始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

別冊宝島「日朝古代史・嘘の起源」室谷克実氏監修・・古代東アジア世界を捉えなおそう

2017-05-25 | アジア



朝鮮半島の歴史を学びたく思い、いろいろな本を見ています。今回は、前回と同じ室谷克実氏が監修された「別冊宝島「日朝古代史・嘘の起源」」という本の中にある、室谷氏と長浜浩明氏の対談です。

長浜氏は「渡来人が大挙して日本にやってきて、現代日本人の祖先となり、日本文化の原型をつくった」という定説を否定する研究者でいらっしゃいます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

        *****

       (引用ここから)

特別対談「日朝古代史の定説は覆っている」


〇長浜

わたしの著書を読んだ考古学関係の方から、

「平城の考古学博物館で、「縄文土器」を見たことがある。韓国の国立博物館にも、「縄文土器」が陳列されていた。「九州の「縄文土器」と類似している」と書かれていました」

という手紙をもらったことがあります。

その方は、なぜ朝鮮半島から「縄文土器」が出るのか疑問に思っていたけれど、私の本を読んで納得した、と言ってくださいました。


●室谷

考古学者も、朝鮮半島から「日本の土器」が出ることは認識しているようですが、定説が覆るので、「日本人が朝鮮半島に進出していた」とは、口が裂けても言えないのですね(笑)。


〇長浜

考古学的に見ると、朝鮮半島には、旧石器時代の遺跡は50点~60点しかありません。

日本は10000点以上で、桁が違います。

紀元前10000年から5000年間は、半島は無遺跡時代であり、半島からほとんど人がいなくなっていました。

ところが無遺跡時代の直後から、半島各地で「縄文土器」が出土し始めます。

このことから、日本から半島へ縄文人が移り住んでいった、と考えられます。

そう理解せざるをえない。 


●室谷 

そうですね。しかし、定説はそうではない。

誰のために「日本人と日本文化のルーツを朝鮮半島とする定説」を守っているのかわからない。
おかしな伝統です。 



〇長浜 

今の直接の韓国人の祖先は、紀元前2000年頃に半島に移り住んできたと考えられます。

これは韓国の学者も言っています。 


●室谷

朝鮮半島には、後に「扶余系民族」も南下して来ますからね。

つまりその頃、朝鮮半島には韓国人の直接の祖先はいなかったと認めているわけですね? 


〇長浜 

そうです。さらに釜山にある「東三洞貝塚」からは、「縄文土器」と「黒曜石」もみつかっています。

これは佐賀県の腰岳山のものでした。

韓国は当時、彼らの言う「櫛文(せつもん)土器」の時代でしたから、みつかった縄文土器は、明らかに九州から運ばれたものでしょう。


●室谷 

邪馬台国の時代は、朝鮮半島の南部は「倭」が支配していました。

「魏志倭人伝」には「倭にいたるには・・その北岸狗邪韓国に至るまで7千里」とあり、〝その″は、明らかに「倭」を指している。

つまり「倭の北岸にある狗邪韓国」と読むのが素直な読み方だと思うのですが、歴史学者はそうは読まない。 


〇長浜 

縄文時代からの状況と考えあわせれば、3世紀の中国人が「狗邪韓国」を「倭」が支配している国と認識していたのは間違いないと思います。

朝鮮の正史「三国史記」には、「辰韓の習俗は「倭」に近く、ときどき文身(入れ墨)する者がいる」と書かれています。

出土品から半島南部と九州の文化が共通していること、DNA鑑定ではほぼ同じ型を持っていることもわかっています。 


●室谷 

日朝の文化交流という以上に、日本から進出している度合いが大きいのですね。



〇長浜 

ところで、韓国から「前方後円墳」が出土しています。

韓国では、当初は「ほら見ろ、日本の古墳は韓国由来だ」として、はにわなども博物館に陳列していたのです。

ところが、日本の3世紀のものより時代が下がった5~6世紀のものと分かって、撤去してしまいました。 


●室谷 

さらには「前方後円墳」を、ブルドーザーで削って円墳にしてしまった。

韓国の歴史学者は、ブルドーザーも運転できないといけない(笑) 


〇長浜 

今でもどんどん壊しています。
 

●室谷 

新羅の第4代王・「脱解(タレ)」は倭種(日本系)でしたね? 


〇長浜 

朝鮮の正史「三国史記」には、「脱解(タレ)が倭国の東北1千里から来た」と書かれています。

わたしは「邪馬台国・北部九州説」ですから、「脱解(タレ)」は但馬のあたりから新羅へ漂着した、と考えています。 


●室谷

新羅の倭種(日本系)の王権は、「脱解(タレ)」一人では終わっていません。

第9代から第12代、第14代から第16代の王は、「脱解(タレ)」の子孫ですね。


縄文・弥生時代の話に戻りますが、最近まで九州で人骨が出ると、

「朝鮮半島南部の骨と似ている。やはり渡来人は来ていた」という話になっていた。 


〇長浜 

マスメディアまでも加担して作られた既成概念は、なかなか打ち崩せないですね。

釜山近郊の「礼安里古墳群」から、4~7世紀の人骨が発見されました。

この人骨の形態人類学的な分析の結果、現在の韓国人とは全く違う数値が出ました。

むしろ同時代の北部九州、山口地方に近いものだったんです。

このことからも、日本人の半島進出が裏付けられると思います。
 


●室谷 

長浜さんは、「稲作」について、考古学者と論争したそうですね? 


〇長浜 

稲の伝来について、論争しました。

定説では、「中国南部で始まった水稲耕作が、朝鮮半島を経由して日本に伝来した」ことになっています。

ところが稲づくりには、畑作もある。

考古学者は、水田がなければ稲が作れないと思っています。

「縄文人」が畑作または焼き畑で稲を作っていたことを、植物遺伝学者の佐藤洋一郎氏らが主張しておられます。 

●室谷
 
歴史学者では、分子生物学を認めない人もいますが。。 


〇長浜 

論拠は、分子生物学的成果だけではありません。

稲には、ガラス質でおおわれた、特有の形をした細胞があります。

プラントオパールと呼ばれるこの物質は強靭で、稲が腐食しても焼かれても残留します。

これが「縄文稲作」の証拠で、日本全国の「縄文遺跡」からみつかっています。

2005年には岡山県で、大量のプラントオパールがみつかりました。 


●室谷 

朝鮮半島からは、3000年前のプラントオパールが出ていますが、たったの1粒です。 


〇長浜 

「縄文遺跡」からみつかる稲は、「熱帯ジャポニカ米」という稲で、中国大陸にはない種類のものです。

つまり「日本人の祖先は、稲を携えて黒潮に乗って日本にやって来た」、と考えるのが妥当です。


●室谷 

柳田国男が「海上の道」で主張した、「黒潮渡来」そのものですね。

弥生時代に渡来した水稲(=温帯ジャポニカ)はいかがでしょう? 


