された施設で生活している人もいる。


          (引用ここまで)

            *****


とても西洋的な文章で、読むのに少し苦労しましたが、このような世界的な障がい者運動の歴史を知ることは、大切なことではないかと思いました。

わたしの子供時代には、学校で障がいのある子どもと友達になった記憶がありません。

わたしの子供たちの学校時代には、数人の障がいのあるお子さまの姿を見かけたように思います。

わたしは全然歴史を知らなかったのだと、改めて思っています。


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(再掲)行ってきました。1000人の追悼集会「ピープルファースト大会」・・やまゆり園殺傷事件

2017-07-29 | 心身障がい


昨年7月26日に起きた障がい者施設やまゆり園殺傷事件から1年たちました。
引き続き、追悼の気持ちを込めて昨年の当ブログの記事を、以下に再掲させていただきます。

              *****

先月新聞の予告記事をご紹介した、9月の「ピープルファースト大会in横浜」の催しに9月21日・22日、ボランティアとして参加してきました。

だいぶ時間が過ぎてしまいましたが、今も心にはっきりと残る印象的な催しでした。

「ピープルファースト大会in横浜」HP

「相模原やまゆり園殺傷事件(2)・・人権感がる動き広がる・追悼集会やライブ企画」

「1000人集会と言っても、まさかほんとうに1000人?」と思っていたわたしの考えは、大きく覆されました。

実に、本当に全国から1041名の方がたが集結して、それはみごとな大規模な催しが開催されました。

NHKの「テレビニュース」でも放送され、朝日・毎日・読売・東京・神奈川新聞が翌朝、写真入りで記事を出していました。

なんとかして「やまゆり園」の犠牲者の方々を追悼したいと願っていたわたしは、このようにしっかりとした追悼の催しが、障がい者の方々自身の主催で行われたという事実に、とても深い感動を覚えました。

なんのお役にもたてませんでしたが、自分もボランティアとして関わることができて、とても多くのことを学ばせていただきました。



全国大会の会場は、横浜・大さん橋ホール。

正午、全国から皆さん方がやってきました。

わたしもお手伝い。。

昼食が済むとパネルディスカッションがあり、優生思想による大量殺人だ、匿名報道は不可解、やまゆり園の友人が生きているのかどうかも分からない、死んでも名前も呼んでもらえないのか、施設に閉じ込めないで町で安心して暮らしたい、などなど、各自の考えを述べられました。

神奈川県知事は訪れ、菅官房長官はビデオメッセージで、弔辞を述べていました。










その後、参加者全員が、折り鶴を献花に見立てて供え、長い時間をかけて、追悼会が行われました。









当日夜のNHKの「テレビニュース」の時間に、会場でインタビューを受けていた方々の声を流す放送がありました。

翌日の各紙朝刊にも、記事が載っていました。








                ・・・・・

「相模原殺傷 障害者ら議論「同じ人間、名前で報道を」」
                 東京新聞 2016・09・22


相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件を受け、全国の知的障害者ら約千人が参加し、事件について議論する集会が二十一日、横浜市中区であった。

「(植松聖(さとし))容疑者が語った『障害者はいらない』という言葉は、子どものころからわれわれに向けられている」。

参加者たちは事件を痛みとともに受け止める。

事件の犠牲者が匿名となっていることには、参加者から疑問の声も上がった。

集会は、知的障害者の当事者がつくる「ピープルファーストジャパン」(事務局・奈良県三宅町)が年に一度、各地の持ち回りで全国大会を開催。

今年は横浜での準備中に事件が発生、テーマを差し替えて「匿名報道」「入所施設の立地」の問題について、各地代表の知的障害者ら四人が意見交換するなどした。

大会の実行委員長、小西勉さん(51・神奈川)は神奈川県警が「プライバシーへの配慮」などを理由に被害者を匿名発表した点について「仲間として言いたい。誰が亡くなったか分からない」と発言。

「せっかく付けてもらった名前を出してほしい。みんな同じ人間なのに…」と続けた。

土本秋夫さん(60・札幌)も「亡くなっても人間とは扱われず、名前を隠すのは差別だ」と強調した。
 
参加者からは、全国で施設に入所する知的障害者が約十三万人いるのに、やまゆり園をはじめ、施設が山あいなど不便な場所に多いことへの疑問も出た。

中山千秋さん(49・大阪)は「地域で邪魔にされ、行政や親の都合で入所させられることもある」と課題を挙げた。

小田島栄一さん(東京)は「あなたは何もできないんだから、施設に行かないと仕方ないでしょうと言われたこともあった」と振り返り、「障害者は地域に『いらない』と言われる」風潮があると指摘。

「知的障害者も地域でのびのび暮らしたい」と求めた。

一方で会場から「施設にもいい点はある」という意見も出た。

集会の最後に、参加者が花束や折り鶴を犠牲者に手向けた。

大会は二十二日に、障害者施設での虐待事件などをテーマにした分科会を開いて閉幕する。

         (新聞ここまで)
         
           ・・・・・




2日目は大雨の中を、別会場に分かれて、テーマ別のディスカッションが行われました。

「自分の人生を人に伝える」というテーマの会場では、参加者全員に「自分の人生を人に伝える」という課題が出され、短い時間でまとめて、それを一人一人発表していました。

発表者のお一人が「私はみじめでも、哀れでもありません。生きたくて生きているんだ、ということを知ってほしいです」とはっきりと語っておられたことがとても心に残りました。

その後、大さん橋の大ホールに戻り、1000人による神奈川宣言。

「私たちは、障がい者である前に、人間だ。津久井やまゆり園の事件を忘れない。」

という宣言を採択し、閉幕しました。



(写真・一番下は「ピープルジャパン北海道」のチラシで、大会宣言ではありません)。



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「光市母子殺人事件・・少年と死刑(1)」(4)まであり


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(再掲)生きていること自体が尊さである・朝日新聞「耕論」・・相模原やまゆり園殺傷事件(4)

2017-07-28 | 心身障がい



障がい者施設・やまゆり園の殺傷事件から1年。

当ブログからの再掲を続けたいと思います。

              *****

生きていること自体が尊さである・朝日新聞「耕論」・・相模原やまゆり園殺傷事件(4)
                               2016-10-18


「(耕論)障害があったとしても 奈良崎真弓さん、浅野史郎さん、雨宮処凛さん」
                         朝日新聞2016・08・26


事件に関する3人の方々へのインタビュー記事です。

             ・・・・・

          (引用ここから)


障害があるゆえに命が奪われる社会とは何なのか?

施設で暮らしていた19人が刺殺された事件。

当事者の思い、私たちの心の底にある意識と、どう向き合えばいいのか?


              ・・・


「障害者でよかった、今思う」 奈良崎真弓さん(「本人会サンフラワー会」代表)


事件はテレビのニュースで知りました。

「障がい者なんていなくなればいい」と植松聖容疑者が話していると知り、心が壊れました。

小学5年の時のことを思い出しました。

授業についていけなくなった私に、友だちは「死ね」「障害者はいらない」と言い、離れていきました。

とてもショックでした。

二十数年忘れていた言葉が心にグサッときて、2日間、嘔吐と寒気に襲われました。

家族と暮らす自宅から週に4日働いている花屋へ行く途中、誰かから同じことを言われるのではと。

怖い。

今も夜中に目が覚める。

事件が起きた施設にいたらどうなっていたのか?

「助けて」と言えただろうか? 妄想してしまう。

植松容疑者が障害者の命を否定したことは許せません。

でも、事件を予告した時、なぜ周りの人が注意しなかったのでしょうか?

植松容疑者の人生がダメになったのは、もったいない。

怒りというより悲しいです。

障害者がいなくなればいいと思うことはたぶん、みんなにあると思います。

でも障害者が本当にいなくなったら、どんな社会になるんだろう? 

みんな年をとると体が動かないことがありますよね?

事故で体が不自由になるかもしれない。

その時、「あなたはいらない」と言われたらどう思いますか? 

ピンピン元気な人ばかりだったらロボットの世界のようだと思いませんか? 

街や駅のバリアフリーもないかもしれません。


月に一度、知的障害者の本人が集う会を開いています。

仕事や年金、住居、恋愛といった悩みを話し合ってアドバイスしたり、法律を勉強したり。

家に閉じこもりがちな人には「怖くても飛び出してみようよ。誰かが君を支えてくれる」と励まします。

街に出て、障害のない人と私たちが出会う機会が増えれば、お互いを大事にできると思う。

障害があるとかないとか関係なく、一緒に笑ったり感動したり、時には泣いたり怒ったり。

それだけで、人は生きている価値があるんじゃないでしょうか?

