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松村潔氏の「日本人はなぜ狐を信仰するのか」という本のご紹介を続けます。
リンクははっておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
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(引用ここから)
「イナリ」に「稲荷」という漢字を当てはめたのは、空海だといわれている。
その前は「伊奈利」という文字で表記されていたが、この名前には穀神以外の意義がより強く含まれている。
榎本・近江両氏は「「イナリ」という言葉は、イスラム世界では、「光を与えるもの」を意味する」と述べている。
荒俣宏氏も「稲荷は漁師の神でもあった。小高い丘や岬に火を点し、燈台の役割を果たすのが稲荷だった。
おそらくは密教と結合した神格であるせいで、虚空蔵菩薩と同じく本体は星だと信じられたからである」と述べている。
「稲荷(稲を荷う」が意味する穀物と、光を発するという意味を一体化させるのは、現代人には難しいことかもしれない。
しかし、竈の神聖な火を絶やさないように信仰する、まるで和製ゾロアスター教祭司のようでもある荷田氏にとって、昼の農作業と、夜の火の修行は、直接的な関連性を持っていた。
日本神話のイザナミの火神誕生前後に穀物神が誕生したことに触れて、日本においては火の起源と穀物の発生は同一的意義を持つことを指摘している研究もある。
古い時代には、稲の育成と火の信仰、また農業に取り組む時の人の姿勢如何は切り離せなかったので、ここから豊作を祈る呪術的芸能も発達し、田遊びでは牛を屠る儀式まで登場した。
稲荷神社の繁栄のイメージは、農作からいつのまにか経済や商売の発展性へと変わったが、それは商業的色合いの濃い秦氏が関与してからで、もともと伏見という土地の力は、穀物の育成と火の修行から展開した。
この、火を祈る「竜頭太」信仰は田中社、荷田社などに残されていて、稲荷神社のルーツの一つを示している。
土地に根付いた荷田氏の教義を、途中から略奪したとも言われる秦氏であるが、荷田氏はそもそも秦氏と同族であるという。
中国語では、荷田は、ホタと読み、荷田とは万葉仮名でハタのことを意味しているという。
この地で秦氏が力を握った後も、しばらくは稲荷山には秦氏と荷田氏系の社が併設されていた。
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荷田氏は、3世紀に、巨丹(新疆ウイグル自治区ホータン)の生まれであると言われる「弓月の君」が引き連れて、日本に渡来した氏族集団である。
214年、216年(応神14、16)に渡来の記録が残されている。
秦氏のルーツについては、
朝鮮語の海をあらわす語=「ハタ」「ハダ」に語源があるという考え方、
秦の国の種族であるという説、
大秦(ローマ)から伝来した景教徒「キリスト教ネストリウス派」に関係しているという説、などいろいろある。
弓月の君と関係のありそうな弓月という国は、カザフスタンの南部、キルギス、あるいはホータンあたりにあったといわれている。
この一帯は3世紀から6世紀あたりはキリスト教国として栄えた地域でもあって、絹貿易を主とする人々の居住地でもあった。
イエス・キリストの死後成立した原始キリスト教教団は、ユダヤ的性格を残したまま中国に伝わり、景教とよばれたが、ユダヤ的な思想の中には口伝主義としての教義カバラなどがあった。
この体系で頻繁に活用される宇宙法則図である「生命の木」とその教義などは、中国の道教の宇宙図や教義と細かい部分まで類似している面が数多く見受けられることから、教義の交流があったということは容易に想像がつく。
あるいは景教は、国領内に定住したソグド人たちの、ローマ教会設立よりも起源の古い東シリア教会分派であったという説を主張する人もいる。
これらは、歴史上関連性が高く、日本には秦氏を通じて持ち込まれた可能性が高いのである。
秦氏の大移動については、「日本書紀」の巻10で
「弓月君が百済からやってきた。「わたしはわたしの国の、120県の人民を率いてやってきました。しかし新羅人がじゃまをしているので、みな加羅国に留まっています」と言った。
そこで葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を使わして、弓月の民を加羅国に呼ばれた。
しかし3年たっても彼は帰ってこなかった」とある。
一県を1000人として、総計120000人という膨大な人数が、日本側の援助もあって3年かけてやっと渡航し、はじめは九州北部に至った後、全国に広がっていったと伝えられているのである。
大規模な移動だったので歴史的にも資料はかなり残っており、特に九州北部の宇佐地域や京都の山城地方に多く関係資料が残されている。
秦氏はさまざまな技術をもたらしたと言われている。
たとえば、九州北部・近畿の銅山と関係していると見られていることから、新羅系統の精銅技術、養蚕とセットになった絹織物の生産技術、芸術、算術、建築などである。
また、秦氏が日本に渡来した頃から、日本の古墳が巨大化しており、たとえば仁徳天皇陵は世界最大級の墳墓である。
秦氏の祖先がシルクロードを移動しながら万里の長城や巨大建造物の建設をしていたとするならば、建設、土木技術は極めて高度なものであったのではあるまいか?