〇長浜 

1980年に佐賀県の唐津で、紀元前10世紀の畦畔を伴った水田遺跡が発見されています。

水田稲作も、「縄文人」が始めていたのです。

実は、「温帯ジャポニカ米」がいつ、どこで生まれたのか、分かっていません。

1万年以上の稲作の歴史を持つ日本で生まれた可能性も、否定できません。

弥生時代になっても、縄文時代以来の「熱帯ジャポニカ米」は受け継がれ、「熱帯ジャポニカ米」と「温帯ジャポニカ米」の自然交配によって、「早生品種」ができたと考えられます。

つまり水田が広がる農村風景は、近世になって現れたのです。 


●室谷 

ここまでお話を伺って、しがらみに縛られずに、定説をくつがえす、在野の調査・研究の重要性を改めて感じます。

今の学者の見解は、戦後生まれの見解です。

「皇国史観の否定」からスタートし、さらに韓国・朝鮮人の歴史観におもねるような動きが今も続いています。 


〇長浜 

大学の先生たちは、教職追放と検閲に脅かされましたからね。

日本の歴史を肯定的に書く人々はすべて追放され、検閲に引っかかると、沖縄での3年間の重労働が待っていた。 


●室谷 

「「皇国史観」からの離脱を誓ったはずなのに、反動的なことを書いている」と、在日朝鮮人系の学者に批判された歴史学者もいます。 


〇長浜 

古代史は日本人のルーツにかかわる大事な問題なのに、「歴史隠ぺい」に近いことが行われていると感じます。 


●室谷 

韓国では、正史である「三国史記」を歴史資料にしません。

彼らにとって不都合なことが、多々出てきますからね。

「三国遺事」は資料にしていますが。。 


〇長浜

「天皇は渡来人だった」という韓国人の主張の根拠は、日本、中国、朝鮮半島の文献に出てきませんが、「新羅の王族が日本出身だった」ということは「三国史記」に出てきます。 


●室谷 

韓国には、歴史学者以外で漢字を読める人がいなくなっているから、人々はこのことに気づきません。

学者は右派民族主義学閥を気にして、定説と違うことをうかつに言えない。 


〇長浜 

戦後、日本は「古事記」・「日本書紀」を否定するところから始めましたが、韓国は大事な自国の正史を否定しました。

その上で、歴史ねつ造に近いことをやって、我々に提示しようとします。 


●室谷 

自説に都合のいい情報だけを提示しようとする傾向は、日本も変わりませんね。 


〇長浜 

痛感しています。

先人が残してくれた日本の文献、中国の史書、朝鮮の正史を、虚心坦懐に読むことが基本だと思います。

イデオロギー先行の歴史観、都合のよい情報だけを拾う姿勢が問題です。

まず自国の健全な歴史認識を確立することから始めたいですね。

          (引用ここまで・写真(下)は同誌より高句麗王の「広開土王碑」)

            *****


wikipedia「櫛文土器時代」より

櫛目文土器時代(くしめもんどきじだい)または櫛文土器時代(せつもんどきじだい)とは朝鮮の考古学的な時代区分で、紀元前8000年から1500年の頃に及ぶ。

前期から中期にかけての土器に櫛の歯のようなもので模様がつけられたこと(櫛目文土器)から命名されている。

土器が作られ始めた時代で、朝鮮における新石器時代ともされるが、日本の縄文時代と同様、農業はまだ小規模で、狩猟や採集が中心であった。

櫛目文土器文化のあとには、北方に起源を持つと思われる大規模な農耕を伴う無文土器文化が広まる。


コトバンク 「東三洞貝塚」より

韓国釜山影島の東岸にある貝塚。

朝鮮南部における新石器時代の代表的貝塚である。

第2次世界大戦前から多くの人によって調査された。

櫛目文土器に属するいくつかの型式の土器が出土するが,その編年についてはまったく逆の2つの考え方がある。

1970年の調査では,日本の縄文土器の出土が報告されている。

                ・・・


本の見出し文が、週刊誌のようにけばけばしいので、ちょっとためらわれるのですが、室谷氏が、前回までの考えを、別の研究者と共有している対談の部分を、ご紹介しようと思いました。

たしかに、「任那」「対馬」「古代日本の歴史」、どれをとっても、日本の歴史学者たちは、著者たちが言うように、日本の資料をあまりにも恣意的に用いないという傾向はあると思いました。

わたしとしては、大和朝廷が成立する前も、してからも、朝鮮半島との交流抜きに日本の歴史は考えられない、という気持ちがいっそう強くなりました。


ブログ内関連記事

「新羅と日本(1)・・スサノオノミコトはどこから来たのか?」(5)まであり

「北陸の白山信仰(1)・・菊理(きくり)ひめとはだれなのか?」(4)まであり

「聖徳太子と朝鮮半島・・聖徳太子(1)」(3)まであり


「白=新羅・・荒俣宏の〝白いサルタヒコ論(3)」

「朝鮮と古代日本(1)・・済州島をめぐる考察」(6)まであり

「新羅と日本(5)・・アメノヒボコと、角がある人(ツヌガアラシト)の渡来」

「日本の不思議」カテゴリー全般
「アジア」カテゴリー全般
「弥勒」カテゴリー全般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦後の朝鮮史観を、見直すべきだ・・「日韓がタブーにする半島の話」室谷克実氏(4・終)

2017-05-20 | アジア



古代の朝鮮半島について学びたいと思い、室谷克実氏の「日韓がタブーにする半島の歴史」を読んでみました。続きです。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

この本をどう読むかは、それぞれの方のお考えによると思いますが、わたしは、どちらが偉いかということでは読んでいません。

朝鮮半島と日本は古来から深いかかわりを持ってきたという、当ブログでも今までたくさん取り上げてきたテーマの一環として、一つの資料としてご紹介したいと思います。

           *****

         (引用ここから)


「半島と列島の神話は本当によく似ている」と最近しばしば言われる。

たとえば、「朝鮮民族の最初の人は〝天神の孫″で、〝三種の神器″を持って〝高い山の頂に降臨″してくるのだよ。

どう考えても歴史はむこうの方が古いのだから、日本の神話は朝鮮民族の神話を盗んだのだろう」。

あるいは、「いや、そもそも同じ民族だったから、本質的に同じ神話を持っているのではないか?」などなど。


この〝朝鮮民族の神話″とは、「檀君神話」を指している。

全文は、漢字で書かれており、400字程度しかない。

「三国遺事」に記された「檀君神話」から、私なりの訳文を示そう。

             ・・・

「魏書」によると、「今から2000年前に檀君・王倹が現れて、 阿斯達(無葉山・白岳。白州、あるいは開城の東にあるという。今の白岳宮のこと)を都とし、国を開いて「朝鮮」と呼んだ」という。