あるがままの命の重さを感じられるんじゃないかと思うんです。

がんばらなくていい。笑ったり泣いたり、できない人には「どうしたの?」と寄り添えばいい。

専門用語や長い文章はわかりづらいし、難しい漢字は書けません。

頭の中で計算するのも苦手。

障害がない自分になりたいと思ったことは何度もあります。

でも、親身に支えてくれる人や、顔の筋肉は動かないけれど目を開けて「きょうも生きている!」と感動させてくれる知的障がいと身体障がいのある男性など、さまざまな人と出会い、人は一人ひとり違っていいと実感できた。

だから今、こう思うんです。「障害者でよかった」、と。

     *

ならざきまゆみ 78年生まれ。知的障害があり、当事者の視点から発信を続ける。自治体の施策作りに関わり、海外で活動も。



              ・・・

「地域での生活で、偏見をなくす」 浅野史郎さん(神奈川大学特別招聘教授)

1970年に厚生省(現・厚生労働省)に入省してすぐの初任者研修で、重症心身障害児施設を見学しました。

生まれて初めて大勢の重症心身障害児を見てショックを受けました。

「この子たちはこうして生きていく意味があるのだろうか」。これが率直な気持ちでした。

「いなくなればいい」とまで考えなくても、「かわいそう」と思う人は少なくないと思います。
 
「かわいそう」と思うのは、ひとえに私たちが障害者に対して「無知・無理解」だからです。

障害者を知ることで、社会からそんな偏見はなくなっていくと思います。

私の考えが変わったのは、福祉課長として北海道庁に赴任し、施設を訪ねて話を聞いて回ってからです。

どんなに重度の障害者でも、昨日できなかったことが今日できるようになることがある。

そんな進歩があれば、生きていて良かったと思う。

その積み重ねが生きていくということなんだと。

障害者の声なき声に耳を傾けているうちに、彼らは施設での生活を望んでいるのだろうかと疑問を持つようになりました。

当時は「収容施設」という言い方をしましたが、施設に死ぬまでいるのが彼らの望みとは思えなかった。

普通の生活は地域の中にある。

それで厚生省の障害福祉課長の時に始めたのが、少人数で一緒に暮らす「グループホーム(GH)制度」です。

制度が始まった89年は100カ所でしたが、今では7000カ所ぐらいになり、着実に地域移行は進んでいます。

在宅や通所のサービスも充実してきました。

2006年に施行された「障害者自立支援法」では、地域生活支援が明確にうたわれた。

30年近くが経ち、「施設から地域へ」という流れは大きく前進しています。

その一方、事件が起きた「津久井やまゆり園」のように、百数十人の障害者が一緒に暮らしている施設がいまだにある。

一気には変われないと思いますが、10年後も今のままでいいのか、真剣に考えなければいけません。

今回の事件を受けて、施設に防犯カメラを増やしたり、塀を設けたりといった警備の強化を進める動きがあります。

しかし、これはまったく反対の方向だと思います。

施設を一種の「要塞」にしてしまえば、「特異な場所に住む特異な人」という認識を再生産しかねません。

なぜ、40人以上もの人が、わずか1時間足らずで傷つけられたのか?

施設によって確保される安全もあると思うが、グループホームでばらばらに暮らしていれば、いっぺんに襲われることはなかったはずです。

集団的で、ともすれば閉鎖的になりがちな施設の住まい方を変えるため、入所者の地域移行を今後も着実に進めていく必要があると思います。

     *

あさのしろう 48年生まれ。93年から3期務めた宮城県知事時代に大規模施設に入所する知的障害者の地域移行を進めた。

             ・・・

「「命よりお金」、私たちにも」 雨宮処凛さん(作家・活動家)

植松容疑者の行為は、期待通りの経済的な利益を生まない者は生きる価値がないという、この国の津々浦々にうっすらとはびこる価値観が露骨に表れた最悪の結末です。

介護や医療などの社会保障費は財源がないからと削減され、本来は長寿をことほぐべき高齢者が社会のお荷物のように扱われる。

労働者は過労死寸前まで働かされ、企業の都合で使い捨て。

リストラされた人は時に自殺に追い込まれ、生活保護費も切り下げられています。

経済至上主義の中で、障害者だけでなく、そうでない人の命も、常にお金とてんびんにかけられ、値踏みされているのです。

こうした価値観は1990年代後半以降、グローバル化に伴い国際競争が進むにつれて顕著になった。

99年に障害者施設を訪ねた石原慎太郎東京都知事は「ああいう人ってのは人格あるのかね」と述べました。

麻生太郎財務相は今年6月、高齢者の老後に言及して「いつまで生きてるつもりだよ」と発言。

でも、この社会は本気で怒らなかった。

「かけがえのない命」と言われる一方、経済が人の命よりも優先される「命のダブルスタンダード(二重基準)」が、まかり通ってきたのです。

植松容疑者が犯行前、衆院議長あてに「日本国と世界のため」と書いたとされるのは、自身の行為の理解者がいると思ったのではないでしょうか?

人の生存は本来、無条件に肯定されるのが大原則。

2歳児は「年収いくら?」などと聞かないし、障害者を差別もしない。

他者をあるがまま承認する価値観は生まれながら持っているのに、成長する過程で奪われていく。

今大切なのは、私たち一人ひとりが意図的に経済的な価値とは異なる視点に立ち返ることです。

自分の中にも弱い立場の人に対する差別の芽があると自覚し、極端な考えにつながらないよう自己チェックする。

少し弱っていたり、生きづらさを感じている誰かへの優しいまなざしを忘れない。

ふだんから命を大切にする実践を積み重ねることでしか、「利益を創出する者だけに価値がある」という暴力的な価値観にあらがえないと思うのです。

かつては私自身も年収で人を見るような人間でした。

でも「反貧困」の運動を通して、障がいのある人が「生きさせろ」と叫んでいるのを見て、働けるかどうかと個人の存在価値は関係ないのだと、人間観が変わりました。

ある集会で出会った難病の女性の姿が忘れられません。

車いすで眠っているように見えた女性は、わずかな筋肉の動きで介助者にこう伝えたのです。

「まだ死んでない」。

会場は笑いに包まれました。

荘厳な儀式のような豊かなコミュニケーションの作法。

ここに生きていること自体の尊さ。

こうした世界をご存じですか?

     *

 あまみやかりん 75年生まれ。貧困、非正規労働などの問題に取り組む。著書に「14歳からわかる生命倫理」など。

              (引用ここまで)

                *****

雨宮処凛さんの最後の一言、

>荘厳な儀式のような豊かなコミュニケーションの作法。
>ここに生きていること自体の尊さ。
>こうした世界をご存じですか?

まさにそうだと思います。


                *****

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(再掲)相模原やまゆり園殺傷事件(1)・・犯人の声明文

2017-07-27 | 心身障がい
相模原のやまゆり園殺傷事件から1年たちました。

追悼の気持ちを込めて、まず犯人の声明文を再掲します。

なぜこのようなことがおきるのか、自分を含め、人の心の弱さ悲しさを感じます。

どうしたらいいのか、なにができるのか、考えなければいけないと思います。

           *****
         
         (再掲ここから)



この夏、わたしが一番おどろいた出来事は、相模原の知的障がい者施設でおきた、突然の大量殺人事件でした。

若者とはいえ、一人で45分間に46人も殺傷するという体力と気力が、どこから出てくるのかと驚きました。

いったいなぜ、そんなことをしようと思うのか、犯人の犯行声明ともいえる手紙を、わたしは幾度も読み返しました。

戦後の殺人事件の殺人数としては最悪だということですが、事件以来、さまざまなことが思われ、ずっと心にかかっています。

まずは、犯人の犯行声明の手紙を掲載します。

奇妙な論理ではありますが、趣旨は一貫しており、犯人が手紙の中に書いているように、精神疾患として無罪になるとは思えない、、と思いますが、その奇妙さを、わたしは検証してみたいと思っているのです。


             *****

           (引用ここから)

植松容疑者が書いた手紙(全文)

以下は1枚目の内容。

衆議院議長大島理森様(1枚目)

この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。

私は障害者総勢470名を抹殺することができます。

常軌を逸する発言であることは重々理解しております。

しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。

理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。

障害者は人間としてではなく、動物として生活を過しております。

車イスに一生縛られている気の毒な利用者も多く存在し、保護者が絶縁状態にあることも珍しくありません。

私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。

フリーメイソンからなる●●●●が作られた●●●●●●●●を勉強させて頂きました。

戦争で未来ある人間が殺されるのはとても悲しく、多くの憎しみを生みますが、障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます。

今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛い決断をする時だと考えます。

日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。

世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。

是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。

私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。

衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。


植松聖の実態(2枚目)


私は大量殺人をしたいという狂気に満ちた発想で今回の作戦を、提案を上げる訳ではありません。

全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意を持って行動しました。

今までの人生設計では、大学で取得した小学校教諭免許と現在勤務している障害者施設での経験を生かし、特別支援学校の教員を目指していました。

それまでは運送業で働きながら●●●●●●が叔父である立派な先生の元で3年間修行させて頂きました。

9月車で事故に遭い目に後遺障害が残り、300万円程頂ける予定です。

そのお金で●●●●の株を購入する予定でした。

●●●●はフリーメイソンだと考え(●●●●にも記載)今後も更なる発展を信じております。

外見はとても大切なことに気づき、容姿に自信が無い為、美容整形を行います。

進化の先にある大きい瞳、小さい顔、宇宙人が代表するイメージ

それらを実現しております。私はUFOを2回見たことがあります。未来人なのかも知れません。

本当は後2つお願いがございます。

今回の話とは別件ですが、耳を傾けて頂ければ幸いです。何卒宜しくお願い致します。


医療大麻の導入

精神薬を服用する人は確実に頭がマイナス思考になり、人生に絶望しております。

心を壊す毒に頼らずに、地球の奇跡が生んだ大麻の力は必要不可欠だと考えます。

何卒宜しくお願い致します。

私は信頼できる仲間とカジノの建設、過すことを目的として歩いています。

日本には既に多くの賭事が存在しています。

パチンコは人生を蝕みます。

街を歩けば違法な賭事も数多くあります。

裏の事情が有り、脅されているのかも知れません。

それらは皆様の熱意で決行することができます。

恐い人達には国が新しいシノギの模索、提供することで協調できればと考えました。

日本軍の設立。

刺青を認め、簡単な筆記試験にする。


出過ぎた発言をしてしまし、本当に申し訳ありません。

今回の革命で日本国が生まれ変わればと考えております。


作戦内容(3枚目)


職員の少ない夜勤に決行致します。

重複障害者が多く在籍している2つの園【津久井やまゆり、●●●●)を標的とします。

見守り職員は結束バンドで身動き、外部との連絡をとれなくします。

職員は絶対に傷つけず、速やかに作戦を実行します。

2つの園260名を抹殺した後は自首します。

作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。

逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。

心神喪失による無罪。

新しい名前(●●●●)、本籍、運転免許証等の生活に必要な書類、美容整形による一般社会への擬態。

金銭的支援5億円。

これらを確約して頂ければと考えております。

ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します。

日本国と世界平和の為に何卒よろしくお願い致します。


        (引用ここまで・写真は記事と関係ありません)

       
            *****


「ご決断いただければ、いつでも作戦を実行致します」と書いてありますので、犯人は、森衆議院議長により依頼されたと判断したのでしょうか?

