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途方もないバイク

2020-07-11 06:18:47 | バイク
8200ccのエンジン アメリカの怪物バイク ボスホス 【BOSS HOSS V8】






ボスホスというオートバイを知っている方は、どのくらい居るのでしょうか?
アメリカのオートバイメーカーです。

ボスホスをひと言で言うと、とにかくデカイ。
これに尽きます。

エンジンの排気量が8200cc。
それより小さいのでも、6200cc。5700cc。
シボレーのV8気筒エンジンというのですから、もう開いた口がふさがらない。
全くアメリカという国はとんでもなく途方もない事を考え、
また、それを実際に造っちゃうんですから、信じられないお国ですね(笑)

ボスホスは、アメリカ・テキサス州のメーカーで、
創立は1990年。
最大排気量8200ccエンジンは、世界的に厳しくなった環境規制をクリアできず、
現在は造られていないそうです。
ですから、何が何でも一番デカイのが欲しいという方は中古を探すしかありません。



メーターは、左から水温、油圧、スピード、タコ(回転計)電圧。
あれ? そうです、燃料計は付いてないんですね。





しかし、写真で見ると、やっぱりそのデカサが半端じゃないね。
これを倒してしまったら・・ワシャもう知らんよ・・・

8200は502馬力、車重660キロ。燃費5~6キロ。
6200・・455馬力・
5700・・355馬力・560キロ。
もうこうなると、馬力や車重がどうなろうと知った事かの世界ですね。

燃料タンクは32リッターなので、満タンにしても100キロチョッとしか走れません。
これで長距離を走るとなったら、年がら年中給油する羽目になりますね。知った事か。

大体、普通の自動車でも、今どき8200ccのエンジンを積んだ車なんて聞かないよ。
それを、何をとち狂ったかバイクになんか載せちゃってね~。
ホントに困ったもんだ。







こういった3輪車スタイルを、トライクと言います。
こっちの方が、ボスホスには合ってる気がしなくもない。
でも、3輪車だと高速道路でも最高速度は80キロに規制されてしまうんです。
これは、持て余す大排気量を誇るボスホスには辛いね、生殺し状態ですね。
しかも、こういったバイクは全部がハンドメイドですから、
価格も1500万円とかです。
尤も、価格だとか燃費だとか、チマチマ気にする人にはボスホスを持つ資格はないでしょうね。

ギアは1速か2速のオートマチックで、
バックギアが付いたのもあるみたいです。
多分、バックギアが付いてないと取り回しには一苦労すると思います。

とに角、直線を走るにはアクセルを吹かすだけで、圧倒的な加速をするそうで、
それはアメリカという国の道路事情でこそ実力が発揮されるのだと思います。
これを日本で乗る人というのは、
要するに(デッカイ)バイクの迫力を他人に見せつけるのが、きっと好きなんでしょう。
これを日本の狭い、そしてくねくねとカーブの多い道路で、
手足の如く乗り回すのは・・どうなのかな?
少なくとも私は御免こうむります。



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伝説のライダー・・マイク・ヘイルウッド

2020-05-28 15:57:46 | バイク


マイク・ヘイルウッドは、
1940年生まれのイギリス人、オートバイレースのライダーです。
数々の記録を打ち立て、天才ライダーと言われました。

イギリス最大のバイク・ディーラーチェーンを経営する
富豪ヘイルウッド家に生まれました。
その為、幼少時よりバイクに親しみ17歳でレースデビュー。
彼の人柄は謙虚で好感度が高く皆から親しまれました。



1950年代から1960年代のオートバイレースで活躍し、
世界グランプリで9回のタイトルを獲得しました。
1962年には22歳の若さで500ccクラスのタイトルを獲ります。
この記録は長く破られませんでした。
その頃ライバルだったのは、これも有名なアゴスチーニでした。



1960年代のオートバイ雑誌を見ると、
彼の雄姿が載っていない月はありませんでした。
イギリス国旗をあしらった黄色っぽいヘルメットは強烈なイメージで、
今も私の心に焼き付いています。

1970年代に入ると、彼は4輪レースに転向します。
1972年にはフォーミュラ2で、ヨーロッパチャンピオン。
       フォーミュラ1では、2位でした。
1974年、事故で負傷しF1を引退します。

1978年。
彼はオートバイレースの最高峰、有名なマン島TTレースに復帰します。
30代後半(37歳か38歳)ほぼ7年間の空白を経ての復帰に、
関係者たちは、みな単なるエキジビション的な出場だと思っていました。
ところがいきなり優勝し、世界中の大きな話題となったのです。
翌、1979年にも優勝し、圧倒的な凄さを見せつけたのでした。



ヘイルウッドが長年、イタリアのドカッティーと専属契約を結び、
各地で華々しい戦歴を打ち立てきた経緯があり、
1978年の復活優勝を記念して、
ドカティー社では、マイク・ヘイルウッドレプリカという、
モデルを発売し人気を博しました。
今でも、このドカティーはマニア垂涎モデルみたいですね。

