宮内の街が大繁栄するようになったのは、ご朱印の芝居など吉備津神社の繁栄のために取られた施策でした。江戸大阪京以外の所で幕府の認定芝居小屋有ったのは、全国広といえども、この宮内だけだったのです。だから、あの尾上菊五郎でさ、へわざわざこの宮内にまで足を伸ばして芝居興行を取り行っているのです。それくらい権威のあった宮内の芝居小屋だったのです。
その一つの例をご紹介します。
これは元禄2年の記録です。それによりますと。吉備津神社社家頭の賀陽主馬と賀陽兵部の二人が連名で、江戸の寺社奉行に宛てた伺書が残っているのです。
「当社祭礼毎年三月、九月にて御座候 依之神事為賑之先規より芝居仕候 三月は十八日或は十九日を初日に仕り四月初旬まで来仕候 向後は三月は十八日 九月は未の日を初日に定 雨天を除き定日十四日に相究申度存奉此段伺候事
元禄二年已壬正月十七日
賀陽主馬
賀陽民部
寺社奉行所 」
なお、この宮内で何時ごろから芝居を始めたかはその記録は残ってはいないのですが、この記録にあるように元禄時代にはもう相当名のある芝居小屋として全国に知れ渡っていたようです。そう考えると、江戸の初期(十七世紀の中ごろから)からもう、此の地の芝居は行われていたのではないかと思われます????