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河童の歌声

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史上最大の大砲

2022-06-20 19:04:24 | 軍事


人類史上最大の大砲は、ナチスが開発したグスタフ列車砲です。
その大砲の口径は、驚きの80センチ。
右から2人目は、大きい兵器が大好きだったヒトラーです。



史上最大の戦艦、大和の主砲口径は46センチでしたから、
如何に驚異的な大きさであったかがわかります。



戦艦大和の砲弾が約1,5トンだったのに対し、
80センチ砲弾は榴弾(普通の砲弾)で、4,8トン。
ベトン弾(要塞の分厚いコンクリートを破壊する目的の砲弾)は、7,1トンありました。
この砲弾は厚さ7メートルの鉄筋コンクリートを貫通しました。

この巨砲は列車に載せて移動できる様に造られています。



しかし、その総重量は1350トン。
これは小型の駆逐艦に匹敵する途方もない重さです。
その全長は42,9メートル。全高11,6メートル。
砲身長は32,5メートル。射程距離は30~48キロでした。
発射速度は1時間に3,4発だったと言われています。
この列車砲は当初、フランスが誇る鉄壁の要塞マジノ線攻撃の為に造られました。

1934年から開発が始まり、1940年に完成しました。
最初は3基を製造する計画でしたが、マジノ線攻撃の必要が無くなり、
最終的に2基が製造されました。

あまりの巨大さの為に、通常の2本のレールでは移動できず、
4本のレールに8台の台車で移動しました。
しかし、輸送用貨車が走るレールが2本。
更にこの6本のレールを挟んで1本づつ敷設される2基の、
組み立て用クレーンの走行するレールがあり、合計8本のレールが必要でした。
また、トンネルや鉄橋を通過する為には、
分解するのに2週間。組み立てるには1ヵ月を要しました。

これが実際に使われたのは、ソ連が守備するクリミア半島の、
セバストポリ要塞の攻防戦に投入され、戦果を挙げています。
ここでは40発前後の巨弾を撃ち込み、
要塞の地下深くにあった弾薬庫を破壊しました。
しかし、砲身寿命が尽き、その後2年間に渡って運用は中止になっています。
ポーランドの首都、ワルシャワの戦闘で数発を発射、
実戦参加はこの2回だけで、発射弾数は50発に満たなかったのでした。

この巨大砲を稼働させるには1400人の兵士が必要で、
防衛、整備などで更に4000人以上が必要であり、
自軍の陣地内で使えても、敵軍が迫っている状況下では使えず、
マジノ線がそうであった様に、ほぼ使えない兵器であったのです。



しかし、ドイツというか、ナチスは、とんでもない兵器を造るもんですね。
まさに呆れ果ててしまいます。


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マジノ線・壮大なる大失敗

2022-06-13 18:30:33 | 軍事
1914年~1918年、第一次世界大戦。
フランス軍はパリ郊外でドイツ軍と対峙し、
30万人をはるかに超えるという大損害を記録しました。

何しろここを突破されると、花の都パリはドイツ軍の手に堕ちるのですから、
フランス軍は必死です。
両軍は総延長数千キロという塹壕を掘って立てこもり、
そこから出ると、この大戦から大量に装備されるようになった、
機関銃が銃弾を浴びせてくるのですから、全くの膠着状態になったのでした。
この戦いを映画にしたのが「西部戦線異状なし」という有名な映画です。

この戦争は一応フランス軍が勝利しましたが、
フランスとしては、隣国に居る好戦的なドイツという国が絶えず脅威です。
この国が在る限りフランスは安閑としてはいられません。
ではどうしたらいいのか?
フランスは中国の「万里の長城」よろしく、鉄壁の要塞を造ったのです。
それは歴史上最大と言われた大要塞地帯でした。





ドイツの下側にある国はスイスで、要塞の総延長は700キロとも言われています。







工事は1930年頃から始まり、1940年頃まで約10年間続きました。
マジノ線とは、当時の陸軍元帥、アンドレ・マジノの提案で造られ、
それを冠してマジノ線と名付けられました。
工事費用は当時の国家予算にも匹敵する膨大な金額でした。
いかにフランスがドイツに脅威を抱いていたかの証しです。