よく伝説の〇〇といった事が言われたりしますが、
マイク・ヘイルウッドもそれでした。
まさに伝説の天才ライダーでした。

1981年、
自家用車を運転中、前を走るトラックがいきなりUターンを始めたのを避け切れず、
ヘイルウッドは8歳の娘と共に亡くなってしまいました。 
まだ40歳でした。





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ヴェスパ・・ローマの休日のスクーター

2020-03-01 19:44:42 | バイク
Roman Holiday (1953) | (3/5) | Vespa


ヴェスパはイタリアのスクーターです。

元は1884年創設の輸送機器メーカーでした。
鉄道車両や航空機で培われた技術を基に、
第二次世界大戦終了後にスクーター生産に乗り出しました。



ヴェスパを有名にしたのは、
何と言っても1953年の映画「ローマの休日」です。
オードリー・ヘップバーンが見様見真似でヴェスパを動かし、
あわてたグレゴリー・ペックが後席に乗ってローマ市内を暴走する・・・
あの、あまりにも有名なシーンです。







あの映画で彼等が乗っていたのは、
通称、フェンダーライト『フェンダー(泥除け)』の上にヘッドライトが付いている。
正式にはヴェスパ125というモデルです。

ヴェスパのスクーターは11年間で100万台以上を売り上げる
大ヒットとなりますが、
それも「ローマの休日」があったからと言えるのでしょうね。

ヴェスパのスクーターはそれ以後もよく映画に使われました。

1979年  さらば青春の光
  86   ビギナーズ
  94   愛の奴隷
   〃   親愛なる日記
  99   リプリー
2000年  102
  01   ウェディング・プランナー
  03   トスカーナの休日
   〃   リジー・マグワイア・ムービー
  04   アルフィー
  05   ザ・インタープリンター
  06   トランスフォーマー
   〃   ベネロピ
  07   トランスフォーマー
   〃   レミーのおいしいレストラン
  08   ベンジャミン・バトン数奇な人生
  09   40男のバージンロード
  10   ラスト・ターゲット
  11   ニューイヤーズ・イヴ
  12   バチカンで逢いましょう

凄い数ですね、ローマの休日を入れて21本。
如何にヴェスパが多くの人達から愛されているか・・・



現在は最も安いモデルがこんな型らしいですが、それでも30万円以上。



高価なのはこういった型で130万円くらいするみたいです。

  



イタリアにはヴェスパ以外にも、
ランブレッタというスクーターがあったのですが、
1990年代にイタリアでの製造をやめてしまい、インドだったかで
生産されていたそうですが、
最近再びイタリアでの生産を始めたみたいです。

しかし、あのヴェスパの牙城に如何に食い込めるか?
日本でも、ヴェスパファンは確実に存在し、
彼等は最新型ではなく、あのローマの休日の香り漂う、
いにしえのモデルをこよなく愛している感じですね。

古い型のヴェスパにオールドファッションのヘルメットをかぶって、
あの独特の排気音をまき散らしながらトコトコと這いずってる姿。
あれってけっこうカッコイイと私は微笑んでいます。



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マン島TTレース

2019-06-23 07:05:16 | バイク
320kmオーバーの市街地レースがハンパなく カッコいい! 【マン島TTレース】




マン島TTレース(まんとう、てぃーてぃーれーす)は、
イギリスのマン島で1907年から開催されているオートバイのレースです。

TT(ツーリスト・トロフィー)という名称は、
以前は、ヨーロッパの都市と都市を結ぶ公道を使用して行う、
都市間長距離移動レースという形態であった為、
tourist(旅行者でなく「遠征するスポーツ選手」という意味で、
マン島の場合はライダーの事を指す)によって、
競われるレースという意味合いを持つ事に由来している。
コースは一周約60キロで、396メートルを超える高低差がある。



TTレースは毎年5月から6月にかけて、
2週間以上にかけて開催され、
オートバイレースの最高峰の象徴となり、
他に類を見ない、ライダーとマシンの過酷な試練の場である。

200馬力のスーパーバイクで町や村を駆け抜け、
住宅の垣根の脇を鈴なりのファンが居並ぶ前を、
猛スピードで通過して丘陵地へと向かう。
そのスリルを一旦知ってしまった者には、
どんなレースも、もはや生ぬるく感じてしまうのです。



最高速300キロで走るという事は、
1秒間に100メートルを走るという事で、
ほんの僅かなミスが文字通り命取りになる。
これは危険と栄光が背中合わせの究極の戦いなのです。

マン島TTレースの虜になると、
他のレースではまるで面白さを感じない。
サーキットレースは、つまらないと思い、何の面白味も感じない。
となってしまうのです。

1930年(昭和5年)
多田健蔵がアジア人として初めてマン島TTレースに参加しました。
彼は初出場を完走した年齢が42歳であった事を、
高く評価されて、レプリカ賞を獲得しました。

