始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

シリウス星の人々はアフリカを訪れたのだろうか?

2009-02-26 | その他先史文明
今日は、前々回にご紹介しましたアフリカ・ドゴン族に関する研究書、ロバート・テンプル著「知の起源」が発刊された後に、マリー・ホープによって書かれたシリウス研究書である「シリウス・コネクション」という本を紹介します。

彼女はエジプトの知の起源に焦点を絞って話を進めます。

その中にテンプルの書に詳述されていたドゴン族の研究の傍証となる部分がありましたので、そこを載せたいと思います。


*****


本書執筆中に、私は幸運にもエジプト古来の宗教に帰依するエジプト人神官の知遇を得た。

現在のエジプトがイスラム教を国教とし、いわゆる異教にはきわめて不寛容であるため、彼らは隠れ信者であることを余議なくされており、ここでその本名を明かすことはできない。
しかし私のシリウスに関する情報の提供依頼に対して、次のような丁寧な書状が送られてきた。


・・・・・


「偉大なる家」のセクメト・メンチュ神官長の名において、1万450年、ペトレの季節、第一週の10日に、神官長の命により、タフティ(トト)の神殿の神官ならびに「偉大なる家」の占星術師、数学者サウ・タフティの執務室を経由して、イギリス帝国の住民マリー・ホープあてに書かれた手紙。

おたずねの星に関して。

その星系のまたの名はアウセト(イシス)の星あるいはセブ・エム・アウセト。
アモン神の角族の秘儀において承認。

我々の間では「新しい日(あるいは年)と言われ、聖アウセト(イシス)が今より1万450年より少し前に「偉大なる家の蓮の玉座」に昇った記念の星。
また天地創造の山、エジプト・シナイ山での五柱の偉大な神々の誕生の記念の星。
この五柱の神とはオシリス、イシス、セト、ネフティス、ホルス。

密かに知られるところでは、神々は宇宙の「その場所」からアモン神の角族である我々と我々の従兄弟ツツィのもとに来たとされる。

ツツィの人々はアモン神の角族を次のように言う。

「その口から出た音によって、石の山の上に足跡を残した“輝く顔をした人々”の一族。

“輝く顔をした人々”は、北に完全な“山”を作り、その声が神の尊厳を讃えた人々。

ツツィの素晴らしい地を離れて東に移動し、やがて東の地の蛮人(アラブ人)に滅ぼされた人々。

アモン神の角族は火の指で岩の山に文字を書き、翼なしで空を飛び、想念で川の流れを変え、我々ツツィと従兄弟のドゴンに始源の知識と大いなる魔術を授けてくれた。

彼らが去って行った時、我々は悲しんだ。

ある者は海の近くの山の土地へ、ある者は天の場所に戻った。

その天の場所では、この地上での彼らの、そして我々の種族がそうしたように、彼らの世界の霊的歴史が数学によって残される。

それについては従兄弟ドゴンがよりよく知っている。

我々は“動かす言葉「ヘカウ」”に通暁し、ドゴンは始源の事柄によく通じていたからである。

我々の肌は違うが、我々は同じ人種だ。
なぜなら祖先の土地で“輝く人々”と結婚し、共に住んだから。

また彼らは「聖なる地で邪悪の名をほしいままにするがやがては“輝く人々”に屈伏する野蛮な者たちの到来」を予言し、

そして「“輝く人々”はまだ隠れているが再び我々と一緒になり、新しい時代を来たらせる」と予言したからである。

以上。

・・・・・・


日付「1万450年」はもちろんシリウス暦によるものである。
西暦に直せば、紀元前8000年ごろ、かに座の時代に地球になにか大事変が起こったことが推測できる。

この変事の後、5つの原理を表す5柱の神々が到着した。
混沌を表すセトでさえ預言の成就に一役かっているわけだ。

「火の指で岩の山に文字を書き」、はレーザー光線を、「翼なしで空を飛び」、はジェット機、というよりはもっと音の静かな飛行機だと考えられ、現代科学がまだ到達していない高い水準の科学技術を持った人々だったことがうががえる。

その高い水準の科学技術を持った人々はドゴン族に彼らの出身地である星についての知識を授けたのに対し、アモン神の角族:ツツィ族には、「動かす言葉」ヘカウ、すなわち音声の知識を授けたようだ。

彼らがアフリカ土着の人々と結婚したということは、彼らも人間だったということを意味するのだろうか?

では彼らはアトランティス人だったのだろうか?それともシリウスから来た人類?あるいは両者の混合だろうか?

「ツツィ」とは、アフリカ・リビア南西部に住んでいたとされる謎のギャラマンテ族ではないかと思われる。

ギャラマンテ族については紀元前450年ころ、ヘロドトスがその探訪記を書いているが、現在のトワレグ人を指すのではないかと言われている。

ヘロドトスはエジプトの神官からの伝聞だと断って、「リビア砂漠のアモンにある「黒い鳩と神託のオーク教団」のゼウス神殿とギリシアのドドーナにあるゼウス神殿とは同じ頃のものだ。。

アモンのオークはギャラマンテ族が守っており、彼らは自分たちの祖先は最初の人類だったと主張している。」
と記している。


非常に背が高いことで知られるルワンダ・ブルンジ起源の現代の遊牧民「ツチ族」と「ツツィ」とは同じ民族ではないだろうか。

ルワンダで起こっているツチ族とフツ族との民族紛争は最近は大量虐殺の様相を呈してきたが、ひょっとすると根はこのあたりの古い時代にあるのかもしれない。


テンプルの著作「知の起源」で取り上げられているマルセル・グリオール達の論文はアフリカのドゴン族を含む4部族についての調査報告である。

これらの部族はシリウスに関する知識をベースにした宗教儀式を持つという。
これら4部族の内の一つは前述の「ツツィ」族である。

前述のエジプト神官の手紙の最後の部分の予言、すなわち「悪者はやがては“輝く人々”に屈伏する」というくだりは極めて印象的だ。

さらに予言では、「“輝く人々”は今は隠れているが、新しい時代の夜明けをもたらす」という。

驚いたことにこれと全く同じ信仰がドゴン族にあるのだ。

「シリウスからの訪問者(ノンモ)はいつに日か戻ってくる。

一つの星が空に現れる。

それが「ノンモ」の復活の約束の印だ」

とドゴンは言うのである。

かの神官長とテンプルは全く接点がないようだが、手紙の内容はテンプルの仮説を裏付けていると考えられる。

テンプルがもし「ツツィ」のことを知っていれば、より確実な結論が出せたかもしれない。


(マリー・ホープ著・荒俣宏訳「シリウスコネクション」より要約)



       *****



「エジプトの神官」なる人がどのような出自をもつ人なのか、わたしには分かりませんが、アフリカの一部にはシリウス信仰があるということと、かつてアフリカの一部族が異形の人々と交わった記憶を持つということの傍証にはなると思います。

「誰かがやってきて、そして去り、またやってくると約束をした」、という伝承があるということだけは確かだと言えると思います。



ここでもまた、ホピ族の予言が思い出されます。
おそらく、これらの記憶は、世界中にちらばっているのでしょう。

青い星に関するホピ族の予言を以下に載せます。

わたし達は誰と、何を、約束したのでしょう?
そしてなぜわたし達は何もかもを忘れてしまったのでしょう?


