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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

稲荷信仰とシルクロード・・日本人はなぜ狐を信仰するのか?村松潔氏(3)

2016-07-28 | 日本の不思議(現代)


松村潔氏の「日本人はなぜ狐を信仰するのか」という本のご紹介を続けます。

リンクははっておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

    
             *****

        
           (引用ここから)



「イナリ」に「稲荷」という漢字を当てはめたのは、空海だといわれている。

その前は「伊奈利」という文字で表記されていたが、この名前には穀神以外の意義がより強く含まれている。

榎本・近江両氏は「「イナリ」という言葉は、イスラム世界では、「光を与えるもの」を意味する」と述べている。

荒俣宏氏も「稲荷は漁師の神でもあった。小高い丘や岬に火を点し、燈台の役割を果たすのが稲荷だった。

おそらくは密教と結合した神格であるせいで、虚空蔵菩薩と同じく本体は星だと信じられたからである」と述べている。


「稲荷(稲を荷う」が意味する穀物と、光を発するという意味を一体化させるのは、現代人には難しいことかもしれない。

しかし、竈の神聖な火を絶やさないように信仰する、まるで和製ゾロアスター教祭司のようでもある荷田氏にとって、昼の農作業と、夜の火の修行は、直接的な関連性を持っていた。


日本神話のイザナミの火神誕生前後に穀物神が誕生したことに触れて、日本においては火の起源と穀物の発生は同一的意義を持つことを指摘している研究もある。

古い時代には、稲の育成と火の信仰、また農業に取り組む時の人の姿勢如何は切り離せなかったので、ここから豊作を祈る呪術的芸能も発達し、田遊びでは牛を屠る儀式まで登場した。

稲荷神社の繁栄のイメージは、農作からいつのまにか経済や商売の発展性へと変わったが、それは商業的色合いの濃い秦氏が関与してからで、もともと伏見という土地の力は、穀物の育成と火の修行から展開した。

この、火を祈る「竜頭太」信仰は田中社、荷田社などに残されていて、稲荷神社のルーツの一つを示している。

土地に根付いた荷田氏の教義を、途中から略奪したとも言われる秦氏であるが、荷田氏はそもそも秦氏と同族であるという。

中国語では、荷田は、ホタと読み、荷田とは万葉仮名でハタのことを意味しているという。

この地で秦氏が力を握った後も、しばらくは稲荷山には秦氏と荷田氏系の社が併設されていた。




荷田氏は、3世紀に、巨丹(新疆ウイグル自治区ホータン)の生まれであると言われる「弓月の君」が引き連れて、日本に渡来した氏族集団である。

214年、216年(応神14、16)に渡来の記録が残されている。

秦氏のルーツについては、

朝鮮語の海をあらわす語=「ハタ」「ハダ」に語源があるという考え方、

秦の国の種族であるという説、

大秦(ローマ)から伝来した景教徒「キリスト教ネストリウス派」に関係しているという説、などいろいろある。


弓月の君と関係のありそうな弓月という国は、カザフスタンの南部、キルギス、あるいはホータンあたりにあったといわれている。

この一帯は3世紀から6世紀あたりはキリスト教国として栄えた地域でもあって、絹貿易を主とする人々の居住地でもあった。

イエス・キリストの死後成立した原始キリスト教教団は、ユダヤ的性格を残したまま中国に伝わり、景教とよばれたが、ユダヤ的な思想の中には口伝主義としての教義カバラなどがあった。

この体系で頻繁に活用される宇宙法則図である「生命の木」とその教義などは、中国の道教の宇宙図や教義と細かい部分まで類似している面が数多く見受けられることから、教義の交流があったということは容易に想像がつく。

あるいは景教は、国領内に定住したソグド人たちの、ローマ教会設立よりも起源の古い東シリア教会分派であったという説を主張する人もいる。

これらは、歴史上関連性が高く、日本には秦氏を通じて持ち込まれた可能性が高いのである。

秦氏の大移動については、「日本書紀」の巻10で

「弓月君が百済からやってきた。「わたしはわたしの国の、120県の人民を率いてやってきました。しかし新羅人がじゃまをしているので、みな加羅国に留まっています」と言った。

そこで葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を使わして、弓月の民を加羅国に呼ばれた。

しかし3年たっても彼は帰ってこなかった」とある。


一県を1000人として、総計120000人という膨大な人数が、日本側の援助もあって3年かけてやっと渡航し、はじめは九州北部に至った後、全国に広がっていったと伝えられているのである。