15キロ間隔で108の要塞を築き、
それは厚さ3,5メートルに達するコンクリートに覆われていました。
この要塞の地下には大きな地下道があり、
兵員、食糧、弾薬を運ぶ電気鉄道も走っていました。

フランスはこの要塞がドイツとの国境を囲っている限り安全だと信じ込んでいました。
二十数万のフランス兵が立てこもっている鉄壁の要塞は、
ドイツ軍の指導者たちさえ、それを認めるのにやぶさかではありませんでした。

さて、第二次世界大戦が始まりました。
1940年5月10日、ドイツの機甲師団がフランスへ向け進撃を始めました。
しかし、フランス軍はドイツ軍の進路に大きな衝撃を受けます。
ドイツ軍はマジノ線を避けて、北方のベルギーに在る、
アルデンヌの森から進軍して来たのです。





そこは標高300~350メートルの丘陵地帯が続く森林でした。
そこには広い道など無く、また湖沼も多く、大軍の通過は出来ない。
フランス軍はこの丘陵地帯を進軍する事は不可能だと考えていたのです。
しかし、ドイツ軍は進軍の可否を試して「行ける」と結論づけていました。
ドイツ軍はアルデンヌを詳細に調査し、慎重に進みさえすれば、
大軍であっても進軍は可能である事を知っていたのです。
鉄壁の要塞、マジノ線は何の役にも立ちませんでした。
ドイツ軍から見捨られてしまったのです。



見捨てられたからと言って、そこを護るフランス兵25万人は、
マジノ要塞の中で右往左往するばかりで、生殺し状態でした。
それからひと月足らずでフランスはドイツに降伏したのでした。

現在もマジノ要塞の殆どは、その姿を留め、観光客のポイントとなっています。
というのは、あまりにも分厚いコンクリートな為に撤去するにも膨大な費用がかかるのです。

しかし、フランスの甘さには呆れますね。
誰一人マジノ線の北側のアルデンヌの森など考えもしなかったのですから。
よく世界の三大無用の長物として、
「ピラミッド」「万里の長城」「戦艦大和」と言われますが、
このマジノ線も彼等と全く同じで、国家予算を喰い潰した大失敗作でした。


さて、ここまでは、ある本から引用させて頂いたのですが、
この文の著者は、最後にこう言っています。



「軍備に関する事だけではなく、国家的な大事業に着手する際、
あらゆる可能性について徹底的に検討し、議論を重ね、
少数意見にも耳を貸す事が必要なのである。
こう考えると数兆円を投じて建設中のリニア新幹線も、
我が国にとって本当に必要かどうか、議論を深めてほしいと思われる」

「もはやSNSを駆使してテレワークの時代である。
また観光客の為の移動なら既成の新幹線でも十分対応できる。
東京と名古屋間を30分速くする為に、
国家予算の10パーセント近くをつぎ込むのである。
リニアが現代における万里の長城、マジノ線なのではあるまいか。」

どうでしょう。
とても深い蘊蓄ある言葉ですね。
私も、なるほどと考えさせられてしまいました。
リニアはマジノ線となるのか?


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ダンケルクの奇跡

2022-02-24 06:04:28 | 軍事
【ダンケルク撤退作戦】映像と解説 / イギリス国民の愛国精神と奇跡の救出劇 - 第二次世界大戦


1939年(昭和14年)9月。
ポーランドに侵攻したドイツ軍は、瞬く間に勝利し、
その勢いで突如、オランダ・ベルギー・ルクセンブルグに侵攻、
これらの国も瞬く間に席捲して北フランスへ軍を進めます。





ドイツ軍は圧倒的な数の戦車と航空機による電撃作戦により、
フランス・イギリスの連合軍を撃破し、
遂にフランス・イギリス間の、ドーバー海峡近くの港町ダンケルクへ連合軍を追い詰めました。
40万といわれる彼等、連合軍兵士達は迫り来るドイツ軍により、
いよいよ風前の灯火、袋のネズミとなってしまったのです。













