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河童の歌声

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大躍進政策・・20世紀最大の死者

2021-06-29 14:50:23 | 歴史
大躍進政策とは、
1958年から1961年にかけて行われた中華人民共和国の政策です。
この政策は大失敗に終わり、
20世紀に於いて第二次世界大戦に次ぐ大量の死者を出しました。
戦争以外では最大の死者(ほぼ餓死)の数は、
3000万人~5000万人と言われています。



当時、中国最高権力者であった毛沢東は、
反対派を粛清し、国民の財産を全て没収して共有化する、共産主義政策を推進し、
数年間でアメリカ・イギリスなどの先進国に15年以内に追い付くと宣言。

まずは、最も重要な基本である(鉄)から始めました。





鉄鋼の大増産を目指し、原始的な溶鉱炉(土法炉・どほうろ)を用いた、
製鉄が中国全土で展開されました。

土法炉を建設する為の資材である耐火レンガは皆無に等しく、
この為、レンガ製の塔や寺院、城壁など、
歴史的建造物が全国的に破壊されました。
電力は不足しているので木炭を燃やして製鉄をしました。
その為に国内の木という木は切り倒され禿山状態となり、
それは洪水を産む原因になりました。
鋼鉄の材料となる砂鉄も不足でしたから、
農民たちは農機具の鉄を土法炉に入れて鋼鉄を製造しました。

しかし専門家も設備も無い、ド素人に良質な鋼鉄など造れる筈はなかったのです。
土法炉によって生産された鋼鉄のうち、
使用可能な物は1/3にも満たなかったのでした。

毛沢東が「これはいい」と讃え上げた「人民公社」
それは集団化された主に農業組織でした。
1958年後期には、ほぼ100%が人民公社化され、
人民公社間の高生産新記録が続々と発表され、
幹部たちは他の人民公社と張り合って、競争で生産量をねつ造したのです。
それは実際の食料生産の2倍以上まで誇張されていたのです。
その事がより一層の餓死者に繋がって行きました。
生産量ねつ造により、本当の収穫量は不足しているのに、
国内に餓死者が出ている状況で、中国は食糧を外国に輸出までしていました。
餓死寸前の者は、遂に食人まで始めていたというのに。

はげ山は洪水を招き、そういった田畑で農作業をしようにも、
農機具だった鉄製品はみな役に立たないクズ鉄になってしまって、
農作業もできない状態となっていました。
それでも人民公社のねつ造された食料在庫はいっぱいあったので、
人民は政府から見放された形になって、バタバタと餓死して行きました。

3000~5000万人という死者は、
あの悪名高い、文化大革命(死者110万~160万人と言われる)の、
数十倍という、戦争以外では最大の死者数なのです。



1959年の廬山会議で、
彭徳懐(ほうとくかい)元帥が大躍進政策を批判し、毛沢東は辞任する羽目になります。



1963年に飢饉は終息します。
毛沢東は大躍進政策の失敗を根本的には認めず、
毛沢東に替わって実権を握っていた劉少奇(りゅうしょうき)にも不満を持っていました。

彭徳懐・劉少奇はその後、
1966年の文化大革命によって批判され、
毛沢東から強烈な復讐をされます。
二人共、筆舌に尽くし難い非人間的扱いの中、
失意のまま非業の死を迎えるのでした。

毛沢東には二人の毛が居るとはよく言われます。
蒋介石(しょうかいせき)の国民党に勝利し、中国統一を成し遂げるまでの毛沢東。
しかし、その後の毛沢東は最悪の独裁者でした。
彼はいったい何千万人の国民を殺したのでしょうか。

毛沢東の社会主義。毛沢東の中国共産党。
本当にゾッとするほど怖い、恐ろしい。

最近は香港もその命運を絶たれてしまいました。
もう、あの宝石だった香港はどこにもありません。
中国共産党は悪魔です。
本当に怖い、恐ろしい国ですね。





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江戸時代には、これが欲しかった

2021-05-15 07:35:49 | 歴史
江戸の一日〜長屋ぐらし男子の場合〜


テレビ時代劇では、主に江戸時代が主役と言ってもいいでしょう。
平安時代とか鎌倉時代などというのは言わば特殊で、
主役となると、何と言っても江戸時代なんですね。

「鬼平犯科帳」「桃太郎侍」「必殺仕置き人」「暴れん坊将軍」・・・
みんな江戸時代。
日本人って、きっと江戸時代が好きなんだろうな~。
かく言う私も、江戸時代には大いに興味ありです。

