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河童の歌声

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幽霊船

2020-09-10 20:44:16 | 船舶
「幽霊船」という言葉を知らないという人は、あまり居ないと思います。
しかし、それがどんな意味なのかを知る人は・・どうなんでしょう?
幽霊船=マリー・セレステ号と思う人はかなりな通ですね。



幽霊船・・海の怪奇現象的に語られる事が多く、その多くは帆船です。
     誰も乗っていない船が突如現れたりするので、船乗り達から恐れられる。

マリー・セレステ号は実存した船で、幽霊船として最も有名な為に、
幽霊船=マリー・セレステ号として代名詞的に語られる伝説の船です。
これは現在になっても、その真相は解明されていないのです。

1872年(明治5年)12月4日。
ポルトガル(イベリア半島)沖700キロの大西洋で、
一隻の遺棄された帆船が通りがかりの船によって発見されました。
これが世に名高いマリー・セレステ号事件の始まりでした。



この日の昼、イギリスの帆船、デイ・グラチア号は、
はるか前方を行く一隻の帆船を見つけました。
この時代の帆船は、まだ無線も無い時代ですから、古くからの習慣で、
お互いの船は接近し、挨拶を交わし、情報交換などをしていたのです。
しかし、デイ・グラチア号はその船に接近すると、
何か不可解で異様なものを感じたのです。
まるで操縦士が居ない様にふらついていたのです。

その様子にただならないものを感じたデイ・グラチア号の船長、
ムーアハウスが更にその船をよく観察すると、
その船が彼の親友ブリッグス船長の持ち船マリー・セレステ号である事を知ります。

ムーアハウス船長たちはマリー・セレステ号に乗り込みました。
マリー・セレステ号は、
全長33メートル、全幅8メートル、282トンの木造帆船です。
乗り込んだ彼等はマリー・セレステ号が無人である事を感じ取ります。

船内を調べた彼等はあまりにも不可思議な事ばかりなのを知ります。
普段は硬く閉ざされている貨物室の蓋が開かれている。
固定されている筈の短艇が何処にも無い。
食糧庫には充分な量の食料が保管されている。
食堂のテーブルには食器のカゴが置かれていて、食事の準備が進められていた様子が見てとれる。

何かが慌てて持ち出された気配はなく、
衣類や装身具、貨幣なども整頓されていて乱れた様子はない。
ただ不思議なのは、航海するに最も重要な、
六分儀やクロノメーター、航海日誌などが無くなっているのです。

マリー・セレステ号はニューヨークからイタリアに向かっていました。
(これは親友であるムーアハウス船長が知っていた)
船には、ブリックス船長と妻、2歳になる娘。
2名の航海士、1名のコック、4名の水夫の合計10名が乗っていましたが、
その10名の人達の姿は何処にも見えないのです。

マリー・セレステ号は、デイ・グラチア号の乗組員たち操縦され、
ジブラルタルに入港します。
その頃の規定で、遺棄された船を回航した者には賞金(約900万円)
が出る事になっていて、ムーアハウス船長たちは賞金を受け取ります。

それがあったので保険会社らは、ムーアハウス達が、
マリー・セレステ号の人達を殺した犯罪なのではないかと、
あらゆる仮定を打ち立てますが、血痕すら無く、
むしろ自分たちの信用を失ったりします。

この事件は当初から不可解な現象が多かっただけに、
推理小説の恰好の題材になり、
事実とはかけ離れた話が伝えられる事にもなりました。
〇 キャビンの食卓の上には、更に盛られた温かい食事が手付かずに残されていた。
〇 食堂のテーブルの上の紙に(妻が・・)と書き残されていた。
〇 ベッドに手を触れると、起きて間もなくの様に暖かかった。
これらは現実にはあり得ない噴飯もの話となっています。

マリー・セレステ号事件はあまりにも不可解な事が多く、
その後も時代を超えて色々な著名人などが仮説を立てたり、
推理したりしていますが、
いづれも決定的なものは何ひとつなく、
今もって謎のままなのです。














