始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

サナト・クマラとクラマ(鞍馬) ・・シャンバラへの道は暗い? (ウエサク祭・その3)

2010-06-28 | メディテーション
引き続き、鞍馬山のことです。
魔王とは、だれなのか?

この問いに最もわかりやすく答えているのが、鞍馬弘教の教えであろうと思われます。


鞍馬寺の鞍馬弘教の2代目管主・信楽香仁氏が「古寺巡礼シリーズの「鞍馬寺」の巻に寄せている文章がありましたので、抜粋して転載します。


*****


(引用ここから)


奥の院魔王殿は、累々たる奇岩の上にある。
この岩が水成岩でサンゴやウミユリなどの化石を含んでおり、海底にあったものが2億6000万年前の太古に隆起したことがわかる。

そしてこの一帯が実は磐座(いわくら)であり磐境(いわさか)なのである。

この磐座に、金星から魔王尊が天下ったというのである。

魔王尊と書くと、悪魔の首領のように誤解されかねないので説明するが、あらゆる魔障を征服し、屈従させて、善魔に転向させる大王だから、「魔王尊」と申し上げるのである。

つまり、転迷開悟・破邪顕正のお力を授けてくださる守護神と思っていただければよかろう。


魔王尊は地下空洞の支配者でもある。

地下空洞には大都会があり、北欧とヒマラヤと南米と日本の4か所に、地表へ通ずる出入り口を持ち、日本の通路は鞍馬山であると言われている。

魔王尊は、地上に大破壊力と大創造力をふるい、国家の興廃を司る。
意志と勇気と創造と進化の神であり、人類の父である。

地球の霊王であり、地球全体の進化を支配する。

人類の進化だけではなく、神々や自然霊の進化、そして一切生類の進化をも促す。

だから、魔王尊の経綸と協調するものは厚い守護と祝福を受けるが、魔王尊の正義の理念に反するものは破壊されてしまう。

魔王尊は、地球の霊王であり、力の象徴である。

「火の霧の子」とも呼ばれ、人類とは違った進化過程を辿る。

その姿かたちは人間と同じだが、その身体元素は人間のものと違って、永久に変化しない。

食物もとらず、何千年、何万年たっても変化しないのである。

永遠に16歳の若さをたもち、人類が遠い未来において水星に移住するとき、人類を誘導してくれるという。


魔王尊は真我を通じて人類を感化する。

人間の自我は、魔王尊に直接触れることはできない。

しかし熱烈に慕い敬うものには、時がくるとそのお姿を拝ましてくれる。

そのときこそは、どのような罪と悲しみに苦しんでいるものでも、たちどころにして善に向かい、人生最大の幸福へと導かれてゆく。


魔王尊のはっきりしたお姿は誰にも分からない。

太古の金星から降臨したまま、16歳の若さをもって地球の霊王として活動しながら、変幻自在さまざまな姿態を現わすからである。

以前は長い間極秘のうちに奉修されてきた密教儀式の「五月満月祭」が、昭和29年に公開された。

人類を救済するために、釈尊やイエスキリストたちを世に送り出したのは、尊天(地球の霊王である魔王尊)に他ならないと、鞍馬山では確信する。


そして「五月満月祭」の宵は天界と地上の間の通路が開けるので、この宵を期して魔王尊讃仰の祈りを捧げ、釈尊の生誕と成道と涅槃とを祝いながら、救世主の再現を願う。

それが「五月満月祭」なのである。

この夜は全山に万灯をともして満月に聖水を供え、参加者一同は心の灯を高くかかげて大祈願を唱和する。

心中の善願の一願のみは必ずかなえられるという「五月満月祭」は、また「ウエサク祭」とも呼ばれ、国際的な神秘の祭典である。

緑と自然に恵まれた鞍馬山は、よこしまを許さぬ父の厳しさをもちながら、人間の心を温かく包んでくれる母のふところでもある。

ここを訪れて静かに瞑想し深呼吸して、宇宙の大霊である尊天の愛と光と力とを心身の奥深くいただき、明るく正しく生き抜く明日への活力としてくださるよう、心から願っている。