手紙を渡したのが2月で、事件をおこしたのが7月。

彼は、なにをしようとしたのでしょうか?


>私は大量殺人をしたいという狂気に満ちた発想で今回の作戦を、提案を上げる訳ではありません。

>全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意を持って行動しました。

全人類が心の隅に隠した想い。。

全人類の想い、、では決してないけれど、人類史の中にある、障がい者の歴史を考えてみようと思いました。



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「わたしはむやみに傷つけられなくてもよい・・なぜ人を殺してはいけないのか(2)」

「愛されている、という感覚・・キャンディーズのスーちゃん」


「脳と墓(1)・・妄想とはなにか?」(2)あり


「心身しょう害」カテゴリー全般

       (再掲ここまで)

         *****
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匿名報道は差別、「親の会」会長・久保厚子さん・・やまゆり園殺傷事件から半年

2017-01-26 | 心身障がい
知的障がい者施設やまゆり園の殺傷事件から半年たちました。

まだアップしていない記事がありますので、投稿します。

事件直後に全国組織「全国手をつなぐ育成会連合会」の会長の発言がありました。



「「被害者の匿名報道は障害者への差別」、親の立場から「育成会」の久保会長が指摘」
                            福祉新聞 2016・09・26

              ・・・・・


事件に対する思いや今後の団体としての活動について、障害のある子を持つ親の立場から「全国手をつなぐ育成会連合会」の久保厚子会長に聞いた。


「生きる価値は誰にでも」

●久保

事件翌日、「育成会」が障がいのある人に対して行った呼び掛け(下記に掲載)は反響を呼びました。

事件直後から、外出が怖いと不安を訴える声が多く寄せられたのです。

そこで、「私たちは一人ひとりが大切な存在」「胸を張って生きて」というメッセージを出しました。

意見は、身体や精神に障がいのある方からも寄せられました。

実は今でも毎日届いていて、300件を超えています。

中には「障がい者に税金を使うのは無駄」という誹謗中傷もあります。

しかし話をよく聞くと、その人も生活が苦しそうだったり、家に引きこもっていたりする。

将来への不安からわざわざ連絡するのかもしれません。

社会のゆがみのようなものを感じます。


〇今回の事件は、被害者が匿名だったことも物議を醸しました。

●久保

警察から名前を公表するか問われれば、誰だって匿名を選択するでしょう。保護者を責めることはできません。

しかし神奈川県警が事前に保護者へ匿名にするか聞いたのは、障がい者への差別的意識があるからではないでしょうか?

通常の事件だとわざわざ確認しないでしょう。

「障がい者はかわいそうな存在」という偏見があるからだと思います。

「育成会」は60年以上前、障がいのある子を持つ親の会として設立され「我が子にも人権と幸せを」と訴えてきました。

そうして教育や移動手段、選挙権などの分野で権利を得てきたのです。

だからこそ、障害を理由とした特別な配慮を求めることはできないと思っています。

今後、親も乗り越えなければならない課題です。


〇障害への理解は、どう進めますか?


●久保 

障がい者への差別や偏見は、知らないからこそ起こります。

地域の清掃でもよいのです。各地で障がい者と社会が関わる経験を積み重ねるしかないと思います。

「育成会」としては、会報誌の9月号で、障がいのある本人と家族や仲間が笑顔で写った写真を200点ほど掲載しました。

障がいがあっても充実した人生を送っていることを、発信できればと思っています。


〇容疑者に言いたいことはありますか?

●久保

容疑者の発言は、とてもつらいものでした。

障がいがあっても、親にとってはかけがえのない家族です。

その子がいるからこそ味わえる、楽しい時間もあります。

でも正直なところ、障がいのある子を持つ親の気持ちは、他人に完全には理解してもらえないだろうとも思うんですよね。

誹謗中傷を受けている人はとても多くいますし、家族が抱えるモヤモヤした気持ちは当事者でないと分からない部分もあります。

かといって、周りに何か特別なことをしてほしいわけでもないんですよ。

近所に障がいのある子いるよねと認識し、存在を認めてもらうだけでもいいんです。

そもそも障がいに関係なく、人が生きる価値は、他人が決めるものではない。

誰もがその人なりの人生を精いっぱい生きています。

障がい者の成長や可能性は強調されがちですが、それだと結局どこまでできれば価値があるのかという議論に引っ張られてしまいます。

生きる価値は自分が決める。それを皆が尊重する。

そんな共生社会になればと思っています。


                ・・・・・

「全国手をつなぐ育成会連合会」HP
http://zen-iku.jp/


事件翌日・7月27日に出された同会の「声明文」全文は以下の通り。


             ・・・・・

「「私たち家族は全力で守る 堂々と生きて」育成会が声明」
               朝日新聞2016・07・27


 知的障害のある人と家族らでつくる「全国手をつなぐ育成会連合会」は久保厚子会長名で、障害のある人向けのメッセージを出した。

     
(障害(しょうがい)のあるみなさんへ)

 7月(がつ)26日(にち)に、神奈川県(かながわけん)にある「津久井(つくい)やまゆり園(えん)」という施設(しせつ)で、障害(しょうがい)のある人(ひと)たち19人(にん)が殺(ころ)される事件(じけん)が起(お)きました。

 容疑者(ようぎしゃ)として逮捕(たいほ)されたのは、施設(しせつ)で働(はたら)いていた男性(だんせい)でした。

 亡(な)くなった方々(かたがた)のご冥福(めいふく)をお祈(いの)りするとともに、そのご家族(かぞく)にはお悔(く)やみ申(もう)しあげます。

 また、けがをされた方々(かたがた)が一日(いちにち)でも早(はや)く回復(かいふく)されることを願(ねが)っています。

 容疑者(ようぎしゃ)は、自分(じぶん)で助(たす)けを呼(よ)べない人(ひと)たちを次々(つぎつぎ)におそい、傷(きず)つけ、命(いのち)をうばいました。

 とても残酷(ざんこく)で、決(けっ)して許(ゆる)せません。

 亡(な)くなった人(ひと)たちのことを思(おも)うと、とても悲(かな)しく、悔(くや)しい思(おも)いです。

 容疑者(ようぎしゃ)は「障害者(しょうがいしゃ)はいなくなればいい」と話(はな)していたそうです。

 みなさんの中(なか)には、そのことで不安(ふあん)に感(かん)じる人(ひと)もたくさんいると思(おも)います。

 そんなときは、身近(みぢか)な人(ひと)に不安(ふあん)な気持(きも)ちを話(はな)しましょう。

 みなさんの家族(かぞく)や友達(ともだち)、仕事(しごと)の仲間(なかま)、支援者(しえんしゃ)は、きっと話(はなし)を聞(き)いてくれます。

 そして、いつもと同(おな)じように毎日(まいにち)を過(す)ごしましょう。

 不安(ふあん)だからといって、生活(せいかつ)のしかたを変(か)える必要(ひつよう)はありません。

 障害(しょうがい)のある人(ひと)もない人(ひと)も、私(わたし)たちは一人(ひとり)ひとりが大切(たいせつ)な存在(そんざい)です。

 障害(しょうがい)があるからといって誰(だれ)かに傷(きず)つけられたりすることは、あってはなりません。

 もし誰(だれ)かが「障害者(しょうがいしゃ)はいなくなればいい」なんて言(い)っても、私(わたし)たち家族(かぞく)は全力(ぜんりょく)でみなさんのことを守(まも)ります。

 ですから、安心(あんしん)して、堂々(どうどう)と生(い)きてください。

平成(へいせい)28年(ねん)7月(がつ)27日(にち)

 全国(ぜんこく)手(て)をつなぐ育成会連合会(いくせいかいれんごうかい)

会長(かいちょう) 久保厚子(くぼあつこ)


          
             ・・・・・


障がいのある方々が、この事件に、とても恐怖を感じておられると、はっきりと書かれています。

「ひどい事件だねえ」「恐ろしい世の中だ」という気持ちは強くても
その恐怖感は、社会一般には、なかなか伝わらないものではないでしょうか?


