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ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

2012年、マヤ最古の天文記録(9世紀)の壁画みつかる・・7000年分計算

2014-02-25 | マヤ・アステカ・オルメカ

                                 読売新聞2012年5月

            *****


中米グアテマラの遺跡で、マヤ文明最古の天文記録とみられる壁画がみつかった。

米ボストン大学の考古学者らが11日付の米科学誌「サイエンス」で発表した。

壁画は住居の一室に描かれ、2010年にシュルトゥンの都市遺跡を調査中の学生がみつけた。

室内は盗掘で荒らされていたものの、人物画や数字が石壁に残っていた。

歴史を記録する書記係の仕事場だったらしい。


マヤ人は宗教的儀式を日食や月食に会わせて行う目的で天体観測を続けていた。

数字は月や火星、金星の運行周期などを示しているとみられる。

「マヤの暦」としてはこれまで、樹皮に書かれた11~12世紀の絵文書が知られていた。

この壁は9世紀のもので、より早い時期からマヤ人が天体現象に精通していたことがわかる。


(写真は9世紀作成 惑星の運行周期示す)


           *****


この記事も切り抜いてそのままにしていたもので、2012年が過ぎてしまいました。

関連記事として、テレビ局のブログらしきものがありましたので、載せておきます。


           *****


「2012年人類滅亡説」マヤ暦間違ってた!6000年先まで大丈夫です                2012/5/11

「日本人で信じてる人はあまりいないかもしれませんが」と小倉智昭キャスターが切り出したのは、2012年をもって人類は滅亡する説である。

かの神秘的で知的で千里眼的な古代文明マヤの暦が、なんともはや2012年で終わっているため、それはつまり人類の終わりをも意味しているとの解釈があるのである。

これはハリウッド映画「2012」の題材にもなっている。

新たに見つかったカレンダー。

「欧米では、コレを真剣に信じている人がいるんですよね」。

オグラは対岸の騒ぎでも見る感じで薄笑い気味だったが、その実、日本でも2012年滅亡説はかなり流行っているらしい。

笠井信輔アナは「ウチの子どもたちも『今年、滅亡するんだよね。お父さん、大丈夫!?』って言うんですよ」と証言した。

そんな人に朗報(?)だ。

番組がSANKEI EXPRESSをもとに伝えるところでは、このほど中米グアテマラであらたに見つかった9世紀のマヤ文明最古のカレンダーを研究者グループが調べたところ、どうやらマヤ文明は7000年先までの世界を考えていたらしいという。

差し引きして、あと6000年ぐらいは滅亡しないですむ計算になる。

滅亡説といえば、ノストラダムスの大予言なるものが有名で、1999年に人類滅亡するはずであった。

迷信キラー・オグラは「ノストラダムスの予言が外れたら、急にマヤが出てきた。割合いい加減なものじゃないか」と看破していた。

この世で外れないものは、オグラの予言ぐらいであると肝に銘じよう。


           *****


関連記事

〈このブログの過去の記事〉

「プレアデスの時代・・バーバラ・マーシニアックの語る世紀末とマヤ(1)」

「2012年(1)・・時を数えているのは誰なのか?」

「古代メキシコ・オルメカ文明展に行ってみた・・マヤ文明の源泉か?」

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マヤ、紀元前1000年に祭祀建築・・オルメカ文明との関係も

2013-12-28 | マヤ・アステカ・オルメカ



マヤ文明の研究が進んでいるそうです。

                ・・・・・

「マヤ文明・最古の建築物・・紀元前1000年 定説より200年早く」
                        2013年4月26日朝日新聞


中米グアテマラにある古代マヤ文明の遺跡で、日本人らの研究グループが神殿ピラミッドの原型となる最古の建築物を見つけた。

年代測定の結果、同文明の起源が、従来説より200年早まる可能性があるという。

     
                  ・・・・・


同記事について、マヤ文明研究者の青山和夫氏が、読売新聞に次の解説記事を寄せています。



                  ・・・・・


「グアテマラの遺跡で供物発掘・オルメカ文明との関係も再考」2013・06・19読売新聞


16世紀まで中米で栄えたマヤ文明には、統一王朝がなく、地方色豊かな諸王国が共存した。

神聖王であった諸王は、生ける太陽神でもあり、諸都市では、太陽が運航する東西の軸が重要だった。

王や貴族は、公共祭祀建築の神殿ピラミッドに囲まれた大きな公共広場で、公共祭祀を執り行って権力を強化した。

従来は、マヤ低地の農民が土器を使い、紀元前1000年ごろに主食のトウモロコシ農耕を基盤にした定住村落を営みはじめてから、マヤ文明が徐々に発展し、前800年以降に公共祭祀建築が建てられたと考えられていた、

私たちは中米グアテマラのセイバル遺跡において、大規模で層位的な発掘調査を行い、豊富な試料の放射線炭素年代による詳細な編年を確立した。

その結果、マヤ低地で最古の公共祭祀建築と公共広場は、従来の学説よりも少なくとも200年ほど早く、前1000年ごろに建設されたことがわかり、米国の科学雑誌「サイエンス」に発表した。



公共広場の東と西に面する公共祭祀建築の基壇は増改築され続け、前9世紀に、西側の基壇は神殿ピラミッドになった。

初期の建設活動は、従来考えられていたよりも盛んだった。

神殿ピラミッドは、神聖な山を象徴した。

多くの人を動員し、神殿を増改築した上で、さらに大きな神聖な山を築き、権力を今日かしたのである。

グアテマラ高地産のヒスイを含む、計12点の緑色の磨製石斧の供物が、前1000年ごろの公共祭祀の一環として、公共広場に埋納された。

これも、マヤ低地で最古である。


マヤ人にとって、緑は世界の中心の神聖な色であった。

ヒスイは、その神聖な色、稀少性、硬さゆえに支配層の間で威信財として、金よりも重宝された。

当時の中米で支配層が装着した、ヒスイの胸飾りの供物も出土した。

初期のセイバルにも、ヒスイの胸飾りを身に着ける権力者がいたことがわかる。

セイバルや周辺地域の権力者は、緑色の磨製石斧やヒスイの装飾品を埋納する儀式を共有していたのである。


グアテマラ高地からは、鋭利な打製石器の材料の黒曜石も搬入された。

広場では、支配層の間でもっとも重宝された海産貝のウミギクガイに人の頭部を彫刻した胸飾りの供物もみつかった。

基壇内から出土した成人男性の頭蓋骨には、後世の支配層の間で広く行われた、幼少時に板をあてがって頭を人為的に変形する頭蓋変形が認められる。



マヤ文明の特徴は、その興った当初からすでに形成されつつあった。

これまでマヤ文明の起源に関して、マヤ低地の西隣、メキシコ湾岸で栄えたオルメカ文明(前1200年から前400年)の一方的な影響によって興ったとする説が提唱されてきたが、再考する必要がある。

マヤの人々は、オルメカ文明の特徴の巨石人頭像を取り入れなかった。

オルメカ文明のラ・ベンタ遺跡では、公共祭祀建築はセイバルより遅く、前800年以降に建設された。

従来の見方とは逆に、マヤからオルメカへの影響も考えられる。

マヤの人々は、地域間ネットワークに参加して、グアテマラ高地産の翡翠や黒曜石、海産貝のような重要な物資だけでなく、観念体系や美術・建築様式などの知識を、取捨選択しながら交換して、マヤ文明を築き上げて行った。


中米は、独自に文明が誕生した世界でもまれな地域である。

マヤ文明の形成過程の解明は、中米だけでなく、人類史を考える上でも重要である。

今後はセイバル付近の湖において、マヤ地域で初めて発見した年縞(ねんこう)・・湖底に年にひとつ形成される「土の年輪」から、環境変動を高精度に復元し、マヤ文明の盛衰との相互関係を探究すると共に、セイバル周辺部を調査して全社会階層の研究をすすめる予定である。

   
               ・・・・・

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2012年(5)・・アトランティス人はマヤに知識を託したのか?

2011-08-01 | マヤ・アステカ・オルメカ
エイドリアン・ギルバート著「古代マヤ文明の暗号・2012」を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

前回までは、2012年に終了するとされる「第4ないし第5の時代が始まった時」としてマヤ・オルメカ・アステカ文明の遺物に記されている日付「紀元前3114年」は、いったい何がおきた年なのか?という問いを立てて、著者の考えを追ってみました。

著者の調べたところでは、紀元前3114年は、マヤ・アステカ文明の中心都市テオティワカンでは、プレアデス星団の位置に意味深い配置が見られた、ということでした。

それ以外には取り立てて目立つような事態は見出されなかったようです。


「紀元前3114年」という日付は、オルメカ文明の遺物からも見出されています。

著者はオルメカ人はアフリカから、古代グノーシス宗教の一つマンダ教の一派としてやってきた人々であるかもしれないと考えています。(碑文の文字がマンダ語の一種であると思われるため)

マヤの文明は、地中海の文明と関連しているのだ、と考えます。

そして二つの文明は、共にアトランティスの叡智を受け継いだものであると考えます。


「オルメカ人はアフリカ人であろう」という仮説も、「マヤ文明の起源はアトランティスであろう」という仮説も、前の紹介記事のゼカリア・シッチン氏も述べていたことです。

マヤ文明の謎を解こうとする人は、この「マヤ文明の知恵は外部からもたらされた」という説を“支持する派”と“支持しない派”の二つに分かれるのではないかと思います。

残念なことに、アトランティスが滅亡したのは10500年前のこととされ、マヤ文明の最古の日付は紀元前3114年、つまり約5000年前であり、二つの文明の間には時間的なずれがあります。

しかし、マヤ人は繰り返し「我々はアトランティスからやってきた」と言っているのは確かですから、ここにはミッシングリングが存在しており、なかなか問いが解かれることはありません。



                *****


                   (引用ここから)


「中央アメリカ文明の起源」に関する真実は、単なる大西洋の航海よりもさらに複雑であるようだ。

わたしはそこには、失われたアトランティス文明が関係していたと確信している。

プラトンによれば、それは紀元前9500年以前に遡る一大文明だった。


だがプラトンは、アトランティスは「ヘラクレスの柱」のかなたにあったと明言しているのだ。

「ヘラクレスの柱」は、ジブラルタル海峡を守る柱だ。

そのかなたといえば大西洋のことに違いない。

だからこそ、その地は「アトランティス」と呼ばれるのだ。

しかもプラトンはこの「アトランティスのさらにむこうの対岸には、別の大陸がある」とまで述べているのだ。

この大陸とはアメリカ以外にはありえない。

つまり優れた航海術で知られるプラトン時代のギリシア人は、アメリカ大陸の存在を知っていたのだ。



いずれにせよ、プラトンのアトランティス譚は、「はるか西の果てに熱帯の島がある」という遠い記憶の記録だろう。

その記憶の主がギリシア人自身ではないなら、エジプト人に違いない。

ティタン神族である「アトラス」の名を担うこの島には、エキゾチックな果実がある。

この関連からすると、いわゆる神々の戦い、すなわちオリンポス神族とティタン神族の宇宙的な戦いは、もっとはるかに小規模な事件の反映なのではないだろうか?