ここでドイツ軍に対し断固徹底抗戦を叫ぶイギリス首相チャーチルは、
彼等を救出すべく「ダイナモ作戦」の発動を命じました。
イギリスから駆逐艦・貨物船・漁船・遊覧船・ヨット、
ありとあらゆる船舶を総動員しての救出作戦を命じたのです。





これをドイツ軍が見逃す筈はありません。
航空機による徹底的な爆撃を敢行します。



これに対し、イギリス空軍も彼等を護るべくドイツ機に空中戦を挑みました。
浜辺で決死的な救出作戦をしている兵士たちは、
上を見上げる隙もなく、その空中戦にはあまり気づいていない様でした。
しかし、ドイツ機が132機を失ったのに比べ、
イギリス機の損失は474機という不利な空中戦で彼等を必死に護っていたのでした。

ダイナモ作戦開始当初は、悲観的に見られていたのですが、結果的に大成功となり、
34~40万人と言われる連合軍兵士の救出は成し遂げられたのでした。
それは「ダンケルクの奇跡」とさえ言われました。
しかし、兵器、戦車・重火器の全てを放棄せざるを得ずにでの撤退は、
その後のイギリス軍を兵器不足で悩ませたのでした。

ダンケルク救出作戦でドイツ軍に対するイギリス国民の士気は大いに高まり、
「ダンケルク、スピリット」・・
(イギリス国民が団結して逆境を克服しなけらばならない時に使うフレーズ)となり、
その合言葉は、現代のイギリスでも使われているのです。


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フランス艦隊対イギリス艦隊

2021-12-15 14:47:55 | 軍事
第二次大戦で、日本はドイツ・イタリアと日独伊三国同盟を結んで、
連合軍と戦いました。
3つの国以外の国は全て敵ですから、フランスとイギリスは味方同士。
フランス艦隊とイギリス艦隊が戦争をする筈はないと思われるでしょうが、
実際は、フランス軍とイギリス軍は、激しい戦いをした事があるのです。

1939年(昭和14年)9月。
ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が始まりました。
それから、たった9か月後の1940年6月。
フランスはドイツに降伏しました。



降伏したフランス艦隊は、北アフリカのアルジェリア(緑色)の港に集結しました。
小型艦艇はオラン港へ。
そうです、カミュの「ペスト」の舞台となった港町です。
大型艦船はそこから10キロ離れた軍港・メルス、エル、ケビルに
脱出して集結しました。

これらフランス艦隊がドイツ軍に接収されたら、
それはイギリスにとっては恐ろしい戦力になります。
イギリス海軍は地中海艦隊の主力部隊を派遣して連合軍への参加を呼びかけます。
もしフランスがそれを拒否するなら、フランス艦隊を全滅させるつもりです。
しかし、連合軍への参加を拒否しながら、
いつまでもフランス軍の態度は曖昧です。

1940年7月3日。
しびれを切らしたイギリス艦隊は遂に一斉攻撃をフランス艦隊に加えました。



新鋭の巡洋戦艦、ダンケルクとストラスブール(共に26500トン)の内、
ダンケルクにイギリス戦艦の巨弾4発が命中、
更に航空機からの魚雷1本が命中、ダンケルクは沈没着底状態になってしまいます。
旧式戦艦のブルターニュも沈没。
同じく旧式戦艦のプロバンスは砂地に乗り上げ座礁。
この2隻の旧式戦艦はそこで生涯を終える事になります。
この戦闘によるフランス軍の死者は2千人を超えます。
しかし、イギリス側の損失は取るに足らない微々たるものでした。

これほど戦果に差がついたのは、
フランス軍司令官、ジャンスール中将の優柔不断な性格でした。
彼はイギリスがまさか本気で攻撃してくるとは思っていなかったのでしょう。