大規模な移動だったので歴史的にも資料はかなり残っており、特に九州北部の宇佐地域や京都の山城地方に多く関係資料が残されている。


秦氏はさまざまな技術をもたらしたと言われている。

たとえば、九州北部・近畿の銅山と関係していると見られていることから、新羅系統の精銅技術、養蚕とセットになった絹織物の生産技術、芸術、算術、建築などである。

また、秦氏が日本に渡来した頃から、日本の古墳が巨大化しており、たとえば仁徳天皇陵は世界最大級の墳墓である。

秦氏の祖先がシルクロードを移動しながら万里の長城や巨大建造物の建設をしていたとするならば、建設、土木技術は極めて高度なものであったのではあるまいか?


全国にちらばった秦氏の集団のなかで、京都の葛野、つまり今の嵯峨野に拠点を持った秦氏がもっとも成功した人々となったのだろう。

全国の神社総数、数十万社のうち、秦氏の神を祀る神社は、八幡系40000社、稲荷系40000社、松尾、出石などその他加えて90000社。

つまり日本の神社とその信仰は、大多数を秦氏が作ったと考えてもいい面がある。

特に、京都の松尾大社は秦氏の氏社である。

また秦氏は多くの官人を輩出しているが、一族は京都・太秦という土地を中心に、農耕・機織りなどの労働を中心とした実力豪族として働いてきており、さほど権力を求めていない。

秦氏は時代の最先端の工業を担っていたのだと思われる。



聖徳太子の時代の秦河勝は、後年の「秦氏伝承」の中心的なカリスマだが、603年(推古11年)に聖徳太子が仏像を得、それを秦河勝が奉齋した。

これが今日の法隆寺である。

この時期、秦氏は曽我氏に従属しており、また外来系施設の翻訳や通訳仲介者や、外国への施設として頻繁に働いた。

そのために、外国の情報を調査することが急務となっており、情報通でなければならなかったのである。


かつて稲荷山で荷田氏が信仰を握っていた時代には、「伏見の伊奈利」は農耕の神様として、あまり時代の流行とは関係がなかった。

しかしその後秦氏が実権を握るようになってからは、急激に時代に即応した新しさというものが加わってきたのである。


とは言え、今日、秦氏の影響は果てしなく広がっているので、日本の文化の大きなルーツの一つであり、特異なものと見なすことはできない。



         (引用ここまで・写真(中)・(下)は東京新宿の花園神社稲荷社)


               *****


「イナリ」信仰の、隠そうとしても漏れ出てしまう、汎古代性、汎アジア性を考えることは、有意義なことではないかと思います。

昔、「エキゾチック・ジャパン」という言葉が、広告として流行しましたが、そんなことも思い出します。

もっとも身近で、もっとも日常的な古臭さをもつ「お稲荷さん」、なかなか魅惑的です。。


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伏見の稲荷山は古代の祭祀場・・日本人は、なぜ狐を信仰するのか?村松潔氏(2)

2016-07-23 | 日本の不思議(現代)





村松潔氏の「日本人はなぜ狐を信仰するのか?」という本のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


             *****
  

           (引用ここから)


稲荷神社にはかならず、派手な朱色の鳥居がある。

この色は稲荷神社に多用される。

稲荷神社の使う朱は「稲荷塗り」ともよばれる。

大地の原色が赤土の赤ということから、稲荷塗りの朱は大地がもつ成長力、生命力の象徴と考えられている。

山折哲夫は、

「日本の神々はもともと姿・形をもたなかった。山に隠れ、森に宿る目に見えない存在だったからだ。

そこに大陸から仏教が伝わり、この日本列島にキラキラした金剛仏がもたらされ、豪華絢爛な寺や塔が出現した。

その大きな衝撃が、おそらく自然の背後に沈まっていた神々を刺激して、都大路への進出を促し、決然とした名乗りを上げさせたのである。

日本の神々が、我々の目には見えないその顔面に、朱を注ぎ、激情をあらわにしたのかもしれない。

〝朱の発見″である」

と、仏教の黄金に対抗した、日本特有の精神の主張としての「朱」の意義について述べている。



仏教はブッダの入滅後、長らく偶像を作ることを禁じてきたので、造形芸術というのがほとんどなかった。

ギリシャやローマの美術がインドに伝来し、1世紀のクシャナ朝時代に、ガンダーラ美術としてブッダを人の姿として表現するという、思い切った試みがなされた。

金剛神というのは、ギリシャからヘラクレス像が伝わってインド的表現へ変化したのだと言われるが、絢爛豪華の大陸の仏教の表現は、その背後にギリシャの影響が混合されたものとして到来してきたものなのである。