極めて大雑把に言うと、
江戸時代というのは1600年から1850年くらいまででしょうか。
その時代と現代と、圧倒的に違うのは(電気が無かった)
ですから、電気が無いと動かない物。
テレビ・スマホ・電化製品・自動車・電車・・な~んにも有りません。

移動手段はひたすら(足)だけ。
舟や馬やカゴなんかもありましたが、基本的には足だけが頼り。
ですから体調の悪い人、年寄り、女子供などが、
例えば東京(江戸)から京都に行くと言っても、
その大変さは、命がけと言ってもいいくらいでした。

そういった江戸時代で、もしこんな物があったらどれほど素晴らしかったか?
という物を考えると・・・



洗濯機・・これがどれほど家庭の主婦の生活を劇的に変えるでしょう。



それに付随して、こんな物も絶対に必要ですね。



そして、足だけが頼りだった移動手段として、
自転車があれば、どれだけの人々が助けられた事か。



自転車に付随してリヤカー。
これがあれば、病人でも移動できるし、
屋台の蕎麦屋、荷売り商売の人達もどれだけ手広く商売ができる事か。





そして地図。
口づてでしか伝えられなかった場所が、
地図によって正確に伝えられる様になります。
ただ、地図は江戸幕府により、治安上、厳しく制限されそうですね。

そして電気を必要とする洗濯機は、
動かない自転車を漕ぐ事で、回転動力を得れば、
歯車を組み合わせる事により、電気並みのパワーが得られそうです。
その為には若くて体力のある男が、新たな商売として成り立ちそうですね。

これだけで、江戸時代に一大革命となるでしょう。
洗濯機・自転車を販売する為に、
ローン販売をしたら、もう、紀伊国屋文左衛門になれます。
保証します。
どうか時代を江戸時代に戻して頂きたい、
私は現代の紀伊国屋文左衛門になれます!



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宋家の三姉妹

2021-04-03 15:47:05 | 歴史


「宋家の三姉妹」という映画がありました。
1997年の香港・日本合作という事ですが、
私がかつて観た映画は多分これだったんじゃないかと思います。
と言うのは、1997年という年だからです。



1863年、宋家(そうけ)の始まり宋嘉樹という中国人が生まれました。
彼はアメリカに移住し、牧師となって中国へ帰国後、商売を始めました。
彼には6人の子供ができました。



その中の三人の姉妹が映画の主人公ですが、
間には男子も生まれ、宋子文(1894ー1971)は、
政治家、実業家となり、
中華民国後期の政治経済を牛耳る存在、四大家族となります。
四大家族・・他の3人は、
宋家の長女と結婚した孔祥煕。三女と結婚した蒋介石。
中華民国の政治家だった陳果夫が居ます。





長女・・靄齢(あいれい)1889ー1973(84歳)
            頭が良く、機敏で洞察力がありました。
次女・・慶齢(けいれい)1893ー1981(88歳)
            美人で優しく、真面目でした。
三女・・美齢(びれい) 1898ー2003(104歳)
            虚栄心が強く、活発で好奇心が旺盛でした。

長女は(富) を愛し、
次女は(国) を愛し、
三女は(権力)を愛した、と言われました。

1903年、長女(あいれい)、中国女性で初めてアメリカ留学をします。
1908年、次女、三女がアメリカ留学に行きます、
1911年、孫文の辛亥革命が起こり、清国が滅亡します。
1912年、長女(あいれい)、孫文の英文秘書になります。
1913年、国民党の蜂起が失敗し、宋一家は孫文と共に、日本へ亡命しました。



1914年、東京の中国人YMCAで知り合った、
中国人、孔祥熙から見染められた長女(あいれい)が、
横浜で結婚しました。
孔祥熙はビジネスで巨富を成した富豪の子息でした。
(あいれい)は金銭的に抜け目の無さでの悪名もありました。