(引用ここまで)


*****


二代目の方の文章では、サナト・クマラの名前は出てきませんが、ここに描写されている「魔王尊」が、サナト・クマラの性質を描いていることは、サナト・クマラについて調べると分かってきます。

ウィキペディアによると、「サナト・クマラ」とは、サンスクリット語で「永遠の若者」を意味することばであるということです。

サンスクリット語であり、東洋の神格ではあるけれど、神智学関連の人々が彼らの独自の思想体系のなかに採り入れたのである、と説明されています。


*****


wikipedia「サナト・クマラ」より


(引用ここから)


○ヒンドゥー教とジャイナ教におけるサナト・クマーラ


サナト・クマーラとはサンスクリット語で「永遠の若者」を意味する。

ヒンドゥー教の宗教文書『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』7章ではリシ・ナーラダとの対話篇が記述されている。

『ラーマーヤナ』でも彼の名やエピソードが挙げられ、『シヴァ・プラーナ』には「サナト・クマーラ・サンヒター」と呼ばれる部分がある。

後述の神智学的観点の影響を受けた人々の主張によれば、人を引き付け、全ての信仰信条の人々を団結させるサナト・クマーラのための神殿は、スリランカのカタラガマにある聖地に位置している。


○神智学におけるサナト・クマーラ

サナト・クマーラは、ブラヴァツキー夫人により簡潔に言及された。

彼女はサナト・クマーラは、キリスト教の伝統でルシファーや堕天使と誤解された「炎の主」達である存在のグループに属すると主張した。

彼女の追随者であるC.W.リードビーターが、「サナト・クマーラは世界の「王」あるいは主であり、神智学の原理を明らかにしたマハトマたちのグレート・ホワイト・ブラザーフッドの首長である。」と書いた時に、サナト・クマーラは並外れた卓越性を獲得した。

後代の神智学信奉者のアリス・ベイリーやエリザベス・クレア・プロフェットはさらに進んだ細部の物語を書き加え潤色した。

彼はふつう、16才の少年の外観で描かれる。


○サナト・クマーラの下降と金星からの炎の主

リードビーターと後代の神智学支持者は、サナト・クマーラが1850万年前に金星のエーテル界から地球にやって来たと信じている。

神智学において、サナト・クマーラが金星からの遠征を計画準備することを助けた存在のことを「炎の主」たちと呼ぶ。

より後期の異説では、この注目すべき「炎の主」に釈迦や世界教師(ベンジャミン・クレームによれば弥勒菩薩やキリストと相互に関係している存在)を含めている。

Church Universal and Triumphantは、サナト・クマーラや「炎の主」たちはそのうえ十四万四千もの魂を金星から連れてきたと説く。


サナト・クマーラは偉大なグル、地球の救世主であるとみなされている。

彼の信者は全ての主要な宗教に彼を見る。

ヒンドゥー教のスカンダ(カルティケーヤ)、仏教のブラフマ=サナム・クマーラ、ユダヤ教やキリスト教の「日の老いたる者」、そしてゾロアスター教のアフラ・マズダー。そのうえスーフィーのムスリムに知られているアル=ハディル(緑の人)とも見なされている。

神智学では、金星は太陽系のなかで霊的に最も進歩した惑星とされる。

金星のエーテル界に住まう存在たちは、我々よりも何百年も先立った霊的進化にあり、金星の政策委員会は彼らのうちの一人であるサナト・クマーラを我々を指導させるために送り出した、と言われている。

神智学の語るところによれば、サナト・クマーラは地球に到着すると、彼の本拠として役立てるためにゴビ砂漠上のエーテル界にシャンバラの都市の建造を指導した。

(引用ここまで)