高(=中国の古代伝説に出てくる五帝の一人である「堯」のこと)と同じ時代だ。


「古記」によると、昔、桓因(帝釈(天帝)ともいう)の庶子である桓雄は、しばしば天下に思いをめぐらしては、人間社会を非常に欲しがっていた。

父は子の心を知り、3つの高い山の一つである太伯山を見下ろし、「人間に益を広めるべし」と結論した。


そこで父は桓雄に〝天符印″3個を授け、人間社会を治めに行かせた。

桓雄は、歩兵3000人を率いて、山頂(すなわち太伯山、今の妙香山)の神檀樹の下に降りた。

ここを神市と言い、これが桓雄天王だ。

風の神・雨の神・雲の神を率いて、穀物、命、病、刑、善、悪など、およそ人間の360あまりのことを司り、人間を教化した。


ときに一頭の熊と、一頭の虎が、同じ穴に住んでいて、人になることを願い、桓雄に向かって常に祈っていた。

ある時、桓雄は、霊験あらたかなヨモギ一束とニンニク20個を与え、

「おまえ達がこれを食べ、日光を100日見なければ、人の形になれるだろう」と言った。

熊と虎はこれを食べ、忌むこと21日で、熊は女身になった。

虎は忌むことができず、人身になれなかった。

しかし熊女と結婚する者はなく、熊女は檀樹の下に来ては、はらむことを願った。

そこで、桓雄が人に化けて熊女と結婚し、女は子を産んだ。

それが「檀君・王倹」だ。


「檀君」は、唐高(堯)の即位から50年の庚虎(かのえとら)に、平壌京(今の西京=平壌)を都とし、初めて「朝鮮」と称した。

やがて都を、白岳山の阿斯達へと移した。

その国は1500年続いたという。

周の虎王(武王)が即位し、殷王の親族にあたる賢者を朝鮮の支配者に任ずると、檀君は蔵唐京に移り、後には阿斯達に隠れ戻り、山神になった。

没した時は1908才だった。

           ・・・

これが「檀君神話」である。

しかし、「檀君神話」が盛られている「古記」という史書は、原典が伝わっていない。

実は、それが一般名詞なのか固有名詞なのかすらも分からないのだ。

この話が、「日本の天孫降臨神話の原型」と言われているのだが、どう考えるべきだろうか?



「三国遺事」には、もう一つの「日本神話の原型」と言われることもある「金首露(きんしゅろ)の降臨神話」も収められている。

その内容を以下に記す。

               ・・・


開闢以来、この地には国の名称がなく、君主の呼び名もなかった。

後漢の世祖・光武帝の建武18年、「亀旨(クチ)」と呼ばれる村の北側の峰に、怪しげな声がした。

声は聞こえるが、姿は見えない。

その声は、「ここに人がいるか?」と聞く。

村の長が「おります」と答えると、「ここはどこなのか?」と聞く。

「亀旨です」と答えると、

声は「皇天が私に言いつけて、ここに来させ、国を新しく建て、私に君主になれと言われたので降りてきた」、と言う。

「峰の頂上の土を掘りながら、

〝亀よ、亀よ、頭出せ、出さずんば焼いて食べるぞ″

と歌い踊れば、大王を迎えることになる」と言った。


皆がそうすると、天から紫色の紐が垂れてきた。

紐の端には、赤い風呂敷があり、中に黄金の「卵」が6つ入っていた。

それを家に持ち帰り、翌朝大勢の者が集まり、見ると、6つの「卵」が6人の男の子になっていた。

はじめに現れた男の子を首露(しゅろ)といい、大駕洛、あるいは「伽耶国」の君主となり、残りの5人もそれぞれ五伽耶の主となった。

               ・・・

これを日本の「天孫降臨神話」の原型と考えるべきなのか?


親韓派の古代史マニアたちがしばしば語る「日韓神話の酷似性」とは、「檀君神話」と「金首露神話」を混同、かつ歪曲して、こんなふうに語る。

                ・・

朝鮮の神話でも、天孫は日本の神話と同様に、高い峰の上に降臨してくる。

しかも「三種の神器」まで持って降臨する。


そして、降り立った所は「クジ」の峰という。

瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が降り立った「クシフル」の峰と、あまりにも似すぎている。

九州と、対岸の韓国釜山市周辺には、ほとんど同じ神話があるのだ。

ゆえに、日本の神話は、韓国から来たものだ。

                 ・・


「新羅の4代目の王は、列島から流れて行った人間だ」。

実はこれは、日本で近代的な朝鮮史研究が始まるや、すぐに指摘された説だ。

明治時代の研究者の多くは「三国史記」を読み始めるや、「ここに出てくる「脱解(タレ)」とは倭人だ」と思った。

しかしどの研究者も「多婆那(たばな)国」を熊本県玉名(たまな)市、但馬(たじま)国あるいは丹波(たんば)国に比定した程度で、深入りしなかった。

「脱解(タレ)」以降の倭人王については、考察された形跡がほとんどない。



中国の正史「隋書・倭国伝」にある、「新羅も百済も、倭国を大国として認めている。すぐれた品々が多いためで、新羅も百済も倭国を敬仰し、常に使節が往来している」という記述は、なぜ朝鮮史学者に無視されてきたのだろうか?

想像するに、この記述を史実と認めたら、戦後日本の朝鮮史学界が一貫して保ってきた「自虐的日韓関係史観」=「和人はほとんどあらゆることを半島の民から学んできた」と始まる史観(天皇の「お言葉=わたしの祖先はあなた方の国の人だと聞いています)」に象徴される対半島観)が土台から崩壊してしまうからだろう。

黒岩重吾は、「戦後、皇国史観を排除するために、〝日本よりも朝鮮半島の方がすべて優れている″という説が流行りました。

ぼくも20年前頃は、そんな風に考えた。

「任那」という言葉を口にするのさえ、帝国史観と非難され、はばかられるような雰囲気でした。」と述懐している。


隣国との関係史は、隣国を知る上でも、自国を知る上でも重要だ。

それが大声を出す暴力的な集団の圧力や、隣国との政治的妥協や配慮、あるいは研究者の自虐的な嗜好などによって歪められることがあってはならない。

             (引用ここまで)

               *****

「檀君神話」と「金首露神話」のオリジナルからの訳文を読むことができたことは、収穫でした。

これらの神話の研究を客観的にすることは、意味があることだと思いますので、他の本も読んでみたいと思います。

しかし、「檀君神話」が、南北両朝鮮で、国定教科書に自国の史実として記されている、というウィキペディアの記述には、びっくりしました。

日本が「記紀神話」を、日本史の資料として、極力重視しないのに比べて、神話を史実として、教科書に載せて、子供たちに教育するというのは。。

wikipedia「檀君朝鮮」


著者は本書の中で、「金首露」という王も、倭人であるだろうと述べています。

著者の、朝鮮の古書の分析からすれば、当然の帰結と言えます。

結局どうなのか、、いろいろな資料を今までより身近に理解できるようになったので、もう少しこのテーマを続けたいと思います。


ブログ内関連記事

「新羅と日本(1)・・スサノオノミコトはどこから来たのか?」(5)まであり

「北陸の白山信仰(1)・・菊理(きくり)ひめとはだれなのか?」(4)まであり

「聖徳太子と朝鮮半島・・聖徳太子(1)」(3)まであり


「白=新羅・・荒俣宏の〝白いサルタヒコ論(3)」

「朝鮮と古代日本(1)・・済州島をめぐる考察」(6)まであり

「ホピの祭り・ヤヤ祭(1)・・アニマルピープルと人間」(3)まであり

「アジア」カテゴリー全般
「日本の不思議」カテゴリー全般
「弥勒」カテゴリー全般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国文明を日本に伝えたのは半島にいた日本人たちだった・・「日韓がタブーにする半島の話」室谷克実氏(3)

