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河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

船の別れって感動的ですね

2023-04-11 15:09:59 | 船舶
2018.3.25 別れの季節 東京都利島村 感動の見送り(後半に見どころ)カットなし


船が岸壁を離れて去って行く時って、何かセンチメンタルになりますね。
あれは船の他だと夜汽車とかが、同じムードを漂わせるのでしょうか。

2017/6/27 【感動! 生ドラ&さよならの汽笛3回&トラック野郎達の惜別】 ラストラン 新日本海フェリー フェリーしらかば 引退  苫小牧東港出港


これは船が汽笛で出港を告げる風景に、
岩壁に居並ぶトラック野郎たちが、クラクションで応えるという図で、これもまたいいですね。

サンマ漁出航 涙でしばしの別れ(2021/8/27放送)


これは漁船が遠洋航海に行く時なのでしょうか、
子供が若いお父さんとの別れに泣いているのが、判りますね。

出会いと別れの春 小豆島中央高校で島を離れる先生を見送り 香川・小豆島


住民と子どもたちに見送られて 延岡市の離島「島野浦島」で教職員7人が島を後に


その昔、南米への移住がありました。
あの時代は飛行機ではなく、船の時代でしたから、
人によってはまさに一生の別離であり、泣き崩れた人もたくさん居たんだと思います。
あのアントニオ猪木一家のブラジル移民もその中のひとつでしたね。

私は約30年前、船ではなく飛行機でしたが、妻とまだ4歳の愛娘との1年間の別離があり、
成田空港で泣いてしまいました。
船に比べ極めて現実的な空間ではありますが、人の心に変わりはないのです。
可愛い盛りの娘と妻との1年間の別れは、やっぱり悲しかった。




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客船ヴェスツリス号の悲劇

2023-03-07 07:06:30 | 船舶


イギリスの貨客船ヴェスツリス号は1912年完成。
10500トン、旅客定員610名、乗組員250名、合計860名。
貨物積載量7000トン。

この船の沈没は特異な事件として、イギリスの海員養成に際し、
船舶運航当事者の責任のあり方の格好の教材として、
商船士官の教育の中に生かされているのです。
何故ならこの沈没は、最高責任者である船長の義務責任怠慢で起きたからです。

ヴェツリヌス号は1928年11月10日。
ニューヨークからブエノスアイレスに向けて出港しました。
船長は海上生活40年というベテランのキャレー船長で、
長い船長生活の間に一度も海難や事故の経験がありませんでした。
この事が彼を自信過剰で慢心にさせていたのです。
彼は自分は絶対であり、自分が指揮している以上、船は安全、完全であるという、
観念にすり替わり、様々な訓練、部下の教育という事をなおざりにしていたのです。

ニューヨーク港の埠頭を離れる時、それを見送る人々は何か違和感を感じていました。
船体がわずかに右に傾いていたのです。
何故、傾いていたか?
それは船倉に約6千トンの貨物を積み込んだ際に、何かの不手際が発生し、
わずかにバランスが崩れたのです。
キャレー船長は船の傾きを知っていたらしいのですが、
それを修正するには、一旦全部の貨物を降ろし、再び積み直すしかありません。
それを行うには2日間以上、出港が遅れる事になります。
それは船舶会社にとって莫大な負担となります。
そこで船長は、傾きは船のバラストタンク(船体にある海水を飲み込む構造物)に、
注水してバランスを立て直せば良いと考えたのです。
しかし、これは本来は絶対にやってはいけない行為でした。
船長は勿論、それを知っていながらやってしまったのです。

最初の傾斜は5度程度だったのですが、
それでも船客達はつまづきや、よろめきを感じ何とも言い難い違和感を感じていました。
出港してから4時間後には、海は荒れ模様になり船体の傾きは増すばかり。





そこで船長は、船の3か所にあるバラストタンクに満たしていた海水を、
全て排出させる事を命じます。
これがヴェツリヌスの運命を決めてしまいました。
船体は右に傾いているのですから、左舷のタンクに水を注入し、
右舷のタンクの水を排出させるべきだったのに。
そんな事は子供にでも分かる事です。
ベテランであるキャレー船長が、何故そんな事をしてしまったのかは、永遠の謎です。
バラストタンクを空にした船の重心は当然、上に上がりました。
もはや、船を救う手立ては無くなってしまったのです。



これは沈没寸前の船の姿です。
転覆の危険が迫っていると判断した船長は「SOS」を発信しました。
そして、乗組員達に非常ボートからの退船作業を命じました。
しかし、その瞬間からヴェツリヌス号は大混乱となってしまったのです。