*****




“クマラ”と“クラマ”、、。

サナト・クマラは京都に来ていたのでしょうか。

“鞍馬”とは“暗い魔”だ、という説も聞きましたが、よほどの因縁があるに違いありません。

一代目教主の方の文章も読んでみたいです。
また、神智学との関連ももう少し調べてみたいと思います。

個人的には、シャンバラとの通路を鞍馬山に限定するのは、ちょっとどうなのだろうという気持ちがあります。。

鞍馬山からシャンバラに行ったという記録があるといいのですが。。


蛇は蛇(じゃ)の道。。

シャンバラに行くには、“暗い道”を通らねばならない、ということでしょうか。。



関連記事

画面右上の「検索コーナー」を「ブログ内検索」にして、

「神智学」で3件
「地底」で16件
「シャンバラ」で3件
「チベット」で12件
「弥勒」で7件

など、あります。(重複しています)

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魔王尊と鞍馬天狗・・魔王とは誰か(ウエサク祭・その2)

2010-06-22 | メディテーション
前回の記事で紹介した鞍馬寺の祈りのことばを、数年前初めて見た時は、ほんとうに慄きました。

このお祭りは“魔王”と関わる儀式なのだと思うと、月夜のセレモニーとしてのすごみを感じると共に、まさにかくあるべき何かがあるようにも感じました。

また、地球の地軸とか、大異変とか、なんと唐突な言葉が唱えられているのだろう、ということも不思議でした。


調べたところ、昭和20年代に鞍馬寺の官長になられた信楽香雲(しがらきこううん)さんという方が、西洋の神智学の影響を受けて、鞍馬寺を、「鞍馬弘教」という新興宗教にしておられるということがわかりました。

「鞍馬寺の本尊の一つ・魔王尊は、「サナトクマラ」という神格の、もうひとつの名前である。」と解説がありました。


魔王尊がどのように祀られているかは、以下のウィキペディアにありました。


wikipedia「鞍馬寺」より


*****


京都の北に位置する鞍馬寺は、もともと毘沙門天(四天王のうち北方を守護する)を本尊とし、併せて千手観世音を祀った寺院であった。

しかし、鞍馬弘教立教後の現在の鞍馬寺の信仰形態は独特のもので、本尊についても若干の説明を要する。


鞍馬弘教立教後の寺の説明によると、鞍馬寺本殿金堂(本堂)の本尊は「尊天」であるとされる。

堂内には中央に毘沙門天、向かって右に千手観世音、左には護法魔王尊が安置され、これらの三身を一体として「尊天」と称している。


「尊天」とは「すべての生命の生かし存在させる宇宙エネルギー」であるとする。

また、毘沙門天を「光」の象徴にして「太陽の精霊」・千手観世音を「愛」の象徴にして「月輪の精霊」・魔王尊を「力」の象徴にして「大地(地球)の霊王」としている。

鞍馬寺とは、どこにでも存在する「尊天」のパワーが特に多い場所にして、そのパワーに包まれるための道場であるとしている。


「尊天」のひとり、「護法魔王尊」とは、650万年前(「650年」の間違いではない)、金星から地球に降り立ったもので、その体は通常の人間とは異なる元素から成り、その年齢は16歳のまま、年をとることのない永遠の存在であるという。


本殿金堂の毘沙門天・千手観世音・護法魔王尊はいずれも秘仏であるが、秘仏厨子の前に「お前立ち」と称する代わりの像が安置されている。

「お前立ち」の「魔王尊像」は、背中に羽根をもち、長いひげをたくわえた仙人のような姿で、鼻が高い。

光背は木の葉でできている。

多宝塔に安置の護法魔王尊像も同じような姿をしている。


このことから「鞍馬天狗」とはもともと護法魔王尊であったと思われる。

また、16歳とされているわりに歳をとった姿をしている。

(引用ここまで)