2017-05-16 | アジア


古代の朝鮮半島について学びたいと思い、室谷克実氏の「日韓がタブーにする半島の歴史」を読んでみました。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

この本をどう読むかは、それぞれの方のお考えによると思いますが、わたしは、どちらが偉いかということでは読んでいません。

朝鮮半島と日本は古来から深いかかわりを持ってきたという、当ブログでも今までたくさん取り上げてきたテーマの一環として、一つの資料としてご紹介したいと思います。

           *****

         (引用ここから)

半島の西南端にあたる栄山江地域に、十数基の前方後円墳があることに着目すべきだ。

これらが発見されたとき、韓国のマスコミは「日本独特の墓制とされてきた前方後円墳も韓国が起源だったことが明らかになった」と報じた。

しかしその後の調査で、その地の古墳は5~6世紀の築造と明らかになった。

日本の前方後円墳は、3世紀には出現している。

つまり5~6世紀の半島最西南部には、100メートル近い墓を作る倭人の強力な勢力があった。


「後漢・韓伝」は、馬韓の領域について、「その北は楽浪郡と、南は倭と接する」と書いている。

後漢の時代には、すでに倭人が支配する領域だった、と言っているのだ。

倭国も新羅も、3世紀後半までには盆地国家を次々と勢力圏におさめ、両者の勢力圏が接した。

そうでなければ、倭国勢力と新羅の本格的対峙は起こりようもない。



「新羅本記」の前半部分には、倭人「脱解(タレ)」の子孫である倭人の王が次々に出てくる一方で、倭国に攻め込まれる記述がすこぶる多い。

倭の軍兵とは、倭人だけの部隊だったとは想定しがたい。

指揮官は倭人だっただろうが、弁韓にいた韓族、ツングース族が、純粋倭人よりずっと多かったはずだ。

闘いは、倭の侵攻から始まる。

新羅は、攻め込まれる側だ。

そして王都どころか、「王城が、何日も倭兵に包囲された」との記述も、複数個所ある。

異民族主導の兵隊が、首都の防衛線を破って侵入し、王城を包囲する。

これは、一国にとって大変な事態だ。

5世紀半ばの時代まで、倭の軍勢は、よほど強かったのだ。



半島の倭兵は、なぜこうも強かったのだろうか?

古来、武器と指揮系統を持つ軍団同士の長期的な戦いは、文明力の差により決まってきた。

「新羅本記」が描く3世紀後半からの倭の圧倒的攻勢も、文明力の違いによったと見るのがすなおな解釈ではないのか?


1世紀半ばには、倭国は漢・楽浪郡と直接のつながりがあった。

楽浪郡の遺跡からは、贅を尽くした品々が出土するが、それが韓族の領域に広く流れ出ることはなかった。

特に、新羅の場合は楽浪郡との間にツングース族の居住地域があったから、楽浪郡と新羅はほとんど交渉がなかった。

となると、倭人は韓族から何を習ったのだろうか?


「中華文明は半島を通して列島に入ってきた」と言われる。

〝日本の常識″だ。

しかし、半島南部に倭人が確固たる地歩を築いていて、韓族を後目に早々と漢と直につながっていた。

であれば、「中華文明を列島本国へ伝えたのは、韓族ではなく、半島にいた倭人だった」と見る方が自然だ。


では、漢字や寺院の建設技術はどうだろうか?

「記紀」が伝えているのは、大和朝廷に対する公式伝達のことだろう。

1世紀に漢と交渉をした倭人が、文字を見なかったはずはない。

卑弥呼が漢字を読めなかったなら、魏の皇帝の「みことのり」を持参することも意味をなさない。

「隋書・倭人伝」の「倭国に文字なし」とは、固有の文字のことではないのか?

そもそも、「隋書」が伝える「倭王」とは、阿蘇山の近くにいた。

卑弥呼と同じ王朝なのだろうか?


では、寺院建設の技術はどうなのか?

半島の古刹を初めて見た日本人は、その柱のゆがみの醜さに仰天する。

地震がある国では、とてももたない。

日本の大工分野の技術用語にも、韓語の面影は発見できまい。


列島(おそらく九州)にいた倭王には、狗邪韓国などの「弁韓」諸国も、新羅など「辰韓」諸国も、韓族と倭人、さらにツングース系、中国系流民などが雑居しながら混血が進むという点で、同じような国々としか見えなかったことだろう。

そうした中で、新羅が他国と違う点は、領域が広く、早い時代から倭種が王位にいるのに、しぶとく屈服しないことだったろう。

しかし4世紀後半になると、北方から高句麗が新羅を本格的に攻撃してくる。

新羅は、高句麗に人質を送る。

そして高句麗から戻った人質が、王位につく。

「新羅本記」は、漠たる筆致で描いているが、「三国遺事」は「新羅にいた高句麗軍兵がその王を殺し、新名王をたてた」と明確に記している。

つまり、この一時期、新羅は高句麗の属国になっていたのだ。

その間も南方からは倭国の進撃が続いて、ついには高句麗と倭国の勢力圏が新羅の王都で接した。

そうした状況を生々しく伝えてくれるのが「広開土王の碑文」(高句麗19代王=在位391~412年)だ。


「高句麗の大群に追われた倭兵は、半島南部の本拠地である「任那加羅」に向けて敗走する。

しかし深追いした高句麗軍の脇腹を、「安羅」の軍兵が突いてきた。

そして「安羅」軍が、慶州を占領してしまった。

圧倒的な勢いの高句麗軍と、遁走する倭兵。

「安羅(今日の韓国ハマン郡)」が、倭国に屈服させられた単なる属国=韓族の国だったなら、これは倭の支配を脱する絶好の機会だったはずだ。

ところが「安羅」は、この戦いでは全く分の無い倭国を、積極的に助ける軍事行動に出た。

「安羅」もまた、明らかな倭種の国だったからだ。


「新羅本記・477年の条」には、「倭人が挙兵し、五道から攻めてきた」とある。

その一つは「任那街道」と呼ばれていた。

半島東南部で、倭人がどんな拠点を占め、どんな指揮系統が機能していたならば、五道から同時に新羅に侵攻するようなことができたであろうか?(=相当な組織力を持っていたと考えられる)。

         (引用ここまで)

           *****


wikipedia「好太王碑(広開土王碑)」より

好太王碑(こうたいおうひ)は、高句麗の第19代の王である好太王(広開土王)の業績を称えた中国に存在する石碑である。

広開土王碑(こうかいどおうひ)とも言われ、4世紀末から5世紀初の朝鮮半島の歴史・古代日朝関係史を知る上での貴重な一次史料である。


この碑は好太王の業績を称えるために子の長寿王が建てたもので、碑文には「甲寅年九月廿九日乙酉」(西暦414年10月28日)に建てたとある。

好太王碑は現在の吉林省集安市の好太王陵の近くに位置している。

高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の石碑で、その四面に計1802文字が刻まれ、碑文は純粋な漢文での記述となっているが、風化によって判読不能な箇所もある。