全ての乗組員が一度も訓練をした事もなく、何をどうすればいいのかを全く知らなかったのです。
乗組員達は右往左往するばかりで、そこにパニックになった船客が加わり、
船は収拾の尽かない事態になってしまいました。



SOSを聞きつけた船は6隻で、全部が現場に駆け付けたのですが、
8時間以上かかったのでした。
事故の犠牲者は112名でした。

キャレー船長は、沈没寸前に航海士からの退船要請を聞き入れず、
一人で船橋に戻って行き、船と運命を共にしました。
出港時の船体の傾きを知りながら出港するという取り返しのつかない大失態。
退船に際しての大混乱。
その全てが自分の責任だった事に耐えられなかったのでしょう。
日本ではなく、欧米で商船の船長が自ら死を選ぶという行為は、
タイタニック号のスミス船長と共に、珍しい例なのです。


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世界最大の船

2023-02-23 16:04:04 | 船舶


世界最大の船は、1979年に日本で建造されたタンカー、ノック・ネヴィスです。
全長458,5メートル。全幅68,9メートル。喫水24,6メートル。28万6675トン。
搭載される石油量は56万トン。
建造された当初の船名は、シーワイズ・ジャイアントと言いました。



しかし、現在この船は存在しません。2011年に解体されました。
この超大型船は、パナマ運河もスエズ運河も通る事は不可能です。
第二次世界大戦終了後、世界の石油需要は急増し、多くのタンカーが必要とされました。
1950年頃の世界の標準的なタンカーは、約1万トン。
1960年になると2万7000トンになり、
1962年には、4万5000トン。
1966年には、9万4000トン。
これもすぐに出光丸の10万7000トンで、タンカー10万トンの時代になり、
1975年には20万トンの時代になります。
(作曲家の黛敏郎氏が作曲した:出光丸行進曲:というのがありました)
そして冒頭の超巨大な世界一、シーワイズ・ジャイアント、28万トンがその頂点に達しました。

しかし、一回に運ぶオイル量が大きいと、一回あたりのコストが安くなるからと言っても、
パナマ運河もスエズ運河も通れずに、
南米大陸やアフリカ大陸を迂回すると莫大な日数とコストがかかり、
それにその他の海域でも通れる海域が限られてしまい、
航行海域や入港可能な港の制限を極端に受けやすくなり、むしろ不経済になってきたのです。
更にタンカー事故による海洋汚染に対する世界的批判が高まり、
現在は12~15万トン程度になっています。

2013年に韓国で60万トンの船が建造されました。
全長488メートル。全幅74メートルと、
世界最大だったタンカー、ノック・ネヴィスより更に大きいのです。
なんですが、実はこの船は「船」と呼んでいいものなのか。
天然ガスの洋上液化設備としてオーストラリアの沖に設備され、
そこから動く事はないのです。



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リオデジャネイロ市民に喰い尽くされた船

2023-02-20 12:01:25 | 船舶
大型客船・マグダレヌはイギリスの会社が、
同社の基幹航路である、南米東海岸航路用の客船として、1949年2月に完成しました。
17500トン、全長173メートル。



この船は独特の外観となっていて、
イギリスの大型貨物船によく見かける分離型船橋構造が採用されており、
船橋構造物と中央楼構造物が分離している独特の姿をしていました。



マグダレヌは1949年3月9日ロンドンを出港し、
ブエノスアイレスに向けて処女航海に出発しました。
船はブエノスアイレスで大量の穀物と牛肉を積み込みました。
また客室も満席の状態でした。
出港したのは4月24日で、次の寄港地のリオデジャネイロには、翌25日に到着予定でした。

しかし、船は進路を誤り早朝、リオ(デジャネイロ)から28キロの地点で座礁。
連絡を受けたリオの港湾局から曳船2隻が現場に急行しました。
しかし2隻の曳船による離礁は不可能でした。
マグダレヌは暗礁に乗り上げたまま動かないのです。
ところがその夜から天候は荒れはじめ、激しい波浪からマグダレヌは暗礁から離脱したのです。

この時、船底が破損してマグダレヌの船倉に浸水が始まります。
再び曳船により港内の造船所まで曳航し修理をする事になりました。
そして船を万が一の沈没に備えて海岸近くに仮泊したのです。