*****


魔王尊は、羽のある、鼻の長い天狗の姿をしているのです。

鞍馬山のお寺のご本尊ですから、“鞍馬天狗がもともと魔王尊だった”のか、あるいは、“魔王尊とはもともと天狗だった”のかは、難しい問題だと思います。



魔王という言葉の由来が知りたくて、魔王尊の「魔」と同じ字が使われているエンマ(閻魔)様の「魔」について見てみると、以下のような説明がありました。


Wikipedia「閻魔」より


*****


閻魔は、サンスクリット語及びパーリ語のヤマ (यम, Yama) の音訳。
ヤマラージャ(यमराज, Yama-rāja、ラージャは王の意味)とも。

音訳は閻魔羅闍(えんまらじゃ)、意訳は閻魔大王(えんまだいおう)。

略して閻羅(えんら)、閻羅王(えんらおう)、閻王(えんおう)、閻(えん)とも。


Yama(閻魔)は、縛、雙世、雙王、静息、遮正、平等などと和訳される。


“縛”は罪人を捕縛する意、“雙世”は彼が世中、常に苦楽の2つの報いを受ける意、“雙王”は兄妹一対で2人並びたる王の意、また“平等”は罪人を平等に裁くとの意から、これらの和訳がある。

(引用ここまで)


*****


エンマ(閻魔)の「マ」は、YAMA(ヤマ)の「マ」という音に、「魔」をあてたり、「羅」をあてたりしているのだと思われます。

そうであるとすると、「魔」という字には、悪魔といった意味は含まれていないのではないかと思いました。


しかし、“言い得て妙”な、何か“魔的”なものがあるような気もするのですが。。
それが神智学におけるサナト・クマラという神格の“魔性”と響き合っているのではないかと思いました。

(つづく)

写真は「魔王殿」(淡交社・古寺巡礼・京都鞍馬より)


関連記事

「神智学」で2件
「天狗」で2件
「地底」で15件
「地軸」で10件
「チベット」で11件

など、あります。(重複しています)
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鞍馬山の“魔”について・・われらのおん父魔王尊 (ウエサク祭・その1)

2010-06-17 | メディテーション
五月の満月の夜は、ウエサク祭が行われたでしょうか?

わたしはこの催しのことを近年まで知らなかったので、数年前はじめて聞いたときには慄きました。

満月の夜、チベットの谷あいで行われるというそのお祭りの話は、月明かりが幻想的で、物語のように非日常的な印象を持ちました。

日本においては、同名のお祭りが京都の鞍馬山で行われると聞き、牛若丸がいた山、と漠然と認識していた鞍馬山を、新鮮な気持ちで見直しました。


当時検索してみると、鞍馬山のお祭りのことがでており、そこには「魔王尊にささげる歌」というものが書かれていました。


*****



「魔王尊にささげる歌」


われらのおん父魔王尊
マントラとなえてみなを呼び
一心こめて大前に
おろがむものをみそなわせ

われらのおん父魔王尊
天地の秘密をもちたまう
ちからの神の魔王尊
進化の光魔王尊

われらのおん父魔王尊
悪のこの世を破壊して
天地の心を花咲かせ
秘伝と善のためにとて

その不思議なるおん手には
他界の太陽シリアスの
くだしたまえるみちからの
光の棒ぞもえさかる

まかふしぎなるその棒を
あまねく世界にふりかざし
土にも似たるわれらをば
天つ力にあらしめよ

宇宙の進化に仕えんと
いやしき心をふり放ち
み前につかうわれらをば
神の力にあらためよ

崇高偉大の魔王尊
地軸を傾け磁極をば
おきかえ移し気候をば
一変したまう魔王尊

移る磁極は大地震
大洪水の地変をば
まきおこせども大前に
ひれふす者を助けませ

力と光の魔王尊
苦しみまどう人類に
史上の助け早めつつ
つかわしたまえ救世主

(引用ここまで)

*****


一番インパクトが強かったのは、“魔”という言葉でした。


唱えられているのは、お寺なのになぜかキリスト教の概念が基調。。

さらに、あろうことか、この歌は、その“魔”を、“おん父”とたたえているのです。

そのことがたいへん驚きでした。

むかしのキリシタンの歌みたいな雰囲気もあるけれども、キリシタンは決してこのようなことは言わないであろうと思いました。


では一体、この歌はどこから生まれたものなのだろうかと思いました。


wikipediaによると、「ウエサク祭」というお祭りはお釈迦様の誕生日のお祝いで、アジアで広く行われているということ、
日本の行事としては、4月8日の花祭りのことであると分かりました。