●日本と碑文

碑文は三段から構成され、一段目は朱蒙による高句麗の開国伝承・建碑の由来、二段目に好太王の業績、三段目に好太王の墓を守る「守墓人烟戸」の規定が記されている。

そのうち、倭に関する記述としては、いわゆる辛卯年条(後述)の他に、以下がある。

             ・・・

399年、百済は先年の誓いを破って倭と和通した。

そこで王は百済を討つため平壌に出向いた。

ちょうどそのとき新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。

400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。

新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。

ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。

404年、倭が帯方地方(現在の黄海道地方)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。

           ・・・

『三国史記』の新羅紀では、「実聖王元年(402年)に倭国と通好す。奈勿王子未斯欣を質となす」と新羅が倭へ人質を送っていた記録等があり、他の史料と碑文の内容がほぼ一致している。

碑文では、高句麗と隣接する国・民族はほぼ一度しか出てこず、遠く離れた倭が何度も出てくることから、倭国と高句麗の「17年戦争」と称する研究者も存在している。

その一方で、韓国などには高句麗が百済征伐のために倭を「トリックスター」として用いただけであると主張する研究者も存在している。

倭の古代朝鮮半島における戦闘等の活動は、日本の史書『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』、朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』、中国側の史書『宋書』においても記録されている。

また、2011年に発見された職貢図新羅題記にも「或屬倭(或る時は倭に属していた)」という記述があり、議論を呼ぶだろうとした。

               ・・・・・

ブログ内関連記事

「新羅と日本(1)・・スサノオノミコトはどこから来たのか?」(5)まであり

「北陸の白山信仰(1)・・菊理(きくり)ひめとはだれなのか?」(4)まであり

「聖徳太子と朝鮮半島・・聖徳太子(1)」(3)まであり


「白=新羅・・荒俣宏の〝白いサルタヒコ論(3)」

「朝鮮と古代日本(1)・・済州島をめぐる考察」(6)まであり

「新羅と日本(5)・・アメノヒボコと、角がある人(ツヌガアラシト)の渡来」


「アジア」カテゴリー全般
「日本の不思議」カテゴリー全般
「弥勒」カテゴリー全般
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代東アジア世界の感覚を取り戻そう・・「日韓がタブーにする半島の話」室谷克実氏(2)

2017-05-12 | アジア



朝鮮半島の歴史を知りたくて、室谷克実氏の「日韓がタブーにする半島の歴史」という本を読んでみました。続きです。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

この本から何を読み取るかは各自の判断だと思いますが、わたしは、日韓どちらが偉いという視点ではなく、日本と朝鮮半島の人々は古来から交流を持ち、深いえにしを持つ間柄であるということを検証したく、その一資料として読みました。
            

             *****

           (引用ここから)


倭人「脱解(タレ)」が新羅で4代目の王につき、その下で倭人が総理大臣になった。

そうした体制を成り立たせたマクロな状況は、その時代の新羅には、少ない比率ではあれ、倭人が韓族、ツングース系族、中国系流民と共に住んでいて、民族間に先鋭な対立がなかったことだろう。

「日本書紀」だけ見ていると、新羅と倭国は敵対的な関係にあり、新羅に倭人が住んでいたとはとても思えないかもしれない。

しかし考古学者は、半島南部に限らず、新羅地域にも倭式の墳墓があり、古代から倭人が住んでいた、とする。

掘り出せば倭式の墳墓とわかるのだから、被葬者が高い地位にいたことは明らかだ。



つまり、「任那(みまな)」と呼ばれた地域ほどではないにしても、新羅にも倭人が住んでいた。

しかも民族間に、先鋭な対立はなかった。

そういう状況だったからこそ、海を渡って来た(=おそらく逃げてきた)倭人も、才があれば重用された。

漂着した和人が賢者だったから、王は娘を嫁がせたのだ。



「新羅本記」には、紀元前50年に、倭勢力の、最初の新羅への出兵記事がある。

2回目の出兵は、紀元14年だ。

そして次の倭国関連記事が、「脱解3年=紀元59年、新羅は倭国と国交をむすび、使者を交換した」となる。


着目すべきは、「後漢書・東夷伝」にある、「倭の那の国が朝見したその国は、倭国の極南界にあり、光武帝は印象を賜った」とする記事だ。

「倭の使節が、57年に漢本土、あるいは平城に首都があった楽浪郡(漢の直轄地)を訪問して、光武帝から印綬(印とそのセットになっている組みひも)を授かった」というのだ。