日本の「朱」は、この重みに対抗できるように考えられた色の主張だといえよう。




稲荷神社は、大社に関係なく、信奉する人が自由に作るということにも大きな特徴がある。

とくに東日本ではその傾向が強い。

稲荷は屋敷神として頻繁に設置されるが、伏見稲荷大社の影響下にないものも数多い。

多くの企業に稲荷があるのも、そもそも稲荷神社が自由に勧進できるからという理由も多い。

権力に結びつかないということに稲荷神社の大きな特徴があるのだ。


伏見稲荷大社の始まりと言われる時期は、秦氏の伝承によると和同年間(708-715)ということになるが、伏見の一帯は弥生中期の深草遺跡が点々と広がっていた聖地である。

稲荷山とその西麓には古代の首長の墓が点在し、一の峯、二の峯、三の峯の頂上に、それぞれ古墳が発見されている。

三の峯近くからは、二神三獣鏡(渡来もの)と変形四獣鏡(国産もの)が出土していて、およそ4世紀後半のものだと推定されている。

これらの地域は当時の祭祀場として扱われていた可能性が高く、古い時代から巫女が活動していたということにもなる。


その後に帰化人である秦氏がこの地を拠点に決めてから、秦氏の氏神信仰が主流をにぎることになった。

日本の神社のほとんどは、実は秦氏が作ったもので、古神道とは結局秦氏の信仰でもあるといえる面がある。

秦氏は4世紀ごろには大和の葛城地方に住んでいたが、それ以後分散し、主に山の傾斜したところに畑をつくった。

彼らは、もともとは養蚕と機織りを主な産業としたので、貴族階級を顧客にして膨大な富を蓄え、これが〝餅を的にして矢を射る″、というような豪奢な生活をする人の話になった。

しかし稲荷信仰のルーツとなるような山の神=作神としての信仰のことを考えると、この秦氏が実権を握る以前の歴史を考慮に入れる方がよいということになる。


そもそも伏見山自体が大きな神殿、すなわち霊山だった。


秦氏の前には、この地は茄田氏の拠点だった。

茄田氏のご神体=「竜頭太」は、昼は田を耕し、夜は薪を集め、竜のような顔をして、頭の上には光があり、夜の闇の中で輝いていたと言われる。

この「竜頭太」を信仰する聖たちは、昼は農業に従事し、夜になると竈の火に祈った。

「竜頭太」は、稲荷山の麓の草庵に住んでいて、これが茄田氏の側から見た稲荷大明神の原初の姿なのだ。



           (引用ここまで・写真(下)は東京の町田天満宮稲荷社)


                 *****


伏見稲荷大社の稲荷山のあたりは、日本の文化のパラドックスを幾重にもはらんでいると言っていいかと思います。

松村氏は、そのパラドックスに足を取られず、慎重に歩を進めているように思います。

           

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日本人はなぜ狐を信仰するのか?村松潔氏(1)・・生々しく女性的なキツネ神

2016-07-17 | 日本の不思議(現代)


村松潔氏著「日本人はなぜ狐を信仰するのか」という本を読んでみました。

リンクははっておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

わたしは関東に住んでいますので、稲荷信仰の総本山の伏見稲荷の、赤、赤、赤の鳥居が群れ並ぶ姿を、いまだ拝観したことがありません。

けれども、前記事の恐竜やら、ヘビやら、オオカミやらの、もろもろの生き物と、人間の精神の関わりにはとても心惹かれるものがあります。


              *****


            (引用ここから)


