私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

宮内

2012-09-12 20:09:37 | Weblog

春秋の年2回の宮内の大市に集まった多くの人々の為に必然的に、かつ、然に発生したのが宮内遊廓の始まりでした。最初め臨時の「飯盛女」を雇うなどしていたのですが、それが、恒久的にごく普通に常設の施設へと変化していくのは、自然の成り行きだと思います。
 この遊女の制度は、洋の東西を問わず、人間の欲望のと言うよりは男性の一方的力で以って始められたと思います。色と欲の限りなき最前線から生まれたことは確かです。

 その例外ではありません。秀吉の高松城水攻め以降この宮内は急速に発展します。それは秀吉の為に毛利方、即ち、清水宗治との和平の交渉、といっても、敗戦的処理方法が強かったのですが、を行ったのが吉備津神社の宮司だったからです。まあ、その間に紆余曲折はあったのですが、結局、それまでの山陽道の宿場をこの板倉に移します。それに伴って遊興地として、板倉にすぐ繋がっているん宮内に遊郭が作られるのです。

 それまで栄えていた備前一宮辛川は急激にさびれます。

 でも、この宮内の大市の開催に付いて、時の此の支配者と言っても神社関係者ですが、その都度幕府に対して詳細な依頼書を提出しております。元禄の記録書が残っていますので明日ご紹介します。


こんな意見も寄せられました

2012-09-12 18:35:43 | Weblog

 メールで、こんな意見も寄せられました。どう思われますか????(筆敬さんではありません)

 江戸時代を通じて山陽道の遊廓は、この宮内と宮島のそれが双壁で、その次に、鞆や室津や下関のそれらが続いっていたと言われています。
 続けて彼氏曰。

 「秋成が、賀夜郡庭妹の郷の男「井沢庄太夫」が、どうして、普通ならとっても通って行けそうもないほど遠距離にある鞆の遊郭におった遊女「袖」の元に通わせたかと言えば、この「袖」出身が播磨の印南で、親もない哀れな娘で、船泊でもなるような低級な女なのです。そんな低級な遊女がいた遊廓となると、やはり宮内では駄目なんのです。鞆の遊女がこの場面では一番物語として創り上げるのに都合がよかったのだと思う。また、秋成のこの物語は、江戸人のための読本なのだ。江戸の人達は、当時、庭妹がどうの鞆がどうのと、そんな地理的な背景なんかあまり問題にはしてなく、その西国の奇妙な話に話題が集まっていたのだ。だからこれでいいなだ」

 「第一、そんなことに気をやりながら読んだのでは、この小説が少しも面白くないでしょう。秋成が書いているその通りに読んでおればいいのじゃ。下らないことをあれこれ解釈しても仕方がないのです」と、有難い御忠告までくださいました。