       *****


時は迫っている。
サクアソフー〔=ホピ語で青い星〕のカチナ(仮面)が広場で踊る時がくる。
彼は、今はまだ目に見えない遠くの青い星を象徴している 。
その星はもうすぐ現れる。

(フランク・ウォーターズ著「宇宙からの聖書」より)


       *****


Wikiアモンより
アメン(Amen)は、古代エジプトの太陽神。アモン(Ammon)、アムン(Amun)と表記されることもある。


wikiゼウス神殿(オリンピアのゼウス像)より


オリンピアのゼウス像は、紀元前435年に古代の高名な彫刻家ペイディアスによって建造された、天空神ゼウスをかたどった彫像。 古典古代における世界の七不思議の一つ。

紀元前5世紀頃、オリンピアにゼウス神殿が建造された。ゼウス像はこの神殿の奥に収められ、その全幅は神殿の通路の幅とほぼ同じだった。座像でありながら、全長は約12メートル(約40フィート)もあった。紀元前1世紀頃の地理学者ストラボンは「もし、ゼウス像が立ち上がったら、屋根を突き抜けてしまうだろう」と記述している。
建造から800年後の394年、ゼウス像はオリンピアからビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスに移された。その後の消息は不明だが、おそらく焼失したのだろうと考えられている。
1958年、ゼウス像の建造に使用されたと考えられる工房が発見された。この発見によってゼウス像の全容の解明が進められた。


wikiベルベル人より

ベルベル人(べるべるじん)は、北アフリカの広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。
ヨーロッパの諸言語で Berber と表記され、日本語ではベルベルと呼ぶのは、ギリシャ語で「言葉がわからない者」を意味するバルバロイに由来するが、自称はアマジグ(الأمازيغ (al-Amāzīgh) アマーズィーグ)といい、その名は「高貴な出自の人」「自由人」を意味する。複数形はイマジゲン(إيمازيغن (Īmāzīghen) イーマーズィーゲン)。


wikiルワンダ紛争より


ルワンダ紛争(ルワンダふんそう)とは、アフリカ中央部にあるルワンダにおいて、1990年から1994年にかけ、フツ系の政府軍及びインテラハムウェとツチ系のルワンダ愛国戦線 (Rwandan Patriotic Front, RPF)との間で行われた武力衝突、ルワンダ内戦と、和平協定後も続いたツチとフツ等の対立、虐殺をさす場合もある。

1990年10月にはRPFがルワンダ北部に侵攻し、内戦が勃発。
フツによるツチの大量虐殺(ジェノサイド)が始まり、一説には約100日間で国民の10人に1人、少なくとも80万 - 100万人が虐殺が行われたとされている。

「ツチ対フツ」の形成
フツとツチは元々は同じ言語を使い、農耕民族であるか遊牧民族であるかという違いでしかなく、貧富の差がそれぞれの民族を形成するなど両者の境界は曖昧であった。遊牧業が主な生業であったツチは、牛を多数所有するなど比較的豊かであった。しかし、ベルギー人をはじめとする白人による植民地支配がはじまると、鼻の大きさや肌の色などを基準に境界が作られた。ツチは「高貴(ハム系あるいはナイル系)」であり、対するフツなどは「野蛮」であるという神話・人種概念を流布(ハム仮説)し、ツチとフツは大きく対立し始めた。1948年に188万7千人だった人口が1992年には750万人と4倍になり、土地不足や土壌の疲弊が起こり[1]、農業が主だったフツには貧困が蔓延するようになった。
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黄金の時代も暗黒の時代も、あなたの心しだいの問題だ・・oshoの「白雲の道」

2009-02-24 | メディテーション

1990年に亡くなったインドの思想家oshoの講話集はたくさんありますが、その中の初期のもの「マイウェイ・・流れゆく白雲の道」(1974年)を紹介します。

当時は、ヒッピーもどきかつ瞑想家もどきの若者がたくさんいたのでした。

彼の思想には世論は賛否両論あり続けてきましたが、人間性全体を見据えた骨太の心理学者・思想家の部分は評価されてもよいと思います。

ほとんどが絶版なので、時々紹介できればと思います。

 
        *****


白雲は漂う
風の流れるままにまかせて漂う
逆らいもせず、戦うこともない
人は白雲を征服することはできない
それには征服されるべきこころがない
だから、打ち負かすことなどできない

白雲には行く先はない
それは動く
あらゆるところに動いていく
あらゆる次元が白雲のもの
あらゆる方向が白雲に属する
何一つ拒まれることなく
すべては在る
すべては十全なる受容の内に存在する

このゆえに私は自分の「道」を
「白い雲の道」と呼ぶのだ

雲にはかたちは無い
かたち無きもの
あるいはまた、絶えることなくかたちづくられていると言ってもいい
それはきわまりない流転
そしてそれこそまさに「生」のすがた

あなたは流転するもの
一片の雲

なにも拒否することはない
すべてを受け入れなさい
受け入れること、それは祈りだ

 osho「マイウェイ・・流れ行く白雲の道」一日目の朝の講話より



「バグワン、なぜ私たちはあなたと一緒にいるのですか?」
なぜ はけっして答えられはしない
実在はただ在る
それに関してなぜ?はない

私はあなたがたに解答を与えることには関心はない
むしろ逆に、あなたがたがより以上探求を深めるように、
神秘なるものにますます深く浸透していくようにとさせる
わたしの答えはあなたがたにより深い問いをもたらすものだ

あなたがたが私とともに在るのは今このときがはじめてではない
あなたがたは以前にも私とともにあった

生は互いに密に関わりあっている
生を区切ることなど不可能だ
生の流れは同時性をもつ

生とは永遠なる現在
私たちは常に今ここに在った
限りなく永遠に

個というのはつくりごとだ
生は分割されてはいない
わたしたちは一体・・
この感覚を感じとることだ

なぜあなたはここにいるのか?
それは、これが唯一の在り方だからだ

私たちはこうして一緒につながっている
あなた方は自分をその全一性(トータリティ)においては知っていない
あなた方は光のかすかに漏れ差す森

わたしはあなたという森全体を見る
そしてひとたび一人の人をその全一性において見たら
他のすべての人がそこに巻き込まれているのが見える

なぜならその森は分離してあるわけではないからだ
その暗闇の中で境界は出会い、交わり、一体となる

あなたがここに在るのは、他のどこにも在りえないからだ
このように生が起こったからだ

生はただそよ風のようになって
あなたの空っぽの部屋を通り抜ける
それをあなたはそのままにゆるす
このゆるすことこそ、秘密中の秘密だ

白雲は風に導かれてはいない
風はあらゆる方向に吹きつづける
そこには方向などありはしない
実在するもの全体がそれを揺さぶっているのだ
それはうねり波打つ実在

風はあらゆる方向に吹く
これは常にそうだった

だから、特に宗教的な時代などというのはかつてなかったし、
また特に反宗教的な時代というものもなかった
そんなことはありえない
人々がこのように考えたがるのは、これもまたエゴトリップの材料になるからだ

時間や時代のことなど考えないでいなさい
時間や時代はただただ無関心なのだ

自分自身が空っぽになるのをゆるしなさい
そうすれば現代は黄金時代だ
自分自身が欲望でいっぱいになることをゆるしなさい
そうすればこの現代はかつてない暗黒時代に、カリユガになる

世界中至る所で人々は、ある時代が、ある時が、あるクライマックスが、ある頂点が近づきつつあることを感じている
私たちは、人類の進化上、ある特別な時点に至りつつあるかのようだ

だがそれはいつの時代もそうだった。

私たちは避けつづける
人は、自分自身のことを考えるのを避けるために
他者のことを考えはじめる

時代のことを考えはじめたり
時間や、惑星のことを考えはじめる
そして、人間の意識に何が起ころうとしているか、などと考える

あなた自身の意識こそ目標(ターゲット)であるべきだ

そして
時はいつでも善い
あらゆる時が、そのために善い時となる

osho「マイウェイ・・流れ行く白雲の道」二日目の朝の講話(1974年)より抜粋

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からし種のような星からやって来た魚のような人々・・ドゴン族の伝承