全国にちらばった秦氏の集団のなかで、京都の葛野、つまり今の嵯峨野に拠点を持った秦氏がもっとも成功した人々となったのだろう。
全国の神社総数、数十万社のうち、秦氏の神を祀る神社は、八幡系40000社、稲荷系40000社、松尾、出石などその他加えて90000社。
つまり日本の神社とその信仰は、大多数を秦氏が作ったと考えてもいい面がある。
特に、京都の松尾大社は秦氏の氏社である。
また秦氏は多くの官人を輩出しているが、一族は京都・太秦という土地を中心に、農耕・機織りなどの労働を中心とした実力豪族として働いてきており、さほど権力を求めていない。
秦氏は時代の最先端の工業を担っていたのだと思われる。
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聖徳太子の時代の秦河勝は、後年の「秦氏伝承」の中心的なカリスマだが、603年(推古11年)に聖徳太子が仏像を得、それを秦河勝が奉齋した。
これが今日の法隆寺である。
この時期、秦氏は曽我氏に従属しており、また外来系施設の翻訳や通訳仲介者や、外国への施設として頻繁に働いた。
そのために、外国の情報を調査することが急務となっており、情報通でなければならなかったのである。
かつて稲荷山で荷田氏が信仰を握っていた時代には、「伏見の伊奈利」は農耕の神様として、あまり時代の流行とは関係がなかった。
しかしその後秦氏が実権を握るようになってからは、急激に時代に即応した新しさというものが加わってきたのである。
とは言え、今日、秦氏の影響は果てしなく広がっているので、日本の文化の大きなルーツの一つであり、特異なものと見なすことはできない。
(引用ここまで・写真(中)・(下)は東京新宿の花園神社稲荷社)
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「イナリ」信仰の、隠そうとしても漏れ出てしまう、汎古代性、汎アジア性を考えることは、有意義なことではないかと思います。
昔、「エキゾチック・ジャパン」という言葉が、広告として流行しましたが、そんなことも思い出します。
もっとも身近で、もっとも日常的な古臭さをもつ「お稲荷さん」、なかなか魅惑的です。。
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「エジプトのオシリス(1)・・王権の由来と植物」(3)まであり
「伊勢神宮・外宮の豊受大神・・隠された神としての北極星」
「お盆・施餓鬼・七夕(2)・・ゾロアスターの鎮魂儀礼説など」(1)あり
「ゾロアスターの「神との対話」(1)」
「白=新羅・・荒俣宏氏の〝白いサルタヒコ”論(3)」
「弥勒とアジア(1)・・疑経としての「弥勒下生経」、という視点」(7)まであり
「8世紀中国の「異端派・景教ネストリウス派」の碑文(1)」(4)まであり
「秦氏はユダヤ民族か?日ユ同祖論の検証(3)」
「聖徳太子と朝鮮半島・・聖徳太子(1)」(3)まであり
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