すなわち、アトランティス人によるヨーロッパとアフリカの侵略だ。


もしこれが紀元前10500年ごろの出来事であるのなら、アトランティスの滅亡はその当時におこった氷河期の終結にともなう海面上昇と関係していると考えられる。

もしも氷の融解がきわめて短期間に起これば、そのような破局はほとんど前触れもなく急激に起こるだろう。

突然の大災厄(たとえば巨大地震、小惑星の落下、なんらかの原子力発電所の爆発など)に比べて、緩慢な融解の利点は、何らかの準備をする余裕があっただろうということだ。

これはエドガー・ケーシーのシナリオとも一致する。

自らの運命を知ったアトランティス人が、周到にも彼らの文明の記録をビミニのみならず、メキシコとエジプトにも保管したという主張にも信憑性が出てくる。


       (引用ここまで・つづく)


             *****


ピラミッドや神話が、エジプトとマヤでは不思議なほどに類似していることが指摘されています。

クリス・モートンとセリ・ルイズ・トーマス共著の「謎のクリスタルスカル」という本に、エドガー・ケーシーが語ったマヤ文明の起源が書いてありましたので、照合してみたいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


        *****


       (引用ここから)


ケーシーは有能な霊能者で「眠れる予言者」として知られていた。

深いトランス状態で病気を診断し、治療法を見つける能力があり、また過去や未来と交信することもできた。

ケーシーによれば、アトランティスは実在したが、環境破壊の結果、洪水に襲われて滅んだという。

彼は、アトランティス人のわずかな生き残りの様子をこう描いている。



「そしてアトランティス文明の名残を携えて、イルタールはポセイディアの土地を離れた。

 彼に従うのはアトラン王家の者10人ほど。

いずれもオネの信奉者である。

彼らは西に進み、今やユカタンと呼ばれる土地に入った。

そこで土地の人々と共にアトランティスと似た文明を築いた。」


「生き残りの人々は彼らの歴史の記録を持ってきており、それらは今でも3つの場所に収められている。

海に沈んだアトランティス(またはポセイダ)の神殿の廃墟の海底に隠されている。

フロリダ沖のビミニの近くである。」


「エジプトの神殿の記録に、アトランティスの記事が残っている。

また記録は今のユカタンに運ばれ、石(彼らはほとんど知らない)のあるところにある。」


      (引用ここまで)


           *****


マヤ文明は、アトランティスの知恵を受け継いでいるのでしょうか?

マヤに関する本は、いつもこの問いの周りをぐるぐると回っているようです。。


wikipedia「マンダ教」より

          ・・・・・

マンダ教あるいはマンダヤ教は、グノーシス主義のひとつとされる宗教である。

マンダ語はセム系言語で、「マンダ(manda)」とは「知識、認識」を意味する。

日常的にはアラビア語を用いているが、宗教文書は全てマンダ語で書かれている。

最大の教典は『ギンザー(財宝)』と呼ばれるが『ヨハネの書』、典礼集『コラスター』というのも存在する。

文書に描かれる象徴画は独特の感じを受けさせるものである。

イラクとイランの国境地帯に信者が現存し、またアメリカ合衆国やオーストラリアにもコミュニティが存在する。

信者数は正確な統計がないが、総計5万から7万人と推定される。

イエス・キリストの先達である洗礼者ヨハネを指導者と仰ぐことから、イエスが洗礼を受けたヨルダン川との繋がりが指摘され、キリスト教の起源に近接したものとして注目されるようになった。

教義

魂は光の世界に起源を持つが、肉体は闇に属している。

典型的なグノーシス的二元論で、天界の水は地上では「活ける水」すなわち流水として流れている。

流水による洗礼や信仰儀礼の遵守を生きているうちから行うことによって、死後光の世界に帰りやすくなる。

その意味で洗礼はキリスト教のように一回限りのものではなく、何度も行うものである。

アブラハム、モーセ、イエス・キリスト、ムハンマドを偽の預言者とみなし、洗礼者ヨハネを指導者と仰ぐ。

     ・・・・・



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2012年(4)・・恐竜と人類とアステカの都

2011-07-28 | マヤ・アステカ・オルメカ
エイドリアン・ギルバート著「古代マヤ文明の暗号・2012」を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


前回の記事に紹介した「世界樹の上にとまっている鳥ウクブ・カキシュ」は、マヤ神話にでてくる「前の時代にいた悪い鳥」で、人々はその鳥を滅ぼして、紀元前3114年に、新しい時代を造ります。

著者はその「鳥」は、恐竜であったと考えます。

プレアデス星団と人類の関係について述べたものはいろいろあると思いますが、どれも「はじめにプレアデスありき」、という感があります。

その中で、著者はできうる限り当時の人々の視点に立とうとしているところに、わたしは共感しました。

「人類とプレアデスと2012年」というテーマへの解答としては物足りないですが、まだ本の途中なので、続きがあります。


       *****


        (引用ここから)




悪い鳥ウクブ・カキシュは二人の息子を残す。

兄シパクナは「ワニの形をした巨人」であった。

兄弟は傲慢で、人々は計略を用いて彼らを峡谷の洞窟に閉じ込める。

兄弟はそのまま硬い岩になってしまう。


“巨大なワニ”のようなシパクナが洞窟の中で石になる、という話が作られた理由は簡単だ。

メキシコでは白亜紀の化石が大量にみつかる。

中には有名なTレックスの親戚であるアルバートサウルスもいる。

初期のマヤ人の少なくとも一部は、洞窟に住んでいた。

ユカタン半島の洞窟は、地下水脈の侵食によってできたものだ。

ユカタン半島では体毛のあるマンモスの化石が発見されている。


古代マヤ人がそれ以外の化石に出くわしていたとしても不思議はない。

中には白亜紀のものもあっただろう。

洞窟を作る鍾乳石が形成されていたのは白亜紀のことだからだ。


もしもマヤ人がアルバートサウルスの化石を発見したなら、保存の状態によっては、「これは巨大ではあるがワニの仲間だ」と正しく判断していただろう。

また奇妙なことに、“とかげのような怪物を罠にはめた”という話はマヤの神話だが、実際にメキシコは恐竜の大量絶滅において重要な役割を果たした土地だ。


現在では恐竜の絶滅を引き起こしたのは6500万年前にユカタン半島沿岸に落下した小惑星だった、と信じられている。

これは実際に一つの「時代」、「恐竜の時代」の終わりであり、新たな時代、すなわち「哺乳類の時代」の始まりだった。

恐竜の絶滅が、それほどの大昔であることを古典期のマヤ人が知っていたとは思えないが、実に驚くべきことに彼らは“ワニのような生物の終末”を一つの時代の終わりに当てはめたのである。


それだけではない。

このシパクナと、“歯のある鳥のような生物”とのつながりもまた、恐竜の記録から明らかだ。

現在の鳥には歯が無いが、白亜紀の飛行恐竜である化石がメキシコで発見されている。

このような空飛ぶ巨大生物についての直感的な記憶が、ウクブ・カキシュ「歯のある鳥のような生き物」の物語の元になったのではないだろうか?

マヤ神話の元となったのは生きた恐竜よりも、むしろ絶滅した恐竜の化石だったという方がありうる話に思える。



たぶんマヤ人が「現在の時代」の始まりとする「紀元前3114年」の時点では、恐竜はまだ完全には絶滅していなかったのだ。

そう考えれば、洋の東西を問わず、人々が「竜」に魅了される理由が明らかとなる。

「竜」は明らかに恐竜に似ており、そしてその一部は空を飛ぶのだ。


          (引用ここまで)


            *****


恐竜というと、相当古い生物のような気がしますが、メキシコにはかつて恐竜はたくさん生息しており、人類は太古の恐竜の記憶を保っている可能性があるのかもしれません。

とりわけユカタン半島というマヤの故郷は、巨大隕石の落下により恐竜が絶滅した場所であるとすると、たしかにそれは「一つの時代が終焉した」、という古い記憶として残存していてもおかしくはないと思われます。

アジアの竜も、所狭しと中空を飛びますが、人類と竜あるいは恐竜は共生していたのかもしれません。

人が鳥だった頃、、という比喩は、人が恐竜を見た頃、、という意味なのかもしれません。

そして、竜は空飛ぶ蛇でもあるのであり、人類はこのくねくねとした生物と深い因縁があるのだと思われます。



次に、「紀元8世紀のテオティワカンの滅亡に関する天文学的証拠が残っている」、と著者が語る「終了した鳥の時代」について、著者が述べていることをまとめてみます。



       *****

 
       (引用ここから)


マヤの絵文書の中で最も有名な「ドレスデン絵文書」には、仰向けになった巨大なワニの姿として天の川が記されている。

天の川は、その身体に惑星の象徴をちりばめ、一つ前の時代を滅ぼした洪水を吐き出している。

マヤ人はこのワニの開いたあごを、銀河の中心にある暗い裂け目と同一視した。

その位置では星星の光が、ちりによって弱められるのだ。


アステカ人は52年周期の終わりに、プレアデスの運行を観測していた。

11月初頭のある日に、すべての灯を消して山頂に集まり、夜中に天頂を見上げ、プレアデスの運行が止まるかどうか、見守る。

これを確認した後、彼らは人身御供を捧げ、灯を灯し、今後52年の生存を許された幸運を盛大に祝う。


ではテオティワカンとウクブ・カキシュおよび、ワニのようなその息子の退治の話にはなにか関係があるのだろうか?

この神話の後半では「400人の若者たちの魂はプレアデスに向かう」とされている。

この都が遺棄された時期とプレアデスの運行は密接につながっているということが分かった。



725年から800年頃、テオティワカンは遺棄されたとされている。

コンピューターによると、727年の11月20日、天空を見上げたテオティワカン人はプレアデスの小さな星のひとつが天頂を通過するのを見たはずだ。

そしてこのとき、銀河は南東から西北方向に天空に弧を描いていた。

西の地平線上には、ワニの口である黒い空間の先端があった。

つまり天空にはシパクナの神話が描き出されていたのである。

彼は口を開け、地下に降りようとしている。

その上には世界樹の柱があり、さらに上にはプレアデスの400人の少年たちがいる。

つまりこの“天空の劇場”は「ポポル・ヴフ」の話を完璧に描きだしているのだ。


プレアデスが正確に天頂を通過するという現象が、それ以前のテオティワカンでおこったことはない。

だがそれ以前からテオティワカン人にとってプレアデスは重要な星団だった。

なぜならこの都が築かれたとき、この都の最大の建造物である「太陽のピラミッド」はこの星団の没する方角に向けられたからだ。

太陽が最初に天頂を通過する日に太陽と同時に上昇するのではなく、プレアデス星団自体が天頂を通過するのは、彼らにとっては重要な予兆であり、たぶんこの都を焼く必要があったのだろう。

そして彼らは焼け残った都を捨ててどこかへ去ったのだ。



テオティワカンの人口は600年から700年ごろにピークである20万人に達し、マヤ人にも後のアステカ人にもきわめて重視された。

今日では、その主要な広場、ピラミッド、通りは紀元前100~紀元300年頃に築かれたとされている。

だがマヤの記録によれば、「この遺跡はそれよりも遥かに古い」と書かれている。


      (引用ここまで・つづく)


                *****






「ITMediaニュース」2010・03・05の記事を転載させていただきます。


「恐竜絶滅の原因は「ユカタン半島の地球外天体衝突」 国際グループが「論争に終止符」」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1003/05/news063.html