その「印」とは、福岡市の志賀島から出土した「漢の委の奴の国王印「金印)」のことだ。


倭人の国が、すでに1世紀なかばに、中国と正式な外交関係を持った、という事実が重要だ。

「三国志・韓伝」に突如として国名が出てくる新羅や百済にしても、一夜にして国が成り立ったわけではない。

〝長い歴史の尾"を持つはずだ。


列島から見れば、漢本土にせよ、楽浪郡にせよ、新羅よりはるかに遠い。

より近い新羅との間で、西暦59年に国交が結ばれたとしても何ら不思議ではない。


「古事記」も「日本書紀」も、基本的には「 近畿王朝の史書」である。

倭国と新羅の国交の記事が載っていなくても、不思議ではない。

当初の倭国とは、「倭の奴の国」プラス「半島にある分国」を指していたのだ。


脱解(タレ)王と瓢公の倭・倭コンビは、新羅の末代、いや「新羅本記」の記述上は高麗王室にまで通じる功績を挙げている。

「金王室」の始祖となる赤ん坊を王族として育てたことだ。

脱解9年(西暦65年)、脱解(タレ)は夜、林の中で鶏が鳴く声を聞いた。

朝になり、調べさせると、金の小さな櫃(ひつ)が木の枝に引っかかっていて、その中に小さな男の子がいた。

脱解(タレ)は、「天が世継ぎを下さった」と大喜びをする。


朝鮮半島や北方の始祖神話には、「卵生神話」が少なくない。

しかし「新羅本記」が伝えている脱解(タレ)の子の話は、「金の小櫃」に入っていたとはいえ、「降臨神話」でもなければ「卵生神話」でもない。

素直に読めば、「拾い子説話」だ。

わたしは、脱解(タレ)の「隠し子」だと思う。

この時代、捨て子や拾い子は珍しくなかったはずだ。

血筋を重んじる新羅で、ただの拾い子を王族として育てることなど有り得ない。

「隠し子」を権威づけて、王室に引き入れるために小細工をしたのだろう。

瓢公に見つけられた男の子は、金の櫃(ひつ)に入っていたので、姓を「金」とする。

名は開智とする。

そしてこの「金」一族が、新羅の王位を長く独占する。


「隋書・新羅伝」にある。

「その王はそもそも百済人だった。

海から新羅に逃げ込み、やがて王になった」。


これは新羅の「金」王室に関する記事だ。

その一族は、百済から船で新羅に逃げて来て、そこで勢力を築き上げ、ついには王位に着いた、というのだ。

その一族の娘と脱解(タレ)が私通して生まれたのが金開智だった、と理解した方が納得がいくと思う。


脱解(タレ)の息子・金開智について、「三国遺事」は以下のように記している。

「瓢公が夜、林の中で大きな光を見た。

紫雲が天から垂れ下がり、雲の中には黄金の櫃(ひつ)があり、木の枝にひっかかった。

櫃(ひつ)は、光を発していた。

王に知らせ、王が櫃(ひつ)を開けてみると、男の子がいた」。


天から降りてきた、という点では、「降臨神話」と言える。

しかし、「卵から産まれた」とは書かれていない。

新羅・金王室の始祖である金開智は、倭種・脱解(タレ)の隠し子であることが強く示唆されており、

新羅の建国初期には倭人が王位や大臣を占めるほど多大な役割を演じたばかりか、倭・倭コンビがいなかったなら、金王室も有り得なかったことを伝えているのだ。




韓国人の多くは、今でも「我々の祖先が倭人に稲作を教えた」と信じている。

農業に力を入れよと指導した王は、「新羅本記」にも「百済本記」にもみられる。

しかし農業に特定したような紹介記事や農業専門家の記載はない。

「百済本記」には、西暦33年に「稲」の字が初出する。

しかしそれは「王は国の南部の州郡に命じて、初めて〝稲田″を作らせた」との記事だ。

〝稲田″とは、陸稲のための畑である。

中国、半島とも、漢字の「田」は日本の「畑」を意味する。

しかし、農業・食料に関して言えば、「百済本記」で目立つのはむしろ飢饉の記事の方だ。


「三国志・高句麗伝」には次のようにある。

「その地はやせていて、その民はよく働くが、腹を満たすことは到底できない。

それで民は、常日頃食事も満足にとれないが、王室はそんな事にはお構い無く、宮殿を飾り立てることに熱心だ」。

高句麗とは、今日の北朝鮮から中国吉林省にかけてあった古代国家だ。

いうならば北朝鮮の前身だ。



一方、列島では、3500年前、縄文後期には確実に稲作をしていた。

稲の単位面積あたりの収穫量は、大麦、小麦、ひえ、あわなどの追随を許さない。

大人口を支えやすいわけで、文化力のいしずえになる。

日本の稲作の始まりはさらに古く、5000年前の縄文中期の遺跡からも米粒が出土している。

その中には朝鮮半島に存在しない品種がある。

同じく5000年前の青森県・三内丸山遺跡では、すでに栗やヒョウタンが人工栽培されていたことがDNA解析により確認されている。

DNA解析が示す科学的事実。そして「三国史記」に示されている半島内部の農業史、さらに中国史書を合わせて読めば、

新羅人、百済人、あるいは高句麗人は、とても倭人に稲作・米作りを伝授したり、農業を指導したりするような立場ではなかった、と判断するのが妥当なのではないか?


〝韓族が倭人に、稲作をはじめとする農業を教えた″のなら、日本の農業関係用語には韓語に似た語彙がたくさんあってしかるべきだが、私が知る限り全く存在しない。


古代新羅にも倭人が住んでおり、その南にある任那と呼ばれる地域には、より高い比率で倭人が住んでいたことは確実だ。

それは「三国志・韓伝」からも「三国史記」からも読み取れる。

「三国志」には、「韓族、ツングース族、倭人がほしいままに鉄鉱石を採っている」とある。


「三国志・韓伝」の書き出しは、次のように書かれる。

「韓は、帯方郡(ソウルを中心とする地域)の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接し、四方は各四千里ばかりだ」。

それに続く「魏志倭人伝」は、「女王国」に至る行程を次のように書き進めている。

「郡より倭に至るには、海岸にしたがって水行し、韓国を経て、あるいは南し、あるいは東し、その北岸「狗邪韓国(くやはんぐう)」に到着するまで七千里。

はじめて海を渡ること千余里、対馬国に至る」。

これは「倭人伝」なのだから、すなおに読めば、〝その北岸の狗邪韓国″の〝その″とは倭のことだ。

韓族が主体の国家のことなら、南岸でなければならない。

明らかなことは、「狗邪韓国」と号する国家を、3世紀後半の中国人は一国と数えると同時に、「倭国に属する国」と認識していた事実だ。

倭国に属する国、、支配者は倭人であり、住民にも倭人がたくさんいたのだ。


「三国志・韓伝」はこうも述べている。

弁韓は雑居し、そのトンノ国は倭と界を接している。


トンノ国とは、今日の釜山市西域とみられている。

狗邪韓国は、今日の金海市だ。


中国の正史で、6世紀前半の状況を記している本にも、同じ記述がある。

すなわち、「弁韓」という長い海岸線を有する地域ではなく、その中の特定国をあげて「与倭接界」としている。


「新羅本記」には、「倭兵が海岸に侵入した」との記事が多数ある。

この倭人たちは、どこに住んでいたのだろう?

「倭人がしばしば侵入するので、縁辺に二城を築かせた」という記事もある。

朝鮮半島で言う「城」とは、山城を意味する。

となると、船で侵入して来るのではなく、山城で防ぐべき「倭」とは、どこにいたのか?

「新羅本記」は、新羅より南方、つまり広義の任那にいた勢力をすべて「倭人」と表記しているのだ。

しかし、そこには韓族もツングース族もいた。

それなのに「新羅本記」が、新羅より南方を一貫して倭地として扱っているのは、そこでは倭人が政治の主導権を握っていたから、と見る他あるまい。

ところが、「王が「百済と結び、海を渡って倭を撃とう」、「倭が対馬に軍営を置き、兵俵を蓄えて準備しているので、そこを討とう」と提議する」話などが出てくる。

何の不思議もない。

倭の勢力は、半島内では新羅の南方を占めていたが、その本拠は海を渡った南側にあった。

これが「古代東アジア」の常識だったのだ。


新羅より南の地域は倭であり、その本拠は海を越えた九州にある。

この「古代地勢図」を認めないと、倭国勢力による新羅攻撃がいかにも不可解なことになる。


          (引用ここまで・写真は当ブログより・麦畑と三内丸山遺跡の立柱)

             *****

ブログ内関連記事

「新羅と日本(1)・・スサノオノミコトはどこから来たのか?」(5)まであり

「北陸の白山信仰(1)・・菊理(きくり)ひめとはだれなのか?」(4)まであり

「聖徳太子と朝鮮半島・・聖徳太子(1)」(3)まであり


「白=新羅・・荒俣宏の〝白いサルタヒコ論(3)」

「朝鮮と古代日本(1)・・済州島をめぐる考察」(6)まであり

「新羅と日本(5)・・アメノヒボコと、角がある人(ツヌガアラシト)の渡来」

「最古の踊るシャーマン?・・三内丸山に人物画」

「禊ぎ祓いと権力・・梅原猛の「古代出雲のなぞを解く(8・終)」

「柱について(その2)縄文時代や魏志倭人伝のころ・・鳥と木と柱」


「アジア」カテゴリー全般
「日本の不思議」カテゴリー全般
「弥勒」カテゴリー全般

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日韓がタブーにする半島の歴史」室谷克実氏(1)・・日本人が新羅の王となったことが韓国の史書に明記されている

2017-05-06 | アジア



朝鮮半島の歴史を知りたいと思い、室谷克実氏著「日韓がタブーにする半島の歴史」を読んでみました。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

この本から何を読み取るかは各自の判断だと思いますが、わたしは、日韓どちらが偉いという視点ではなく、日本と朝鮮半島の人々は古来から交流を持ち、深いえにしを持つ間柄であるということを検証したく、その一資料として読みました。