日本ではグレゴリオ暦に変わってしまったけれど、本来は一月おくれの5月に行われるものであり、小乗仏教では、お釈迦様の誕生日であり、また悟りを得た日であり、入滅の日でもあるとされるということでした。



Wikipedia「ウエサク祭」より


*****


ウェーサーカ祭(ウエサク祭、Vesak、)は、仏教において行われる年に一度の祭りである。

この祭りは東南アジアや香港・台湾などでも行われているが、大乗仏教(北伝仏教)の伝わった東アジアではウェーサーカ祭の代わりに灌仏会(佛誕、降誕会、仏生会、浴仏会、龍華会、釈迦誕生日)が行われる。

大乗仏教に伝わっているところによると、ウェーサーカ祭は、サンスクリット語でいうVaisakha(インド暦第二の月・ヴェサーカ)に該当する行事とされている。

ミャンマーでは満月祭を意味する Ka-sone-la-pyae と呼ばれ、ミャンマーの暦で2月に当たる。

ウェーサーカ祭の正確な開催日は、その地域や宗派の採用する暦によって異なる。

仏滅紀元を採用する上座部仏教では、満月の出る Uposatha の日(たいてい仏滅紀元の5月か6月)にウェーサーカ祭を行う。

中国では、中国暦でいう4月の最初の満月の日にあたる。

西洋のグレゴリオ暦では年ごとに異なるが、大体4月か5月に当てはまる。

ウェーサーカ祭が「釈迦の誕生日」と非公式に呼ばれることがあるのは、この祭りが釈迦の誕生・悟り(ニルヴァーナ、涅槃)・入滅(パリニルヴァーナ、般涅槃)の三大仏事に結びついているからである。

日本の仏教では降誕会・成道会・涅槃会は別々に行われるが、南伝仏教ではこれらは同じ月の同じ日に起こったこととされる。


日本のウェーサーカ祭

灌仏会または 花祭 (降誕会,仏生会,浴仏会,龍華会,花会式とも)は、釈迦の誕生日に龍が空からあらわれてソーマを注いだという故事からきている。

中国暦でいう4月8日に行事が行われることになっているが、明治政府が暦を変更したため、今ではその暦の4月8日(中国暦より1カ月早い)に祝うことになっている。

(引用ここまで)


*****


アジアで広く行われている仏教のお祭りに、なぜ「われらのおん父」を讃える歌が歌われるのだろうか?、そしてシリウス?、魔王?

なんとも不思議になりました。

(つづく)


写真はウエサク祭の「心のともし火」(淡交社・「古寺巡礼京都・鞍馬」より)
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柱について(1)・・イスラエルの最古の立柱遺構

2010-06-11 | エジプト・イスラム・オリエント
先に「ごみ屋敷体験記」を記しましたが、このごみ屋敷体験により、わたしは人間の「住み家」について、思いをはせることになりました。


ごみ屋敷から、ごみを取り去ると、何が残るのだろう?

人は、「住み家」で、何をしているのだろう?

人が住む所とは、どういう所なのだろうか?

柱とは?
壁とは?
床とは?

そこで、植田文雄さんという方の「古代の立柱祭祀」という本を読んでみました。

いろいろな所の「柱」について研究している方のようです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

          *****

(引用ここから)

立柱祭祀の遺構をさがす手掛かりを求めて、「世界考古学地図」という本を見ると、最古の神殿として、イスラエルのエリコのテル最下層からみつかった遺構が紹介されていた。

そこには穴の掘られた二つの大きな石があり、トーテムポ-ルを立てるためのものと考えられる、とある。

紀元前11000年ころの狩猟採集民が、泉の側に立てたほこらと思われる、と書いてある。

日本列島ならば、縄文時代草創期で、小さな村さえない。
まだ家族単位で食糧を求め、野山を駆け回っていた段階だ。

最古の縄文集落として知られる「鹿児島県上野原遺構」でさえ、紀元前7500年頃である。

イスラエルのエリコは、仰向けに身体が浮くことで有名な死海の北西、ヨルダン国境に近い町である。

海抜よりマイナス350メートルと極端に低いが、紀元前8000年頃、世界で最初に小麦の栽培と羊の牧畜が行われていた、いわば農耕発祥の地である。

テルとは丘という意味で、長年にわたって人類の生活した遺跡が積み重なり、小高い丘になったもので、中東紛争でたびたび報道される、イスラエル最大の都市テル・アビブの語源も、このような古代遺跡にちなむという。

文明以前に農耕文化をもった西アジアの、しかもイスラエルならば、最古の神殿もあり得るかもしれない、とわたしは考えた。


エリコは旧約聖書にもたびたび登場するオアシスである。

エリコのテルは19世紀後半から100年以上、イギリスによって発掘調査されてきた。

中でも1952年の調査では、紀元前8000年紀の城壁に囲まれた集落が見つかり、世界中の注目を浴びた。


エリコの神殿は、この城壁よりもさらに古い地層からみつかっている。

報告書を読むと、神殿は長方形で、厚さ50センチの壁で囲まれている。

粘土壁が屋根を支える構造壁となり、木の梁を渡した建物だったとみられる。

内部には、日常的な要素が全くない。

石は、祭祀を行う時に木製のトーテムポールを立てた穴、あるいは柱を指し込むための基礎石だとされる。

報告書では基礎石について、「現在も国家儀式で国旗を立てるのと同じように、同族のあかしを示す旗を付けたトーテムポールが立っていた」と記される。

これが最古の神殿の実態である。


「世界考古学地図」の報告書では、神殿について、「旧石器時代の終わり、東方からやってきた狩猟民がエリコの泉に集まり、水源の神に祈りをささげた神殿である」とまとめられている。

紀元前9000年紀には西アジアのオアシスに狩猟民の神殿が作られ、儀式のシンボルとして木柱が建てられていた、ということである。

このような神殿を作るためには相当な労力を要したと想像できる。

これは縄文時代の立柱にも共通することで、初期の集落が、同族意識を強化していく中で、村人の求心力を保つための祭りの場を持ち、神聖な場所を演出する木柱が建てられたのであろう。

多少形は変われども、このような祭りの装備を、人類は早くから持っていたようだ。

(引用ここまで)


*****



また、2008年11月付けの「ナショナルジオグラフィック」には、「イスラエルで世界最古〈12000年前〉のシャーマンの遺体が発見された。」という記事がありました。


世界で最も古い“宗教の痕跡”の発見ということであり、大変大きな発見だと思います。



*****


http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20632348

(引用ここから)


最新の研究によると、現在確認されている中では世界最古となるシャーマンの墓がイスラエル北部で発見されたという。

発掘された墓は1万2000年前のもので、謎の多い中石器時代のナトゥフ文化に属する高齢の女性が、動物の部位や人間の足とともに埋葬されていた。

隣接地区でも複数の墓所が発見されているが、今回発掘されたシャーマンの墓は構造や埋葬物、そしてその並べ方が非常に独特なものだという。

研究チームのリーダーで、イスラエルのエルサレムにあるヘブライ大学のリーオア・グロスマン氏は、

「墓の状態や埋葬物から考えると、このようなナトゥフ文化の墓はこれまで発見されたことがない。
この女性が特別な社会的位置にいたことを示すものだ」と話す。

 発掘現場はイスラエルの地中海沿岸から14キロほど内陸に位置するヒラゾン・タクティット(Hilazon Tachtit)洞窟で、
この遺跡は1万1500~1万5000年前に地中海東岸で栄えたナトゥフ文化のものと考えられている。

これまで、イスラエル、ヨルダン、シリア、レバノンの各地で数百のナトゥフ文化の墓が発掘されている。

しかし、シャーマンと思われる女性が埋葬されていたのは今回グロスマン氏らが発掘した墓が初めてのことだ。

「シャーマン」という言葉はシベリア地方のツングース語に起源を持つが、神秘的な力によって霊を呼び出し宗教と医術を統べる者の存在は地球上のさまざまな文化で広く共通している。