                ・・・・・


論争が続いていた恐竜絶滅の原因は「白亜期末に起きたユカタン半島での地球外天体衝突」だと国際グループが結論づけた。


 約6550万年前に恐竜が絶滅した原因は「メキシコ・ユカタン1 件半島で起きた地球外天体の衝突」と結論──東北大、千葉工業大の研究者ら世界12カ国・41人の専門家による研究結果が、3月5日に米科学誌「Science」電子版に掲載される。

白亜紀末に恐竜を含む大量の生物種が絶滅した原因をめぐってさまざまな説が唱えられてきたが、研究グループは「論争は決着を迎えた」と自信を見せている。

 白亜紀末に起きた大量絶滅の原因として、ノーベル物理学者のルイス・アルバレズらは1980年、「直径10キロの地球外天体の衝突が引き起こした環境変動が原因」とする説を提唱。

白亜紀と第三紀の境目の地層(K-T境界)から多量のイリジウムが見つかったのが論拠になった。

91年にはメキシコのユカタン半島に、直径180キロのクレーター「チチュルブクレーター」が発見された。

この「チチュルブ衝突」が恐竜絶滅の原因とする説は、日本でもテレビ番組が恐竜絶滅の原因として紹介したことなどでよく知られるようになった。

 一方、同時期にインドのデカン高原を形成した大規模な噴火(デカントラップ)が原因とする説や、複数の地球外天体なども唱えられ、論争になっていた。

 研究グループは、各国の地質学や古生物学、地球物理学、惑星科学などが学際的に集まり、世界中で報告された地質学的痕跡や衝突クレーターの物理特性、数値モデルの結果などを再検討した。

 その結果、「チチュルブ衝突による環境変動で大量絶滅が統一的に説明できることが明らかになった」という。

根拠として

(1)世界約350地点で報告された白亜紀末の地層にチチュルブ衝突起源の物質が含まれる、
(2)衝突と大量絶滅のタイミングは厳密に一致していることを確認、
(3)数値計算によれば、衝突で大気中に放出された粉塵や森林火災によるすすなどは、光合成生物の活動を長期間停止させうる──という。

食物連鎖のベースとなる光合成生物=植物プランクトンが死滅したことで、恐竜などの大型生物の食料がなくなり、絶滅したと結論した。

 一方、火山噴火は約100万年にわたったものの、環境に与えた変化は小さく、火山活動が最も活発だった時期には大量絶滅が起きていないことなどから、絶滅を説明できないとして退けた。

また複数の天体衝突説も、白亜紀末を含む1000万年間のイリジウム濃集度を調べた研究から、この間の巨大天体衝突はチチュルブのみだったと結論した。

               ・・・・・




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2012年(3)・・鳥の時代の終了

2011-07-24 | マヤ・アステカ・オルメカ
エイドリアン・ギルバート著「古代マヤ文明の暗号・2012」を読んでみました。

大変興味深いので、抜粋してご紹介させていただきたいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


著者は「蛇」や「鳥」や「星座」などを通して、マヤ文明の根幹に迫ろうと努力をしているのが分かります。

本書の中では、とても多くの文献が比較され、検討されています。

古代マヤ文明ではなにが行われていたのか?
どのようなことが重要問題として扱われていたのか?

という問いについて、筆者は以下のことを大切にしています。


古代マヤ文明では、独自の暦が大切にされたこと。

それは3つの文明を通過し、今は「第4の世界」にあること。

2012年という時がポイントとなる暦は、紀元前3114年を出発点として現在の世界「第4の世界」が始まるという神話の上に成立していること。

その上で、その神話はどのようにして出来たのか、ということを調べています。




        *****


         (引用ここから)


アステカ人と同様、マヤ人もまた、現在の太陽の前には他の太陽があったと考えていた。

その各時代はそれぞれ異なる神々が支配し、地上には別の種類の人間が住んでいたのだ。

そして各時代はそれぞれ少数の生き残りを除いて、なんらかの災いによって滅亡したのである。



「4方位」の世界観は、中央アメリカ全体に普遍的に見られるものだった。

おなじ観念はアステカの宗教の中心でもあり、マヤの伝承では4方位は特定の色と関係していた。


東は赤、北は白、南は黄、西は黒であり、4方位と関連する4本の樹があり、第5の樹がその中心にあるという。

エリック・トムソン著「マヤ文明の盛衰」には記されている。


                ・・・・・

赤き石は赤き「天を支えるもの」の石である。

竜の怪物の赤きカポックは彼の樹であり、東に置かれる。

赤きトウモロコシは彼らのトウモロコシ。

(略)

それぞれの方向に各色の神、植物、動物が関連付けられる。

                ・・・・・



アステカの建国神話は、「蛇をつかむ鷲」のビジョンと関係している。

「絵文書」の表紙にも樹の天辺に鷲がとまっており、その土台である岩を蛇が登っている。

「絵文書」を詳しく調べると、アステカの樹はマヤにとっての「生命の樹」と同じものだと分かる。

「生命の樹」の周囲には4つの領域に分割された四角がある。

イサパの遺跡にも同じものが描かれているが、イサパはマヤ以前の都で、その近辺からは最古の長期日計暦が発見されている。

 
           (引用ここまで)


               *****



著者はここで、マヤ、アステカ、マヤ以前の遺跡、などに共通する「4分割された世界」と、その中心に位置する「鳥」のモチーフについて考えています。

そして、有名なパレンケのパカル王の棺のふたに描かれた、複雑な象徴に満ちたレリーフの分析の歴史を点検しています。

そして著者独自の仮説を提出しています。

     
           *****


        (引用ここから)


以上のような考えを元に、書き直してみた。

「生命の樹」をまっすぐ成立した状態に戻し、ワシ座が天頂を通過する際に「天の川」を支えられるようにしたのだ。


この仮説を検証するため、マヤ人の信じる現在の時代の始まりの年(=紀元前3114年)に、ワシ座はいつどこで天頂を通過したのかを調べてみた。


「ポポル・ヴフ」によれば、現在の時代が始まったとき、人々は「トゥルン」=「7つの洞窟もしくは峡谷」という場所の暗闇に集まった、という。

この「トゥルン」の位置については過去においては大いに論争されたが、少なくとも古典期においては、それはテオティワカンであるという共通認識がメソアメリカ全域にあったと思われる。

そこはアメリカ最大の都市であり、その最大のピラミッドの下には7つの洞窟のネットワークが隠されていた。

文字通り「メソアメリカのエルサレム」と呼べるほどに津々浦々から巡礼者を集めていたのだ。


この「トゥルン」はテオティワカンであったという仮説に基づいて、わたしは紀元前3114年の星の様子をコンピューターで再現してみた。

すると8月13日、すなわち現在の周期の開始日において、ワシ座の傷ついた翼の先端は、日没直後に天頂を通過した。


以上を総合すると「第3の太陽」の時代=我々の時代の一つ前の時代は、テオティワカン上空でワシ座が天頂を通過していた時期にあたっているらしい。


不思議なことに「第4の太陽」の時代の末期の人間ですら、テオティワカンの重要性を憶えている。

のみならずマヤとアステカの神話のいずれもが、その時代の開始を「鳥神」と結び付けているのだ。


           (引用ここまで・つづく)

    
           *****


4という数、4つの方角、東西南北、それに付随する色、赤・白・黄・黒。 生命の樹、樹上の鳥。

これらのシンプルなモチーフから、著者は紀元前3114年から紀元後2012年にわたる「第4の世界」を導き出しました。

著者は、紀元前3114年に、天空では「鷲座」が「天頂を通過」したことを調査しました。

「ワシ=鳥」の天頂通過は、「鳥の時代」の終了を意味したのだと、彼は考えます。

紀元前3114年以前の歴史を、著者は考えているからです。

紀元8世紀のテオティワカンの滅亡に関する天文学的証拠が残っている、と著者が語る「終了した鳥の時代」については、次の記事にします。



過去の時間をみつめている中央アメリカの文化における「4という数」、「4方向」の重要性について考えると、以前当ブログに紹介させていただいたフランク・ウォーターズ著「ホピ・宇宙からの聖書」の中の“ホピ族の4方向への移動”の、たいへん不思議な記述が思い出されます。

これらは関連していると、わたしは思います。

また、アステカ文明では現在は「第5の世界」ですが、その暦石は4分割されており、著者は「4」を重視して話を進めています。


以下、2008年12月24日の当ブログ記事を再掲してみます。

「なぜホピは壮麗な集落を捨てて旅を続けたのだろうか?」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/s/%A5%C1%A5%E3%A5%B3%A1%A6%A5%AD%A5%E3%A5%CB%A5%AA%A5%F3


          *****


30人の長老たちが語った「ホピ・宇宙からの聖書」によると、「第4の世界」にやってきた人々は、彼らの神の指示の下、幾何学模様を描きつつ、北アメリカ大陸の大移動を始めました。

以下に抜粋を載せてみます。


          ・・・・・


かくして、人々は高い山を登って移民を開始した。(略)

星は北へ北へと彼らを導き、ついに雪と氷に閉ざされた土地に辿り着いた。

夜間、彼らは雪の中に穴を掘って住居とし、熱の力を呼び起こして体を温めた。

水用にはいつも持ち歩いていた水瓶を使った。

これを埋めると、かつて砂漠を歩いたときと同じようにやはり泉は噴き出た。

また、小さな土の器もあった。

この中にトウモロコシとメロンの種をまき、そこに歌いかけると、みるみる種は草に育ち、トウモロコシとメロンを実らせた。

この新しい「第4の世界」の上で、まだ彼らは原始の純粋さを保っていたため、このような力が出せたのである。

(略)

西に向かった人々は、東と西の境となっている山脈を横切った。

これは大陸の軸であり、地軸の端にいる双児神はこれに沿って振動を送り出す。

人々は今やカトヤの守護の下に入り、西の海辺に出る。

そこからまた東にターンし、山脈を横切った。

ある乾燥した高原の上空で、「導きの星」が大きな円を描き始めると、彼らは移動のペースを落とし始め、ニューメキシコ北西部のチャコ・キャニオンで停止した。


     ・・・・・


彼らは小さな部族ごとに分かれて、それぞれが東西南北の「卍」を描く移動を実行しました。

ある部族が立ち止まったというこの場所は、メキシコ北部の古代文明の中で最も優れた遺物を残しているといわれる所です。

何百という遺跡が残され、五階建ての800以上もの部屋があり1200人ほど収容できるマンションのような建物も残されているということです。

しかしこういった幾多の住みかをあとにして、彼らは北また南と何百年もアメリカ大陸上を移動し続けたのでした。

著者は問いかけています。


     ・・・・・


「ホピ族は12世紀初めに今の故郷に辿り着き、のちに周辺のプエブロを捨てた部族が次々と入植してきたと考えられる。

マヤ・トルテカ・アステカの壮麗なるピラミッド神殿複合体、カサ・グランデやチャコ・キャニオンの大建造物など、幾世紀もの感動を呼び起こす前例があった。

ホピが最終的に永住の地に辿りついたとき、どうしてかつてのような大都市を築かなかったのだろう?