次女(慶齢・けいれい)は結婚した長女に代わり、
革命家・孫文の英文秘書になります。



1915年、(慶齢)は妻子ある孫文と27歳の年齢差で、
周囲の大反対もある中で結婚します。
孫文は最後まで彼女を愛し続けたそうです。
また次女と三女(びれい)は、とても仲が良かったそうです。

慶齢は孫文と共に数々の危機を乗り越えていますが、
そんな中で孫文の指示で活躍していた将校が、蒋介石でした。

1925年、孫文が意思半ば59歳で亡くなります。
慶齢はまだ32歳でした。
彼女はこの後数十年に渡って孫文の意志を引き継いで突き進みます。



孫文亡き後、国民党の実権を握ったのは蒋介石でした。
しかし、共産党打倒を主張する蒋介石と、
共産党と協力して日本軍の侵略と戦おうとする次女(慶齢)は、
真っ向から対立してしまいます。

蒋介石は孫文の革命の意思から反して革命を断念し、
独裁者への道を歩み始めます。

そういった中で、三女(美齢・びれい)が蒋介石と結婚します。
彼等の結婚に次女(慶齢)は衝撃を受けました。
次女、慶齢は蒋介石の性格や、素行の悪さを分かっていたのですが、
三女(美齢)はファーストレディーの誘惑には勝てなかったのでした。

この衝撃的結婚の仕掛け人は、実は長女(あいれい)だったのです。
蒋介石にしても、宋家と結婚する事で、
孫文の孫家と親戚関係になるメリットが欲しかったし、
長女(あいれい)は夫の資金が、蒋介石率いる国民党政権に対する、
影響力を確固たるものにしたかったのです。

1936年、西安事件が起こりました。
共産党撲滅より、団結して抗日に当たるべしとの要求を、
蒋介石に突きつけ、張学良が蒋介石を軟禁したのでした。
しかし、三女(美齢)は、今、蒋介石を死なせると、
国内が混乱し、抗日がやりにくくなると判断して、
反共第一主義ばかりだった蒋介石に、
今は抗日の為に国民党、共産党が一致団結する様に説得して、
張学良から蒋介石を解放させたのでした。

第二次世界大戦終了後、
長女(靄齢・あいれい)はニューヨークに移住。
財を集めるのも使うのも上手で繁栄します。

次女(慶齢・けいれい)は1949年、
毛沢東が中華人民共和国を建国した際に、副主席に迎えられます。

三女(美齢・びれい)は蒋介石と共に台湾へ移住。

三人の姉妹は、時には絶縁状態にまでなったりしますが、
その様な時でも三人はお互いを想う気持ちを失いませんでした。
また、家族と訣別をしてまで、自身の信じた道を曲げませんでした。




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天国と地獄を見た女・・江青

2021-03-29 08:13:05 | 歴史


江青(こうせい)は、毛沢東の妻でした。
正確には毛沢東第4夫人。
彼女の現代での判断は、悪女。
地獄へと転落したそんな悪女でしたが、かつては天国だった時代があったのです。



1914年(大正3年)中国・山東省に彼女は生を受けました。
父親は大工で決して裕福な家庭ではなかったようです。

出生時の名前は、李進孩(り・しんがい)
小学校入学時には、李雲鶴(り・うんかく)と言いました。

1929年(15歳)演劇や古典音楽を学びながら、
図書館で働いていました。
1931年(17歳)で最初の結婚をしますが、2か月で離婚をします。
1933年(19歳)知人の影響を受けて共産党に入党します。



知人を通じて知り合った、第一線級の女優であった兪珊と知己になり、
その弟、兪啓威(後に共産党の政治家になる)と知り合う。
その彼とは同棲関係になり、彼が中国国民党から反政治活動で逮捕されると、
江青は上海へ逃れます。