2009-02-22 | その他先史文明


引き続き、アフリカ・マリ共和国のドゴン族が伝えるシリウス星をめぐる伝承についてロバート・テンプルの「知の起源」から紹介します。


       *****


「ノンモ」(=シリウス人)という名称は、シリウス星系から来た水陸両棲体の“個々人”を指す場合に用いられ、集団としての「ノンモ」については、「世界の監督者」、「人類の父」、「魂の守護者」、「雨の授与者」と呼ばれた。

実に多数のノンモが地球を訪れたというが、もちろんシリウス星系に住むすべてのノンモが地球に来た訳ではないであろう。

「ノンモ・ディエはアンマとともに天界に残った」と言われ、地球を来訪したノンモとシリウス星系に残った「ノンモ・ディエ」は明確に区別されているのである。

「ノンモ・ディエ」は地球上の生物の魂を守護するものであり、虹となって自らを具現させるという。
虹のことをドゴン族は「ノンモの道」と呼んでいる。



地球に降り立ったノンモは3つのグループに分類される。

第一のグループは、「ノンモ・ディエの使者であり、偉大な業績を果たした」とされる。
地球文明を創造したのはこの一団であるようだ。

第二のグループは「池のノンモ」と呼ばれる一団で
「彼らは世界の浄化と再編のために犠牲となる。

しかし人間となって甦り、人間の祖先と共に箱舟で地球に降下する。
そして、元の姿に戻り、水底より地を支配して、子孫を増やす」
のだという。

これも同じく地球を来訪したノンモであるが、人間に混じって支配を行った一団であるようだ。

第三のグループは、「オゴ」と呼ばれる一団で、手に負えない厄介者の集団とされる。

彼らは完成を間近に控えたとき、作り手の意思に背き、世界に混乱をもたらした。

最後に彼らは堕落を表す青いきつねとなったという。
この集団の負のイメージは、古代エジプトのセト神と重なり合う部分が多い。


「ノンモ」と言う言葉自体は、ドゴン語の“NOMO”から派生したもので、「他者に何かを飲ませる」という意味を表す。
これに関連して、ドゴン族の伝承は次のように伝えている。

「ノンモは自らの体を切り分けて、人間に食べ物として与えた。

宇宙がノンモの体を飲んだように、ノンモは人間に飲ませたのである。

またノンモは人間に自らの生命原理を与えた。」

さらにノンモは「キレナの木」で磔刑に処せられたという。

この一連の伝承からは原始キリスト教の痕跡(原形?)も読み取れる。



ドゴン族の伝承によれば、「かつてシリウスBとシリウスAは現在の太陽の位置にあったという。

この伝承こそ、ドゴン族があがめるアンマ(創造主)の故郷がシリウス星系であることを示す証拠となるものである。

すなわちこれはアンマの視点による伝承であり、自分たちの太陽であるシリウスAとシリウスBの星系を後にして、私たちの太陽系にやってきたということなのである。



さらにノンモはイルカのような姿をしていたという。
おそらく水中でも長時間にわたって息を保つことができただろうし、イルカのように口以外にも呼吸用の噴気孔を持っていたのだろう。

ドゴン族の伝承によれば「ノンモは鎖骨で呼吸をしていた」というが、これは噴気孔を表しているものと思われる。


シリウス星系には高度な文明を誇るシリウス人が存在し、今から7000年以上前に地球を訪問し、地球文明の基礎を創造した。

古代の人々は、地球を訪問し、文明を創造したシリウス人を神と見なした。

やがてシリウス人は去って行ったが、その事実は古代の人々によって記録され、伝承として様々な神話的脚色をほどこされて、現代へと継承された。

私たちはようやくその現代へと継承された伝承を読み解き、シリウスの謎を解明することができるのである。

      (ロバート・テンプル著「知の起源」より要約)


      *****



ドゴン族は、地球にやってきたシリウス人(ノンモ)を3つのグループに分けていますが、2番目のタイプのノンモ、、自らを犠牲にして死んだり、よみがえったり、船にのって人類を救いに来たりするノンモは、著者も書いているように、キリスト教の物語とよく似ているように思われます。

ドゴン族の描いたノンモの絵を見ると、立った魚の姿をしており、ノンモの復活する日は「魚の日」と呼ばれるということですが、キリスト教も、成立当時は魚のマークをシンボルにしていたようです。


またドゴン族は目に見えない白色矮星シリウスBを「ポ・トロ」と呼んでいます。(ディジタリアは学名)

「ポ」とは彼らの育てている穀物の中で最も小さな粒の種の名前のようです。

彼らはこの穀物を万物の根源と考えており、彼らにとって世界の根源であるシリウスBにもその名をつけて、その微小さと価値の重さを現しています。

この“最も小さい種”という言葉は、キリスト教の「からし種」の説話を思い起こさせます。

キリスト教においても最も小さいものに最も根源的な価値があるという考えがありますが、当時広まっていた思想の中から選び出されて、キリスト教に取り入れられたのかもしれないと思います。




またこれらの“種”の考え方は、ホピ族が未来について語った言葉を思い起こさせるように思います。
以下にホピの言葉を載せてみます。

人類はかつて何を見たのでしょうか?
そして、これから何を見るというのでしょうか?

     
        *****


未来の第5の世界への(人々の)出現はもう始まっている。
小国家、小部族、少数民族の謙虚な人々によって、それは行われつつある。

あなたがたは、地球そのものにこれを読み取ることができる。

前の世界にあった植物が、種として発芽し始めているのだ。
それを読み取れるほどの目があれば、新しい植物学を開けるだろう。

同じ種類の種子は天の星ぼしにも植えられている。
同じ種子が我われの心の中に植えられようとしている。

このすべては一つであり、あなた方がそれをどう見極めるかにかかっている。
これが次の第五の世界への出現をつくるのだ。

(フランク・ウォーターズ著「宇宙からの聖書」より)


       *****


写真は
  ドゴン族の描いた“ノンモ” (同著より)
  古いキリスト教のシンボル=イクトゥス=魚
  3世紀ごろのキリスト教の図像



Wikiイクトゥス「キリスト教の魚のシンボル」より

イクトゥス、イクトス、イクソス、(ichthys ichtus、ギリシャ語: ΙΧΘΥΣ) は、弧をなす2本の線を交差させて魚を横から見た形に描いたシンボルである。初期のキリスト教徒が隠れシンボルとして用いた。
今日ではジーザス・フィッシュ(Jesus Fish)やクリスチャン・フィッシュ(Christian Fish)とも呼ばれている。

wikiからし種より

からし種(からしたね)は、からしの種、粒のことである。
洋からし(マスタード)の木は北米、中東、地中海に生育し、エジプト時代から香辛料や薬草、あるいは防腐剤としても使われた。うちブラック・マスタードの種は極めて小粒。これらはインド原産の和からしとは別種である。 聖書や西洋文学では、最小の単位、最も小さいものをあらわし、そこから大きな成果が育つことの喩えとして好んで使われる。

「また、ほかの譬を彼らに示して言われた、『天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる』」(マタイによる福音書13章31- 32節 口語訳聖書 (c)日本聖書協会)
このようなことから、キリスト教文化圏では「からし種」は、信仰心や真理をあらわす宗教的な言葉としても使われる。 また、西洋諸国では一般に、小型の豆本タイプの聖書を「からし種」(独: Senfkorn 英: mustard seed)と通称している。
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アフリカ・ドゴン族に伝わるシュメール文明

2009-02-19 | その他先史文明


前回に続き、ロバート・テンプルの書いた「知の起源・文明はシリウスから来た」から紹介します。

彼はアフリカ・マリ共和国のドゴン族に伝わる古来の伝承の中に、信じられないような天文学的な知識があることに驚嘆し、なぜ、どのようにして、そのような知識が得られたのかを調べました。