京都の伏見稲荷は、稲荷神社の代表と言える。

伏見稲荷は711年、ウカノミタマノミコトが、轟く雷鳴とともに、稲荷山の「しるしの杉」に降臨した時に始まったとされる。

ウカノミタマの「ウカ」は、「食」を意味しており、すなわち食の神様ということになる。


稲荷社の根本縁起は、「山城国風土記」の秦伊呂具(いろぐ)の話から始まる。

この頃の古代王権を支えた二大勢力である秦氏と鴨一族は、婚姻関係で近しい間柄なので、どちらかわからない。


秦伊呂具はとても裕福だったので、餅を的に矢を射た。

餅は白鳥になって飛び去リ、この白鳥のとまった山の峯に稲が生えた。

これが神として祭られたのが、稲荷信仰のはじまりである、ということになっている。


とは言え、稲荷山の信仰の歴史は、秦氏が始める前から存在していた。



稲荷神社のキツネは、神道系では稲を担いだ農耕神としての稲荷大明神のお使いとなり、

また仏教系では女神であるダキニ天のお使いとなる。


大陸からやってきたダキニ天信仰は、中国の道教などと結合して、呪術的な性質を強く帯びていたので、

ここでのキツネは、ウカノミタマという生産性の神様のお使いというよりも、むしろ心霊的な働きかけという色合いが強い。

いつのまにか自然的生産性という作用と、対人的呪術の目的なども入り混じることになった。





稲荷大明神は、稲を担ぎ、両脇にキツネを伴う翁としての姿が知られている。

この穀物に関係した神様のそばにキツネがいるのは、キツネが昔から田の近くに出没し、豊作を守護する稲荷大明神のお使いに見えたからということになるわけである。

この稲荷大明神は、さまざまな神様を習合したもので、秦氏の前にこの地を治めていた荷田氏のご神体である「竜頭太」という神様がベースとなり、

そこにサルタヒコ、塩土翁(塩釡神社の祭神)、柴守長者などが複合されたので、単一の原型的キャラクターとして扱うことは難しい。


秦氏の前に伏見の深草地域に拠点を置いていた茄田氏というのは、実は空海の母の実家でもあり、豪族である。

茄田氏は、秦氏が稲荷大社を開いた後、あらためて伏見稲荷の宮司を代々継承することになり、祈祷師としての実務を担ってもいた。

空海が嵯峨天皇から京都の東寺を賜って、この地を布教の拠点にした時、稲を担った稲荷大明神は空海の協力者となったという。

空海と稲荷大明神は前世からの知り合いで、ともに密教の繁栄に尽力することを誓い合った仲。

ここから伏見稲荷は東寺の鎮守となったというわけだ。


そもそもこれは空海が真言密教を全国に広めようとした時、すでにそれまでに日本国にかなり普及していた稲荷信仰に便乗しようという意図でつくられた話であると考えられてもいる。

また稲荷大明神の原型である「竜頭太」は「雑密」(ぞうみつ)のご神体なので、それを空海が体系的に吸収統合したという意味にもとれる。


そもそも稲荷信仰というのは生々しく女性的であり、古代においては明らかに女神信仰に近いものだった。

ご神体のウカノミタマは女性系であり、稲を生み出す魂として、母神的なイメージのものであった。



              (引用ここまで) 写真(中)(下)は、東京町田天満宮稲荷社


                *****


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記憶の痕跡を封印する・・ペルー・イカの線刻石の研究史(10・終)

2016-07-12 | インカ・ナスカ・古代アンデス


「イカ・線刻石に秘められた謎」のご紹介を続けます。

著者たちは「あとがき」に次のように書いています。

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            *****

    
          (引用ここから)


博士との最後の一日、カブレラ博士は、約束した時間きっかりに私設博物館で我々を迎えてくれた。

我々が案内されたのは、博士が自ら「秘密の部屋」と名付けた非公開の部屋だった。

博士の私設博物館に初めて足を踏み入れた時にはショックを受けたものだったが、今我々が目にしているものはまさにあらゆる想像力を越えていた。

博士の「秘密の部屋」の収蔵品は、理性的な表象力の限界を打ち破ってしまうほど衝撃的なものだった。

説明しようとしてもとても説明できるものではない。

それは我々の精神的受容力の限界を遥かに超えていた。


「恐竜の変態図」も、「人類と恐竜の共存を描いた図」も、「空飛ぶ機械のように見える鳥」の図も、「秘密の部屋」に比べれば色あせて見えるほどだった。

「私はもう選択の余地は残されていない」。

「初めてこれらを見た時、そう悟ったのです」と博士は厳粛に言った。

博士の目に当惑の色が見えたのはその時が初めてだった。


なぜ博士は我々に「秘密の部屋」を見せてくれたのだろう?