上海では南国社(映画会社?)に入り、
藍蘋(らんぴん)の芸名で女優活動を始めます。
藍蘋は上海の社交界で有名人となりました。



この頃、女優としてライバルであった王瑩は、
この時の遺恨が元で、後の文化大革命で彼女は江青から、迫害され続けて行きます。

1937年、第二次上海事変が勃発。
かつて同棲していた兪啓威と共に上海を脱出し、
中国共産党の本拠地・延安へ移ります。





男ばかりの延安で、美人女優であった江青は羨望の的で、
延安の共産党指導者であった毛沢東を知り、
1939年、45歳の毛沢東は25歳の江青と結婚をしました。
江青という名前は毛沢東が名付けた名前でした。

1949年(昭和24年)
毛沢東は声高らかに、中華人民共和国の建国を叫びました。
江青は毛沢東夫人としてファーストレディーとなったのですが、
体調を崩しソ連で療養生活を送る事となります。

1958年から1961年まで、
毛沢東は「大躍進政策」を行いますが、
これが大失敗に終わり、数千万人という餓死者を出してしまいました。
この失敗により毛沢東は失脚します。

江青の帰国後、1960年代前半から、
彼女は政治活動に参加し始めました。
大躍進政策の失脚から毛沢東を支え、
打倒、劉少奇を毛沢東に勧めたのが江青でした。
これが結局、文化大革命へとつながって行きます。

1962年。
インドネシアのスカルノ大統領夫人が訪中した際に、
毛沢東と共に公の場に姿を見せます。
また、ルーマニアのチャウシェスク大統領たち共、親交を結びました。
1974年にはフィリピンのイメルダ・マルコスとも、
親し気に頬を交わす姿がありました。

ただ、毛沢東は「彼女の口にはトゲがある。
彼女は周りの人達を不幸にする」と言って、
江青という女性を信用していなかったし、愛してもいなかったようです。



1966年に始まった文化大革命で、
江青は四人組(王洪文・張春橋・姚文元)として活躍し、
世界中にその名を轟かせる事となりました。





1960年から、この辺りまでが、
江青の「我が世の春」・・天国だったのだと思います。

江青は女優時代に自分を正当に評価しなかった映画人、女優たちを、
その権力で激しく攻撃し、弾圧を加え、
投獄させ、死に至らしめる事もいといませんでした。

1976年、偉大なる指導者、毛沢東が死去しました。
それから1ヶ月後に四人組は逮捕されます。





1981年に裁判で江青は死刑判決を受けました。
その後、終身刑に減刑されましたが、
1991年に病気療養中に北京の施設で彼女は首を吊って自殺しました。

江青の病気はガンでしたが、
1976年には既に頭髪はハゲでかつらをかぶっていたそうです。
表舞台に立つ事は二度とあり得ず、名誉挽回などもあり得ず、
病気は進行し続け、年齢的にも、もう希望は無く絶望して、
自ら命を絶ったものと思われます。
1976年に逮捕されてから15年の人生でした。
享年87歳。

江青を、いい人と思う人はまず居ないでしょう。
彼女は稀代の悪女として、その名前を後世に残したのです。

天国と地獄を見た女性には、建礼門院がいますが、
彼女は時の最高権力者(平清盛)の娘として、
蝶よ華よと育てられたのであり、政治には全く関与しませんでした。
自分の意思で他人を貶めたり、死に至らしめたりは皆無でした。
同じ、天国と地獄を見たと言っても、その内容は大違いですね。



コメント (2)
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男装の麗人・川島芳子

2021-02-04 15:25:31 | 歴史






男装の麗人・川島芳子(よしこ)と聞いて、どれだけの人が知っているでしょう?
戦前と戦中の日本と中国を舞台として活躍した女性ですから、
殆どの人は名前すら聞いた事はないかも知れません。

私は、子供時代にその名前を母から聞かされました。
母は娘時代に中国の奉天駅(ほうてん)で、川島芳子を見た事があるそうです。



その頃の川島芳子の人気は絶大で、
それは日本の若い女性が、宝塚の男役スターに憧れるのと同じだったみたいです。



川島芳子の父親は粛(しゅく)親王。清王朝の血を引く皇族でした。
彼女の本名は、愛新覚羅、顴珅(あいしんかくら・けんし)
(厳密には名前のけんしの文字は違う)
漢名は金壁輝。その他にもいくつかの名前を持っていました。
1907年~1948年(享年40歳)

