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のぼうの城

2023-01-12 07:37:26 | 映画


映画「のぼうの城」を観ました。
「えッ、のぼうの城なんて昔の映画じゃん」と思われるでしょう。
そうです、「のぼうの城」は今から11年前の2012年の映画なんです。
その頃、私と妻は映画館でこの映画を観たのです。

それが何で今になって観るの?
ひと言でいうと「良かったから、また観たくなったから」なんです。
私が映画に対して「何をもって、いい映画というか」のデンで言うと、
「あのシーンをもう一度観たい」
そういったシーンの在る無しは、とても重要な要因です。
それが何ヶ所も在る映画ほど、いい映画と言えるし、
それが何もない映画は失敗作だと、私はみています。

のぼうの城(忍城・おしじょう)は、埼玉県行田市にある城です。
1590年、天下統一を目指す豊臣秀吉は反抗する北条軍を総攻撃します。
関東では絶大な勢力を誇る北条氏は、豊臣軍の軍門に下る事を拒否し、
20数か所に及ぶ北条勢の城の総力を挙げて豊臣軍に挑みます。
忍城もその中に在りました。

城を護る兵は、たった500人。
近隣の農民兵を入れても3000人。
そこを攻める豊臣方(石田三成軍)は、2万人。
圧倒的な差に、城主は戦わずして軍門に下る決心をしていました。
その城主は北条の本丸、小田原城へと行った(出張)のです。



そこに居残って、忍城を任されたのが(デク)のぼうと呼ばれた成田長親でした。
近隣の農民たちから(デク)・のぼう・と呼ばれ親しまれていた殿様でした。
家臣たちからも、何もできゃしない(でくのぼう)と囁かれていたのでした。



しかし家臣、正木丹波守利英は、
でくのぼうが、何処かつかみどころの無い才能を秘めているのではと思っていたのでした。



豊臣方の総大将は石田三成。
石田三成は豊臣秀吉の高臣として名を馳せていましたが、
戦での実績があまり無く、同僚たちからは軽く見られていた感がありました。
しかし、石田三成は大将・豊臣秀吉の様に、壮大で世間をアッと言わせる様な戦を、
いつかはしたい、いや、やってみせるのだという功名心があったのです。

そんな時に任されたのが忍城攻撃。
しかし、関東の北条勢が豊臣軍の兵力の大きさに為すすべなく、
戦いを放棄して軍門に下ったり、結局負ける為の戦いとなってしまったりで、
石田三成としては、功名を立てる場が無くなってしまうという恐れがあったのです。



そこで三成が忍城への使者に立てたのが長束正家でした。
三成は、長束正家という人物が、強い者にはヘリ下り、
弱い者には居丈高になって威張り腐るという器の小さな人間である事を知っていました。
そこを利用して、敵方の反撥を買って、戦になる事を願ったのです。

戦になってもらわない事には、自分の功名心が発揮できないのですから。
そして、三成の計算通り忍城は、500対2万という負け戦を挑んだのでした。

すぐに終わるだろうと高をくくっていた石田三成軍は、
予想外の忍城の奮闘にこんな筈ではなかったの大苦戦。
勝敗が決しないままに、総大将である北条軍が小田原で敗戦し、戦は終わりました。



開城せざるを得なくなった忍城に再び使者として来たのが、
あの長束正家でした。
相変わらず、敗軍の将を見下す正家。
その偉そうな態度に、のぼう様は言いました。
こちらの言い分を聞かないのであれば、今一度戦をしかけますよ、と。
それを聞いて石田三成は「もう勘弁してください」と長束正家の非礼を詫びます。

会議が終わってその場を去ろうとする石田三成に、
家老の正木が尋ねます。
「北条勢の中でいくつの城が残ったのでしょうか?」
三成は「ご存じなかったのですね、残ったのはこの城だけでした」
「あなた方の奮戦は100年後も語り続けられるでしょう」

正木丹波守利英は、のぼうの殿様、成田長親の横顔を、じっと眺め続けていました。
「この人は何処かに非凡さを秘めているとは薄々思っていたが、
まさかここまでとは思っていなかった」

そういったシーンというのは、何度でも観たいのです。
いい映画だったと思います。




コメント
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