我々は、当分の間これらについては言及しないと約束した。

我々には、博士が口止めする理由がすぐに分かった。

「秘密の部屋」を見せてくれたことは、博士の友情のなによりの証だった。

世間にはもうしばらく公開しないでおこうと考えている品々を我々に特別に見せてくれたのだから。


「いまはまだ発表すべき時ではありません」。

博士はきっぱりと言った。

我々には、博士がそれらの品々をしばらく秘密にしておこうと決めた理由がよくわかった。

我々は、その他にも、重大なメッセージを示唆すると思われる、黄金製メダル、宝石をちりばめた十字架、異常に大きい頭蓋骨、謎めいた名と文様の入った土器なども見せてもらった。


さらに博士は、最近の発掘状況についても教えてくれた。

「センセーショナルな遺物が次々にみつかっています。

発掘を続けたらさらにセンセーショナルな発見につながりそうなのですが、発掘現場は再び埋め戻しておきました。

「秘密の部屋」を公開しないのと同じ理由からです。

当分の間はそっとしておきたいのです」。


あの時きちんとお礼を言えなかった分、この本の「あとがき」という場を借りて、改めて博士に感謝したい。


本書は、学術論文として書かれたものではない。

我々の意図は、できるだけ多くの情報と意見を集め、それらを総合して人類の起源と地球の過去に関する現在の学説を洗い直してみることにあった。


学術書は既成の学説に疑いを差し挟むなどもっての他という態度で、あまりにも断定的に原始時代を論じている。

まるで疑問など存在しないかのように。

本書はそうした常識に一石を投じようとしたものである。

我々はできるだけ偏見を排し、既成の学説に囚われることなく疑問点に対して我々なりの答えを示そうとしたつもりである。


            (引用ここまで)


              *****


著者たちより遅れて、イカの地を訪れた浅川嘉富氏は、著書「恐竜と共に滅びた文明・イカ線刻石が語る」で、次のように懐述しています。


              *****


           (引用ここから)


イカやアカンバロの太古の時代までさかのぼらずとも、ある種の恐竜は、もっと最近まで生きていたと思われる目撃記録がいくつか残されている。

久保有政氏は、それを古代の記録や民族の伝承に求めているが、それらはイカの線刻石やアカンバロの土偶に登場する恐竜の姿を彷彿させる。

      
              ・・・


紀元前4世紀に、ギリシアのアレクサンドロス大王がインドのある町を征服したとき、大王はその町の人々が、洞窟に棲んでいるある巨大な爬虫類を神として拝んでいるということを聞いて、その動物を調べにいった。

するとそれは30メートルもある巨大な動物で、鼻息が荒く、その姿の恐ろしさに兵隊たちも驚き、おののいたと記されている。

30メートルもある動物といえば、ウルトラサウルスのような恐竜を思い起こさせる。

また10世紀のアイルランド人は、珍しい大きな動物に出会ったときのことを記録に記している。

その動物には、堅固な爪を持った太く恐ろしい足があって、しっぽにはうしろをむいたとげがあり、また頭は馬のようであったと記されている。

この姿は、ステゴザウルスにそっくりである。

さらに、フランスのナールークという町の名は、昔、人々が「竜」を退治したことを記念してつけられたもので、

「竜」と呼ばれたこの動物は、刀のような鋭い大きな角を持ち、牛よりも大きな体で川に棲んでいたとされており、これはトリケラトプスの特徴に一致する。

              ・・・

調べてみると、数多くの目撃談があるのである。

古代ギリシアの歴史家で探検家でもあるテオドトスは、自身がエジプトで見た、空飛ぶ恐竜の姿を記録に残している。

その姿は蛇のような体で、「コウモリのような羽根を持っていた」と記している。

また、アメリカインディアンのスー族には、サンダーバード(雷の鳥)の伝承がある。

それによると、彼らの祖先も「プテラノドン」(翼幅は6~8メートルもあり、グライダーのように滑空していたとされる翼竜)と思しき空飛ぶ恐竜を見たことがあるようだ。


翼竜については、ごく最近の報告もある。

1975年、アメリカ・テキサス州で、車で走行中の女性3人が、まるでグライダーのように音もなく路肩を横切る、不気味な影に遭遇。

その巨大な影の正体を確認しようとしたところ、長い首をもったコウモリに似た巨大な鳥1羽が草むらに降り、もう一羽は上空を旋回していたという。

この怪鳥は、翌月には森林警備員に、またその後も、数回の目撃証言がある。

               (略)

イカやアカンバロの先住民の遠い祖先が、恐竜と共存していた可能性をはなから否定するのが、決して賢明ではないことが分かっていただけると思う。


           (引用ここまで)