この2か月半後、
アフリカ西海岸のダカールで同じ様に、フランス艦隊とイギリス艦隊の戦いが起こりました。
しかし、この戦いは前の様にイギリスの一方的勝利とはならず、
イギリス側の損害も大きかったのです。
初めから戦闘を本気で覚悟していたら、フランス軍も、
勇敢で優れた戦いが出来たのです。

これら2度の戦闘では、
フランス軍を徹底的に攻撃したイギリスに非難が殺到しました。
この遺恨が1942年11月、連合軍の北アフリカ反攻作戦(トーチ作戦)の際に、
フランス軍と連合軍(アメリカ・イギリス・自由フランス軍)との間に、
激しい戦闘を引き起こす原因となったのです。

フランス側の優柔不断な態度は、
イギリス軍にとっては、味方に応じないなら壊滅させてしまう。
「昨日の友」も、必要とあらば抹殺する。
それがイギリス軍の強さなのですね。









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東郷元帥

2021-11-27 07:46:38 | 軍事
元帥(げんすい)という階級はなく、大将の上に位置する名誉みたいなものらしい。
日本軍には、陸軍に17人。海軍には13人の元帥が誕生しました。
陸海軍合計で30人。
最初に元帥が登場したのは1898年(明治31)からで、
最後は1944(昭和19年)までの46年間ですから、
1,5年に1人しか元帥にはなれなかったのですね。
東郷元帥はその30人の元帥のなかで、最も有名だった軍人でしょう。





東郷元帥・・東郷平八郎はその中でも国葬で祀られました。
国家が行う葬儀、国葬となったのは過去に25人で、
その中で軍人だったのは10人ですが、
名誉軍人も多く(〇〇親王とか、)純然たる軍人は3人くらいでしょうか。
国葬になった有名な人には、伊藤博文・岩倉具視・吉田茂・昭和天皇などがいます。





東郷元帥とはどんな人だったのでしょうか。
東郷平八郎は1848年(弘化4年)に鹿児島で生まれました。



体型は小柄でしたが美男子であり、若い頃は女性からとてもモテたそうです。
1871年(23歳)から1878年(29歳)までイギリスに留学しました。
イギリスでは国際法を学びました。

日清戦争(1894年)には、巡洋艦・浪速艦長(大佐)を務め、
豊島沖海戦・黄海海戦・威海衛海戦で活躍、少将に昇格し、
その冷静な判断力が、後に連合艦隊司令長官に人選される要素になります。



日露戦争前の1903年(明治36年)に、連合艦隊司令長官に任命されます。
東郷平八郎が(運のいい男)だった事が、その理由とも言われました。

1905年の日本海海戦に勝利し、国民的英雄となり、
アメリカのニュース雑誌「タイム」の表紙を飾った初の日本人となりました。



趣味は盆栽と碁で、質素倹約を旨として夫人と共に静かに戦後を過ごしました。
1934年(昭和9年)86歳で亡くなります。
全国から膨大な見舞状が届きましたが、
ある小学生が書いた「東郷元帥でも死ぬの?」という文面が新聞に載り、
大きな反響を呼びます。
イギリス・アメリカ・フランス・イタリア等、各国の軍艦が葬儀に訪日しました。



日露戦争・日本海海戦で一方的な完全勝利を収めた海軍軍人の功績は大きく、
イギリスは母国のネルソン提督と並び、東洋のネルソンと称えました。
アメリカは、ニミッツ提督・スプルーアンス海軍大将・ハルゼー提督も、
東郷提督への畏敬の念を強く持ち、賛辞を惜しみませんでした。



その功績を讃え、横須賀には戦艦三笠と東郷元帥が祀られ、







東京の渋谷には東郷神社が造られ、切手にもなりました。





墓地は多磨霊園にあり、山本五十六海軍元帥と隣り合って在ります。
東京・府中の別荘跡地には東郷寺が造られました。


私は、この東郷平八郎氏くらい、幸せな人生を送った人も珍しい気がします。
国民的英雄になり、侯爵となり、国葬で見送られ、
彼の死後、日本が戦争でメチャメチャになって行った事も知らずに逝く。
そういった意味で、軍人として最高の人生だったと思うのです。




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