            *****

          (引用ここから)

「古代、日本列島の倭人は、朝鮮半島の民族から、稲作をはじめとする様々な先進文化を教えられ、国の基礎をつくり発展させてきた」ーーこれは「日本人の常識中の常識」だろう。

韓国人もまた、そう信じて疑わない。

しかし私は今、この常識に異議を唱えたい。


倭人は、半島の民族から様々なことを教えられたどころか、半島に初めて統一国家を築く「新羅」の基礎作りを指導したのは、実は倭人・倭種であり、新羅も百済も、倭国のことを文化大国として敬仰していたのだ。


「そんな馬鹿な」と、日本人も韓国人も言うだろう。

しかし日本でも、韓国でも、今やほとんど読まれることがなくなった半島や中国の古史書をすなおに読んでいくと、浮かび上がってくるのは、常識とはおよそかけ離れた列島と半島の古代関係史の姿なのだ。


たとえば半島に伝わる最古の正史(官選の歴史書)である「三国史記」には、

「列島から流れてきた「脱解(タレ)」という名の賢者が長い間、新羅の国を実質的に取り仕切り、彼が4代目の王位につくと、倭人を総理大臣に任命した」とある。


「その後、「脱解」の子孫からは7人が新羅の王位につき、一方で倭国と戦いながらも新羅の基礎を作っていった」ことが記載されているのだ。

半島の王の命令を受けて書かれた、半島の「正史」に、そうした内容が書いてあるのである。


あるいは、7世紀半ばに完成した中国の正史「隋書」には、次のようにある。

「新羅も百済も、倭国を大国と見ている。

すぐれた品々が多いためで、新羅も百済も倭国を敬仰し、常に使節が往来している」。


「隋書」を編纂していたのは唐の最高の知識人たちであり、倭国ー新羅、倭国ー百済の関係を、このように見ていたのだ。


「三国史記」が出来上がったのは12世紀、高麗王朝の時代だ。

高麗王朝は「伝統ある新羅から禅譲を受けた王朝」という形式を整えつつあった。

そうした高麗王朝にとって、「新羅の基礎は倭人が創った」という危うい話を正史に記載することにどんなメリットがあったのだろうか?(=メリットがあるから記載されたのである)


●「三国史記」とはどんな史書なのか?

朝鮮半島に新羅、高句麗、百済の3つの国があった時期を「三国時代」と呼ぶ。

やがて新羅が半島を統一して、「統一新羅時代」に入る。

しかし新羅の腐敗による統治能力の低下に伴い、半島内では2つの勢力が台頭して、抗争が激化する。

その中から、新羅の国を挙げての帰服により、高麗が半島を統一する。

そこまでが「三国史記」の記述の対象だ。

1143年頃に編纂が開始され、1145年に完成した。



●「三国遺事」は、高麗の名僧・一然が編んだものであり、官選ではない。

完成したのは「三国史記」より百数十年後の1280年代中頃とされている。

半島に残る史書としては、二番目に古い。

「日本神話の原型」と一部の人が主張する「檀君神話」や「金首露神話」も、今日に伝わる原資料は、この「三国遺事」に収録されている。



「三国史記」の第1巻に、列島から流れてきた賢者が2代王の長女を娶り、4代目の王につく話が載っている。

その賢者の姓は「昔」、名は「脱解(タレ)」だ。


「新羅本記」は、「脱解」についての記述に、初代王の生誕説話の倍以上の文字数を費やしている。


「脱解」はそもそも「多婆那国」の生まれだ。

その国は倭国の都から東北1千里にある。


女国から嫁いできた「多婆那国」の王妃は、妊娠して7年目に大きな卵を産んだ。

王は、「人が卵を産むとは不吉である」として、捨てるよう命じた。

そのため王妃は、卵を宝物と共に、櫃(ひつ)に入れて海に流した。

櫃(ひつ)は、最初、金官国に漂着した。

しかし誰も怪しんで取り上げようとせず、次に辰韓の海岸に流れついた。

老婆が櫃を開けてみると、少年がいた。

その時、櫃に従うように、かささぎが飛んでいた。

かささぎは、古来吉鳥とされる。

そこで、かささぎの字の一部をとって「昔」を姓とした。

櫃を開けて取り出したので、名を「解」とした。


この説話により、「脱解(タレ)」という人物は、卵から生まれたとされていて、その生国である「多婆那国」とは「倭国から東北1千里の海岸に面した地にあった」ことが分かる。


漢字文化圏の史書に「〇〇国から〇〇里」とある場合、その起点は〇〇国の首都だ。

当時の倭国の首都が、博多湾周辺にあったのか?、近畿地方にあったのか?

日本史研究者の見解は、二つに分かれている。

九州王朝論者は、博多湾から東北400キロあたりを見ればいい。

近畿王朝論者は、大阪湾あたりから東北400キロの地点を見ればいい。

鳥取県東部から、但馬地方あたりか、あるいは新潟県あたりになる。


「新羅本記」の記述からは、多婆那国が「ここにあった」とは特定できない。

しかし、日本列島の日本海側、因幡継方から新潟県あたりまでの海沿いの地にあったことは確実に読み取れるのだ。

            (引用ここまで・続く)


              *****

この本を手に取り、興味深く読みました。

著者は時事通信社のソウル特派員を長く勤め、現在は、たくさんの著書を手がけておられるようです。

眠っていたような資料を、眠りから起こすように掘り出しているので、とても理解しずらいのですが、ご紹介したいと思いました。


ブログ内関連記事

「新羅と日本(1)・・スサノオノミコトはどこから来たのか?」(5)まであり

「北陸の白山信仰(1)・・菊理(きくり)ひめとはだれなのか?」(4)まであり

「聖徳太子と朝鮮半島・・聖徳太子(1)」(3)まであり


「白=新羅・・荒俣宏の〝白いサルタヒコ論(3)」

「朝鮮と古代日本(1)・・済州島をめぐる考察」(6)まであり


「日本の不思議」カテゴリー全般
「弥勒」カテゴリー全般
「アジア」カテゴリー全般
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トランプさん、ちょっと待って!国を分けるのは悲しすぎる・・(再掲)フォーク・クルセダーズの「イムジン河」

2017-05-01 | アジア
イムジン河 フォーク・クルセイダーズ



最近ニュースに上がらない日はない、朝鮮半島の緊迫状態に、2009年3月15日に当ブログに掲載したこの歌を、もう一度掲載したいと思いました。

「フォーク・クルセイダースの「イムジン河」 2009・03・15

この歌がフォークソングとして作られたのは、1968年だということです。

49年前。。

有名なので、若い頃なんとなくは知っていましたが、「発売されていなかった」とは、知らなかったのです。

今でいう「忖度(そんたく)」がされて、発売にストップがかかってしまったのでしょう。。

            *****

          (再掲 ここから)

            ・・・・・

            (歌詞)

「イムジン河」

イムジン河 水清く とうとうと流る
水鳥 自由に 群がり飛び交うよ
わが祖国 南の地
想いは はるか
イムジン河 水清く
とうとうと 流る

北の大地から 南の空へ
飛び行く鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を 二つに分けてしまったの
誰が祖国を 分けてしまったの

