フランスとの戦争に勝利していたドイツ軍は、
敗戦国であるフランスのブレスト軍港に、戦艦シャルンホルスト。
姉妹艦グナイゼナウ。重巡洋艦プリンツ・オイゲンを停泊させていました。
ドイツの軍港に居るより、その方が大西洋に出撃するには、距離的にも都合が良かったからです。
しかし、戦争の進行によって
イギリス軍からブレスト軍港への空襲が段々と激しくなってきす。
うかうか出来なくなってきたドイツ軍は、
2隻の戦艦と1隻の重巡洋艦をドイツ本国へ戻す事にします。
ドイツへ戻る最短距離は、イギリス~フランス間のドーバー海峡を通過するコースです。
ドーバー海峡は最も狭い場所が40キロしかありません。
そこを通過するという事は、イギリス軍が、
敵艦が通過できない様に、軍艦を常駐させていたり、
沿岸砲で固めていたり、機雷を敷設していたりと、殆ど不可能と思える海域です。
機雷というのは、直径が1メートルくらいの鉄の塊りで、
中には爆薬が詰まっていて、通過する軍艦がそれに触れると大爆発を起こします。
過去には、それに触れて沈没した戦艦など多数の被害をもたらした、
恐ろしくも、静かなる、沈黙の兵器です。
機雷源といって、それを集中して敷設した海域があります。
そこを軍艦が突破する事など、まず考えられません。
闇夜を手探りで歩くのと同じで、まるで何が起こるか分からないのですから。
しかし、その恐るべき機雷を排除する軍艦があります。
掃海艇といいます。
機雷という兵器は、殆どが磁気機雷であり、
通りかかる軍艦の船体に、磁気によって反応するのです。
ですから掃海艇という船は、ほぼ木で出来ていて、磁気には反応しない様になっています。
さて、ドイツ本国への帰還を決定したドイツ海軍でしたが、
勿論、危険すぎるドーバー海峡突破などは問題外で、
イギリス島の外側を大きく迂回するコースを行く筈でした。
しかし、ヒトラーの鶴の一声で、最短距離のドーバー海峡突破が決定します。
ドイツ軍からいうツェルベルス作戦。
連合軍からは「チャンネルダッシュ」と言われた有名な作戦というか出来事です。
ヒトラーはイギリスは、臨機応変な対処ができない国。
ドーバー海峡は突破できると踏んだのです。
1942年(昭和17年)2月11日、深夜。
2隻の戦艦、32000トンのシャルンホルストと、その姉妹艦グナイゼナウ。
1隻の重巡洋艦プリンツ・オイゲン(15000トン)は、
6隻の駆逐艦を従えてフランスのブレスト港を出港します。
深夜の出撃は、それをイギリス軍に悟られたくなかったからです。
それは良いのですが、という事は、最も危険なドーバー海峡を真昼間に通過するという事になります。
ドイツ艦隊は、3隻の軍艦の高速性、32ノット(時速約60キロ)で、
ドーバー目指して突進します。
イギリス軍は、ヒトラーの睨んだ通りで融通性の欠ける行動しか取れません。
おまけに無線使用に制限があった事が裏目に出て、横の連絡もままならなかったのです。
ドイツ艦隊がドーバー目指して突進している事に気付いた部隊も居たのですが、
ごく限られた散発的な軍事行動しかとれず、
組織だった攻撃は、ついに一度も出来ずに終わってしまいました。
その間、シャルンホルストは2回、グナイゼナウは1回。
それぞれ触雷(機雷に接触)しますが、大事には至らず応急修理で事なきを得ます。
ドーバー海峡の最狭部を高速で突破する3隻の大型艦を、
イギリス軍の一部の部隊は、地団駄する思いで見守るしかありません。
フランスのブレスト港を出港してから、21時間後に
3隻のドイツ艦隊は6隻の駆逐艦と共にドイツに帰国します。
真昼間にドーバー海峡という鉄壁の守りと言われ、
そこを突破するなど全くあり得ないと言われた海峡通過をむざむざと許してしまったイギリス軍の面目はまる潰れ。
チャーチル首相は、あまりの事態に激怒しますが、全ては後の祭りでした。
イギリス軍は、面目を取り戻そうと、
ドイツ艦隊に攻撃をしかけ生き残った軍人に勲章を与えたりしますが、
殆ど無意味な、悔しまぎれの行為としか映らずに、
この作戦は、ヒトラーの完勝となったのです。