             *****


長い引用になってしまいましたが、ペルー・イカの地から採取された線刻石。

発見された、恐竜と人のからまりあった足跡、、人類の記憶の中には、人類と深い絆をもつ生き物としての恐竜の思い出が刻印されているように思えてなりません。


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最古の人類の足跡・・ペルーのイカの線刻石の研究史(9)

2016-07-07 | インカ・ナスカ・古代アンデス


「イカ・線刻石に秘められた謎」のご紹介を続けます。

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             *****

           (引用ここから)

カブレラ博士は言った。

「すべての種と同じように、人類にもかつて様々な種類が存在し、突然変異によって変化していったのです。

たとえばティアワナコ人にはずんぐりとした体形、大きな頭、短い足、長い腕、四本指などの特徴があります。

これらは、イカの石に描かれた人間の特徴と非常によく似ています。

マチュピチュ、サクサイワマン、ティアワナコなどにみられる謎めいた巨石建造物の最古の基礎を築いたのは、おそらくこれら最古の人類だと思われます。

その基礎の上に、それより小さな不揃いな石で比較的単純な作りの建造物が建てられていますが、これはプレ・インカ時代とインカ時代のものです。


わたしはこの現象を「文化的混合」と呼んでいます。

石刻人の進んだ技術と壮大な建造物に、それよりずっと単純なプレ・インカ人とインカの技術と芸術が後から付け足され、混合されたのです。

インカ人にあんな奇跡のような建造物が建てられたと、本当にお考えですか?

彼らには決してできなかったはずです。

現代の技術水準で考えても、どのようなシステムと技術を用いてあのような建造物を作ったのか謎なだけです。

あれほどの巨大な石の塊をどうやってあんな高さにまで積み上げたのでしょう?

漆喰も使わずに石垣を築けるほど正確に石を切るには、どんな道具を使ったのでしょうか?

皆目分かりません。


忘れてならないのは、こうした石垣がこれまでにおきた無数の地震にもびくともしなかったことでしょう。

そんなことはインカ時代の建造物にはありえません。

インカ時代初期の建造物は、技術的にかなり原始的なのですから。

ところが、たいがいの考古学者はこうした巨石建造物はインカ時代のものだと考えています。

技術上の問題は、膨大な労働力と時間を投入することでクリアできたはずだと。


しかしこの理論は、検証のしようがありません。

いくら膨大な労働力と時間をかけても、無理なものは無理です。

あれほどのものをつくるには、技術的なノウハウが必要です。


それだけの技術力が「石刻人」にはあったのです。

それがどこよりも明確にあらわれているのが、マチュピチュの遺跡です。

縦3メートル、横4メートル、重さ100トンもある巨大な基礎石が、完璧に組み上げられています。

インカ人たちはずっと小ぶりで不揃いな切石をその上に積み上げて藁の粗末な小屋を建てて生活していたのです。

これでは、どうにもちぐはぐです。

それなのに考古学者ときたら原始的な藁ぶき小屋の基礎にするために、何者かがあんな巨大な石の塊をアン
デスの頂上まで運んだと言うんですからまったくナンセンスです。


これに対して、イカの石は、文化的混合以前に制作されたものです。

インカ人もこの存在を知っていました。

知っていたのは、支配者とシャーマンやアマウタ(賢人と訳されることが多い。占い師と神官と学者を兼ねたような存在)だけだったかもしれませんが、

アウマタは石刻人の知識を伝える上で大きな役割を果たしていました。


彼らにしてもそれを完全に理解していたわけではありませんでした。

彼らがイカの石から学べたのは彼ら自身の知識水準で理解できることだけで、石に刻まれたシンボルの大半は彼らには解読できませんでした。

それでもイカの石を見ていたため、インカ人もプレ・インカ人も、馬や巨大な動物や舟などの存在を知っていました。

そこへスペイン人が大きな船でやってきて、馬を乗り回し始めたものだから、インカ人は神々が戻って来たと信じ込んでしまいました。

それで彼らは侵入に全く抵抗しなかったのです。

それどころか彼らはスペイン人に帝国各地を見せて回りました。



イカ考古学博物館には、横から見るとモアイそっくりの木彫りが展示されています。

この人物像は、頭に帽子かヘルメットのようなものを被っています。

モアイの頭にもかつて、これと同じようなものが載っていました。

モアイの制作年代は、正確にはわかっていません。

モアイの被り物はずっと以前に壊れてしまい、長い間、モアイの近くに落ちたままになっていました。

最近、モアイの被り物を治す復元作業が行われています。


わたしは不思議に思いました。

ペルーの砂漠や古い墓の中から発見された木彫りとモアイが似ているのはなぜなのか?