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海難史上最悪の事故

2020-09-06 12:01:51 | 船舶
1987年12月20日深夜、
フィリピンで世界最悪の海難事故が起こりました。
その船の名は「ドニャ・パス号」

海難事故の犠牲者数は正確さに欠けるのですが、
この事故の犠牲者は最終的な公式発表では、4375人でした。
これは有名なタイタニック号の犠牲者1500人を大幅に超え、約3倍なのです。

一隻の船の沈没で亡くなった犠牲者が一番多かったのは、
ドイツの客船グストロフ号の9343人とされています。



この事件については2016年4月25日のブログに、
「海事史上最大の悲劇」として書きました。
同じ頃にはゴヤ号、シュトイベン号と、合計3隻の客船が沈み、
3隻合計の犠牲者は約2万人という数で、
これら3隻は「海の三大惨事」と言われています。

しかし、これらはみな戦争の為に魚雷などで沈められた事件であり、
完全な事故で沈没した船で最大の犠牲者数を出したのは、
フィリピンで沈没した、このドニャ・パス号なのです。

この事故のニュースは世界中を駆け巡りましたが、
扱いは小さく、すぐに忘れ去られてしまいました。
それはタイタニックの様な巨大な豪華客船でもなく、たった2000トンクラスの、
小さな船であり、乗船していた人がほぼ全滅してしまい、
事故の様子を知る人が殆ど生存していない事もあったのでしょう。

フィリピンは数えきれない程の島を有する島しょう国家であり、
これらの島を行き来するのは船に頼らざるを得ないのです。
そういった用途によく使われたのは、日本製の中古船でした。



ドニャ・パス号も元は日本のひめゆり海運が所有していた「ひめゆり丸」でした。
2640トン。
これをフィリピンの海運会社サルピシオ・ラインが買い取ります。
同社はこれを改造して、定員1518人に増員させました。

当時、フィリピンは島々を運行するこういった小型客船だらけで、
特に国の休祭日や年末には旅客輸送がピークになり、
通常の輸送では客をさばき切れなく、基準を無視して、
数倍もの客を乗せて運行するのが半ば常識化しており、
監督官庁も見て見ぬフリをする黙認だったのです。
乗船者名簿などあって無きが如くで、一体何人が乗っているのかなど、
まるで分らなかったのです。



1987年12月20日の早朝、
ドニャ・パス号はフィリピン中央部のレイテ島、タクロバンを出港。
この時点で乗船客は1300人。
すでに定員状態だったといいます。

同号はレイテ島の北にあるサマール島のカタロバンに寄港し更に乗船者を乗せます。
その結果、大部屋も通路も食堂も甲板も、
空所という空所は溢れんばかりの荷物と人で溢れかえり、
船内はそれこそ立錐の余地もない程の大混雑となっていたのでした。
この時の乗船者は4000人を超えていたのでした。

こういった状態で深夜の海を航行するドニャ・パス号は、
反対側から航行して来た、小型タンカー、ヴェクター号と衝突してしまいました。
ヴェクター号は650トンの小型船ですが、
1000トンのガソリンを満載していたのです。



(この写真はヴェクター号とは無関係です)
そして衝突とほぼ同時にヴェクター号は大爆発を起こし炎上しました。
爆発と同時にドニャ・パス号も一瞬にして炎に包まれてしまいました。
生存者はたった24名だけで、
24名は爆発の瞬間、爆風によって火災の外へ吹き飛ばされた人でした。