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安積遊歩(あさかゆうほ)さんの、やまゆり園事件へのコメント・・怖い思いをしている、と伝えよう

2017-01-19 | 心身障がい


久しぶりになりますが、今日の夕刊に相模原やまゆり園事件の記事をみつけました。

          ・・・・・

「ひと」・奈良崎真弓さん 相模原事件を語る会を主宰する知的障害者」
                          朝日新聞2017・01・19

「私いま壊れそう」。

昨年7月に相模原市の施設で知的障害のある19人が刺殺された翌日、知人にそうメールを送った。

そして考えた。

「こんな事件が起こるのは、知的障害者は何もできないと思われているから。事件への思いを障害者本人の言葉で伝えたい」

4カ月後、9人の知的障害者らと語る会を開催。

封印していた悲しみや怒りがあふれ出た。

この活動を全国に、と計画する。

小学5年の時、算数の計算や漢字の勉強についていけなくなり、友だちからいじめを受けた。

孤独を忘れさせてくれたのは、次兄の勇さんと過ごす時間。

知的障害のある勇さんは、言葉の代わりに豊かな表情で語りかけてくれたが、4年後の秋、20歳で急逝した。

25歳の時、知的障害者の活動家ロバート・マーティンさんから

「障害者自身が声を上げ、物事を決めることが大事。真弓ならやれるよ」と言われた。

周囲から「明るさと行動力は天性のもの」と評される。

数カ月かけて地元の横浜市内に障害者らが集う「本人会」を立ち上げた。

花屋で働く傍ら、障害者自らの発信にこだわる。

「自分でやりたいことを選べて、困った時は『助けて』と言える社会はだれもが幸せなはず。障害のあるなしに関係なくお互いを知り、感じ合おうよ」。

将来は知的障害者への支援拠点「マミちゃんセンター」を作るのが夢だ。

             ・・・・・


次は、かつて見つけたあるブログの安積遊歩さんの「相談コーナー」の質疑応答を掲載させていただきます。

サイト名が分からなくなりましたので、あとで追記させていただきます。



安積遊歩さんは以前当ブログでもご紹介した、骨形成不全症で、障がい者問題に取り組む方です。

安積歩遊(あさかゆうほ)著「癒しのセクシートリップ・わたしは車いすの私が好き」
 
              ・・・・・

          (転載ここから)

●相談者の質問

相模原事件のあと、車いすを使っている自分のことを、「みんなも実は厄介者と見ているんじゃないか?」という疑念がとれなくなりました。

外出は好きなほうでしたが、街に出るのもこわくなりました。

これまでそんなふうに感じたことがなかったので、どうすればよいのかわかりません。

アドバイスがあればお願いします。(かもめ・22歳・学生)


この投稿に対して、安積遊歩さんは、以下のように答えています。

            ・・・

〇「こわい気持ちを人に伝えていきましょう」


私もまったく同じ気持ちになりました。

数日間ではありましたが、恐怖におそわれて過ごしました。


遺族への配慮を理由に被害者の名前が報道されなかったことも、非常な差別でした。

親は、考えに考えて子どもに名前を付けます。

名前とは、その人が何者であるかをもっともシンプルに伝えるものです。

名前を発表しないことによって、犠牲者ひとりひとりの大切ないのち、存在そのものに、思いをはせることができなくなります。

家族への配慮が理由として挙げられましたが、家族にとっても、「障がいを持つ家族」という存在が負担とされる社会だからです。

社会の大多数の人々が、障がい者には名前すら必要でない、という意見に賛同しているんだと私には受け取れます。


私たちの社会は、障がいを持つ仲間たちが、番号をふられてガス室に送られた、ナチス時代と同じようなものかもしれません。

当時のドイツでは、人種主義を背景に、優生学が権威を持つようになりました。

障がい者(こどもやユダヤ人も同様でした)の強制収容運動が広がり、ヒトラーの命令のもと、医者たちによって障がいを持つ人々が移送され、殺されました。

この犯罪がホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)につながるのは、多くの歴史書が語る通りです。

その背景には、「生きる価値のない人には安楽死という慈悲を」という、とても身勝手で傲慢な思想がありました。

報道される相模原事件の容疑者の言葉が事実なら、容疑者は、ヒトラーの、ひいてはナチス時代のドイツで受容されていた思想を模倣していると感じざるを得ません。


すぐに効く答えにたどりつくことは、できません。

ただ一つ言えるのは、〝私たちは驚愕し、大きな恐怖におそわれている″ことに、私たち自身が向き合い、可能な限り表現すること。

そして聞いてくれる人を見つけて、伝えていくこと。

私たちの恐怖心を、社会へ発信することが、必要だということです。

どんなに想像力があっても、当事者の話を聞くこと以上に、当事者の気持ちを共有することはできないものです。


まずは、「どんなにこわい思いをしているか」という自分の思いを言葉にしてください。

そして伝えられる限りの人に、繰り返し伝えていきましょう。

語り伝えることを重ねていれば、私たちはだれもが、自分の日々の暮らし、その積み重ねである人生を、かけがえのない勇気と使えるだけの情報を駆使して懸命に生きているという現実を、忘れないで過ごしていくことができます。


たとえば私は、この事件の数日後、バスに乗ろうとしました。

バスの車掌は「リフトがついていないので乗せられない」と言いました。

もし、事件の影響を受けて私の中の恐怖心が勝っていたなら、「もういいか」と、引き下がっていたかもしれません。

でも気づくと、「バスにリフトがついたのは、私たちがリフトのない時代から乗車を望み、交渉の努力をし、まわりの人の手を借りて乗り続けたから。

あなたが言ったような言葉に私たちがあきらめていたら、いま、路線バスの一台にもリフトはついていなかった。だからリフトのないバスにこそ、私は人の助けを得ながら乗る必要があるのです」と、交渉していました。

運転手に訴える自分の言葉を、半ば冷静に、でも充実感を持って聞きながら、やはり私はあきらめていないんだと気づきました。

周りの冷ややかな人のまなざしも感じました。

それでも、「次はリフトのあるバスにも予約がなければ乗せない」という車掌の言葉にさらに発憤して、その差別性を問いただしました。


状況は、たしかに過酷です。

過酷さは、20年前よりもある意味先鋭化しているかもしれません。

若い人たちが互いに分断され、孤立しているようすには、胸がいたみます。

でもそれと同時に、こうして呼びかける私たちの世代がいることも、事実です。


20年前は、同じような障がいを持っていてさえ、「人に迷惑をかけない生き方を選びなさい」と、年上の先輩たちから説教された時代でした。

障がいを持っていてもがまんしない生き方を選んだなら、同じ感性の仲間とつながることが重要です。

今は、私たちの世代にも自立運動を続けてきた仲間がいますし、若い仲間たちもたくさんいます。

そして、障がいを持たない若い人たちもまた、心のどこかで、仲間として呼びかけてもらうことを、待っているように私には見えます。


決してあきらめないで。

こわい、こわいと言いながらでいいから、外に出かけていきましょう。

〝こわいから外出しない″、という選択を終わりにしない限り、事件の容疑者のような考えに凝り固まっている人たちには、私たちの〝人間性″が見えないままになるでしょう。


分け隔てられることは、互いへの理解をはばむことです。

私たちは、障がいのある人と障がいのない人が、分けられ、隔離されることを止めようと運動してきました。

しかしその運動が充分に行き渡らないうちに、今回のような事件が起きたのは、本当に本当に残念です。

あきらめることなく、努力し続けていきましょう。

わがままだとか、手がかかるから付き合いたくないと言い合いができるくらいの、対等な関係を求め続けていきましょう。(遊歩)


           (引用ここまで)

         
            ・・・・・


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浅海さち子さん「谷間の生霊たち」・・重度身障者の不条理の世界

2016-12-19 | 心身障がい


日本の障がい者の歴史を調べている中に、障がい者を描いた文学として、太宰治賞受賞作があるということを知りました。

初めて聞く小説が紹介されていたので、読んでみました。

浅海さち子著「谷間の生霊(せいれい)たち」という本です。

1975年刊行で、県立図書館でやっと借りられました。

タイトルを見た時、これは「いきりょう」だろうか、「せいれい」だろうか、「しょうりょう」だろうか?と感じました。

おそらくそれらがミックスされた濃密な文学空間に違いない、、と思い、期待して読みました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

              *****

           (引用ここから)