イムジン河 空遠く 虹よ かかっておくれ
河よ 想いを 伝えておくれ
ふるさとを いつまでも 忘れはしない
イムジン河 水清く
とうとうと 流る

作詞 朴世永 作曲 高宗漢 訳詞 松山猛

          
           ・・・・・


イムジン河は、南北朝鮮の境界線38度線に流れる河の名前です。

そして、人気フォークソンググループ「ザ・フォーク・クルセダース」が、同名の曲を1968年に発売しようとして、直前に、発売自粛となった曲の名でもあります。

その時から34年後の、2002年に、同レコードが、CDとして発売されました。

それに際し、メンバーの一人、きたやまおさむさんが書いている文章があります。

2002年刊・松山猛氏著「少年Mのイムジン河」より引用させていただきます 。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

           *****

         (引用ここから)

「イムジン河」が聴こえる・・きたやまおさむ


手に入らず聞くことも許されなかった「あの幻の名曲」が商品になるというのはたしかに事件だろう。

コンピュータで私的に無数の複製を作ることのできる現代ではまれなことだが、当時の音楽は、とくに政治と絡むとほんとうにドラマチックで大きな事件になった。

昨年もまた発売が検討されながら、「それには及ばず」という結論が出て、多くのひとが、やっぱり無理かと落ち込んでいた。

わたしも実際、「生きている間は発売は不可能かな?」と感じたことがあるくらいだ。


にもかかわらず、この曲のことをずっと愛してくれた人たちが無数にいる。

CD発売を、我がことのように喜んでくれる彼や彼女たちは、若いころからこの曲をギターを弾きながら歌えるというのだ。レコードもないのに。。

あの時ラジオやコンサートで数回耳にしただけなのに。。

それだけ熱い思いで耳を傾けたのであろう。

あの時誰が、そしてなぜレコードを発売中止にしたのかという問いは、「誰が半島を分けてしまったのか?」という歌詞と同じくらいに深い。

その複雑な経緯は一言では言えないが、この本を読んでもらえば、背景にあるものを理解できるようになっている。

それにしても、無理して発売しなくてよかったのだと思う。

あの時強行して発売していたら、歌うことすら難しくなっていたかもしれない。


今も目をつむると聴こえてくる。

「皆さん想像してください。
もし大阪と東京の間のどこかで、日本が引き裂かれていたら」

と、司会のわたしが言って、加藤和彦さんのイントロで歌ったわたし達は、20歳だった。

若かった。

時代に対しあまりに早すぎたあの歌詞は、55歳になった今でも、まだ早い。


            (引用ここまで)

             *****

               ・・・

wikipedia「イムジン河」より

イムジン河 (いむじんがわ) は、朝鮮民主主義人民共和国の曲。高宗漢(고종한)作曲、朴世永(박세영)作詞。原題は『臨津江(임진강)』。1957年7月発表


日本語詞のついた『イムジン河』として最もよく知られているのが1968年に「ザ・フォーク・クルセダーズ」が歌ったものである。

臨津江 (リムジン江) で分断された朝鮮半島についての曲であり、主人公は臨津江を渡って南に飛んでゆく鳥を見ながら、「なぜ南の故郷へ帰れないのか?」、「誰が祖国を分断したのか?」を鳥に問いかけ、故郷への想いを募らせる内容である。

もともとは、のちに「フォーク・クルセダーズ」や「サディスティック・ミカ・バンド」の作詞を担当することになる松山猛が、京都での中学時代、朝鮮学校の学生たちと喧嘩に明け暮れていた頃に耳にした曲で、朝鮮学校の生徒からメロディーと歌詞を教えてもらったことがきっかけだった。

松山は後に、「フォーク・クルセダーズ」(当時はまだアマチュア)のメンバーと知り合いになり、加藤和彦に口頭でメロディを伝えた。

それを加藤が採譜したものがこの曲であり、原曲の『臨津江』とは異なる。

発売前に数回ラジオにかけた後に、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定。

結果的に放送自粛的な雰囲気が広がった。

2002年3月21日、アゲント・コンシピオより34年の歳月を経て初めてシングルCDとして発売された。ちなみに加藤和彦の55回目の誕生日だった。

2002年4月15日付のオリコン・シングルチャートで最高14位を記録した。


〇発売自粛の理由

この曲はもともと朝鮮民主主義人民共和国では有名な曲で、松山やメンバーらの考えていたような民謡ではなく、高宗漢の作曲、朴世永の作詞によるものであった。

オリジナルの曲では、主人公は臨津江を渡って南に飛んでゆく鳥を見ながら、歌詞1番では臨津江の流れに対し、なぜ南の故郷へ帰れないのかを嘆き、2番では臨津江の流れに対し、荒れ果てた「南」の地へ花の咲く「北」の様子を伝えてほしいと思いを託す内容である。

松山の歌詞では、北の幸せさに対し南を哀れむ、もともとの2番の歌詞は、分断に対する疑問を訴える歌詞に変わっており、まったく違う物となっている。

松山の歌詞には、オリジナルにはない3番がある。


〇発表のその後

日本国内における1970年前後の過敏な状態も、1990年代~2000年代前半頃には表面的には収まっている。

「ザ・フォーク・クルセダーズ」を扱った番組や、ラジオ局の開局記念番組などで「音楽史の一部」としてながらも放送されている。

ただし2006年現在でも、放送の自粛が完全に終わったとは言えない状況である。

          (引用ここまで)

             ・・・

この曲が発売禁止になったため、2枚目のシングルとして発売された曲が「悲しくてやりきれない」です。


Youtube「悲しくてやりきれない」ザ・フォーク・クルセダース


なるほど、哀調が似ているように感じます。。

おなじ強い思いを秘めて歌ったのではないでしょうか?

朝鮮の学生さんたちに教えてもらった「イムジン河」の訳詞をした松山猛さんは、今は雑誌「ソトコト」の編集に携わってスローライフを提唱しておられることを、前書を読んではじめて知りました。


             ・・・


wikipedia「イムジン河」より

〇 『悲しくてやりきれない』との関係

なお、発売自粛となった「イムジン河」の代わりに「ザ・フォーク・クルセダーズ」の2枚目のシングルとして発売された曲が『悲しくてやりきれない』であり、2002年に発売されたシングルCD『イムジン河』のカップリングにも収録されている。

同曲はイムジン河のコードを反対からつなげて作ったという話も残っているが、音楽理論上から見ると機械的なコード操作では無理なので、逆回転から発想を得てイメージを膨らませた結果と言える。

「譜面に向かい、イムジン河のメロディを逆に辿っているうちに、新たなメロディがひらめいた、」と作曲の加藤和彦は語っている。

              ・・・

「悲しくてやりきれない」歌詞 (作詞 サトウハチロー 作曲 加藤和彦)

白い雲は 流れ流れて
今日も 夢はもつれ わびしく流れる

悲しくて 悲しくて
とてもやり切れない

この限りない むなしさの
救いは ないだろうか

              ・・・

    (再掲ここまで・・再掲にあたり、地の文を若干加筆した箇所があります。)

            *****
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする