河童の歌声

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清里・・あれは何だったのか?

2018-01-19 10:06:02 | 旅行
清里1986年


1970年代から1980年代にかけて、
長野・山梨県境の清里高原に一大ブームがありました。

当時の女性雑誌「アンアン」「ノンノ」が、
清里・野辺山周辺の八ヶ岳山麓の高原地帯を取り上げたのです。
それがきっかけになって、いわゆる「アンノン族」が大挙して訪れ、
一世を風靡する清里ブームが起きました。





清里には中央線・小淵沢駅から小海線に乗り換えて行きます。
小海線はJRの中で最高の標高駅(野辺山駅)がある高原鉄道です。

私が初めて行ったのは1970年末頃、
まだ30歳になるかならずかくらいだったと思います。
「清里に行けば何かが起こる」
などと、若気の至りの馬鹿丸出し。
それでも小淵沢駅から、いざ小海線に乗り換える時など、
周りの若い女性たちばかりが気になって、胸がドキドキしました。
「さぁ、何かが起こるぞ~ッ」



清里と言ったら「清泉寮」
そこでソフトクリームをほお張るというのが、
清里に来た証でもありました。

私は宿泊予約などせずに、出たとこ勝負の旅行。
最盛期でもあったので宿が取れずに、どうなる事かと思ったのですが、
野辺山駅の近くに「列車ホテル」があって、
そこは使われなくなった寝台車の車両がホテルになっているのです。

そこで、何処で知り合ったのか全然覚えていない女性にくっ付いて、
列車に入ったのですが、
車両は男性専用車両と、女性専用車両に分かれているのです。
私はちゃっかりその女性と女性専用車両に居座ってお喋り。
これから何かが起こるぞと、いい予感だったのですが、
女性の車掌さんが来て「男性はあっちの車両に出て行って下さい」
と、無情にも追っ払われてしまいました。
あ~、勿体なかったな~。
その頃から俺はスケベやってたみたい・・・

その何年か後に、もう一度清里に行った様な・・
清泉寮への道を歩いていたら、向こうから来る家族連れ。
「あれ?この男どっかで見た事がある」
お互いに思いは同じだった様で、向こうも立ち止まって私を見ている。
私が思い出せないままで突っ立っていると、
向こうが「城南中学」と言ってきた。
そうだった、こいつとは同級生ではないが、
同期生だったのだ。
彼とは数年、年賀状のやり取りをしました。



私は結婚して、中国人の妻を連れて清里方面にドライブに行った時。
国鉄最高地点で、向こうから小海線の車両が走って来ました。
それを見た妻は、
人生でこんなに笑った事は無いというほど、腹を抱えて大笑い。
私は意味が分らずにポカーンとしていたら、
「かわ(妻は私を赤川の川で、かわと呼んでいたのです)、
かわ、電車ひとつッ!」
そうなんですね、中国では列車は何十両とながーい編成でやって来るのです。
それが、たった一両で電車が走っているのを産まれて初めて見たのでした。
彼女にすれば、そりゃビックリしたんでしょうね~。
あの頃は私も新婚で、楽しい時代だった・・・

そして、現在の妻と行ったのは、
2014年に清里にキャンプに行った時でした。
再び見た清里に、昔の面影はありませんでした。













人影もまばらで、
最盛期の「高原の原宿」と言われた喧騒はまるで夢の如し。
建物が残っているだけに、人が少ない事が尚更目立つのです。

若い頃は気恥ずかしいくらいに、
白やピンクといった乙女チックな建物が、若い自分の
欲情をそそるみたいな、卑猥なイメージすらあったのに、
それが年老いた現在の私には、
若い頃の恥を見せつけられたみたいで、もううつ向いてしまうのです。

清里自体は本来、とてもいい観光地なんですが、
あの、足が地に着いていない喧騒がイメージをすっかり損ねてしまっているという、
損な、勿体ない気がしてお気の毒。
乙女チックな建物を全て取り壊して、
もっと大人にいいムードに作り替えられれば、
昔とは全然違い、いい観光地になるんでしょうがね~。

でも、
大袈裟に言えば「我が青春の清里」的な思いの残る所なんですね。



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天才作曲家・古関裕而

2018-01-17 14:51:43 | 音楽
「昼のいこい」のテーマ


私は、古関裕而を天才作曲家だと思っています。



NHKラジオで昼にかかるテーマ音楽「昼のいこい」
ずっと以前から「実に日本の農村風景を彷彿とさせるいい音楽だな」と、
思っていましたが、
これが、古関裕而作曲である事を知ったのは、
かなり大人になってからでした。

「エレキの神様」こと、寺内タケシは、
この音楽を聴いて、プロになる決心をしたと以前、語っていました。

古関裕而・本名は勇治。
1909年(明治42)福島市生まれ。
1930年(昭和5)日本コロムビアに作曲家として入社。
1989年(平成元年)80歳で死去。

早稲田大学応援歌 紺碧の空  高音質音源


1931年(昭和6)
早稲田大学・応援歌「紺碧の空」
この歌が評判になり、作曲家・古関裕而の名が世間に知られる様になります。

古関裕而は曲を作る時は、一切の楽器は使わずに、
五線紙とペンだけで作曲したそうです。
仕事部屋には3つの机が置いてあり、
ひとつの机毎に違う曲を書いていて、3つを同時に作曲していました。
それもそうです、生涯5000曲という事は、
4日に一曲を作曲していた計算なのですから。

「曲は技巧で作るものではありません、心で生み出すものです」
彼はそう言っていたそうです。

耳が全く聞こえなくなってからも名曲を作曲し続けた、
あのベートーベンを思わずにはいられません。
楽器などで音を確認するまでもなく、
彼もベートーベンも、「音」がハッキリと聞こえていたのですね。
これを「天才」と言わずして何を天才と言うのでしょう。

彼の作曲は5000曲に及ぶそうです。
日本中の学校の校歌も数多く手掛けていて、
47都道府県中、4分の3は彼の作った校歌が残っています。

有名な歌を書いてみると、
「露営の歌」「暁に祈る」「長崎の鐘」「憧れの郵便馬車」「高原列車はゆく」
「とんがり帽子」「君の名は」「栄冠は君に輝く」「スポーツ行進曲」
「愛国の花」「夢淡き東京」「イヨマンテの夜」
「東京オリンピックマーチ」「紺碧の空」・・本当にキリがないのです。
面白いのは野球の巨人軍の応援歌「闘魂こめて」と、
そのライバルである阪神の応援歌「六甲おろし」
この二つとも古関裕而が作曲しているのです。

闘魂こめて


六甲おろし 唄:立川清登


私は20代後半から中国の歌に魅せられ、
40年以上、中国の歌一辺倒でした。
持っていたカセットテープ、レコードの類は、
100本以上でしたが、
それらを買う時は何を基準に買っていたか?

まるで手掛かりが無いのですから、すべて当てずっぽうでした。
しかし、その内、手掛かりが分ってきたのです。
つまり、歌手ではなく作曲家なんです。

いい作曲家は、いい歌を作曲するのです。
ダメな作曲家は、やっぱりダメなんです。
A級の作曲家は失敗作でもB級の歌ですが、
B級の作曲家がA級の歌を作曲する事はまず、ありません。
彼等は出来が悪いとC級の歌となり、つまり話にならないのです。

ですから、カセットを買う時には、作曲家で選ぶのです。
そういった基準で選ぶと、
それが日本の場合ですと古関裕而に行きつくのです。
彼の作品には、外れはほぼありません。
作曲というのは「才能」だけしか無い、それが全てだと私は思っています。
才能の無い人はどうあがいても、B級の歌しか作れないのです。
それも、B級が出来れば上出来で、
ほぼC級の歌しか出来ないのですね。

古関裕而の凄さは、
単なる歌謡曲だけではなく、
世界的なレベルから言っても一流の行進曲も作曲している事です。
「スポーツショー行進曲」「東京オリンピックマーチ」

スポーツショー行進曲/古関裕而の世界


これは、行進曲レベルから言ってもかなり「いい曲」です。
この延長にあるのが「東京オリンピックマーチ」です。
これも、世界的レベルの行進曲な事は間違いありません。

「箱根駅伝」のテーマ曲も、
古関裕而が作曲していれば「喜びの飛行」
あるいは、それ以上の名曲を生み出していたかも知れません。
日本テレビで「箱根駅伝」のテーマ曲を現在、作曲中です。と聞いた時、
「これは絶対に失敗作になる」と私は確信し、その通りになりました。
曲というのは作曲家が全てなんで・・で、失敗作を我々は毎年、聴かされているのです。

AIKOKUNOHANA / MORIMASAKO


あまり知られてはいませんが、
こんないい歌もあったのですね「愛国の花」

古関裕而・・いつまでも、いつまでも生きていて欲しかった天才作曲家。







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ド迫力・超ド級という言葉

2018-01-16 14:26:10 | 軍艦
妻が「超ド級」という言葉を知りませんでした。
では「ド迫力」はと訊いたら、それは知っていました。
実は、超ド級のドと、ド迫力のドは、同じ意味を持つのです。

これは以前、ミクシーには書いたと思うのですが、
それではという事で、再び解説したいと思います。

ドというのは、軍艦の名前から来ているのです。
その軍艦とは、イギリスの戦艦「ドレッドノート」



1906年(明治39年)
イギリスはそれまでの戦艦の常識を一変させる画期的な戦艦を造り上げます。
それが「ドレッドノート」
「ド」とはこのドレッドノートの頭の「ド」を取っているのです。
18000トン。全長160メートル。全幅25メートル。速力21ノット(時速38,9キロ)
この戦艦はそれまでの戦艦を一気に旧式艦にしてしまいました。

それまでは、日本の戦艦「三笠」が最も強い戦艦でした。



戦艦・三笠(日本海海戦で旗艦を務めた有名な戦艦です)
15000トン。全長132メートル。全幅23メートル。速力18ノット(時速33,3キロ)

重さは3000トン増えただけだったのですが、
その砲力が桁外れだったのです。

三笠・12インチ砲4門なのが、
ドレッドノートは、同じ12インチ砲ながら、その数は10門。
一気に三笠の2、5倍になったのです。
そして速力も速くなりました。
これではまるで、勝負になりません。

ドレッドノート以前の世界中の戦艦が、
その日を境に全てが(旧式艦)扱いにされてしまったのです。

日本の戦艦「薩摩」「安芸」などは、
まだ造船所で建造中だったのですが、
完成を待たずして「旧式艦」に成り下がるという事態になります。

世界中がドレッドノートに驚愕し、
こぞってドレッドノート級戦艦を造る建艦競争が起こります。

ドレッドノート以前に造られた戦艦を「前ド級戦艦」
ドレッドノートと同じクラスを「ド級戦艦」
そして、以後段々とドレッドノートを越える戦艦が建造される様になりますが、
それらを「超ド級戦艦」と言います。

「ド迫力」「超ド級の新人」といった具合に、
「ド」というのは桁外れに強力であるといった意味に使われます。

日本語では「弩」という漢字が使われています。

ただ、「ど根性」「どあほ」「ど真ん中」などは、
ドレッドノートとは無関係で、それ以前から使われていた様です。

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スティーヴ・リーヴス

2018-01-11 04:47:00 | 映画






スティーヴ・リーヴス(1926~2000)はアメリカの俳優です。
21歳でボディービルのミスターアメリカになります。
24歳の時にミスターユニバース(世界一)で優勝。

1949年(23歳)俳優としてデビューします。
しかし、端役が多く、
1957年(31歳)イタリアに渡ります。





イタリアに渡ったスティーヴ・リーヴスは多くのアクション史劇の主演を勤めます。
つまり「ヘラクレス」といった一連の作品です。



その優れた肉体のみならず、
端正な顔立ちでたちまち人気を獲得します。
この為、ボディービルブームを巻き起こしました。

彼の映画に刺激されボディービルに熱中し、その後、俳優になった人に、
アーノルド・シュワルツェネッガーがいます。



彼はボディービルでは、スティーヴ・リーヴス以上の成績を残し、
同じく映画俳優の道を歩み始めます。
その後の活躍は言うまでもありませんが、
しかし、顔だちという点では、やはり端正なスティーヴ・リーヴスでしょうね。

また、同じくスティーヴ・リーヴスの映画からボディービルに目覚めた俳優に、
シルヴェスター・スタローンがいます。



彼は映画スターとしては大成功しますが、
ボディービルダーとしての成績はありません。
単にボディービルをやり過ぎたポール・マッカートニーなどと言われます。
本当によく似ていますね。



最後にもう一人、
スティーヴ・リーヴスに魅せられてボディービルに熱中し、
俳優に、そしてプロレスラーになった人に、
ドウェイン・ジョンソンがいます。





こうしてみると、
スティーヴ・リーヴスというボディービル出身の俳優は、
ボディービルブームを巻き起こし、
大スターを作り上げた立役者と言えるでしょうね。

私も、中学生だったかの頃に場末の映画館で観た、
あの素晴らしい肉体には憧れたものです。
と言っても、それをやる事はなく、単なるオジサンで終わってしまいましたが。



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箱根駅伝で思う事

2018-01-10 08:35:51 | 箱根駅伝


一週間前に、一年に一度の楽しみである箱根駅伝が終わりました。
往路は東洋大学の完全優勝。
復路は青山学院の、これも完全優勝という珍しいパターンでした。

私が最も箱根駅伝に夢中になっていたのは、2000年前後で、
その頃は駒澤大学と順天堂大学とが競り合っていた頃でした。
その頃には青山学院などというのは出場すらままならずの時代で、
青山学院の存在など全く考えもしませんでした。

大学でも、高校でもそうですが、
学校のスポーツというのは時代と共に変化し、
学校側がそれに力を入れるか否か、いい生徒が集まるか否かで、
決定的に変わってしまうんですね。

最近の箱根駅伝では、
5区の、いわゆる山登りに注目が集まります。
それは2004年から2007年の山の神・今井正人。
2008年から2011年の、新山の神・柏原竜二の大活躍で、
5区だけで一気に形勢が逆転してしまうというドラマが、
あまりにも衝撃的だったからです。



1区から4区までの積み重ねが、全く無意味になってしまうというと言い過ぎですが、
結果的にそうなってしまい、5区を見直そう的な発言も散見されました。

さて、それほど大活躍をして社会人になった柏原竜二は、どうなったのでしょう?
彼はたった27歳で陸上を引退してしまったのです。
では今井正人は・・
2014年の別府大分毎日マラソンでの2位が最高成績とふるいません。

そもそも箱根駅伝は、
金栗四三が「世界に通用するマラソンランナーを作ること」を目標にして、
1920年に始めた競技でした。

その中から最も成功したのは瀬古利彦ではないかと思います。
全マラソン参加15回中、10回の優勝。
最高タイムは2時間8分27秒。
これは当時の記録として、悪い方ではありませんでした。

では今井正人は・・・2時間7分39秒。
柏原竜二は・・・・・2時間20分45秒。
彼等の後に続いた山の神・・神野大地は・・2時間12分50秒。
こんなタイムでは現在の世界的レベルから言えば通用しないのです。
つまり金栗四三の提唱した世界的ランナーは育ってはいないのです。



1993年から1996年にかけて、
早稲田には渡辺康幸という1年生から4年生まで、
ずっとスターであり続けた選手が居ました。
彼ほどマラソン界の期待を一身に受けた選手も居なかったでしょう。
しかし、彼は大成せずに鳴かず飛ばずで選手生命を終えてしまいました。

どうして箱根駅伝の選手から世界的ランナーが出ないのでしょう?
箱根は20キロで燃え尽きてしまってもいいのです。
これでは42キロには対応は出来ません。
マラソン対応の出来る体を作る為に、
箱根駅伝に42キロの区間を設けるべきだといった意見もあります。

専門的な事は私には分かりませんが、
専門家の方々から叱られるのを承知で私見を言いますと、
私は「箱根の選手は箱根で終わっていい」と思っています。

極論ではありますが、本当にそう思っているのです。
私が夢中になって見ているのは「箱根駅伝」であって、
マラソンなどは、それほど夢中になってまでは見ていないのです。
見てもアフリカ勢に押されっぱなしの2時間など、
見ていてもあまり面白くはありません。

それよりも、20キロという距離で完全燃焼し切ってしまう箱根を見ている方が、
よっぽど面白く、胸を打たれるのです。
本当にマラソンの専門家の方々には申し訳ないのですが、そうなんです。

今や正月の一大イベント。
日本中がというと大袈裟ですが、NHKの紅白に匹敵する、
あるいはそれ以上に日本中が熱狂する大ドラマとなっています。
私は、それでいいと思っています。
彼等の中から世界的マラソンランナーが出て欲しいなどとは思っていないのです。
箱根は箱根のままでいい、大学生のままで燃え尽きてしまっていいと思っているのです。

大学を卒業と共に選手生命も終わりで、一般の社会人になればいいと思っています。
ではマラソンランナーは、どうやって育てるのか?
それは知りません。
無責任極まりないのですが、それは専門家の方々でやって下さい。
でも、現在の箱根からは育っていかないのではないでしょうか。
マラソン界の危機です、それはいつも感じています。

結論ですが、箱根は箱根だけでいい。
そう思っているのです。







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