1957年には、ボブ・マッキンタイヤが、
初めて100マイル(時速160キロ)を超える平均速度を記録します。
1959年は、日本のホンダが初参戦。
1961年には、マイク・ヘイルウッドがマン島初優勝を記録し、
1963年には50CCクラスでスズキの伊藤光夫が日本人として初優勝します。
日本人の優勝は、今に至るも彼一人だけです。



マン島TTレースは世界最大のロードレースイベントであり続けましたが、
一方では60キロに及ぶマウンテンコースや、
インターバルスタートという他のグランプリとは異質な要素が、
近代的なサーキットに慣れたGPライダー達から敬遠される様になった。

また舗装が荒れていてもコースが長距離に及ぶ為に、
改修費用は膨大なものになる一方で、
観客からは入場収入を得ることが出来ない公道レースでは、
費用の捻出ができなかった。

オートバイの速度向上にコースの整備が追い付かず、
安全性を重視するライダーはマン島TTレースへの、
出場を拒否する様になった。
1976年、FIMは翌年から、
マン島TTレースをロードレース選手権のカレンダーから外しました。

2002年には平均速度が200キロを超える様になります。
マン島TTレースは安全面から常に将来が危ぶまれています。
レース専用のサーキットと異なり、
コースのすぐ脇には民家の石壁が存在する上、
郊外の直線路では非常な高速に達する為に、
転倒やコースアウトを喫したライダーは、重傷や死亡に至る例が多いのです。
1907年から2009年までに、
239人のライダーが命を落としています。

そういった命がけのレースであればあるほど、
一旦、その魅力に取り憑かれると、他のレースなどは、
生ぬるくて面白味を感じないという事になってしまうのですね。


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天才ライダー・伊藤史朗

2019-01-23 10:52:21 | バイク




1955年から1960年代にかけて、
「天才」と言われた伝説のライダーがいました。
彼の名は「伊東史朗・いとう・ふみお」
皆は彼をふみおとは呼ばず、シローと呼んでいました。
私もずっとシローだと思っていました。

伊藤史朗・・1939年10月生まれ。
兄・姉がいて、史朗は次男でした。
彼の父親・伊藤昇は音楽家であり、作曲家でありトロンボーン奏者でもありました。
「史朗」の名付け親は、父親が師と仰いでいた、
作曲家の山田耕筰でした。

史朗は13歳の時に母親を亡くし、
父親と姉とで史朗を育てたそうですが、
自由奔放に勝手気ままに生きる史朗にかなり手こずったみたいです。

史朗は父の血を受け継いだのでしょうか、
ピアノやウクレレの演奏もし、身長178センチと大柄な体躯で、
低音で歌も上手かったみたいで、後にレコードを出したりしました。







1955年、第一回浅間火山レースが開催されました。



このレースに若干16歳の伊藤史朗はライラック(丸正自動車)のSYZ(250CC)で出場し、
全くの無名ながら優勝したのです。



これはその後の、浅間を駆け抜けた伊藤史朗の雄姿です。
オートバイはライラックのシャフトドライブではなく、チェーン駆動ですね。

1956年・・ヤマハワークスチームに加入。
また、浜松でオートレースの選手としても活動しました。





1957年・・第2回浅間レースでリタイヤ。
1958年・・初の海外(アメリカ)でのレースで6位。
1959年・・第3回浅間火山レースで優勝。
1960年・・世界グランプリに出場。
1961年・・ヤマハのワークスドライバーとして世界グランプリを転戦。
1963年・・世界グランプリで、ベルギーで優勝。
1964年・・マレーシアグランプリで転倒。頭部に重傷を負う。

一度重い怪我をすると、それが為にドライバーは勇気が出なくなるのでしょうか?
それ以後、彼の成績は低迷します。

1965年・・拳銃の不法所持で逮捕されます。
また、薬物使用などで私生活に問題があったみたいで、
約束は守らず、嘘もつき・・・
自殺未遂事件を起こしますが、私的な女性に発見され一命を取り留めたとか。

1966年・・伊藤史朗はアメリカに不法入国します。
それ以後の伊藤は一度も日本に帰国する事なく、
生涯をアメリカで過ごしたと言われています。
フロリダで日本食レストランを経営したり、
ホテルチェーンの副社長をしていたとか・・・?

多くの人が彼を「天才」と呼び、
「彼より早く走れるライダーは居なかった」と、まさに伝説的なライダーでした。

1969年には、
大藪春彦が、伊藤史朗がモデルだと言われる小説「汚れた英雄」を書きます。



この小説は1985年に草刈正雄主演で映画化されました。
この小説や映画を観てレーサーになったライダーも、
数多く居るのだと思います。



また(消えた天才ライダー)として、
こういったドキュメンタリーの本も出版されました。

時代を駆け抜けた天才ライダー・伊藤史朗。
一世を風靡したと言ってもいい天才の短い人生でした。

伊藤史朗・1991年没・51歳でした。






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