 埋葬されていた女性は身長150センチで45歳と推定され、当時ではかなりの高齢だったはずである。

この女性は死亡した後、岩を敷き詰め泥で塗り固めた洞窟内部の墓穴の中に安置され、その上には穴を覆う大きな石板が設置された。

猟師や戦士、政治指導者の墓の場合には、埋葬品は日常的な小物や道具がほとんどである。

しかし、この女性の墓にはさまざまな人工遺物のほかに、きれいに並べられた50個のカメの甲羅、イノシシやワシ、ウシ、ヒョウ、テンといった動物の部位、そして人間の足が一緒に埋葬されていた。

「当時、ナトゥフ社会は遊牧民的な狩猟採集文化から農業主体の定住生活に切り替わっていた」とグロスマン氏は話す。

この移行は、ナトゥフ文化の社会構造が発達し、新しいルール・祭式・信条体系が生まれたことによって生じたものと思われる。


「この女性の墓から出土した埋葬物により、当時ナトゥフ文化でどのような祭式が行われていたのか、その特質がある程度明らかにされた」とグロスマン氏は話す。

例えば、カメは埋葬儀式の一部として食されたようだ。

そして、カメの甲羅は死亡した女性の周りに配置された。

イノシシの骨は割られており、骨髄を取り除いた後で女性の手の下に配置されていた。

墓を石板で閉じたのは、おそらく動物によって荒らされるのを防ぐための措置と思われる。


 アメリカにあるハーバード大学の人類学者オフェル・バル・ヨセフ氏は今回の研究を受けて、

「シャーマンの墓は貴重な掘り出し物だ。

ナトゥフ文化の墓を発掘しても、ほとんどが狩猟採集民のもので、シャーマンの墓は50個に1個あるかないかだ。

私もナトゥフ文化の遺跡の発掘を長年続けており、山ほどの墓を発見してきたが、今回のようなものは見たことがなかった。

今回発掘されたシャーマンの墓と埋葬物の調査を進めれば、文書記録としては残らなかったナトゥフ社会の新しい側面が明らかになるだろう。

文字の記録とほぼ同等の価値を持つものだ」と語る。

 また、バル・ヨセフ氏は次の点も指摘している。

「今回の発掘結果は、世界のほかの場所でシャーマニズム社会を研究している者にとっても大いに役立つだろう。

埋葬儀式は文化ごとに異なるが、シャーマンや宗教指導者の墓はどこであっても一般人の墓とは違い独特な特徴を備えているものだ」。

(引用ここまで)


*****




WIKIPEDIA「エリコ」より

死海の北西部にある町。

古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現した。

最古の町と評されることもある。
世界で最も標高の低い町でもある。

エリコは、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在はヨルダン川西岸地区に含まれる。
海抜マイナス250mの低地にある。

「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスがあり、人々が住み着いた。

エリコの名前は『旧約聖書』にも繰り返し現れ、「棕櫚(しゅろ)の町」として知られていた。

エリコには、異なる時代に形成されたいくつかの町があり、古代~『旧約聖書』時代のテル・エッ・スルタン、紀元前後のトゥルール・アブー・エル・アラーイク、現在の町があるテル・ハリ(に分かれる。


沿革

初期の町は小規模な定住集落で、時代区分上は新石器時代にあたる。

最古の町と評されることもあるが、後に現れるメソポタミア文明などの文明とは区別される。

1868年からヨーロッパの考古学者によって何度か調査が行われ、1952年にイギリスのキャスリーン・ケニヨンらが行った調査では前8000年紀のものと思われる周囲を濠と石積みの防壁で囲った集落跡が発掘された。

日本の弥生時代の環濠集落に似ているが、そうではなく、洪水を防ぐための防壁と解釈されている。

初期の痕跡はテル・エッ・スルタンにあり、紀元前約1万年前~前9000年前まで遡る。

テルは丘を意味するアラビア語で、人間の長期にわたる営みの積み重ねによって形成されたものと考えられている。

丘の規模は南北350m・東西150m・高さ2.5mである。

紀元前9000年頃の痕跡ではまだ住居跡はまだ現れないが、ナトゥフ期(Natufian)の石器・骨器や、祭壇と思われる基壇が現れた。

ナトゥフ期の次にケニヨンが「原新石器」と呼んだ時代を経て、「先土器新石器A」と呼ばれる層(前8350年頃~前7370年頃)からは、広さ約4ヘクタール・高さ約4m・厚さ約2mの石の壁で囲まれた集落が形成された。

