私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  93 藤原保則⑨

2009-01-28 09:51:45 | Weblog
 まだまだ保則を続けます。というのも、この保則を調べていきますと、調べれば調べるほどその人物の面白さに出くわします。
 「三代実録」に、この保則と、当時朝廷で「飛ぶ鳥を落とす」と言われた摂政藤原基経とのやり取りが出ています。
 元慶二年(878)の出羽での蝦夷の反乱で、秋田城が焼き打ちされ朝廷の威信が全く失墜した時の事です。
 当時、右大臣の職にあった基経は、この反乱を憂慮して鎮撫のために白矢を立てたのが、備中の国司で名を上げていた同門の藤原保則です。密かに京に呼び寄せて言います。
 「蝦夷を討て」と。
  すると、保則は、即座に
 「お断りします。それはわが身が可愛いから言うのではありません。私みたいな若輩者が出向いて負けようものなら天皇の、国家の、朝廷の、いや藤原一門の恥になります」
 と。
 すると、基経は、さらに、つけ加えて
 「吾藤原一族は天智天皇の時より何時も天皇のために尽くしてまいったのだ。お前の家は代々朝廷の要職に就いている。この天下の一大事の時(内慙外懼)にこそ、お前の持てるその力を全部出しきって、国家のために働くべきである。いたずらに遠慮している場合ではありませんよ(願わくば智謀を尽して、飾譲〈遠慮するという意味〉を為すこと勿れ)」 と。
 そこまで言われた保則は
 「右大臣からそのように言われては仕方ありません、自信のありませんが、自分の愚計を使って全力を傾けて頑張ってみます。ご期待に添えるか分かりませんが」
 と答えたのだそうです。
 そこで、また、基経は誠に丁寧いに尋ねます。
 「そなたの対蝦夷に対する戦略戦術を聞かせてほしい」
 と。
 すると、保則は
 「蝦夷が、わが朝廷に従うようになってからようやく200年がたちます。最初は、この蝦夷も朝廷の威に畏れ服しており、反逆の心は決して持ってはいなかったのです。でも、聞くところによると、秋田城司は近頃重い税を課して容赦なく取り立てている(聚斂して厭することなし)と聞きます。あらゆる手段を講じて取りたてているそうです。 長年の、あまりの厳しい取り立てに、出羽の人々の怨みや怒りが積もりに積もり、沢山ある蝦夷族が総て一緒になって、数万と言う人々の反乱に広がったのだそうです。それだけ追い詰められた者の戦いですから、死をも覚悟した戦いになり、たとえあの坂上将軍であっても、この反乱を平らげることはできないでしょう。そんな反乱を収めるために、今、行うべきは、蝦夷の人々に善悪の判断する正しい方向(義方)を教え、朝廷の威信を示すことです、そんなに多くの兵力を遣わずに、この評判を聞いて反乱は瞬く間に鎮圧できると思います」
 と。それを聞いて基経は、ただ「善し」とのみ応える。
 さらに、保則は付け加えます。

 また少しばかり長くなりましたので、続きは明日にでも。
 


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