それにモアイとイースター島の現在の住民の顔立ちは、全く似ていない。

これはなぜなのかと。


過去に何度も地殻の大変動がおきたのは周知の事実です。

イースター島のモアイとペルーの木彫りとは、あるいはその2つの地域がまだ地続きだった時代に作られたのかもしれません。


古代を解くカギは、今では海底に沈んでいるのではないでしょうか?

木彫りを制作した人々が生きていた古代の時代には、大陸の分布は現在とは全く異なっていたことでしょう。

彼らの特徴と「石刻人」のそれとは非常によく似ています」。


アメリカ大陸の先住民と東南アジア、ポリネシア、メラネシアの住民との間に、人種、道具、習慣、制度などの点で多くの共通点があることは、つとに指摘されている。


したがって、アメリカの先史時代を研究する場合には、大陸の移動という問題をけして忘れてはならない。

イカの石に刻まれた、太古の大陸の分布を示したものと思われる2種類の図を見て以来、我々は太古の大陸に関する従来の定説に疑問を抱くようになった。

地球には5つの大陸と大洋がある、と生徒たちは学校で教えられる。

だがもし2億5000万年前に地理の授業があったなら、まったく違うことが教えられていたはずである。

地球には一つの大洋と一つの大陸がある、と。


現在の5大陸は2億5000万年前には一つに固まっていた。

そしてそのまわりを、果てしなく広い太古の海が囲んでいた。


わずか80年前まで、そんなことは誰も夢にも思わなかった。

イタリアのメローニが唱えた大陸移動説は、当時嘲笑をかっただけだった。

地球はきっちりと繋ぎ合わされた形ある塊ではなく、煮えたぎる巨大なるつぼのようなもので、地球表面はたえず変化しているのだという耳新しい理論に、人々は次第に慣れてきたのだ。


           (引用ここまで)

             *****


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土壇場にいる、地球というわたしたち・・「アースマインド」(2)

2016-07-02 | 環境(ガイア)


「アースマインド・・地球は人類の廃棄を意図し始めた」という、ポール・デヴェロー、ジョン・スティール、デヴィッド・クブリンという3人の共著の本のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                *****


              (引用ここから)



アイルランドでは、特定の日になると太陽光線が塚の内部の岩の彫刻にレーザーのような光線を投げかけたり、塚を取り巻く彫刻の上に影を伸ばす、新石器時代の遺跡が発見された。

ニューメキシコ州・チャコ・キャニオンにある石板の割れ目からは、太陽光線が、石に刻まれたらせんデザインに作用して、夏至・冬至・春分・秋分を正確に記録することが知られている。