それどころか彼らは、当初からこれら離れ離れのメサの上に小村落の集まりしか作らなかったのだ。

なぜホピ族は、かつてのような一大宗教・文化センターを築かなかったのだろうか?」


    ・・・・・


著者は次のように考えます。


    ・・・・・


「仮に気候がもっと恵まれていたとしても、彼らは諸部族とかつての文化のパターンを再統一することはなかっただろう。

彼らはきわめて宗教色の強い、平和を確信している民族であり、どのような世俗的支配にも反感を起こしたからである。(略)

ある部族の地位とその所有地の相対的な価値は、「4方向への移動」をどの程度成功させたか、またどのような儀式を所有しているかといった宗教的な基盤にかかっている。

ホピが理想としている前提は、宇宙の中心である永遠の故郷で結束し、創造の普遍的な形を固めることにある。

ホピは世俗的な生き方が、宗教的なそれ~創造の普遍的計画~の上に構築されなければならないという信仰に決してつまづくことはなかった。」

    ・・・・・



つまり、マヤ・アステカ族と血を分けるホピの人々は、神殿やピラミッドや大きな住宅といったものを作ろうと思えばできたのですが、作ることを放棄したのです。

文明社会から見れば、逆行しているように見えるこの動きこそが、ホピをホピたらしめているもののように思います。

       ・・・・・

          *****


中央アメリカの人々にとっては、十字の形は、死せるキリストではなく、生きている神の元型なのだと思います。
そしておそらくそれは、中央アメリカに限ったことではない、と著者は言いたいのだと思います。



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2012年(2)・・プレアデスが天頂を通る時

2011-07-20 | マヤ・アステカ・オルメカ
エイドリアン・ギルバート著「古代マヤ文明の暗号・2012」を読んでみました。

大変興味深いので、ご紹介させていただきたいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


        *****

           (引用ここから)


「太陽のピラミッド」はテオティワカン遺跡全体の中でも最も重要なものであることは間違いない。

「太陽のピラミッド」は洞窟構造の上に位置している。

おそらくピラミッドの建設のはるか以前から聖地とされていたのだろう。


その上に都が花開いていた頃には、何らかの祭儀目的で用いられていたことは間違いない。

このことは洞窟内から発見された奉納物から確認されている。


ピラミッドの下の封印された洞窟の中から、黒曜石の鏡の破片が数多く発見されているが、これはもしかしたら秘教的宗教とのつながりを示すのかもしれない。

現代の考古学者や歴史学者の多くは「太陽のピラミッド」の下の洞窟構造はケツァルコアトルの神話と密接に関連していたと考えている。

ケツァルコアトルは現行の太陽を空に運動させるために我とわが身を捧げたが、それがまさにその場所だったというのだ。


一方、「太陽のピラミッド」の方向には、天文学的な目的があったと思われる。

だからこそアステカ人はこの建造物を「太陽のピラミッド」と呼んだのである。

とは言うものの、元来の建造者たちがこれを何と呼んだのかはまったく不明だ。


このピラミッドから「死者の道」の方向に直角に向かうと、特定の日の日没の地点を示す方角となる。


それが建造された起源300年頃には、この日、太陽は「おうし座」に位置し、「プレアデス星団」の真下にあった。

「プレアデス星団」は、サアグンらの資料によれば、52年ごとに行われるアステカの祭儀において重要な役割を果たしていた。

52年という周期のこの祭儀は、常に11月のプレアデス星団が真夜中に天の子午線と交わる日に行われていた。



「バチカン・ラテン絵文書」によれば、4つの時代は次の通りである。


         ・・・

「最初の太陽の時代」は4008年の間続き、当時生きていたのはトウモロコシを食う巨人だった。

この時代の終わりに、太陽は洪水によって破壊された。

幸いなことに、一部の者が魚になって洪水を生き延びた。

生き延びたのは一組の夫婦だけだという話もあれば、また7組の夫婦で、洞窟に隠れ住んだという話もある。

そのあと彼らは再び地上に人間を増やした。

この時代は水の神の妻に支配されていた。


「第二の太陽の時の長さ」は4001年だった。

その期間、人々は野生の実を食べていた。

この太陽は風の神によって破壊された。

一部の者はサルとなり、木にしがみついて生き延びた。

その破局は「一犬の年」に始まった。

岩に乗っていた一人の男と一人の女が破局から救われた。

この時代は黄金時代であり、風の神が支配していた。


「第3の太陽の時代」の長さは4081年である。

当時の人間は第2の太陽を生き延びた夫婦の子孫である。


この世界は火によって滅ぼされた。

この時代は「赤頭」と呼ばれ、火の神が支配していた。


「第4の太陽」は、5026年前に始まった。

この時代は「黒神」と呼ばれ、この時代に「トゥーラ」が建てられた。

血と火の雨の後、人々は餓死した。


      ・・・


この話は「諸太陽の伝説」とはまったく異なるが、おそらくより正統的なものだ。


これらの話から明らかなのは、アステカ人の考える周期は、四季や4方位などのパターンを踏襲するものだったということだ。

「アステカの暦石」に示されるすべての時代の循環は、一日の始まりから終わりまでの循環を長い期間にあてはめたものと言える。

とは言えアステカ人は中央アメリカに住む多くの部族のたった一つにすぎず、「時代の周期」に関する彼らの知識は限定的なものであったと思われる。


真に「時代」を知っていたのはマヤ人である。

彼らはアステカ人と異なり、音節文字を用いて書くことが出来た。

その結果、彼らの文化が絶頂に達したのはアステカ人の到来よりも何世紀も前だったにも関わらず、かつての中央アメリカ全域で共有されていた信仰に関して、遥かに多くの情報を残してくれているのである。


           (引用ここまで)


               *****


「プレアデス星団が真夜中に天の子午線を通るのを見る」52年に一度の行事というものが気になりました。

ホピ族も、「プレアデス星団が天頂を通るのを見届ける」儀式を行っていた、という記述を思い出したからです。



2009年10月15日の当ブログのホピ族の祭り「ウウチム祭」の紹介記事を再掲します。

「生命の一本道を通って第4の世界に現れる・・ホピの祭ウウチム祭(その3)」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/d1e4a6f1b6832573a654a5bed3df309c


           *****


フランク・ウォーターズ著「ホピ・宇宙からの聖書(Book of the Hopi)から、ホピの祭り「ウウチム祭」を紹介しています。
前回の続きで、抜粋し引用します。


      ・・・・・


       (引用ここから)


「髪洗いの夜」はウウチムの中心的儀式である。

ホピの子供たちは思春期に入る前にカチナかポワムいずれかの宗団に参入させられる。

ウウチムの入団者はより高度な段階の霊的訓練に導き入れられる。

また彼らは、創造の夜が明ける時にこの新世界に現れた、最初の人類をも象徴している。

このためどんな人間の弱さにも負けない者とみなされ、この世の悪とは無縁でいなければならない。

「道の封鎖」によって、村があらゆる人間から閉ざされ、村の東半分が空になり、入団者たちが祭司と有益な霊人たち以外、誰とも接することが出来なくなるのはこのためである。


このような秘密と厳粛さのうちに、彼らは教父たちに連れられてハウィオビ・キバに導かれる。

入団者はキバの東端にある高い床に座り、西の低い床には祭司たちが座る。

ハウィオビとは「一本道」の意味。

キバそのものはかつての地底世界を象徴し、彼らは今そこより地上に現れようとしているのだ。

入口はただ一つ。
はしごでつながっている屋根の入り口のみである。

儀式が終了し、彼らが創造の純粋な形を定めてしまうまでは、外に出ることは許されない。


その間、他のキバで準備が整えられている。

浅井戸族の一員が持った棒を、各キバの一員は一つづつ抜き取る。

黄、青、黒色の棒を抜いた者はそれぞれ、星星、霊、他世界の住人を象徴することになる。

また、一本のみの赤い棒を抜いたものは地底世界の神マサウを代表する。

こうしてそれぞれの役目に応じた衣装に身をくるみ、人々はキバに向かう。


さて、真夜中近くになる。

キバは、炉穴からおこる火の薄明かりの他は、暗がりの中にある。

この薄明りの中で、上の段に集まった入団者たちは、一人の祭司が祭壇面の床に開いた小さな穴・・シパプニと呼び、出現の場所を象徴している・・から栓を抜くのを見る。


さて、「オリオン」の三つ星を後ろに従え、7世界を象徴する「プレアデス」の7つ星が、上のはしご穴をとおして目に入るってくると、祭司は7世界をとおして「生命の道」を踏みしめる人類の旅について、彼らに語り始める。


「第一の世界」は目の前にある炉穴の火が象徴する火の元素で始まったが、人間存在の純粋な形は、悪によって汚されてしまった。

世界は滅亡し、人類は「2の世界」に出現した。

ここでも同じことが起こった。

「第3の世界」に起こったことを聞くと、入団者たちは
自分たちが今の「第4の世界」に肉体を持ちながらも、象徴的には未だ、「第3の世界」の住人であることを理解させられる。

入団式を受ける理由はそこにある。

それは、目の前にあるシパプニを通してキバに象徴される第3の世界から、さらにもう一つのシパプニであるはしごを昇り、外の「第4の世界」へ出現することを定めているのだ。

         (引用ここまで)


        *****


おそらくホピ族はマヤ・アステカ・オルメカ族と血を分けた同族なのでしょう。


テオティワカンが建造されたのが紀元300年ごろであるとすると、最短でもその時代に戻りたいというのが、中央アメリカの人々の根源的な感覚なのだと思います。

日本で言えば、弥生時代から古墳時代頃でしょうか?

その頃の世界が、神々と人々が共存し得た最後の真実の世界であったと考えられている(いた)、ということになります。

そして日本で言えば、平城京や平安京や鎌倉の都を作りながらも、それらは弥生時代の墳墓に勝るものではなく、むしろ堕落した、劣った姿であると考えたということになります。

これはやはり、なんとも不思議な感覚に思われます。

古墳時代から律令時代、平城京から平安京、鎌倉の都、と時がたつにつれて悪い時代になってしまった、、と感じた日本人はいたとしても、本当に古代に戻ろうとした日本人はどれだけいたでしょうか?

ですから、メソアメリカの人々の胸には、強力な磁石のようなものが埋め込まれていて、たとえば北に向かって一斉に毎年飛び立つ渡り鳥のように、何らかの確固たる帰巣本能のような感覚が働いている(いた)のだと思います。

その磁石のようなものがどこを指しているのか、またなぜ埋め込まれているのか?

いろいろな多くのことを忘れてしまった現代のわたしたちには、思い出すことが非常に困難な問題なのだと思います。






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2012年(1)・・時を数えているのは誰なのか?

2011-07-16 | マヤ・アステカ・オルメカ
エイドリアン・ギルバートの「古代マヤ文明の暗号・2012」という本を読んでみました。


2012年は来年ですから、わたしたちも忙しいことですが、どうなるのか?という気持ちは、やはりあります。

似たような本がいくつもあり、数冊読んでみました。

どれも面白そうなのですが、読み終わると何が書いてあったのかひとつも思い出せないところは似ているように思いました。


この本もその、よく思い出せない本の一冊なのですが、今まで調べてきた、マヤ文明の大元はどこにあるか、オルメカ文明との関係はどうなっているのか、といったことを観点として、自分なりに咀嚼したことをまとめてみました。


まとめてみて分かったことは、これはまだまだたくさん勉強するべきことがある、ということです。

おそらく2012年が通過しても、延々と考え続けているであろうことが予想されます。

しかし、できうる限りの努力はしてみたいというのが今のところの考えです。

以下、抜粋して少々ご紹介してみたいと思います。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。




*****


         (引用ここから)


マヤ文明の都市は特定の感じ、雰囲気をかもし出している。

その雰囲気は巨大な謎の存在を暗示している。

初期のスペイン人たちが出会ったのは、なにか高次のものの退廃した残滓にすぎないのではないか?