敗戦国であるフランスのブレスト軍港に、戦艦シャルンホルスト。
姉妹艦グナイゼナウ。重巡洋艦プリンツ・オイゲンを停泊させていました。
ドイツの軍港に居るより、その方が大西洋に出撃するには、距離的にも都合が良かったからです。
しかし、戦争の進行によって
イギリス軍からブレスト軍港への空襲が段々と激しくなってきす。
うかうか出来なくなってきたドイツ軍は、
2隻の戦艦と1隻の重巡洋艦をドイツ本国へ戻す事にします。
ドイツへ戻る最短距離は、イギリス~フランス間のドーバー海峡を通過するコースです。
ドーバー海峡は最も狭い場所が40キロしかありません。
そこを通過するという事は、イギリス軍が、
敵艦が通過できない様に、軍艦を常駐させていたり、
沿岸砲で固めていたり、機雷を敷設していたりと、殆ど不可能と思える海域です。
機雷というのは、直径が1メートルくらいの鉄の塊りで、
中には爆薬が詰まっていて、通過する軍艦がそれに触れると大爆発を起こします。
過去には、それに触れて沈没した戦艦など多数の被害をもたらした、
恐ろしくも、静かなる、沈黙の兵器です。
機雷源といって、それを集中して敷設した海域があります。
そこを軍艦が突破する事など、まず考えられません。
闇夜を手探りで歩くのと同じで、まるで何が起こるか分からないのですから。
しかし、その恐るべき機雷を排除する軍艦があります。
掃海艇といいます。
機雷という兵器は、殆どが磁気機雷であり、
通りかかる軍艦の船体に、磁気によって反応するのです。
ですから掃海艇という船は、ほぼ木で出来ていて、磁気には反応しない様になっています。
さて、ドイツ本国への帰還を決定したドイツ海軍でしたが、
勿論、危険すぎるドーバー海峡突破などは問題外で、
イギリス島の外側を大きく迂回するコースを行く筈でした。
しかし、ヒトラーの鶴の一声で、最短距離のドーバー海峡突破が決定します。
ドイツ軍からいうツェルベルス作戦。
連合軍からは「チャンネルダッシュ」と言われた有名な作戦というか出来事です。
ヒトラーはイギリスは、臨機応変な対処ができない国。
ドーバー海峡は突破できると踏んだのです。
1942年(昭和17年)2月11日、深夜。
2隻の戦艦、32000トンのシャルンホルストと、その姉妹艦グナイゼナウ。
1隻の重巡洋艦プリンツ・オイゲン(15000トン)は、
6隻の駆逐艦を従えてフランスのブレスト港を出港します。
深夜の出撃は、それをイギリス軍に悟られたくなかったからです。
それは良いのですが、という事は、最も危険なドーバー海峡を真昼間に通過するという事になります。
ドイツ艦隊は、3隻の軍艦の高速性、32ノット(時速約60キロ)で、
ドーバー目指して突進します。
イギリス軍は、ヒトラーの睨んだ通りで融通性の欠ける行動しか取れません。
おまけに無線使用に制限があった事が裏目に出て、横の連絡もままならなかったのです。
ドイツ艦隊がドーバー目指して突進している事に気付いた部隊も居たのですが、
ごく限られた散発的な軍事行動しかとれず、
組織だった攻撃は、ついに一度も出来ずに終わってしまいました。
その間、シャルンホルストは2回、グナイゼナウは1回。
それぞれ触雷(機雷に接触)しますが、大事には至らず応急修理で事なきを得ます。
ドーバー海峡の最狭部を高速で突破する3隻の大型艦を、
イギリス軍の一部の部隊は、地団駄する思いで見守るしかありません。
フランスのブレスト港を出港してから、21時間後に
3隻のドイツ艦隊は6隻の駆逐艦と共にドイツに帰国します。
真昼間にドーバー海峡という鉄壁の守りと言われ、
そこを突破するなど全くあり得ないと言われた海峡通過をむざむざと許してしまったイギリス軍の面目はまる潰れ。
チャーチル首相は、あまりの事態に激怒しますが、全ては後の祭りでした。
イギリス軍は、面目を取り戻そうと、
ドイツ艦隊に攻撃をしかけ生き残った軍人に勲章を与えたりしますが、
殆ど無意味な、悔しまぎれの行為としか映らずに、
この作戦は、ヒトラーの完勝となったのです。
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