この遺跡は、1000年以上前に滅亡したアナサジ族が残した。

古い土台の上に建っているが、現存するナバホ族の伝説によれば、それは本物の道ではなく、アナサジ族が「目に見えない者と一緒に旅をする」トンネルなのだという。

カリフォルニアの山脈や、他の南西部の州にはインディアンが謎の直線を残している。

これらの線のいくつかは、山頂から山頂まで、ずれもなく続いている。

なぜこれらが作られたのか、誰にも分からない。


メキシコでは、ユカタン半島や、さらに南下した地域に、マヤ族の直線の儀式用道路がある。


南米では、ペルーとボリビアのアンデス山脈に何キロも続く完全にまっすぐな道がある。

いわゆるナスカ・ラインだ。

これらのラインに沿って、寺院遺跡が点在している。


クスコから発するラインは、皇帝の儀式に用いられ、ラインに沿って聖地の遺跡が並んだ。

これらは、研究者が赤外線写真を撮るまで、直線であることがわからなかった。




年代的にも地理的にも大きく離れた数々の伝統社会に、なぜこれらふしぎな直線が築かれたのか、今日誰も本当のことがわからない。

これらはなんらかの魔力を持つラインで、「魂のライン」であると考えられる。


古代遺跡の位置で重要な特徴は、それがある種の地理的特徴、特に断層、地殻内の割れ目に近いことである。

たとえばアイスランドでは10世紀の国家の遺跡が、北米とユーラシアの構造プレートの間にできた断層の上に建てられている。

アメリカのオハイオ州では、2000年前のサーペントマウンドという400メートルに及ぶ説明のつかない土の建造物が建てられている。


これらの場所は、火山活動や流星の衝撃のために、断層の多い、非常に圧縮された地域なのだ。


存在そのものが、断層によってできている遺跡もある。

イギリスのバースでは、新石器時代初期からローマ・イギリス時代まで神聖であるとみなされていた温泉が、断層の上にある。

ギリシアにあるデルフォイの神託所は、断層から立ち昇る〝精神に影響を与える煙″に依存していた。

アリゾナ州のアナサジは、24時間周期で空気を吹き出したり、吸い込んだりする、断層に関係した空気穴の周囲にある。


昔の人々が地理を知っていたのは確かである。

彼らは石器時代には、石器にするためのフリントとその他の石を探して掘ることができたし、青銅器時代や鉄器時代には、鉱脈の位置を知ることができたのである。


しかし、なぜ断層をみつけて、その上や付近に聖地を建てるのか?

おそらく断層付近でおこる、特殊なエネルギー効果に関連している。

断層とは、地殻の中で巨大な力が働く場所なので、比較的上面近くに様々な鉱脈が多数混在していることが多い。

これが局地的な電磁異常や、地下水レベルの変化や、時には重力の変化を引き起こすのだ。


また断層は、地形の弱点もあらわす。

構造の圧力やひずみによって、起きやすいのである。

これが結果として、時折、地震となる。


段切面は収縮したり弛緩したりしている。

これによって、電磁場が移動する。

多量の岩が互いに衝突すると、時に圧電気を生む。

これはクオーツやクオーツを帯びた岩にかかる圧力によって生まれる電気である。


こうした構造の活動は、このような地域に湧き出る温泉に、放射性ラドンガスやその他の化学物質やガスを放出する時がある。

したがって断層ゾーンは特別なエネルギー地域なのである。



こうした地域は別のエネルギー現象、すなわち〝奇妙な光”を生じる傾向もある。


18世紀には、銅の鉱脈をみつける一つの手段として、採掘者が何百年にも亘って、地面から現れる〝光の玉”を利用していたと記録されたものもある。

ウェールズでは、今でも丘から時折現れる〝青い光”が鉱脈の存在を知らせるという言い伝えがある。

昨今では、これらを「UFO」と解釈する人々も多い。

しかし少数の研究者は、このようなエネルギー現象は、電磁気か未知のエネルギーの変わった形態であろうと考えている。

これら地球の光は、常に存在していたに違いなく、今日の一般的見方で「UFO」とされているように、過去の伝統社会でも、これらを自らの世界観に組み込んで、「霊魂」、「妖精」、「別世界への入り口」、「予言に用いる現象」などとみなしていた。

これらの〝光”に対する現代の我々の態度・・すなわち地球外のものはそもそも存在しないという態度・・は、我々の精神が地球や自然の、より精妙なプロセスから疎外されている証拠かもしれない。

この〝光”は、知覚をもった生きた惑星の性質を理解する上で重要な手がかりになるかもしれない。



地球の各圏は、非常に微妙なレベルでも相互に関連しており、地球は1個の脈動し、共鳴する有機体なのだ。

こうした見方をすると、我々は〝地球の上”ではなく、〝地球の中”に生きているのがわかる。

夜、星を見上げる時でも、地球の密度の薄い圏を通して見ているのである。

我々自身が、地球の「顔」の一部であり、つまり一つの現れなのである。


1854年、シアトル酋長はインディアンの伝統的知識をこう表現した。


            ・・・

我々は知っている。

地球が人間に属しているのではない。

人間が地球に属しているのだ。

我々は知っている。

あらゆるものが、家族をつなぐ血のように、つながっている。

あらゆるものが関連しているのだ。

            ・・・


地球との関連についての、このような伝統的な感じ方は、地球から消えていこうとしている。

しかし土壇場にきて、我々は過去の文化の中から、古代の知識を再び集めようとしている。


現代人の魂の内部で、回想のスピードは急激に早まっている。

皮肉なことに、地球から離れられるほどに技術の進歩が加速したおかげで、これまでにないスピードとスケールで互いにやりとりする手段が手に入ったのである。

これは情報テクノロジーと呼ばれるが、これ自体は手段にすぎない。

これをどう使うかが、肝心なのだ。


古代の知恵を完全に取り戻し、現代人に分かるように翻訳するには、物理的エコロジーも大切だが、それ以上のものを含めなければならない。

より深い面、精神や魂のレベルを除外してはならない。

これらも我らの遺産の一部、われわれの意識体験の一部だからだ。


           (引用ここまで・写真(中)(下)は我が家のユリ)


              *****

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