愛新覚羅の名前は、以前、ブログに書いた、
「天城山心中、天国へ結ぶ恋」の、愛新覚羅慧生(あいしんかくら、えいせい)が居ましたね。
彼女も清王朝の血縁でした。
川島芳子の父には何人かの愛人と、20人くらいの子供がいました。
芳子もその子供の一人でした。
清王朝の血縁、一族はきっと沢山いるのでしょう。
現在、日本に何人もの愛新覚羅姓の人達が住んでいます。

1913年(大正2年)
父親の粛親王は川島浪速(なにわ)と義兄弟の契りを交わし、
娘を養女に差し出します。
その時、父親は川島に「君に玩具を進呈する」と言ったそうです。
1915年、芳子は来日し川島家に入ります。
芳子は8歳、川島浪速は47歳でした。







川島浪速は、当時、大陸浪人と言われた人種でした。
大陸浪人・・日本の大陸進出に係った民間活動家。
彼は満蒙独立運動の先駆者でした。
(満州、蒙古を日本の勢力圏とする運動)
川島浪速は戦後に亡くなりますが、日本と中国を股にかけ、
民間人と軍人と、外国人らの間を上手く立ち回って、かなりの資産を築きました。

浪速は若い時に罹ったマラリアの治療が不充分で、
年々耳が悪くなり、晩年は殆ど聞こえなくなりました。
そういったイライラがあった為でしょうか、
浪速は幼い芳子に手を付けたみたいです。
事情に詳しい人に言わせると、「彼等は血の繋がりはない、
しかし、あれは近親相姦だ」と嫌悪感覚えたそうです。
私も母から「そういった事だったみたいよ」と、聞かされました。
きっと最大の原因はそれだったのでしょう、
芳子は17歳の時にピストル自殺未遂事件を起こします。
その後、彼女は断髪し男装する様になりました。



1927年、21歳の芳子は、
24歳の蒙古族のカンジュルシマブと結婚しました。
しかし、この結婚は長くは続きませんでした。
芳子が家を出てしまったのです。





1930年(昭和5年)芳子は日本軍人の田中隆吉と知り合います。
田中は戦後まで生き残り、最終的な階級は少将でした。
彼等はすぐに男女関係になり、田中は芳子の語学力、明晰な頭脳、行動力を買い、
スパイ工作の世界へと芳子を引きずり込んで行きました。

田中とは別れる事になったのですが、
日本に帰った芳子は、昭和の天一坊と言われ、
30代の若さで数十億円を儲けた相場師と一緒になったりと、
華やかさから縁の切れない生活を送っていました。

彼女がどの程度スパイ行為を働いたのかは、分かりませんが、
日本と中国を行き来し、中国人、日本人、外国人、軍人、民間人と、
持ち前の行動力で動き回ったのかもしれません。



芳子は東洋のマタハリと言われました。
第一次大戦でパリを中心にしてスパイ行為を働いたとしてフランス軍に捕まり、
死刑となったオランダ人のダンサーです。

しかし、段々と彼女の存在はうとまれるようになります。
戦争が終わると彼女はスパイ行為で中国に逮捕されました。
裁判には何千人という傍聴希望者で溢れたそうです。
彼女の人気は全く衰える事は無かったのです。





彼女は、死刑を回避しようと、自分は中国人ではなく日本人だと、
川島浪速に戸籍を求めたりもしましたが、
1948年(昭和23年)3月25日に、
北平第一監獄(北京なのでしょうか?)で、銃殺されました。
享年は40歳。

辞世の句ではありませんが、彼女が若い頃から好んでいた句があります。

家あれども 帰り得ず
涙あれども 語り得ず
法あれども 正しきを得ず
冤(えん)あれども 誰かに訴へん

生まれた血筋ばかりはどう仕様もない。
生まれた時代も、どう仕様もない。
時代と戦争に翻弄されるがままで、本当に気の毒ですね。
やはり、人間は普通が一番いいのかも知れません。


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