彼はドゴン族は古代エジプト文明、また時を同じくして栄えたシュメール文明の伝統を受け継いだものと推定しました。

そしてシュメール文明の資料とエジプト文明の資料を並べて、ドゴン族が今現している事柄は、大変古い人類の出現の時期の記憶を伝承している可能性があると述べています。

現代の文化の常識に抵触する物語であり、一度には紹介できませんが、続きの部分を少し紹介してみます。


      
       *****


バビロニアの神官べロッソスは、神殿に保管されていた楔形文字の文書を利用して、自国の歴史を編纂した。
この大著「バビロニア史」において、ベロッソスはバビロニア文明の起源について記述している。

それによれば、バビロニア文明は外部から訪れた水陸両棲体の一団によってもたらされた。

この水陸両棲体の一団は「オアンネス」と呼ばれる。
のちの伝承において「オアンネス」は「ダゴン」と呼ばれるようになり、聖書にもペリシテ人の崇拝する魚神として登場している。
「ダゴン」は魚神であるが、農耕をつかさどる神として信仰を集めていた。

歴史家アポロドトスが保存していた「ペロッソス」の断章には「魚と人間の合体した姿のオダゴンが海から現れた」という記述がある。
ペロッソスの記述によれば、オアンネスは次のような姿をしていたという。

「その動物は全体として魚と似ている。
魚の頭の下に、もう一つ人間に似た頭があり、また、魚の尾の他に人間に似た足ももっている。
声や言葉も明確で、かつ人間のようでもある。
この動物の姿については、今日に至るまで正確に伝承されている。
この動物は太陽が沈むと海に戻り、海の底で夜を過ごすのが習慣だった。
つまり水陸両棲だったのである。」

バビロニア人はオアンネスを崇拝し、巨大な神像を建立する一方で、文明を与えてくれた恩人のことを「気味が悪く嫌悪すべきもの」と呼んでいたのだ。

この記述からは必ずしも明らかではないが、水陸両棲体オアンネスは表皮がぬるぬるし地面を這いずりまわる生物であったにちがいない。
だからこそ、気味の悪いものあるいは嫌悪すべきものと呼ばれたのであろう。

ブルタルコスの記述によれば、大神ゼウスは両足が癒着したまま成長したため、歩くことができなかったという。
ゼウスも水陸両棲だったのだろうか。


バビロニアの伝承と同じく、ドゴン族も水陸両棲体が地球文明の創始者であると伝えている。

この水陸両棲体は「ノンモ」と呼ばれる。
「ノンモの玉座は水底にあった」と伝えられるように、基本的には水の中でしか生活できない。

ノンモの一団を地球に派遣したのは、宇宙の最高神「アンマ」であるという。
この「アンマ」という言葉は、古代エジプトの神アモンから転訛したものと思われる。

ノンモの一団は箱舟で天界より来臨し、箱舟を旋回させながら着陸したという。

着陸地点は彼らの住居地から北東ということで、現在のエジプトないし中東近辺を指していると考えられる。

箱舟は乾いた土地に降下し、旋風を巻き起こして土煙をあげたとされる。
着陸の衝撃により、地面は凸凹になった。
そして方舟は地面を横滑りしたという。

また方舟が着陸するとき、ノンモの声が四方に飛んだとも伝えられる。
おそらく方舟は大音響をたてながら、現代の飛行機の様に地面を滑走して着陸したのだろう。

箱舟が降りてくるとき、空間は四つの角をもった。
箱舟が着陸したとき、空間は四つの辺をもった、と伝えられている。

箱舟は「十番目の月の星」と呼ばれた。



ノンモは箱舟と共に帰ってしまったが、ふたたび地球の戻ってくるという。

ドゴン族が待望する「ノンモの復活」である。
これについては次のような伝承が伝えられている。


「ノンモの復活を現す天のシンボルはイエ・ペル・トロ(=10番目の月の星)である。
 
この星は容易には見ることができない。
この星がまだ現れていないため、二条で一対をなす十条の光線は円の内部にある。

ノンモの箱舟が降下するとき、これは形をなすだろう。
これは復活したノンモの目のシンボルでもあるからだ。」

この記述からも、ノンモがただの単なる星でないことは明らかである。

ノンモが再び太陽系を訪れ、地球に着陸船を降下させる時になって初めて、10番目の月の星すなわち箱舟=恒星間宇宙船は姿を現すことになるのだろうか。

(ロバート・テンプル著「知の起源・文明はシリウスから来た」より要約)


    *****

写真は同著より
上・オアンネス
中・オアンネス(古代バビロニア期)
下・10番目の月の星・十条の光線が円の内側にある


Wikiシュメールより

シュメール(Sumer, Shumer, Sumeria, Shinar)は、メソポタミア(現在のイラク)南部を占めるバビロニアの南半分の地域、またはそこに興った最古である都市文明。初期のメソポタミア文明とされ、チグリス川とユーフラテス川の間に栄えた。シュメールの名は、シュメール人が文明を築いてから、アッカドやバビロニアの支配を受けてシュメール人が姿を消し、さらにバビロニアがペルシャ帝国に併合されるまで続いた。シュメールの楔形文字が使われ始めたのは紀元前3500年頃とされており、書かれた物としては最も初期のものだと思われる。


Wikiオアンネス(半魚人)より

メソポタミアの伝説の生き物魚のアプカルル(英文献ではFish-Apkallu)は発掘された彫像によると頭から背中にかけて魚をかぶったような姿をしている。身体の前部が人間、後部が魚、という姿をしているのである。神話のなかでは、アプカルルは古の賢者であり、人々に知恵を授けたとされている。彫像は守護精霊として7体セットで用いられた。
アプカルルは、ヘレニズム時代のバビロン神官ベロッソスが著した『バビロニア誌』にオアンネス(Oannes)として現れる。オアンネスはペルシア湾から上陸してきて、ごく短期間に人々に文明を授けたといわれている。

Wikiベロッソスより

『バビロニア誌』 原資料と内容
エウセビオスの古アルメニア語訳とシュンケロスによる記述(『年代記』、『年代誌選集』)はどちらもベロッソスの使用した「公的な記録」を書き留めており、ベロッソス自身がそうした資料をカタログ化していた可能性はある。だからといって原資料について完全にベロッソスを信頼できるというわけではなく、原資料を取り扱うことができたということと、普通のバビロニア人が手にすることのできなかった神殿に保存されていた祭祀資料や聖なる資料を利用することができたということである。現在知られているメソポタミア神話はベロッソスと有る程度まで比較することはできるが、その時代の文献のほとんどが現存していないため、ベロッソスの伝えているとされる資料との厳密な照合は難しい。確実なのは、ギリシャ語で彼が行なおうとした著述の形式は現実のバビロニア語の文献とは差異があるということだ。
第一書の断片はエウセビオスとシュンケロスに残っていて、ベル(マルドゥク)によるタラット(ティアマト)退治などを含む創造の物語と秩序の確立を記述している。ベロッソスによれば、すべての知識は創造のあと生みの怪物オアンネスによって人類にもたらされたという。もしこれがすべてならば、VerbruggheとWickershamの言うように[2000: 17]、上述した占星術についての断片に一致するものである。
第二書は創造からナボナッサロス(Nabonassaros 前747-734年)に至るバビロニア諸王の歴史を記述している。エウセビオスは、アポロドロスが「ベロッソスは、最初の王アロロス(Aloros)からクシストロス(Xisouthros)そして大洪水に至る年代を43万年としている」といっているのを伝えている。ベロッソスの描く系譜からして、彼がここ、特に(伝説的な)大洪水以前の王たち、それとセナケイリモス(Senakheirimos センナケリブ)からの前7世紀以降を編纂するときに『王名表』を手元においていたのは確実である。シュンケロスに残っているベロッソスによる大洪水についての記述は非常に『ギルガメシュ叙事詩』のある版に類似している。しかしこの叙事詩においては主人公はウトナピシュティムだが、クシストロスの名はどちらかというとシュメール版大洪水神話の主人公であるジウスドラのギリシア語表記のように思われる。
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アフリカ・ドゴン族の“見えないシリウス星”