奈々枝は、毎日、11時間はたっぷりと眠る。

エチオピアの少年のような華奢な彼女の、信じがたいほどの丈夫さは、その熟睡の中から生まれるのかも知れない。

その朝も、起床は8時過ぎだった。

重度心身障害者施設「山麓病院」に補助看護婦として勤める奈々枝の日々は、時を忘れるほどに充実して、明るいものだった。

小牧院長が週に2度ずつ診療している東京の大学病院で、特別に重症と診断された重症心身障害児だけが、都心から3時間も離れたこの私設の病院へ送られてくるのである。


「オハヨウゴザイマス」。

奈々枝は受付や薬局のドアを開けて、一々丁寧に挨拶をする。

「おはよう、奈々枝ちゃん」。

奈々枝を可愛がっている薬剤師の杉正子は、どんなに多忙な時でもドアまで出て、奈々枝と握手を交わす。

奈々枝もそれを楽しみにしている。

知恵遅れで誰にも相手にされず、世間から隔離されて育った奈々枝を、補助看護婦に採用したのは小牧院長だった。

病院の創立後まもなく、炊事場で働くことになった母親の腰巾着だった奈々枝は、院長の目に留まった。

純なやさしい性格は、病室の児らにもなつかれ、食事も忘れて児らの面倒を見るようになり、やがては毎日欠かさず出勤するようになっていた。

そんな奈々枝をいじらしく見ていた院長は、奈々枝の雇用を思い立った。

長い廊下を渡って病室へ入ると、消毒液の臭いや暖房用の石油ストーブの臭い、大小便の臭いなどが、わあっと奈々枝に押し寄せる。

尿の臭気が特に強いのは、患者たちが分厚いおむつを濡らしている時刻なのだ。


「ミナサン、オハヨウゴザイマス」。

元気いっぱいの奈々枝の挨拶に、どこからも応答はなかった。

家庭のベビーベッドのように柵を巡らされた特殊なベッド群の中から、「う、う」と弱弱しいうめき声が漏れただけであった。

奈々枝の所属するA病棟の患者のほとんどが聾唖者で、盲目で、その上白痴で、手足の機能障害まで重なり、三重苦のヘレンケラーよりも重症な患者ばかりだったから、奈々枝の挨拶に返事が返らないのは当然だった。


「サア、ゴハンヨ。オイシイデスヨ。サァ、サァ、オアガリ・・」。

奈々枝は健ちゃんのベッドに腰をおろし、煮豆の裏ごしをスプーンに乗せて、健ちゃんの口へ運ぶ。

「アマイ、アマイ、トッテモアマイオカズヨ。サァ、オアガリ・・」。

奈々枝がスプーンを唇に持って行っても、健ちゃんの口は堅く閉ざされたままだ。

白痴の児も精薄の児も、ベッドに食膳が運ばれると、巣の中のひな鳥のように口を開けて待っており、白痴で盲目の二重苦の児らもスプーンを口に当てさえすれば、すらすらと食べ始める。

だが四重苦、五重苦の児らには、食欲というものがない。

スプーンで無理やり歯をこじ開け、食物を押し込まなければならないのである。

奈々枝は力の要るおむつ交換よりも、食事の介添えの方が苦手だ。

ようやく歯をこじ開け、食物を押し込んでも、今度は開けたままで噛もうとはしない。

口が開いている間に次々に食物を押し込み、スープを流し入れる。

すると喉が刺激されるのであろう、やっと嚥下作用を起こし、ごくんと喉を動かしはするが、流れ込んだスープを反射的に飲み込むだけで、口の中は相変わらずいっぱい詰まっているのだ。


「ケンチャン、イイコダカラ タベテチョウダイヨ、ホラ、ホラ・・」

奈々枝の懇願もむなしく、ケンちゃんは口の中の食物を舌の先で押し出してしまった。

いつもそうなのだ。

奈々枝は、押し出された食物を、根気よく口の中へ戻してやる。

           (引用ここまで)

             *****

声もなく介護を受け続ける子ども達という〝生霊の住む谷間″の不条理感の、さわりの部分のみのご紹介です。

ケンチャンは死んでしまい、それはなぜか、と展開するのですが、止めておきます。

母が老人介護施設にお世話になっているので、老人ではこういう介護状態は日常だと思うのですが、生まれた時から成長しながらも障がいを抱えて生きるというのは、本当に辛かろうと、改めて思いました。


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残虐さの起源・・ナチスドイツの障がい者大殺戮とやまゆり園(4・終)

2016-12-13 | 心身障がい



引き続き、ヒュー・G・ギャラファー著「ナチスドイツと障害者「安楽死」計画」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****

        (引用ここから)


ナチス時代に何人の障害をもつドイツ人が殺されたのか、正確な数字をあげるのは難しい。

計画終了後の自発的な殺人に関しては信頼に足る数字がないからである。

裁判の文書には12万人という数字が、公立施設入所者で殺された総数であるとするものがあるが、

研究者たちによれば、この数字は控えめであり、27万5000人という推定者もいる。

1238年にベルリンから1万6295人の「精神病患者」が来ていた某地方では、1945年に残っていたのは2379人だった。

某施設では2500人のうち生き延びたのは500人であった。

「安楽死計画」は、ドイツのほとんどすべての「重度障がい者」と「慢性的精神障がい者」の命を奪ったのである。


「こども計画」

「T4計画」は、子供や幼児を対象としなかった。

しかし第三帝国下でドイツ医学を支配していた優生学者と人種衛生学者の邪悪な視線から逃れられたわけではなかった。

誕生時に欠陥のある子どもや、「知的障害」とみなされた子供は、「子供計画」の対象範囲に含まれた。

「子供計画」は、ドイツの小児科医に、奇形や「知的障害」の新生児を殺すのを許可した。

「子供計画」は「T4計画」と並行して、同じようにこじんまりと非公式に始まった後に、大がかりな事業となり、医者による中央委員会がベルリンで結成され、犠牲者の選定を行った。


中央のコントロールがなくなった時点で、各地の小児科医が実権を握り、大規模殺人と化した。

自分の意志で、誰からも監督を受けず、誰にも報告せずに、小児科医は活動した。

事件の指導的立場にあった医師ブラントは、法廷裁判で、ドイツの「障害児計画」は、遺伝病に苦しむ子供の誕生を防止するための1933年の「断種法」の延長線上にあると証言した。

そして、同様の法律が米国を含む多くの国で施行されている、と言及した。


この法律が、本人と家族に汚名を着せたのは間違いなかった。

政府は、欠陥のある子どもに反対するキャンペーンを開始した。

1920年に著されて影響力を持った研究は「無価値の生命を圧殺する許可」だが、著者は「脳損傷」や「知的障害」といった「人間バラスト」の場合には、殺人はただの殺人と異なり、許されるべき有益な行為であると力説している。

賛否両論が巻き起こったが、奇形の新生児殺害は、ナチス以前のドイツで大方受け入れられていた。

その証拠の一つに1920年の世論調査で「精神的に障害のある子どもの両親・保護監督者の73%がそういった子供を殺すことに賛成である」という結果が出ている。


ナチスドイツには、殺人の空気が漂っていた。

非公式に、何の許可もなく、医者は1933年以来、自分たちで活動を始めていた。

生きる能力がないと見なされた新生児は、医者の判断だけで殺された。

研究者は「自発的殺人」と名付けたが、罰せられることはなかった。

1930年代当時に存在した、犯罪行為を取り締まる仕組みは、「取るに足らない」とか、「証拠不足」という名目で機能しなかった。

中央がコントロールした政府の計画が始まる前に、殺人がどの程度行われていたのか不明である。


ミュンヘン郊外の某病院で、プファンミュラー博士が幼い患者を餓死させていたことが知られている。

1939年に同病院のツアーに参加した心理学者ルードヴィッヒ・レーナーが、ニュルンベルク裁判に提出した証言録は以下のとおりである。

「プファンミュラが語ったのはおよそ以下の通りである。

「これらの生物(子供を意味していた)は、国家社会主義者としてのわたしにとって、健康な民族への重荷にしかすぎない。

私たちは毒や注射で殺すことはない。

そんなことをしたら外国のマスコミやスイスの赤十字が大騒ぎする新材料を提供するだけだ。

うちの方法はもっと簡単で、自然だ。

御覧いただきたい」。

こう言うと、看護婦に助けられて、子供を小さなベッドから起こした。

その児をまるで死んだウサギのように示し、ひねくれた笑いを浮かべ、よく分かっているという表情で「これはあと2、3日かかるだろう」と口にした。

このでっぷりとした男は薄笑いを浮かべ、その肉厚の手には、やせ細った児が泣いていた。

他の児たちも飢えていた。


この場面は今でも私の脳裏にまざまざと焼き付いている。

この人殺しは、説明を進めた。

「急に食事を止めるのではなく、徐々に減らす方法をとっている」と語った。

ツアーに参加していた女性が、怒りを必死におさえながら「注射による速やかな死が、少なくともまだ慈悲があるのではないか?」と質問した。

これに対して彼は「外国の報道を考慮すれば、自分のやり方の方が現実的である」と自賛した。

「精神病」の子供だけでなく、ユダヤ人の子供も殺されるという事実を、彼は隠そうともしなかった」。


戦争末期に、ドイツは生き地獄と化した。

ドイツは、死体安置所となった。

ヒトラーの生命観は「永遠の闘争」だった。

「強者は自分の意志を押し付けることができる。

それが自然の法則だ」。

「ジャングルの法則」である。

10年間で、ヒトラーはドイツを「ジャングル国家」に変えた。

野生の霊長類を研究している科学者の報告に、「攻撃レベルが上昇したある環境下ではサルが幼い仲間に敵意を抱き、赤ん坊を殺し、食べる」という恐るべき現象がある。

同じように、ヒトラーの市民は、破壊の衝動にかられ、自分たちの子供に敵意を示し、殺したのである。



           (引用ここまで・終)


               *****



同じテーマを扱った本に、精神科医・小俣和一郎氏の「ナチス もう一つの大罪」という本もあります。

ほとんど内容が重複するので、ご紹介に留めます。



ナチスドイツの思想について考察した有名な本に、哲学者ハンナ・アーレントの「イェルサレムのアイヒマン・悪の陳腐さについての報告」という本があり、「悪の凡庸性」という概念は有名です。

戦後のナチス裁判を傍聴した彼女が著したこの本は、ナチスドイツによる信じがたい悪事の根源として、人間が悪を行う時に、きわめて凡庸な精神で行うという観察が書かれています。