この頃になると大型貨客船の遭難を知ったリオ市民はもとより、
近隣住民が海岸に集まってきて、珍しい見世物を眺めるように人々は群衆になっていました。
その頃、再び天候が荒れだし、曳船とマグダレヌを繋いでいたワイヤーが切れてしまい、
マグダレヌは海に向かって流され始め、リオ湾の入り口に突き出した砂州に乗り上げてしまいます。
それと同時に船体は二つに切断され、船首部分は沖に流されて沈んでしまいました。



このニュースを知った地元住民は、事故の海岸に群がり始めます。
そして大群衆は静止する警備の警官の声も聞こえずに、
切断されて露わになった船倉から、大量の牛肉はアリの様に群がった群衆に、
アッという間に数百トンの牛肉は持ち去られ、
船倉に続く客室からは豪華な家具や調度品は、たちまち運び出され、持ち去られてしまいました。

船は多数のアリの大群に襲われた姿で、全ての寝具、マットレスまでが消え失せ、
大群衆が去った後のマグダレヌ号の船内には何も無くなっていたのでした。
群衆は数万人に及んだと言われ、世界に類を見ない海難事故になったのでした。

悪いけど、チョッと笑ってしまいました。
って言うか、殆ど爆笑、抱腹絶倒だよね。
そんな状況になったら、アンタだけは見て見ないフリできる~?
ちなみに、この事故による死者はゼロでした。めでたしめでたし。


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伊豆の貴婦人・スカンジナビア号

2023-02-19 18:45:09 | 船舶




西伊豆の木負(きしょう)海岸に、
真っ白な美しい船(スカンジナビア号)が在ったのをご存じの方はいるでしょうか?
私は何かで見て、ずっと気になっていた船です。

スカンジナビア号の歴史は、1927年(昭和2年)まで遡ります。

スカンジナビア号は1927年にスウェーデンで完成しました。
最初の船名は、ステラ・ポリス(北極星)と言いました。
5105トン、全長127メートル。



ディーゼル機関推進ですが、帆船を思わせる長いバウスプリットが配置されており、
良き時代の帆船の美しさを再現する様なスタイルでした。

乗客数は全員が一等クラスのみの165名であり、
乗組員160名の内、120名が接客係という、至れり尽くせり対応の船でした。
それもそのはず、旅客は欧米の富豪や王侯貴族を対象とした船だったのです。

乗船客には、ノルウェーやスウェーデン国王。
ベルギーやオランダの王室一家。
各国首脳、著名な富豪や貴族などが多数含まれ、
本船によるクルーズ、(フィヨルドクルーズ・地中海クルーズ・カリブ海クルーズ)は、
欧米の上流階級の人々の最大の娯楽となっていたのです。

しかし、1939年に第二次大戦が勃発し、ノルウェーに停泊中であった本船は、
ドイツ軍に接収、ドイツに回航されドイツ軍人の宿泊、休養に使われていました。
戦争を無事に乗り切った本船はスウェーデンに戻され修繕工事が行われ、
1947年からアメリカを起点としたカリブ海クルーズに用いられましたが、
以前に比べ客層の品格はいくらか落ちていたようです。

1960年代に入り、船舶の安全基準に大規模な改定があり、
それに受かるには多額の資金が必要で、
船主は既に老朽化していた船体をあきらめ売却する事になりました。

買い取ったのは伊豆半島を中心にリゾート開発を進めていたコクド社でした。
日本に回航された船は、伊豆の木負海岸に係船され、船名をスカンジナビア号と改め、
富士山をバックにしたスカンジナビア号は、ホテル兼レストラン船として大当たり。
伊豆半島の主要観光施設のひとつとして定着したのです。

しかし、バブル景気後の経営は難しく、観光事業を中止し船を売却します。
船を買い取ったのはスウェーデンの興行会社で、2006年8月、香港に向け回航しました。
回航中に船体の老朽化による漏水が発生、漏水は遂に止まらずに、
9月1日、和歌山の紀伊半島潮岬沖で海没し79年間の歴史に幕を降ろしたのです。

1970年から25,6年間の営業をしていたのですから、
存在を知っていた私としては、もっと早く行っておくべきだったと残念な気がします。
欧米の王侯貴族や富豪が乗った豪華クルーズ船の香りを味わいたかった。
それにしても、タイタニックの様に処女航海で沈没してしまう伝説の船もあれば、
こういった長い歴史を持ち、様々な人達の思い出、記念となる船もいる。
人生と同じで、船の歴史と物語・・実に興味深いですね。


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