現場付近を航行中の他の船も、
流れだすガソリンの火炎の激しさに、近寄る事も出来ずにただ見守るのみ。
あまりに凄惨な光景だったそうです。

翌日も2隻の船は燃えさかり、火災が鎮火した時、
2隻の船は原型をとどめない状態であり、
その日の夕方には2隻とも沈没していったそうです。

その後、周辺の島々には250体を超える焼けただれた遺体が漂着。
しかし、現場の水深は500メートルを超えていて、
遺体収容は困難であるとして放置されたそうです。

事故の原因、責任は2隻の船の乗組員が全滅している為、判断は不可能とされました。
その後、最終的な死者数は4375人との発表があったそうです。

その光景を思い浮かべると、
ゾッとする様な深夜の惨劇ですね。




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ユーモラスな漂流

2020-09-02 11:01:53 | 船舶


現代では、一隻の船が長期間、漂流するという事は、
通信機関と航空機の発達により、まず考えられなくなっていますが、
無線が無かった時代には、航行の手段を失った船が、
長期間にわたり大海を漂流するという事が、ありました。

中には人知れず永遠に行方不明のまま、
乗組員が息絶えて完全な最期を遂げてしまった人達も多くいました。
中には「ジョン万次郎」の様に、偶然外国船に発見されるという、
幸運に恵まれた船乗りも稀にいたのです。

そういった中で、ひとつのユーモラスな漂流がありました。

船の名前はワイカト号というニュージーランドの、
5000トンの貨物船で、乗組員は56名です。

1899年5月22日、ワイカト号はロンドンを出港し、
オーストラリアのメルボルンに向かいました。
積み荷は様々な種類の食料品と雑貨で、その合計は6200トンでした。
6月4日に南アフリカのケープタウンに寄港し、
水や燃料、食料などを補給し、
6月6日にメルボルンへ向けて出港しました。

ところが出港から2日後の6月8日、
アフリカ大陸南端から880キロの地点で、
一基しかないスクリューのシャフトが折れてしまいました。
当時の船は蒸気機関に対する信頼度や、鋼鉄の製造技術がまだ未熟であり、
シャフトが折れるという事は少なくはありませんでした。
その為に、帆走装置を備えていた船もまだ多く残っていました。

しかしワイカト号の場合は、そういった信頼度がかなり上がっていたので、
帆走装置はもう備えていなかったのです。
つまり、ワイカト号は航行の手段を全く失ってしまったのです。
そしてまだ無線装置が無かった時代だったので、
ワイカト号は自分たちの窮地を知らせるには、
他の船に発見されるという偶然の機会を待つ以外に方法はありませんでした。

そして漂流から4か月と24日後の10月12日に、
イギリスの貨物船に偶然発見されたのです。
場所はオーストラリアの南西1000キロの海上でした。
そしてイギリス船に曳航されてオーストラリアの港に到着しました。

その時、56名の乗組員たちは全員が健康そのものでした。
何故全員が健康だったのでしょう?

その答えは、
途中寄港したケープタウンでオーストラリアまで航行するのに必要な、
30日分の水や食料品を積み込んだ後であり、
更に航行に必要な燃料である石炭と、
機関に必要な真水数百トンを積み込んだ直後に漂流が始まり、
また積み荷の中の4500トンが各種の食料品であったのです。

食料品はまるでデパートの食品売り場がそっくり引っ越してきた様であり、
乗り組み員全員の10年分以上の食料だったのです。
大量に積み込まれた石炭で暖房には困らず、
エンジンに使う為の真水はエンジンが不要になった為に、
飲み水としてふんだんに使えたのです。

また長期間にわたり一人の病人も出なかったのは、
船医が一人乗り組んでいた為に、
定期的な健康診断が行われていたからでした。

ワイカト号がイギリス船を発見した時、
救助を求める発光信号の光源となったのは、
有り余る食料油でした。

乗組員たちの最大の悩みは、
いつ発見されるか分からないという不安でした。
しかし、146日の漂流で56名の人間が健康そのもので、
発見された経緯には、何かユーモラスな一面が偲ばれるのです。











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リバティー船

2020-08-25 14:25:04 | 船舶
第二次世界大戦では、
物資を大量に輸送する必要から、戦時標準船という貨物船が大量に造られました。
この戦時標準船をアメリカでは、リバティー(自由)船と言いました。