はじめてのメキシコ旅行で私が興味を引かれたのはその「何か」であり、以来それがずっと頭を離れなかった。



アステカ人はスペイン人の到来のはるか以前からテオティワカンの遺跡を神聖視していた。

彼らの神話の中で、この都は重要な役割を果たしている。

神話では「第5の太陽の時代」、すなわち「現在の時代」の創造の次第が語られる。

神話によれば、前の時代の終わりにその破局を生き延びた者たちはテオティワカンに集結していたという。

神々はこの生き残りから新たな人種を作ったのだ。

その時、大地は闇に閉ざされていた。

太陽が無かったからだ。

そこで彼らは、新たな太陽となって世を照らし、新たな夜明けをもたらす者を求めた。


二人の神が名乗りをあげ、競い合った。

二人の神は自らをいけにえとして捧げ、太陽と月となり、天に昇った。

この両者を核として作られたテオティワカンの都は、やがて南北アメリカをつうじて最大の都市となる。

この都は西暦750年頃に廃棄されるが、その遺跡ははるか後のアステカ人に崇敬された。

年に一度彼らはそこに集まって自ら血のいけにえを捧げ、かつての神々の自己犠牲の栄誉を讃えたのだ。


アステカ人は、おそらくはるかに古い記憶の反映だろうが、テオティワカンの中央を通る大通りを「死者の道」と呼び、“地上における天の川”と考えていた。

彼らは“天の川”もまた「死者の道」と呼んでいた。

もしそうなら、その道の途上にある個々の神殿やピラミッドは抽象的な形で星を象徴しているのではないか?


    (引用ここまで・つづく)

                 *****


同じ話を何回も、と思われるかもしれませんが、やはり伝承されてきた神話や「絵文書」は最良の資料だと思います。

マヤ文明の神秘とは、密林の中にあらわれる古色蒼然たるピラミッド、驚異的な天文学と野蛮な人身御供といったコントラスト自体が、すでに答えになっているのかもしれないと思うこの頃です。

このコントラスト自体が、ヨーロッパ人の文明観からきているのだと思います。

しかし、筆者はそれは当然のことだと考えています。

なぜならば、マヤ文明はヨーロッパに伝わっているエジプトやギリシャの文明の源泉と重なり合っていると考えているからです。

それで、読み終わる頃には、話がぐるっと元に戻って、なにが語られていたのか分からなくなる部分があるのだと思いますが、言いたいことは分かるように思うのです。

筆者が言いたいことは、かなり大胆で、胸のすくようなお話です。。


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淺川嘉富氏の解説「先史文明と考えるべきだ」・・オルメカ文明に関するZ・シッチンの見解(6)

2011-06-29 | マヤ・アステカ・オルメカ
「神々の起源と宇宙人・・マヤ・アステカ・インカ」(五次元文庫)には、先史文明研究家・淺川嘉富氏が、筆者ゼカリア・シッチン氏のよき理解者として解説を書いておられます。


その中で、オルメカ文明に関していくつかの見解を述べておられる部分を、以下に抜粋してご紹介させていただきたいと思います。


                       *****


                (引用ここから)


気になる点がいくつかあったので付記させていただくことにした。

第一点はオルメカ人の問題である。

著者はオルメカ文明発祥の地と言われているメキシコのタバスコ平原に残された黒人の顔が彫られた数個の人頭像を根拠に、オルメカ人は黒人であったと述べている。

たしかに黒人種の一団がユカタン半島のメキシコ湾に面した一帯にいたことは間違いないが、

その時代は著者が述べている紀元前1000年~3000年よりさらに古い時代ではなかったかと、わたしは考えている。


と言うのも、タバスコ平原の「ラ・ベンタ」遺跡などに残されていた黒人の人頭像の原石はハイテクノロジーで彫られているからである。

人頭像を作ったのは現代文明をしのぐテクノロジーをもった人々であったと考えざるをえなくなってくる。


紀元前3000年ごろにオルメカ文明を築いた人々は、先史文明に直結する黒人ではなく、彼らよりはるかに後の時代に、かの地にやって来た人々であったのではないだろうか。


マヤの長老であるドン・アレハンドロは「オルメカ人はマヤ族の一族だ」と語っている。

またマヤ人でシャーマンでもあるヴィクトリアーノ・アルバレス・ファレス博士はマヤ・トルテカ文明説の中で、「オルメカ人はグアテマラの太平洋沿岸の高地で文明を持っていた太古のマヤ人が、紀元前2000年ごろにタバスコ平原に移住した民族だ」と述べている。

なお長老は、「マヤ族に文明をもたらしたのはプレアデス星からやってきた4人の宇宙人の一人で、彼こそがククルカン(ケツァルコアトル)と呼ばれる神であった」、と語っている。

著者の主張するニビル星人とは異なっている。


ただ、メキシコの地に黒人像が数多く残されていることを考えると、セム系の白人と一緒にアフリカから渡ってきた太古の先史文明の黒人一族が紀元前3000年ごろまで生き残っていた可能性はありそうだ。

偉大な姿で残された人頭像は太古の黒人の姿であり、それ以外の黒人像は大カタストロフィーを生き延びた彼らの末裔の姿を描いたものではないかと思われる。

人頭像以外の黒人やセム系の人々の容姿が決して高貴な人物として描かれていないのは、そのためではないだろうか。


            (引用ここまで・終わり)


                  *****


淺川嘉富氏HP「ようこそ!淺川嘉富の世界へ」
http://www.y-asakawa.com/



大きなテーマでありますが、オルメカ文明はマヤ文明の謎を解く一つの切り口であることは間違いないと思われます。

前出の記事で引用させていただいた16世紀の宣教師サアグンによる伝承の記録書も、直接確認したいと思っています。

また、同じオルメカ文明に関するグラハム・ハンコックの見解も興味深いと考えております。



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オルメカ文明に関するZ・シッチンの見解(5)・・紀元前3113年

2011-06-26 | マヤ・アステカ・オルメカ
オルメカ文明について調べています。

ゼカリア・シッチン著「神々の起源と宇宙人・・マヤ・アステカ・インカ」で著者が注目している、古代文明としてのオルメカ文明についての考えを紹介させていただいています。 


                 *****


         (引用ここから)


ひげをたくわえて羽が生えている「空の神」とは別に、「ひげを生やした人々」の姿がたくさん描かれている。

「ひげを生やした人たち」の生い立ちは謎に包まれている。

一つ確かなことは、彼らはインディオではないことだ。

インディオの顔には毛が生えていなくて、ひげがないのだ。

それではこのよそ者たちは、いったい誰だったのか?


いつ、どのようして、このような地中海の船乗りたちが中央アメリカに来たのか?

それを解決すべき考古学上の手がかりには当惑させられるばかりだ。

なぜなら、せっかくの手がかりが、さらに大きな謎へつながっているからだ。


その手がかりとは、オルメカ人のことだ。

明らかに、彼らはアフリカ人なのだ。

そしてさらに当惑させられるのは、多くの絵にセム系と思われる「ひげのある人たち」と、この「オルメカ人」が、同じ場所で同じ時に、顔と顔を付き合わせていた姿がよく描かれていることなのだ。



中央アメリカの失われた文明の中で、このオルメカ人のものは最も古く、そして最も神秘的なものである。

それはあらゆる面で、母なる文明とでも呼べるものだった。

他のすべての文明はそこから生まれ、それを真似したものだった。


この文明は紀元前2000年代の初めに、メキシコ湾岸に沿った地域で、突然の夜明けを迎えた。

そして紀元前1200年ごろには、ほぼ40箇所でその最盛期を迎えていた。


この文明はあらゆる地域へ、主として南の地域に広がって行き、紀元前80年には中央アメリカを横断するまでの足跡を残した。


中央アメリカ最初の絵文字は、オルメカ人の領土で発見されている。

同じように、点と棒を使った計算方法の始まりもここである。


謎の「紀元前3113年」という日付の始まりを記した、最初の「長期計算暦」もここで産まれた。

壮大な彫刻の、最初の不朽の芸術作品も、初めてヒスイを使ったのも、初めて手に持った武器や道具が描かれた絵も、

最初の祭礼センターも、最初の天体に対する方位づけも、すべてオルメカ人が成し遂げたのだ。


これほど多くの「最初のもの」が疑いなく存在していたことから、

中央アメリカのオルメカ人の文明を、これも“すべての最初のものは古代近東に始まった”とする、メソポタミアのシュメール文明になぞらえた説も提出された。

どちらの文明も、その先達や前もってじょじょに進歩する期間もなく、突然花開いたのだ。



そしてオルメカ人がいた場所は、キリスト紀元の初め頃に自ら放棄された。

そのときオルメカ人達が、いくつかの石の頭を埋めようとしていたことは間違いない。

後で誰かがこの場所にやって来たとしても、まさしく同じようなことをしただろう。


古代遺跡「ラ・ベンタ」で、紀元前1000年頃に行われていた観測の仕方から察すると、天文観測はさらに1000年も前に学んだ知識の根源に遡らざるを得ない。

この「ラ・ベンタ」の位置のずれとその紀元前1000年ごろの観測技術は、ずっと前の紀元前2000年頃の夏至、冬至、春分、秋分の時に星星が通過する子午線の移動に基づいたものと考えられるからだ。

紀元前2000年に始まっているとすると、「ラ・ベンタ」は神々だけがいたとされる伝説的時代を除いた「テオティワカン」より前からあった、中央アメリカ最古の聖なる中心地だったということになる。


しかし、これ位さかのぼった年代でも、まだオルメカ人たちが海を渡ってきた本当の時代とは言えないだろう。

なぜならば彼らの長期計算暦は「紀元前3113年」に始まっているからだ。

しかしともかくこの古い年代は、有名なマヤ・アステカ文明のはるか以前にオルメカ人たちがいたことをはっきり示しているのだ。


              (引用ここまで)


                *****


著者は、古代には同時多発的に多くの古代文明が栄えていたという説に立っていますので、下のような考えを提唱しています。

古代アメリカには、かつて多民族がやってきて、想像を超える先進的な文明を作り上げていたとする著者の説は魅力的です。

ひげを生やした神、白い神は、鉱物採掘に長けていた「洞窟の神」であったのかもしれません。

離れているように思われる人種間に、不思議なつながりがあり、人類の物語は思っているより遥かに躍動的なのかもしれません。


              *****


            (引用ここから)


彼らの能力、登場する場面、その道具などを総合して考えると、一つの結論が導き出される。

オルメカ人たちはおそらく、金や他の珍しい鉱物などの貴金属を掘り出すためにこの新大陸にやってきた採掘者達だったのだ。

「山の中」に穴を作って、トンネルを通したという伝説も、この結論を裏付けている。

それでこのオルメカ人たちから、ナワトル種族の人たちが受け継いで礼拝している古い神々の中に、「山の心」を意味するテペヨロティがいたことも、うなづけるのだ。

彼は、ひげを生やした「洞窟の神」だった。

それで彼の神殿は、山の中に石を使って建てられていたのだ。

彼の絵文字のシンボルは、穴のあいた山だった。

彼もまた、その道具として、ちょうど私たちはトゥーラで見たような、火炎放射器を持った姿で描かれていたのだ。

非常に多くの絵が示しているように、「オルメカ人」がアフリカから来た黒人だという難問は、地中海から来た「ひげを生やした」人たちの謎と絡み合って、さらに複雑なものになっている。

意味ありげに、遭遇シーンのあるものには、その頃は松明しか使われていなかったと思われるのに、わざわざ一人の従者が照明器具をはこんでいる情景さえある。


              (引用ここまで)


                *****


ひげを生やした「洞窟の神」とは、誰なのでしょうか?