これは、子供たちの間の「いじめ」や、家庭内暴力(DV)から、様々な戦争まで、ありとあらゆる人間間の争いに共通するものであると思われ、ある状況下に置かれた人間が、判断力を失うと、命令に従っていかなる悪も行ってしまうものである、と考察しています。

この特殊な心理状態について、心理学の研究もおこなわれています。

その実験・研究によると、どんな人でも状況により、他人に対して加虐を行う事実が実証されています。

この実験については、後日また取り上げたいと思います。


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安積遊歩(あさかゆうほ)著「癒しのセクシートリップ・・わたしは車イスの私が好き」

2016-12-06 | 心身障がい



安積遊歩(あさかゆうほ)著「癒しのセクシートリップ・・わたしは車イスの私が好き」を読んでみました。

骨形成不全症で、生まれた時から繰り返し骨折し、大変な困難を抱えておられるであろうに、不屈の精神と知性で切り返し、ヘルパーの男性と結婚して、一児の母となり、今もますます活動的な安積さん。

何十年も前に一度、小さな公民館での講演会でお話を伺いましたが、今も忘れられない魅力的な方でした。

どこを取っても痛快なのですが、「まえがき」と書かれた部分だけご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


          *****


         (引用ここから)


親がつけてくれた名前を「純子」、自分で自分につけた名まえを「遊歩(ゆうほ)」という。

自由に、誇り高く「遊び歩く」。

また、「遊歩」には「UFO」ということばもかけている。

未確認だけれども、科学のこころがわかって、かつ夢のある人なら、こころ躍らせて待っているUFO・・そんな気持ちをこめて。


寝たきりに近かった幼き日、遊び歩くという、こどもにとっての生来の権利・自由も、私にとっては夢のまた夢だった。

兄が私に見せようと、オタマジャクシやトンボを取って来てくれると、その目の前でオタマジャクシの缶詰を作ったり、トンボの脚をむしって糸をつけ、永久に飛び続けさせようとしたり。

またある時は、妹の人形を取り上げて、自分がされたと同じ手術を、その人形に施したりもした。

「やめて!」と泣きながら頼む妹の声を聞きながら、メスに見立てたナイフを人形の足に入れたのだった。

小さな「純子」の、閉ざされた自由への激しい渇望は、幾重にも屈折して表現され続けた。


歩けないことが悲しいのではない。

車椅子で動くことが辛いのではない。

私の絶望と無力感は、障害を持つ女性に対する様々な思い込みと、その思い込みの上に作り上げられた社会システム、そうしたものがもたらす抑圧から来ているのだ。


ならば、絶望と無力感から立ち上がる最初のステップは、自分の名まえに最高の自由と誇りを取り戻してやることだ。


もちろん、親がつけてくれた「純子」という名前も嫌いではない。

しかし純子と呼ばれる度に、ハッシとまわりを睨みつけ(実際、子供の頃の写真を見ると、ほとんどいつも私はそんな顔をしている)、闘って闘ってしか生き延びてこられなかった、小さな自分の姿が頭をかすめてしまうのだ。


これから、どんな人生になるのだろう。

一方的に何かを押し付けられ、様々なものを担わされる人生なんて、もうごめんだ。


私が今、反原発の運動や環境問題に関わっているのも、死や病気に対する恐れからではない。

原発や環境汚染が、自由を希求する心、生きようとする意思に対する妨害であるからこそ、戦うのだ。

たとえ苦しみでさえ、いや、とくに苦しみであるからこそ、自分で選び、チャレンジしていきたい。


積極的に「遊歩」と名乗り始めて6~7年、「遊歩」の人生と、抑圧されている人々の代表である小さな「純子」の日々は、解放に向けてまっすぐにつながっているのだと確信してから、更に自分の人生が興味深く感じられる。


この本を書こうと考えたのは、たぶん小さい「純子」なのだろうと思う。

今、私が「遊歩」となってエネルギーいっぱいで駆け回るのを見て、「純子」が「もっとよく私を見て!」と叫んだのだろう。

本が出来上がるまでのこの一年、私のなかでは繰り返し繰り返し、「純子」と「遊歩」の対話、思いの掛け合いがあった。

そして次第にその対話を、まわりの人と共有したいと心の底から思えるようになっていき、その心の動きに合わせて本も完成されることになった。

「この本を読んでくれた人、一人ひとりの感想が聞きたい」と「純子」が、そして「どこかでの出会いを楽しみにしている」と「遊歩」が言っている。

         (引用ここまで)


           *****

わたしも、パワフル遊歩さんに出会い、小さな純子さんをみつけた一人ですよ~。


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無差別殺人はなぜ終わらなかったのか?・・ナチスドイツの障がい者大虐殺とやまゆり園(3)

2016-12-03 | 心身障がい



年の瀬の恒例の「日本流行語大賞」に「日本死ね」、、ですか。。

昔はそういう言葉を使ったら、お母さんに叱られたものですが。。

                ・・・

「つるの剛士さん「保育園落ちた日本死ね、が流行語大賞なんて…」産経新聞2016・12・02


タレントのつるの剛士さんが自身のツイッター上で、「保育園落ちた日本死ね」の流行語大賞トップテン入りに「とても悲しい気持ちになった」と投稿し、議論になっている。

つるのさんは2日、「『保育園落ちた日本死ね』が流行語。。しかもこんな汚い言葉に国会議員が満面の笑みで登壇、授与って。なんだか日本人としても親としても僕はとても悲しい気持ちになりました。

きっともっと選ばれるべき言葉や、神ってる流行あったよね。。皆さんは如何ですか?」(原文のまま)とツイートした。

1日に「2016ユーキャン新語・流行語大賞」が発表となり、トップテンに「日本死ね」が入っていた。

都内で開かれた授賞式には、国会でこの問題を追及した民進党の山尾志桜里衆院議員が、満面の笑みで登場。表彰され「年の締めにもう1度スポットライトが当たり、うれしい」と喜んだ。

「日本死ね」は匿名のブロガーが保育園の抽せんに落ちた怒りをつづったもので、一部のメディアが大きく取り上げて反響を呼んだ。

選考理由は「このフレーズが先導するようにして大きな社会問題を現出させた」(選考委員会)というもの。

つるのさんの投稿に対し、「私も全く同じ」などと同感する意見が多数寄せられ、一部、「この言葉のおかげで待機児童の問題に政府が本気で取り組んだ」として、「日本死ね」の騒動を肯定的に評価する声もあったが、

「民主党(当時)政権より改善されてますよ」「以前から政府は取り組んでました」などと百家争鳴の議論になっている。

つるのさんは「保育園落ちた…」のつぶやきの直後に、「皆さん朝からイヤな気分にさせてごめんなさい!今日の素晴らしい神ってる富士山です。皆さんもお勤めいってらっしゃい!」と、富士山の写真とともに投稿した。


                  ・・・



やまゆり園障がい者大量殺傷事件と思想的に関わりがあると言われるナチスドイツの障がい者殺戮を記した本として、

引き続き、ヒュー・G・ギャラファー著「ナチスドイツと障害者「安楽死」計画」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

             *****

            (引用ここから)



ヒトラーは1939年の初めに、特に「安楽死」の問題に関心を寄せた。

ナチス党員から陳情を受けたのである。

父親が、障害を持つ自分の娘の殺人を求めていた。

ヒトラーは、自らの従医に調査させた。

彼は状況を判断した。

彼の言葉によれば、子供は盲人として生まれ、白痴、少なくとも白痴であるように見え、片足と片腕がなかった。

ヒトラーは家庭医に安楽死を施すべく従医に命じた。

ヒトラーは「両親がこの安楽死の結果によって将来、罪を負っていると感じないようにしなければならない。仮に法的処置がこの殺人の関係者に対して持ち上がった場合には、ヒトラー自身が握りつぶす」と法務大臣に意向を伝えている。