2009-02-15 | その他先史文明

アフリカの“未開民族”が、昨今観測されたばかりのような天文学上の事柄を古くから伝承しているという話を以前聞いたことがありました。

ロバート・テンプルという人の書いた「知の起源・・文明はシリウスから来た」を読んでみましたので、少し紹介してみたいと思います。

前回のインカ帝国のレムリアを通り越して、シリウス星まで行ってしまいましたが、行きつ戻りつ、さまよってみたいと思います。

書名にあるように、“知の起源”はいまだ明らかにされていないのですから、これも一つの仮説であり得ると思います。

以前何回か紹介したホピ族の伝承と重なる部分もあるように思われ、比較検証してみたいとも思っています。


         *****


ドゴン族に関する調査を開始した私は、フランス人の人類学者マルセル・グリオールとジェルメーヌ・ディテルランとの「スーダンのシリウス星系」と題する論文を発見した。

この論文はシリウス星系について膨大な知識を有するドゴン族についての人類学的報告であったが、当初筆者はその内容を信じることができなかった。

そこには未開の部族が知るべくもない知識が含まれていたからだ。

ドゴン族はシリウスBを天空における最も重要な星と考えていた。

シリウスBを肉眼で見ることはできないが、ドゴン族自身もそれが見えない星であることを認識している。

それではどのようにして彼らはシリウスBの存在を知ったのであろうか。

彼らは「シリウスBは単に見ることができないだけなのだ」という。

下の図はドゴン族の描いたシリウス星系。


ドゴン族にとっては、大きくて明るいシリウスA(主星)よりも、ちっぽけなシリウスBの方が重要であるという。

彼らはシリウスBの軌道を楕円形と考えており、シリウスAはその焦点の一つであるというのである。

おどろくべきことに、ドゴン族の描いた図に示される天体の動きは天体の運動に関するケプラーの法則にあてはまっている。



上の図はシリウスBの描く軌道とシリウスAについて、現代科学による天体運行図とドゴン族の描いた図を並べて掲載したものである。

ドゴン族はシリウスBの公転周期が50年であることも知っていた。

グリオールらはドゴン族の秘儀(=シギ)に言及した箇所について次のように記述している。

「公転周期は2倍、すなわち100年に勘定される。なぜならシギは双子星の原理を表現するために双子を二人一組で召喚する儀式だからだ。」

「天空で最も小さな星が最も重い星である。ディジタリア(と名付けられている)は最も小さく、最も重い星だ。この星はサガラという金属で構成されていて、輝きは鉄よりも 明るく、地球上の生物が力を合わせても持ち上がらないほど重い。」

実際シリウスBは白色矮星であり、地球上には存在しない超高密度の物質で構成されているのである。


彼らは惑星が太陽の周囲を公転していることも知っていた。

ドゴン族は惑星のことをトロ・タナザと呼ぶが、これはなにかの周囲をまわっていることを意味する。

その中心が地球ではないことは、彼らが「太陽の周囲をゆっくりと回りつつ、木星は金星の跡を追う」と表現していることからも分かる。

ドゴン族の居住地近くの洞穴には、祭壇や石組などで、金星の位置を指し示す金星運行表が存在するが、これは金星暦を作成するためのものだ。

彼らは4種の暦を使用しており、うち太陽暦、金星暦、シリウス暦は儀礼用、太陰暦は農耕用である。


「天の川は「星が渦巻く世界」に属する螺旋状の星々であり、地球も「星が渦巻く世界に存在している。

「星が渦巻く世界において、星々の回転軸(=アンマの熊手と呼ばれる)は北極星とつながっている。」


ドゴン族の知識によれば、天の川は太陽系の惑星よりも「遠く離れた星々」である。

宇宙は無限の星々と星が渦巻く世界で構成されているというのだ。

「ビールを醸造する場合と同じく、宇宙の創造においても発酵は重要な過程であった。

生命の発生は発酵に似ている。
創造が行われたとき、多くのものが創造主アンマの内部で発酵した。

アンマは回転し、踊りながら、星が渦巻く世界を創造した。

アンマにより、宇宙は序々に実体化し、星が渦巻く世界が序々に形成されていった。」


創造主アンマによる宇宙の創造と関連して、ドゴン族は宇宙のあらゆる場所に知的生命が存在する可能性を肯定している。

「星々が渦巻く世界には生物が住んでいる。

というのは、万物を創造するにあたり、アンマは世界に形と、動きと、生命を与えたからだ。

我々の星以外にも、生物の住む“地球”は存在するのだ。

すなわち第4の地球に我々人類が存在し、第3の地球には角を持つ人、第5の地球には尾を持つ人、第6の地球には翼を持つ人が居住している」

というのである。

ドゴン族は恒星や惑星の集合体である星系を表現する上で“胎盤”という言葉を使っている。

たとえば太陽系は「オゴの胎盤」、シリウス星系は「ノンモの胎盤」と呼ばれている。

胎盤の中における天体の運行は本物の胎盤の血液循環にたとえられ、天体自体は凝固した血液と表現された。

この比喩は他の天体について表現する場合にも用いられている。

たとえば天の川は血の通り道であるし、惑星や衛星は循環する血液と血液中を流れる種子にたとえられている。

また、シリウス星系の地球は「清浄なる地球」、そして、太陽系の地球は「不浄なる地球」と表現されている。

シリウス星系は「魚の国」と呼ばれ、その住人であるノンモ(シリウス人)が地球に降り立った日は「魚の日」とされる。

ドゴン族の伝承によれば、ノンモ(シリウス人)の故郷は「魚の日の清浄なる地球」であり、わたしたちの不浄なる地球ではないという。

わたしたちの地球は「オゴのへその緒が胎盤についていた場所」であり、それゆえに「オゴの最初の降臨」を思い起こさせる場所である。

つまり、地球とはオゴと太陽系とをつなぐ結節点なのだ。

そして(キツネに表象される)オゴとは地球に出現した不完全な知的生物、人類のことなのである。

オゴとは宇宙の吹きだまりに住む私たちのことであった。

オゴは創造された時点で謀反を起こしたため、不完全な状態にとどめられたという。

この伝承は堕天使ルシファーの物語に似ている。

ノンモ(シリウス人)はふたたび帰還するという。

「星」が再び現れた時、それはノンモ復活の標(しるし)となる。

ノンモがはじめて地球に降り立った時、彼らはキツネを粉砕し、キツネの作った地球を将来的に支配することを約束した、とされる。

ノンモはオゴを破壊しつくし、文明の礎を築いた。

未開と文明が混淆する中で、どうやら人類は自らの内なるオゴと闘っていたようである。


  (ロバート・テンプル著並木伸一郎訳「知の起源・文明はシリウスから来た」より抜粋 )