古代文明の謎というものは、解きたいという気持ちと、謎のままにしておきたいという気持ちと、両方あります。

ゼカリア・シッチンの文明観は、別の本でも確認したいと思います。



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ピラミッドを作ったのは誰か?・・オルメカ文明に関するゼカリア・シッチンの見解(4)

2011-06-22 | マヤ・アステカ・オルメカ
ゼカリア・シッチン著「神々の起源と宇宙人・・マヤ・アステカ・インカ」の中の、オルメカ文明に関する部分の紹介をさせていただいています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


「神々の故郷」と「自分たちの故郷」をめぐり、まるで過去と現在がしりとり遊びをしているように、ぐるぐるとまわっていますが、


著者ゼカリア・シッチンは、古代中米には他地域の人物がやってきていた痕跡が認められると考えています。


オルメカ人の残した巨大な石像の顔は、アフリカ人の顔であると考えており、

アフリカからやってきたオルメカ人が、特殊な知恵を用いて、古代中米文明を築いたと考えています。


また、いくつも見出されている“ひげをはやした西洋人風の人物”は、フェニキアからきた人々ではないかと考えています。

著者は、古代中米には、聖書以前のメソポタミア・エジプトの文明との類似点が多く存在すると考えています。

それは西洋中心の視点であるとも言えるのですが、著者の力点は、世界に同時期に類似した文明が発生していたという仮説から、文明の原点をもう一つ遡って、その頃地球にやってきていた宇宙人による文明の存在を想定することにあります。

しかし、著者はあくまでもていねいに歴史を追って話をすすめています。



 
                   *****


               (引用ここから)


アステカ王国の首都テノチティトランがその栄華を誇っていたとき、トルテカ族の首都トゥーラはすでに伝説の都市「トラン」として、思い出の中へ消えていた。

そしてトルテカ族がその都市を建設していた時には、「テオティワカン」はすでに神話の中の思い出となっていた。

「テオティワカン」には「神々の場所」という意味があった。


「テオティワカン」は、どのくらいの過去まで、さかのぼれるのか?

当初考古学者たちは、「テオティワカン」はキリスト紀元の1世紀ごろまでに建設されたものと推定していたが、その年代はもっと昔にさかのぼり続けている。

現場の発掘作業で、この都市の祭礼センターは紀元前200年にはすでに4,5平方マイルの広さであったことが確認された。

現在では、紀元前1400年頃だったことが定説になっている。


その頃には、実際に「テオティワカン」の巨大建造物を建立した古代インディオのオルメカ人たちは、メキシコの別の場所に大きな「祭祀センター」を作っていた。

私たちが推測するところでは、一連の構造物、地下の部屋やトンネル、流れを変えた川、方水路のある半地下のしきり、などから推定して、すべてのものが、鉱物を分離し、生成し、純化するための化学的に工夫された設備のために作られたものだと思われる。

紀元前1000年紀、むしろ紀元前2000年紀の中頃に、ピラミッドの建設の隠された技術に詳しい者たちが、この渓谷にやってきたに違いない。

そして彼らはまた物理学に関する知識を持っていて、この地域で手に入る物質から高度に進んだ加工処理設備を作ったのだ。


そしてもし、それが人類でなかったとすれば、このテオティワカンにまつわる伝説と、その名のいわれが、いみじくも初めから示していたように、それは“人間の神々”だったのか?


“神々”の他に、誰が「テオティワカン(神々の場所)」に住んだのか?

誰が最初のピラミッドを建てるために、石やモルタルを運んだのか?

誰が水路をつけて、方水路の操作をしていたのか?


こういう疑問に対して、「テオティワカン」の時代が紀元前数世紀より古くはないと考えている人たちの答えは、すこぶる簡単だ。

それはトルテカ族だという。


しかしもっとずっと昔の時代からあったという見方に傾いている人々は、それはオルメカ人だったと主張している。

オルメカ人は、紀元前2世紀の半ばに忽然と中央アメリカに現れた謎に包まれた人たちである。


そして、このオルメカ人自体が多くの疑問を投げかけている。

なぜならば、彼らはアフリカの黒人だったように思われ、アメリカ大陸には数千年前に太平洋を渡ってきた人々がいるとする説を受け容れようとしない人たちにとっては受け容れがたいことに変わりは無いからだ。


「テオティワカン」にいた人たちと、その都市を建設した人たちが神秘のベールに包まれているとしても、

紀元前にトルテカ族の人たちがこの地に辿りつき始めたことは、ほぼ確実である。

そして紀元前200年ごろには、帝都に君臨した何者かは、荷物をまとめてさっさと立ち去っていった。

そしてこの場所がトルテカ族の都市になったのだ。


数世紀の間、この都市はその用具や武器抗議品でその名をとどろかせていた。

それから彼らがここに辿り着いてから1000年後に、トルテカ族たちも自分たちの荷物をまとめてさっさと出て行ったのだ。

誰にもその理由は分かっていない。

ただ彼らは全員で出発し、「テオティワカン」は見る影もなく荒廃した場所になって、黄金に輝いた過去の思い出の中にだけ生き続けることになった。



ある人たちは、この出来事は紀元700年ごろにトルテカ族たちの新しい首都「トラン」の建設と時を同じくしていると信じている。

トゥーラ川の川岸にある長年人間が住んでいた場所に、「トラン」がトルテカ族の手で「ミニ・テオティワカン」として建設されたのだ。

古写本や言い伝えでは、「トラン」は伝説の都市として語り継がれている。


             (引用ここまで)


                     *****


千年も間があれば、さっさと出て行った、という表現はどうかとも思いますが、著者は部族の心の動きから、そのような表現を用いたのであろうと思います。

どうしても戻りたい場所があり、何千年かけてもそこをめざす、という部族の心があるのではないかと思います。


伝説の都市「トラン(トゥラン)」があった頃は、アステカ族の石のカレンダーにある5つの年代区分においては「4番目の太陽の時代」であったとされるようです。


       
                   *****


             (引用ここから)


神ケツァルコアトルがメキシコに現れたのは、「第四の時代」のことだった。

彼は背が高く、容貌も優れ、ひげを生やして、長い二枚の布でつくったチュニカを着ていた。
その杖には宝石が埋め込まれ、6つの星のしるしで飾られていた。

トルテカ族の首都トランが建設されたのも、この時代だった。

知恵と知識の師ケツァルコアトルは、学問や技能や法律、そして52年サイクルによる時間の割り出し方の手ほどきをした。


「4番目の太陽の時代」の終わりごろ、神々の間の戦争が始まった。

ケツァルコアトルは東へ向かって旅立って、彼がやって来た元の場所に戻っていった。

神々の戦争は国土を荒廃させ、野生の動物の数が人間の数を圧倒するようになった。

そして首都トランも見放された。

それから5年後に、アステカ族がこの地にやってきて、「5番目の太陽の時代」、アステカ族の時代が始まったのだ。


            (引用ここまで)


            *****


こういった、ぐるぐると円を描くような時間の感覚と歴史の感覚は、一種独特のめまいを伴うように感じます。

この独特の時間感覚自体が、催眠術のような暗示効果を持っているようにも思われますが、この催眠術にかかるとすると、いったいどのような世界が開けてくるのでしょうか?



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オルメカ文明に関するZ・シッチンの見解(3)・・“神々の場所”=故郷に帰る旅

2011-06-19 | マヤ・アステカ・オルメカ
ゼカリア・シッチンの「神々の起源と宇宙人・・マヤ・アステカ・インカ」という本から、オルメカ文明に関する部分を紹介させていただいています。続きです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


                   ・・・・・

           (引用ここから)



しかしある時期になると、この種族たちはこの聖なる都市を放棄し始めた。

最初に去っていったのはトルテカ族で、彼らは自分たちだけの都市「トラン」を建設するために移住していったのだ。

最後に立ち去ったのがアステカ族だった

彼らはいろいろな場所をさ迷い歩いたが、休むということはなかった。


「最後の移住の時がきた」という知らせが、アステカ・メキシカの種族たちに、彼らの神からあった。

彼らは指示された方向に向かって、[水に囲まれた岩から生えているサボテンの上に止まっているワシ]に出会うまで、歩き続けなければならなかった。

彼らはそこに定住して、自らを「メキシカ」と呼ぶことになっていた。

なぜなら、彼らは他の種族たちを統治すると定められた、選ばれた人たちだったからだ。

アステカ族が二度目の移住でメキシコの渓谷に辿り着いたのは、こうしたいきさつがあったのだ。


そして彼らは「真ん中の場所」とも呼ばれていた「トラン」に到着した。

そこに住んでいた人たちは、彼ら自身の先祖たちの親類だったが、アステカ族を歓迎しなかった。

2世紀近くもの間、アステカ族は中央の湖の沼地の端に住み続けた。


そしてついに彼らは自分たち自身の都市、「テノチティトラン」を築いたのだ。

その名称は「テクノの都市」の意味だった。

アステカ族は自分たちを「テクノ」の子孫たちだと考えていたと知られている。

現在、学者たちの間ではこのメキシカ、あるいはテノチアスと呼ばれる種族がこの渓谷に着いたのが紀元1140年頃としている。

また、「テノチティトラン」を築いたのが1325年だったとするのが定説になっている。



アステカ王国の首都「テノチティラトン」が栄華を誇っていた時、トルテカ族の首都「トゥーラ」はすでに伝説の都「トラン」として思い出の中に消えていた。

そしてトルテカ族がその都「トゥーラ」を建設していたときには「テオティワカン」はすでに神話の中の思い出となっていた。

「テオティワカン」には“神々の場所”という意味があった。

そして記録に残された数々の物語によれば、まさにその名の通りだった。


    (引用ここまで・続く)

                   ・・・・・


この種族たちの、[本当の故郷]を探す長い旅の物語は、前に6回に分けて紹介した彼らの神話「ポポル・ヴフ」にも心をこめて描かれていました。

この旅の物語は、本当にホピ族の旅と同じであるように思われます。


ホピ族は、「マヤはホピの落ちこぼれだ」と考えているといいます。

都市を作り、文字を作り、ピラミッドを建設し、人身御供を行い、周囲の部族と攻防を繰り返し、滅びていったマヤ族の血を引くからこそ、

ホピ族は、都市を作らない、文字を作らない、ピラミッドを建設しない、人身御供を行わない、周囲の部族と攻防の泥仕合をしない道を選んだ自分たちに誇りを持っているのではないでしょうか?

だからこそ、ホピ族は自らのことを「平和」を意味する「ホピ」と名乗っているのではないでしょうか?