この「安楽死」の初めてのケースで、パターンが形成された。

その子供が実際に知的障がいなのかどうか、関係者の誰も知らない。

あやふやな観察に頼るだけでは、幼い盲目の子供が知的障がいなのか判断するのは困難、いや無理である。

子供がなにを希望しているのか、教育や補助具の利用で、どういった生活スタイルや生産性を持てる可能性があるのか、誰も尋ねたり、考えたりしなかった。

他のドイツ市民と同様にこの娘にも法的保護が及ぶ、という事実は考慮されなかった。

娘の状態が遺伝的なものかどうかも考慮の対象とならなかった。

彼女は「慈悲の行為」として殺された。

両親の便宜と医者の法的保護だけが、配慮の対象だった。

この少女の事例が医学関係者間で知られるにしたがって、同様の依頼が他の家族から舞い込むようになった。


指導者に自分の家族が殺されるよう陳情すること自体が、当時のドイツ社会についてなにかを物語っている。


生物学的に卓越したドイツの能力を保存できるかどうかが、ヒトラーの気がかりだった。

ドイツ国民を強化し、「雑種化」から防ぐのを望んでいた。

ヒトラーの偏執症的な観点からすれば、ドイツ人は外部の敵と内部の汚染から脅かされていた。

汚染はユダヤ人やジプシーからだけでなく、劣等で欠陥を持つドイツ人、つまり「梅毒病者、結核患者、遺伝的変質者、肢体不自由者、クレチン病患者」からであった。

これは「わが闘争」にあるリストである。

こういった人々は劣弱な遺伝子の産物とされ、健康なドイツ人との間に子孫を作るため、ドイツ民族の遺伝子群を弱める恐れがある。

存在すること自体がドイツ民族の力を損ない、弱める。


しかし、優生学者と社会ダーウィニストの科学としての自負にもかかわらず、「不適者」の分類はなかった。

犯罪者、娼婦、盲人、麻痺者、「知的障がい者」全員が、対象者とされ、「不適格」とされた。

皆、劣った遺伝子の持ち主とされた。

性格面での退廃と「肉体的欠陥」は、遺伝と見なされ、訓練は無意味だった。

劣等な遺伝子を持つ家系は、犯罪、売春、麻痺、狂気といった欠陥を生み出しがちだ。

この種の考え方により、当然ながら「障がい者」と家族は、恥を感じ当惑した。


「障がい」は、遺伝的劣勢の印となった。

中流家庭は、「知的障がい」の子供や麻痺者を、ブラインドを下した部屋に閉じ込め、人目につかないようにした。

「障がい者」は、恥ずべき存在となった。

科学者の言うことが本当ならば、「障がい者」の家族すらも恥ずべき存在となった。

「肉体的奇形」を「悪」と結びつける傾向は、「犯罪人類学」という形で世紀の変わり目に表面化した。

欧米で、犯罪者には解剖学的特殊性がある、と主張する出版物が多く見られた。

悪い少年は、悪く生まれたのであり、更生の可能性はない。

「障がい者」は言語を絶する悪をすでになしたか、これからなそうとしているに違いないと、昔から信じられているが、「肉体的欠陥」と犯罪性の関連付けもその一例にすぎない。


何が、文明社会の弱者を構成するのか?

何が、社会での生存を意味するのか?

混乱があったのを指摘したい。

世紀の変わり目は、欧米工業世界の知識層が、自信に満ちていた時代だった。

独善の域にまで達していた。

自分たちの「帝国」が、地球の表面を覆っていた。

彼らは悪人ではなかったが、極端なまでに傲慢だった。


増大する犯罪者群、狂人、麻痺群へのアメリカの社会的対策は、単純だ。

ただ、「断種」による増加の抑制であり、理想的には彼らの強制収容である。

「不適」とはなにか?

「断種」の対象となる遺伝子かどうか、といった点には、州ごとに違いがあった。

各州では多くの混乱もあった。

どの法律で「知的障がい者」、「慢性の精神病者」、「てんかん者」は対象となったのか?

犯罪者の「断種」は、道義的に正しいのか?という論争が続いた。

犯罪者の子孫は、犯罪者と同じように邪悪であると、断種支持者は訴え、「退廃した者、邪悪な犯罪者の子供として精神的、道徳的、肉体的に阻害され、日の目を見る前に呪われ、誕生前にハンデキャップを負い、この世に生を受ける不幸で救いようのない子供たち」であると称している。

ここでも「身体的障害」は、道徳的腐敗の明らかな隠喩となっている。


計画の当初の規定は、控えめな計画が想定されていた。

慎重な鑑定の手続きがあるはずだった。

しかし現実には、無差別の皆殺しだった。


医者がすすんで殺人計画に参加した心理的理由は、複雑である。

ただここで言えるのは、計画の構造に参加を容易にする要素があった点である。


責任がはっきりする段階がなかった、のである。

患者が死の決定を受けるという、はっきりした段階がなかった、のである。

どの時点でも、どの医者が患者の死に責任がある、と言えなかった。

死者の灰は焼却炉から掻き集められ、骨壺に納められ、遺族に送られた。

骨壺の外側には、番号が刻みこんであった。

しかし一人の犠牲者の遺骨と他の犠牲者の遺骨を区別しようとは、誰もしなかった。

骨壺を受け取った遺族は、手紙の文面からも当然自分の家族の遺骨と思い込んでいたが、実はそうではなかった。


「身体障がい者」と「精神障がい者」の殺人計画は終わらなかった。

ドイツ全土の医者は、生きるに値しない生命しか持たない患者に「最終的医学援助」を執行し続けた。


殺人は続き、基準や決定機関が鑑定委員会や鑑定医の手から離れ、現場の医者に移っただけだった。

「知的障がい者」や「奇形」の子供が殺された。

「子供計画」は相変わらず続いた。

占領米軍の記録によれば、終戦までどころか、終戦後も一定期間続いたのである。

疎開先で、患者たちは医者の手にかかった。

「精神病者」は、地元の親衛隊や警察により射殺された。


           (引用ここまで)

            *****


陰鬱な記事を続けてすみません。

ただ私は「やまゆり園事件」は非常に重大な問題をはらんでいると思うので、記事を集積しておきたいと思っているだけです。

他のテーマと同様、あとで調べる際に、資料の保管庫として使えるようにしようと思っています。


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人殺しはいかにして行われたのか?・・ナチスドイツの障がい者大虐殺とやまゆり園事件(2)

2016-12-01 | 心身障がい



やまゆり園事件の背景にあると言われるナチスドイツ思想を記録した本として、

引き続き、ヒュー・G・ギャラファー著「ナチスドイツと障害者「安楽死」計画」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


            *****


          (引用ここから)



「第三帝国」の殺人計画の文献を探っていると、「ハダマー精神病院」の名前に何度も出くわした。

「ハダマー精神病院」が、ドイツの医療殺人のまさに中心地だったように思える。

ここは政府による6つの殺人施設の一つだった。

殺人の対象とされた患者は、公共患者輸送会社の大きな灰色のバスによって病院に移送された。

まもなくバスは有名になった。

バスの乗客の目的地がどこなのか知られるのに、時間はかからなかった。

灰色のバスが通り過ぎると、子供たちは「人殺しの箱」とはやしたてた。

患者は中西部ドイツの精神病院から集められた。

状態はさまざまだった。

「精神分裂病」、「うつ病」、「知的障がい」、「結核」、「小人病」、「まひ」、「てんかん」。

時には「非行」、「性的倒錯」、「アルコール中毒」、「反社会的行動」も含まれた。


「ハダマー精神病院」では、一酸化炭素ガスで殺人が行われた。

試みられた方法の中で、これが最も「思いやり溢れる」方法と見なされたのである。

「ハダマー精神病院」のガス装置は、ポーランドのルブリンに移され、ユダヤ人の殺害に利用された。

だからと言って「ハダマー」での殺人が終わったわけではなかった。



「ハダマー精神病院」のガス室は、地下室に設置された。

大きさは縦約5メートル、横約3メートル、高さ2メートル40センチである。

ガス室はシャワールームに見せかけられ、シャワーのノズルもあった。

ボタンを押すと、ノズルからはガスが噴出した。

受付が終わると、看護婦は「移動でお疲れでしょうから、シャワーを浴びてきれいにして休んでください」と、患者に伝える。

患者は疑いも抱かずに従う。

仮に逆らったとしても、例外は許されなかった。

看護婦に先導されて、シャワーへの階段を、行列を作って降りる。

着いたら服を脱ぐ。

必要があれば看護婦が手伝う。

そしてガス室に入る。


看護婦は外からドアを閉め、鍵をかける。

麻痺の患者は、階段を抱えられて降りなければならない。

具合が悪い患者は、降りるのに手助けが必要だった。

病気で弱っていて本格的に手助けが必要な者もいた。


「最終的医学援助」である殺人は医学的な処置であり、医者の権威と監督下でのみ可能だった。

「ハダマー精神病院」の医者は、ボタンを押して、のぞき穴から見守るのが常だった。

遺体は、普段は「ハダマー病院農園」で働く患者によって、同じく地下に設けられた火葬場にストレッチャーで移された。


火葬の煙は、周囲では誰もが知る光景となった。

「ハダマー」の市民は、煙突から煙が上がるのをみつめ、気の毒な犠牲者のことが頭から離れなくなった。

風向きによって、吐き気を催す臭いが鼻に来る時は特にそうである。子供たちが口喧嘩をすると「頭がおかしいんじゃないか?「ハダマー」の火葬場行きだぞ」と言っているのが現実であった。


初めの頃、死者への配慮はあった。

遺体は畏敬を持って棺に納められ、特別に用意された場所で埋葬された。

しかし死体が山のようになってきて、儀式どころではなくなり、まとめて埋めるようになった。

落とし戸付きの変わった棺が特別に用意された。

棺の底が開くようになっていて、墓地で穴の上に納められると、下の扉が開くのである。

同じ棺が何度でも繰り返し使えるようになった。

墓地までこれだけ多くの死体をストレッチャーで運ぶのは、骨が折れたに違いない。

戦争中を通じて「ハダマー精神病院」には100人以上の長期入院患者がいて、農園で働いたり敷地の整備をしたり台所を手伝ったりした。

必要に応じては墓の穴掘りもした。


「安楽死計画」が公式に終了した後も、ペースは落ちたが、殺人が終わったわけではなかった。

医者が「障がい者」を殺すのは構わないが、国家による犠牲者の選定は終了した、という話が流布された。

個々の医者、病院が、それぞれの責任で実行することになった。


1943年、「ハダマー精神病院」は、「子供の殺人施設」として機能していた。

幼児だけではない。

子供、ティーンエージャー、「身体障がい者」、「知的障がい者」だけではない。

孤児院や青年少年療養施設の入所者が判定の対象となり、トラブルメーカーと見なされた多くの健康な子供が死を迎えた。


当初の考えは、重度の「知的障がい者」、暴力的で慢性的な「精神障がい者」に、苦痛にあえぐ馬や犬をぶち殺して苦しみから解放するという考えを当てはめたものだった。


これには科学的な理由付けがもちろん存在した。

こういった人々を殺すのは、ドイツ民族の遺伝子的遺産の強化につながるというものである。

言ってみれば、癌を取り除くといった考えである。

経済的理由もあった。

役立たずの穀つぶしが、戦争に利用されるべき資源を費やしてしまっている、という見方である。

こういった議論は、「ハダマー精神病院」で起こったことを正当化するかくれみのになるはずだった。

しかし、「ハダマー精神病院」で起こったことは、これらの議論から見ても正当化できない。

殺されたドイツ市民の多くは、苦痛にあえいではいなかった。

死にかけてもいなかった。

「障がい者」の場合でも、遺伝との関係がはっきりとしない場合がほとんどだった。


では、「ハダマー精神病院」の医療職員がしたのは、一体全体何だったのだろうか?

