私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  95 藤原保則⑪

2009-01-30 11:43:36 | Weblog
 出羽の国に入ってから小野春風が、まず、やったことは、大胆にも自分ひとりで、蝦夷賊軍の中に入って行き、蝦夷の領袖たちに、今度新しい国司になって入国した保則の言葉を伝えるのです。
 「今の戦いは、前任の秋田城司の悪政に耐えかねての叛逆であり、今度、新しく来た国司は天皇の命に従って寛政(緩やかな政治)をします。どうかしばらく矛を収め、保則の政治がどんなものかを見てください」
 と。
 この大胆な春風の行動に大いに驚いたいたり感嘆したりした蝦夷の領袖たちは、それに応えるかのように、蝦夷の酒食を持って官軍を饗したのです。それから、そこにいた蝦夷の首領数十人と一緒に小野春風は出羽国府に藤原保則を訪ねます。その時、大勢いる蝦夷の首領の中に、2名の首領が加わってなかったのに保則は気がつき、
 「あなたたちの他にまだ2人の首領がいるはずだが、彼らは、この中にいないのでしょうか」
 と、詰問します。すると、蝦夷の酋長たちは「今しばらくお待ちください」と、言うのだそうです。
 その数日後、その時加わってなかった首長2人の首を持ってきます。天皇に統治されるのを快く思ってなかった蝦夷の首長もいたのです。それを保則は目ざとく厳しく見つけます。どのような結果、そんな事になったのかはわかりませんが、とにかくその2人の首を持ってきます。きっと保則の鋭い観察力に驚き、これ以上の反攻の難しさを悟った結果だろうと思います。
 そのようにして、しばらくすると津軽から渡島(北海道南部)までの多くの蝦夷の人たちが、いままでかって一度たりともそんなにやすやすと朝廷の命に従うことはなかったのですが、反乱が治まるのです。それだけ保則の統治が蝦夷に犯行を呼ぶ基いを与えなかったからではないでしょうか。

 備中における国司としての保則の政治は、それまでは国中に盗賊が横行していたが、しばらくすると、戸締りをしなくても安心して暮らせるようになったとしか書いていませんが、この出羽の国の働きぶりをみるとおおよそどのような政治をしたか予測がつきます。
 「徳」を中心として「悪」を憎む政治を心がけたのではないかと思えます。不正をただし仁政を施したのです。これが保則の政治の基本なのだと思います。不正を厳重に取締るからこそ、仁政(寛政)が生きてくるのです。悪が存在する世の中には寛政は育つことはないのです。その的確な判断を保則はできたのです。何が正で何か悪かを。その場その場で判断したのです。
 自分の使う役人の悪に対しても、どれなら許されるかどれなら許せないかと言うことを的確に判断して対処したからこそ、他の大勢の役人を統制出来たのです。誰でもすべて許したわけではありません。「これなら許せ」「これは許せない」ということを確実につかんで対処したのではと思えます。
 春風が連れてきた蝦夷の首長がたちが数十人も出羽の国府にきて保則と謁見しますが、その中に付き従わない2人の蝦夷の頭目がいることをどうして知ったのかも不思議な話です。よほど事前の情報網を広くに敷いていたのでなくては決してわかることではないと思えます。周到な事前の調査する組織も持っていたのではと思えます。
 そこら辺りの保則の戦略は、もしかしてあの吉備真備から出ているのでではと思えるのですが?。時代がちょっと離れすぎてはいますが、保則の曽祖父に当たる人が藤原種継(真備が右大臣の時の左大臣です)ですから、なんかそんな関係で書物か何かで知っていたのではないかと思われます。なお、真備は仲麻呂たちと一緒に行った遣唐使です。その時、唐で「孫氏の兵法」について相当勉強したと伝えられていますから、ふとそんなことが頭を衝いて出てきました。


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