ホピはマヤ以外の何者でもない、と思わずにいられません。

彼らの心は常に過去を見ており、おそらく彼らの目は後ろ向きについているのではないかと思ってしまいます。

彼らの心をひきつけて離さない、強力な磁力のような過去の出来事があったのでしょう。

それは彼らの神と彼らの約束ごとであり、彼らはそのことを決して忘れることがなかったのだと思います。



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賢者に導かれて「アストラン」から出現した・・オルメカ文明に関するゼカリア・シッチンの見解(2)

2011-06-16 | マヤ・アステカ・オルメカ
ゼカリア・シッチンの古代アメリカ文明の研究書「神々の起源と宇宙人・マヤ・アステカ・インカ」の中からオルメカ文明に関する考えを紹介させていただきたいと思います。続きです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



           *****


         (引用ここから)



その答えを、すでに知られている“歴史的事実”だけから求めるとすれば、アステカ族はさらに進んだ文化をもっていた種族によって谷間に追いやられた、放浪生活をする野蛮な移民者だったようにも思われる。

しかし学者たちが「移住の謎」としている諸伝説から、こうした推測とは違う内容も読みとれる。

こうした情報の元になっているのは、口伝えだけでなく、「古写本」とよばれているさまざまな本である。


「ボツリーニの古写本」には、アステカ族の先祖の家は「白い場所」を表わす「アストラン」という名前で呼ばれていたと書かれている。

そこは「白い雲の蛇」を表わす族長のカップルの住居だった。

この二人が息子たちを誕生させ、その息子たちからナワトル語を話す種族が生まれたという。

その種族にはアステカ族も含まれていた。

トルテカ族もまたこの最初の族長の血を引いてはいるが、彼の母は別の女性だった。

したがってトルテカ族はいわばアステカ族の腹違いの兄弟になるわけだ。


ところで、この「アストラン」がいったいどこにあったかについては誰もはっきりとしたことは言えない。

「伝説のアトランティス」だったという説も含めて、多くの研究の中で最も優れたものの一つがエドワード・セラーの「アステカ族の故郷はどこにあるか?」である。

それによると、「7つの洞窟のアストラン」と呼ばれていたことからも明らかに、7という数に関係した所にあったらしい。

古写本にも、「そこにある7つの神殿によってそれと分かる場所だ」と述べられている。

詳しくは、6つの小さな神殿に囲まれた一つの中央の大きな階段式ピラミッドのある所だという。


サアグンの力作では「アストラン」からの多数の種族たちの移住について述べている。

全部で7種族だった。

彼らは「アストラン」から小さな舟に乗って立ち去った。


到着した種族たちは、案内や先導してもらうための4人の賢者たちといっしょだった。

なぜならこの賢人たちは祭礼の手引きを携えていて、カレンダーの秘密も知っていたからだ。

そこから種族たちは「雲の蛇の宮殿」の方へと向かった。

長い年月をかけてアステカ族やトルテカ族などの種族たちのある者は「テオティワカン」に着いた。

そこに2つのピラミッドが建てられた。

一つは太陽のために、もうひとつは月のためのものだった。


                  (引用ここまで・続く)


               
   
        *****       



ここに紹介されている“我々は「沈んでしまった島」から移住してきた”、という記憶は、ホピ族も伝えています。


以前「ホピの笛祭り」として、フランク・ウォーター著「ホピ・宇宙からの聖書」からの引用を、当ブログでも
2回に分けて紹介させていただきました。

この祭りは、ホピ族が「沈んでしまった島」から移住した記憶を伝える祭りです。

以下に再掲します。


           
             *****


「ホピの笛祭り(1)・・2009・12」より
log.goo.ne.jp/blue77341/e/d109a6d2bd520ce8f0f375eca7e4e7b4


     ・・・・

笛族の儀式は16日間続く。

祭壇の左側には水瓶と正しく配置されたトウモロコシ。

また中央寄りにはオウムの姿をした木彫りの像と、熱帯産の鳥をあらわす像。

右側には木製の扇または櫂が二つ。

また葦で作られた二つの小さな輪がトウモロコシの葉にくるまれて置かれている。

フルート・スプリングの水は、人が現われ出た水を象徴している。

儀式前と開始後の4日間は、酋長は塩を口にせず、ひたすら祈りと精神集中に費やす。


祭りの16日目の昼、灰笛族と青笛族はフルート・スプリングに集まって「出現の場面」を演じる。

オウムやインコなど、熱帯産の鳥の赤い羽根の頭飾りをつけた男女が、泉を囲んで輪を作る。

灰笛族の長が泉の中に入り、小型のいかだにまたがって、青色の櫂(かい)でこれを漕ぎだす。

歌に耳を傾けながら彼のしぐさを見ていると、その意味が分かってくる。

大波が第三の世界を滅ぼし、人々は葦のいかだに乗って次々と島をわたり、最後にこの第4の世界の岸に現れる。

そしてコーラスが彼らの苦しみを歌い始めると、長は黒い泥の入った器を持って泉から這い上がり、全員の顎を泥で塗る。


一行はオライビに向かって行列していく。

             ・・・・・


「ホピの笛祭り(2)・・2009・12」より
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/76bc1a8a5478b3a86bcaa5c9a6a492cc

             ・・・・・




笛の音に合わせて歌いながら、灰笛の一団は広場の前で立ち止まる。

指導者は身をかがめ、地面の上のコーンミールで雲のシンボルを描く。

二人の笛娘が杖を使って自分の輪をこのシンボルの上に投げる。


これは輪の象徴する葦のいかだが、島から島へ渡ったことを表わす。

小さな葦の輪は前にも出現の時に使った葦のいかだを象徴しているが、もっと深い意味が隠されている。


今の第4の世界に渡って来る際に、人々がとどまった島をも象徴しているのだ。

この島々は、かつて第3の世界にあった山山の峰だった。

そして、人々が第4の世界に安全に辿り着くとすぐ、島々は沈んでしまったのである。


かつての文明の痕跡をとどめる第3の世界の陸も島々もこうして姿を消してしまった。

このため、笛娘たちは自分の手で輪に触れることができず、常に杖を使って扱わなくてはならない。

それはホピ族にとって、秘密の聖なる知識だからである。


杖もまた聖なるものであり、笛祭りの間中、深く念が込められている。

それはかつての存在についてのホピの秘教的な知識がこもった、魔法の杖を象徴するからである。


他の民族はこの知識を忘れ去ってしまった。

ホピが誰であるかについても、人類の起源についても知らないでいる。

だが、いつの日か次の周期を予兆する大きな地殻変動が起こり、これら海没した島々も再び浮上して、人類の出現に関するホピの秘教的知識を傍証することになるのだ。


オライビでは、笛族の行列は蛇キバの前にあるシパプニ・・出現場所を表わす小穴のところ・・で常に停止した。

ここはとても重要なスポットである。

「ポワム祭」では、二人の聖なるカチナ、エオトトとアホリはこの場所で7つの連続する世界を象徴的に表わし、各世界の中間にある“出現の道”を清めるため、シパプニに水を注ぎ込んだ。

また「蛇・カモシカ祭り」のときには、蛇族の祭司たちが蛇をもったまま隠れ家に近づいた時に、足踏みができるよう、この上に音響板がかぶせられる。

そこで笛族の祭司たちもまた、シパプニの中に水を注ぎ込む。


外にいる2宗団は、笛にあわせて出現の物語を歌い続ける。


歌は4節にわかれ、各説は島から島への旅を物語る。

陽は地平線に沈み始め、広場に影が伸び始める。

歌は止み、二つの宗団は列を作って、暗くなりつつある広場を後にする。


          (引用ここまで・終)

        ・・・・・

           *****


わたしには、アステカ族の伝承とホピ族の伝承は、同じできごとの記憶のように感じられます。

本書に紹介されている古文書によると、「彼らは4人の賢者に導かれて進んだ」、ということです。

「暦の知恵も、その賢者たちに教わった」、と述べられています。

ホピ族の言う「白い兄」も、同じ人の記憶ではないでしょうか?



人々はどこから来たのか?

賢者とは誰なのか?

人々はなにを記憶しているのか?

サアグンという16世紀のフランシスコ会の宣教師が聞き取った伝承の引用は、何度も目にするので、直に読んでみたいと思います。





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オルメカ文明に関するゼカリア・シッチンの見解(1)・・原始的な文明という矛盾

2011-06-13 | マヤ・アステカ・オルメカ
話は変わりますが、、中央アメリカの古代文明について、ゼカリア・シッチンが大論文を書いています。

「マヤ・アステカ・インカ・神々の起源と宇宙人」という題の本ですが、昨冬の「古代メキシコ・オルメカ文明展」に行った時、会場で売られていたので買ってみました。


「古代メキシコ・オルメカ文明展」公式サイト
http://www.asahi.com/event/olmeca/


展覧会場では、「マヤ暦による2012年地球滅亡説」のDVDなども販売されていて、マヤ文明とオルメカ文明の関連を考えるとても良い機会となりました。 (このDVDは買いませんでしたが)


ゼカリア・シッチンの本は550ページもあるのですが、その中からオルメカ文明に関わる部分を抜粋してみました。


「マヤ」と聞くと、とても神秘的で謎に包まれていると感じますが、マヤ族の複雑な歴史を辿ることにもエネルギーを注ぎたいと思います。

ゼカリア・シッチンの宇宙人来訪説は後に検討することにして、一つのオルメカ文明の研究書として見てみたいと思います。

以下、「マヤ・アステカ・インカ・・神々の起源と宇宙人」より。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



                *****


                (引用ここから)



多くの歴史家たちが認めるところでは、トルテカ族は少なくとも紀元前1000年前、おそらくは紀元前1500年前、アステカ族がこの舞台に登場する前に、メキシコの中央高原にやってきていた。

後に来たアステカ族は、ただ地面から金箔をはがして採ることしかできなかったが、

トルテカ族はすでに採掘、それも金銀や他の金属、そしてトルコ石のような宝石の本格的な採掘方法を知っていた。

それはどうしてだろうか?

そしてこのトルテカ族に採掘の秘密を教えた者は一体誰だったのか?


当時のスペイン人の年代記作家たちは、インディオたちが実は文明人であったという事実にショックを受けた。

そのショックを和らげるために、インディオたちが無知だった証拠として、コルテスはインディオの王を「神ではなく、邪悪な悪魔の偶像を崇拝している」と叱責した。

また、こうした邪悪な習慣をなくさせるために、ピラミッドの上に十字架と聖母マリアの姿をかたどった神殿を建てさせようとした。

しかし実際には、十字架のシンボルも、スペイン人が来る前にすでにアステカ族には知られていたのだ。

十字架は天界の大切なシンボルとして、神ケツァルコアトルの盾の紋章として描かれていたのだ。



アステカ族は使っていた道具や武器については、石器時代にあったと言ってもよかった。

奇妙なことに、アステカ族は金細工の技巧はやっていたのに、金属の道具や武器をまったく使っていなかった。


一方では原始的な粘土や木製の品物、そしてグロテスクな彫像があり、他方では巨大な石の彫刻や記念すべき壮大な聖域があるという、この二つの対照には全く驚かされる。

このことは、アステカ族がメキシコにいた4世紀足らずの短い期間では説明が付かない。

このような文明の二面性をどう説明したらよいのか?