      *****

wikiシリウスより

古代エジプトでは、ナイル川の氾濫時期を知らせてくれる星として、非常に重要な働きをしていた(エジプト神話・ナイル川を参照の事)。
オリオン座α星ベテルギウス、こいぬ座α星プロキオンとともに冬の大三角を形成する。
シリウスはシリウスA及びシリウスBの2星からなる実視連星である。かつては一つの星と考えられていたが、1844年にフリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルが軌道の揺らぎを観測し、伴星の存在を推定。のちにシリウスBと呼ばれるその伴星の姿は1862年にアルヴァン・グラハム・クラークによって初めて観測された。
実視連星といっても、主星(シリウスA)と伴星の光度差が極めて大きく、また近くにあるため、伴星が主星の光で遮られてしまい、小さな望遠鏡で伴星を見るのは無理である。なお、伴星シリウスBは最初に発見された白色矮星である。


wikiマルセル・グリオールより

マルセル・グリオール(Marcel Griaule、1898年5月16日 エジー=シュル=アルマンソン - 1956年2月23日 パリ)は、フランスの民族学者である。ドゴン族の研究で知られる。
ドゴン文化に密着し、とくにコンゴ・サンガ地方(Sangha)のタマネギとピーマン栽培用の潅漑ダムの建設を励ましながら地域の発展に寄与した。
民族誌学に関係して、重要な貢献のひとつは、ドゴンの宇宙発生論が、西洋のいくつかの宇宙発生論とすくなくとも同じくらいには重要であるというデモンストレーションをした。しかし、ドゴン族の宇宙認識における西洋の影響を過小評価しているとひどく非難されることとなる。アフリカの伝統的葬儀を研究した稀少な民族誌学者のひとりである。
1943年から1956年の彼の死まで、パリ大学ソルボンヌの教授(民族学筆頭)をつとめた。『ユニオン・フランセーズ L'Union française』誌の顧問でもあった。1940年からは、『ソシエテ・デ・アフリカニスト Société des Africanistes』誌の事務局長をつとめていた。


Wiki白色矮星より

白色矮星(はくしょくわいせい、white dwarf stars)は、恒星が進化の終末期にとりうる形態の一つ。質量は太陽と同程度から数分の1程度と大きいが、直径は地球と同程度かやや大きいくらいに縮小しており、非常に高密度の天体である。シリウスの伴星(シリウスB)やヴァン・マーネン星など、数百個が知られている

写真は同著より。
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レヴィ・ストロースが100歳に

2009-02-12 | その他先住民族
先日新聞を見て、フランスの文化人類学者クロード・レヴィ・ストロース氏がご健在で昨年11月に100歳になられたと知り、思わずうれしくなりました。

大学なんてやめてやる、と息巻いていた私でしたが、この人の著作はすばらしかった。。
この人の本を読めるなら、勉強したいと心底思いました。

「野生の思考」への敬意と熱意と謙虚さを教わったと思っています。

当時流行っていた、既成文化を打破したいというカウンターカルチャーの底堅いバックボーンであり、日本人では北沢方邦(まさくに)さんなど、切れ味よくかっこ良いと思って何度も読み返したものです。

奇しくもその北沢方邦さんは1971年、日本で最初にホピの地に行かれた方で、わたしにとっては、カウンターカルチャーとアメリカ・インディアンはより一層ワンセットになって刷り込まれたのだと回想します。

もう30年近く読んでいないことになりますが、今読み返したらどんな気持ちがするだろうかと、もう一度読む日が楽しみでたまりません。



新聞のレヴィ・ストロースに関する書評欄から少し転載します。


      *****



「人間を理解しようと思うならば、まずは遠くから見つめなければならない」というルソーの至言に導かれ、アマゾンの密林に暮らす先住民族の調査を始めたのは1935年。

以来、婚姻、トーテム信仰、神話と続く膨大かつ壮大な研究を支えたのは「人間科学の究極目標は人間を構築することではなく、分解することにある」という信念だった。

人間の意識の深層で働く思考のコード(構造)を解析しようとする彼の姿勢は人間の自由意思の力をうたい上げた旧友サルトルとの対立を決定的にし、「反人間主義」と糾弾された。

しかし普遍的な「構造」の抽出を通してレヴィ・ストロースが打ち出したのは、先住民族を偏見なく眺める視座であり、西洋近代を相対化し、人類の文化の多様性を尊重する世界観に他ならない。

初期の論考集である本書は普遍主義と文化相対主義の対立をみごとに昇華しながらそうした器の大きい「人間主義」を説いている。

文化の差異を尊重するどころか、むしろ恐れ排する思いに駆られがちな現代世界にあって、私たちは半世紀以上前に示された著者の卓見に少しでも近づくことができただろうか。

「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」。世界は人間の存在や知性など介せずとも、自ら考え、歩み続けていく。

真の人間主義とは、こうした厳粛なる諦念と自戒からしか生まれ得ないのではないか。

著作をひも解くたびに引き込まれる崇高で美しい、誰にも模倣できない全く異質な知の次元。そんな不思議な感覚に私を包み込んでくれる思想家は彼しかいない。これまでも、そして、きっとこれからも。

1月11日読売新聞 渡辺靖・書評レヴィ・ストロース「人種と歴史・復刻版」


     *****


AFPbbNewsレヴィ・ストロース100歳に
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2543895/3565325



Wikiレヴィ・ストロース
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%EF%BC%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B9
クロード・ギュスタヴ・レヴィ=ストロース(Claude Gustave Lévi-Strauss, 1908年11月28日 - )はフランスの社会人類学者、思想家である。コレージュ・ド・フランスの社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。アカデミー・フランセーズ会員。

専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者たち、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセールらとともに、1960年代から1980年代にかけて、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとりとしてよく知られている。

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レムリアの叡智はインカの民に引き継がれたのか、そしてそれはなぜ語られないのか。

2009-02-08 | その他先史文明

一つ前の記事、探検家ウィリアムソンの書いた「アンデスの封印」の紹介の続きです。
この“場所”への行き方は、二つ前の記事「アンデスの白い神と古代人・『アンデスの封印』を読む」に書いてあります。


       *****


かつて南米大陸はその西海岸一帯をレムリアによって、東海岸一帯をアトランティスによって統治されていた。

しかしながら、太平洋と大西洋にあったそれら二大文明によって、その偉大な大陸のすべてが統治されていたわけでは決してない。

そもそもレムリアとアトランティスが南米大陸の一部を植民地化し始めたのはそれらが水没するわずか2,3千年前のことだった。

それらの文明の影響が及ぶ前、その時代、南米大陸にはもう一つの文明が存在していたのである。
当時そこは単なる植民地ではなく、独自の文明が存在していたのである。

そればかりか、その文明、すなわち「アマゾン帝国」は海をはさんで両隣に存在した二つの有名な文明よりも文化的に先を行ってさえいた。

ムーとアトランティスが怒涛の波の中に飲み込まれたのに対して、「アマゾン帝国」は深い密林に包まれて、常に地上に存在してきた。

そうやって人類が黄金への飢えを放棄し、彼らの物質的財宝ではなく、それよりもはるかに貴重な財宝たる「より豊かで永続的な生命への鍵」を追及する時代が訪ずれるのを、静かに待ち続けてきた。


とは言えそれもある意味では失われた文明だった。

その文明が所持していた物質的な財宝を追い求めた者はこれまでにほとんどおらず、それを行った極めて少数の人々もグリーンヘルとして知られる深い密林の中で行方をくらますか、時間の大きな壁に行く手を拒まれていた。

そして今「大聖者会議」は、様々な秘密の場所に隠されてきた知識が、まもなく訪れるカタストロフィーを生き残るであろう者たちに、もたらされるべき時が訪れたと宣言した。


我々には、他の惑星の兄弟姉妹たちと同等の進歩を果たすために必要な、「われわれ自身の知識」があるのである。

「母なる地球」の体内に延々と宿り続けてきた偉大なる知識は我々の前にまもなくその姿を現すだろう。
すでにその陣痛が始まっている。

偉大なる文明を誇った「アマゾン帝国」の都市は、これまで一度も水を被ったことがないため、忘れられた都市パイチチが蓄積した膨大な情報のすべてがほぼ完璧な状態で残っている。