彼らは、自分たちが何をしていると思っていたのだろうか?

殺された人々は、囚人だったのではない。

患者だったのだ。

殺されたこういった人々、患者は、医者を解放の努力の代理人として雇ったのであり、思いのままに自分を殺すような権威を、医者に与えたことはない。

医者が敵となり、自分たちの生命が危ういことが明白になった時、「障がい者」はなぜ、反抗し、逃亡し、抗議しなかったのか?

法廷の命により入院中の「精神障がい者」が大方だったのは、事実である。

つまり国権によって留められていたのである。

病院の周囲には親衛隊員が見張っていたし、有刺鉄線もあった。



1941年の真夏のある日、昼食時に職員食堂で理事から発表があったのは特別な日であった。

「1万人目の死体が「ハダマー精神病院」の炉で荼毘に付される記念として、ささやかなセレモニーと職員のパーティーを開く」ということであった。

したがって医者、看護婦、雑役婦、その上墓堀り人までが、夕方にはロビーに集合した。

ビールとワインが振舞われ、全員が地下の火葬場に向かった。

部屋は飾り付けられ、炉には生花が派手に盛り付けられていた。

炉の前には、全裸の死体、つまり1万人目の犠牲者である。

死体は花と鍵十字の小さな羽で飾られている。

医者は手短かなスピーチをした。

「ハダマー精神病院」の業務の重要性を訴え、献身的で勤勉なチームの一員としての誇りを高らかに表明した。

医者の合図で、死体は炉にくべられた。


         (引用ここまで)

写真(中)は、ハダマー精神病院。1945年撮影 同書より
写真(下)は、ハダマー精神病院の焼却炉と、そこから立ち上る煙。1941年撮影 同書より

           *****

悪夢のような情景で、ただただ驚くばかりです。

人間は、こんなこともしてしまう存在なのだと思うと、とても怖いです。


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ナチスドイツの障がい者大殺戮とやまゆり園(1)・・ただの医者たちが20万人の「障がい者」を殺した

2016-11-28 | 心身障がい




やまゆり園大量殺戮事件の犯人の、知的障がい者を殺害の標的にするという発想は、幾人もの人たちに、「ナチスドイツの大量殺人の思想に近い」と言及されていました。

そこで、ヒュー・G・ギャフラー著「ナチスドイツと障害者「安楽死」計画」という本を読んでみました。

驚くべきことに、ナチスドイツ政権下では、20万人を超える「障がい者」たちが、ユダヤ人大量殺人が行われる以前の段階で、殺されていたということを、わたしは初めて知りました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


              *****

              (引用ここから)


障がい者の社会史に関する雀の涙ほどの資料を読み進むうちに、私は、ナチスドイツのいわゆる「安楽死計画」に関心を持った。

第三帝国期に生じた医学的事件は、社会の一部が絶え間なく「障がい者」に対して抱いている敵意と恐怖を浮き彫りにしていることに気づいたのである。

ドイツの医者はこういった感情を、異常で明確な形で行動に移したため、何が起こっていたのかについては疑う余地はない。

1930年~1940年代にドイツで起こったこと、ドイツの医者が〝障がいを持つ患者″に行ったことは、ドイツのみならず、世界中の「障がい者権利運動」に重大な意味を持っている。

ドイツの医者を行動へかりたてた感情は、世界中どこでも見つけられるからである。


異なる者への根深い恐れ、病人や障がい者の持つ弱さへの強烈な憎しみ、完璧な健康、完璧な肉体、完璧な幸せへの異常な衝動。。

みな世界共通である。

しかしこれらは空想であり、価値がない。

「身体障がい者」や「精神障がい者」に関して、今日の社会感情を支配しているのは、疑いようもなく福祉と公正さを求める人間的な配慮である。

しかしこの感情には〝裏側″がある。

永続的な「障がい者」は、他者であり、村八分にされ、恐るべき敵とみなされてしまう。

ナチスドイツが白日の下に晒したのが、この〝闇″の面である。

誰にも〝闇″の面がある。

〝闇″の中には強烈で、時には狂暴ですらある感情が渦巻いている。

怒り、恐れ、憎しみ、狂った人間。。

自分自身の感情によって圧倒されてしまった人間は、恐るべきことをしでかすことがある。

狂った民族も同じである。


アドルフ・ヒトラーの帝国をどう解釈すればいいのか?

狂乱した人間のように、ドイツの民族全体が狂気に取りつかれたようだった。

「アドルフ・ヒトラーの狂気がナチスドイツを生み出した」と言われてきた。

しかし「1920年~30年代のドイツの狂気がヒトラーという形で現れた」というのも、同様の真実である。


ヒトラーは狂っていた。

しかしヒトラーは確かに狂ってはいたが、彼は彼の時代のドイツをまさに体現していたとも言えるのである。


ヒトラー帝国にいた医者は、慢性病患者を殺害する計画に参加した。

20万人以上のドイツ市民が、自分たちの医者の手によって計画的に効率よく殺されたのである。

命を失ったのは、社会のよき市民だった。

多くは、施設に収容されていた「精神障がい者」、「重度の障がい者」、「結核患者」、「知的障がい者」であった。

医者の目で「生きるに値しない」と判断された生命だった。

この計画は、ヒトラーが承認し、第三帝国の国家社会主義政権の支持の下で実行されたのは事実だが、これを「ナチス計画」と名付けるのは誤っている。

これは「ナチス計画」ではなかった。

この計画の生みの親は、医者であり、実行者も医者だった。

医者が殺したのである。


基本的な考え方は、50年以上にわたり議論の対象となっていた「社会進化論」の原理と、花開きはじめた「優生学」を論理的に応用したにすぎないのである。

基礎となっていたのは、欧米で幅広く受け入れられていた優生学、遺伝学、生理学であり、それが殺人の正当化に用いられた。


「第2次世界大戦中にドイツの医者が患者に何をしたか?」という問題を、世界は概して無視してきた。

まるで何事も無かったように戦後、ドイツの医者は再度白衣を身に着けた。

ニュルンベルクアイバン(戦後に開かれた連合国による戦争犯罪者に対する国際軍事裁判およびアメリカ軍事裁判)の一部がこの問題を扱い、何名かの個人への訴追が行われたが、それだけである。

行われた裁判は満足のいくものではなかった。




「患者殺害計画」の方こそが、時代の精神を形成していったのである。

「ホロコースト」への前触れとしての役割を果たしたのである。


医療倫理の崩壊であった。

患者と医者との信頼関係への裏切りであり、「ヒポクラテスの誓い(患者に適切な治療を行い、害を与えないという医者による誓い)」の最大の放棄であった。

「生きる権利」と「死ぬ権利」というナチスが解決しようとした問題は、疑いようもなく現代の課題でもある。

現代の医療技術によってこの課題は緊急性を増し、一層困難になっている。

しかし課題自体は終わっていない。

誰が生きるべきで、誰が死ぬべきなのか?

そして何より、誰がその決定権を持つのか?という問題を、ナチスドイツのような中央政府が全般的な政策を策定しようと企てる際に何が起こったのかを見るのは教訓的である。


彼らは、自分自身のおごりによって、判断不能となった殺人者だったことは疑う余地はない。

「進歩」の追求は、集団殺人を正当化できるとする機械論的信仰である。

この側面はこれまで秘密に包まれてきたが、白日の下に晒されなければならない。

狂犬よりおぞましいのは、〝人類を「完璧」にするためには殺人も許される″という、絶えることない信仰であり、おごりたかぶった専門職集団が、他人の権利、生命への干渉を歓迎したことである。


第三の王国がある。

「障がい者」の地である。

ここには民主主義など、かけらもない。

あるのは独裁だけである。

ここでは、普通にあるはずの市民の権利や特権は通用しない。

巨大な壁がこの場所を囲み、壁の内側で何が起こっているのかは外部にはほとんど伝わらない。


         (引用ここまで)
   
 (写真(下)は殺人の中心地であったハダマー精神病院・1945年撮影 同書より)

           *****

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「再掲・青木やよひ著「ホピ族と兵役拒否の思想」を読む」


「環太平洋文明があった・・中沢新一「熊から王へ」(5)」(1)~(4)あり

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「利他的遺伝子・・「自分」と「自分達」は、どう違うのだろうか?」

「河合隼雄のナバホへの旅(1)・・逃げ惑うインディアンの残像」(7)まであり

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