7180トン・全長125メートル・全幅17.2メートル・航行速度20キロ。
機関は安価で大量生産向きの蒸気レシプロエンジン。スクリューは一基。
1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)にかけて、
アメリカは何と2712隻のリバティー船を建造したのです。
この驚くべき工業力。
ですから、アメリカの工業力の凄さを知っていた数少ない日本人は、
日米開戦を聞いた時、既に日本の敗戦を確信したのですね。
こんなに物凄い国を相手に、貧乏国の日本が敵う筈がないのです。

短期間に大量の貨物船製造をする必要性から、
アメリカは、ブロック工法とアーク溶接の技術を導入しました。
それが、戦後の造船に画期的な進歩をもたらします。

それまでは、一隻の船を船台で組み立てていたのを、
異なった場所で同じ型の物体を大量に造っておき、
それを船台で組み立ててゆく工法は画期的で、
驚くべきスピードで一隻の船を完成させたのです。
単純計算でも、一ヵ月に45隻という信じられない数字です。
一日あたり、1.5隻造ってしまうのです。
それどころか最盛期には、一日あたり4~5隻だったのです。



しかし、まだ未熟だった技術と低い理解度があって、
完成したリバティー船のうち200隻が、
脆性(ぜいせい)破壊により沈没してしまいました。
しかし、アメリカはこの事実から、更に完成度の高い船を作り上げていったのです。

面白いと言うか、これほど大量の船を短期間で完成したのはいいのですが、
船名を付けるのに大変な苦労をしたそうです。
あらゆる歴史上の有名人・
あらゆる著名な作家・画家・音楽家・俳優・声楽家・実業家・
教育者・大学創設者・冒険家・スポーツマン・
それも、あっという間に種が尽きてしまい、
とにかく、ありとあらゆる考えうる全てを船名にしたそうです。

戦後、一躍世界のタンカー界のトップに躍り出た、プレイボーイとしても有名な、
ギリシャのオナシスは、このリバティー船の払い下げを大量に買い付け、
それを基に資産を築き上げた人物でした。

しかし、戦争というのは、勝つ為にはこれほど途方もない事をするのですね。
こんな物凄いアメリカという化け物みたいな国を相手に、
竹槍なんてバカな事を言ってる国が戦争を吹っ掛ける、
全く相手を知らな過ぎにも程がある。
大人と子供の喧嘩でしたね。


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ロビンソン・クルーソーは実在した

2020-08-22 12:07:11 | 船舶



「ロビンソン・クルーソー漂流記」という冒険小説を知らないという方は、
あまり多くないと思います。
1719年にイギリスの作家、ダニエル・デフォーが書いた本で、
たちまち世界中で爆発的な人気となったのです。
少なくとも題名くらいは、一度はきっと聞いた事があると思います。

乗っていた船が難破して、たった一人で無人島に上陸し、
そこで様々な体験をして、その後、救い出されて故郷に帰り着く。
簡単に言えばそういう物語ですね。
でも、それは単なる作り話と、みんながそう思っていました。
しかし、それは違うんです。
実はこの物語は全部本当にあった話なんです。



南米大陸チリの沖合700キロの海上に、
100キロの長さにわたり小さな島々が点在する、
ファン・フェルナンデス諸島があります。
その中で最大の島が、マス・ア・ティエラ島で、
東西の長さ20キロ。幅8キロ、最高標高915メートルの山があります。





現在は600人の島民が住んでいますが、
当時(1700年代)は全くの無人島でした。

ロビンソン・クルーソーのモデルになったのは、
イギリス人の船乗りであった、
アレクサンダー・セルカークという人物でした。

1676年に生まれた彼は23歳の時に船乗りになります。
イギリスの私掠船(国家公認の海賊船)の乗組員でした。

私掠船というのは16世紀、イギリスのエリザベス一世により考え出されたもので、
当時、イギリスの敵対国であったスペインの商船を襲い、
積み荷の財宝を略奪する任務を持たされた船で、
奪った財宝はイギリス国庫に入り、
一部は船長や乗組員に還元されたのです。

この時の私掠船は2隻で船団を組んでいました。
セント・ジョージ号と、シンク・ポーズ号。
船団長はセント・ジョージ号の船長、ウィリアム・ダンピア。
シンク・ポーズ号の船長は、チャールズ・ピッカリングでした。
セルカークは航海の経験からシンク・ポーズ号の航海長を任されていました。

ところが航海の最中に船長のピッカリングが急死してしまいます。
そして、彼に代わって副船長であった、
トーマス・ストラドリングが船長を務める事になります。
ところがピッカリングの下では大人しくしていたストラドリングは、
船長になった途端に猛烈な暴君ぶりを発揮し出したのです。

航海長のセルカークはもともと正義感が強く気の強い性格でしたが、
たちまち新任の船長との間には不和が生じる事となりました。
それどころかストラドリングは船団長の指揮にも異議を唱え、
遂に二人の間は完全に決裂し、2隻の船は別行動を摂る事になります。

ストラドリングの暴君ぶりは船員の反感を買いますが、
誰一人それに反抗する事はできません。
ただ一人、セルカークだけが反抗していたのでした。

船は途中、食料・水・薪などを補給する必要に迫られ、
フェルナンデス諸島の、マス・ア・ティエラ島に立ち寄ります。
この無人島には野菜、果物、アザラシ、鳥などが豊富で、
飲料水や薪なども大量に採取できたのです。
シンク・ポーズ号は島に数日間滞在しましたが、
いざ出発の時になって、船長は邪魔者であるセルカークを、
島に置き去りにするという手段に出たのです。
1704年10月の事でした。

置き去りにされたセルカークには絶望しかありませんでした。
しかし、彼の為に多少の物は置いていったのでした。
多少の衣類・マットレス・タバコ・斧・ナイフ・湯沸かし道具・
少しの大工道具・銃一丁と弾丸・などでした。
島には飲料水は豊富ですが、食料は豊富とまではいきませんでした。

セルカークは何としてもイギリスに帰りたいと願うのですが、
イギリスの私掠船に痛めつけられていた、
スペイン・ポルトガル・フランスなどの船が島にやって来ても、
救いを頼めないのです。
下手をすると殺されてしまう恐れがあります。
つまりセルカークはイギリス船だけが島に来る事を待たなければならないのです。

彼は海岸に仮設の家を建て、
そこから2キロ、高さ565メートルの山に毎日行っては、
島に近づく船を見張っていました。

1709年2月12日。
遂に彼は島にやって来る船を見ました。
船尾に掲げられた国旗は紛れもなくイギリス国旗でした。
セルカークは遂に助かったのです。
島に上陸した船員たちは、
目の前に現れた二本足で歩く動物を見て度肝を抜かれました。

猿とも野獣ともつかないその動物はよく見ると人間みたいです。
衣類らしき物はまとっていますが、髪は伸び放題、日焼で顔は真っ黒、足は裸足。
そして英語らしき言葉を話すのですが、
誰一人その言葉を理解できなかったそうです。
それもそうでしょう、彼が言葉を話したのは4年4か月ぶりだったのですから。
「アイ」と「ヘルプミー」以外は全然わからかったそうです。

島から救い出されたセルカークは、その船(デューク号)で航海士として働き、
それから2年8か月後の、
1711年10月に再びイギリスの土を踏む事ができました。
セルカークは35歳になっていました。

デューク号の船長だったウッズ・ロジャースが、
4年4か月の島での暮らしを事細かく記録し、
その記録が作家ダニエル・デュフォーの目に止まり、
それから8年後に「ロビンソン・クルーソー漂流記」として、
世界的な不朽の名作となったのです。

セルカークは再び海の世界の人となり、
イギリス海軍のフリゲート艦「ウエイマス号」で、
艦長に次ぐ高い地位である主席航海士になります。
艦が西アフリカ沖を航行中に、
当時、西アフリカ方面で蔓延していた伝染病にかかり、
1721年12月、彼は病死しました。
享年44歳だったそうです。












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