さらに、レムリアとアトランティスの賢者たちは彼らの大陸が海の藻屑と消えることを予知し、おびただしい量の財宝と知識をパイチチへと運び込んだ。

ゆえに今では動物の雄たけびと鳥のさえずりのこだまするだけのその失われた帝国には、かつて地球に存在した三つの偉大な文明の大いなる遺産が静かに眠っているのである。

かつてその古代都市の存在を聞いたインカ人達が大々的な調査をおこなったが目指す都市を探し当てることはできなかった。

また、ピサロ以降のスペイン人征服者たちも、その古代都市の金銀財宝を求めてジャングルに分け入ったが、彼らもまた勇敢な死以外の成果は何一つ挙げることができなかった。

その都市は、黄金に餓えた者たちの接近をことごとく拒み続けてきた。

そしてそこには不遜な欲望の対象である「黄色い金属」や宝石などよりもはるかに価値のある財宝がほぼ完璧な形で静かに眠っている。

その昔、カタストロフィーの発生とともに、古代の偉大なる知恵への扉は固く閉ざされた。

そして今や、新しいカタストロフィーと共に、霊的進歩を追及する人々に対して、その「秘密の知恵」への扉が大きく開かれようとしている。
カタストロフィーを恐れる必要はまったくない。

    (ジョージ・H・ウィリアムソン著「アンデスの封印」より要約)



      *****


要約するとこのような感じでしょうか。

レムリアはどこに存在したのか、といった大前提はいまだに誰も証明していないので、実際問題何一つ論拠がないと言わざるをえませんが、論拠はなくても、わたしはレムリアはあったし、レムリアの叡智はインカの民に引き継がれたに違いないと思っています。
またその光の記憶は長い封印を解かれて、今よみがえろうとしている、のかもしれない(のであろう)とも感じます。

ですが人類の先史時代の真正な記憶や伝承が、空想的な思惑と交錯するのは危険なことであり、細心の注意を払う必要があるのは当然のことです。

著者ウィリアムソンはアマゾンの奥地を探検し、そこに眠る太古の文明を確かに見出したのだと思いますが、それを証明するために必要な資料は揃えていません。

あえて不充分なまま、口をつぐんだのだという印象があります。
あえて口をつぐみ、この発見で商売を始めなかったのは、卓見だったのかもしれません。
語られなかった部分が雄弁に語っていることを、尊重したいように思います。


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ムー大陸が沈む時「黄金の太陽」はインカの人々に託されたのだろうか?

2009-02-05 | その他先史文明


前回の続きです。

遠い昔アトランティスとムーの大陸が沈んだ時、その住人達は南米大陸にその知識と財宝をそっと託したのだと語るウィリアムソンの話を、彼の著書「アンデスの封印」からまとめて紹介してみたいと思います。

荒唐無稽かもしれませんが、アメリカ先住民族の“虹の戦士の伝説”を彷彿とさせる話ではあります。

また彼らの謎に満ちたシンボル、“救い主・白い人”についても、一つの仮説を出しているように思います。

秘密結社であり、ミステリースクールであるためか、話が分かりにくいですが、神話の一つとして味わえたらと思います。

もしかしたら、事実を反映した神話でないとも限らないではないですか?
長いので、二回に分けて掲載します。




     *****


レムリア(ムー大陸)が海に沈むころ、この地球は激しい地殻変動に見舞われていた。

今の南米大陸の海岸線もその影響をもろに受け、外観を大きく変化させていた。
現在のアンデス山脈が出現したのはその頃のことである。

ボリビアの古代都市ティアワナコは、かつては南米大陸の西海岸沿いにあったレムリアの貴重な植民都市だった。

しかし当時の激しい地殻変動の影響ではるか高地に押し上げられ、極寒の荒涼とした環境の中に追いやられるに至った。

現在、世界最高位(標高3812メートル)の湖として知られるチチカカ湖も、そのころに誕生したものである。


レムリアの偉大な教師であったアラム・ムルは大聖者会議の名により、古代の知恵がしたためられた多数の巻物とともに、太陽の形をした黄金の巨大な円盤「黄金の太陽」をたずさえ、現在の南アメリカに当時誕生したばかりのチチカカ湖へと向かった。

その円盤、別名「輝く光の炎の焦点」を守り続けることも、彼の重要な使命の一つだった。

レムリア(ムー大陸)の「神の光の大寺院」内の聖堂には、純金のロープで固定された、黄金の巨大な円盤(大きさは直径20メートルほどあったと言われている)が置かれていた。

その円盤、すなわち「黄金の太陽」の前方には固い岩を削って造られた柱状の祭壇があり、その祭壇は神々しく澄みきった至高の光を放ち続けていた。

ムー大陸が海底に沈む直前、その円盤はアラム・ムルによってチチカカ湖のほとりに運ばれた。

その「黄金の太陽」はレムリアの「神の光の大寺院」に置かれていたもので、創造主の象徴として宗教的行事に用いられることが多かったが、他にも様々の目的で使用されていた。

彼はその後その近くの巨大な渓谷に、秘密の学校「七つの光の愛」の総本山としてのちのち重要な役割を果たし続けることになる修道院を建造した。

やがて「黄金の太陽」は「七つの光の愛」の修道院内の地下神殿に安置された。

そしてそれは、それ以降その修道院で学ぶ生徒たちによって、日常的に利用された。

修道院において彼らは、それぞれの生命の光線をブレンドし合うことですばらしいハーモニーを作り上げてきた。

まるで七色の糸を混ぜ合わせて色彩豊かな美しい織物を織り上げるかのようにしてである。

そして実際、その修道院では、七色の糸で織りあげられた鮮やかな織物がそこでの霊的生活の象徴として飾られていた。
これが「輝く光の愛」という名でも知られる愛の組織「七つの光の愛」の起源である。


やがてペルーに移住してきたインカ人たちがかつてのレムリアのある植民地都市の跡に、高度な霊的社会を築きあげた。

彼らは、南米に元から住んでいたケチュア・インディオではなく、遥かかなたから太平洋を渡って移り住んできた人々だった。

移住してきて間もなく、インカ帝国の太陽の司祭長たちは残っていた寺院跡に彼らの「太陽の寺院」を建設した。

彼らは故国に存在していた古代の記録を通じて、ムーの「黄金の太陽」のことをよく知っていた。

彼らやその円盤の持つ様々な機能と共に、それがレムリアの水没直前に運び出され、南米に保管されていることまで知っていた。

インカの司祭長達は「黄金の太陽」を求めてあちこちを探しまわったが、しばらくの間はそのありかをまったく特定できなかった。

しかし彼らが後に充分に高い霊的レベルに達した時、(つまり彼らがその円盤をムー大陸の人々が使用していたように真に人々のために使用することが可能なレベルに達したとき)ついにそのありかを突き止めるに至った。

その当時のインカ皇帝は実に偉大な人物だった。
彼はチチカカ湖の修道院に自ら出向き、修道院長のアラム・ムルに謁見した。

アラム・ムルはその皇帝に、「黄金の太陽」を譲り渡すことを即座に決定した。

やがてクスコに着いた「黄金の太陽」は手はずどおり「太陽の寺院」内の聖堂に運び込まれ、古のレムリアにおけると同様、黄金のロープでしっかりと固定された。

そのロープを通した穴はプレインカおよびインカ時代の「太陽の寺院」跡に建てられた、現在のサント・ドミンゴ修道院に、今でも残っている。

  
  (ごま書房「アンデスの封印」ジョージ・H・ウィリアムソン著 より要約)
   
      
     *****

写真は
上・サント・ドミンゴ修道院
下・アンデスを旅する著者
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アンデスの白い神と古代人・・「アンデスの封印」を読む