        (引用ここまで・つづく)

            
                    *****



「マヤの十字架」とは、彼らの大切な神ケツァルコアトルの盾の紋章に記されていた、とあります。

またそれは、マヤの「生命樹」の形でもあると言われています。

十字の形は、世界を4に分ける図形でもあり、4という数はアメリカ大陸の先住民族にとって、聖なる数であったと思います。

また、アステカ族の前にいたトルテカ族に焦点を当てて書かれていますが、トルテカ族、オルメカ族、マヤ族という、近くて遠い種族間の関わりが、オルメカ族に関する著述の中の相当量を占めています。




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などあります。(重複しています)
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マヤ族の復讐的魂であり、古の声である・・ル・クレジオの「チラム・バラムの予言書」賛

2011-03-13 | マヤ・アステカ・オルメカ
マヤの予言書「チラム・バラムの書」(望月芳郎訳)に、同書を原語からフランス語に翻訳した作家ル・クレジオが書いた、「チラム・バラム」に寄せた文章が載っていました。

以下に、抜粋して紹介させていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****


    (引用ここから)



「チラム・バラムの書」は記録ではない。

その「予言」は復讐的である。


一世紀近く続いた異民族に対するマヤ人の闘い、「カースト戦争」と呼ばれた長い熾烈な闘いを想起しなければ、それらの「予言」の真意は分からない。

チラム・バラムのいにしえの予言の言葉により感電させられたようになったマヤ人は、この聖戦を戦い抜いたのである。


なぜならば、いにしえの神々は消え去ってはいなかったからだ。

神々はただ、名を変えただけにすぎなかった。


チャン・サンタ・クルスの町で反乱者が立て籠った教会の中では、常に同じ言葉が響き渡り、異民族に対するマヤ人の勝利を告げていた。


「太陽の偉大なる神官」たちの言葉は、最初の反乱者の言葉であり、兵士達の言葉であり、十字の代弁者の言葉であった。


なぜならば、天空の民マヤ人は決して彼らの神々のために生きることをやめなかったからである。


征服後、予言者たちによって告げられた大異変が起こり、人々が衣服、法律、神々を変えた時でも、彼らはいにしえの声に耳を傾けるのをやめなかった。


運命がおのずから成就することに、ひたすら従っていたのである。



その時、天の言葉がそう欲するが故に、彼らは真のキリスト教徒に、彼らだけがその名に値するキリスト教徒になった。


いにしえの神々は天空から消えていたが、人々を鼓舞するのは常に同じ信仰であった。


クルソオブの反乱者たちにとって、寛衣を着た“もの言う”十字架は、大宇宙とかつて雨の神々が支配した四方位の象徴であった。


「チラム・バラムの予言の書」は聖書であった。


そこに書かれた言葉は、今やキリスト教徒の神となった「真実の神」の口から出たものであった。


かつてトルテカ族の傭兵から受けたように、いまスペイン人の征服者やメキシコ連邦政府の軍隊に虐げられ、辱められたマヤ人は自分達を、ユダヤ教徒や初期キリスト教の殉教者と同じだと思い込んだ。


あの神聖なテキストの中の一冊が「ユダヤ人の書」という題を持っていることは意味のあることである。(訳注・日本語訳はない)


今日、再度闘いに敗れたマヤ人は、もう「チラム・バラム」の言葉に耳を傾けようとしないであろう。


だが、ユカタン半島の東部、密林の中に隔絶されたいくつかの村々では、依然としてそれは忘れられてはいないだろう。


自ら「隔絶者」と称する人々は今でも、消えうせた予言者の神聖な言葉を聞き、じっと待っている。



 おお、父よ。
 悲しみに沈みながら、あなたに告げる。

 おお、イツァの民よ。
 汝らを訪れんとする人々が道を進んでくる。

 彼らは近づきつつある大地の主人たちなのだ。



これは一民族全体の感情の表現であり、その魂、その生命なのだ。


遠くから謎のように、マヤの神託の声は我々のために、天空に、星の間に書かれたその昔のメッセージを読み続ける。


   (引用ここまで)


       *****


 wikipedia「ル・クレジオ」より


ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオ(1940年 - )は、フランス出身の小説家。1963年、『調書』でデビュー。2008年、ノーベル文学賞受賞。

フランスのニースにイギリス籍の父とフランス籍の母との間に生まれる。

18世紀末のフランス革命期に「長髪を切ることを拒んで」ブルターニュからインド洋モーリシャス島に移ったブルトン人の移民の家系である。

1966年からは義務兵役代替のフランス語教授としてタイ、翌年からはメキシコに滞在。

この頃から中南米に惹かれるようになり、1970年から1974年までパナマの密林に住むインディアン(エンベラ族)に混じって生活しながら執筆を行なった。

この体験がエッセイ『悪魔祓い』(1971年)として描き出され、この作品により1972年にヴァレリー・ラルボー賞を受ける。

1975年にベルベル人の血を引くモロッコ人女性ジェミアと結婚。のち3子をもうける。

1970年代後半からメキシコの文化に傾倒し、メキシコの各地の大学で客員教授を務めながら、ヨーロッパによるアメリカ先住民への略奪の歴史を研究、初期メキシコの歴史に関する論文によりペルピニャン大学で博士を取得した。

1980年、これらの研究の成果を間接的に生かすかたちで書かれた小説『砂漠』を発表。この作品でアカデミー・フランセーズにより第1回ポール・モーラン賞を受賞した。


2008年、ヨーロッパ文明への批判的な視点と詩的な文章が評価されノーベル文学賞を受賞。フランス語作家としては1985年のクロード・シモン以来23年ぶりの受賞者となった。



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天に大きな白い輪が現れるであろう・・マヤの予言「チラム・バラムの書」(6・終)

2011-03-10 | マヤ・アステカ・オルメカ

マヤの文化とは何かを考えたく、マヤの予言「チラム・バラムの書」(望月芳郎訳)を紹介しています。

続きです。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


      *****


     (引用ここから)



汝らの客たちを、

髭の生えた男達を

神の御しるしの伝達者たちを迎えよ。


汝らの兄たち、タントゥンの人々が最後にやって来る。

彼らは汝らに、神への供物を共にしようと申し出るだろう。

彼らの太陽の神官の名はアー・ミスニラクベ。

今訪れんとする「時」、汝らを連れ去ろうとする「時」の顔は“ピューマ”、反キリストである。


ああ、わが息子たちよ。

多くの不幸がやって来る。


我らの殿の予言は次の通りだ。

「訪れるこのカトゥンの間、地は燃え、天には大きな白い輪が現れるだろう。」


それは父なる神の御口から出る真実の言葉である。


ああ、キリスト教の布教を見るカトゥンの荷物はまことに重い。

その荷物がやってくるとき、その予言は「奴隷の身」という予言であろうし、

すべての人間は奴隷となるだろう。


その予言がやって来る時、汝らは分かるだろう。

「二日間の玉座の主」たち、「二日間のマットの主」たち(訳注・すぐに退く者たち)が、年の終わりの不吉な5日、贖罪の日々の間にやって来るだろう。

まことにそれは神の予言の終わりとなるだろう。


カトゥンの殿の杯の数は、11だろう。

汝らは多分死ぬか、生きていても「生きている書物」(訳注・さまざまなしるし、教え、予言)の言葉が分からないだろう。


マヤパン(マヤの都の一つ)の男がただ一人のその息子、法管だった。

彼は牢につながれ、大道を引き回され、縛られ、鞭打たれた。

座らせられ、耳を打たれた。

彼は頭に帽子をかぶり、足にサンダルをはいていた。

彼が着いた時、体は網で縛られていた。



白い肌の若い男はやってきた。

彼は天から降ってきた。

人の言うところの若い処女は、七つの赤い星の母であった。


おお、準備せよ、イツァの民よ。

汝らの息子たちはカトゥンの喜びを、カトゥンの戯れを知るだろう。

それが席につくためにやってくるとき、ケツァル鳥(訳注・ケツァルコアトル)の終わりと破滅となり、三角の山々〈訳注・ピラミッドのこと)の崩壊となるだろう。

カトゥンの荷物の中には、多くの絞首刑がはいっている。

おだやかに汝らの客を迎え入れよ。



カトゥン5アハウは4番目のカトゥンである。

このカトゥンの治世の間、そのまなざしは厳しく、その合図は険しい。

それが訪れる時、人間の息子たちにとって、おおきな災難が起こるだろう。

この世で悪魔の争いが始まり、神の顔、“神の実体”の顔は覆いを被せられるだろう。


大地では絞首刑がはじまるだろう。


流星の尾がやってくるとき、この世の父が作られる時、男たち、女たちはあまり息子を持たないだろう。


それから人々は予言者の踊りを見るだろう。


カトゥン3アハウは第五のカトゥンである。

その治世の間、偉大な賢人の時代は、「星=神」がその顔である。


その治世のあいだ、その顔は反キリストの顔である。

イチカンシホでは、牡鹿の角笛から炎がほとばしるだろう。

赤いジャガーの皮が、広場に広げられるだろう。

不毛の雨、天の兎の雨、天のやけどの雨、天のキツツキの雨、天の最も深いところからの雨、それから三本のシュロが天降るだろう。

戦いが始まるだろう。

いなごの年が来るだろう。


生き残った者たちは、遠くに追い払われるだろう。

彼らは戦いに敗れたのだ。

山のような屍が積まれ、天然痘が荒れ狂うだろう。

住民は悲しみ、四つ辻では蝿の群れが悲しげに唸るだろう。


カトゥンの殿達が来ている。

開かれた真っ赤なイツァ族の住居では、たましいが叫ぶだろう。


わたし、カトゥン3アハウはここにいる。

わたしのイチカンホシの町は建設された。


わたし、カエサル・アウグストゥスはここにいる。

わたしは供物を、森の奥で受ける。




     (引用ここまで・終わり)

   
       *****


>マヤパン(マヤの都の一つ)の男がただ一人のその息子、法管だった。
>彼は牢につながれ、大道を引き回され、縛られ、鞭打たれた。


この“男”の姿は、キリストに似ているように思われますが、この男は、マヤ族の者だと言われています。
二つの印象が、重ね合わされているようです。


>人の言うところの若い処女は、七つの赤い星の母であった。


“人の言うところの若い処女”とは、聖母マリアのことかと思われますが、訳注には、以下のように説明がありました。

マヤの天体図における「赤い星」は金星を意味する。
だがここの「七つの赤い星」は、金星のほか、太陽、月、水星、火星、木星、土星を意味すると思われる。



>わたしカエサル・アウグストゥスはここにいる。

この西洋人のような名前の人物については、訳注には、以下のようにありました。

この名の由緒は不明だが、ティミシン文庫では“狩猟の神「アー・ウウク・ヨル・シブ」”となっている。


>我らの殿の予言は次の通りだ。

>「訪れるこのカトゥンの間、地は燃え、天には大きな白い輪が現れるだろう。」

>それは父なる神の御口から出る真実の言葉である。


全編に、さまざまの表象が現われていますが、これは彼らの救いと勝利を意味する「しるし」と見てよいように思えます。



全体にわたって見られるように、これらの文章は、わざとマヤ文化とキリスト教文化を混同した書き方をしています。
おそらく、そのような書き方をしなければ、発行禁止、どころが、命も危うかったのだと思います。



>わたしは供物を、森の奥で受ける。

最終的に、マヤ族の人々が供物をささげるのは、森の奥の、彼らの神なのですから。








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