この壁の1面には高さ8.5mの石の塔も建てられた。

この町は前7370年頃に放棄され、それまでとは異なる文化をもつ人々がエリコに定住した。

先土器新石器Bと呼ばれる層は、前7220年頃から前5850年頃まで続く。

これは前5850年頃に放棄され、しばらく無人の町となった。

前3300年頃には周壁を備えた都市が形成される。

前2300年頃に異民族の来襲によるものと思われる火災にあい、しばらく空白期間となる。

前1900年頃に再び町が建設され、町の領域は初期の壁の外にも拡大し、さらに外側により高い周壁が建設された。

前1560年頃にヒクソスの侵入にあい、大火災に見舞われて廃墟となった。

『旧約聖書』に記されたヨシュアによる破壊が史実に基づくものならば、この頃の話ではないかという推測もある。

前1550年頃~前1150年頃には、古代エジプトの圧迫を受けた。

『旧約聖書』では、預言者ヨシュアが人々に命じて一斉に吹かせたラッパの音により、エリコの城壁が崩れ落ちたと伝えられている。

ヘレニズム時代から『新約聖書』の時代になると、トゥルール・アブー・エル・アラーイクに町が形成された。
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「宇宙人とコンタクト取るな」と語るホーキング博士

2010-06-06 | メディテーション
先日の新聞にホーキング博士の発言記事がありました。

*****

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=128599&servcode=300§code=330
「スティーブン・ホーキング 『宇宙人はいるがコンタクト取るな』」


イギリスの物理学者スティーブン・ホーキング博士(68)が「外界に生命体が存在すると確信する」と述べた。

「しかし我々はその生命体を探しだしてはならず、できるだけ接触を避けなければならない」と主張した。

イギリスのサンデータイムスは25日、ホーキング博士が「ディスカバリーチャンネル」のドキュメンタリー番組でこのように力説したと報道した。

「スティーブン・ホーキングの宇宙」というタイトルで制作されたこのシリーズは来月9日(現地時間)から放送される。

これによればホーキング博士は「宇宙にある多くの惑星だけではなく、惑星別にも生命体が存在するのがほとんど確実だ」と主張した。

こうした主張は科学的証拠ではない論理的推論に根拠している。

彼は「宇宙には1000億の銀河系があり、各銀河系には数億個の星がある」とし「したがって地球にだけ生命体が暮らしているのではない上、外界生命体が存在すると信じるのは完璧に合理的だ」説明した。

ホーキング博士は高等生物出現の前の地球のようにほかの星にも進化の段階の低い生命体が暮らしている可能性が高いものと推測した。

といえども「一部の生命体は相当な知能を持っており、人類に脅迫的な場合がある」と警告した。

「自分たち惑星の資源を無くした後、新しい宇宙植民地を開拓するために宇宙船に乗って群れで歩き回る宇宙人の姿も想像したりする」と付け加えた。

ホーキング博士は続いて人類が外界生命体と接触しようとすることは危ないことだと指摘した。

「もし宇宙人たちが地球へ来たらクリストファー・コロンブスが北米大陸に上陸して原住民たちに悪い影響を与えたことのような結果をもたらす」という。

一方、ホーキング博士が放送原稿を何回も直し、画面構成にもかかわったことから番組の完成に3年以上がかかったということだ。


*****

なんとなく、ネガティブさが気になる記事です。。

脅迫的な宇宙人とは?
資源を失い、群れで歩きまわる宇宙人とは?

宇宙人というよりは、人間そのものを想起させるような気が。。

そういう宇宙人もいるでしょうけれど、センスのいい宇宙人もいるに違いないと思うのですが。。


コメント (6)
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