2009-02-01 | その他先史文明


探検家、マルタ騎士団のメンバー、南米秘密結社のメンバーなど、さまざまな顔をもつJ・K・ウィリアムソンは、ナスカの地上絵を発見したことでも有名です。

彼は、アダムスキーの友人として、UFOから降りてきた宇宙人の足型を石膏でとった人でもあります。

それから、その冒険の雄姿はインディー・ジョーンズのモデルだとも言われています。

その彼が、南米の地下世界とつながるミステリースクールについて書き記したのが本書ですが、残念なことに、彼はそのことが元で立場を危うくし、以後行方不明になってしまったということです。

彼がパイチチと呼ばれる太古の「アマゾン帝国」のありかについてつづった「アンデスの封印」を紹介します。

ウィリアムソンは、歴史をはるかにさかのぼり、大洪水の時代に、当時のレムリア・アトランティスの霊的知識が、南米にいかにひそかに持ち込まれたかについて語ろうとしています。


(チチカカ湖とあし舟)

*****


1957年われわれの探検隊は険しい道を馬にまたがり、また自らの足でも歩きつつ、アンデスのマルカワシ高原にある「失われた聖なる森」に到着した。

マルカワシ高原は海抜およそ3700メートルに位置し、ほぼ一年中霧に覆われているが、3月から9月にかけては、ときおり明るい太陽がさしこみ鮮やかな輝きを見せる場所である。
そこに存在する巨大な石像の多くは、この世界の太古の秘密を我々に伝えてくれている。

まずライオン、象、ラクダ、ペンギンその他の現在の南米大陸では見ることのできない鳥や動物の像がたくさん並んでいる。
さらには異なった様々な人種をモデルにしたと思われる、様々な形態の人間の像も立ち並ぶ。

太平洋のイースター島のモアイ像と瓜二つの石像もたくさんある。
また綿密に彫られた美しいスフィンクスや、忘れられた神々の半身および全身像もあり太古の宗教を彷彿とさせている。

それらの石像は、まさに巨大であり、科学的試算の結果、それらを作った人々あるいは種族は、身長が少なくとも、3・7メートルはあっただろうと結論づけられた。

南米の原住民の間ではかつてその大陸に住んでいたという「金髪の巨人(ビラコチャ)の伝説」が、今なお根強く語り継がれている。
インカ人たちもまた、その種の巨人達に言及していた。

さらに我々はその高原に空からしか判別できないようないくつかの巨大な図形を発見したのである。
(編集部注・ナスカの地上絵は筆者ウィリアムソンが初めて公開したと言われている)

それは伝説の巨人達が航空機を持っていたことを示唆しているのだろうか?
それとも他の惑星からやってきた宇宙船が着陸するときの目印にしたものなのだろうか?

1957年7月、我々は伝説の帝国パイチチを目指し、東に向けて移動を開始した。

我々がその地域を目指したのは、そこに「失われた石造りの都市群が存在することを、南米大陸に伝わる多くの伝説が語っていたためである。

またその付近に住むインディオ部族の間では、そのあたりのジャングル内に、太古への不思議な入口がある、ということが語り継がれていた。

あるインディオの男が、自分の下から逃げ出したマチゲンガインディオの妻を探そうとそのあたりをさまよっていた際、名もない二つの川の源流付近で、一本の「石造りの道」を発見した。

彼はその道をたどり、ジャングルの奥へ奥へと入って行った。

するとやがて、彼の前に美しい石造りの家や広場、寺院などからなる、壮麗なる古代都市が出現した。

それこそがまさに、古代アマゾン帝国パイチチの「失われた都市」の一つだった。

また、その付近に太古への不思議な入口がある、ということが語り継がれていた。

それは、断崖の露出した岩肌に、様々な絵や象形文字が刻みこまれたもので、それらの絵や文字の意味は付近に何百年、何千年にわたって住み続けてきたインディオたちにも全く理解できないという。

その地域の岩肌に象形文字が刻まれているという事実は、南米の歴史にきわめて重要な示唆を与えるものである。

なぜならば、一般にペルー古代史文明におけるインカ及びプレインカの人々は、いかなる形の文字も持たなかったと言われているのである。

また今回の旅でわれわれの探検隊は、付近に住むマチゲンガ族の貴重な伝説をいくつも収集することに成功している。

それらの伝説はムーやアトランティス文明を破壊した先のカタストロフィー、突然の大異変の様子を、きわめて詳細に語るものだった。

それは、古代の港湾都市であったティアワナコを高地に押し上げ、アンデス山脈を隆起させるに至ったとてつもない地殻変動だった。

南米大陸の全土が恐ろしい地震に見舞われて、海岸沿いにあったティアワナコのような都市が、もっとも大きな影響を受けることになった。

そして、レムリアの植民都市であったそれらの港湾都市のはるか東方にはレムリアよりも古い歴史を誇るアマゾン帝国の石造りの都市が立ち並んでいたがそれら内陸部の都市が受けた地殻変動による被害は海岸部の都市と比べてはるかに小さいものだった。

彼らの伝説はさらに、彼らがアマゾン帝国の崩壊のともに堕落した、とも語っている。

アマゾン帝国が壊滅的な破壊を逃れたにも関わらず、そこの住民であった彼らが堕落したというのは、どういうことなのだろう?

実はマチゲンガ族その他のインディオ部族の祖先は、それら古代都市の統治者たちではなかったのである。

つまり彼らはいわば労働者であり、そこには彼らを治める立場の「ひげを生やした白人たち」がいたと言われているのである。

また、そのジャングル一帯に住む多くのインディオ部族の間で、「ひげを生やし、長い衣をまとった白人たちが今なお存在し、「限りなく太古の30の要塞を持つ失われた都市」の調査を続けているらしい」という噂も根強くある。

この「30の要塞を持つ失われた都市」こそ、パイチチの首都のことである。


    *****


髭を生やした背の高い色の白い人(神?)というモチーフは、南北アメリカ共通に先住民族が古代約束をかわし、それ以来再来を待ち望んでいる大変重要な英雄(神?)のモチーフなのです。

その白い人がどのような人びとを指すのかについては、今だに定説はないのではないかと思います。

ウィリアムソンは、先史時代からの地球の住人にその役割を求めているように思います。

それも一つの見解として、もう少し紹介したいと思います。



Wikiビラコチャより

ビラコチャとはインカ帝国でスペインによる侵略とキリスト教の布教がされるまで信仰されていた神。
インカの宗教で最重要の神の1柱であり、文明の創造者である。
彼は当時無秩序だったアンデス地方の人々にいかに生活するかと示し、人々に慈愛や親愛を説いたとされる。
容姿は白人であご鬚をたくわえ大柄な男性。
ビラコチャは人々に慈愛だけでなく農業を教え、トウモロコシの作りかたや灌漑水路を造り家畜の飼い方も教える。更に、行く先々で数多の病人を治した医師でもあった。
ある時、ナスカ地方の村で見慣れぬ白人を恐れた村人が石を投げると不思議な武器を使いこの場を凌いだという。
この事件の後、ビラコチャは海の泡へ消えたとされる。
この事からインディオ達はこの人物をビラコチャ(海の泡)と呼ぶようになった。部族により呼び方は異なりワラコチャ・スヌパなどと呼んだ。

wikiケツァルコアトルより

その名はナワトル語(古代ナワトル語)で「羽毛ある蛇」(ケツァルが鳥の名前、コアトルが蛇の意)を意味し、宗教画などでもしばしばその様な姿で描かれる。
また、白い顔の男性とも考えられている。
ケツァルコアトルは「セーアカトル(一の葦の年)に復活する」と宣言してアステカを立ち去ったといわれており、16世紀初頭にコンキスタドールが侵略してきた際、コルテスがメキシコに来た1519年が偶然にも「一の葦の年」と一致したため、アステカ人達は、白人である彼らをケツァルコアトルの再来かと錯覚し、対応を遅らせたとも言われている。
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